このブログについて

:::常にこの記事が一番上にあります。 更新は2件目から:::

HN 祥蘭 

2016年春、エックハルト・トール氏の書籍に出会いました。
エックハルト氏や、そのほか現代の覚者の教えを通じて、
わだかまらずに生きる実践中です。

新興宗教を卒業・脱会して自由を得てなお、
生き方や心の置きどころに迷い悩まれている方に、
エックハルト・トール氏の著書「ニュー・アース」や、私自身の経験を通じて
わだかまらず・楽に生きられるヒントをお伝えできればと思っています。

*******

2016年 脱会済
もと学会3世 もと活動家 2012年9月覚醒。

現在、自宅に神棚をまつっており、日常的に神社参詣しています。

このブログの現在(2016年6月~)
創価教学によるプロパガンダを抜けてなお、後遺症に悩んでいた私が
心理学や現代の覚者の教えに触れ、自分を取り戻した経緯を綴っています。  

このブログの過去(2013年8月~2016年5月)
学会3世として、機能不全家庭で育った私の信仰履歴~覚醒へのプロセス・
強固な「創価脳」をもつ母親との対峙について綴っています。
※内容に関して、現在(2016年以降)の考えとは大きく異なっています。が、
 過去を否定したくないので、そのまま公開しております。


このブログで言いたいこと・スタンス
*仏罰はありません。 安心してください。

*人間万事塞翁が馬です。


以前の自己紹介はこちらです。
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ニュー・アース 第三章(2)

不満と恨み

不満は、エゴが自分自身を強化するために用いる得意の戦略の一つだ。
不満はどれも心が作り出し、あなたが完全に信じ込んでいるささやかな物語である。
不満を声に出そうと頭の中にとどめておこうと、違いは無い。
他に自分を同一化するものをあまりもたず、不満だけで楽々と生き延びているエゴもある。
そういうエゴの虜になると、不満、とくに他人に対する不満が無意識のうちに習性となる。
無意識だから勿論自分では気づかない。人々を見た時、最も多いのはその人たちについて
話したり思い浮かべるとき、心の中で否定的なラベルを貼り付けるというのもこのパターンの
一つだ。悪口雑言はこのラベル貼りの最も露骨な形で、自分は正しいと勝ち誇らずには
いられないエゴの必要性を満たしてくれる。

(中略)
恨みは不満や精神的なラベル貼りに付随する感情で、エゴはそこからさらに大きな
エネルギーを汲み取る。恨むというのは苦々しい思いをする、憤慨する、馬鹿にされたと
感じる、傷ついたと思うことだ。

人は他人の貪欲さ、不誠実さ、いい加減さ、現在や過去の行動、言ったこと、しなかったこと、
すべきだったことやすべきでなかったことを恨む。エゴはこれが大好きだ。
他者の無意識さを見過ごさず、相手と同一化する。
誰がそうしているのか?あなたのなかの無意識、エゴである。
ときにはあなたが他者に見る「過ち」は、ほんとうはありもしないものかもしれない。
まったくの誤解で、敵を見つけたがり、自分が正しくて優れていると思いたがるよう
条件づけられた心の投影にすぎないかもしれない。

また過ちが事実あったとしても、そこにばかり集中し他の一切を顧みないことで、
あなたはその過ちを拡大して見ているかもしれない。それに他人のなかに見て反応することほど、
自分の中にもしっかりと存在している。

他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、
人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。

だが反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な
機能不全の表れだと認識できるときだけだ。
そのような行動が個人的なものでは無いと気付けば、相手個人に反応しようという衝動は
なくなる。そしてエゴに反応しないでいると、相手の正気、つまり条件づけられていない意識を
引き出せる場合が多い。(中略)
あなたがエゴという無意識を相手個人と同一視したとき、その相手は敵になる。
反応しないのは決して弱さではなく、強さである。反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見過ごすこと、いや見抜くことである。

エゴを通してすべての人間の核心、本質である正気を見抜くのだ。(p133-136抜粋)


私が「ニュー・アース」を手にしたのは、(繰り返しで恐縮ですが)
落胆の出来事のあとにやってきた極度の落ち込み・心苦しさから抜け出したい!
との動機でした。
御蔭で随分と心が楽になり、過呼吸まで治ったというありがたき本なのですが、
読み進めるうちに「あれっ?これって創価脳やアンチ創価のための本?!」と思ったほど、
そのものズバリな傾向性が書かれている事に面食らったのが、この章でした。

不満はどれも心が作り出し、あなたが完全に信じ込んでいるささやかな物語である。
この個所を初めて読んだ時、心がざわついたのを覚えています。
環境や待遇、身近な人間に対して、自分自身の性格や容姿にまつわるコンプレックスなど、
人は大なり小なり「不満」をさまざま持っているもの。
(これらを持って生まれた「境涯」「宿命」と呼んでましたね)
それを「自分が完全に信じ込んでいるささやかな物語」って一体?!
自分が見ている世界を否定されているような・・お前が悩んでること・気にしていること・
問題にしてる事柄なんざ、とるに足りない小さなことだよ!と言われたようで
戸惑いを覚えました。
ニュー・アースに出会った当時の私は、(義実家問題で)「自分が酷い目に遭った」という
負の感情に支配されていました。
もう少し付け加えると「真面目にやってきた自分が、騙され・酷い目に遭わされた不条理感」です。
どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの!!という・・。
この負の感情が、私が覚醒した当時の、創価組織に対しての思いと似ていると気づきました。

この章を完全に理解できたのは、実はつい最近ですw
恨みは不満や精神的なラベル貼りに付随する感情
これ、全くその通りなんですね。

私の場合、昨年春ニュー・アースを読んだ当時、自分にこんなラベルを貼っていた。
「文句も言わず健気な”いい嫁”を演じてきたのに、姑にしてやられた不幸な私
「こっちに一分の落ち度もないのに、悪人に仕立て上げられた可哀そうな私

これを言いかえれば「被害者意識」です。

私の中のエゴが、自分を被害者に仕立て上げた。
”こんなに頑張ってきたのに、裏切られて可哀そうな私!”というw ←今だからwと
つけられます。

被害者意識に浸っている間というのは、ある意味「気持ちいい」のです。
不幸のヒーロー・ヒロインでいられるし、たとえば他人にそれを話すことで
「大変だったね」「かわいそうに」「相手が悪いね」などなど、同情を得る事も出来るかもしれない。
すると一瞬、自分の正当性を認めてもらえた気分になって「気持ちがいい」。
けどそれで傷が「癒える」とは限らない。 
場合によってはますます「可哀そうな私」増強に励んでしまうかもしれないw 誰が? エゴが。
前回紹介しました大嶋先生の本を読んでから、こんな風にも思うようになりました。
「被害者意識にしがみつくことも、ストレスホルモンを下げるのに丁度良かったのかもな」と。
ただ残念なことに、自分が自分を被害者だと思ってる間は、ずうーっと被害者のままです。
当たり前だけど。
そして、環境は「助け舟」なんか出してくれませんw
というか「助け舟」なんて、ありません。
唯一の解決策は「自分が被害者をやめること」だけなんです。

「私は自分の意志もないうちに入会させられた不幸な学会O世」というのも
自分へのラベル貼りです。
ラベルに「不幸な」って入れると、どんどん不満が湧いて出てきますよねw
親が悪い、じいさんばあさんが悪い、組織が悪い、過去のいまわしい思い出、云々と。

そして逆の現象もあって、今度は創価脳時代にちょっと戻ってみると
非学会員で悩みを持っている友人を目の前にした際
「仏法に出会っていないがために、希望を持てない、折伏すべき可哀そうな友人」とかw
「救ってあげなければ!」なんて思っていた人も、いたのではないでしょうか。
大きなお世話だよ! って、今となっては思えてきませんか?
これも立派な他者への「ラベル貼り」でしたね。
それを「慈悲」だなんて思っていましたが、実は違っていたのかもしれず、
相手を「不幸だ・可哀そうだ」なんて至極失礼で勝手なラベル貼りすることで、
実際のところは優越感を得ていたかもしれないのです。 
選民思想的な話になっていきますが。
前にも書いたように、救わなければならない・可哀そうな人はこの世には存在しません。
なぜなら全ての出来事は「高次から見て中立」だからです。
なんか、全部これ↑に行きついてる気がしますがw それほどこの「世界の見方」って重要です。

つまり、必要があってそこに「事(一般的にいうところの問題)」がおきている。
それを「不幸で不運な出来事だ」と評価しているのは、自身の主観であって、
自分に起きたことでも・他人に起きたことでも同じ。
こちらの一方的主観で勝手に相手を「可哀そう」だの「宿業の嵐が吹き荒れている」だの思うのは
違う。
その出来事が、先々どう転がっていくかはわからない。だのに勝手に「大変だ!」との
レッテルを貼り付けて騒ぎ立てるのは、ありもしない話をそうであるように仕立てあげていくのと
同じ事なのです。
他人が窮地に陥っているかに見える時、相手の求めに応じて出来る事は手伝えばいいけど
(自分が心にわだかまりなく出来ることだけを)、
しゃしゃり出て相手の出番を奪うような事をしたり、コントロールするような事はしなくていい・・
というか、すべきでは無いのです。
ましてや、自分自身の問題のごとく抱え込んでしまう必要なんて絶対ない。
「同苦」だなんて、自分の慈悲深さを相手に示そう的な教えもありましたが、大きなお世話です・・。
かといって、創価時代にやっちまった事(折伏、相手の為に御祈念、その他)を悔いることは
ありません。 
だって、その時は解らなかったし・「そうしなさい」って組織に教え込まれてただけだから。

エックハルトの言葉でいえば「自分のしていることがわからない」状態だったのです。
気付くことができたら、そこで終わり。 次へ進んだらいいのです。
(それを「過去の自分はバカだったまちがってた~!!そもそも親が悪い周囲が悪い!」って、
自分責め&環境責めするのは、エゴの仕業ですし・大嶋先生的にいえば、トラウマ回避です。)
くれぐれも、罪悪感をもたないように。
それがわだかまり・機能不全の原因となって、
あなたの人生を、いいものにはしないからです。


そしてどうせ自分にラベル貼りをするのなら
「生まれながらにしてラッキーな私・俺」にしておけばいいのです。 
上記は私の個人的な考えですが。
いま何かを持っていないから・何かに達していないから・過去の諸々があるから
「自分は幸せではない」なんて思いこまない・憂いを持たないことです。
”思い込みが現実を作っている” これは確かなことだから。
エックハルト氏が教えてくれているように、私たちは生命を持ってこの世に存在している・
呼吸と鼓動いう不思議が続いていること、
それだけでもう奇跡の体験者です。
無条件に幸いな存在なんです。

命ある幸いに全面降伏しなければ、いつまでたってもラットレースから抜け出せないし、
”あいつが悪いこいつが悪い、自分は馬鹿だった”等の不平不満をモチベーションに
生きていくことが是となってしまいます。
まあ↑この状態でも「生きているだけで丸儲け」には変わりないので、いいんですがw
どうせなら意識の使い方を変えて、わだかまらず・心穏やかに和やかに生きていくほうが
いいんじゃないかなーと思いながら、私はこのブログを続けています。

他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、
人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。


このパートに関して、「創価脳の迷惑行為を言い当ててる!」って
初めて読んだ当時は驚き・ほとほと感心しました。

私の話で言えば、このブログを立ち上げるきっかけにもなった、選挙投票日の当日確認w
(この記事に書いてます)
活動家における、投票日の当日確認という行動は「集団的エゴ」によるものです。
おそらく活動家本人は「集団的エゴ」に取付かれているだなんて気付いてない。
その団体に属し・近いところにいなければ、「当日確認をしよう」なんて発想・行動はまず無い。
というか完全に団体の・上からの指示でやってるわけで、ある意味コントロールされている。 
実際やってる本人は「自分が心からやりたくてやってる」わけじゃないんですよね。
誰に頼まれなくても自発的にやりたくて(当日確認)やってる、なんて人は皆無でしょう。
全部が「だって先生のため、党のため、幹部が言ってるから・組織のきまりだから」って
他人軸の理由。
本当はやりたくないけど、やっとけば功徳あるし・ 組織の人も喜ぶし」的な発想で
行動していると思われます(し、私も活動家時代を振り返ると同様でした)。
当時かなり怒っていた私は(この記事の中段以降にも書いてます)、実家にまで投票の有無を
問い合わせた本人をとっつかまえて、なんでそうしたのかを問いただしたい!と思っていました。
「当日確認の行動原理は、突き詰めたら何なのか?」って聞きたいとw
「果たしてそこまで必死になるような事なのかよ?」と。
だけど、おそらく活動家みんな自分でも行動原理はちゃんと分かってないと思いますし
(誰かに押しつけられた理由ばかりで、自分が心からやりたくてやった・・なんてことは
 100%出てこないでしょうね)、
答えに窮するでしょう。
繰り返しですが、活動家はエックハルトの言うとおり
「自分が何をしているか解っていない」のです。
(以前この記事で紹介した動画参照)
そしてこの、明確に説明できない行動原理こそ「集団的エゴ」のなせる業なのでしょう。

