このブログについて

:::常にこの記事が一番上にあります。 更新は2件目から:::

HN 祥蘭 

2016年春、エックハルト・トール氏の書籍に出会いました。
エックハルト氏や、そのほか現代の覚者の教えを通じて、
わだかまらずに生きる実践中です。

新興宗教を卒業・脱会して自由を得てなお、
生き方や心の置きどころに迷い悩まれている方に、
エックハルト・トール氏の著書「ニュー・アース」や、私自身の経験を通じて
わだかまらず・楽に生きられるヒントをお伝えできればと思っています。

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2016年 脱会済
もと学会3世 もと活動家 2012年9月覚醒。

現在、自宅に神棚をまつっており、日常的に神社参詣しています。

このブログの現在(2016年6月~)
創価教学によるプロパガンダを抜けてなお、後遺症に悩んでいた私が
心理学や現代の覚者の教えに触れ、自分を取り戻した経緯を綴っています。  

このブログの過去(2013年8月~2016年5月)
学会3世として、機能不全家庭で育った私の信仰履歴~覚醒へのプロセス・
強固な「創価脳」をもつ母親との対峙について綴っています。
※内容に関して、現在(2016年以降)の考えとは大きく異なっています。が、
 過去を否定したくないので、そのまま公開しております。


このブログで言いたいこと・スタンス
*仏罰はありません。 安心してください。

*人間万事塞翁が馬です。


以前の自己紹介はこちらです。
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ニュー・アース 第三章(7)

エゴは個人的なものではない

集団的なレベルの「正しいのはわれわれで、彼らは間違っている」という考え方は、
国家間、人種間、民族間、宗教間、イデオロギー間の激しい紛争が延々と燃え盛る
世界の紛争地帯にとくに深く根付いている。
対立する陣営はどちらも自分たちとは別の見方、「物語」、つまり思考と自分を
同一化している。どちらも自分たちとは別の見方、別の物語が存在するかもしれず、
それもまた妥当かもしれないことを理解できない。
(中略)
対立するどちらも自分たちの側にだけ真理があると信じている。どちらも自分たちは
犠牲者で「あいつら」が悪だと考え、相手を人間ではなく敵という概念でくくっているので、
おとなどころか子供たちにまでありとあらゆる暴力をふるうことができるし、
人間らしい心の痛みも苦しみも感じないで居られる。
この人たちは攻撃と報復、やられてはやり返すという悪循環に陥っている。
これをみると、「われわれ」対「彼ら」という集団的な場に現れる人間のエゴは「私」という
個々のエゴと仕組みは同じでも、さらに狂気じみていることがよくわかる。
人間がお互いに振るってきた暴力の多くは犯罪者や精神異常者たちの手によるのではなく、
ごくふつうの立派な市民が集団的エゴに駆られて実行したものなのだ。
それどころか、この地球では「ふつう」とは狂態だと言うことさえできるかもしれない。
この根底に在るのは何か?思考や感情への自分の完全な同一化、つまりエゴである。


貪欲、自己中心性、搾取、残虐性、暴力はいまもこの地球にはびこっている。
それが根底に在る機能不全あるいは精神の病の個々及び集団的な現れであることが
認識できないと、それを個人的なものと受け取る過ちを犯す。
個人や集団についての観念的なアイデンテティをつくりあげ「彼はこういつやつだ、
彼らはこういう人間だ」と言い出す。
あなたが他者の中に在るエゴを相手そのものと混同した時、あなた自身の中のエゴは
その誤解をもとに自分が正しくて優れていると考え、敵と想定する相手に非難や
憤慨や怒りで反応することにより自分自身を強化する。こうしてエゴは大きな満足を得る。

あなたと他者は別の存在だという意識が強くなり、相手の「他者性」がとんでもなく
拡大されて、もう相手が自分と同じ人間だとは思えず、人間として根源的な一つの生命を
共有していることも、人間に共通の神性も感じられなくなる。
特定にエゴイスティックなパターンを誰かに発見して強く反応し、それが相手そのものだと
誤解するときは、たいてい自分にも同じパターンが存在するのだが、自分ではそれを
見分ける力もないし、その気もない場合が多い。
その意味では、相手から学ぶことはたくさんある。
あなたがいちばんむかつくのは、腹立たしいのは、相手のどんなところだろう。
自己中心的なところか?強欲さか?権力欲、支配欲か?言行不一致なところか、
不誠実さか、暴力的傾向か。さて何だろう?
何にしても、あなたが一番怨みがましく感じて強く反応する資質は、あなた自身の中にもある。
だがそれはエゴの一つの形であって、個人的なものではない。
相手の人間もあなたという人間とも、関係ないのだ。

ただその資質と自分を同一化してしまうと、それを自分の中に発見した時、自己意識が
脅かされたと感じるだろう。 (p160-165抜粋)


最初に下線を入れた部分について、イスラム圏の事を指していると思われますが
身近なところでいえば、宗門VS学会の抗争も、まさにそのままでしたよね。

”どちらも自分たちとは別の見方、別の物語が存在するかもしれず、
 それもまた妥当かもしれないことを理解できない。”

”対立するどちらも自分たちの側にだけ真理があると信じている。どちらも自分たちは
犠牲者で「あいつら」が悪だと考え、相手を人間ではなく敵という概念でくくっている”


(一方的な)正義のためならば、国や宗教が違えば人を殺すことだって平気になってしまう
エゴの所業。

「人間ではなく敵と言う概念でくくっている」ーなんて、ほんとその通りだったよな!と思いだすのが、
幹部が宗門の僧侶を指し「犬畜生」などと酷い言葉を使って会合席上、指導の中で
揶揄していたことですw
そんなシーンが日本全国いたるところの会合&座談会上で繰り広げられていたんだから、
目も当てられませんよね。 
敵とするものに対して、一分の尊厳も与えないその姿勢。
そこが、「正義」を勘違いした(=正義というエゴに取付かれた)人たちの恐ろしさです。
ああ、もちろん逆もありなんで、きっと宗門側でも同じことはあったんだろうなと思います。
言いたいのは、一方的な正義を主張する者同士、どっちもどっちだってことですw

で、そういった集団的エゴ(教団)の上層部・運営側の人たちは
対立構造を下々(会員・法華講)に示しておくことが「生業」です。
そのことで下々をワーワー・キャアキャア・ガヤガヤ・ドヤドヤさせることで
組織が活性化してお金も回ると言う仕組みなので、実際のところ敵対?していたって
「勝敗をつける」「白黒をはっきりさせる」というような目的なんて、上の者は
さらさらないでしょう。
戦いは続く方が良いって寸法。
対立構造のまんまでいることが存続の道なのですから、お互いに。
もしかしたら信者の知らない裏で、互いに手を握り合っている・・なんてことがあったりして?!
まあこれは私の勝手な想像ですが。
集団的エゴに扇動されて今日も婦人部は「打倒OO宗!」「完全勝利!」を真剣に心から祈り、
活動しています。
集団的エゴ(=組織とその方針)を自分と同一化しているからこその行動です。
そう、組織では「自分の願い事を組織の戦いに乗っける」というメソッド(?)が指導徹底されて
いました。
たとえば病気を治したいとか・子供の就職や受験を勝ち取りたい・自身の就職転職も含めて、
そういった個人的な願いをかなえるための、活動(集票や入会ゲット)という考え方です。
私自身も活動家時代はそうすることが当然で正攻法なのだと信じて疑っていませんでしたw
この図式は、エックハルト流にいえば「自己との同一化」なんですね。
エゴが集団的エゴにいいように使われていた、という。
「同一化」を避けられる・自分と組織とを分けて考えられる人は、まず活動なんかやりません。 
下々はいつも健気といいましょうか、不憫な気もしますがw こればっかりは仕方ない。
自分が自分の中にある「エゴ」に気づくことができないと・
俯瞰で自分の行いを見られるようにならないと、
いつまでも何かに騙されっぱなし&利用されっぱなしなんです。
まあ、ここを読んでるヒトはもうそんなの解ってる・または興味ないですよねw

で、これは政治の世界もまるでおんなじことが言えますよね。
政党と候補者においてもだし・政党候補者と有権者の関係においてもです。
最近の政局のgdgdっぷりで、それがよりわかりやすくなった気がしています。

選挙においては
「同情を集める」という手法が日本人に最も効果的なんだと、政治記者の方が仰っていました。
昨年、小池さんが都知事になれたこともそれ(同情票)だったし、
立憲民主党に今回、風が吹いたのもそれだという説に、大変納得してしまいましたw
「排除」されちゃった弱者、という風にうまーく有権者に映ったといいますか・・
有権者に”かわいそう”って思わせるのが肝要らしいのです。
(だから平気で大のオトナが演説で泣いたり・土下座もしちゃうんでしょうね~@泡沫候補)
逆風に立つ人を見て、力になってあげなきゃ!って、思う人は多くいます・・
でも、実は全然「かわいそう」じゃないんだけど。当の本人たちw
候補者や党が置かれている”かわいそう”な立場状態と・かかげている政策には関連性が
一切ありません。
「かわいそうだから」と一票投じたところで、思ったような働きを見せる議員or政党が
一体どれだけいるでしょうね?
逆に裏切られることの方が多いんじゃないかとw

エゴの構造について知り、そういった視点から政治の世界など見ていると、
誰にも投票したくなくなります、正直な話w 
選挙戦って9割がたイメージ戦略だから、選ばれるまでは、みんな必死こいてイイ顔します。
政治家にとっては選挙が最大重要なお仕事なんだなって解りますよね。
当選しなきゃ、どーしようもないっていう。

