このブログについて

:::常にこの記事が一番上にあります。 更新は2件目から:::

HN 祥蘭 

2016年春、エックハルト・トール氏の書籍に出会いました。
エックハルト氏や、そのほか現代の覚者の教えを通じて、
わだかまらずに生きる実践中です。

新興宗教を卒業・脱会して自由を得てなお、
生き方や心の置きどころに迷い悩まれている方に、
エックハルト・トール氏の著書「ニュー・アース」や、私自身の経験を通じて
わだかまらず・楽に生きられるヒントをお伝えできればと思っています。

*******

2016年 脱会済
もと学会3世 もと活動家 2012年9月覚醒。

現在、自宅に神棚をまつっており、日常的に神社参詣しています。

このブログの現在(2016年6月~)
創価教学によるプロパガンダを抜けてなお、後遺症に悩んでいた私が
心理学や現代の覚者の教えに触れ、自分を取り戻した経緯を綴っています。  

このブログの過去(2013年8月~2016年5月)
学会3世として、機能不全家庭で育った私の信仰履歴~覚醒へのプロセス・
強固な「創価脳」をもつ母親との対峙について綴っています。
※内容に関して、現在(2016年以降)の考えとは大きく異なっています。が、
 過去を否定したくないので、そのまま公開しております。


このブログで言いたいこと・スタンス
*仏罰はありません。 安心してください。

*人間万事塞翁が馬です。


以前の自己紹介はこちらです。
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ニュー・アース 第三章(4)

反応と怨恨

怨みにはたいてい不満という感情が付随するが、ときにはもっと激しい怒りや
その他の感情的動揺が付きまとうこともある。
これによって、不満にはさらに強力なエネルギーが充填される。そのとき不満は、
もうひとつのエゴの自己強化策である反応に変わる。
いつも何かに拒否反応を示そうと待ち構え、すぐに苛だったりムカついたりする人たちは多い。
その人たちはすぐに拒否反応の対象を見つける。「なんてことだ、頭にくる」「よくもあんたは
こんなことを・・」「ただじゃおかないからな」と言い出す。
こういう人たちは、薬物ならぬ怒りや動転の中毒なのだ。
あれこれに拒否反応することで自己主張し、自己意識を強化しようとする。

根の深い恨みは怨恨になる。怨恨を抱くというのは、いつも「対立」している状態で、
だからこそ怨恨が多くの人々のエゴの相当部分を占める。(中略)

怨恨はときにははるか昔の出来事と結び付いた激しい否定的感情だ。
「誰かが私にしたこと」「誰かが私たちにしたこと」を強迫的に考え続けたり、頭の中で、
あるいははっきり口に出して繰り返し物語ることによって、その出来事はいつまでも生々しい
ままでいる。この怨恨の影は人生のほかの領域にまで広がる。
たとえば怨恨を抱き続けていると、そのマイナスの感情エネルギーによって現在起こっている
出来事に対する見方が歪んだり、目の前の人間に対する話し方や行動に影響が及ぶ。
強い怨恨が一つあるだけで人生の大きな領域が翳って、エゴの罠から逃れられなくなることもある。
自分が怨恨を抱いているかどうか、自分の人生において完全に許せない何者かが、
つまり「敵」がいるかどうかを見極めるには、正直にならなければいけない。
怨恨を抱いているのなら、思考と感情の両方のレベルでその怨恨と怨恨を生かし続けている
思考に気付き、その思考への身体的対応の結果である感情をしっかりと感じることだ。
怨恨を捨てようとしてはいけない。怨恨を捨てようとか許そうとかしても上手くいかない。
怨恨はまがいものの自己意識を強化してエゴを温存する以外何の役にも立たないと気づいた時、
自然にゆるすことができる。真実を見抜けば解放される。

「敵をゆるせ」というイエスの教えは、人類の心に存在するエゴイスティックな構造の一つを
解体しなさい、ということだ。
過去にはあなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力はない。
その力を持っているのは、過去に対してあなたが抱く怨恨だけだ。
では怨恨とは何か。古い考えと感情というお荷物ではないか

(p140-143抜粋)


"薬物ならぬ怒りや動転の中毒"
ニュー・アースに出会う前の私が、まさにこの状態でした。
昔と比べて怒りっぽくなっていたのは事実で、
自分でもときどき「独身時代はこんなことなかったのに?」「更年期?」と思っていましたw
それが「自己意識の強化」だなんて渦中は思ってもみませんでしたが、今は「さもありなん」と
感じます。
どんな内容にむかついたか・自分が不当な思いをしたかを主張することが「自己意識の強化」と
なっていた、とエゴの構造を知った今は解る。
それはプライベートに於いてもだし・このブログの2013-2015年頃の内容にも表れています。
怒り続けている間も、被害者意識と同じくで、実は気持がいいんですよね。
自分の正当性を一方的に誇示できるし、なんだか強くなった気分でもいられるから。
以前紹介しました、大嶋先生のトラウマ本にも
「ストレスホルモンを下げるために怒り続ける」という内容が出ています。 
それを読んだ時も、超絶納得してしまいました。
怒っているあいだは自分が優位に立てるので、恐怖を感じなくて済むそうです(要旨)。
同じ内容に長年怒り続けていられるって、ある意味「中毒状態」なのかもしれません。
だからなかなか、堂々巡りから抜け出せないという事かと、自分の経験を通して
そう思います。

で、繰り返し同じことを言いますが、上記のような状態が芳しいはずはなく
”強い怨恨が一つあるだけで人生の大きな領域が翳って、エゴの罠から
 逃れられなくなることもある”
 
とあるように、更なる「よろしくない状況・状態」を招くことに繋がります。
事実認識の歪みや、妄想、悪い方向に暴走する憶測なんかは、まさにエゴの罠。
他人の言動を殊更悪く受け止めることで、新たな怨みを覚えたり・勝手に傷ついては
被害者意識を増強させたりと・・。 ほんと、ろくなことはありません。

「でもどうしろって言うんだ?!怨恨は事実だ!
 自分はひどい目にあわされた、だのに相手(怒りの対象となる個人・組織)は
 罰されることなく、のうのうと生きている。この恨みはらさいでか!」 という嘆きに対して、
エックハルトは明確な回答をしてくれました。
傍線部はもちろんですが、私がしびれたのは太字にした以下。

”過去にはあなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力はない。
その力を持っているのは、過去に対してあなたが抱く怨恨だけだ。
では怨恨とは何か。古い考えと感情というお荷物ではないか。 ”


もう、ぐうの音も出ない名回答です。
私のへっぽこ解説なんかいらないw 上記が全てです。

***

正しいか、間違っているか

不満はあら探しや反応と同じく、エゴの存在を支える境界や分離という意識を強固にするが、
同時にエゴの糧になる優越感を与えることによってエゴを強化する。
たとえば交通渋滞や政治家や、強欲な金持ちや怠け者の失業者に対する、あるいは同僚や
元配偶者やいろいろな人たちに対する不満がどうして優越感につながるのか、
ちょっとわかりにくいかもしれない。
実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は
間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。

自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。 正しいというのは、ある精神的な
立場ー視点、見解、判断、物語ーと自分を同一化することだ。
もちろん自分が正しいというためには、間違っている誰かと比較しなくてはならない。
だからエゴは自分が正しいと思うために、好んで誰かが間違っていると決めつける。言い換えれば、
自分という意識を強化するためには、誰かが間違っていなくてはならない。(中略)
自分が正しいなら、間違っているとか欠陥があると判断される人や状況に対して、
自分が倫理的に優越していると思うことができる。
その意味でエゴは優越感を欲し、優越感を通じて自らを強化する。
(p143-145抜粋)


耳が痛いわ~w と思いながら、読んだこのパート。
”実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は
間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。” 

だいたい、自分の正当性が認められないとか無視されたと感じた時に不満が生じるものです。
コミニュケーションがうまくいかない・・伝わらない、という時。
なのでこれは、生活していく上で多少はそうなっても仕方がない面もあると私は思います。
で、ここに「正しさ」を持ち込んでしまうと、ものすごく厄介なことになるんですよねw
「お互いさま」って思える余裕があれば、相手を責めつつも、後に自省ができて
エゴが引っ込むこともある。 
けどこれが「正しさ」の主張になってしまうと、エゴは絶対引っ込まないw
”自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。”
この指摘を読むと、いやでも思い出してしまうのは、かの組織の方々ですよね・・w
かつて自分もその一員だったわけなので、よくわかるのですが。
この「正しさ」が「優越感」と繋がってるから、「選民思想」に結びついたのか!と、
エックハルトのおかげで謎ときができましたw
かの組織の方々の「上から目線」に関しても、この「正しさ」に紐付いた「優越感」由来だと
考えれば、非常に納得のいく話です。
さらに突き詰めるなら、「五重の相対」が正しさ・優劣の証明(?)的な教義といえるので
さもありなんというか・・なんというか・・w
一方向の「正しさ」をこれでもか!というほど叩き込まれた私たちこそ
「物事は高次から見て中立」という大原則を知り、「両極をやって真ん中に戻る」
意識して生きていくのが良いのではないかと、思います。 

何につけ「正しさ」にこだわる癖は、組織を離れたところで簡単に取れるものではないと
思うから。
だから、いろんなことや人が許せない!って、頑ななアンチになる・・私もその一人でした。

で、そもそも「正しさ」の反対は「間違い」なのか?というと、
そこは人によって答えが違うのです。
だからこそ「正しさ」にこだわっている状態=バランスを欠いた・偏った状態なんだという事に
気付かないと、エゴはベッタリと貼りつくばかりで、なかなか心を自由にはしてくれません。
「正しさ/間違い」に殊更こだわってると、本当にただ苦しいだけ。
ずっと他人も自分も裁き続けていく事になるからです。
「気づき」さえすれば、エゴはぺろーんと剥がれるんです。コレ本当に。
でも、繰り返しですがエゴはなくすことはできませんので、忘れたころにまた来ますw
そのときも「あ、いま自分は偏ってんな、バランスおかしいな」と気づけたら
さっといなくなるのです。
最初はなかなか難しいかもしれないけど、習慣性のものなので慣れたらこっちのもの。
自分の内面状態を常にチェックする、これがとても有用です。

具体的には、何かに臨む時は自分がざわついていないか、うわついていないか
今一度確認をします。
自分が興奮状態にあるな、とか、不安感でゆらいでるな、と「気づいた」ら
クールダウンのためにお水を飲むとか、手を洗うなどして「いまここ」に意識を戻す。
このとき、水を飲む・手を洗っているー行動に集中し意識を向ける。
(その行為をしつつも、頭の中が考え事でグルグルしているようでは「いま」にない状態です)
そうして整えてから事に当たるだけでも、ずいぶんと違ってきます。

また、もし、対人関係において相手に高圧的な・不快な言動をとられた場合も、
すかさず意識を「自分の状態」に向けてみてください。
相手の言動・態度に意識をもっていかれないように。
「いま、自分どんな感じ?」と、自己観察する。怒りでかっとなっているのか・恐怖を感じたのか、
萎縮してるのか、厭な気分なのか・・そうして「気づく」だけで、不思議と少し落ち着くのです。
湧いた感情と一体化して振り回されることがなくなるというか
状況を一歩引いて見ることができる。
ここで注意してほしいのは、決して感情を否定したりはしないってことです。
ダメ出しをするんじゃなくて、自分がどんな「状態」なのかに気付いてあげることが目的です。
すると、相手のペース(=相手の感情・意識状態)に完全にのまれることはなくなるはずで、
自分を立て直し、落ち着いて自分の意見を述べたり・しかるべき行動がとれると思います。
売り言葉に買い言葉、みたいな泥沼展開になることはまず避けられるでしょう。
そしてこちらが意識的であれば、相手の中のエゴを見抜くこともできる。
相手はエゴに振り回された言動をとっているのだと観察すれば、こちらが
それに殊更反応する必要はないんだと、振り回されることなく「いま」に在ることが
出来、落ち着いて対処ができます。
これはもう、一度体験してもらえればはっきり解りますし、格段に不愉快が減ります。

余談ですが、先日すごく久しぶりに熱が出たのです。
夕方なんだかぼーっとする、身体がだるい、おかしいな?と思って体温計で確認。
最初は「インフルエンザはやってるけど、まさかね・・」とか
「昼間全然なんともなかったのに、どうしてだろう?」って、めったに熱など出さないだけに、
原因探し・若干の不安と不信感がよぎっていました。
けど次の瞬間「あ、いま不安に傾いてるな」と気づきました(勝手にです、最近は
特に意識しなくても気づけるようになりました)。
すると途端に「熱はあるけど頭痛はないし、体がぽかぽかしてなんだか気持いいなぁ。
だるさも、生きてるって感じがするなぁ」と嬉しく思えてきて(←?!ですが、こんな風に思うのは
初めてでした)、薬は飲まず。
動きたくなかったので家事は手抜きし、ソファでごろごろしながら音楽を聴いていたら
結局2時間後に熱はすっきり下がっていたのです。 これには驚きました。 
自分がどんな状態にあるのかを「気づく」だけで、そこに空間が生まれ、切り替わるような
イメージを最近の私は持っています。
そして、気づいて→内面状態を整えたら、展開がなだらかで好ましい方向に流れていくんです。
このあたりも、いずれ別記事でまとめられたらと思っています。

最近、再びエックハルト氏の動画を繰り返し見ています。
「いまここ」に意識を置くことを解りやすく教えてくれているものがありましたので
貼っておきます。 
仕事や日常生活が退屈でうんざりだ、という方は試しに御覧になってください。

※2017年5月18日追記
 動画が削除されてしまったので、リンクは消しました。
 信仰についても後半ちらっと触れられていて、面白い内容だっただけに残念です!