結局私は当日確認の相手を見つけ出す事も、問いただす事も出来ないまま組織を去りました。
が、このとき怒り心頭になったからブログを立ち上げたので、この出来事に遭ったことも
意味があったというか・・良かったのかもしれません?!w 
そしてこの時、私自身が、自分の中に確実にある「エゴ」に反応していたって事です。
もしエゴの構造を知っていれば「エゴに取りつかれた活動家のヤラカシ」と、一瞬イラっとしても
此処まで怒りはしないで、スルーできたと思います。
だって、相手は「自分のしていることがわかっていない」のだから。
怒鳴りつけた処で・どうおかしいのかを逐一糺してみた処で、暖簾に腕押し・糠に釘なのです。

”反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な
機能不全の表れだと認識できるときだけだ。
そのような行動が個人的なものでは無いと気付けば、相手個人に反応しようという衝動は
なくなる。そしてエゴに反応しないでいると、相手の正気、つまり条件づけられていない意識を
引き出せる場合が多い。”


つまり、活動家のしつこい家庭訪問だとか「あなたの為を思って云々」とかいうのは、
「集団的エゴ」による行動で、その人自身が本心からやりたくてやっていることではない
組織の刷り込みがなかったらそんな行動、絶対してないはずだからw
(正気の沙汰ではない)と捉え、スルーすればいいという事じゃないでしょうか。
こちらが深刻にとらえて、逐一イライラ・ムカムカ・ムキー!ってなる必要はないのです。
「ああ、集団的エゴに取りつかれてる人たちがやってきたなー」くらいの、ライトな反応で
いいと思います。 
そして、集団的エゴにとりあう必要も義務もないってことです。
まともに対応することが自分の気分を害することなら、放置すればいいのだし(=居留守など)。
それを申し訳ないとか思う必要なんて、みじんこもありません。
「考え方が変わったし、議論する気もないからもう来ないでね♪」って、しっかり伝えることも
いいと思います。
これは地域組織の人に限らず、創価脳の身内家族についても同じ対応でよろしいのでは
ないかと。

”反応しないのは決して弱さではなく、強さである。反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見過ごすこと、いや見抜くことである。”


相手の中にある「エゴ」を見抜けば、反応しないでいられるってことです。
「目覚めていない人たち」だとわかれば、許せる(スルーできる)ということです。

つい「対創価脳」について書いてしまいますがw これはすべての人間関係においても
言えることですね。
「なんでこんな事してくるんだろう?言ってくるんだろう?」とか、不愉快だなって思う態度の人間が
周囲にいたとして、その人のエゴに反応しないよう気をつける。
毅然と相手の行動のどこが不愉快か、やめてほしい旨、事実だけを相手に伝えれば良いんです。
そこに「感情」を絡めないことです(詳しくは次回の章で)。
その上で、相手は機能不全をおこしている、自分のしていることがわかっていないんだな・・と
とらえる。
きっと相手は、自分が自分のやっていることをわかっていないだけに苦しいのです。

また、相手の態度にイラっとしたり・モヤっとする・怒りを覚える・・などの反応に気付いたら
自分の中のエゴを見つけるチャンス。
相手の態度に自分を傷つけられた・損なわれた・脅かされた・馬鹿にされた・・と感じる時には
そこに「過去の思い込み・条件付け・レッテル貼り」を発見し、
癪に障る感情に付随する「自分の思考の背景」を探ってみるのです。
実は不遜な態度をとった相手のことをいくら掘ったって、憶測ばかりで不愉快になるだけです。
反応した「自分の内側」にしか、解決策は見つからないのです。
すると、本当はさして相手に悪気がないことに気づけたり・ことさら自分が相手の態度や
言葉をネガティブなものと受け取っていることに気づいたりと、思いもかけなかった別の側面が
見えてくるものです。
その「気づき」が、「いまここ」からの展開を変えていく。
悪い評価しかできず、恨みを抱いたり一方的な不満を抱くような状況が、うってかわって
良い方向・印象へ変わることもあります。すると「いまここ」から先の状態をより良いものに
変えるんです。 
先の未来だけではない、忌まわしい・振り返りたくないと思っていた過去までも、あの時間が
あったからここへ繋がったんだ・・と、感謝であったり・良い思い出(評価)に変わります。
これは現実に、起こせることです。
これを「一念三千」っていうのでしょう。
トランス状態になるほど題目あげなくてもw エゴに気付くだけで・観察するだけで
その境地に行くことができるんだと、私は「ニュー・アース」やバシャールの本から学び、
深い感銘を覚えました。
そして現実に、自分がそれを体験できているから、すごいよって伝えたくてブログを書いています。

誰かや何かを悪者にして自分を被害者にしておければ、ある意味「楽」です。
(戦わなくてもいいものと戦ったりわだかまったりと、精神的にはシンドイでしょうが・・)
でも、被害者を辞めれば心が本当に、別次元の「楽」になる。
わだかまりが激減し、精神的にもおだやかになり、身辺状況もなだらかなものへと
変わってきます。 
これは私がこの一年を通じて人体実験wして検証済みです。

どんな状態も、自分で選べるし、実際もう選んでいる。
それが「いま」です。
現状つらい思いを抱えている人も・苦しい人も、絶対に大丈夫だから、
まずは自分へのネガティブなレッテル貼りを、やめてみてください。
命ある幸いを確認し、「いま」自分の内面状態を整える。
(前回書いた、思考を止めてお茶でも飲んで「凪」へ移行)
まずはそこから始めてみるとよいと思います。

(次回に続きます)

脳の過覚醒から凪へ

前回記事の終わりで紹介しましたこちらの本。
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも? [ 大嶋信頼 ]
価格:1728円(税込、送料無料) (2017/3/16時点)



まず、私がこの本を手にした切っ掛けを。
昨年1月、義実家の諸問題から、精神的ショックを受けた私は過呼吸になりました。
症状が落ち着いたのが4月後半だったんですが(「ニュー・アース」のおかげです・後述)
渦中、疑問に思っていた事があり。
過呼吸が出るのが、必ずといっていいほど夜。私一人の「リラックス時」だったことです。
日中さまざま用事をしたり・家族や友人と居る時、車の運転中や買い物中は、絶対にない。 
本来、一番リラックスするというか「ほっとできる時間」のはずなのに、調子が悪くなる。
私は心療内科ではなく、漢方薬局で処方と指導をうけていたので、
そちらでも相談したのですが「リラックス時に症状が出る人は多い」という回答でw
「気にするな」ってそれだけで、腑に落ちないわーって、モヤっとしていました。
昨年夏に、本当にふと
「そういえば偽本尊を怖がってた時期、一人時間になったら吐き気やめまいで辛かった」
この記事の最初に書いてます
「女子部時代にも、男子部の馬鹿幹部に説教されたショックで会合に行けなくなった時、
 (この記事に書いてます) 夜の7-10時(会合時間帯)になると息苦しく動悸がするから、
家にいたくなくて、しばらく毎日のように退社後遊びに行ってたわ!」
と、過去にも「リラックス時の不定愁訴」があったと思いだしたのです。
これは絶対になんかある!因果関係あるはず!と、初めて調べるに至り。
ぐぐった時に見つけたのが本書のレビュー。
早速読んでみたら、私が感じた疑問の答えが書いてあって「やっぱり!」。
そして、「ニュー・アース」に出会う前の私が感じていた生きづらさや、
悩んでいた・壁にぶちあたっていた事の謎ときが見事なまでにされており、
鳥肌&驚愕したのです。

本書はタイトル通り、トラウマによって巻き起こる脳・心身メカニズムをわかりやすく・
多数の興味深い症例を紹介&克服方法についても書かれています。
実際に読んでもらうのが一番ですし、多岐にわたる内容を此処で説明するのは無理です。
ごく一部分を紹介しているという前提をふまえていただき、記事をお読みください。

トラウマとは「記憶にない恐怖」を指すんだそうです。

そして「トラウマ」が引き起こしている状態が
「脳の過覚醒」とあります。
この、「脳の過覚醒」が実に様々な症状・状態を引き起こしている。
そしてこれ「自分で引き起こしている(自分で止められる)」という事を、
よっぽどのことでもないと自分じゃ気付けないのが厄介です。

この本を読んで私が思い当たったのは
「創価脳(元・現役)も、大半がトラウマによって
 ”脳の過覚醒”をおこしているのではないか?」

ということでした。

以下内容は、私の勝手な解釈で、本書を「創価脳」向けに読みといてみたものです。
超長文になりました、読みづらいと思います、すみません。

トラウマの原因は、主に幼少期「死」に直面するような恐怖感を体験したことにあり
(長時間一人ぼっち・夜間留守番させられた・ よその家に預けられた、
親の大喧嘩や暴力を見た、大きな音・大声等も、 乳幼児にとっては死に直面するような恐怖に
値するそうです・・これって、福子がどれか1つは経験していそうな事ですよね)
(注:子供時代に限らず、成人後でも衝撃的な出来事からトラウマ化する事があります。
 本書の、帰還した日本兵の話を参照)
「衝撃が大きすぎて記憶を脳が処理しきれなかったため、
 いつまでも恐怖だけが残り続けている
状態を指します。
つまり、そのときの恐怖は既に「過去の出来事」なのに、脳内で処理されなかったが為に
ずーっと「いま」恐怖と対峙しているような状態が継続しているということです。

(脳のメカニズム等、詳細は本書参照)

トラウマをもっている人の脳は、普通の人(トラウマなし)とは違い、
安静時ほどストレスホルモンが急上昇して、身体症状が出る(←私の不定愁訴はまさにこれ。
日常多忙な時は元気で、休みになると体調を崩すタイプも、同じかと思いますし、
これが更に酷くなると、パニック障害やうつ病になってしまうようです)。
リラックス時ほど緊張が高まるようになっている、これは普通の人と逆なんだそうです。
安静時になると「恐怖」を思い出してしまう!ヤバイ!と、回避のスイッチが入る。
トラウマ恐怖を思い出さないために、不快な体験を思い浮かべる。
そうすることでストレスホルモンが下がるという、なんとも皮肉なメカニズムで
”ストレスホルモンを下げるために、不快なストレス刺激を四六時中自分にかけ続けている”
との事。
つまり休むことなく「ずぅーっと」頭の中はビジー・興奮状態。
それも、ほぼネガティブなこと(=そのほうが、ストレスホルモンが下がるから)。
不愉快でおもしろくないこと。外部他者・社会への攻撃や反感。自己卑下。
未来への漠然とした不安、過去にあった嫌なシーン(フラッシュバック)、不満などなど。 
(これ、ぜーんぶ「いまここ」にないことです。そして見事に「エゴ」の好物ばかり!)
脳が、トラウマとなっている不安や恐怖を思い出したくないがため、
静寂や凪の状態に耐えられないから、嫌なことを思いだしたり・怒ってみたり・
考えたりするという、驚くべき状態が起こっているのです。
つまり、過覚醒の脳は「凪」(安静状態)を知らないというか・知っていても排除しているのです。

創価がどうこう、の問題以前で
不安や暗い考えばっかり浮かぶ、むしゃくしゃする、悪いニュースに反応しやすい、
(不幸・不穏なニュースをピックアップして読むことが多い)、
くよくよ過去をひきずりがちだとか、ネガティブ思考だって人は
「元から持った性格の問題」ではなくて、「トラウマ恐怖回避」の為そうなってる場合も
あるってことです。

たとえば創価の矛盾に気付いた人で、時間が経ってもその問題から離れられず、
何かとわだかまり続けることも、「脳の過覚醒」状態ではないかと。
今現在の私が、創価系ブログを拝見すると「ある種の興奮状態」
感じることがあります。 まあ、怒ってる内容だから当然といえば当然ですが@興奮。 
この「怒りを持ち続ける」状態も、トラウマ恐怖を回避するシステムなのだとありました
(これも非常に興味深かったです・・詳しくは本書参照)。
ブログを書くときって「他にやることが無い時間」 つまり余暇で、リラックスタイムですよね。
わざわざ、自分の自由な時間を使って「不愉快で面白くない創価問題」に向き合い
「わだかまり」続けている=それはストレスホルモンを下げるための行動ではないか?
何もブログを書いている人だけではありません、それを偶然目にするとかではなく、
「わざわざ読みに行っている人(読者)」も、同じメカニズムにハマってるんじゃないかな~?と、
これは私の経験上の所感です。
(注:自分の楽しみとして、ウッキウキしながら笑顔で書いてる&読んでる人は例外ですw)