どのような理由で投票しようと個人の自由ですが、自分ではない他人に過剰な期待を
寄せてみたり・表向きをきれいにつくろっている・基本いいことしか書いてない
プロフィールを読んで
「期待できそうだ・信じられそうだ」なんて、思いこまないのが賢明でしょうね。
それこそ「思考や感情への自分の完全な同一化、つまりエゴである」で、
人物に対しての「思い入れ」は、持ちすぎないのが吉かと・・。
思い入れとは、自我(エゴ)が入り込むことです。 過剰な思いが働くことです。
私が応援してやったのに裏切りやがって!」って、なるわけです。下手こかれたときに。
候補者があくまで党の手駒で使い捨てでもあることを、ある意味私たちは
一番よく知っていますよね?w

「党」=集団的エゴ。 
支持団体にも各々エゴがあります。そして議員は手駒であり、自身もエゴですw
集団的エゴ(の上にいる奴)にいいように使われてなるものか!と思う者が新党を結成し、
また新たな集団的エゴを構築する。 現状そう見えます。
右があるから左があり、左があるから右もある。持ちつ持たれつ。
どちらか一つだけの世界、というのはありえません。
光があるから影が出来、暗闇があってはじめて光を認識できるのと同じ事で。
まさに「君たちがいて、僕がいる」 みんな違って、みんないいw
右も左もある、日本の良さはそこなんだと、私は最近そう思うようになりました。
かといって個人的に「リベラル」というキャッチコピーごり押し議員は大嫌いなんだけどもw、
リベラルがいるから保守が成り立つともいえるのですよね。
考え方が違う相手への敵対心をむき出しにするようなことは、あまり賢明とは言えません。
自分はそんな相手のおかげで生かされ・引きたててもらえている部分もある、逆もしかり。
お互い様だよね!って思えるくらいでないと。
そしていくら嫌いでもリスペクトは払わないと、同じ人間として。
だから安倍さんの、7月都議選最終日の演説中(野次を飛ばした輩に向かって)
「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」という発言については。
エゴ丸出しの、余計なひとことだったね・・しくじりましたな、と。 
一瞬にして、相手を敵だと認定してしまった。ラベルを貼ってしまったことからの瓦解。
そこはにっこり笑って「お疲れ様でぇーす」くらい言う余裕を見せればよかったのに。

”あなたが他者の中に在るエゴを相手そのものと混同した時、あなた自身の中のエゴは
 その誤解をもとに自分が正しくて優れていると考え、敵と想定する相手に非難や
 憤慨や怒りで反応することにより自分自身を強化する。こうしてエゴは大きな満足を得る。 ”


要は、何に対しても不用意な先入観を持たない・ラベルを貼らない・レッテルを貼らない事だと
思います。
また、繰り返しですが物事や人物や団体に対して「過剰な思い入れ」も持たないことが
心を平和に保つ・わだかまらない方法の一つです。

”何にしても、あなたが一番怨みがましく感じて強く反応する資質は、あなた自身の中にもある。
 だがそれはエゴの一つの形であって、個人的なものではない。
 相手の人間もあなたという人間とも、関係ないのだ。 ”


この部分、とても重要なことが書かれています。

私流に簡単に訳すなら「エゴは他人事」 これに尽きますw

「あの人の、こーいう部分が大っきらい」は、自分の中にも確実にある要素。
だけれども、それは個人的なものではなくてエゴが見せる側面のひとつであって
「他人事」なんだよと。
「他人事」っていうとひどく無責任な・投げやりな感じがしてしまうかもしれませんが、
天気と同じことだと思えばいいと思うんです。
人間には喜怒哀楽があります。感情に伴うものです。
地球における気象が、感情と同じだと考えれば解りやすくないですか?
地上は晴れの日ばかりではない、雨の日も風の日もあります。
日本は雨でもハワイは晴れている時もあるし、逆だってある。
人間においても、悲しい日ばかり続くわけではありません、笑える日もあれば落ち込むときも
怒れる日もあります。 
それらは長続きはしないし、永続性はない、いつかは止むし、とにかくたえず変化している。
気象も感情も、どちらも「現象」です。
その「現象」を見ている者になればいいのです。

人間は多面体のように、いろんな顔をみせている。
まさに万華鏡のごとく。 いわゆる「一念三千」の世界ですw
自身だって、機嫌のいい時わるいとき、いろいろあると思います。その時々で人に与える印象も
違ってくるはずです。
同じく他人だって、ひとつの顔・側面だけで判断はできないのです。

だからどんなことであっても、深刻に悩んで悩みに飲み込まれてしまう必要もないし、
わだかまらなくていい。
どんな現象を見ていようとも・なんの渦中にあっても、
自分の中に揺るがず・いかなる時も静かにただ「生命」が流れていることを確認すればいい。
(確認方法は、瞑想や「ニュー・アース」p502呼吸を参照)
そこが「臨在=プレゼンス」です。
この次元(プレゼンス)に気づくことができれば、物事の見方はがらりと変わります。
驚くほど静寂で穏やかな次元(エックハルトのいう「在る」)が、
いつなんどきも自分の内側に在ることにちゃんと気がつけば、
いかに自分が、目の前の出来事(現象)やあれこれに翻弄されまくって生きてきたか・
エゴに振り回され疲弊してきたのかが解って、驚くかもしれません。

それをものすごく簡単に要約すると
「落ち着いていきや~」(byゆりやんレトリィバー)です。
プレゼンスにあるとは=究極に落ち着いている状態、だと私は解釈しています。

自己観察も俯瞰も、落ち着いていないと、なかなかできないものです。
強烈な感情に見舞われたまま、ひとつの思いや考えがぐるぐると渦巻き長引いているときには
「ちょっと待て」と、一呼吸置いてみる。
強烈な感情とべったり一体化している自分に、気づいてみる。
そこで御茶を飲むなりフリスク食べるなり手を洗うなり音楽聴くなり、「間」を入れてみる。
(エックハルト氏が、スペースを作るという表現をしますが、まさにそのような感じ)
強烈な感情に見舞われた「エゴなわたし」を、べりっと引きはがすのです。
エゴは言うでしょう「そんなのつまんないよ!」
「もっと嘆こうよ!騒ごうよ!泣こうよ!悲しもうよ!切ながろうよ!怒りをぶちまけようよ!
 そして他人を巻き込もうよ!」ってw
まあ、若いうちはそれもありかもしれません。 
あんま悟っちゃうと、ハプニングやドラマ(ストーリー)が生まれないからですw
もちろん穏やかな人生を歩みたいと、若いころから志向するならエゴの観察はアリですが・・。
でも、いい大人の年齢でしたらぜひ、エゴを一段上から見て「そうかそうか、それでどうした?」
と相手してやることを、覚えておいたらいいと思うのです。

私自身の変化として、自己観察を始めて以降、
さまざまな感情を長くは引きずらなくなりました。
以前はわりと恨み深い方でしたのでw 何年も前の誰かの言動を突然思い出しては
「あいつめ!失礼なやつだ!」と舌打ちするなんてしょっちゅうだったんですが、
近頃は思いだしもしないし、思い出したにしても「そんなこともあったね~」って笑えます。
結局「いまここ」しかない・
自分からも他人からも、発せられる感情は「現象」で、どれも永続性はないのだと
解ってしまったら、あまり意に介さなくなったというか受け入れられるようになったのです。
当然、日々「喜怒哀楽」あります、人間だものw
ただそれを然と受け入れる・眺めて、受け入れられなければ受け流すのです。 とっても楽ですよv

蛇足ですが、政治家の下半身問題w で思ったこと少し。

不倫や重婚のスキャンダルが暴露され「離党」はしても議員辞職まではしなかった方々。
世間では「みっともない」と捉えられていましたよね。
私も最初はそう思ってました。 何をポジションにしがみついてんだろう?と。
重婚の男性議員は、お父様が大物議員だったため地盤もあるから、簡単に「ハイ辞めます」とは
言えない事情もあるんだろうなーと思いつつも。
だがしかし、今般の衆議院選直前に、なっちゃん党の男性議員が2人も相次いで
下半身問題により、超高速で議員辞職。
世間では「処理が早い」「当然」なんて意見もありましたが、私はこのときふと
「怖いな~。これ、まんま粛清じゃん・・」と思ったのです。
まあ、なっちゃん党で不祥事なんて起こしちゃったら、辞職しかありません。
そんなのは、元学会員ですから知ってますw
支持母体という背景を見れば、離党で議員を続けるだなんて、まず地元にいられないですよね家族がw
それくらい村意識が強い・村社会だから。 
でも、これって本当~は怖くないですか?冷静に考えたら。
離党じゃ済まない。
「議員をやめる・やめない」は、本人の意志といっさい関係ないという世界です。
ああ、議員に立候補する(なりたい?なりたくなくても・・)も、本人の意思とは関係ないんだったw
民主主義じゃないんですよね。
それ以前に、自分の人生であるにもかかわらず、その選択を集団的エゴにいいように
扱われるんですよね。
ああ、そんなのもう、組織内では常識だしw ご本人も重々解っていらっしゃるとは思いますが。
(やりたくないこと=政治家を「使命」と押し付けられ、イヤイヤやっているストレスを解消すべく
 「やりたいこと」やっちゃったのか? 
 いまごろ、荷の重たい国会議員を辞められて内心ラッキーって思ってるんじゃ?!
 とか、 私はそういう底意地の悪い見方もしておりますw
 本当に自分がやりたくて・使命感を持って議員をしているのであれば、こんな軽率な行動は
 まず取らないでしょうし・・。
 ましてや学会なんて婦人部様がメインの支持組織。女関係だなんてもっともタブーと
 わかっていそうなもんですけどね?)