(続きます)

ニュー・アース 第三章(3)

不満と恨み 続き

エゴは他人だけでなく、状況にも不満や恨みを持つのが大好きだ。
人に対してできることは、状況にもできる。つまり状況を敵にすることもできる。
それはいつもこんな思いとして現れる。 こんなことが起こっていいはずがない。
私はこんなところにいたくない。こんなことはしたくない。こんなのは不公平だ。
そしてもちろんエゴの最大の敵は、いまのこの瞬間、いわば人生(生命)そのものである。

不満と、誰かに過ちや欠陥を教えて正させることを混同してはいけない。
不満を持たないことは、必ずしも質の悪さや劣悪な振る舞いを我慢することではない。
ウェイターにスープが冷めているから温めなおす必要があると伝えることはー事実だけを
取り上げるなら、事実は常に中立だからーエゴではない。

「良くも私にこんな覚めたスープを出せたもんだ・・」。これは不満である。
ここには「この私に」という意識があり、冷めたスープに個人的な侮辱を感じて
ここぞとばかり騒ぎ立てる「私」、誰かが悪いと決めつけて喜ぶ「私」がいる。
この不満は変化を起こすのではなく、エゴを喜ばせるのに役立つだけだ。
ときにはエゴがほんとうは変化を望んでいないことが明白な場合さえある。それなら不満を
言い続けられるから。
何かに不満を持った時、頭の中の声を把握できるかどうか、つまりその正体に
気づけるかどうか、試して御覧になるといい。それはエゴの声、条件づけられた心の
パターン、思考でしかない。その声に気づけば、同時に自分はその声とは違うこと、
その声に気付いているのが自分であることがわかるだろう。
実際、声に気付いている、その「気づき」があなたなのだ。
(中略)
自分の中のエゴに気付いた時、それは厳密にいえばもうエゴではなく、
古い条件付けられた心のパターンになる。
エゴとは無意識である。気づきとエゴは共存できない。(後略)
(p137-139抜粋)


真髄を突く、深すぎる一文。
そしてもちろんエゴの最大の敵は、いまのこの瞬間、いわば人生(生命)そのものである。”
今回記事を書くにあたって、改めて読み返し
「うわっ!そのとおりだ!」と、私は怖くなったほどでした。
これといって何の問題もない時でさえ、先の不安(=いまにないこと)を態々思い浮かべたり・
自分ではない他人(家族含む)が置かれている状態について憂いたり、悪い想像をしてみたり。
とりわけ何も問題のない「いま」についても、
「問題のないことが問題」とばかり、マイナス探しの視線を
注いでみたりする。
しかも、それが習慣になっている。

物事って見ようによっては、いくらでも悪く見ることが出来ますよね。
ニュースサイトには悲しく不安な情報が溢れており、それが「いま」自分自身に
なんの関係もない事柄であろうとも、気分・考えに影響を及ぼすこともある(=感化される)。
(例:物騒な事件報道を目にして、自分もああなったらどうしよう?!などと考えたり)
外側の現象・・「いま」自分が直面していない・何の関係もないネガティブに態々関心を向け
内面状態(心の内側)を波立たせることがある・・誰が? エゴが。
私の中にもまだまだ上記傾向があって、
この記事にも書いたトラウマ回避とも、関連があるように思います。

また、先日ふと思い出したのですが
私が「ニュー・アース」に出会い、思考を止めることを意識し始めてわりとすぐのころ、
疑問をもったことがあり、それは
「思考を止める=向上心をなくしてしまうことにつながるのではないか?」という懸念でした。

湧きあがる不安や不満は、時に自分を向上させるモチベーションになる、という考えです。
コンプレックスをバネにとか、ハングリー精神もおなじ類いかと思います。
今ここに問題はないとか・あるものにすっかり満足して、上を目指さなくなったら
私はどんどん堕落するのではないか・・?という心配。
「思考を止めたら馬鹿になるのではないか?」と並んで、疑心暗鬼。
騙されたと思って「思考を止める」日々を過ごしていく中で、ある日突然
「そういうことか!」と気づきが。
私にとっての向上心をひも解くと
人生をより良くするために失ってはならないものという定義でしたが、
裏を返すと=どんな現状にも満足してはいけない、という強い観念(思い込み)でした。
現状に満足してしまうこと=向上心を失うのと同義。だから満足してはいけない!
常に高い理想を持ち、追い求め続けるのが人生(だと私は思いこんでいました・・
ちなみにこの思い込みを握ったのは20代後半、リストラが契機。この記事に書いてます。
読み返すと「思い通りになっているのに、気持に余裕がなく常にイライラしていた」との記載がw
まさしく、エゴにとりつかれていたんですね・・答え合わせしてるみたいで、我がこと乍面白いw)。
だから常に「うっすら不満足」(←エゴ)をキープしようとする(無意識に)。
この意識状態でいると、理想は天井知らず。
未来像ばかりをみて「いまここ」の幸いを確認しようとは、絶対にしない。
(→そんなことしたら、エゴの居場所がなくなる!)
おそらくどこまでいっても、真に満足も充足も感じられず、
一瞬「自己満足」できたにしても、すぐさま新たな外側の条件(他者との比較)によって
鼻っ柱はへし折られるw
比較対象を内面にも外側にも求め、私はまだまだだ!もっともっと・・。
自分の人生にけしてYESと言ってはいけない、なぜなら向上できなくなるからだ!と。
しかも、結婚し家族ができると、それは自身の問題のみにとどまらず
子供の成績や出来・不出来(外付けパーツ)を「我がこと」と同一化し、コントロールしようと
事実必死になっていました(お恥ずかしい・・もちろん、気づいてからは、きっぱり止めました)。
まさに、エゴの思うツボ状態です。
こんな思い込みで生きてきたんだ?! 超苦しい生き方じゃんorz 実際苦しかったよ・・ と。
自分でやっていたくせに、全然解ってなかったw 
エックハルトの指摘通り、無意識の中にエゴは潜んでいたのです。
これに気がついたとき、ちょっと衝撃でした。
自分はあくまでも「より良くなるため」に、やっていたつもりだったのに、
まさかそれが自分や周囲を窮屈にさせてたなんて!と。
(注:向上心を持つことが悪いと言ってるわけではなく、私においてはそこにエゴを発見したって
 話です。)
現在、向上心については
「自分を心地よくいさせない・苦しめるならそれは虚栄心かと疑ってみる」
との認識に落ち着きました。 
(当然、自分以外の他人を含めることは大間違いだという認識も追加)
また、向上心は”願望”とも繋がっていると思いますが、執着をもてば苦しくなるのは当然のこと。
このあたりもエゴを挟まずにどう向き合っていくか、追々紹介します。

エゴの最大の敵が人生(生命)そのものって、決して大げさな話ではなく、
結局は「責め」が身を滅ぼすって事でしょう。
自分や周囲の環境を責めて苦悩の末、うつ病になる人は多いし、
ストレスが免疫力低下を招くことで各種発病につながることも、よく知られているとおりです。
とにかく、原因は何であれ、自分責めも環境責めも、ろくなことはありません。
そして”自分がエゴに取り付かれてるな”って気づけば「責め」は止められるんです。

ごく簡単なことだから、試さない手はないと私は思うのですが・・。

繰り返しになりますが、「生きているだけで丸儲け」をベースに
呼吸と鼓動が続いている奇跡、「いまここ」に何の問題もない幸いに気付いて、
そこへ意識を戻すことができれば、エゴに飲み込まれ翻弄されるのを防ぐことができます。
それを「子供だましだ!」なんて、私も最初は思ってましたw 
「そんなことで、なにも解決しない!」ってw
私の中のエゴが、そうやって拒絶していたのです、最初は。
けど冷静に分析してみると・・確かにまだ何も起こっていないのに、勝手に不安を思い浮かべ、
いやな気分になったり・想像の世界で物事や他人を悪者にしてわだかまるなんて、
時間の無駄というか精神消耗するだけだし、ばかばかしいことだよなーって気づいたのです。
それで思考を止めて「いま」にある励行ができたのですが、実際やってみたら気力消耗や・
いやな気分になることも、わだかまりも激減し、これはすごい!と思い。
そして事実をただ認識し、そこに過剰な憶測や感情(=被害者意識)を絡めずに
ものごとに当たることが出来るようになると、目の前の状況が確実に穏やかで
なだらかなものへ自然と変化するというのを、身をもって経験しています。

”不満を持たないことは、必ずしも質の悪さや劣悪な振る舞いを我慢することではない。”
”ー事実だけを 取り上げるなら、事実は常に中立だからーエゴではない。 ”

このパートは、前回書きました「感情を絡めず、事実を伝える」についての解説になります。
たとえばアポなし家庭訪問が迷惑だ、ということについて
この私をいやな気持ちにさせやがって・・イライラ!」という感情で
「家庭訪問にこないでください」と相手に伝える場合、やや攻撃的な口調になったりしがちです。
創価脳な相手は言葉よりも”攻撃的になってる、怒ってる”という状態の方を受け止めます。
そして「かわいそうに、魔に食い破られている・・祈ってあげなきゃ!」とか
「もっと関わっていこう!」という、創価脳ならではな謎の迷走スイッチを入れてしまうことにも
つながりかねませんw ←あくまで経験上からの言葉です。
なので、感情は入れずに事実のみ伝えることが無難だと私は思います。
↑確か、だいぶ前にも(ニュー・アースを知る以前)同じことを記事に書いた気がしますw
これは対創価だけでなく、一般社会でも応用可能で、けっこう有用です。
私はクレーム申し入れの際に心がけていますが、一切こちらの感情を織り込まず、
ただ中立な事実だけを伝えます。
(前提として「悪意」で事を受け止めなくなったので、怒りの感情もわかなくなりました)
すると「こうしてほしい」などの要望を一切言ってないにもかかわらず、
期せずして新品と交換してもらえたり・次回注文の際に大量におまけを入れてもらうという
神対応をしてもらいました。
どんなに表向きの言葉を行儀よく整え・表面をきれいにつくろったって
わだかまりの感情(エゴ)って、「言葉」に乗るんです。こちらが思っている以上に。
それが相手に伝播し、望ましくない状況や状態を引き寄せることに、繋がるのではないか?と
思う次第です。

また、心の中で「ケッ、迷惑なんだよ!」などなど不満に思いつつも口には一切出さず、
表向きなんでもないふりをして、内心沸々とわだかまり続けていることは
”ときにはエゴがほんとうは変化を望んでいないことが明白な場合さえある。それなら不満を
言い続けられるから。 ”

ということかもしれません。
自覚なしに、エゴを自分の中で飼育しているという感じでしょうかw
文句を言い続けられなくなったら困るのです、だって自我(エゴ)が優位でいられなくなるから。
相手を悪者にしておかなければ、自分が正義でいられなくなるから。
そしてこの状態だと、いつまでたっても迷惑行為はやまないと思います、残念ながら。
これも機能不全状態を自ら望んで「引き寄せ」ているのです・・誰が?エゴが。 

余談ですが、この春休みに実家の母・姉を交えて旅行に行った際、驚いたことがありました。
母からひとことも、他人に対する愚痴やマウンティング発言がなかったのです。
(そういえば・・母はまだ脱会しておりません。諸事情で延期になりました。
 活動は完全に停止しています)
これまで何度か、母と旅行先や帰省のさいに話をするたび
他人(学会員・非学会員どちらも)に対する文句愚痴マウンティングがひどくてorz
正直いつもうんざりしていました。
(余談・私は普段ほとんど実家に電話を入れません。用件はメールで済ませるので
 「じっくり会話」の機会は少なめです)
TPOをわきまえず、話し続けていないと死ぬのか!?と思うほどのマシンガントークで、
そのことについても常に???で。
交友関係がガラリと変わった&組織の人と一切付き合わなくなったことで、
常識人が周りに増えたこともあるのでしょうが、お友達との楽しい・微笑ましい話題が中心。
また、沈黙も苦痛でなくなったようで、マシンガントークもなし!
実に穏やかで、まるで別人のようでしたw
母にとっていかに組織での人間関係や各種活動が、ストレスの巣窟だったのかが
はっきりと解るな・・と思ったのと同時に、
これは私の内面状態の反映でもあるんだと、旅から戻ってそう思いました。
母に対して、(以前は持っていた)わだかまりの感情が、現在一切ないのです。
脱会が延期になったときも、なんとも思いませんでした。母の人生だから、母が決めれば
いいことで、私の人生を左右することでもなく・自分に影響ないと分かっているから。
誰かを変えようとか・コントロールしようという考えは、まぎれもなくエゴです。
そういったものから解放されると、執着しなくなると、本当に「楽」になれます。
そして状況も勝手に変わるのです。