また、活動家時代において、脳の「凪」状態はなかった気がするのです。
子供時代からのことを丁寧に思い返してみると、
私の場合、常に「不安」を大なり小なり持っていました(だから信仰から離れなかった)。
不安なんてどこにもない、脳の「凪」状態や「安静」を、
全く知らなかったとも言えます。

四六時中、暗い事ばかり考えてたわけではないにしても、「宿業」という「原罪」を抱え、
自分は信仰や創価から離れてはいけない。 離れたらろくなことにならない・・と
自分が自分を見張っているような精神状態・緊張感は、確かにずーっとありました。
そんな風に意識が働いている間は、リラックスなんて無いも同然。
リラックスって、頭の中をからっぽ・クリアにして緩むことなんですが、
私は長らく、少なくとも「ニュー・アース」に出会うまで「そんな風になってはダメだ」と
思っていました。 
リラックスとは、横になったり・ソファに寝そべったり、体勢(身体)を楽にすることであって、
頭の中まで何も考えないで「休む」だなんて、思いもしなかったw
それこそが「脳の過覚醒」で、考えるのをやめたら怖い事が起こる・・というような
自覚のない強迫観念・トラウマがそうさせていたのかもしれません。

創価脳における、「記憶にないトラウマ」となるような因子について考えると、
仏罰なんかその代表例ですし、返す返すも幼少期から「恐怖と罪悪感」をこれでもか!と
いうほど刷り込まれる教義だったな・・と思うのです。
もちろん脅しばかりではありません。脅しばっかりなら、子供は信じませんからw
「何でも願いが叶う」「願いとして叶わざる」「無限の可能性」などの夢も見せてくれました。
その反対側、の話。 いわゆる、アメとムチ。
「忘恩の輩」「恩知らずは餓鬼畜生にも劣る」「魔」の存在、
「仏敵を責め抜かなければ無間地獄」
「悩乱するもの頭七分に破る」「三災七難・無間大城」
 ・・どんだけ出てくるんだよw
アメよりムチのほうが多かったんじゃないかってくらい。もう、強迫観念ハンパなし。
わだかまりのない・ニュートラルな心理状態など、活動家時代にありませんでした。
そんなもの持っていたら「闘い」モードになりませんから、絶対にそうならないシステムでも
敷かれてたんじゃないかとw
実際、直接的では無くとも常に闘いを要求され「脅されっぱなし」でしたよね。
爺様の指導にも「間断なき仏と魔の闘い」なんて言葉がありましたが、
一瞬も気を緩めることのできない・闘うべき仮想敵をいくつも周囲にはべらせた、
「常在戦場」が創価脳のデフォルトであることは周知のとおりです。
→ちょっと噛み砕いて書くと、「友人に対話しなきゃ」「票をお願いしなきゃ」「会合行かなきゃ」
「新聞推進しなきゃ」「活動家増やさなきゃ」「もっとお題目上げなきゃ」・・etc 
それをやらなかったらどうなるのか?「魔に食い破られる!」「生活に障る」云々。
行動動機の背景にあったものが突き詰めれば、「トラウマ恐怖」だったということであり、
そんな環境を「常在戦場」と呼んでもいいと私は思います。 

創価脳もアンチ創価脳も、攻撃的になりやすいのは、
上記した環境下におかれていた(いる) せいで「脳の過覚醒がデフォルト」だからでは?
トラウマ(仏罰)恐怖を回避するための、脳がずーっと興奮状態。
不愉快なのに(創価)問題から離れられない、情報収集しないと落ち着かない、
せっかく創価から離れられたのに、ずっと監視していないと気が済まない。
何かをやり玉に挙げることで「安心」を得ている、無意識に。
それらはトラウマ恐怖と向き合わないための、無意識の行動なのです(たぶん)。

「仏罰なんて怖くないから、自分にはトラウマ関係ない!」って方もいるかもしれませんね。
なにもトラウマの原因は、仏罰だけでは無いのです。
他にもいろーんなトラウマがあって
「親から見捨てられる恐怖」「嫌われる恐怖」「死の恐怖」「居場所を失う恐怖」「殺される恐怖」
「孤独の恐怖」 「貧困の恐怖」 
家庭環境や人生経験で千差万別、人それぞれ異なります。
創価と直接関係のない「トラウマ」が、恐怖回避の為に創価問題を使ってストレスホルモンを
下げているという、可能性もあるのです。

そして、脳の過覚醒を止める方法についてですが、ざっくり書くと
「トラウマとなっている恐怖に浸ってみる」事で
方法について詳しくは本書を読んでください。
(一部レビューに方法そのまま書いてありますが・・説明不十分かと思いますので、本書参照を
推奨します)
トラウマだと思っているそれが「恐怖じゃない」って気付いたら
脳の過覚醒がおさまって「凪」へ移行するとあります。

「凪」とは文字通り、風にそよぐような・心地よい状態です。
頭の中が平穏で、楽~な状態。
何の不安もなく、心底リラックスできている状態。
私思うに、
「恐怖は”いまここ”にない」って感じて認めている、
「恐怖」は自分の思考が作り出した幻想だと理解していること

だと捉えています。

で、大嶋先生提唱の方法と同じ効果がある(と私は思った)のが、
エックハルト氏が提唱している「思考を止める」です。

「脳の過覚醒」該当者は、「思考を止める」ことが出来ないタイプ。
「考えるのをやめるなんて、馬鹿になってしまう・騙されるかもしれない・損するかも」などの
「いまここ」にない不安や恐怖や懸念が浮かぶとか、抵抗感があるというなら
過覚醒の傾向があります。
あと、教学が大好きで自分を作り上げてきた・ここまでやってこれたんだ!
というような、勉強大好き(頭でっかち)思考優先タイプも、陥りやすいのではないかと。
理論武装大好きなタイプも要注意でしょうねw 
余談ですが、アンチ創価まわりでよく使われる「思考停止」って言葉に過剰反応し、
「今まで騙されてきたのは、自分が余りにも考えなさすぎて、信じ切ってしまったせいだ!
 これからはどんなことも、仔細に沢山考えるぞ!」なんて決意して、更なる脳の過覚醒に
繋げてしまった人もいるかもしれません(=過去の私)。
以前も書いたんですが、それ「思考停止」じゃなくて「思考奪取状態」でした。
創価脳アプリが搭載された思考自体は、まったく停止なんてしておらず
この記事「変化をもたらすためのツール」章に書きました)。
むしろフルスロットルで「広布拡大」について考えていたはずですw
考えてどうにかなったものではなく、ただ思考のしすぎで「閃き」に従えなかった・
違和感を無視していただけなのです。

思考を止めて「凪」を知れば、実はもっと早く創価の矛盾に気付けたかもしれないw
この件は長くなるので後日「ニュー・アース」記事の中で触れます。

私は昨年4月に「ニュー・アース」を読み、だまされたと思って日常的に思考を止めてみたり
「~と、エゴが申しております」と付け加えることをやってみて、劇的に気分よく暮らせるように
なりました。 
思考を止める習慣によって、「凪」状態を、生まれて初めてレベルで知ることができたのです。
思考を止めるをやってみたことで、前述のとおり、それまで悩まされていた過呼吸が
いつの間にか出なくなりました。
「いまここ」になんの問題もなく、頭の中の騒がしい声は全部「エゴ」で、幻想なんだ・・って
解ったら、気持ちがとても楽になる。
要はトラウマも同じことで、
その記憶にない恐怖も「いまここ」には無いものです。
過去に脳が処理しきれなかった・得体のしれない「不安」
それって=「幻想」です。

幻想なんて嘘だ!不安も恐怖も恨みつらみも事実だ!って、拘って離れられない人は、
過去にとらわれすぎで「いま」にない人でしょう。
「ニュー・アース」第五章「過去にこだわる」を読み、自分の状態を理解するといいと思います。
 
過覚醒の脳は、ずっとフル回転であれやこれや、忙しく働いて問題を探し創り出します。
エックハルト風に言うなら「エゴにとりつかれている」状態です。
「思考を止め」て「いまここ」を意識してみれば、頭の中に静寂が訪れるはずです。
だって、思考フルスロットルの中身は大半が「いま」にないことばかり。
自分がこの目で見たわけじゃない憶測、この目で見た”過去”、妄想の未来、その他もろもろ。 
創価問題にせよ、自分を不安や憂鬱で嫌な気分にさせている問題の大半は
全部「もう終わったこと」または「まだ起きてないこと」ですよね。
冷静に思考を見つめてみれば、「いま」何を思い悩む必要があるんだろう? と、なるはずです。
「終わったこと(過去)」「まだ起きてないこと(未来)」に、ワクワクしたり・楽しかったな~♪など
単純に良き思い出に浸るのは、まだ精神衛生上よいことですが、
過去と未来に嫌な思いをさせられる(正しくは、自分がやっている)のは、何の得にもなりません。
精神衛生上、もっともよろしくないことです。
繰り返しですが、「いまここ」にないことは全部幻想です。
つまり創価問題(あなたが問題だと感じて腹を立てたり・ゆゆしき事態だと思ってる事・
自分以外の他人のこと・過去の恨みつらみ)も、ぜーんぶ幻想です。
幻想に向かって、文句を言い続けたり、やり場のない怒りをくすぶらせたり、機嫌悪くなっている。
いわば自作自演です。
そのことに「気付き」、忌々しいと感じてるその思考を、止めるだけでいいのです。

私がしつこくこの事を書くのは、結局わだかまりは「自分いじめ」だからなのです。
(この件に関しても「ニュー・アース」記事の中で書いて行きたいと思います。) 
心当たりの方は”思考を止める・「いまここ」に問題は無い確認” 是非やってみてください。
早ければ2~3週間で効果を感じられると思います。

次に「他人軸」の原因もトラウマによる脳の過覚醒にあるというお話。

本書によれば、キャパオーバーな・トラウマ化するような恐怖を感じると、
意識が真っ白に飛んで、自分を抜けだし相手に憑依するというのです(解離状態)。
自分が酷い目にあっていることを受け止めきれず、耐えられないから
脳が意識をとばして「他人事」のようにその状況を「客観視」する。
たとえば子供が親に怒られている時、恐怖で意識が解離して親に入り込む(憑依する)から、
怒っている親の気持ちが手に取るように解ってしまう(そして自分の気持ちは感じにくい)。
なので、子供の頃にそのような目にあった人は映像でそのシーンを記憶している事が多い。
自分が親から暴言や暴力を受けているそのシーンを俯瞰で見ている・まるで自分が主人公の
映画のごとく、映像で覚えているのだと。
私、ここを読んで鳥肌が立ちました。
実際に、私も子供時代の辛い体験が俯瞰の映像記憶で残っているからです。
この傾向にある人は、相手(他人)になり変わることで、自分のトラウマ恐怖を回避しています。
相手の気持ちを想像していれば、自分の中にある“恐怖”に注目しないでいられるから。

依存的な人間関係に陥った場合、悪意の相手の言いなりになる傾向があるとのこと。
自分の意志や意識の介在しないところで、相手に憑依し勝手に先回りで「相手に良かれ」と
行動するため、ふと気付いたとき「あれっ?私、なんでこんな事してるんだろう?!」となる。
そこに「自分(の意識・気持ち)」が介在していないことを自覚していない。
やりたくてやっているわけではないため、達成感は当然薄く、不条理な思いをしたり、
なんでこんな目に遭わなきゃいけない?私ばっかり損な役回り・・と不満・不審が募る。
また、「相手から見た自分」が全ての評価基準になるため、常に反応を気にして動くことになる。
「自分がどうしたいか」よりも「相手の反応」が優位になっている。
まさに「他人軸」です。 
なにも虐待や暴力というような強い経験じゃなくても、
「教義教条」と「罰論」で長期にわたって精神的に抑圧されてきた福子が
他人軸に陥りがちなのは、やはり仏罰その他のトラウマ起因ではないか・・?と感じました。
大人になった今でも「親が怖い」という人が、創価脳には結構多いですしね。
過去の私も含め、女子部時代の同志がダメンズ相手に不毛に尽くしすぎるとかw
自分の事なんてそっちのけで、折伏の相手にひたむきにアプローチするとか、
他人に利用されやすかった事などなど・・が思い出されます。
純真な青年部がそうしていたのは、なにも福運がほしかったんじゃなくて
相手のことを考えたり祈ってる間、「自分の中の恐怖」に向き合わなくて済むからだったのか?!
と、今となっては感じてしまうのです。