何が言いたいかというと、自分の意志&意思で決められない狭小な世界でなんて
生きなくてもいいんです。
(それが好きなドMな人も存在するけどね~w そんな人は一生涯をささげるがよし)
「実はやらなくても死なない・困らないことを、やりたくないけどやっていた」
組織ってそういうところです。
宗教団体だけではありません、自分で作ったわけのわからないルールに縛られて
身動きとれなくなってる場合だって、世間にはそんなサンプルがいっぱいあるから。
気づこうよ、自分で選べるよ、世界は広いんだよってことですv

下半身問題でしくじりはしても、そこで人生終わったわけじゃないんだし、
ご家族の方も含め、別の道でのびのびと・自分を取り戻して生きてくれたらいいなぁーと、
辞職した方々に対し、私はそう思いました。
重たい荷物(=罪悪感)背負わせようと必死な人たちからは、とっとと縁を切って
欲しいですねv
(注:べつに元職のお二方と地元が一緒でもなければ、知り合いでもなんでもありません
 念のため・・)
(注2:選挙前に記事を書いていたので、選挙がらみな内容になってしまいました。
 投票日前にUPするつもりだったんですが、もう少し推敲したい~なんて思っていたら
 投開票日を過ぎてしまいましたw お粗末ですいません)


(次回に続きます)

とりあえず

広告を消すために更新しております。

「ニュー・アース」記事の続きを現在推敲中。

トップの画像だけ更新してみました。
今年訪れたHAWAIIのカイルアとラニカイの中間あたりのビーチ写真です。
とにかく美しかったー!

ところで、選挙がありますね。 
なんかもう、どこもかしこもgdgdすぎて、連日の報道を見て
笑いが止まらないw

明日のワイドショーで、公明(辞職わず)議員の下半身問題はとりあげてくれるのだろうか。

ほんっと、どいつもこいつも、暇か!w
ギインセンセイってそんなことやあんなことするお時間あるのね~と驚きます。

そして池上無双の選挙特番がいまからとっても楽しみです!

※新しい記事更新したら、この記事は消す・・かもしれません。

ニュー・アース 第三章(6)

真実:相対的か絶対的か?

単純で検証可能な事実の場合は別として、「正しいのは私で、あなたは間違っている」
という確信は、個人の人間関係でも、国家や民族、宗教同士の関係でも危険だ。
だが、「正しいのは私で、あなたは間違っている」という信念はエゴが自分自身を強化する
方法の一つで、精神的な機能不全であり、人間同士の分裂と構想が終わらない原因で
あるなら、ふるまいや行為や信念には正しいも間違いもない、ということなのか?
(中略)
もちろん、真理は自分たちの側にのみ存在する、つまり自分たちだけが正しいという
信念は、行動やふるまいを狂気のレベルにまで堕落させる。

そのことはキリスト教の歴史そのものが如実に示している。教会は何世紀ものあいだ、
自分たちの教義や聖書(あるいは、「真理」)の狭い解釈とわずかでも違う意見をもつ者を
拷問にかけ、火あぶりにし、この行為は正しい、なぜなら犠牲者たちは「間違っている」からだ、
と考えてきた。
犠牲者たちはとんでもなく間違っているから殺されなければならなかった、というわけだ。
「真理」は人の生命よりも重要だとみなされたのだ。

ではその「真理」とは何なのか? あなたが信じるべき物語、つまり思考の塊である。
(中略)
カトリックその他の教会が、倫理的相対主義を現代の悪の一つと批判するのはなるほど
正しい。だが、絶対的真理はあるはずのない場所に探しても見つからないだろう。
あるはずのない場所とは、教義、イデオロギー、規則、物語などだ。
これらに共通しているのは何か?思考から出来上がっているということである。

思考はうまくいけば真理を指し示すが、決して真理そのものではない。
だから仏教では「月をさす指は月ではない」と言う。すべての宗教はどれも誤りであり
どれも真実で、どちらになるかはどう活用するかで決まる。

エゴの強化に役立てることも、「真理」のために役立てることも可能なのだ。
自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることに
なる。そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に
分裂や紛争を引き起こす。
 (中略)(p148-152抜粋)


もと宗教団体の一員として活動していた者としては、イタい過去の古傷を突かれる内容ですw
「絶対正義」を旗印としていれば、なんだって許されるんだ!くらいの勢いが、かの組織の
バリ活と呼ばれる人たちにはありました・・過去形。 今はどうなんでしょうかね?

”自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることに
なる。そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に
分裂や紛争を引き起こす。”

”優越感という幻想”=選民意識とも繋がっていると思います。
でも、あくまでもこれは”幻想”(だけど当事者はそれに気づかない)
かの組織の人たちの多くが「排他的だ」と世間一般から指摘されることに関しても、
上記スタンスで存在しているからでしょう。 
「絶対自分たち(の信じてるもの)が正しい」という思い込みは、理由なき無敵感を生むのですw

絶対的な「真理」はただ一つで、その他の真理はそこから派生している。その「真理」を
見出した時、あなたの行動はすべて真理に沿ったものになる。

人間の行動は「真理」を反映することもあれば、幻想を反映することもある。
「真理」は言葉で表せるか?表せる。だが、もちろんその言葉は真理そのものではなく、
真理を指し示すにすぎない。
その「真理」はあなた自身と切り離せない。
そう、あなたが「真理」なのだ。
よそに真理を探していたら、きっとだまされ続ける。
あなたという「存在」、それが「真理」だ。

イエスはこのことを「私が道であり、真理であり、生命です」という言葉で伝えようとした。
イエスのこの言葉は最も内なる「私という存在」、すべての男女、それどころかすべての
生きとし生けるもののアイデンテティの核心を意味している。
イエスはあなたという生命について語ったのだ。(中略)仏教ではこれを仏性という。
ヒンズー教ではアートマン(真我)。
自分の中にあるこの次元と触れ合う時ーこの触れ合いは本来の状態であって、
別に奇跡的な偉業ではないーあなたの行動も人間やモノとの関係も、
あなたが自分の内奥で感じる全ての生きとし生けるものとの一体感を反映するだろう。

(後略) (p152-154抜粋)


つまり、何かの団体に属すなり・師匠wに仕えるなりして
上からいわれるとおりにルーティンをこなすことが
"真理の探究"(=かの組織的にいえば、「信心で生命・心を磨く」など、目指すべき事)
にはならない・それは真理の探求ではない、ということです。
それをやっていたら・自分以外の何かに求めていたら、「騙され続ける」わけですw
だから、アンチに転じた人はまず最初こう思います
「宗教詐欺に遭った」「騙された」って。
私も、そう思っていましたw  
今だから「w」 とつけられるようになりましたが。

自分以外のところに真理を求めていたのは、いったい誰なのか? 
自分なんです結局のところ。
自分というか・・「自分の中のエゴ」と言ってもいいかもしれません。

生まれながらにして、親がやってたから・無理くり入会させられたにしても、
やらない人は一切活動なんてしませんし
それを信じることもありません(繰り返し恐縮ですが、私のきょうだいはそのパターンでした)。
子供の頃はイヤイヤやってたって、大人になったら自然と離れたとか敬遠するとか、
実家がやってるけど私は・俺は関係ないから!ってスタンスをとれる人もいるんですよね。
熱心な親族を見て、嫌気がさしてかえってアンチになるというパターンだってありますし。
(または猛烈なアンチだったのに、九死に一生を得るような「体験」をしたことから
 突如バリ活になってしまった・・なんてパターンもありますね。親戚にいました)
こればかりはもう、運なのか・何なのか。よくわかりませんw

うっかり信じてしまったのはなぜなのか。 その原因を掘るのも今後のためには一興かも
しれないのですが、自責や後悔の念が増し増し→過覚醒おこしてしまうくらいなら
掘らない方がいいです。

じゃあどうすりゃいいんだ!という人は、騙されたと思ってこの説を採用してほしい。
「ソーカを信じてしまったのは、私の中のエゴであって、私ではなかった」とw
(ソーカの部分は、詐欺師とか悪いやつ・悪い男&悪い女などをあてはめてもいいと思います)
前にも書いたように「エゴは他人事」なんです。

以下は「ニュー・アース」第二章(3)から抜粋部分↓

エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。


「そんなので納得できるわけねえよ!」って人は、それで全然OK。
ずーっと考えてぐるぐる、わだかまってください。
他人のせいや自分(だと思い込んでいるエゴの構成物)のせいにしていればいいのです。
または自分のお気に入りの「不幸な物語(ストーリー)」に執着していてください。
そうしている間ずっと、しんどいですけどね。
あくまでも状態を「選択」するだけだということに気づけば、無になります。

結局採用すべきは、肌感覚・本能だと思うのです。
此処を覗いてくださっている方々(組織とかかわりが大なり小なりあった人)も、
「あれ?組織がおかしい、なんか変だぞ?」との違和感は「肌感覚」-もっといえば「本能」に
訴えかけてくるサインがあったのではないでしょうか?
そのサインを信じて正解だったのです。
”あなたという「存在」、それが「真理」だ。”
とありますが、まさに自分の感覚・・ごちゃごちゃ理由・理屈・講釈なんていらない「直感」を
採用すればいいのだ、と私は解釈しています。
大義名分の付きまとわない、自然な思い・振る舞い=エゴのない選択といえるかと・・
自分に正直であること、とも言えると思います。
活動家時代なんて欺瞞だらけでしたから・・ほんと。 皆さんもそうでしょう?w
簡単にいえば、活動なんて心からやりたくてやってたわけではなかった、私の場合。
お題目を何時間もあげるっていうのも、正直「楽しい♪」なんて思ってなかったしw
「やってやった!」という自己満足・達成感はありましたが・・。
そうすることで「福運」が積まれると「思い込んで」いたから・正しい行いなのだと「思い込んで」
いたから、やりたくない(←これ本音)けど、やっていたまでです。
実はやらなくても死なない・困らないことを、やりたくないけどやっていた
それが自分の心を欺いていたのと同じだと今は解ります(当時はわかってませんでした)。
このあたりの「やりたくないけど~思い込み(観念)」を手放すことについては、
津留晃一さんの本が非常に解りやすいです。 
全部読んだ中で、私の一番のお勧め本は「津留さんが、心から伝えたかったこと」です。
図書館にも、あるところにはあると思いますが、
残念ながら一般の書店では販売されていません。
英光舎のHPから購入できます。興味のある方はどうぞ。