近しい人間関係でお悩みの方は、自分が相手を変えようとしていないか・コントロール
しようとしていないか、今一度確認してみてください。
不満の原因が、相手が変わらないことにあると考えているなら、まぎれもなくそれはエゴw
なので気づいて、手放すことをお勧めします。
(思うに、組織で「他者の幸福を祈る」的な事を、これでもか!というほど叩き込まれた事が、
 必要以上に他人を気にする・我がことのように他人を意識に入れてしまう悪習慣と
 繋がっているのではないか?と。 他者との関係性や距離感の問題ですね。
 これに関しては、また別の機会に述べたいと思いますが、いい人ぶるのはもうやめましょうw)
具体的には、相手のことを憂慮心配しない&問題にしない・相手は大丈夫だ!と安心し
信頼して放置する。
そして自分に集中することです。
自分の機嫌を取ることだけに集中してください。
内面状態を整える、自分が自分の機嫌を取るのです、全力で。
 
そこに他人を入れない。
他人に自分の機嫌を取らせようとは考えない・望まないでください。
自分の上機嫌が定着安定する頃、こちらが何もしなくても、相手は勝手に変わってます。

どんな生き方・考えを持つことも、その人の自由です。
恨みごとを持ち攻撃的になり、悲観的な外の現象ばかり取り上げ眺めては、
政治が悪い宗教が悪い、あいつが駄目でこいつは劣ってて・・とこき下ろすのだって・
誰かや何かを一生許すまじと、監視し・挑み続けるのも一興。
それが楽しい・生きがいって人がいてもおかしくない。全然OK。
どんな生き方も状態も、自分が選んでいて、選べるのです。
だけれども残念なことに、勘違いを起こしてしまっている場合
「自分は(怨むべき対象に)そうさせられている」と思いこんでいるパターンが大半です。
「自分は恨みたいわけじゃない!本当は楽しくいたいよ!でも、誰かや何かが存在する限り
 アイツらが自分を”そうさせて”いるんだ!」なんて、
自分が相手に主導権を渡している(事に気付いてない)。
忌まわしい対象の前に仁王立ちして睨みつけ、一歩も動かないこともできるけど・
今すぐそこから立ち去って、自分の好きな・心躍る目的だけ選んで楽しむ事もできるんです。
忌まわしい相手に主導権なんかありません、主導権はいつも自分にある。
そして立ち去ることは、負けでも・ずるいことでもなんでもない。
(それを敗北だとかずるいとか、思いこんでるのは自分のエゴであって、
 他人は誰もあなたを裁こうとなんてしていない・興味もないことに気付けばいいのです)
また、恨んだり憎んだりしてる間、相手にパワーを奪われていることを自覚したらいいと思います。
その間中、自分の貴重なエネルギーを憎い相手に注いでいることは間違いないのです。
一瞬悦に入り、いい気にはなれるかもしれませんが、消耗・焦燥が強まるだけかと・・。
なんだか勿体なくないですか?
自分の人生を、面白くて喜びある方向に舵取りすることも選べるし、それは自由です。

難しいことは何もなくて、ただ自分が心地よいこと・安心できること・楽しいなって思えることに
興味関心を注げばいいと思うのです。 
ネガティブ、恨み、不安や心配にあてる時間は無用で、そんな思考が頭をもたげた時は
「はい終了~!」と、パチンと手を打って、そこで止める。
そして即好きなDVDや動画を見たり・音楽を聴いたり、今すぐに此処で出来る簡単なことで
気分を変えたらいいのです。
好きな飲み物をのんでもいいし、景色を眺めるのもいいし、
実現性はさておいて愉快な計画を立ててみるとか、とにかく「切り替える」。
ほんと簡単なことでいいから、イヤな気分に留まろうとしない&長引かせない。
ネガティブクリーニングの一環です。

これはもう、習慣にしたらいいと思います。 なんせエゴは神出鬼没ですからねw 
そして、上機嫌の時間をキープすることが習慣になれば、ネガティブ思考は減少し
物事の受け止め方が、より良い方向へ変化します。

小さな不快・不満を解消せずに放置し、積み重ねること(我慢して押し込めることも同じ)が、
エゴの増幅剤になっていると、私は分析しています。
特に、かの組織に尽くしてきたような人は「我慢」がデフォルトになっています。気づかないうちに。
自覚のある方は、特に自分優先で、自分に親切にしてみてください。
心のささくれは他人や特別な何かに依らずとも、日常生活の小さな工夫で・自分で治せます。

エゴとの付き合い方は「ニュー・アース」を2回も読めば、大体わかります。
難しいからと、読むのをやめたって方もいらっしゃるようですがw
是非お手元においてほしい一冊です(DL版もあります)。
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(次回に続きます)

ニュー・アース 第三章(2)

不満と恨み

不満は、エゴが自分自身を強化するために用いる得意の戦略の一つだ。
不満はどれも心が作り出し、あなたが完全に信じ込んでいるささやかな物語である。
不満を声に出そうと頭の中にとどめておこうと、違いは無い。
他に自分を同一化するものをあまりもたず、不満だけで楽々と生き延びているエゴもある。
そういうエゴの虜になると、不満、とくに他人に対する不満が無意識のうちに習性となる。
無意識だから勿論自分では気づかない。人々を見た時、最も多いのはその人たちについて
話したり思い浮かべるとき、心の中で否定的なラベルを貼り付けるというのもこのパターンの
一つだ。悪口雑言はこのラベル貼りの最も露骨な形で、自分は正しいと勝ち誇らずには
いられないエゴの必要性を満たしてくれる。

(中略)
恨みは不満や精神的なラベル貼りに付随する感情で、エゴはそこからさらに大きな
エネルギーを汲み取る。恨むというのは苦々しい思いをする、憤慨する、馬鹿にされたと
感じる、傷ついたと思うことだ。

人は他人の貪欲さ、不誠実さ、いい加減さ、現在や過去の行動、言ったこと、しなかったこと、
すべきだったことやすべきでなかったことを恨む。エゴはこれが大好きだ。
他者の無意識さを見過ごさず、相手と同一化する。
誰がそうしているのか?あなたのなかの無意識、エゴである。
ときにはあなたが他者に見る「過ち」は、ほんとうはありもしないものかもしれない。
まったくの誤解で、敵を見つけたがり、自分が正しくて優れていると思いたがるよう
条件づけられた心の投影にすぎないかもしれない。

また過ちが事実あったとしても、そこにばかり集中し他の一切を顧みないことで、
あなたはその過ちを拡大して見ているかもしれない。それに他人のなかに見て反応することほど、
自分の中にもしっかりと存在している。

他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、
人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。

だが反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な
機能不全の表れだと認識できるときだけだ。
そのような行動が個人的なものでは無いと気付けば、相手個人に反応しようという衝動は
なくなる。そしてエゴに反応しないでいると、相手の正気、つまり条件づけられていない意識を
引き出せる場合が多い。(中略)
あなたがエゴという無意識を相手個人と同一視したとき、その相手は敵になる。
反応しないのは決して弱さではなく、強さである。反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見過ごすこと、いや見抜くことである。

エゴを通してすべての人間の核心、本質である正気を見抜くのだ。(p133-136抜粋)


私が「ニュー・アース」を手にしたのは、(繰り返しで恐縮ですが)
落胆の出来事のあとにやってきた極度の落ち込み・心苦しさから抜け出したい!
との動機でした。
御蔭で随分と心が楽になり、過呼吸まで治ったというありがたき本なのですが、
読み進めるうちに「あれっ?これって創価脳やアンチ創価のための本?!」と思ったほど、
そのものズバリな傾向性が書かれている事に面食らったのが、この章でした。

不満はどれも心が作り出し、あなたが完全に信じ込んでいるささやかな物語である。
この個所を初めて読んだ時、心がざわついたのを覚えています。
環境や待遇、身近な人間に対して、自分自身の性格や容姿にまつわるコンプレックスなど、
人は大なり小なり「不満」をさまざま持っているもの。
(これらを持って生まれた「境涯」「宿命」と呼んでましたね)
それを「自分が完全に信じ込んでいるささやかな物語」って一体?!
自分が見ている世界を否定されているような・・お前が悩んでること・気にしていること・
問題にしてる事柄なんざ、とるに足りない小さなことだよ!と言われたようで
戸惑いを覚えました。
ニュー・アースに出会った当時の私は、(義実家問題で)「自分が酷い目に遭った」という
負の感情に支配されていました。
もう少し付け加えると「真面目にやってきた自分が、騙され・酷い目に遭わされた不条理感」です。
どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの!!という・・。
この負の感情が、私が覚醒した当時の、創価組織に対しての思いと似ていると気づきました。

この章を完全に理解できたのは、実はつい最近ですw
恨みは不満や精神的なラベル貼りに付随する感情
これ、全くその通りなんですね。

私の場合、昨年春ニュー・アースを読んだ当時、自分にこんなラベルを貼っていた。
「文句も言わず健気な”いい嫁”を演じてきたのに、姑にしてやられた不幸な私
「こっちに一分の落ち度もないのに、悪人に仕立て上げられた可哀そうな私

これを言いかえれば「被害者意識」です。

私の中のエゴが、自分を被害者に仕立て上げた。
”こんなに頑張ってきたのに、裏切られて可哀そうな私!”というw ←今だからwと
つけられます。

被害者意識に浸っている間というのは、ある意味「気持ちいい」のです。
不幸のヒーロー・ヒロインでいられるし、たとえば他人にそれを話すことで
「大変だったね」「かわいそうに」「相手が悪いね」などなど、同情を得る事も出来るかもしれない。
すると一瞬、自分の正当性を認めてもらえた気分になって「気持ちがいい」。
けどそれで傷が「癒える」とは限らない。 
場合によってはますます「可哀そうな私」増強に励んでしまうかもしれないw 誰が? エゴが。
前回紹介しました大嶋先生の本を読んでから、こんな風にも思うようになりました。
「被害者意識にしがみつくことも、ストレスホルモンを下げるのに丁度良かったのかもな」と。
ただ残念なことに、自分が自分を被害者だと思ってる間は、ずうーっと被害者のままです。
当たり前だけど。
そして、環境は「助け舟」なんか出してくれませんw
というか「助け舟」なんて、ありません。
唯一の解決策は「自分が被害者をやめること」だけなんです。

「私は自分の意志もないうちに入会させられた不幸な学会O世」というのも
自分へのラベル貼りです。
ラベルに「不幸な」って入れると、どんどん不満が湧いて出てきますよねw
親が悪い、じいさんばあさんが悪い、組織が悪い、過去のいまわしい思い出、云々と。

そして逆の現象もあって、今度は創価脳時代にちょっと戻ってみると
非学会員で悩みを持っている友人を目の前にした際
「仏法に出会っていないがために、希望を持てない、折伏すべき可哀そうな友人」とかw
「救ってあげなければ!」なんて思っていた人も、いたのではないでしょうか。
大きなお世話だよ! って、今となっては思えてきませんか?
これも立派な他者への「ラベル貼り」でしたね。
それを「慈悲」だなんて思っていましたが、実は違っていたのかもしれず、
相手を「不幸だ・可哀そうだ」なんて至極失礼で勝手なラベル貼りすることで、
実際のところは優越感を得ていたかもしれないのです。 
選民思想的な話になっていきますが。
前にも書いたように、救わなければならない・可哀そうな人はこの世には存在しません。
なぜなら全ての出来事は「高次から見て中立」だからです。
なんか、全部これ↑に行きついてる気がしますがw それほどこの「世界の見方」って重要です。

つまり、必要があってそこに「事(一般的にいうところの問題)」がおきている。
それを「不幸で不運な出来事だ」と評価しているのは、自身の主観であって、
自分に起きたことでも・他人に起きたことでも同じ。
こちらの一方的主観で勝手に相手を「可哀そう」だの「宿業の嵐が吹き荒れている」だの思うのは
違う。
その出来事が、先々どう転がっていくかはわからない。だのに勝手に「大変だ!」との
レッテルを貼り付けて騒ぎ立てるのは、ありもしない話をそうであるように仕立てあげていくのと
同じ事なのです。
他人が窮地に陥っているかに見える時、相手の求めに応じて出来る事は手伝えばいいけど
(自分が心にわだかまりなく出来ることだけを)、
しゃしゃり出て相手の出番を奪うような事をしたり、コントロールするような事はしなくていい・・
というか、すべきでは無いのです。
ましてや、自分自身の問題のごとく抱え込んでしまう必要なんて絶対ない。
「同苦」だなんて、自分の慈悲深さを相手に示そう的な教えもありましたが、大きなお世話です・・。
かといって、創価時代にやっちまった事(折伏、相手の為に御祈念、その他)を悔いることは
ありません。 
だって、その時は解らなかったし・「そうしなさい」って組織に教え込まれてただけだから。