何が自分をそう(過覚醒に)させているのか・根底にあるトラウマ恐怖を探ってみる場合、
探しだすとあれもこれもと出てきて、最初は不安になってしまうかもしれませんが、
そんな時は「思考を止める」「いまここ」を強く意識することをお勧めしたいです。

トラウマの人の過覚醒の脳はものすごい能力を発揮している。
なぜなら、想像したことが、どんどん現実になってしまうのだから。
でも、残念なことに、トラウマの人は「自分がこの現象を創り出している!」という自覚が無い。
自分が作り出している現象なのに「自分は不幸な星の下で生まれ、もがき苦しみ続けて
生きるしかない」と心のどこかで思っている。
いつも、次から次へと襲ってくる不幸な出来事に対処し続けなければならず、
常に「先のこと!先のこと!」を考えてこれから起こりうる不幸に備えていなければならない。
(p218抜粋)


ここを読んだ時、まさに「思考の現実化」だと感じました。
人間の脳にはどんな思考をも現実にする能力が備わっている、ということです。
だから、何度も書いてますが、普段何を考えてる・どんな観念で居るかってすごく重要で
怖いことでもあるんです。
「難を乗り越えるための信心」なんて思ってたら、その通り難が来るんですw 
これリアルですよね・・「宿業出させてください」なんて、絶対祈っちゃダメでしょう。
そんなもん(宿業)、最初っからないのにw 無実の罪をかぶってるようなもので・
自ら不幸を作りだしているようなもんなのです。
「闘わせてください」と祈れ、とかいう指導もありましたよね・・全く、ろくでもなかったなとw

また、考えようによっては、もと創価脳は「信じ込む」特性をうまく使うことが出来れば
ポジティブな願望も現実化しやすい、と言えると思うのです←朗報w
なので、自信を持ちましょう!と私は言いたい。
そのためには、前回もちらっと書きましたが、観念を入れ変えること。
わくわくやポジティブを「でも」「だって」「どうせ」「以前こうだったああだった」で
打ち消さないための、徹底したネガティブクリーニング&「いまここ」を意識することが
大事になってきます。 これは、いずれ別カテで書いていきます。

で、「こんなトラウマ植えつけたのは組織(または創価脳な親)じゃねえか!
許すまじムキー!」って、一瞬怒ったり、爺様の写真にラクガキ&踏み絵するなどw
その他ストレス解消するのは大いに賛成だけれども、
怒り恨みつらみ状態を「長々と引きずらない」でくださいね、くれぐれも。
それ、過覚醒です(=エゴに取りつかれた状態です)。
怒り自体は、決して悪いことではないのです。そのことによって自分の腹の底の思いや願いに
気付ける事もあるからです。
ただ、それを「くすぶらせて長々と持ち続ける」のは、エゴに燃料をやっているようなもの。
(まあ、引きずるのは個人の自由だしw それが生きがいというなら止めません)
また、「トラウマをもっている私」というレッテルを自分に貼り付けて、それに浸らないでください。
自分を不幸のヒーロー・ヒロインに仕立て上げないでください。それはエゴの仕業と気付きましょう。
新しいエゴの創出のために、この本を紹介したわけじゃないのです。
あくまでも「あなたのイライラ・くよくよの原因、脳の過覚醒だから。それ、自分で止められるよ!」
という、希望的アドバイスのために私は本書を紹介したくなったのです。

「いま」にないことで、自分の気分を害することほど、馬鹿げた・アホらしい事はありません。
(それを教えてくれるのが「ニュー・アース」です。)

本書は「どうしてそうなったのか」「自分に何がおきているのか」謎ときをしてくれるので、
理由が解るだけでも安心できるすごい本です。
以前にも書きましたが、私は「過去」にものすごく執着する人間でした。(この記事
その原因も、本書で「トラウマのせいだったんだな」って気付いたら、更に楽になれた。
「ニュー・アース」と通ずるところも多々あって、私は非常に唸らされました。 

過去をくよくよ悩んだり・あれが悪かったこれがよくなかった・あいつのせいこいつのせい!
ムキー!!! ってなった時は、気付きましょう。
「あ、脳が過覚醒してるな」
「いま自分、思考フルスロットルだな」
「はい、休憩~!」って。
お茶でも飲んでゆっくり、思考を止めて過覚醒から凪へ行きましょう。
それだけでも、かなりあなたの生活の質は向上すると思います。
全ては自分次第です。



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ニュー・アース 第三章(1)

第三章
「エゴを乗り越えるために理解すべきこと」


エゴの構造

大抵の人は頭の中の声~自分でも意図しない強迫的で絶え間ない思考の流れと
それに付随する感情~に完全に自分を同一化している。
自分の心に取りつかれている状態、といってもいいだろう。
そんな状態であることに気付いていなければ、頭の中の思考の主が自分だと思いこむ。
その思考の主は、エゴイスティックな心である。(中略)
あなたの思考、あなたの心の中身は、もちろん育ちや文化や家族的な背景などの
過去に条件づけられている。

全ての心の活動の核心は繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンで
できていて、人はそこに最も強く自分を同一化している。それがエゴそのものである。

ほとんどの場合、あなたが「私(I)」という時は、エゴがそう言っているのであって
あなた自身では無い。これはいままで見てきたとおりだ。
エゴを形成しているのは思考と感情、あなたが「私と私の物語」として自分を同一化している
記憶の集積、知らず知らずに演じている習慣的な役割、それに国籍や宗教、人種、
社会階層、政治的党派などの集団的アイデンテティである。
そこにはまた、所有物ばかりでなく見解、外見、積もった恨み、優越感や劣等感、
成功や失敗という個人的なアイデンテティも含まれる。
エゴの中身はひとによってさまざまだが、どのエゴでも同じ構造が作用している。
いいかえれば、エゴの違いは表面だけで、根底ではどれも同じだ。
ではどういう風に同じなのか?
どれも同一化と分離によって生きながらえている。(中略)

エゴが「私(I)」という思考を支えるには、その対極の思考である「他者」が必要だ。
「私(I)」という概念は、「他者」という概念が無いと生き延びられない。
その他者は、「私(I)」が敵とみなした時に最も確かな存在になる。

この無意識のエゴイスティックなパターンのものさしが一方の端に在るのは、人の過ちを
あげつらい、不満を言うエゴイスティックで脅迫的な習慣だ。
イエスが「あなたは兄弟の目に在るちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には
気付かないのか?」と言ったのも、このことを出している。
物差しのもう一方の端には、個人間の物理的暴力や国家間の戦争がある。
聖書では、先のイエスの問いには答えが書かれていないが、もちろん答えは
こういう事である。
”他者を批判したり非難したりすると、自分が大きく優れていると感じられるから。”
(p129-132抜粋)


前半部は、これまでのおさらい的にエゴのあらまし・性質について述べられています。
人間は唯のエネルギー(魂=大いなる存在)であるところ、3次元に出生したその日から
様々なもの(=アイデンテティ)を身にくっつけていく。
日々のドラマがアイデンテティを形成し、「個人」「私」となっていく。
全ての心の活動の核心は繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンで
できていて、人はそこに最も強く自分を同一化している。それがエゴそのものである。

とある中で、
「繰り返ししつこく反復され」て出来上がるものとして「観念」もあります。

ここで脱線。本文から離れますが、
私がエックハルト氏の本に出会った後、さらに知識を広げるべく「宇宙の法則」が
書かれた本をいくつか読みました。
津留晃一さんやバシャール、セス(という宇宙存在)の本には
”「観念」が現実を作っている”という事が、それぞれの表現で書かれています。
思考の現実化・願望の現実化についても「観念」が重要なカギを握っていて、
3者の言っていることを総合すると「自分は無価値だ」「自分はダメな人間だ」というような
ネガティブな観念をもっていることが、一番よろしくないとあります。
(観念=思い込み)
ネガティブ観念が基底部にあることで、自分が自分に制限をかけているという説。
私はこの説にとても納得したというか、これまでの自分の人生振り返ってもまさにそうだったので
「知りたかった答えがあった!」と、非常にワクワクしました。
ネガティブな観念をもっている人がいくら「仕事で一番になりたい」「モテたい」
「人気者になりたい」「好きな人に愛されたい」「お金持ちになりたい」なんて願っても、
観念が現実を作っているだけに、目の前に望む状況は中々現れません。
何かの拍子に、まぐれのようにその状況が現れても、チャンスをものにできなかったり・
長続きせずに終わってしまうのは、望みよりも「観念」が勝つから。
「観念」のほうが強いから、「望み」を叶えることを許可しないというのです。

そして「自分には価値がある」「自分は幸いである」という、
願望成就に必須のポジティブな観念は
「他者への尽きない恨み」にフォーカスしている間は表出し難い・・ともあるのです。
(ネガティブな感情は、観念が創り出している故)
ざっくりいえば「全てが繋がっているから」なのですが、詳しくはニュー・アースを
全編読んでもらえれば解ると思います。
なので自分の望んでいることと一切・直接の関係がないようであっても、
創価にまつわる問題(それ以外のなんでも・・自分を不愉快にさせるテーマ)に
ガチンコで固執し・深刻に取りあったり、ネガティブな感情を向け・長々時間を費やすことは
人生において時間の無駄で、辞めた方が無難です。
(お笑いネタとしてヲチする程度は、問題ないとおもいますが)
組織も大本営も無視していれば、集団的エゴはいずれは崩壊するんですからw 
無駄に気にかけて・イライラムシャクシャなんてせずに、放っておけばいいのです。
そして自分の人生の創造に集中するほうが、同じ時間を過ごすにしても有用です。
ここで全てを説明するのは無理があるので、願望成就や引き寄せに興味のある方は
バシャールの本やブログを是非読んでみてください。
引き寄せではエイブラハムの本も有名ですが、エゴのなんたるかを理解し・
エゴにふりまわされなくなってから読まないと、実践はただ苦しいだけだと思いますw 
願望成就の為には、徹底的な「ネガティブクリーニング」が必要なんだということが
最近の私の気付きです。 
「ニュー・アース」はその大きな助けになる、全ての基本と私は捉えています。


上に紹介した本のうち、セスが一番難解で、津留晃一さん、バシャールの順。
私的に内容に一番感銘を受けたというか・凄い・・!と思ったのはセスですが
(「セスは語る」「セス・ブック」の2冊が出ています。
1970年代に「カルマ(前世の業)は無いし、それを理由に帰依をあおる宗教は
ろくでもない(要旨)」と言いきっています。一念三千の真の解釈はこれなんだなー!と
感動した内容もありました・・ちなみに日本にこの本が入ってきたのは1999年です)
意識や感情の使い方については、バシャールが一番解りやすいと思います。
この話(願望実現)については、「ニュー・アース」とはテーマが異なりますので、
追々別カテゴリで書いてみたいと思っています。

話を元に戻して、後半部はちょっと耳の痛い真実が述べられています。
「私」を認識するための「他者」が必要、比較の世界です。
自分より相手がいいもの持ってる・優れてると感じれば憧れがいつしか嫉妬になったり・・
逆は優越感をもたらす。
他者は、「私(I)」が敵とみなした時に最も確かな存在になる。
とありますが、集団的エゴが常に「仮想敵」を用意して組織の統率をはかろうとするのは、
各個人の中に確かにある「エゴ」をうまく利用するためだと言えると思います。
(創価で言えば、宗門ですしかつての阿部法主ですねw)
敵(悪)を設定する事は、自身の正義感を高める=最も確かな「私」を確立できる、と。
その敵がいる限り、自分は正しいままでいられるから、責め続けもするし
執着もしますよね。 なんとも、わかりやすい仕組みです。
本当にエックハルト氏は、なんでも解ってるんだなぁ~と、感嘆します。

そして締めにこれ。
”他者を批判したり非難したりすると、自分が大きく優れていると感じられるから。”
これは一般世間においていえば、人間関係の中でしょっちゅう見聞きすることですよねw
バリ活がアンチを叩くのも、アンチ創価がバリ活を叩くのも、同じ理由からでしょう。

余談ですが、昨年、創価脳ブロガーどうしが叩きあう、という実に面白い状況wを
見かけたのですが、両者ともに「ニュー・アース」を読んで欲しいと思いました。
御書をいくら学んでも、毎日のSPや・爺様の著書や随筆を何百冊wと読んでも、
残念ながらエゴに気付く事は、なかなか出来ないのです。
(私も創価脳時代、そうだったから人の事は言えませんけどw)
それどころか、宗教依存はエゴをますます強化していた・・というお粗末さでした。