なお、補足ですが
皆に「おかしいぞ?」サインが来るわけではありませんし、サインが来ない人もいますし、
それでいいんです。
サインが来ない人(他人)にとっては、組織はパラダイスw だからです。
だからそこから他人をひっぱりだそうとか・目を覚ませ!!なんて、やらなくていいし
それは無粋なことですね。
「騙されっぱなしでほっとく気か!」なんて、正義感気取りの人も中にはいるだろーけど、
サインが来ない人(他人)は「騙されてる」なんて思ってないわけですから、大きなお世話です。
例えにはならないかもしれませんが、恋愛しません宣言のアイドルに投資している人たちと
(サインが来ないセンセイオクサマLOVEな人は)たぶん同じですw  恋は盲目。
見えているもの(世界)が違うのですから、外野がつべこべ言う問題ではありません。

非公開でコメントをいただいた中に、
親御さんが信仰を絡めて責めてきたり、脅迫的だというお話がありました。
学会家庭における「あるある」ですよね。
親御さんは「あなた」を責めているわけではなくて(そう見えたり・聞こえたりはするけど)
ただ、自分(親御さん自身)の不安を押し付け・ぶつけたいだけなんですよね。
信仰しないなんて不幸になる!怖い!って、思い込んでいる人たちは
自分の恐怖を一人で抱え込んではおけなくて、必ず相手に押し付けてきますw
「あなたのためを思って!」なんて、活動に戻れと家庭訪問にやってくる組織の人も同類です。
めんどくさいなーとか・いやな気分にもなるでしょうが、そっと右から左へと受け流し
”お父さん、お母さんは怖いんだね・・”って、心の中で静かに認めてあげてください。
そのことに対して何か言うとか・態度で表明するのではなく、ただ状態を眺めるだけにします。
そこでわだかまりを持たない(作らない)。
あくまで「恐怖」は親に起こってていることであって、自分ごとではないとわかっていれば
こちらの感情を揺らさなくて済みますね。 
自分が相手の恐怖を受け取らず、ただ落ち着いていられたらベストです。

私の母も、組織から気持ちは離れても、組織で叩き込まれた「宗教儀礼」に関しては
いまだに根強い恐怖感を抱えており
御書の一節を添えては「いちにも二にもお題目です」「題目だけはシッカリあげなさい」
とメールしてくるくらいですw
組織を離れても、母は一日も欠かさず朝夕の勤行はしており、それは別にいいのです。
母がやりたくて・良いと思ってやっていることならば。
(「やりたくて」というよりも「やらないことへの恐怖感」が上回っていると見えますが、
敢えて本人へ指摘はしておりません。自分で気づくのが一番なので・・)
ただ、どうしてそれを私にまで強いるの?!と、毎度軽くイラっとさせられていました。
(なので、上記内容のメールには返事をしませんw)
が、ある日気づきました「あー、怖いんだな、母は」と。
自分の恐怖感(=お題目をあげなくなると不幸不運に見舞われる・・という思い込み)を
押し付けてるんだな、と。
この思い込みって、子供が夜怖くてトイレに行けない・・って「お化け」と同じレベルの
お話です。
そんなのツイッターにでもつぶやいて自己完結しとけ!と、思わなくもないですがw
高齢母に対しそれは現実的ではないので
「怖いよお!って、言いたいだけなんだな、言わずにおれないよねー・・」と
そっと受け流しています。
長らくお題目なんてあげていないし、もう自宅に仏壇がないということをカミングアウトした
(ちなみに神棚のことは話してません・・転居先にも来たことが無い故、知られてない)
ので、母にとって私の所業は恐ろしくて仕方がないようです。
親の観念を子供に押し付けている典型的事由だな・・と感じるのです。

言わずもがな、親が子供の人生をコントロールなんて出来っこありません。
(自分の人生すら、コントロールなんて出来てないくせにね~!@親)
在る程度レールを敷くことくらいはできたにせよ、プレイするのは本人だから。
自分の子供たちに対しても、近頃はそんな思いがあり、
私の恐怖感を押し付けないよう・極力自主性を重んじるように接しています。

結局は、自分ではない「何(者)か」に、求めないことです。
答えはいつも自分の中に在って
生きている、この状態がもう「真理」で、ただそれだけなんだと思います。
そこを(エゴの考える)「正しい生き方」「価値ある生き方」だのと求め、
自分に何かが足りていないとか・何かをなさなければ自分は生きてはいけないとか・
なんにもできない・やってない自分は「罪人」だとか、
勝手に”思い込んで”いるから、おかしな方向に展開していったり・自分で自分の首を絞めたりも
するのであって。

静かに自分が「生きている状態(生命)」を感じ、見つめる時間を持つために
瞑想はあるのでしょう。 瞑想は、プレゼンス(臨在)に入る方法のひとつです。
頭の中のおしゃべり(エゴ)を黙らせた「臨在」の状態・・そこに「仏性」はあるとブッダは説き、
「真我 アートマン」があるとヒンズー教は説きました。

”自分の中にあるこの次元と触れ合う時ーこの触れ合いは本来の状態であって、
別に奇跡的な偉業ではないーあなたの行動も人間やモノとの関係も、
あなたが自分の内奥で感じる全ての生きとし生けるものとの一体感を反映するだろう。”


「この次元」=プレゼンス(臨在)です。
頭の中のおしゃべりを止めて、「いま」とひとつになる。
ただ自分は生かされている、生きているという状態に意識を向けることです。

以前も引用した、私の大好きな一節(であり、「ニュー・アース」の総論だと思っています)
”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに見えなかった”
”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。”

思考優位なうちは、これは理解できないだろうし、逐一エゴが難癖つけるでしょうw
けど、「思考を止めていまに在る」を続けていけば、ある日突然腑に落ちる時が来ます。
こればかりはもう、テクニックじゃないので・・そうとしか言えないw

誰かや何かのために生きなくていいのです。 自分のために生きましょう。


(次回に続きます)

エゴの観察

暑中お見舞い申し上げます。

また、うっかりと更新が空いてしまいました。

特段、何かがあって更新できない状態とかではなく、先月の記事にも書きました
「すべてが”いい意味で”どうでもいい状態」にあるがゆえなので、ご心配なくですv

さて、ニュー・アース記事の続きを書いていますが完成まであと2-3歩。
そちらにかかっていると、夏休み到来で、また更新が大きくずれこみそうな予感(汗)。
今回は、最近のニュースを契機にエゴの観察をし、気づいた事と
前回ちらっと紹介したDVDブックのことを書きます。

そういえば都議選が終わりましたね。今回は例年になく身辺とても穏やかでした・・w
自民大敗の原因のひとつだといわれている、
例の「このハゲー!」発言の女性議員。
不謹慎かもしれないし・該当の方には申し訳ないのですが、あの音声を聞くたびに
爆笑してしまいます・・w
いや、なかなかあんな大声で叫べる内容じゃないだけにw
あの報道を見るにつけ、彼女も完全なる機能不全状態にあったのだなーと感じるのです。
次から次へと秘書がやってきては、100人以上も
(情報番組で、そう言ってましたが盛ってる数字なのか?)メンバーチェンジがあったなんて、
尋常ではない状況を作りだしたのは、彼女のエゴではないかと見えたのです。
それは「自分が一番でなくてはならない」「自分だけがエリートで周囲は劣ってる」という
強い自己意識。
「自分が一番」「私は偉い」「どんな振る舞いも許されてしかるべき」というエゴを満たすには、
出来の良い&我慢強いスタッフは要らなかったのかもしれません。 
むしろ、ミスを立て続け繰り返してくれた方が、怒り続けていられ、自意識を満足させられるから。
非常に分かりやすい、エックハルト氏の言う「怒りや動転の中毒」症状。
「このハゲー!」その他もろもろ、罵詈雑言を叫んでいる間、彼女のエゴは満たされ
さぞかし気持ちが良かったのでしょう。 
だから次から次へ、エゴにとって必要な・都合のいい現象・人を引き寄せ、作りだした。
また”怒っている間は恐怖と向き合わなくて済む”という
トラウマ的な話もここに加味するなら、
彼女は潜在的に何かを大変強く恐れていたのかもしれず・・それはご本人にしか
解らないことですが。
とにかく今回「強制終了」がかかって、ご本人にとって良かったね(?!) と私は思いました。
失うものは大きかったかもしれませんが、
ここで気づきを得られれば、おだやかな後生を送れるのではないかと。
誰か「ニュー・アース」を、差し入れしてあげるといいですねw

