神社参詣と神棚のこと

前回、神社参詣を通じて「他力=大いなる存在」に気付くことができたと書きましたが
他にも以下の気付きがありました。

まず一つ目に
「私は、日蓮仏法を捨てた時点で、祈りや願いを封印していた」
でした。
これは全くの無意識でしていたことで、最近になって気付いて驚愕したんです。
祈りや願いを封印した結果、どうなったのか・・そして、神道を通じて「祈り・願い」の力を
再び教えられた経緯をお伝えしたいと思います。

二つ目が
「他力=大いなる存在は、祈り願う誰人をも無条件で助ける」
ということです。
下線入れました「無条件」ここがミソです。

三つ目が
「そして私は、生まれてこのかた実はずっと
 大いなる存在に助けられていたとわかった」
です。
創価脳時代、いくつもの願いをかなえました。当時は「ご本尊様」に祈ったおかげだ!と
思ってきました。が・それは実際のところ、「ご本尊様」を通じ「大いなる存在」へ
アクセスしていた、それで願いを叶えたり・なにかと護られたり、不思議な体験を
してきたのだ・・と、理解し・腑に落ちたのです。
つまり、祈りの対象は何であれ、その願いは「大いなる存在」へ届き、
自分が願って叶ったことは「他力=大いなる存在」の作用である
だからどんな宗派であっても(勿論日蓮仏法でも)願いは叶っているのだ・・
と、私は解釈しました。

上記3点を軸に書きたいと思います。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

まず、神社観について。
創価家庭に育った人の大半は「神社なんて行かなくてよい」と親に教わったと思います。
私ももれなくで、「神社には悪鬼魔神が住んでるよby日蓮」が思考の背景にありました。
残念なことに、幼稚園の遠足で神社に行った日の夜、高熱+嘔吐でシンドイ思いをし
幼心に「仏罰があたったんだ!」と、トラウマになってしまいました。たった1度のことなのにw

父方の親戚に大きな神社があり、遠方でめったに里帰りしない父を案じてか
祖父母が時折、そちらの神社の御祈祷札やお守りを送ってきました。
その小包を見ただけで、私は頭痛や吐き気を催していたのです。
母はそんな家系の父と結婚したことを「自分(=母)の宿業が深いせいだ」と申しておりました。
なんでもかんでも不幸の材料にしたがるw どんな宗教なんだよ!と、今となると思います。
物心ついたころから「神社は禁忌・鬼門」だと刷り込まれ、
大人になって以降もできるだけ近寄らないようにしていました。 
そんな私の「思考の背景」が変わったのが、覚醒前の2010-2011年頃。
日本史の本を読むようになって、それまで抱いていた神社へのイメージががらっと変わりました。
(この記事に書いています)
以降、日本人として参詣くらいはお作法として出来なければ、いい大人なのに恥ずかしい!と
思うようになり、義実家帰省時の初詣に参加するようになりました。
ただまだ、この頃は「日蓮仏法最高!」と思っていたので、神社へ行ってもなにもお願いはせず
「無」の境地で、お題目を心で唱えていましたw

2012年秋、創価が宗教をかさにきた巨大ビジネスだった!と気付いた時も
「日蓮仏法は絶対だ」という考えは揺らぎませんでした。
創価の活動を一切やめても、日蓮仏法だけは個人信仰していこうと思っていたほど。
けれど、自分の信仰観を見つめなおすことで核となる「選民思想」に行き当たり、
2013年5月に旧友(東日本大震災の被災者)と再会し、九死に一生を得た体験を聞かされて
その「選民思想」が砕け散ってしまいました(この記事   )。
ここで私は「日蓮仏法は信ずるに値しない」という結論を下します。