それとかなり前にも書いたかと思いますが、アンチ創価の内であっても
「非活なんてぬるい。脱会してこそ一人前だ(?)」みたいなことを
言う人がいたりするようですが(呆)、そんな事はいうまでもなく瑣末です。
自分が自分に納得していればそれでよくて、自分と折り合いがついていれば
他人の事なんか実はどうでもいいはずなのに
何故か他者と比較・差別に持っていきたがるということは、やはりエゴがそうさせており
「自分が大きく優れていると感じたい」 のでしょう。
または、わだかまりから他者を攻撃する反応が出ていると思われます。

年始にも「脱会したいのに諸事情で出来ない」とのお悩みコメントにお返事記事を
書かせてもらいましたが、
いま悩まれている方は、悩まなくてもいいんじゃないでしょうか。
脱会なんかしなくても・非活(金銭供与なし)で全然問題無いと、私は思います。
気持ちが全くないのに「会員」でいつづけることが気持ち悪い!というのは理解できます。
が、それも「組織に属している私」というアイデンテティに抵抗するエゴだと俯瞰すれば
「どーでもいいな」って、思えてきませんでしょうか?!
「いまここ」に、非活だから・脱会していないからって問題は何もないはずです。
頭の中に「早く脱会したい!」って焦るようなエゴの声が渦巻いているだけの話。
あなたは、あなたでしかありません。

実際のところ「脱会した」って言えば、家庭訪問が無くなる・・メリットはその程度かと。
けど、地域の雰囲気によっては、脱会後でも訪問され選挙やSP購読を頼まれたりすることが
普通に在るらしいですよw 
なので、脱会で完全に地域の人から無視してもらえるとも言い切れない?!
「脱会」に何を望むかは人それぞれですが・・殊更焦らなくてもいいと私個人的には思います。
外野の声なんて気にしないでください、どうでもいいことです。

また、誰か(親)を理由に、脱会できなくて忌々しい・・とわだかまるのもやめることです。
実はそれ、誰かのせいではありません。 
自分が「親の手前、脱会できない」という観念を握っているから、です。
「脱会したら外野がうるさい・もめごとがおこる」という観念も、あるかもしれませんね。
その観念を変えさえすれば、明日にでも脱会届を出せます。
観念を変えるのは大げさなことじゃなくて実に簡単なことです、
「脱会しても何の問題もおこらない」と自分が決めるだけ。
が、無理しなくても、誰人にも「脱会にちょうどいい時」が、必ずやってきますから
気持ちが不安でハカハカしている間は、じっとしておけば大丈夫。
大切なのは何事も「いちいち気に病まない・問題にしないこと」です。

だいたい脱会して統監名簿落ちなんて、実際本当にしているかどうか
わかったもんじゃないなと、脱会してみて私は思うくらいでw
だっていまや貴重な「個人情報」ですよw 
こいつ脱会した、とマークぐらいはつけているでしょうが
データとしては消去なんかせずに、「脱会者リスト」的に、そのまま保存されていても
不思議はないかと。 
厳格な運用基準も、表向きは企業じゃないからなさそーだし?!
(もし本部関係者でこのブログをお読みの方がいらしたら、実際のところを教えて欲しいw)

話が脱線しましたが、元に戻します。

エゴが他人を必要としているその理由が、「わたし」をより強く認識するためだ という点。
承認欲求はその最たるものでしょうし、誰かを批判したり・誰かに憧れて
他者を見張り続ける事もそうでしょう。
「自分が相手より優れてる」「自分が相手より劣ってる」「あの人は不幸」「あの人は幸せそう」 
どれもエゴが生きながらえるための餌です。
そしてエゴが「わたし」だと感じているそれを存続させるためには、他者の存在が不可欠で
他者動向を逐一意識しなければ「わたし」の存在を感じられないなんて・・
本末転倒だと思いませんか?

「わたし」は、誰かと比べなくても・誰かに認められなくても「いまここ」に存在している。
当たり前のようで見過ごしていること。

「わたし」が自分の存在を認めれば、他者との比較なんていらなくなります。
誰かをうらやましがる必要もないし、誰かを強くこきおろす必要もない。

「(エゴがそうだと信じている)わたし」を確立するために、他人に目を向けてあれやこれや
思考を忙しく働かせている間、
ほんとうの「わたし」が置き去りになっていることに、「気付く」のが大事です。
誰か比較対象がいなくても「自分」は「いまここ」に存在している。
「気付く」には「自分を俯瞰で見る」。
自分の思考を、ただ見つめてみる・・どんな考えにいま自分が囚われているのか?
客観視してみれば、簡単に気付きを得られると思います。

他者に対しても、自分に対しても、わだかまらない為に目指すべき処は
「自分自身との調和」です。

以前も書きました通り「いまの自分と仲直り」 これが自分自身との調和。
自分に対して腹を立てたり・わだかまっているうちは、外に意識が向きがちです。
そしてまた自分を見失い、エゴのなすがまま、外側に不愉快を求め・不愉快に遭遇し・
不快な気分を味わい・それを色んな形で周囲にもまきちらすのです。

「自分自身との調和」について書きたい事はやまほどあって(追々述べますが)、
今回ひとつだけお伝えするなら
「他人がどうではなく、自分がどうしたいか・どうありたいか」を優先しましょうという事です。
もと創価脳の方は、たいてい生真面目で、周囲を思いやる・周囲の事を必要以上に
考えすぎる傾向があると思います。 取り越し苦労ってやつ。
自分の事より周囲の事が気になって仕方ない人も、多いような気がします。
でも、本当はもっと「自分本位」で生きて良いのです。
他者がどうだこうだ・・はおいといて、本当にいま「自分はどうしたいのか」
意外と、その視点で物事の選択が出来ている人は少ないかと思います。
かくいう私も、点検してみたら8割がたが「他人がこうだから」という理由で動いていたことが
昨年解ってぞっとしました・・そして、強制的に&徐々に、「自分がこうしたいから」という動機で
行動するように変えています。優先順位の1番を自分にしたのです。
すると、ストレス激減。
過去にめんどくさいなとか・本人がやればいいのに・・と思いながらも
「迷惑がかかるから」とか「子供が・夫が困るだろうから」なんて気持ちで私が動いていた事、
辞めるのは勇気がいりましたが、辞めたのです。
(いつでもかまわないとしていた脱会を、突然思い立ち実行したのも、
 自分最優先の一環でした)
すると全く問題無しで拍子抜け。物事が驚くほどスムーズに流れて行くのです。
自分を後回しにして、イライラしつつも必死に頑張ってたことはなんだったんだ?!と思うくらい。
これも「観念」と深い関係があって、まだそうともわからないものを勝手に自分が
「相手が困るだろう」「相手が迷惑だろう」と仮定で思い込んで・行動していただけの話。
実はそこになんの問題も生じていないのに、生じる前から取り越し苦労していただけの話。
自作自演だったのです。

創価では「師弟不二」が声高に叫ばれ、自分の命よりも大切な組織信仰やご本尊などと
叩きこまれ・自分を後回しにすることが当然でしたよね。
でもそれ、違います。今更だけど。

自分が一番大切なんです。
優先順位の一番は、自分で良いのです。
自分を生きることに、罪悪感を持たなくて
いいのです。

組織で長年叩きこまれてしまった、不毛で不幸な観念を入れ変えましょう。


(続きます)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

私を含め、福子で育った方の多くが「自分目線」より「他者目線」を意識しすぎたり・
自分がどうしたいかよりは、誰かの意見を優先してしまったり・
他人の気持ちを優先して自分を押し殺して行動や発言をする、
「他人軸」で生きることが当たり前になりすぎて「わたし」を失っていた(いる)傾向について
精神医学的に「こういうメカニズムだったんだ!」と、目からウロコがボロボロ落ちた本が
あります。
大嶋信頼さんの「それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも」という書籍で
昨年読んで、早く紹介したいー!と思いつつ、なかなか納得行く言語化ができず・・orz
私的にはトリハダもので、衝撃的だった本です。
次回更新で紹介します。

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ニュー・アース 第二章(8)

忘れられる「大いなる存在」

エゴはいつも自分と形を同一化し、何らかの形に自分自身を求め、
それゆえに自分自身を失う。
この形とは物質や肉体だけでは無い。外部の形ーモノや身体ーよりもっと基本的なのが、
意識の場に常に生起する思考の形だ。(中略)
気付いてみれば、片時もやまない頭の中の声があるはずだ。絶え間ない衝動的な思考の
流れである。その考えに関心を全て吸い取られ、頭のなかの声やそれに付随する感情に
自分を同一化してしまって、その思考や感情の中で自分自身を失った時、そのときあなたは
自分を形に完全に同一化してしまい、エゴの手中に落ちる。

エゴとは、「自己」という意識、エゴという意識をまとって繰り返し生起する思考の形と
条件づけられた精神・感情パターンの塊なのだ。

形のない意識である「大いなる存在(Being)」「私は在る(I Am)」という感覚が形とごっちゃに
なったときに、エゴが生じる。
これが自分と個々の形との同一化(アイデンテティフィケーション)ということだ。
つまり「大いなる存在」を忘れるという第一義的な誤りであり、存在が個々の形に分裂するという
とんでもない幻想が、現実を悪夢に変える。
(p118-119)


「大いなる存在」=エネルギーであり魂と前回書きましたが、
”自分の存在(生存)の大前提”にあるもの、と言えると思います。
繰り返しになりますが、人は普段エネルギーそのものに余り目を向けていないというか・
その摩訶不思議の上に在る「生きている」幸いについて無頓着です。
なんもしなくても呼吸が続き・心臓が動いている不思議・奇跡に意識を向けている人は
そう多くないと思います。
状態が当たり前すぎて、ありがたいとか幸いだとか感じない・疎くなっている。
自分自身がエネルギーであることなんか知らずにいて、
形ある「何か」や「思考」に自分自身を同一化し、出来事によって巻き起こる感情思惑に
ただ振り回され 
まるで”思考”とそれがつくった「かたち」が、自分自身になっている。
実のところ、自分という存在は唯のエネルギー。
形として見えているものすべてが、いずれは消え去る「幻」だと知っていれば、
目の前の現象や物質に、過剰に振り回される必要は無くなるよ・・という、非常にシンプルで
深い教えです。

つまり「大いなる存在」を忘れるという第一義的な誤りであり、存在が個々の形に分裂するという
とんでもない幻想が、現実を悪夢に変える

とあるように、「私の家」や「私の身体」や「私の仕事」や「私の家族」や「私のお金」などなど、
「私」と紐つけた形態に対し執着を持つ状態は
「存在が個々の形に分裂するというとんでもない幻想」に当たると言えます。
これらに執着した結果、得られなければ/失えば、自分が損なわれた・終わったと感じること
=「悪夢」になるわけです。

この身体すら、「死亡」と医師に診断されれば、日本では火葬され骨と灰になる。
究極この生身の姿は「幻」となります。
私という存在は永遠のエネルギー体で、この世にあるとき「身体」という形をまとって
ここ(3次元)に存在しているように見えているんだ・・という事実を、頭のどこかで
認識しておくことも、エゴにうっかり惑わされない為には、良い心がけかもしれません。

日蓮仏法では「三世の生命」を説いていましたね、教学を少しでもかじっている人であれば
このあたりは容易に理解できるかと思います。
ただ、過去世→現世→来世の時間軸=日蓮仏法創価版が教えていたバージョンは
凝り固まっており、その解釈は宿業論や罰論の強化体系にすぎませんw
なので旧いタイプの時間軸はまるっと無視し
(過去も未来も「いま(現在)」にあります、「一念三千」は、このことを指しています。
 詳しくは後日書きます)
「エネルギー・大いなる存在は永遠のもの」と認識しておいたらいいと思います。

すべての理解にまさる安らぎ

人生のどこかで悲劇的な喪失に出会い、その結果として新しい次元の意識を
経験した人は多い。 持ち物のすべてを失った人もいれば、子供や配偶者を、
社会的地位を、名声を、肉体的能力を失った人もいる。
場合によっては災害や戦争によってあらゆるものを同時に失い「何も」残されていない事に
気付いた人もいる。それは「限界的な状況」と呼んでもいいだろう。
何に自分を同一化していたにせよ、何が自分自身という意識を与えていたにせよ、それが
奪い去られた、そこでなぜかわからないが、当初感じた苦悶やはげしい恐怖に変わって、
ふいに「いまに在る」という聖なる意識、深い安らぎと静謐と、恐怖からの完璧な自由が訪れる。
この現象は「人のすべての考えにまさる神の平安」という言葉を残した聖パウロには
なじみのものだったに違いない。確かにこの安らぎは筋が通らず、人は自分に問いかける。
こんなことになったのに、どうしてこのような安らぎを感じられるのだろう、と。
エゴとは何でどのように作用するかがわかれば、答えは簡単だ。
あなたが自分を同一化していた形、自己意識を与えてくれた形が崩壊したり奪い去られたり
すると、エゴも崩壊する。