で、そんな彼女のエゴの暴走報道に触れ、
私自身も過去(2013~2015年頃)を振り返って、ハッとしてゾッとさせられたのです。

過去記事に書きましたが、子供の学校関連で厄介な人物がいた時期がありました。
その頃の私は「自分は保護者としてきちんと振舞ってる」という意識が
かなり強かったのです。
今思うとおかしな話で、何を持ってして「きちんと振舞ってる」なんて思い込んでいたのか、
恥ずかしい限りですが・・。
子供の健康管理や身支度に気を配り、お行儀よくいさせる、なんてことは当然として
(子供のためを思ってというよりも、自分の評価に関わることだと感じてやっていました・汗。
 それはエゴエゴしい事であった・・と気づいた後は、子供の意思を尊重しています)、
ママ友関係で和を乱さないとか空気を読むとか、お礼は必ずするとか、
噂話や新しい有益な情報は、流す相手を時と場合で選別するとかw 
非常に小賢しい種類のことをその頃の私はやっており、
同じような人たちとつるんでいたこともあって、そうでない人間のことはなんか許せなかったり・
見下してもいました(最低だなw)。
なので、あっ!そうか!
「私はちゃんとやってる」って自己意識を満足させるためには、強化のためには、
そうではない(?)真逆の人・破天荒な人が必要だったのか!!と、最近になって合点が
いったという。
つまりは、厄介で破天荒な人がいて、その世界(対比)を見せてくれるからこそ
「私はちゃんとやってる母親だ」と(自意識が)思えるから、
配役として厄介な人を登場させたのは、私のエゴであったのか!と、今頃気がついたわけです。
(”それは、単なる偶然でしょ” ”後付けだろうw” って、思う方もいらっしゃるでしょうが
 感じ方は人それぞれなので、同意してもらえなくても一向にかまいませんw)
神社でお祓いを受けたりしたら、相手が海外転勤で居なくなったという顛末でしたが、
その人ほど強烈ではないにせよ、癖のある人はその後も登場し、今も居ます。
けど「思考を止めて今ここ」を心がけるようになって以降、癖のある人と遭遇・接触する事が
殆ど無くなったのです。 以前はしょっちゅう、外出先でも出くわしてうんざりしたのにw
自己意識の強化に、相手を使わなくて済むようになったからなのかな?と捉えています。

また、実家の母についても。
私が組織の矛盾に気づいて、アンチ創価になった後、母の創価脳をなんとかしてやる!と
躍起になっていたころ、私の意識に強くあったのは「創価脳は非常識」でした。
なんとしてでも、母を救い出さなくては・目を覚まさせてやらなきゃいけない!
そう考えて行動している「私は正しい」と思っていましたし、おせっかいだなんてこれっぽっちも
思ってませんでした。
そんな私のエゴに相応するように、母と対峙して出てくるのは、過去記事をご存じの皆さまなら
お分かりの通り、脱力するほどの残念で非常識な発言の数々w 
もう、何度がっかりさせられたか知れない。やっぱりこれだから創価脳は・・と嘆き続けた日々w
私の望みどおり(?!)に、母は私の理想wの創価脳を演じてくれたんだなーと
(演じさせたのは私ってことです) 今となっては、解るんです。
スピリチュアルな世界観では、自分の周りにいる者は鏡だとか、
自分は主人公であって・まわりはみんな脇役で背景だという内容がしょっちゅう出てきます。
主人公の「私」が「創価脳は非常識だっ!」って強く思っているから、その通りの・
いや想像のはるか上をいく言動を、母は見せてくれたのです。 
これはもう、私のエゴが作り出した「現象」だったと、私だから言ってもいいと思いますw
まぎれもなく私に起きた出来事だから。
そして創価脳うんぬんを問題化しなくなった(手放した)ら、途端に母は人が変わったように
創価から足を洗う気になったわけで
(その気にさせるような、思いもかけない出来事が、母に起こったわけで)
この相関関係は、面白いなーと思うのです。

おあつらえ向きの出来事が、起こるべくして起きている。
「この世はパラドックス」だと、津留晃一さんがおっしゃってた事はこれだなーと
腑に落ちます。
(津留さんの本についても紹介したいのですがー・・今年中になんとか)

「私がいつも正しい」「私は間違ってない」という風な自己意識(エゴ)が強ければ強いほど、
それを証明するための現象が必要になるから
敵(?)と思えるような登場人物が現れたり・出来事に遭遇する・・というか、
実はなんでもない様なものを、敵にしたり問題としているかもしれないのですよね。

もし今、気に入らない人間関係があるとか、誰かに迷惑かけられてるとか、
そういった思いが強くある人は、相手にフォーカスせず
自分がどんな「前提(思い込み)」を持っているのか見つめなおすと、答えがみつかる・・
もしくは構造に気づけるかもしれません。 
相手に対する思い&思い込みではなくて、自分についての思い込みです。
どんな思いを自分が握っているのか。
それに気が付いたら、これは役割分担だったのか!と腑に落ちるでしょうし、そこで問題は収束を
迎えるーというか、問題じゃなくなるのかもしれません。
または、自分に対する思い込みに気づくことをせずとも、
(それを掘ってるうちに「エゴのおしゃべり」に飲み込まれて、ぐるぐる悩ましくなる可能性も
アリだから)
関係性や状態に「執着」を持たず、手放してしまえば、解決する事もあります。
「執着」は、問題を生み出します。
「執着」するから「問題化」していると言ってもいいくらい。
永遠に握りしめておけるものなんて何もありません。

もう何度も、ブログの趣旨を変えてから書いていることですが
「高次から見て物事は中立」
「絶対正義」はないと気がつくと、自然と緩んでいきます。自分も、周りの空気も環境も。

「私は正しいこともあるけど、まちがうこともある」
「あの人はまちがってるけど、正しいところもある」
両方あり、って認識を、ゆるくでも持っていれば。
心の中にニュートラルなスペースがあることが、わだかまらないコツかなーと私は思っています。

そのニュートラルなスペースを作るには、「今ここ」の瞬間に完全に入ること。
自分の呼吸と、生きているというシンプルな事実・身体の状態に目を向けることです。
そこには静かで何もないように思えて、確実に「生(命)」がある。
というか、それしかない。
煩わしい人間関係も過去の出来事も最近に起こったことも問題に思うことも、なんにも関係なく
「生(命)」はそこに在る。
ただ、淡々と続いている。
ごちゃごちゃ文句を言い続けたり・悪態をついたり・些細なことでも騒ぎ立て、嘆き、
わだかまりイライラを募らせているのは(頭の中の声は)、いったい誰なのか?
思考から離れ、静寂の「生(命)」にフォーカスすれば、わだかまりの正体(マインド)に
気づけるのです。
くれぐれも、マインドに乗っ取られないことです。
そんな在り方について、大変なヒント&学びになったのが、前回も紹介しました
こちらのDVDブック。
(DVD+映像内容を書き起こした本のセットになっています)


なかでも私が感銘を受けたのは
「愚痴を言わずにプレゼンスを招く」という、エックハルト氏の講演部分(本だとp19-23あたり)。
「えーっ?!・・ああ・・そうだったのか・・だよね」と、大きな荷物を下ろした気分になりました。
”ごちゃごちゃ考えなくてよかったんだ” と。 
ほんと、いまさらだけどw
前にも書きましたが、私は「現状に疑問を持つこと=向上心(良いこと)」という刷り込み・
思い込みがかなり重症のようでして(汗)
今、とくになんの不自由も困ったこともないのに、なんかしら難癖をつけようとする
(自分のことも・家族のことも。「ニュー・アース」読む以前は他人のことも←おせっかい)
傾向があるのです・・それらは「いま」にないことばかりです。
ちなみに、このDVDブックを見た当時にうっすら疑問に思い・考えあぐねていたことは
「私にはこれといった夢がない。これでいいのだろうか?」でしたw 
(なんか平和ボケですみませんw)
これは突き詰めると、私の生まれついての生育環境・・創価脳時代からの
思考癖だろうなーと。
問題は解決せねば!人は救わねば!とかいう、訳のわからない「問題(悩み)探し」が常で
40年余り生きてきたがゆえ・三つ子の魂百までも状態といいましょうか・・。
「使命感」なる言葉が、「何かをなさないと生きてはいけない」に近い強迫観念に育ちあがっている。
もう今は「使命感」なんて頭の中にはない(つもり)だけど、なかなか強固なようです。
「考えて悩んでる自分カコイイ! 問題意識のない奴や悩まない奴は馬鹿!」も、根強いのかもw
そんなつもりも、もうないのだけど・・。
改めてその癖に気づかされ、ガッツリ向き合わされたといいましょうか。
なんだ、何も悩まなくていいんじゃん!
「いま」と格闘してどうする?!
というか「思考を止める」が、出来てませんでしたやん!
基本中の基本ですよ!・・ガックリorz と。
「エセ向上心」マインドは、なかなか手ごわいもんだな・・という、気づき。
他人の反応だとか・見聞きした出来事に関しては、いちいちあれこれ考えないというか
もう執着を持たなくなりましたが、何もないところからの「不平不満探し」に関しては
なかなか根が深い。 あくまで私の場合ですが。
こうしてすべてが”いい意味で”どうでもよくなりました。
投げやりになったのとは違いますよw ただ、一段と軽く・楽になりました。

ディーパック・チョプラ氏の講演も内容が深く・難しくてしばし考え込んだ部分もありましたが
(時間は存在しない、というお話)
脳神経科学のエピソードからも「今ここ」しかないという事を解りやすく教えてくれています。

エックハルト氏とディーパック・チョプラ氏の質疑応答コーナーも見ごたえがありました。
「幸福の定義」についての両者の回答も素晴らしかったですが、
特に私のツボに入ったのは、質問者の女性のエピソードについて
エックハルト氏が「悲しい話(ストーリー)ですね」とコメントした後
チョプラ氏の「物語(ストーリー)ですけどね」の返し。 
二人の、独特の間合いに思わず唸ってしまいました。
↑これはもう、見てもらわないと字面じゃ「何のことだよ!?」でしょうけど。
この記事(ニュー・アース第三章2)にもあった
「自分がそうだと信じ込んでいるささやかな物語」って、こういう事をいうのね・・と。
二人の間合いをみていると、非常に軽いというか・・些細なんだな本当にwと
思い知らされる感じがしました。