エックハルトの言葉でいえば「自分のしていることがわからない」状態だったのです。
気付くことができたら、そこで終わり。 次へ進んだらいいのです。
(それを「過去の自分はバカだったまちがってた~!!そもそも親が悪い周囲が悪い!」って、
自分責め&環境責めするのは、エゴの仕業ですし・大嶋先生的にいえば、トラウマ回避です。)
くれぐれも、罪悪感をもたないように。
それがわだかまり・機能不全の原因となって、
あなたの人生を、いいものにはしないからです。


そしてどうせ自分にラベル貼りをするのなら
「生まれながらにしてラッキーな私・俺」にしておけばいいのです。 
上記は私の個人的な考えですが。
いま何かを持っていないから・何かに達していないから・過去の諸々があるから
「自分は幸せではない」なんて思いこまない・憂いを持たないことです。
”思い込みが現実を作っている” これは確かなことだから。
エックハルト氏が教えてくれているように、私たちは生命を持ってこの世に存在している・
呼吸と鼓動いう不思議が続いていること、
それだけでもう奇跡の体験者です。
無条件に幸いな存在なんです。

命ある幸いに全面降伏しなければ、いつまでたってもラットレースから抜け出せないし、
”あいつが悪いこいつが悪い、自分は馬鹿だった”等の不平不満をモチベーションに
生きていくことが是となってしまいます。
まあ↑この状態でも「生きているだけで丸儲け」には変わりないので、いいんですがw
どうせなら意識の使い方を変えて、わだかまらず・心穏やかに和やかに生きていくほうが
いいんじゃないかなーと思いながら、私はこのブログを続けています。

他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、
人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。


このパートに関して、「創価脳の迷惑行為を言い当ててる!」って
初めて読んだ当時は驚き・ほとほと感心しました。

私の話で言えば、このブログを立ち上げるきっかけにもなった、選挙投票日の当日確認w
(この記事に書いてます)
活動家における、投票日の当日確認という行動は「集団的エゴ」によるものです。
おそらく活動家本人は「集団的エゴ」に取付かれているだなんて気付いてない。
その団体に属し・近いところにいなければ、「当日確認をしよう」なんて発想・行動はまず無い。
というか完全に団体の・上からの指示でやってるわけで、ある意味コントロールされている。 
実際やってる本人は「自分が心からやりたくてやってる」わけじゃないんですよね。
誰に頼まれなくても自発的にやりたくて(当日確認)やってる、なんて人は皆無でしょう。
全部が「だって先生のため、党のため、幹部が言ってるから・組織のきまりだから」って
他人軸の理由。
本当はやりたくないけど、やっとけば功徳あるし・ 組織の人も喜ぶし」的な発想で
行動していると思われます(し、私も活動家時代を振り返ると同様でした)。
当時かなり怒っていた私は(この記事の中段以降にも書いてます)、実家にまで投票の有無を
問い合わせた本人をとっつかまえて、なんでそうしたのかを問いただしたい!と思っていました。
「当日確認の行動原理は、突き詰めたら何なのか?」って聞きたいとw
「果たしてそこまで必死になるような事なのかよ?」と。
だけど、おそらく活動家みんな自分でも行動原理はちゃんと分かってないと思いますし
(誰かに押しつけられた理由ばかりで、自分が心からやりたくてやった・・なんてことは
 100%出てこないでしょうね)、
答えに窮するでしょう。
繰り返しですが、活動家はエックハルトの言うとおり
「自分が何をしているか解っていない」のです。
(以前この記事で紹介した動画参照)
そしてこの、明確に説明できない行動原理こそ「集団的エゴ」のなせる業なのでしょう。

結局私は当日確認の相手を見つけ出す事も、問いただす事も出来ないまま組織を去りました。
が、このとき怒り心頭になったからブログを立ち上げたので、この出来事に遭ったことも
意味があったというか・・良かったのかもしれません?!w 
そしてこの時、私自身が、自分の中に確実にある「エゴ」に反応していたって事です。
もしエゴの構造を知っていれば「エゴに取りつかれた活動家のヤラカシ」と、一瞬イラっとしても
此処まで怒りはしないで、スルーできたと思います。
だって、相手は「自分のしていることがわかっていない」のだから。
怒鳴りつけた処で・どうおかしいのかを逐一糺してみた処で、暖簾に腕押し・糠に釘なのです。

”反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な
機能不全の表れだと認識できるときだけだ。
そのような行動が個人的なものでは無いと気付けば、相手個人に反応しようという衝動は
なくなる。そしてエゴに反応しないでいると、相手の正気、つまり条件づけられていない意識を
引き出せる場合が多い。”


つまり、活動家のしつこい家庭訪問だとか「あなたの為を思って云々」とかいうのは、
「集団的エゴ」による行動で、その人自身が本心からやりたくてやっていることではない
組織の刷り込みがなかったらそんな行動、絶対してないはずだからw
(正気の沙汰ではない)と捉え、スルーすればいいという事じゃないでしょうか。
こちらが深刻にとらえて、逐一イライラ・ムカムカ・ムキー!ってなる必要はないのです。
「ああ、集団的エゴに取りつかれてる人たちがやってきたなー」くらいの、ライトな反応で
いいと思います。 
そして、集団的エゴにとりあう必要も義務もないってことです。
まともに対応することが自分の気分を害することなら、放置すればいいのだし(=居留守など)。
それを申し訳ないとか思う必要なんて、みじんこもありません。
「考え方が変わったし、議論する気もないからもう来ないでね♪」って、しっかり伝えることも
いいと思います。
これは地域組織の人に限らず、創価脳の身内家族についても同じ対応でよろしいのでは
ないかと。

”反応しないのは決して弱さではなく、強さである。反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見過ごすこと、いや見抜くことである。”


相手の中にある「エゴ」を見抜けば、反応しないでいられるってことです。
「目覚めていない人たち」だとわかれば、許せる(スルーできる)ということです。

つい「対創価脳」について書いてしまいますがw これはすべての人間関係においても
言えることですね。
「なんでこんな事してくるんだろう?言ってくるんだろう?」とか、不愉快だなって思う態度の人間が
周囲にいたとして、その人のエゴに反応しないよう気をつける。
毅然と相手の行動のどこが不愉快か、やめてほしい旨、事実だけを相手に伝えれば良いんです。
そこに「感情」を絡めないことです(詳しくは次回の章で)。
その上で、相手は機能不全をおこしている、自分のしていることがわかっていないんだな・・と
とらえる。
きっと相手は、自分が自分のやっていることをわかっていないだけに苦しいのです。

また、相手の態度にイラっとしたり・モヤっとする・怒りを覚える・・などの反応に気付いたら
自分の中のエゴを見つけるチャンス。
相手の態度に自分を傷つけられた・損なわれた・脅かされた・馬鹿にされた・・と感じる時には
そこに「過去の思い込み・条件付け・レッテル貼り」を発見し、
癪に障る感情に付随する「自分の思考の背景」を探ってみるのです。
実は不遜な態度をとった相手のことをいくら掘ったって、憶測ばかりで不愉快になるだけです。
反応した「自分の内側」にしか、解決策は見つからないのです。
すると、本当はさして相手に悪気がないことに気づけたり・ことさら自分が相手の態度や
言葉をネガティブなものと受け取っていることに気づいたりと、思いもかけなかった別の側面が
見えてくるものです。
その「気づき」が、「いまここ」からの展開を変えていく。
悪い評価しかできず、恨みを抱いたり一方的な不満を抱くような状況が、うってかわって
良い方向・印象へ変わることもあります。すると「いまここ」から先の状態をより良いものに
変えるんです。 
先の未来だけではない、忌まわしい・振り返りたくないと思っていた過去までも、あの時間が
あったからここへ繋がったんだ・・と、感謝であったり・良い思い出(評価)に変わります。
これは現実に、起こせることです。
これを「一念三千」っていうのでしょう。
トランス状態になるほど題目あげなくてもw エゴに気付くだけで・観察するだけで
その境地に行くことができるんだと、私は「ニュー・アース」やバシャールの本から学び、
深い感銘を覚えました。
そして現実に、自分がそれを体験できているから、すごいよって伝えたくてブログを書いています。

誰かや何かを悪者にして自分を被害者にしておければ、ある意味「楽」です。
(戦わなくてもいいものと戦ったりわだかまったりと、精神的にはシンドイでしょうが・・)
でも、被害者を辞めれば心が本当に、別次元の「楽」になる。
わだかまりが激減し、精神的にもおだやかになり、身辺状況もなだらかなものへと
変わってきます。 
これは私がこの一年を通じて人体実験wして検証済みです。

どんな状態も、自分で選べるし、実際もう選んでいる。
それが「いま」です。
現状つらい思いを抱えている人も・苦しい人も、絶対に大丈夫だから、
まずは自分へのネガティブなレッテル貼りを、やめてみてください。
命ある幸いを確認し、「いま」自分の内面状態を整える。
(前回書いた、思考を止めてお茶でも飲んで「凪」へ移行)
まずはそこから始めてみるとよいと思います。

(次回に続きます)

脳の過覚醒から凪へ

前回記事の終わりで紹介しましたこちらの本。
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それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも? [ 大嶋信頼 ]
価格:1728円(税込、送料無料) (2017/3/16時点)



まず、私がこの本を手にした切っ掛けを。
昨年1月、義実家の諸問題から、精神的ショックを受けた私は過呼吸になりました。
症状が落ち着いたのが4月後半だったんですが(「ニュー・アース」のおかげです・後述)
渦中、疑問に思っていた事があり。
過呼吸が出るのが、必ずといっていいほど夜。私一人の「リラックス時」だったことです。
日中さまざま用事をしたり・家族や友人と居る時、車の運転中や買い物中は、絶対にない。 
本来、一番リラックスするというか「ほっとできる時間」のはずなのに、調子が悪くなる。
私は心療内科ではなく、漢方薬局で処方と指導をうけていたので、
そちらでも相談したのですが「リラックス時に症状が出る人は多い」という回答でw
「気にするな」ってそれだけで、腑に落ちないわーって、モヤっとしていました。
昨年夏に、本当にふと
「そういえば偽本尊を怖がってた時期、一人時間になったら吐き気やめまいで辛かった」
この記事の最初に書いてます
「女子部時代にも、男子部の馬鹿幹部に説教されたショックで会合に行けなくなった時、
 (この記事に書いてます) 夜の7-10時(会合時間帯)になると息苦しく動悸がするから、
家にいたくなくて、しばらく毎日のように退社後遊びに行ってたわ!」
と、過去にも「リラックス時の不定愁訴」があったと思いだしたのです。
これは絶対になんかある!因果関係あるはず!と、初めて調べるに至り。
ぐぐった時に見つけたのが本書のレビュー。
早速読んでみたら、私が感じた疑問の答えが書いてあって「やっぱり!」。
そして、「ニュー・アース」に出会う前の私が感じていた生きづらさや、
悩んでいた・壁にぶちあたっていた事の謎ときが見事なまでにされており、
鳥肌&驚愕したのです。

本書はタイトル通り、トラウマによって巻き起こる脳・心身メカニズムをわかりやすく・
多数の興味深い症例を紹介&克服方法についても書かれています。
実際に読んでもらうのが一番ですし、多岐にわたる内容を此処で説明するのは無理です。
ごく一部分を紹介しているという前提をふまえていただき、記事をお読みください。

トラウマとは「記憶にない恐怖」を指すんだそうです。

そして「トラウマ」が引き起こしている状態が
「脳の過覚醒」とあります。
この、「脳の過覚醒」が実に様々な症状・状態を引き起こしている。
そしてこれ「自分で引き起こしている(自分で止められる)」という事を、
よっぽどのことでもないと自分じゃ気付けないのが厄介です。

この本を読んで私が思い当たったのは
「創価脳(元・現役)も、大半がトラウマによって
 ”脳の過覚醒”をおこしているのではないか?」

ということでした。

以下内容は、私の勝手な解釈で、本書を「創価脳」向けに読みといてみたものです。
超長文になりました、読みづらいと思います、すみません。

トラウマの原因は、主に幼少期「死」に直面するような恐怖感を体験したことにあり
(長時間一人ぼっち・夜間留守番させられた・ よその家に預けられた、
親の大喧嘩や暴力を見た、大きな音・大声等も、 乳幼児にとっては死に直面するような恐怖に
値するそうです・・これって、福子がどれか1つは経験していそうな事ですよね)
(注:子供時代に限らず、成人後でも衝撃的な出来事からトラウマ化する事があります。
 本書の、帰還した日本兵の話を参照)
「衝撃が大きすぎて記憶を脳が処理しきれなかったため、
 いつまでも恐怖だけが残り続けている
状態を指します。
つまり、そのときの恐怖は既に「過去の出来事」なのに、脳内で処理されなかったが為に
ずーっと「いま」恐怖と対峙しているような状態が継続しているということです。

(脳のメカニズム等、詳細は本書参照)