エゴとは形との同一化だからだ。もはや同一化する対象が何もなくなったとき、あなたは
どうなるか?まわりの形が死に絶えた、あるいは死にかけた時、あなたの「大いなる存在」の感覚
「私は在る(I Am)」という意識は形の束縛から解放される。
物質に囚われていたスピリットが自由になる。あなたは形のないあまねく存在、あらゆる形や
同一化に先立つ「大いなる存在」という真のアイデンテティの核心に気付く。
自分をなんらかの対象に同一化する意識ではなく、意識そのものとしての自分という
アイデンテティに気付く。
これが神の平安である。あなたという存在の究極の真実とは、私はこれであるとか
あれであるとかではなくて、「私は在る」なのだ。
大きな喪失を経験した人のすべてがこの気付きを経験して、形との同一化から切り離される
わけではない。
一部の人はすぐに、状況や他人や不当な運命や神の行為の被害者という強力な精神的イメージや
思考を創り出す。この思考の形とそれが生み出す怒りや恨み、自己憐憫などの感情に
自分を強く同一化するから、これが喪失によって崩壊した他のすべての同一化に
たちまちとって代わる。言いかえれば、エゴはすぐに新しい形を見出す。
この形が酷く不幸なものだということは、エゴにとっては大した問題ではない。
良くも悪くも同一化できればいいのだ。それどころか、この新しいエゴは前よりもっと凝縮されて
強固で難攻不落である。

悲劇的な喪失にぶつかったとき、人は抵抗するか屈するかしかない。深い恨みを抱いて
苦々しい人生を送る人もあれば、優しく賢く愛情深くなる人もいる。
屈するとは、あるがままを受け入れることだ。人生に向かって自分を開くのである。
抵抗すると心が縮こまって、エゴの殻が硬くなる。あなたは閉ざされる。抵抗している時に
(否定的な状態の時に、といってもいい)どんな行動をとっても、さらに外部の抵抗に遭う。
宇宙はあなたの味方にはならない。人生は助けてはくれない。(中略)
抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が開ける。
そのとき行動が必要であれば、あなたの行動は全体と調和したものとなり、創造的な知性と
開かれた心、つまり条件づけられていない意識によって支えられるだろう。
状況や人々が有利に、強力的に展開する。不思議な偶然がおこる。
どんな行動も不可能ならば、あなたは抵抗の放棄と共に訪れる平安と静謐のうちに安らぐだろう。
それは神のもとでの安らぎである。(p122-127)


このパートを初めて読んだ当時、私の状況とぴったりで、「見てたの?!」と
思ったくらいw 驚かされたのを覚えています。
それほどエックハルト氏がエゴの構造を見事に言い当てている&私が完全に
エゴにとりつかれていた、ということです。
2015年末に「とある出来事」によって、義実家が資産を失う事が決定したとき、
強いショックを受けましたが、同時に私は平安を確かに覚えていました。
嫁ぎ先(=玉の輿といわれる事は自慢=アイデンテティの一つでした・・これはエゴ)が
不動産も人手に渡り・金銭的に厳しい状態に陥ることはエゴの崩壊にあたります。
そして、同時にやってきた平安とは、
前にも書いたと思いますが、義実家(4家族が泊まっても十分なスペースがある
家屋でした)が人手にわたることで(転居先は手狭)、
毎年恒例の年越し帰省がなくなる!という喜び&姑の金銭にものをいわせた支配が終わる!
(しかも、これらは崩れることなくずっと続くものだと私は「思い込んで・諦めて」いただけに
 ものすごいサプライズだったのです)
という安堵感でした。 

しかし、エゴのなんたるかも知らなかった私は、その後に発覚する「とある出来事」について
姑がついた嘘・新事実を知ると、今度は途端に「被害者」というアイデンテティにしがみつき、
自分がいかに不当な扱いを受けたか・従順に接してきたのに酷い仕打ちを受けたか・・と
恨みをもち、苦しむ状態に陥ったのです。
”状況や他人や不当な運命や神の行為の被害者という強力な精神的イメージや
思考を創り出す。この思考の形とそれが生み出す怒りや恨み、自己憐憫などの感情に
自分を強く同一化するから、これが喪失によって崩壊した他のすべての同一化に
たちまちとって代わる。言いかえれば、エゴはすぐに新しい形を見出す。 ”

もう↑まさにこの状態だったわけですw
その後、自分の中のおさまらない怒りの原因・根っこを見て行ったら
自分の姑への接し方に、創価時代の刷り込みが背景としてあったことが判明し、ビックリした・・
という話をこの記事に書いています。 
そして根っこがわかれば、どういうわけか怒り恨みの感情はサーっと引いて行きました。
自分が自分を解ってあげられたから、安心したのだと思います。

そしてこの構造は、アンチ創価で長く機能不全をおこす仕組みと同じだと気付きました。
「覚醒」によって、清く正しい組織の一員というアイデンテティの崩壊がやってきたとき、
ショックと同時に、安堵も生まれたと思うのです。 
それは誰にも見せないよう押し隠していた理不尽さが認められる・やっと日の目を見る、
長年自分が感じてきた矛盾違和感はやっぱり間違いがなかったんだ!という、晴れやかさでした。
もう意味不明の恥ずかしい各種活動をしなくてすむ!という開放感もありましたね。
しかし、「覚醒者」となって晴れやかすっきり~!で、
その後を何の引っかかりもなく歩むということが、まずない事は皆さんもご存じのとおりですw
(軽やかに進むことができた人は、エゴがとても軽い人だと思います。そういった方は幸いです)
今度は「アンチ創価」というアイデンテティにしがみつく。
創価のせいで私の人生を・家族を・青春をむちゃくちゃにされてしまったのだ!という、
被害者と言う強力な精神的イメージと「創価は社会の巨悪」という思考に占拠され、
倒さねば!許すまじ!と恨み憎しみを持ち続ける・・という状態を作りだしていました。

なにがそうさせていたのか、エゴがそうさせていたんですねw

だから、気付いた人は笑って手放せばいいと思うんです。
あー、私って・俺って、エゴにとりつかれてずっと怒ってたんだな~!テヘペロ、くらいにw
それが「俯瞰で見る」ということです。
エゴは、残念ながら完全になくすことはできません。
アンパンマンにおけるバイキンマンみたいなもので、呼んでないのにいつもどこからか
やってきて悪さをする・・そんな存在です。 
バイキンマンほど可愛いもんじゃない場合もありますがw
だから、「見つけた!」(気付いた)時は、さっさと追い払えばいいんです。
追い払っても隙を見てまた来るけどw その時はやっぱりまた追い払うのです。 
そう繰り返せばいつの間にか、悪さも可愛いレベルになっていくと思います。
あんまり大げさに考えないのが吉です。

いつまでも恨み憎しみを握り続けている必要はありません。
もちろんそれをライフワークとして・好きでやってる人の事は、いつものように止めませんw

ここで「創価は社会の巨悪、は正しい。間違いではない!」と怒りだす人もいそうですが
確かにそう思ってる人が大半で一般人もしかりです。
私も創価が「善」だとは思っていません。 
ただ「巨悪」だとまでは、最近思わなくなりました。
正直言うと「どうでもいい(存在)」です。
すくなくとも私の生活圏、自分の世界には全く不要なものなので
関知しない・採り入れないようにしています。

なぜ「巨悪」だとまでは思わないかと言えば、今現在も確かにその組織に救われている
(と信じている)人がいます。
イケダセンセーは素晴らしいって、心底うちふるえてるめでたい人だって存在するのです。
件の3人だってそうでしょう。生きる理由になってると思います。
そして私だって、覚醒前まで40余年、日蓮仏法創価版に救われていました。
これらはすべてリアルな話で、巨悪なんてみじんこも思わず、外界を知らず・
ただひとつを信じるが故に成り立っている(いた)「善」の世界が、今この瞬間にも
確かに存在しているのです。

何度も繰り返しですが
覚醒は「思考の背景」が変わったから、善だった世界が悪になっただけの話。
黒と白は、状況に寄りけりで、いとも簡単にひっくり返ります。オセロみたいなもんです。
私にとっての悪も誰かにとっては善だし、逆もあって、時と場合により変化する。
これを「高次から見て物事は中立」というのです。
ただそれだけの話だと、もう解ったらジャッジする必要がなくなりました。

エックハルトの言う「抵抗」はこの場合、「恨みつらみを握りしめる」こと・執着でしょうし、
「受け入れる」は「恨みつらみ、執着を手放す」ことに当たるかと思います。

恨み続けるのも、創価を殊更の問題とし・敵視&注視していくことも、エネルギーの消耗、
時間の無駄じゃないでしょうか?
お笑いネタとして楽しくヲチしている、または研究対象としてやってる方は別として・
各種情報を眺めていたって、憎しみからの目線では少なくとも
「楽しい・素敵な・いい気分」にはなれないと思うんです。
もっと他に見るべき対象が絶対ある。
自分を心地よく、楽しくさせてくれる対象がいくらでも。そっちを見る時間にあてたほうが
人生は有意義に・楽しくなることでしょう。

恨み憎しみ続けないとやっていられないんだよ!という人は、
おそらく「自分(や周囲)の不遇・不幸の原因は創価」にしておきたい方でしょう。
それはエゴなのですが、そのエゴから解放されない限りはずっとそのままです。
つまり「創価のせいで不遇で不幸な自分」というアイデンテティ下にある以上、
そのような現実ばかりを見聞きすることになりますし、
「創価のせいで不遇で不幸」なまま一生を終える事になります。
自分でその事に気付いて、思い込みを変えない限り、残念ながらそうなります。

前にも書いたと思いますが、思考は現実化します。
自分が信じていること(内面)が、今も目の前に現象として現れているのです。
だからよくよく、思考には気をつけないといけないし、
上記のようなネガティブな思い込み(観念)を持ち続けたまま生きる事は、賢明といえません。
(思い込みじゃない!事実だ!という人もたぶんいるでしょうが・・それがエゴなのですw
 詳しくはこの後に続いて行く章や、他の本の紹介で触れて行くつもりです。が、
 エゴに気付くための「今にある」実践を積み重ねる中で、自分の感覚・腑に落とさない限りは、
 いくら文章読んだって 理解できないかもしれません。)

わざわざ、不機嫌で不愉快な気持ちになる情報やニュースを自ら見に行ってしまう事が
いかに自分の魂にとってマイナスか・・それらを見ている時、自分の気持ちはほっとしているか・
幸せなのか・楽しいのか。チェックしてみることをお勧めします。
それらが思考を形作り・助長しているからです。
むかついたり、卑下するような思いを抱いたり、攻撃的な気分、その情報に触れることで
自分の恨みつらみ怒りを正当化しているような気分、ネガティブでわだかまるような感情であれば、
それは自身の内面・外面=生活にとって害でしかありません。
目の前の現実は、チャンネルを変えるのと同じで自分で切り替えることが出来ます。
自分で選べるのです
悩まれている方や、面白くないことが続いている・なかなか気分が晴れないという方は
ぜひ、自身がどんな情報に反応しやすいか・好んでチェックしているかを点検し
「観心」してみるとよいと思います。

手放すだけなんです、本当に。
簡単に言うなと怒られそうだけどw 
1%でも、そんなアイデンテティに自分を不幸にされてたまるかよ!と思った方は
是非に「ニュー・アース」を全編読んでみてほしいと思います。

第二章はこれにて終了です。次回から第三章に入ります。

ちなみに第十章まであるので、最後までたどり着くのは本当にいつになるやら
わかりませんし、私が途中で飽きてやめないとも限らないのでw
ご自身で一読されることを重ねてお勧めします。

(次回に続きます)


ニュー・アース 第二章(7)

内なる身体を感じる

身体への同一化はエゴの最も基本的な形の一つだが、ありがたいことにこれは
最も簡単に乗り越えられるアイデンテティでもある。
ただしそのためには、自分は身体ではないと自分に言い聞かせるのではなく、関心を
外形的な身体や自分の身体に関する思考ー美しい、醜い、強い、弱い、太り過ぎ、やせ過ぎー
から引き離して、内側から感じられる生命感に移す必要がある。
外形的な身体がどんなレベルにあろうとも、形を乗り越えたところでは身体は生き生きとした
エネルギーの場なのである。


内なる身体への気付きに慣れていないなら、しばらく目をつぶって自分の両手の中に生命感を
感じられるかどうか試してみるといい。
そのときは、心に聞いてはいけない。心は「何も感じない」と答えるだろう。
さらには「もっとおもしろいことを考えたらどうだい」というかもしれない。だから心に尋ねる代わりに、
じかに両手を感じる。つまり両手の中のかすかな生命感を感じるのである。
生命感はそこにある。それに気付くには、関心を向けさえすればいい。最初はかすかなちりちりした
感触かもしれがいが、やがてエネルギーあるいは生命感を感じる事ができる。
しばらく両手に関心を集中していると、その生命感は強くなっていくだろう。