全体的にエゴエゴしい重たい内容はひとつもなくて、とても見易いと思います。
ある程度「思考を止めて今にある」を実践してみたけど、どこかスッキリしないーという方に
特におすすめします。

Category: Notice&Replace

ニュー・アース 第三章(5)

幻想の防衛

疑いようのない事実というものは存在する。
たとえばあなたが「光は音より早い」と言い、誰かが逆だと言ったら、
もちろんあなたのほうが正しくて相手が間違っている。
あなたが正しいことは、稲妻のほうが雷鳴より早いことを観察するだけで確認できる。
だからあなたのほうが正しいだけではなく、あなたは自分が正しいことを知っている。
ここにエゴは介入しているだろうか?可能性はあるが、必ず介入しているわけではない。
あなたが真実だと知っていることを淡々と述べるなら、エゴは介入していない。
自分を同一化していないからだ。何に同一化していないのか?
心、ある一つの見解にである。しかし、この同一化はあなたの中にやすやすと入り込む。
もしあなたが「信じなさいって、私にはわかっているんだから」とか「どうしていつも私を
信じようとしないんだね?」と言うとしたら、すでにエゴが入り込んでいる。
エゴは「私」という簡単な言葉に隠れている。「光は音より速い」という言葉は依然として
真実だが、それが幻想を支え、エゴに利用される。
「私」という間違った意識に染め上げられ、個人化され、一つの見解、精神的な立場に
なる。
誰かが「私」の言うことを信じないと、「私」が軽視され、侮辱されたと感じる。
エゴはすべてを個人的に受け止める。そこで防衛感情や怒りまでもが生じる。
あなたは真実を防衛しようとしているのだろうか?そうではない。
いずれにしろ、真実には防衛の必要はない。光も音もあなたや誰かが
どう考えようと感知しない。
あなたは自分自身を、いや自分自身という幻想、心が作り出した自分の代替物を
防衛しようとしている。
(中略)

(思考ではなく)気づきによってのみ、事実と見解の違いを見分けることができる。
気づきによってのみ、正しく見ることができる。

こちらが状況でこれは状況に対して感じている怒りだと見分けられれば、違う対応が
可能だと、いいかえれば違う見かたや対処法があると分かる。
気づきを通してのみ、限られた一つの見方から解放されて状況や人の全体が見えてくる。

(p145-148抜粋)


本パートは初回読んだ際、かるくスルーしたのですが、読み返したら大事なことが端々に
書かれてあるじゃないか!と、驚かされました。
というか、エックハルト氏の本って全部、そうw
後日読み返して「ああっ!そうだったのか!」と、急に腑に落ちたりするのが常です。 

本文では「光と音の速さ」という絶対的な法則について書かれていますが、
たとえば”太陽が東から昇って西へ沈む”という天体法則について
それを誰かに話した時「違うよ!逆だよ」って反応をされたら、どう感じるでしょうか?
エックハルト氏が述べているとおりなんですが、「の言ってることが正しいのに」とか
が言ってるのになんで信じないのよ?」となったら、エゴの介入になるわけです。
法則の絶対性と真実に「私」を乗せることが、自己強化を誘うエゴの手段だというのだから
驚きますよね。 
でも、結構みんなフツーにやっていることだったりしてw
ここにエゴ(私)を介入させなければ「ネットで調べれば解るよねー」で、終わりです。
終わらないパターンは、調べて「ほらみたことか!の言ってたことが正しかったでしょ!」と
余計なおしゃべりを付け加えたり・口にせずとも内心相手に勝ち誇った気になる時でしょうねw

で、今回読み返して「怖いな」と感じたのは、
上記にあげた例は絶対的法則として存在する事柄ですが、
実際のところ真実かどうかよくわからない(証明はどこにもない)事柄にもかかわらず、
「絶対にこの教えが正しい」「最高のOO教、仏法」だとか「師匠の正義は弟子が証明する」などと、
自分たちの信条は1ミリたりとも間違っていないのだ!と、息巻いている人たちが
普通に世の中に存在しているということですw ・・って私も過去はその一員でしたが。
かの組織の人たちは批判を滅法嫌います。スルースキルもありません。
活動家時代の私も、批判してくる人間に対して好戦的であり、むきになることもありました。
その理由は、(私がそうだと思い込んでいた)法の「正しさ」を
相手に解ってもらいたい!・・というよりも
が信じているものを貶めてくれるな!」 という、エゴの働きだったと腑に落ちました。
だって、エックハルト氏の言うとおり「いずれにしろ、真実には防衛の必要はない」んです。
頑なにならなくても、相手をねじ伏せる必要なんてなくて
真実ならば、堂々と構えていればいいだけ。
誰が文句を言おうと槍を放とうと、太陽が西から東へ動くことはないし、音が光を超えることは
ありませんよね。 
・・まあ、かの組織教義においては、法則性・絶対性は一切担保されてないんですがww 
それにしても、本当に自信があったのならば、批判に取り合ったり戦うことなんてせずに
涼しい顔で微笑んで放っておけばよかったわけで。
だのに放っておけないのは「」の問題にすり替えているからです・・誰が?エゴが。

で、その個人的エゴを利用し発展したのが、集団的エゴ(組織団体)だということです。
私(たち)の信じてるOO」ってなるから、OOと自分を同一化してしまっているから
(われらのセンセー・・と、自己を同一化しちゃってる人もいますね) そりゃみな必死です。
私(たち)・われらの」がつかなければ、あんなに狂信的になることはないでしょう。
しかし、名言ですね 「真実には防衛の必要はない」 
これ、真実は一つ!と、正義(かどうかも実はよくわからないこと)の証明のためにと
昼夜戦い続けている人たちに、ぜひ教えてあげたいですねv
「敵は責めて責めて責め抜かなければどーたら」とか、鬼の形相の爺様スピーチが
もはや懐かしいですw

”こちらが状況でこれは状況に対して感じている怒りだと見分けられれば、違う対応が
可能だと、いいかえれば違う見かたや対処法があると分かる。
気づきを通してのみ、限られた一つの見方から解放されて状況や人の全体が見えてくる。 ”


この部分は、前回後半に書きました
「対人関係において相手に高圧的な・不快な言動をとられた場合」とも通ずる話で、
自己観察をすることで、<状況>と・状況に対して湧く<感情>を分けることが可能になり
一体化を避けられ、大局的に見て対処できるということです。
エックハルト氏が「ストーリー(物語)」という表現を動画の中でときどき使っていますが、
<状況>+<湧いた感情>を完全一体化したものを指している・・と私は解釈しています。
そして、これ(一体化)はもう普通に誰もがやっていることですよね。
日常的に、家族や他人とのやりとりにおいて些細な事柄でむっとしたり、腹立たしいだとか
困惑を覚えることって、誰しもあることだと思います。
その原因の大半は私という自己意識=幻想に固執しているからだ・・と、
思考を止めて「今にある」を実践していくと、日を追って解るようになります。

自分の経験を書かせてもらうと、
「ニュー・アース」を読む以前の私は、物事は効率と合理性を考えてこなすべき、と
考えおり、すごくせっかちで・自分の計画が思い通りに進まないことに対して
とてもイライラしやすい人間でした。
日常のタスクも、この時間までにいくつ終わらせる的にプランしていました。
それが思惑通りにハマったときは「しめしめ」ですが、そうはいかない時だって当然あります。
例えば、先を急ぎたいのにママ友に呼び止められて立ち話が長引くとかw 
銀行にいくと五・十日でもないのに、なぜか異様に混んでるとか。
スーパーのレジが混んでる、自分の順番がきたのにレシート切れで待たされるとか。
そうなると私はイライラし始め、ATMでもたついてる人や何件も連続振込をしてる人なんか見ると
心の中で「さっさとしてよ!」と毒づき、不機嫌になっていました・・
「計画通りに動いてる私(という自己意識)を待たせないで!」とw非常に傲慢ですが。
スーパーのレジ待ちでも同じくですw
あと、うっかり忘れ物したとか・用事を一つとばしてしまったなんて時には、「もおー!」って
自分に腹が立ってうんざりする。 
まあ、とにもかくにも(自分が勝手に想定していた)ペースが乱れるとイライラしっぱなし。
他人に対しても、自分のエラーに対しても。
それが、思考を止めることを始めて1週間くらい経過したある日(昨年4月)、
窓口で手続きの必要があり郵便局へ向かったのですが、局まで来て忘れ物をした事に
気づきました。
それがないと、手続きができないものだからいったん帰宅しなくてはならず。
外出ついで、郵便局の後に別件で他のところへも行く予定でいました。
以前の私なら、自分に向かって猛烈に「馬鹿!」ってダメ出し、気分をひどく害したと思います。
けどこのときは、なんだか気が抜けて「あはは」と笑ってしまったのです。
自分でも驚きました。 あれ?!腹が立たない・・と。
私が私にダメ出しをしない! 
えっ?もしかして、今までダメ出しをしていたのはエックハルト氏の言っている「エゴ」?!
・・頭の中の声の、正体見たりー!
そして同時に、これまでどれほど自分を責めて生きてきたのかと気づき、泣きそうにもなりました。
また運転中、特に急ぐ必要なんか全くない時でも、常に焦って近道を行こうとしたり・
とろとろ運転してる前方の車に舌打ちしていることに、ある日気づいて驚いたんです。 
全く「いま」にいない状態で、”効率最優先”の自分がハンドルを握っていた。
事故に遭わなかったのは幸いでしたが。
それがもう常態化していて、わかっていなかったのです、全くの無意識でした。