トラウマをもっている人の脳は、普通の人(トラウマなし)とは違い、
安静時ほどストレスホルモンが急上昇して、身体症状が出る(←私の不定愁訴はまさにこれ。
日常多忙な時は元気で、休みになると体調を崩すタイプも、同じかと思いますし、
これが更に酷くなると、パニック障害やうつ病になってしまうようです)。
リラックス時ほど緊張が高まるようになっている、これは普通の人と逆なんだそうです。
安静時になると「恐怖」を思い出してしまう!ヤバイ!と、回避のスイッチが入る。
トラウマ恐怖を思い出さないために、不快な体験を思い浮かべる。
そうすることでストレスホルモンが下がるという、なんとも皮肉なメカニズムで
”ストレスホルモンを下げるために、不快なストレス刺激を四六時中自分にかけ続けている”
との事。
つまり休むことなく「ずぅーっと」頭の中はビジー・興奮状態。
それも、ほぼネガティブなこと(=そのほうが、ストレスホルモンが下がるから)。
不愉快でおもしろくないこと。外部他者・社会への攻撃や反感。自己卑下。
未来への漠然とした不安、過去にあった嫌なシーン(フラッシュバック)、不満などなど。 
(これ、ぜーんぶ「いまここ」にないことです。そして見事に「エゴ」の好物ばかり!)
脳が、トラウマとなっている不安や恐怖を思い出したくないがため、
静寂や凪の状態に耐えられないから、嫌なことを思いだしたり・怒ってみたり・
考えたりするという、驚くべき状態が起こっているのです。
つまり、過覚醒の脳は「凪」(安静状態)を知らないというか・知っていても排除しているのです。

創価がどうこう、の問題以前で
不安や暗い考えばっかり浮かぶ、むしゃくしゃする、悪いニュースに反応しやすい、
(不幸・不穏なニュースをピックアップして読むことが多い)、
くよくよ過去をひきずりがちだとか、ネガティブ思考だって人は
「元から持った性格の問題」ではなくて、「トラウマ恐怖回避」の為そうなってる場合も
あるってことです。

たとえば創価の矛盾に気付いた人で、時間が経ってもその問題から離れられず、
何かとわだかまり続けることも、「脳の過覚醒」状態ではないかと。
今現在の私が、創価系ブログを拝見すると「ある種の興奮状態」
感じることがあります。 まあ、怒ってる内容だから当然といえば当然ですが@興奮。 
この「怒りを持ち続ける」状態も、トラウマ恐怖を回避するシステムなのだとありました
(これも非常に興味深かったです・・詳しくは本書参照)。
ブログを書くときって「他にやることが無い時間」 つまり余暇で、リラックスタイムですよね。
わざわざ、自分の自由な時間を使って「不愉快で面白くない創価問題」に向き合い
「わだかまり」続けている=それはストレスホルモンを下げるための行動ではないか?
何もブログを書いている人だけではありません、それを偶然目にするとかではなく、
「わざわざ読みに行っている人(読者)」も、同じメカニズムにハマってるんじゃないかな~?と、
これは私の経験上の所感です。
(注:自分の楽しみとして、ウッキウキしながら笑顔で書いてる&読んでる人は例外ですw)

また、活動家時代において、脳の「凪」状態はなかった気がするのです。
子供時代からのことを丁寧に思い返してみると、
私の場合、常に「不安」を大なり小なり持っていました(だから信仰から離れなかった)。
不安なんてどこにもない、脳の「凪」状態や「安静」を、
全く知らなかったとも言えます。

四六時中、暗い事ばかり考えてたわけではないにしても、「宿業」という「原罪」を抱え、
自分は信仰や創価から離れてはいけない。 離れたらろくなことにならない・・と
自分が自分を見張っているような精神状態・緊張感は、確かにずーっとありました。
そんな風に意識が働いている間は、リラックスなんて無いも同然。
リラックスって、頭の中をからっぽ・クリアにして緩むことなんですが、
私は長らく、少なくとも「ニュー・アース」に出会うまで「そんな風になってはダメだ」と
思っていました。 
リラックスとは、横になったり・ソファに寝そべったり、体勢(身体)を楽にすることであって、
頭の中まで何も考えないで「休む」だなんて、思いもしなかったw
それこそが「脳の過覚醒」で、考えるのをやめたら怖い事が起こる・・というような
自覚のない強迫観念・トラウマがそうさせていたのかもしれません。

創価脳における、「記憶にないトラウマ」となるような因子について考えると、
仏罰なんかその代表例ですし、返す返すも幼少期から「恐怖と罪悪感」をこれでもか!と
いうほど刷り込まれる教義だったな・・と思うのです。
もちろん脅しばかりではありません。脅しばっかりなら、子供は信じませんからw
「何でも願いが叶う」「願いとして叶わざる」「無限の可能性」などの夢も見せてくれました。
その反対側、の話。 いわゆる、アメとムチ。
「忘恩の輩」「恩知らずは餓鬼畜生にも劣る」「魔」の存在、
「仏敵を責め抜かなければ無間地獄」
「悩乱するもの頭七分に破る」「三災七難・無間大城」
 ・・どんだけ出てくるんだよw
アメよりムチのほうが多かったんじゃないかってくらい。もう、強迫観念ハンパなし。
わだかまりのない・ニュートラルな心理状態など、活動家時代にありませんでした。
そんなもの持っていたら「闘い」モードになりませんから、絶対にそうならないシステムでも
敷かれてたんじゃないかとw
実際、直接的では無くとも常に闘いを要求され「脅されっぱなし」でしたよね。
爺様の指導にも「間断なき仏と魔の闘い」なんて言葉がありましたが、
一瞬も気を緩めることのできない・闘うべき仮想敵をいくつも周囲にはべらせた、
「常在戦場」が創価脳のデフォルトであることは周知のとおりです。
→ちょっと噛み砕いて書くと、「友人に対話しなきゃ」「票をお願いしなきゃ」「会合行かなきゃ」
「新聞推進しなきゃ」「活動家増やさなきゃ」「もっとお題目上げなきゃ」・・etc 
それをやらなかったらどうなるのか?「魔に食い破られる!」「生活に障る」云々。
行動動機の背景にあったものが突き詰めれば、「トラウマ恐怖」だったということであり、
そんな環境を「常在戦場」と呼んでもいいと私は思います。 

創価脳もアンチ創価脳も、攻撃的になりやすいのは、
上記した環境下におかれていた(いる) せいで「脳の過覚醒がデフォルト」だからでは?
トラウマ(仏罰)恐怖を回避するための、脳がずーっと興奮状態。
不愉快なのに(創価)問題から離れられない、情報収集しないと落ち着かない、
せっかく創価から離れられたのに、ずっと監視していないと気が済まない。
何かをやり玉に挙げることで「安心」を得ている、無意識に。
それらはトラウマ恐怖と向き合わないための、無意識の行動なのです(たぶん)。

「仏罰なんて怖くないから、自分にはトラウマ関係ない!」って方もいるかもしれませんね。
なにもトラウマの原因は、仏罰だけでは無いのです。
他にもいろーんなトラウマがあって
「親から見捨てられる恐怖」「嫌われる恐怖」「死の恐怖」「居場所を失う恐怖」「殺される恐怖」
「孤独の恐怖」 「貧困の恐怖」 
家庭環境や人生経験で千差万別、人それぞれ異なります。
創価と直接関係のない「トラウマ」が、恐怖回避の為に創価問題を使ってストレスホルモンを
下げているという、可能性もあるのです。

そして、脳の過覚醒を止める方法についてですが、ざっくり書くと
「トラウマとなっている恐怖に浸ってみる」事で
方法について詳しくは本書を読んでください。
(一部レビューに方法そのまま書いてありますが・・説明不十分かと思いますので、本書参照を
推奨します)
トラウマだと思っているそれが「恐怖じゃない」って気付いたら
脳の過覚醒がおさまって「凪」へ移行するとあります。

「凪」とは文字通り、風にそよぐような・心地よい状態です。
頭の中が平穏で、楽~な状態。
何の不安もなく、心底リラックスできている状態。
私思うに、
「恐怖は”いまここ”にない」って感じて認めている、
「恐怖」は自分の思考が作り出した幻想だと理解していること

だと捉えています。

で、大嶋先生提唱の方法と同じ効果がある(と私は思った)のが、
エックハルト氏が提唱している「思考を止める」です。

「脳の過覚醒」該当者は、「思考を止める」ことが出来ないタイプ。
「考えるのをやめるなんて、馬鹿になってしまう・騙されるかもしれない・損するかも」などの
「いまここ」にない不安や恐怖や懸念が浮かぶとか、抵抗感があるというなら
過覚醒の傾向があります。
あと、教学が大好きで自分を作り上げてきた・ここまでやってこれたんだ!
というような、勉強大好き(頭でっかち)思考優先タイプも、陥りやすいのではないかと。
理論武装大好きなタイプも要注意でしょうねw 
余談ですが、アンチ創価まわりでよく使われる「思考停止」って言葉に過剰反応し、
「今まで騙されてきたのは、自分が余りにも考えなさすぎて、信じ切ってしまったせいだ!
 これからはどんなことも、仔細に沢山考えるぞ!」なんて決意して、更なる脳の過覚醒に
繋げてしまった人もいるかもしれません(=過去の私)。
以前も書いたんですが、それ「思考停止」じゃなくて「思考奪取状態」でした。
創価脳アプリが搭載された思考自体は、まったく停止なんてしておらず
この記事「変化をもたらすためのツール」章に書きました)。
むしろフルスロットルで「広布拡大」について考えていたはずですw
考えてどうにかなったものではなく、ただ思考のしすぎで「閃き」に従えなかった・
違和感を無視していただけなのです。

思考を止めて「凪」を知れば、実はもっと早く創価の矛盾に気付けたかもしれないw
この件は長くなるので後日「ニュー・アース」記事の中で触れます。

私は昨年4月に「ニュー・アース」を読み、だまされたと思って日常的に思考を止めてみたり
「~と、エゴが申しております」と付け加えることをやってみて、劇的に気分よく暮らせるように
なりました。 
思考を止める習慣によって、「凪」状態を、生まれて初めてレベルで知ることができたのです。
思考を止めるをやってみたことで、前述のとおり、それまで悩まされていた過呼吸が
いつの間にか出なくなりました。
「いまここ」になんの問題もなく、頭の中の騒がしい声は全部「エゴ」で、幻想なんだ・・って
解ったら、気持ちがとても楽になる。
要はトラウマも同じことで、
その記憶にない恐怖も「いまここ」には無いものです。
過去に脳が処理しきれなかった・得体のしれない「不安」
それって=「幻想」です。

幻想なんて嘘だ!不安も恐怖も恨みつらみも事実だ!って、拘って離れられない人は、
過去にとらわれすぎで「いま」にない人でしょう。
「ニュー・アース」第五章「過去にこだわる」を読み、自分の状態を理解するといいと思います。
 
過覚醒の脳は、ずっとフル回転であれやこれや、忙しく働いて問題を探し創り出します。
エックハルト風に言うなら「エゴにとりつかれている」状態です。
「思考を止め」て「いまここ」を意識してみれば、頭の中に静寂が訪れるはずです。
だって、思考フルスロットルの中身は大半が「いま」にないことばかり。
自分がこの目で見たわけじゃない憶測、この目で見た”過去”、妄想の未来、その他もろもろ。 
創価問題にせよ、自分を不安や憂鬱で嫌な気分にさせている問題の大半は
全部「もう終わったこと」または「まだ起きてないこと」ですよね。
冷静に思考を見つめてみれば、「いま」何を思い悩む必要があるんだろう? と、なるはずです。
「終わったこと(過去)」「まだ起きてないこと(未来)」に、ワクワクしたり・楽しかったな~♪など
単純に良き思い出に浸るのは、まだ精神衛生上よいことですが、
過去と未来に嫌な思いをさせられる(正しくは、自分がやっている)のは、何の得にもなりません。
精神衛生上、もっともよろしくないことです。
繰り返しですが、「いまここ」にないことは全部幻想です。
つまり創価問題(あなたが問題だと感じて腹を立てたり・ゆゆしき事態だと思ってる事・
自分以外の他人のこと・過去の恨みつらみ)も、ぜーんぶ幻想です。
幻想に向かって、文句を言い続けたり、やり場のない怒りをくすぶらせたり、機嫌悪くなっている。
いわば自作自演です。
そのことに「気付き」、忌々しいと感じてるその思考を、止めるだけでいいのです。

私がしつこくこの事を書くのは、結局わだかまりは「自分いじめ」だからなのです。
(この件に関しても「ニュー・アース」記事の中で書いて行きたいと思います。) 
心当たりの方は”思考を止める・「いまここ」に問題は無い確認” 是非やってみてください。
早ければ2~3週間で効果を感じられると思います。

次に「他人軸」の原因もトラウマによる脳の過覚醒にあるというお話。

本書によれば、キャパオーバーな・トラウマ化するような恐怖を感じると、
意識が真っ白に飛んで、自分を抜けだし相手に憑依するというのです(解離状態)。
自分が酷い目にあっていることを受け止めきれず、耐えられないから
脳が意識をとばして「他人事」のようにその状況を「客観視」する。
たとえば子供が親に怒られている時、恐怖で意識が解離して親に入り込む(憑依する)から、
怒っている親の気持ちが手に取るように解ってしまう(そして自分の気持ちは感じにくい)。
なので、子供の頃にそのような目にあった人は映像でそのシーンを記憶している事が多い。
自分が親から暴言や暴力を受けているそのシーンを俯瞰で見ている・まるで自分が主人公の
映画のごとく、映像で覚えているのだと。
私、ここを読んで鳥肌が立ちました。
実際に、私も子供時代の辛い体験が俯瞰の映像記憶で残っているからです。
この傾向にある人は、相手(他人)になり変わることで、自分のトラウマ恐怖を回避しています。
相手の気持ちを想像していれば、自分の中にある“恐怖”に注目しないでいられるから。