(中略)

この「内なる身体」は、本当は身体では無くて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ。
できるだけしょっちゅう、内なる身体を感じる習慣をつけるといい。そのうち目を閉じなくても
感じられるようになる。

ところで、誰かの話を聞きながら内なる身体を感じることはできるだろうか。
逆説的ながら、内なる身体を感じている時には、実は自分を身体と同一化していない。
また心とも同一化していない。要するにもう自分を「形」と同一化せず、形への同一化から形の
ないものへの同一化に移行している。
その形のないもの、それは「大いなる存在」と言ってもいい。

それがあなたのアイデンテティの核心である。
身体への気付きはいまこの瞬間にあなたをつなぎとめるだけでなく、エゴという牢獄からの
出口でもある。さらに免疫システムも、身体の自然治癒力も強化される。
(p114-117抜粋)


「ニュー・アース」を1回目に読んだ時、軽い衝撃を受けた部分がこのパートです。

自分の「生命」「生命エネルギー」に気付いたことはおろか、関心を向けた事も
うまれてこのかた一回もなかった! ということにまず、自分で驚いてしまったのです。
それは未知の領域でした。
あたりまえすぎて考えた事もなかった、といいましょうか・・。
身体と・こころと・思考を個々の存在とし、切り離して捉えた事なんてまずなかったし・
そんな発想すらなかった頃でしたから。
「身体とこころと思考は一体」という認識(していたかどうかも今となっては?
あまりにも無意識)で生きていました。

グリーンで色づけした部分に書いてある事を、本を読んでさっそく実践してみたのです。
(注:中略部分にはエネルギーを感じるための簡単な手順がさらに書いてあります)

最初、まったくといってよいほど、手のひらの上に「感覚」がやってきませんでした。
手のひらを上に向けて、何かが湧き上がってくるイメージをしてみるも
うんともすんとも、何も感じないw
「私、ほんとに生きてる?」とw 自分に対し半信半疑になったほどでした。
自分の中に確かに流れているエネルギーというものを、知らなかったというか見ていませんでした。

もう少し後のパートには簡単な瞑想の方法が出てきますが、それをやってみた時に初めて
両掌が暖かくなって、熱が自分の身体から発せられている事を感じ取ることが出来、
「これが私の身体から発しているエネルギー(熱)なんだなぁ」と実感しました。
きっと、普段からヨガなり、ジョギングや水泳なり、呼吸に意識を向ける運動をしている方は
すぐにその「エネルギー」に気が付けると思います。 
そして「エネルギー」が、思考や身体とはひっついていない別個のもの、という感覚も
体感で理解できると思います。←この体感、めちゃくちゃ重要です。

「エネルギー」が身体という入れ物におさまってる、それが”いまここ”にある自分。
「エネルギー」は形を持ってない。
この「エネルギー」を「魂」と言い換えた方が、日本人的には解りやすいかもしれませんが
それこそが「大いなる存在」なのだと、エックハルトは教えています。
(「内なる身体」=「エネルギー・魂」=「大いなる存在」)

この「内なる身体」は、本当は身体では無くて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ
とあるように、エネルギー(魂)と入れ物(身体)は別個のものだ、ということを理解でき
切り離して捉える事があたりまえになると、
うつ病なんか薬が無くても治せると、私は思います。
身体というエネルギーの入れ物と思考とを結び付けすぎて、
さらには思考に振り回されすぎて・とらわれ過ぎて・偏り過ぎて
暗黒面ばかり(自分の思考に)見せられてしまうことが、うつ病の原因といっても
きっと過言じゃないでしょう。
「頭でっかち」という言葉のとおり、思考ばかりが優先して先走って、状況や周囲が見えず
自分の脳内が勝手に作り上げた暗いストーリー(思い込み)にどっぷりとハマりこみ、
心や体をなおざりにしているうちに、機能不全を起こした状態(=うつ)といえるのでは
ないでしょうか。

苦境・辛い状況や、思うに任せない状態って、
結局は「その時の頭の中身・思考状態」です。
思考の背景によって決定づけられるイメージともいえます。
もうだめかもしれないとか、諦め状態の時、先々の悪い想像や見通ししか浮かばない時、
結局それは「頭の中で自分が作り上げたストーリー」にどっぷりハマりこんでいる。
以前も書きましたが「高次から見て出来事は中立」です。
出来事は必要があって起きている、という視点を持っていれば、殊更ネガティブに陥った後に
自分で自分を追い込むような事には、発展しないのです。

たとえば事故に遭った、病気になった、盗難に遭った、子供が不登校、非行に走った、
その他もろもろ何か事が起きた場合に
「悪い事がおこった!」と即座に決めつけたり・思わないのが賢明です。 とはいえ
なかなか難しいところではありますが。
なぜならそれは(高次から見て)悪い事、ではないからです。
悪いことだ!と感じてしまうのは、これも前に書いたとおり「思考の背景」がそうさせている。
世間一般常識、経験則に当てはめてるからそう感じてしまうだけの話。
「災い転じて福となす」という言葉がありますが、一見災難のようにも感じられるその出来事が
思ってもみない好転反応をおこすことだって十分ありうるのです。
なので一瞬落ち込んだり、悲しんだり、怒ったり・・というわいてくる感情については受け止め
解放してやる(決して我慢はしない。感情の抑圧は鬱になりますから)
で、ひととおり怒ったり泣いたりすればスッキリしますよね。
そのあとが肝心で、決してその出来事に対してわいた「悪しき感情」に執着を持たない・
グダグダ頭の中でその出来事を増長させないのが、とても大事です。

「悪しき感情」への執着=エゴの仕業だと、早めに気づくことです。

概ねそのような出来事が起きた時は「立ち止まって、休みなさい」というサインです。
当事者にとってもだし、その出来事を見て右往左往したり・仏罰だ!なんてファビョってしまってる
傍観者のあなたに対してのサインでもあります。 
「問題」と感じずに「いま」に在ることが出来る人にとっては、上記は問題にはなりません。
前にも書いたとおり「問題」にした人には本当にややこしい問題になっていきます・・
先のことなんてどう転ぶかわからないのに、悪い想像しかできずに対応したことで
さらに事をこじらせたり、長期化させたりするのです。
「いま」に在るなら、先のことはどう転ぶかわからないから想起しない。
不安は思考が作り出しているんだ、ということに早めに気付く。
そして自分の心身が落ち着けるような対処をとる。
とりあえずお茶を飲むとか、その時食べたいものがあれば採るとか、
体温が下がってるなら暖かくする、座ったり横になって休むなど
身体のケアをする(これらは「現実逃避」ではありません。大事なことです)。
そうして内なる身体・エネルギーにまず意識を向け・充電すれば心も落ち着いてきて、
冷静に状況を見ることも出来るようになるでしょうし、
慌てている時は絶対に見えてこない「抜け穴」をあっさり見つけたり出来るものなのです。
「ない」と思っていたものが「ある」ことに気づけるのは、落ち着いている時だけです。
そして出来事は「過ぎて」いくものであり、次なる展開への布石なのだと解るようになります。
一見ネガティブに思える事が、実はポジティブを開く扉だった!という気付きになることだってある。
だから「出来事は必要があって起きている」という視点をもつことが大事なのです。

瞬時に「悪事だ」と決めつけず、「中立だ」とまずは捉え、
常に「いま」にあることが大事なのでしょう。
↑こういうことを、本当は宗教が教えてくれたら一番いいのだけど、
宗教団体の多くはビジネスだからw
儲からなくなったら困るんで、本当に幸いな生き方や物事の見方は教えないんですね。
教えるどころか、それ今が活動のしどきだぞ!新聞・票取り!なんて焚きつける。
いいように吸い上げて、団体側の養分にしてしまうわけだからorz
まったく困ったもんですw

頭の中がネガティブでいっぱいのとき、身体もなんだか元気をなくすし、心だって冷えてくる。
するとちょっとした「現象」を、ことさら悪い兆しのように見てしまったりする。
「思考」と「身体」と「こころ」が別個の存在だと知らない間は
ネガティブな思考に囚われ~紐つきになって身体にも不調をきたし~紐つきになってる
こころも病んでいく・蝕まれる・・といった、負の連鎖状態が完成しがちです。
先にも書きましたがうつ病などは、その代表格でしょう。

けれど、実際は「思考」「こころ」「身体」はそれぞれが独立している。
そのことをしっかりと認識していれば「思考」が作り出したネガティブに、こころや身体を
支配され・蝕まれる事はなくなります。
エックハルトが何故「思考を止める」提唱をしているのか、ここで生きてくるというか、
その意味を理解できると思うのですが、
「思考」が作り上げた悪夢の物語に、こころや身体を
飲みこまれないようにするため
 だと私は認識しています。

自分を苦しめたり、追い込んでいるのは、自分の思考だと「ただ」気付く。
苦しんでいる時も、追い込まれている時も、自分の中に静かに流れている
エネルギーに目を向け・気付く事は、重苦しい思考にとらわれた状態に
風穴をあける一助になると思います。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

ブログの趣旨を変えた頃(2016年6月~)より、繰り返し書いている事ですが、
創価の矛盾に気付いて、活動をやめたり・脱会した方は
出来るだけ早く、創価問題から離脱されることをおすすめします。

親や家族や友人がまだ学会員で・・という事で悩まれている方も多いようですが
それは、あなたの課題ではありません。
文字通り「親や家族や友人」当事者における課題(じゃない場合もあります、当事者が喜んで
やっているのなら、それは問題でも何でもありませんから・・)なのであって、
あなたは悩まなくていいんです。
考える必要も実はありません。
あなたが考えてもどうにもならない事は、ちょっと頭を働かせたらわかることだと思います。

で、自分以外の創価問題で悩んだり憤ったりわだかまっている方は
それ(他人の創価問題)がなぜ自分をそうさせているのかを、自身に問うていくことが
あなたの課題です。
その問題がどう自分の生活を脅かすのか、自分をどういった面で困らせるのか、
自分の生活の質を下げているのか?と、掘り下げてみるのです。
するとおのずと解決策が見えてきます。
「その問題に関わらなければいい(意識を向けない)」 これだけです。

自分の人生は自分のものです。自分を生きるのは自分だけです(あたりまえ)。
その人生を、誰にも明け渡してはいけません。
私たち福子は長らく、宗教団体やその団体の長に自分の人生を明け渡してきた。
その癖が抜けきっていないうちは、組織と離別を決意してもなお
他者(親家族含む)の事が気にかかって仕方ない。
「自分」をおいてきぼりにし、他者のことばっかり気にして躍起になったり執着する
傾向があります。
そうすること(他者の創価問題をなんとかしようとする)を「救済」のように思っている・
まだ目覚めない親家族を助け出さない自分は悪意の人みたいに思っている。
実際はただのおせっかいなのにw
そして、それが創価時代の「折伏精神」と何ら変わらないことに気付いてない。
(過去の私が、まさに上記タイプでした)

他者を変えようなんて、思わなくていいし、それは無理。
他人を変えることに満足を見出すーそれはエゴの性質だと知ることです。

真の満足は、自分が自分を認められたところにしか存在しません。
他者にわだかまるよりもっと前に、自分が自分を満足させてあげられることに注力する。
それが自分を生きるための早道だと、私は思います。

あと、組織の事をgdgd考えているその状態は、あなたの生活の質をたいして向上させないと
思うのですがw いかがでしょうか。

悩める方には自分の事、自分の生活を大切にしてもらいたいなーと願っています。

(次回に続きます)

ニュー・アース 第二章 (6)

身体との同一化

モノ以外に自分を同一化させる基本的な対象は「私の(my)」身体だ。
体はまず男か女だから、ほとんどの人の自己意識の中では男性であるか女性であるかが
大きな部分を占める。その性別がアイデンテティになる。
自分の性別への同一化は幼いころから促され、役割意識が植え付けられ、
性的な面だけでなく生活のすべてに影響する行動パターンを条件づけられる。
多くの人たちは完全にこの役割に囚われている。が、性別に関する意識が多少とも
薄れかけている西欧より一部の伝統的な社会のほうがその傾向は一層強い。
そのような伝統的な社会では、女性にとっては未婚や不妊が、男性にとっては性的能力の
欠落と子供をもうけられないことが最悪の運命となる。
満たされた人生とは性別というアイデンテティを充足することだとみなされる。
西欧では物理的外見的な身体が、つまり他人と比較して強いか弱いか、美しいか醜いかが
自意識に大きな影響を及ぼす。多くの人々の自尊心は肉体的な力や器量、容姿、
外見などと強く結び付いている。身体が醜いとか不完全だと思うために自尊心が委縮して
傷ついている人たちは多い。
(中略)