一年経過したいま解ったことですが、「今にある」をやっていく中で
「私という自己意識」が薄まっていったというか、影を潜めたのではないかと。
ATM待ちやレジ待ちでイライラしたのは「」の計画どおりに物事が進まない!というエゴ。
忘れもので腹が立ったのも「」の計画が崩れた!というエゴ。
でも実際、の家事計画が崩れたところで、そうたいして困らない。
だのに「の計画」に殊更こだわっていたのは、
エゴが自己強化にそれを使っていたという事です。
自分を責め、追い立ててまで計画をこなそうとしていたのは、うまくいったとき
「そつなくこなせる・デキる」に酔っていたともいえましょうか・・誰が?エゴが。
(↑この背景には、主人に対して「専業主婦としてちゃんとやってますからー!」という
 意味不明の”は義務果たしてます感”もありました・・これまたエゴ。
 そしてもう一段掘り下げれば、実家の母や姉に対しての
 「私ちゃんと主婦業も子育ても出来るんです!」という、
 劣等感由来の、意味不明のスタンス?ポーズでもあったと気づきました。 
 そしてこの意識は「私がちゃんとしてるんだから、あなたもちゃんとすべき」という
 周囲に対する謎のエゴルール・押しつけがましさに繋がってたんですが、
 長くなるので、また別の機会にサンプルとして出しますw)
あと「忙しぶってる」が好きだったというか、悦に入ってた傾向もありますw
(忙しい私=充実した生活を送る私!という、よくわからない思い込み)
計画がうまくいかなかった時も、や状況周囲を責めて機嫌を損ねる・・誰が?エゴが。
今だから解るのですが、上記状況がエックハルト氏のいう
「ほとんどの人間の”ふつうの”精神状態には、狂気と呼べる要素が含まれている」だったなとw
念のため書き添えますが「計画を立て効率よく物事を進めるのは悪」と言っているのでは
ありません。 
その行動の最中にも、エゴがどんどん入り込んで機能不全に陥るパターンがありますよー、
という例としてご紹介しました。
ブログを読んでいる人の中には
「自分はそんなことではイライラしないし、他人を巻き込んだり・巻き込まれることもない」
という方もいらっしゃるでしょう。 そんな方はきっと、エゴが軽いのだと思います。

最近は、全ての物事を状況にあわせて何の計画・気合もなくやっています。
気が変わったら変更なんてしょっちゅうで、「やらねば」「やるべき」は排除。
自分を追い立て・苦しめるようなことは止めました。 
すると自分に対しても・周囲の誰に対してもイライラしない。
特に急がなくても計画がなくても、普通に目についたものから出来ることを
「いま」に集中して落ち着いてこなせば、スムーズに万事おさまるし、困った事態にもなりません。
そして、不思議なことに時間がとても緩やかなのです。
計画的にこなしていた当時、時間が全く余らなかったのに
同量のことがらをなにも考えず・流動的にやっている今のほうが余裕がある。
あれやらなきゃ、これやらなきゃと考え焦り動いていた時とは、時間の流れまで変わったというか。
シンプル&楽すぎて、なんでもっと早くこのことに気づかなかったのかと・・w 
タイトな枠に押し込んで自分を不機嫌・不愉快にさせていた犯人は、
まさかの私という自己意識だったと気づきました。

現在はスーパーのレジ待ちやATMの混雑、手間取ってる人を見たって、なんとも思いません・・
というか、たった今気づいたのですが、そんなシーンに出くわすこと自体がなくなりました。
専業主婦なので、もともと空いてる営業日・時間帯にしか行かないのもありますが、
(それでも以前は、度々もたつく人や・ずるく横入りをするオヤジに遭遇したりw
 私の順番になってまさかのATM調整中になったりとかw ありました)
エゴの私を怒らせる現象が昔ほど必要なくなったから、
そういったシーンに出くわさなくなったのでは?と勝手な解釈をしています。

エゴには燃料が必要で、中でも「怒り」は最も効率良くエゴを増強させることができるというのは、
以前紹介した通りです。
内面状態が外的状況に反映される、その仕組みについて、拙い例ではありますが
私がその効果を実感している実例のひとつとして、伝われば幸いです。

そして他人とのやりとりにおいても、「」が損なわれると感じることがなくなりました。
友人に対し、相談を受け親身にアドバイスや・悩んでいることに対しての紹介をしたけれど
後日、その友人は幾人もの人に同じ相談をしアドバイスを受けるだけ受けて、
結局何も前に進んでなかった・・なんて聞くと
「あのときののアドバイスは何だったの?時間返してよ」と思ったり。 
忙しい中、予定を開けたのに相手が大幅に遅刻をしてきて・・なんていうときも、
をなんだと思ってんの?とムッとしたりw 些細ですがそんなことも多くあり。
「ニュー・アース」を読む前は、対人関係においても「私という自己意識
=エゴが騒ぐのが日常茶飯事でした。
けれど、これも「今にある」を意識するようになって以降、エゴが騒ぎだすことが
徐々に減少していったように思います。
以前なら確実に”悪意”と受け取った他人の言動も、今はあまり気にならないというか、
悪くは受け止めなくなりました。 場合によっては相手のエゴに気づけることもあります。
するとそれは、腹立たしいことではなくなるのです。
例えばお門違いなマウンティングをしてくるような人に対しても、
「この人は、そうすることでしか自分を保てないんだな~」と解るというか・・。
相手の抱えている「重たい荷物」が、垣間見えるのです。
(重たい荷物=ペインボディと同義かと・・ 「ニュー・アース」第5章参照)
前回内容にもあったと思いますが、相手のそれがエゴだとわかれば気にならなくなり、
自然とスルーできるようになります。 

「私という自己意識」=エゴがおとなしくなると、本当に楽です。
なんで今まであんなに怒ってたんだろう?些細なことに腹を立てていたのだろう?
ひとりよがりに傷ついていたのだろう?馬鹿にされた!なんて悔しく感じていたのだろう?
と、不思議に思えるほどなのです。
誰にも何からも自分は侵されていなくて、ただここに「在る」のだと気づけた時、
そこにあるのは無の境地というか・・知ってる仏教用語でいえば「仏界」でしょうか。

エックハルト氏が動画の中でたびたび「プレゼンス(臨在)」という言葉を使うのですが、
思考を止めて、今に”ある”←この時生まれる次元のことを指しています。
そしてこのプレゼンスがあることで、幻の私=「エゴ」を引き離し、静寂に入れると語っています。
この臨在における静寂もまた、私の知ってる用語でいえば「仏界」なのかなー、と。

今年の3月に発売されたDVDブックで、プレゼンスについて語られています。
内容が非常に深く・良かったので、ぜひ見ていただきたいです。


いずれ記事でも紹介できればと思っていますが、文章化が難しい~。
先月こちらを見てから、なんだか全てが良い意味でどうでもよくなってしまい、
今回ブログの更新が遅れましたw

(続きます)

ニュー・アース 第三章(4)

反応と怨恨

怨みにはたいてい不満という感情が付随するが、ときにはもっと激しい怒りや
その他の感情的動揺が付きまとうこともある。
これによって、不満にはさらに強力なエネルギーが充填される。そのとき不満は、
もうひとつのエゴの自己強化策である反応に変わる。
いつも何かに拒否反応を示そうと待ち構え、すぐに苛だったりムカついたりする人たちは多い。
その人たちはすぐに拒否反応の対象を見つける。「なんてことだ、頭にくる」「よくもあんたは
こんなことを・・」「ただじゃおかないからな」と言い出す。
こういう人たちは、薬物ならぬ怒りや動転の中毒なのだ。
あれこれに拒否反応することで自己主張し、自己意識を強化しようとする。

根の深い恨みは怨恨になる。怨恨を抱くというのは、いつも「対立」している状態で、
だからこそ怨恨が多くの人々のエゴの相当部分を占める。(中略)

怨恨はときにははるか昔の出来事と結び付いた激しい否定的感情だ。
「誰かが私にしたこと」「誰かが私たちにしたこと」を強迫的に考え続けたり、頭の中で、
あるいははっきり口に出して繰り返し物語ることによって、その出来事はいつまでも生々しい
ままでいる。この怨恨の影は人生のほかの領域にまで広がる。
たとえば怨恨を抱き続けていると、そのマイナスの感情エネルギーによって現在起こっている
出来事に対する見方が歪んだり、目の前の人間に対する話し方や行動に影響が及ぶ。
強い怨恨が一つあるだけで人生の大きな領域が翳って、エゴの罠から逃れられなくなることもある。
自分が怨恨を抱いているかどうか、自分の人生において完全に許せない何者かが、
つまり「敵」がいるかどうかを見極めるには、正直にならなければいけない。
怨恨を抱いているのなら、思考と感情の両方のレベルでその怨恨と怨恨を生かし続けている
思考に気付き、その思考への身体的対応の結果である感情をしっかりと感じることだ。
怨恨を捨てようとしてはいけない。怨恨を捨てようとか許そうとかしても上手くいかない。
怨恨はまがいものの自己意識を強化してエゴを温存する以外何の役にも立たないと気づいた時、
自然にゆるすことができる。真実を見抜けば解放される。

「敵をゆるせ」というイエスの教えは、人類の心に存在するエゴイスティックな構造の一つを
解体しなさい、ということだ。
過去にはあなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力はない。
その力を持っているのは、過去に対してあなたが抱く怨恨だけだ。
では怨恨とは何か。古い考えと感情というお荷物ではないか

(p140-143抜粋)