依存的な人間関係に陥った場合、悪意の相手の言いなりになる傾向があるとのこと。
自分の意志や意識の介在しないところで、相手に憑依し勝手に先回りで「相手に良かれ」と
行動するため、ふと気付いたとき「あれっ?私、なんでこんな事してるんだろう?!」となる。
そこに「自分(の意識・気持ち)」が介在していないことを自覚していない。
やりたくてやっているわけではないため、達成感は当然薄く、不条理な思いをしたり、
なんでこんな目に遭わなきゃいけない?私ばっかり損な役回り・・と不満・不審が募る。
また、「相手から見た自分」が全ての評価基準になるため、常に反応を気にして動くことになる。
「自分がどうしたいか」よりも「相手の反応」が優位になっている。
まさに「他人軸」です。 
なにも虐待や暴力というような強い経験じゃなくても、
「教義教条」と「罰論」で長期にわたって精神的に抑圧されてきた福子が
他人軸に陥りがちなのは、やはり仏罰その他のトラウマ起因ではないか・・?と感じました。
大人になった今でも「親が怖い」という人が、創価脳には結構多いですしね。
過去の私も含め、女子部時代の同志がダメンズ相手に不毛に尽くしすぎるとかw
自分の事なんてそっちのけで、折伏の相手にひたむきにアプローチするとか、
他人に利用されやすかった事などなど・・が思い出されます。
純真な青年部がそうしていたのは、なにも福運がほしかったんじゃなくて
相手のことを考えたり祈ってる間、「自分の中の恐怖」に向き合わなくて済むからだったのか?!
と、今となっては感じてしまうのです。

何が自分をそう(過覚醒に)させているのか・根底にあるトラウマ恐怖を探ってみる場合、
探しだすとあれもこれもと出てきて、最初は不安になってしまうかもしれませんが、
そんな時は「思考を止める」「いまここ」を強く意識することをお勧めしたいです。

トラウマの人の過覚醒の脳はものすごい能力を発揮している。
なぜなら、想像したことが、どんどん現実になってしまうのだから。
でも、残念なことに、トラウマの人は「自分がこの現象を創り出している!」という自覚が無い。
自分が作り出している現象なのに「自分は不幸な星の下で生まれ、もがき苦しみ続けて
生きるしかない」と心のどこかで思っている。
いつも、次から次へと襲ってくる不幸な出来事に対処し続けなければならず、
常に「先のこと!先のこと!」を考えてこれから起こりうる不幸に備えていなければならない。
(p218抜粋)


ここを読んだ時、まさに「思考の現実化」だと感じました。
人間の脳にはどんな思考をも現実にする能力が備わっている、ということです。
だから、何度も書いてますが、普段何を考えてる・どんな観念で居るかってすごく重要で
怖いことでもあるんです。
「難を乗り越えるための信心」なんて思ってたら、その通り難が来るんですw 
これリアルですよね・・「宿業出させてください」なんて、絶対祈っちゃダメでしょう。
そんなもん(宿業)、最初っからないのにw 無実の罪をかぶってるようなもので・
自ら不幸を作りだしているようなもんなのです。
「闘わせてください」と祈れ、とかいう指導もありましたよね・・全く、ろくでもなかったなとw

また、考えようによっては、もと創価脳は「信じ込む」特性をうまく使うことが出来れば
ポジティブな願望も現実化しやすい、と言えると思うのです←朗報w
なので、自信を持ちましょう!と私は言いたい。
そのためには、前回もちらっと書きましたが、観念を入れ変えること。
わくわくやポジティブを「でも」「だって」「どうせ」「以前こうだったああだった」で
打ち消さないための、徹底したネガティブクリーニング&「いまここ」を意識することが
大事になってきます。 これは、いずれ別カテで書いていきます。

で、「こんなトラウマ植えつけたのは組織(または創価脳な親)じゃねえか!
許すまじムキー!」って、一瞬怒ったり、爺様の写真にラクガキ&踏み絵するなどw
その他ストレス解消するのは大いに賛成だけれども、
怒り恨みつらみ状態を「長々と引きずらない」でくださいね、くれぐれも。
それ、過覚醒です(=エゴに取りつかれた状態です)。
怒り自体は、決して悪いことではないのです。そのことによって自分の腹の底の思いや願いに
気付ける事もあるからです。
ただ、それを「くすぶらせて長々と持ち続ける」のは、エゴに燃料をやっているようなもの。
(まあ、引きずるのは個人の自由だしw それが生きがいというなら止めません)
また、「トラウマをもっている私」というレッテルを自分に貼り付けて、それに浸らないでください。
自分を不幸のヒーロー・ヒロインに仕立て上げないでください。それはエゴの仕業と気付きましょう。
新しいエゴの創出のために、この本を紹介したわけじゃないのです。
あくまでも「あなたのイライラ・くよくよの原因、脳の過覚醒だから。それ、自分で止められるよ!」
という、希望的アドバイスのために私は本書を紹介したくなったのです。

「いま」にないことで、自分の気分を害することほど、馬鹿げた・アホらしい事はありません。
(それを教えてくれるのが「ニュー・アース」です。)

本書は「どうしてそうなったのか」「自分に何がおきているのか」謎ときをしてくれるので、
理由が解るだけでも安心できるすごい本です。
以前にも書きましたが、私は「過去」にものすごく執着する人間でした。(この記事
その原因も、本書で「トラウマのせいだったんだな」って気付いたら、更に楽になれた。
「ニュー・アース」と通ずるところも多々あって、私は非常に唸らされました。 

過去をくよくよ悩んだり・あれが悪かったこれがよくなかった・あいつのせいこいつのせい!
ムキー!!! ってなった時は、気付きましょう。
「あ、脳が過覚醒してるな」
「いま自分、思考フルスロットルだな」
「はい、休憩~!」って。
お茶でも飲んでゆっくり、思考を止めて過覚醒から凪へ行きましょう。
それだけでも、かなりあなたの生活の質は向上すると思います。
全ては自分次第です。



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ニュー・アース 第三章(1)

第三章
「エゴを乗り越えるために理解すべきこと」


エゴの構造

大抵の人は頭の中の声~自分でも意図しない強迫的で絶え間ない思考の流れと
それに付随する感情~に完全に自分を同一化している。
自分の心に取りつかれている状態、といってもいいだろう。
そんな状態であることに気付いていなければ、頭の中の思考の主が自分だと思いこむ。
その思考の主は、エゴイスティックな心である。(中略)
あなたの思考、あなたの心の中身は、もちろん育ちや文化や家族的な背景などの
過去に条件づけられている。

全ての心の活動の核心は繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンで
できていて、人はそこに最も強く自分を同一化している。それがエゴそのものである。

ほとんどの場合、あなたが「私(I)」という時は、エゴがそう言っているのであって
あなた自身では無い。これはいままで見てきたとおりだ。
エゴを形成しているのは思考と感情、あなたが「私と私の物語」として自分を同一化している
記憶の集積、知らず知らずに演じている習慣的な役割、それに国籍や宗教、人種、
社会階層、政治的党派などの集団的アイデンテティである。
そこにはまた、所有物ばかりでなく見解、外見、積もった恨み、優越感や劣等感、
成功や失敗という個人的なアイデンテティも含まれる。
エゴの中身はひとによってさまざまだが、どのエゴでも同じ構造が作用している。
いいかえれば、エゴの違いは表面だけで、根底ではどれも同じだ。
ではどういう風に同じなのか?
どれも同一化と分離によって生きながらえている。(中略)

エゴが「私(I)」という思考を支えるには、その対極の思考である「他者」が必要だ。
「私(I)」という概念は、「他者」という概念が無いと生き延びられない。
その他者は、「私(I)」が敵とみなした時に最も確かな存在になる。

この無意識のエゴイスティックなパターンのものさしが一方の端に在るのは、人の過ちを
あげつらい、不満を言うエゴイスティックで脅迫的な習慣だ。
イエスが「あなたは兄弟の目に在るちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には
気付かないのか?」と言ったのも、このことを出している。
物差しのもう一方の端には、個人間の物理的暴力や国家間の戦争がある。
聖書では、先のイエスの問いには答えが書かれていないが、もちろん答えは
こういう事である。
”他者を批判したり非難したりすると、自分が大きく優れていると感じられるから。”
(p129-132抜粋)


前半部は、これまでのおさらい的にエゴのあらまし・性質について述べられています。
人間は唯のエネルギー(魂=大いなる存在)であるところ、3次元に出生したその日から
様々なもの(=アイデンテティ)を身にくっつけていく。
日々のドラマがアイデンテティを形成し、「個人」「私」となっていく。
全ての心の活動の核心は繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンで
できていて、人はそこに最も強く自分を同一化している。それがエゴそのものである。

とある中で、
「繰り返ししつこく反復され」て出来上がるものとして「観念」もあります。

ここで脱線。本文から離れますが、
私がエックハルト氏の本に出会った後、さらに知識を広げるべく「宇宙の法則」が
書かれた本をいくつか読みました。
津留晃一さんやバシャール、セス(という宇宙存在)の本には
”「観念」が現実を作っている”という事が、それぞれの表現で書かれています。
思考の現実化・願望の現実化についても「観念」が重要なカギを握っていて、
3者の言っていることを総合すると「自分は無価値だ」「自分はダメな人間だ」というような
ネガティブな観念をもっていることが、一番よろしくないとあります。
(観念=思い込み)
ネガティブ観念が基底部にあることで、自分が自分に制限をかけているという説。
私はこの説にとても納得したというか、これまでの自分の人生振り返ってもまさにそうだったので
「知りたかった答えがあった!」と、非常にワクワクしました。
ネガティブな観念をもっている人がいくら「仕事で一番になりたい」「モテたい」
「人気者になりたい」「好きな人に愛されたい」「お金持ちになりたい」なんて願っても、
観念が現実を作っているだけに、目の前に望む状況は中々現れません。
何かの拍子に、まぐれのようにその状況が現れても、チャンスをものにできなかったり・
長続きせずに終わってしまうのは、望みよりも「観念」が勝つから。
「観念」のほうが強いから、「望み」を叶えることを許可しないというのです。

そして「自分には価値がある」「自分は幸いである」という、
願望成就に必須のポジティブな観念は
「他者への尽きない恨み」にフォーカスしている間は表出し難い・・ともあるのです。
(ネガティブな感情は、観念が創り出している故)
ざっくりいえば「全てが繋がっているから」なのですが、詳しくはニュー・アースを
全編読んでもらえれば解ると思います。
なので自分の望んでいることと一切・直接の関係がないようであっても、
創価にまつわる問題(それ以外のなんでも・・自分を不愉快にさせるテーマ)に
ガチンコで固執し・深刻に取りあったり、ネガティブな感情を向け・長々時間を費やすことは
人生において時間の無駄で、辞めた方が無難です。
(お笑いネタとしてヲチする程度は、問題ないとおもいますが)
組織も大本営も無視していれば、集団的エゴはいずれは崩壊するんですからw 
無駄に気にかけて・イライラムシャクシャなんてせずに、放っておけばいいのです。
そして自分の人生の創造に集中するほうが、同じ時間を過ごすにしても有用です。
ここで全てを説明するのは無理があるので、願望成就や引き寄せに興味のある方は
バシャールの本やブログを是非読んでみてください。
引き寄せではエイブラハムの本も有名ですが、エゴのなんたるかを理解し・
エゴにふりまわされなくなってから読まないと、実践はただ苦しいだけだと思いますw 
願望成就の為には、徹底的な「ネガティブクリーニング」が必要なんだということが
最近の私の気付きです。 
「ニュー・アース」はその大きな助けになる、全ての基本と私は捉えています。


上に紹介した本のうち、セスが一番難解で、津留晃一さん、バシャールの順。
私的に内容に一番感銘を受けたというか・凄い・・!と思ったのはセスですが
(「セスは語る」「セス・ブック」の2冊が出ています。
1970年代に「カルマ(前世の業)は無いし、それを理由に帰依をあおる宗教は
ろくでもない(要旨)」と言いきっています。一念三千の真の解釈はこれなんだなー!と
感動した内容もありました・・ちなみに日本にこの本が入ってきたのは1999年です)
意識や感情の使い方については、バシャールが一番解りやすいと思います。
この話(願望実現)については、「ニュー・アース」とはテーマが異なりますので、
追々別カテゴリで書いてみたいと思っています。