美しい容貌や肉体的な力、能力などと自分を同一化している人は、そういう資質が
(当然のことながら)衰えて消えていくと苦しみを味わう。それらの資質によるアイデンテティ
そのものが崩壊の危機にさらされるからだ。
醜くても美しくても、つまりマイナスでもプラスでも、ヒトはアイデンテティのかなりの部分を
身体から引き出している。もっと正確にいえば、自分の身体に関する精神的なイメージや
概念を間違って自分だと思いこみ、その思考に自分を同一化しているが、実は体も
他の物理的な形態と同じで、すべての形がもつー 一時的なもので結局は滅びるしかないー
運命を分かち合っている。
近くに感知される物理的な身体はいずれは老いて衰え、死ぬ運命に在るのに、
その身体を自分と同一視すれば、遅かれ早かれきっと苦しむ。

身体にアイデンテティを求めないということは、身体を無視したり嫌悪したり、かまわずに
放置することではない。身体が強くて美しく、背力的ならば、その資質をーそれが存続
するあいだはー感謝して楽しめばいい。
さらに正しい食生活や運動で体のコンディションを改善することもできる。
身体を自分と同一視していなければ、美貌が色あせ、精力が衰え、身体の一部や能力が
損なわれても、自尊心やアイデンテティは影響されないだろう。それどころか身体が衰えれば、
衰えた身体を通して形のない次元が、意識の光がやすやすと輝き出るようになる。

完璧に近い優れた身体をもつ人々だけが身体と自分を同一視するわけではない。
人は「問題のある」身体にも簡単に自分を同一化し、身体の欠損や病気や障害を
アイデンテティに取り込む。そうなると自分は損傷や慢性的な病気や障害に「苦しんでいる者」
だと考え、人にもそう語る。そして障害に苦しむ者、感謝という概念的なアイデンテティをつねに
確認してくれる医師その他から多大の関心を獲得する。
すると無意識のうちに疾病にしがみつく。それが自分の考える「自分自身」アイデンテティの
もっとも重要な部分になるからだ。
それもエゴが自分を同一化する思考の形の一つである。エゴは一度発見したアイデンテティは
手放そうとしない。驚くべきことだが、より強力なアイデンテティを求めて、エゴが疾病を
創り出すことだって珍しくはない。
(p109-114)


以前「外付けパーツ」の話を書きましたが、今度は「身体(生命の入れ物)」について。

体型や肌の色、髪の毛の有無、美醜といったものもやはり「外付けパーツ」であって
「わたし」そのものではない。
年齢を経れば変化していくし、環境によっても左右される。
中略した部分に拒食症のことが書かれているのですが、若い女性が見た目を異様に気にして
行きすぎた食事制限をすることも、エゴに取りつかれた状態であると書かれています。
誰かと比べて自分をいじめるような事は、生命そのものを傷つけているようなもの。
エゴって、地獄からの使いみたいなもんですw
あるがままをまず受け入れる・自己肯定のためには、
自分が生かされている奇跡と幸いについての「気付き」「意識」が必要であると思います。
ダイエットをしたり、自分磨きするにしても自己否定から入れば欲求は尽きません。天井知らずです。
美容整形を経験した人が、一か所では済まずに「次は豊胸」「もっと鼻を高くしたい」etc
止まらなくなるという話はよく聞くのですが、これも命ある幸いを無視した・自己否定が
ベースにあるからなのでしょう。
まず、命あることが幸い。この身体(生命の入れ物)を授かっていることが幸い。
そう心から感じていれば、自分の身体とも仲良く出来ると思います。
(べつに整形を否定している訳ではないのです。
エゴにとりつかれて顔面崩壊するのは怖いよね!ほどほどにしようね!ということで。)

また肩書きや社会的地位の前に、男性であるか・女性であるかということもアイデンテティに
含まれており、女性も男性もその「性」にまつわる事柄において
比較や格差を感じることによって、執着を持ってしまう傾向について述べられています。
男女ともに、「恋人」や「結婚相手」がいないことに不足を覚え、周りの目が気になったり・
自分はおかしいのではないかとわだかまったりすることは、大いにあると思います。
また、結婚すると今度は「子供」がいないことに不足を覚えることもあります。
それらが(恋人、結婚相手、子供)ないと、自分は「完璧になれない」「完成されない」
「(女や男として)完全ではない」という不足感や欠乏感からくる苦悩は、エゴの仕業です。
そんなものがなくても、いのちある時点で完全なのです。

基本的な捉え方として、自分vs外界(周りの世界、世間)を比較で見ない事が大切なのだと
思います。 
他との比較で見てしまうと「あれもない」「これもない」となって、自分自身の生命の尊さ・
呼吸が続いている奇跡、幸いをまるまる見失うからです。
また「あいつよりは持ってる」「恋人いる・結婚してる・子供居るから自分の方が上」というような
「下見て満足」も、エゴに取りつかれている状態です。
それらはやっぱり「外付けパーツ」であり、状態は一定ではなく変化し、いずれは失います
(別れ、離婚や死別、自分の寿命)。
言うまでもなくそれらの有無は人生の幸、不幸を決定づけるものではありません。
いろんな生き方があって良いのだから、他との比較で矮小になる必要なんかないんです。
このブログを読んでいる若い人で、恋人がいないとか、結婚が出来ないから「自分はだめだ」とか
「自分は劣っている」ように思う方がもしいたら、何故恋人がほしいのか・結婚がしたいのかを
自分に聞いてみましょう。
「世間体が・・」「周りが・・」「自分だけ独身は世間に対して恥ずかしい」
というのであれば、恋人ができても結婚出来ても、次なる不足感や不満足がおそらく来ます。
外の世界(一般世間)との比較をやめない限りそうなります。
エゴとはそういうものだからです。
恋人がいなくても、結婚相手がいなくても「いま」私には生命があり、呼吸の連続と言う奇跡もあり、
幸いで不足はない、とわかっていれば・
そうして自分にわだかまらずに、自分と仲良くできる人のところに縁はやってくる、と私は思います。
または縁がこなかったとしても、人生が楽しい驚きに彩られていくでしょう。
なぜなら自分の内面が、心模様が、外の世界を作り出し目の前の現実で見せてくれるからです。
それを解りやすく教えてくれているのがバシャールで
「鏡は先に笑わない」という有名な一節があります(バシャール 鏡でぐぐると出てきます。
引用すると長くなるので、興味のある方はぐぐって読んでください)。
自分自身の内面世界が映し出されるのが、目の前に広がる現実だということ。
内面が変われば、少し遅れて目に見える現実も変わっていく。
環境に左右されるのではなく、まず自分の心状態ありきという法則です。

そして身体にとって「病気」さえアイデンテティという、驚くべき指摘。
”エゴは一度発見したアイデンテティは
手放そうとしない。驚くべきことだが、より強力なアイデンテティを求めて、エゴが疾病を
創り出すことだって珍しくはない。"


エゴは「かまってちゃん」なんですよね。
ここを読んで「うわっ・・思い当たる節ありまくり!」と怖くなってしまったのですが、
私の母は数年前(まだ猛烈創価脳だった時)国の難病指定疾患に罹りました。
現在も認定患者で、薬代や治療費の助成金を頂いております。
当時はどうしてそんな病気にかかったのか?さっぱり意味がわかりませんでした。
遺伝的なものもある、とネットサイトに書いてあったのですが、母の親族にその病気に
罹った人は誰もいません。
「ニュー・アース」を読んでエゴの構造を知るうちに、そういうことか!と合点がいったのですが
母は常々「自分は他人とは違う」という意識を強く持っています。
私は特別なんだ、という意識です。 
いいことに対しても悪い事にしても「私は特別」を発動させていました、大昔から。
それが日蓮仏法に紐ついた選民思想の軸にもなってると思います。
病気になりたいと願ってた訳ではないと思いますが、人生の仕上げという時期に来て
「難病認定」をもらうという、「私は特別」だと思いたい・アイデンテティがいつでも欲しいと願ってた
母にとってはある意味、宇宙からのギフトと言えるかもしれません?!
なぜなら、そのこと(難病認定)を自慢のように周囲に語っているからですw
「難病認定もらってるけど、私こんなに元気で活動的なの!海外旅行もいっちゃうし~」的な。
そしてそれを「信仰のおかげ」と胸張って言う、まるで勲章みたいなものになっているんです。
強い痛みや不定愁訴、手術やいつ終わるか解らない治療投薬を伴ってでも、
手に入れたかった(?)「難病患者」というアイデンテティ。
これを「願兼於業」と呼ぶんだなぁと、その言葉の意味するところがやっと納得できました。

学会員の方々にも、聞いたことないような難病に見舞われている人が多くいることを
SP紙上で皆さんもよく目にしていたかと思います。
また、私が以前居住していた地域でも、ある婦人部員の子どもさんが兄弟そろって心臓疾患で
幼い年齢の頃、連続で大手術を受けていました(=同盟題目お願いしますメールが来て
そのことを知りました)。
思い返せば、知ってる学会員の方でも難病にかかっている人・九死に一生を得るような
大事故で障害をおった方などなど普通に組織にいました。
いま、まったく学会と無関係の世間に身を置いてると、そんな人が誰もいないんです。
偶々なのかもしれませんが、見事に居ない。
これが何を意味しているのかといえば、学会員の多くは「難を乗り越える信心」という
思い込み(=刷り込み)ありきで生きています。
信心で困難を乗り越えること=学会員のアイデンテティ。
辛いことを乗り越えるための信心なので、辛いことや難問が必要・セットになっているのです。
いわば信仰、学会活動のモチベーションが、難病や諸問題。
辛い事も難問も無いのなら、信心なんかしなくていいのだから。
「こんなに辛いことや難病ありましたが、信心のおかげで乗り越えて生きています!」
難病や諸問題は、アイデンテティ充足のために必要不可欠なのです。
願って災いを受けているような感じが、しないでもありません。
私が女子部だった頃、100万遍唱題が課題のひとつにあって皆でとりくんでいましたが
なんでこんなに不幸がおこるの?!と思ってしまう状況が、自分にも周囲の挑戦者にも
ありました(この記事に書いています)。
当時はその原因がわからず「魔が競ってるから負けないように闘おう!」なんて
励ましあっていましたが・・なんのことはない、自分たちで難を引き寄せていたのですねw
今更だけど、すっごく合点がいきましたw

こんなことを書くとお叱りを受けるかもしれませんが、信心しても一向に幸せにならない・
何も上向かない・良くならないって方は、おかしな思い込みを握っているからそうなっていると
気付いたほうが良いと思います。
「幸せになったら、上向いたら、良くなったら困る」って、潜在意識が働いている可能性が
あります。
「幸せになったら、良くなったら、信心や活動をさぼるようになってしまうかもしれない!」
「天界に魔は棲むっていうくらいだから、幸せになったら堕落するかもしれない。
 だったら不幸なくらいがちょうどいい!」
という、無意識下の自作自演です。

またこれは、特定宗教を信仰していない一般人にだって言えることです。
願いがかなわない・・と言う時、必ず無意識下で「その願いがかなうと困る(ことがおきる)」
という、相反する思いを握っている可能性があります。
疾病で言うなら「病気が治ったら周囲にかまってもらえなくなるかもしれない」し、
恋人がほしいなら「自由を奪われるかもしれない」など。
お金がほしいも「人にねたまれたり恨まれるかもしれない、盗難に遭うかもしれない」
その願いが叶うのと引き換えに、今のポジションを手放さなければならない・
危険にさらされるかもしれない・・そんな思い込みがブレーキをかけて
「不足」の現状を維持するという、これはエゴの仕組みだそうです。

また、その願いや願望が叶わないから「自分はダメなんだ」「劣った人間だ」というように
その願いがかなわないことを「自分責め」の材料にしている間は、願望が達成されることは
ありません。仮に達成されたにしても、すぐまた別の「不足」「不満」が生じてきます。
いったい何故なのか、「自分責め」はエゴが生き延びるための餌だからです。
エゴが居場所や目的を失うことを究極に恐れていることは、これまでもエックハルトが
教えてくれた通りです。

自分が「完全ではない」「不幸である」「不足している」「十分ではない」という思い込みが、
いかに恐ろしいか、上記の例で解っていただけるでしょうか?
もと創価脳の方なら、理解できると思うのです。

生きているだけで、呼吸の連続という奇跡を「いま」体験していることで
自分がいかに幸いな存在であるか、もう認める。
だって本当にそうなんだから。
この「生きているだけで丸儲け」がベースにある人生が、ないものねだりや青い鳥探しに
陥らないことは明白です。


(次回に続きます)