"薬物ならぬ怒りや動転の中毒"
ニュー・アースに出会う前の私が、まさにこの状態でした。
昔と比べて怒りっぽくなっていたのは事実で、
自分でもときどき「独身時代はこんなことなかったのに?」「更年期?」と思っていましたw
それが「自己意識の強化」だなんて渦中は思ってもみませんでしたが、今は「さもありなん」と
感じます。
どんな内容にむかついたか・自分が不当な思いをしたかを主張することが「自己意識の強化」と
なっていた、とエゴの構造を知った今は解る。
それはプライベートに於いてもだし・このブログの2013-2015年頃の内容にも表れています。
怒り続けている間も、被害者意識と同じくで、実は気持がいいんですよね。
自分の正当性を一方的に誇示できるし、なんだか強くなった気分でもいられるから。
以前紹介しました、大嶋先生のトラウマ本にも
「ストレスホルモンを下げるために怒り続ける」という内容が出ています。 
それを読んだ時も、超絶納得してしまいました。
怒っているあいだは自分が優位に立てるので、恐怖を感じなくて済むそうです(要旨)。
同じ内容に長年怒り続けていられるって、ある意味「中毒状態」なのかもしれません。
だからなかなか、堂々巡りから抜け出せないという事かと、自分の経験を通して
そう思います。

で、繰り返し同じことを言いますが、上記のような状態が芳しいはずはなく
”強い怨恨が一つあるだけで人生の大きな領域が翳って、エゴの罠から
 逃れられなくなることもある”
 
とあるように、更なる「よろしくない状況・状態」を招くことに繋がります。
事実認識の歪みや、妄想、悪い方向に暴走する憶測なんかは、まさにエゴの罠。
他人の言動を殊更悪く受け止めることで、新たな怨みを覚えたり・勝手に傷ついては
被害者意識を増強させたりと・・。 ほんと、ろくなことはありません。

「でもどうしろって言うんだ?!怨恨は事実だ!
 自分はひどい目にあわされた、だのに相手(怒りの対象となる個人・組織)は
 罰されることなく、のうのうと生きている。この恨みはらさいでか!」 という嘆きに対して、
エックハルトは明確な回答をしてくれました。
傍線部はもちろんですが、私がしびれたのは太字にした以下。

”過去にはあなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力はない。
その力を持っているのは、過去に対してあなたが抱く怨恨だけだ。
では怨恨とは何か。古い考えと感情というお荷物ではないか。 ”


もう、ぐうの音も出ない名回答です。
私のへっぽこ解説なんかいらないw 上記が全てです。

***

正しいか、間違っているか

不満はあら探しや反応と同じく、エゴの存在を支える境界や分離という意識を強固にするが、
同時にエゴの糧になる優越感を与えることによってエゴを強化する。
たとえば交通渋滞や政治家や、強欲な金持ちや怠け者の失業者に対する、あるいは同僚や
元配偶者やいろいろな人たちに対する不満がどうして優越感につながるのか、
ちょっとわかりにくいかもしれない。
実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は
間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。

自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。 正しいというのは、ある精神的な
立場ー視点、見解、判断、物語ーと自分を同一化することだ。
もちろん自分が正しいというためには、間違っている誰かと比較しなくてはならない。
だからエゴは自分が正しいと思うために、好んで誰かが間違っていると決めつける。言い換えれば、
自分という意識を強化するためには、誰かが間違っていなくてはならない。(中略)
自分が正しいなら、間違っているとか欠陥があると判断される人や状況に対して、
自分が倫理的に優越していると思うことができる。
その意味でエゴは優越感を欲し、優越感を通じて自らを強化する。
(p143-145抜粋)


耳が痛いわ~w と思いながら、読んだこのパート。
”実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は
間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。” 

だいたい、自分の正当性が認められないとか無視されたと感じた時に不満が生じるものです。
コミニュケーションがうまくいかない・・伝わらない、という時。
なのでこれは、生活していく上で多少はそうなっても仕方がない面もあると私は思います。
で、ここに「正しさ」を持ち込んでしまうと、ものすごく厄介なことになるんですよねw
「お互いさま」って思える余裕があれば、相手を責めつつも、後に自省ができて
エゴが引っ込むこともある。 
けどこれが「正しさ」の主張になってしまうと、エゴは絶対引っ込まないw
”自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。”
この指摘を読むと、いやでも思い出してしまうのは、かの組織の方々ですよね・・w
かつて自分もその一員だったわけなので、よくわかるのですが。
この「正しさ」が「優越感」と繋がってるから、「選民思想」に結びついたのか!と、
エックハルトのおかげで謎ときができましたw
かの組織の方々の「上から目線」に関しても、この「正しさ」に紐付いた「優越感」由来だと
考えれば、非常に納得のいく話です。
さらに突き詰めるなら、「五重の相対」が正しさ・優劣の証明(?)的な教義といえるので
さもありなんというか・・なんというか・・w
一方向の「正しさ」をこれでもか!というほど叩き込まれた私たちこそ
「物事は高次から見て中立」という大原則を知り、「両極をやって真ん中に戻る」
意識して生きていくのが良いのではないかと、思います。 

何につけ「正しさ」にこだわる癖は、組織を離れたところで簡単に取れるものではないと
思うから。
だから、いろんなことや人が許せない!って、頑ななアンチになる・・私もその一人でした。

で、そもそも「正しさ」の反対は「間違い」なのか?というと、
そこは人によって答えが違うのです。
だからこそ「正しさ」にこだわっている状態=バランスを欠いた・偏った状態なんだという事に
気付かないと、エゴはベッタリと貼りつくばかりで、なかなか心を自由にはしてくれません。
「正しさ/間違い」に殊更こだわってると、本当にただ苦しいだけ。
ずっと他人も自分も裁き続けていく事になるからです。
「気づき」さえすれば、エゴはぺろーんと剥がれるんです。コレ本当に。
でも、繰り返しですがエゴはなくすことはできませんので、忘れたころにまた来ますw
そのときも「あ、いま自分は偏ってんな、バランスおかしいな」と気づけたら
さっといなくなるのです。
最初はなかなか難しいかもしれないけど、習慣性のものなので慣れたらこっちのもの。
自分の内面状態を常にチェックする、これがとても有用です。

具体的には、何かに臨む時は自分がざわついていないか、うわついていないか
今一度確認をします。
自分が興奮状態にあるな、とか、不安感でゆらいでるな、と「気づいた」ら
クールダウンのためにお水を飲むとか、手を洗うなどして「いまここ」に意識を戻す。
このとき、水を飲む・手を洗っているー行動に集中し意識を向ける。
(その行為をしつつも、頭の中が考え事でグルグルしているようでは「いま」にない状態です)
そうして整えてから事に当たるだけでも、ずいぶんと違ってきます。

また、もし、対人関係において相手に高圧的な・不快な言動をとられた場合も、
すかさず意識を「自分の状態」に向けてみてください。
相手の言動・態度に意識をもっていかれないように。
「いま、自分どんな感じ?」と、自己観察する。怒りでかっとなっているのか・恐怖を感じたのか、
萎縮してるのか、厭な気分なのか・・そうして「気づく」だけで、不思議と少し落ち着くのです。
湧いた感情と一体化して振り回されることがなくなるというか
状況を一歩引いて見ることができる。
ここで注意してほしいのは、決して感情を否定したりはしないってことです。
ダメ出しをするんじゃなくて、自分がどんな「状態」なのかに気付いてあげることが目的です。
すると、相手のペース(=相手の感情・意識状態)に完全にのまれることはなくなるはずで、
自分を立て直し、落ち着いて自分の意見を述べたり・しかるべき行動がとれると思います。
売り言葉に買い言葉、みたいな泥沼展開になることはまず避けられるでしょう。
そしてこちらが意識的であれば、相手の中のエゴを見抜くこともできる。
相手はエゴに振り回された言動をとっているのだと観察すれば、こちらが
それに殊更反応する必要はないんだと、振り回されることなく「いま」に在ることが
出来、落ち着いて対処ができます。
これはもう、一度体験してもらえればはっきり解りますし、格段に不愉快が減ります。

余談ですが、先日すごく久しぶりに熱が出たのです。
夕方なんだかぼーっとする、身体がだるい、おかしいな?と思って体温計で確認。
最初は「インフルエンザはやってるけど、まさかね・・」とか
「昼間全然なんともなかったのに、どうしてだろう?」って、めったに熱など出さないだけに、
原因探し・若干の不安と不信感がよぎっていました。
けど次の瞬間「あ、いま不安に傾いてるな」と気づきました(勝手にです、最近は
特に意識しなくても気づけるようになりました)。
すると途端に「熱はあるけど頭痛はないし、体がぽかぽかしてなんだか気持いいなぁ。
だるさも、生きてるって感じがするなぁ」と嬉しく思えてきて(←?!ですが、こんな風に思うのは
初めてでした)、薬は飲まず。
動きたくなかったので家事は手抜きし、ソファでごろごろしながら音楽を聴いていたら
結局2時間後に熱はすっきり下がっていたのです。 これには驚きました。 
自分がどんな状態にあるのかを「気づく」だけで、そこに空間が生まれ、切り替わるような
イメージを最近の私は持っています。
そして、気づいて→内面状態を整えたら、展開がなだらかで好ましい方向に流れていくんです。
このあたりも、いずれ別記事でまとめられたらと思っています。

最近、再びエックハルト氏の動画を繰り返し見ています。
「いまここ」に意識を置くことを解りやすく教えてくれているものがありましたので
貼っておきます。 
仕事や日常生活が退屈でうんざりだ、という方は試しに御覧になってください。

※2017年5月18日追記
 動画が削除されてしまったので、リンクは消しました。
 信仰についても後半ちらっと触れられていて、面白い内容だっただけに残念です!


(続きます)