話を元に戻して、後半部はちょっと耳の痛い真実が述べられています。
「私」を認識するための「他者」が必要、比較の世界です。
自分より相手がいいもの持ってる・優れてると感じれば憧れがいつしか嫉妬になったり・・
逆は優越感をもたらす。
他者は、「私(I)」が敵とみなした時に最も確かな存在になる。
とありますが、集団的エゴが常に「仮想敵」を用意して組織の統率をはかろうとするのは、
各個人の中に確かにある「エゴ」をうまく利用するためだと言えると思います。
(創価で言えば、宗門ですしかつての阿部法主ですねw)
敵(悪)を設定する事は、自身の正義感を高める=最も確かな「私」を確立できる、と。
その敵がいる限り、自分は正しいままでいられるから、責め続けもするし
執着もしますよね。 なんとも、わかりやすい仕組みです。
本当にエックハルト氏は、なんでも解ってるんだなぁ~と、感嘆します。

そして締めにこれ。
”他者を批判したり非難したりすると、自分が大きく優れていると感じられるから。”
これは一般世間においていえば、人間関係の中でしょっちゅう見聞きすることですよねw
バリ活がアンチを叩くのも、アンチ創価がバリ活を叩くのも、同じ理由からでしょう。

余談ですが、昨年、創価脳ブロガーどうしが叩きあう、という実に面白い状況wを
見かけたのですが、両者ともに「ニュー・アース」を読んで欲しいと思いました。
御書をいくら学んでも、毎日のSPや・爺様の著書や随筆を何百冊wと読んでも、
残念ながらエゴに気付く事は、なかなか出来ないのです。
(私も創価脳時代、そうだったから人の事は言えませんけどw)
それどころか、宗教依存はエゴをますます強化していた・・というお粗末さでした。

それとかなり前にも書いたかと思いますが、アンチ創価の内であっても
「非活なんてぬるい。脱会してこそ一人前だ(?)」みたいなことを
言う人がいたりするようですが(呆)、そんな事はいうまでもなく瑣末です。
自分が自分に納得していればそれでよくて、自分と折り合いがついていれば
他人の事なんか実はどうでもいいはずなのに
何故か他者と比較・差別に持っていきたがるということは、やはりエゴがそうさせており
「自分が大きく優れていると感じたい」 のでしょう。
または、わだかまりから他者を攻撃する反応が出ていると思われます。

年始にも「脱会したいのに諸事情で出来ない」とのお悩みコメントにお返事記事を
書かせてもらいましたが、
いま悩まれている方は、悩まなくてもいいんじゃないでしょうか。
脱会なんかしなくても・非活(金銭供与なし)で全然問題無いと、私は思います。
気持ちが全くないのに「会員」でいつづけることが気持ち悪い!というのは理解できます。
が、それも「組織に属している私」というアイデンテティに抵抗するエゴだと俯瞰すれば
「どーでもいいな」って、思えてきませんでしょうか?!
「いまここ」に、非活だから・脱会していないからって問題は何もないはずです。
頭の中に「早く脱会したい!」って焦るようなエゴの声が渦巻いているだけの話。
あなたは、あなたでしかありません。

実際のところ「脱会した」って言えば、家庭訪問が無くなる・・メリットはその程度かと。
けど、地域の雰囲気によっては、脱会後でも訪問され選挙やSP購読を頼まれたりすることが
普通に在るらしいですよw 
なので、脱会で完全に地域の人から無視してもらえるとも言い切れない?!
「脱会」に何を望むかは人それぞれですが・・殊更焦らなくてもいいと私個人的には思います。
外野の声なんて気にしないでください、どうでもいいことです。

また、誰か(親)を理由に、脱会できなくて忌々しい・・とわだかまるのもやめることです。
実はそれ、誰かのせいではありません。 
自分が「親の手前、脱会できない」という観念を握っているから、です。
「脱会したら外野がうるさい・もめごとがおこる」という観念も、あるかもしれませんね。
その観念を変えさえすれば、明日にでも脱会届を出せます。
観念を変えるのは大げさなことじゃなくて実に簡単なことです、
「脱会しても何の問題もおこらない」と自分が決めるだけ。
が、無理しなくても、誰人にも「脱会にちょうどいい時」が、必ずやってきますから
気持ちが不安でハカハカしている間は、じっとしておけば大丈夫。
大切なのは何事も「いちいち気に病まない・問題にしないこと」です。

だいたい脱会して統監名簿落ちなんて、実際本当にしているかどうか
わかったもんじゃないなと、脱会してみて私は思うくらいでw
だっていまや貴重な「個人情報」ですよw 
こいつ脱会した、とマークぐらいはつけているでしょうが
データとしては消去なんかせずに、「脱会者リスト」的に、そのまま保存されていても
不思議はないかと。 
厳格な運用基準も、表向きは企業じゃないからなさそーだし?!
(もし本部関係者でこのブログをお読みの方がいらしたら、実際のところを教えて欲しいw)

話が脱線しましたが、元に戻します。

エゴが他人を必要としているその理由が、「わたし」をより強く認識するためだ という点。
承認欲求はその最たるものでしょうし、誰かを批判したり・誰かに憧れて
他者を見張り続ける事もそうでしょう。
「自分が相手より優れてる」「自分が相手より劣ってる」「あの人は不幸」「あの人は幸せそう」 
どれもエゴが生きながらえるための餌です。
そしてエゴが「わたし」だと感じているそれを存続させるためには、他者の存在が不可欠で
他者動向を逐一意識しなければ「わたし」の存在を感じられないなんて・・
本末転倒だと思いませんか?

「わたし」は、誰かと比べなくても・誰かに認められなくても「いまここ」に存在している。
当たり前のようで見過ごしていること。

「わたし」が自分の存在を認めれば、他者との比較なんていらなくなります。
誰かをうらやましがる必要もないし、誰かを強くこきおろす必要もない。

「(エゴがそうだと信じている)わたし」を確立するために、他人に目を向けてあれやこれや
思考を忙しく働かせている間、
ほんとうの「わたし」が置き去りになっていることに、「気付く」のが大事です。
誰か比較対象がいなくても「自分」は「いまここ」に存在している。
「気付く」には「自分を俯瞰で見る」。
自分の思考を、ただ見つめてみる・・どんな考えにいま自分が囚われているのか?
客観視してみれば、簡単に気付きを得られると思います。

他者に対しても、自分に対しても、わだかまらない為に目指すべき処は
「自分自身との調和」です。

以前も書きました通り「いまの自分と仲直り」 これが自分自身との調和。
自分に対して腹を立てたり・わだかまっているうちは、外に意識が向きがちです。
そしてまた自分を見失い、エゴのなすがまま、外側に不愉快を求め・不愉快に遭遇し・
不快な気分を味わい・それを色んな形で周囲にもまきちらすのです。

「自分自身との調和」について書きたい事はやまほどあって(追々述べますが)、
今回ひとつだけお伝えするなら
「他人がどうではなく、自分がどうしたいか・どうありたいか」を優先しましょうという事です。
もと創価脳の方は、たいてい生真面目で、周囲を思いやる・周囲の事を必要以上に
考えすぎる傾向があると思います。 取り越し苦労ってやつ。
自分の事より周囲の事が気になって仕方ない人も、多いような気がします。
でも、本当はもっと「自分本位」で生きて良いのです。
他者がどうだこうだ・・はおいといて、本当にいま「自分はどうしたいのか」
意外と、その視点で物事の選択が出来ている人は少ないかと思います。
かくいう私も、点検してみたら8割がたが「他人がこうだから」という理由で動いていたことが
昨年解ってぞっとしました・・そして、強制的に&徐々に、「自分がこうしたいから」という動機で
行動するように変えています。優先順位の1番を自分にしたのです。
すると、ストレス激減。
過去にめんどくさいなとか・本人がやればいいのに・・と思いながらも
「迷惑がかかるから」とか「子供が・夫が困るだろうから」なんて気持ちで私が動いていた事、
辞めるのは勇気がいりましたが、辞めたのです。
(いつでもかまわないとしていた脱会を、突然思い立ち実行したのも、
 自分最優先の一環でした)
すると全く問題無しで拍子抜け。物事が驚くほどスムーズに流れて行くのです。
自分を後回しにして、イライラしつつも必死に頑張ってたことはなんだったんだ?!と思うくらい。
これも「観念」と深い関係があって、まだそうともわからないものを勝手に自分が
「相手が困るだろう」「相手が迷惑だろう」と仮定で思い込んで・行動していただけの話。
実はそこになんの問題も生じていないのに、生じる前から取り越し苦労していただけの話。
自作自演だったのです。

創価では「師弟不二」が声高に叫ばれ、自分の命よりも大切な組織信仰やご本尊などと
叩きこまれ・自分を後回しにすることが当然でしたよね。
でもそれ、違います。今更だけど。

自分が一番大切なんです。
優先順位の一番は、自分で良いのです。
自分を生きることに、罪悪感を持たなくて
いいのです。

組織で長年叩きこまれてしまった、不毛で不幸な観念を入れ変えましょう。


(続きます)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

私を含め、福子で育った方の多くが「自分目線」より「他者目線」を意識しすぎたり・
自分がどうしたいかよりは、誰かの意見を優先してしまったり・
他人の気持ちを優先して自分を押し殺して行動や発言をする、
「他人軸」で生きることが当たり前になりすぎて「わたし」を失っていた(いる)傾向について
精神医学的に「こういうメカニズムだったんだ!」と、目からウロコがボロボロ落ちた本が
あります。
大嶋信頼さんの「それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも」という書籍で
昨年読んで、早く紹介したいー!と思いつつ、なかなか納得行く言語化ができず・・orz
私的にはトリハダもので、衝撃的だった本です。
次回更新で紹介します。

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それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも? [ 大嶋信頼 ]
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ニュー・アース 第二章(8)

忘れられる「大いなる存在」

エゴはいつも自分と形を同一化し、何らかの形に自分自身を求め、
それゆえに自分自身を失う。
この形とは物質や肉体だけでは無い。外部の形ーモノや身体ーよりもっと基本的なのが、
意識の場に常に生起する思考の形だ。(中略)
気付いてみれば、片時もやまない頭の中の声があるはずだ。絶え間ない衝動的な思考の
流れである。その考えに関心を全て吸い取られ、頭のなかの声やそれに付随する感情に
自分を同一化してしまって、その思考や感情の中で自分自身を失った時、そのときあなたは
自分を形に完全に同一化してしまい、エゴの手中に落ちる。

エゴとは、「自己」という意識、エゴという意識をまとって繰り返し生起する思考の形と
条件づけられた精神・感情パターンの塊なのだ。

形のない意識である「大いなる存在(Being)」「私は在る(I Am)」という感覚が形とごっちゃに
なったときに、エゴが生じる。
これが自分と個々の形との同一化(アイデンテティフィケーション)ということだ。
つまり「大いなる存在」を忘れるという第一義的な誤りであり、存在が個々の形に分裂するという
とんでもない幻想が、現実を悪夢に変える。
(p118-119)


「大いなる存在」=エネルギーであり魂と前回書きましたが、
”自分の存在(生存)の大前提”にあるもの、と言えると思います。
繰り返しになりますが、人は普段エネルギーそのものに余り目を向けていないというか・
その摩訶不思議の上に在る「生きている」幸いについて無頓着です。
なんもしなくても呼吸が続き・心臓が動いている不思議・奇跡に意識を向けている人は
そう多くないと思います。
状態が当たり前すぎて、ありがたいとか幸いだとか感じない・疎くなっている。
自分自身がエネルギーであることなんか知らずにいて、
形ある「何か」や「思考」に自分自身を同一化し、出来事によって巻き起こる感情思惑に
ただ振り回され 
まるで”思考”とそれがつくった「かたち」が、自分自身になっている。
実のところ、自分という存在は唯のエネルギー。
形として見えているものすべてが、いずれは消え去る「幻」だと知っていれば、
目の前の現象や物質に、過剰に振り回される必要は無くなるよ・・という、非常にシンプルで
深い教えです。

つまり「大いなる存在」を忘れるという第一義的な誤りであり、存在が個々の形に分裂するという
とんでもない幻想が、現実を悪夢に変える

とあるように、「私の家」や「私の身体」や「私の仕事」や「私の家族」や「私のお金」などなど、
「私」と紐つけた形態に対し執着を持つ状態は
「存在が個々の形に分裂するというとんでもない幻想」に当たると言えます。
これらに執着した結果、得られなければ/失えば、自分が損なわれた・終わったと感じること
=「悪夢」になるわけです。

この身体すら、「死亡」と医師に診断されれば、日本では火葬され骨と灰になる。
究極この生身の姿は「幻」となります。
私という存在は永遠のエネルギー体で、この世にあるとき「身体」という形をまとって
ここ(3次元)に存在しているように見えているんだ・・という事実を、頭のどこかで
認識しておくことも、エゴにうっかり惑わされない為には、良い心がけかもしれません。

日蓮仏法では「三世の生命」を説いていましたね、教学を少しでもかじっている人であれば
このあたりは容易に理解できるかと思います。
ただ、過去世→現世→来世の時間軸=日蓮仏法創価版が教えていたバージョンは
凝り固まっており、その解釈は宿業論や罰論の強化体系にすぎませんw
なので旧いタイプの時間軸はまるっと無視し
(過去も未来も「いま(現在)」にあります、「一念三千」は、このことを指しています。
 詳しくは後日書きます)
「エネルギー・大いなる存在は永遠のもの」と認識しておいたらいいと思います。

すべての理解にまさる安らぎ

人生のどこかで悲劇的な喪失に出会い、その結果として新しい次元の意識を
経験した人は多い。 持ち物のすべてを失った人もいれば、子供や配偶者を、
社会的地位を、名声を、肉体的能力を失った人もいる。
場合によっては災害や戦争によってあらゆるものを同時に失い「何も」残されていない事に
気付いた人もいる。それは「限界的な状況」と呼んでもいいだろう。
何に自分を同一化していたにせよ、何が自分自身という意識を与えていたにせよ、それが
奪い去られた、そこでなぜかわからないが、当初感じた苦悶やはげしい恐怖に変わって、
ふいに「いまに在る」という聖なる意識、深い安らぎと静謐と、恐怖からの完璧な自由が訪れる。
この現象は「人のすべての考えにまさる神の平安」という言葉を残した聖パウロには
なじみのものだったに違いない。確かにこの安らぎは筋が通らず、人は自分に問いかける。
こんなことになったのに、どうしてこのような安らぎを感じられるのだろう、と。
エゴとは何でどのように作用するかがわかれば、答えは簡単だ。
あなたが自分を同一化していた形、自己意識を与えてくれた形が崩壊したり奪い去られたり
すると、エゴも崩壊する。

エゴとは形との同一化だからだ。もはや同一化する対象が何もなくなったとき、あなたは
どうなるか?まわりの形が死に絶えた、あるいは死にかけた時、あなたの「大いなる存在」の感覚
「私は在る(I Am)」という意識は形の束縛から解放される。
物質に囚われていたスピリットが自由になる。あなたは形のないあまねく存在、あらゆる形や
同一化に先立つ「大いなる存在」という真のアイデンテティの核心に気付く。
自分をなんらかの対象に同一化する意識ではなく、意識そのものとしての自分という
アイデンテティに気付く。
これが神の平安である。あなたという存在の究極の真実とは、私はこれであるとか
あれであるとかではなくて、「私は在る」なのだ。
大きな喪失を経験した人のすべてがこの気付きを経験して、形との同一化から切り離される
わけではない。
一部の人はすぐに、状況や他人や不当な運命や神の行為の被害者という強力な精神的イメージや
思考を創り出す。この思考の形とそれが生み出す怒りや恨み、自己憐憫などの感情に
自分を強く同一化するから、これが喪失によって崩壊した他のすべての同一化に
たちまちとって代わる。言いかえれば、エゴはすぐに新しい形を見出す。
この形が酷く不幸なものだということは、エゴにとっては大した問題ではない。
良くも悪くも同一化できればいいのだ。それどころか、この新しいエゴは前よりもっと凝縮されて
強固で難攻不落である。

悲劇的な喪失にぶつかったとき、人は抵抗するか屈するかしかない。深い恨みを抱いて
苦々しい人生を送る人もあれば、優しく賢く愛情深くなる人もいる。
屈するとは、あるがままを受け入れることだ。人生に向かって自分を開くのである。
抵抗すると心が縮こまって、エゴの殻が硬くなる。あなたは閉ざされる。抵抗している時に
(否定的な状態の時に、といってもいい)どんな行動をとっても、さらに外部の抵抗に遭う。
宇宙はあなたの味方にはならない。人生は助けてはくれない。(中略)
抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が開ける。
そのとき行動が必要であれば、あなたの行動は全体と調和したものとなり、創造的な知性と
開かれた心、つまり条件づけられていない意識によって支えられるだろう。
状況や人々が有利に、強力的に展開する。不思議な偶然がおこる。
どんな行動も不可能ならば、あなたは抵抗の放棄と共に訪れる平安と静謐のうちに安らぐだろう。
それは神のもとでの安らぎである。(p122-127)


このパートを初めて読んだ当時、私の状況とぴったりで、「見てたの?!」と
思ったくらいw 驚かされたのを覚えています。
それほどエックハルト氏がエゴの構造を見事に言い当てている&私が完全に
エゴにとりつかれていた、ということです。
2015年末に「とある出来事」によって、義実家が資産を失う事が決定したとき、
強いショックを受けましたが、同時に私は平安を確かに覚えていました。
嫁ぎ先(=玉の輿といわれる事は自慢=アイデンテティの一つでした・・これはエゴ)が
不動産も人手に渡り・金銭的に厳しい状態に陥ることはエゴの崩壊にあたります。
そして、同時にやってきた平安とは、
前にも書いたと思いますが、義実家(4家族が泊まっても十分なスペースがある
家屋でした)が人手にわたることで(転居先は手狭)、
毎年恒例の年越し帰省がなくなる!という喜び&姑の金銭にものをいわせた支配が終わる!
(しかも、これらは崩れることなくずっと続くものだと私は「思い込んで・諦めて」いただけに
 ものすごいサプライズだったのです)
という安堵感でした。 

しかし、エゴのなんたるかも知らなかった私は、その後に発覚する「とある出来事」について
姑がついた嘘・新事実を知ると、今度は途端に「被害者」というアイデンテティにしがみつき、
自分がいかに不当な扱いを受けたか・従順に接してきたのに酷い仕打ちを受けたか・・と
恨みをもち、苦しむ状態に陥ったのです。
”状況や他人や不当な運命や神の行為の被害者という強力な精神的イメージや
思考を創り出す。この思考の形とそれが生み出す怒りや恨み、自己憐憫などの感情に
自分を強く同一化するから、これが喪失によって崩壊した他のすべての同一化に
たちまちとって代わる。言いかえれば、エゴはすぐに新しい形を見出す。 ”

もう↑まさにこの状態だったわけですw
その後、自分の中のおさまらない怒りの原因・根っこを見て行ったら
自分の姑への接し方に、創価時代の刷り込みが背景としてあったことが判明し、ビックリした・・
という話をこの記事に書いています。 
そして根っこがわかれば、どういうわけか怒り恨みの感情はサーっと引いて行きました。
自分が自分を解ってあげられたから、安心したのだと思います。

そしてこの構造は、アンチ創価で長く機能不全をおこす仕組みと同じだと気付きました。
「覚醒」によって、清く正しい組織の一員というアイデンテティの崩壊がやってきたとき、
ショックと同時に、安堵も生まれたと思うのです。 
それは誰にも見せないよう押し隠していた理不尽さが認められる・やっと日の目を見る、
長年自分が感じてきた矛盾違和感はやっぱり間違いがなかったんだ!という、晴れやかさでした。
もう意味不明の恥ずかしい各種活動をしなくてすむ!という開放感もありましたね。
しかし、「覚醒者」となって晴れやかすっきり~!で、
その後を何の引っかかりもなく歩むということが、まずない事は皆さんもご存じのとおりですw
(軽やかに進むことができた人は、エゴがとても軽い人だと思います。そういった方は幸いです)
今度は「アンチ創価」というアイデンテティにしがみつく。
創価のせいで私の人生を・家族を・青春をむちゃくちゃにされてしまったのだ!という、
被害者と言う強力な精神的イメージと「創価は社会の巨悪」という思考に占拠され、
倒さねば!許すまじ!と恨み憎しみを持ち続ける・・という状態を作りだしていました。

なにがそうさせていたのか、エゴがそうさせていたんですねw

だから、気付いた人は笑って手放せばいいと思うんです。
あー、私って・俺って、エゴにとりつかれてずっと怒ってたんだな~!テヘペロ、くらいにw
それが「俯瞰で見る」ということです。
エゴは、残念ながら完全になくすことはできません。
アンパンマンにおけるバイキンマンみたいなもので、呼んでないのにいつもどこからか
やってきて悪さをする・・そんな存在です。 
バイキンマンほど可愛いもんじゃない場合もありますがw
だから、「見つけた!」(気付いた)時は、さっさと追い払えばいいんです。
追い払っても隙を見てまた来るけどw その時はやっぱりまた追い払うのです。 
そう繰り返せばいつの間にか、悪さも可愛いレベルになっていくと思います。
あんまり大げさに考えないのが吉です。

いつまでも恨み憎しみを握り続けている必要はありません。
もちろんそれをライフワークとして・好きでやってる人の事は、いつものように止めませんw

ここで「創価は社会の巨悪、は正しい。間違いではない!」と怒りだす人もいそうですが
確かにそう思ってる人が大半で一般人もしかりです。
私も創価が「善」だとは思っていません。 
ただ「巨悪」だとまでは、最近思わなくなりました。
正直言うと「どうでもいい(存在)」です。
すくなくとも私の生活圏、自分の世界には全く不要なものなので
関知しない・採り入れないようにしています。

なぜ「巨悪」だとまでは思わないかと言えば、今現在も確かにその組織に救われている
(と信じている)人がいます。
イケダセンセーは素晴らしいって、心底うちふるえてるめでたい人だって存在するのです。
件の3人だってそうでしょう。生きる理由になってると思います。
そして私だって、覚醒前まで40余年、日蓮仏法創価版に救われていました。
これらはすべてリアルな話で、巨悪なんてみじんこも思わず、外界を知らず・
ただひとつを信じるが故に成り立っている(いた)「善」の世界が、今この瞬間にも
確かに存在しているのです。

何度も繰り返しですが
覚醒は「思考の背景」が変わったから、善だった世界が悪になっただけの話。
黒と白は、状況に寄りけりで、いとも簡単にひっくり返ります。オセロみたいなもんです。
私にとっての悪も誰かにとっては善だし、逆もあって、時と場合により変化する。
これを「高次から見て物事は中立」というのです。
ただそれだけの話だと、もう解ったらジャッジする必要がなくなりました。

エックハルトの言う「抵抗」はこの場合、「恨みつらみを握りしめる」こと・執着でしょうし、
「受け入れる」は「恨みつらみ、執着を手放す」ことに当たるかと思います。

恨み続けるのも、創価を殊更の問題とし・敵視&注視していくことも、エネルギーの消耗、
時間の無駄じゃないでしょうか?
お笑いネタとして楽しくヲチしている、または研究対象としてやってる方は別として・
各種情報を眺めていたって、憎しみからの目線では少なくとも
「楽しい・素敵な・いい気分」にはなれないと思うんです。
もっと他に見るべき対象が絶対ある。
自分を心地よく、楽しくさせてくれる対象がいくらでも。そっちを見る時間にあてたほうが
人生は有意義に・楽しくなることでしょう。

恨み憎しみ続けないとやっていられないんだよ!という人は、
おそらく「自分(や周囲)の不遇・不幸の原因は創価」にしておきたい方でしょう。
それはエゴなのですが、そのエゴから解放されない限りはずっとそのままです。
つまり「創価のせいで不遇で不幸な自分」というアイデンテティ下にある以上、
そのような現実ばかりを見聞きすることになりますし、
「創価のせいで不遇で不幸」なまま一生を終える事になります。
自分でその事に気付いて、思い込みを変えない限り、残念ながらそうなります。

前にも書いたと思いますが、思考は現実化します。
自分が信じていること(内面)が、今も目の前に現象として現れているのです。
だからよくよく、思考には気をつけないといけないし、
上記のようなネガティブな思い込み(観念)を持ち続けたまま生きる事は、賢明といえません。
(思い込みじゃない!事実だ!という人もたぶんいるでしょうが・・それがエゴなのですw
 詳しくはこの後に続いて行く章や、他の本の紹介で触れて行くつもりです。が、
 エゴに気付くための「今にある」実践を積み重ねる中で、自分の感覚・腑に落とさない限りは、
 いくら文章読んだって 理解できないかもしれません。)

わざわざ、不機嫌で不愉快な気持ちになる情報やニュースを自ら見に行ってしまう事が
いかに自分の魂にとってマイナスか・・それらを見ている時、自分の気持ちはほっとしているか・
幸せなのか・楽しいのか。チェックしてみることをお勧めします。
それらが思考を形作り・助長しているからです。
むかついたり、卑下するような思いを抱いたり、攻撃的な気分、その情報に触れることで
自分の恨みつらみ怒りを正当化しているような気分、ネガティブでわだかまるような感情であれば、
それは自身の内面・外面=生活にとって害でしかありません。
目の前の現実は、チャンネルを変えるのと同じで自分で切り替えることが出来ます。
自分で選べるのです
悩まれている方や、面白くないことが続いている・なかなか気分が晴れないという方は
ぜひ、自身がどんな情報に反応しやすいか・好んでチェックしているかを点検し
「観心」してみるとよいと思います。

手放すだけなんです、本当に。
簡単に言うなと怒られそうだけどw 
1%でも、そんなアイデンテティに自分を不幸にされてたまるかよ!と思った方は
是非に「ニュー・アース」を全編読んでみてほしいと思います。

第二章はこれにて終了です。次回から第三章に入ります。

ちなみに第十章まであるので、最後までたどり着くのは本当にいつになるやら
わかりませんし、私が途中で飽きてやめないとも限らないのでw
ご自身で一読されることを重ねてお勧めします。

(次回に続きます)