日蓮仏法を否定する=それまでの生き方の根幹をまるっと覆すわけで、辛い事でした。
同時に、自分責めが始まります。
主には「祈ってればなんとかなる」という考え方を強く戒めるようになり。
そんなお花畑思想は捨てよう!と思ったのです。
此処で私は、祈ったり願ったり望んだりということを、やめてしまった・忘れたのでしょう。
「やめよう」と、特別に決意したわけではありません。
単純に、それまでの”祈る対象”が、無くなってしまい・・かといって「はい次~!」なんて
他の対象に飛びつくことも、したくなかった。 
何かを信じることに対して・・「宗教」に対して、特別悪しきイメージを持ってしまった事も
ありましたし、こんなに簡単に創価に40年も騙されてきちゃって、
自分が非常に愚かな人間なのでは・・またやらかすのでは?という懸念もあったのです。
「祈ればなんとかなる」というような、甘い考えは今後、排除して生きていかねば!と。
↑思えばこれが、そのあとに約3年続く「逆流の中を漕ぐボート」のような状況を
生みだしていたと、今だから解ります。

もし今、なにも祈る対象がなくなってて・願ったりしてない・出来ないって人は、
月でも星でも太陽でもかまいません、大いなる存在へ祈り願うことをすぐ始めてください。
もちろん神社やお寺へ行くことでもかまわないのです、抵抗がなければ。
とにかく「上(天・宇宙)を向いて」願って行くことって大事です。
それが人生を大きく下げない事に繋がります。

大いなる存在は、ぶっちゃけ何もしなくても助けてくれますが(絶妙な・ぎりぎりのラインでw)
「願い・祈り」を、表明したほうが、もっと話は早いのです。
そしてその「願い・祈り」に「嘘」が一切ないこともポイントになります・・が、この話は別記事で
書かせてもらいます。 

2013年5月以降、祈るのをやめた私は、現実に強くフォーカスするようになります。
「祈り願う」ことで得られる安心感がまるでなくなった為、かわりに現実に不安を感じないよう
目に見えるものを増強するようになりました。
それはまるで「大いなる存在」を否定するようなもの。
完全に「今にある」状態にはなく「まだそこにない未来」に強く不安を抱くようになりました。
何が起こるか分からないから、あれもこれもと先取りして考え・方策を立てジタバタとし
「取り越し苦労」が増えました。
希望的観測をもつことより厳しい見通しをもつことが主になり・・今思えば、なのですが
本当に2013年~昨年までの私は、その前と比べ疲労感が増大していたのです。
子供たちの成長に伴い(幼稚園と小学校)用事が増えたことプラス、厳しく現実を
見ていたので、子供たちに対しても「今やっておかなきゃ、あとで困るんだよ!」と
重荷を課すような事もしていました・・それにつきあう自分も完璧でいなくては、と肩肘張って。
役割をしょい込み、自らどんどん状況をタイトなものにし、「がんばり過ぎ」ていました。
「祈ってればなんとかなる」を封印してしまったから、
「他力」を知らなかったから、自分でやるしかない・自分がやるしか!と
ガチガチに肩に力を入れ、余裕なく思い込んでいたのです。

するとどうなったか。
やりたくない役割を頼まれるも「NO」と言えず、いやいや続けることに
なってしまったり・・人間関係が悪化しました。
2013年からガラリと周りにいる人たちが変わったんですが、どういう訳か次から次へ
厄介な人(?)ばかり現れるのですw
また、こちらが正義をふりかざして事に当たると全く解決せずこじれていくばかり、という
ケースにも遭遇しました。
しかし、人間関係の悩みなんてどこにでもあるし~とか・命取られるわけじゃないし・
実際自身の生存に関わるような問題でもなかった為、「どうも変な流れだな?」と
薄々思いながらも、深刻に思い悩んだり煮詰まるほどには、当時至っていませんでした。
最後には義実家問題で強制終了となったわけですが、本当に、「なるべくして」
この苦難に遭わせてもらえたんだなぁ・・とw
「そっちじゃないよー」と、大いなる存在が常々教えてくれたんだなと、今は解ります。
それでも私が気付かないから、ショック療法的な義実家問題が出てきちゃったのかな?と。
スピリチュアル系の本を読むと概ね、そう書いてあるんです「ピンチはチャンス」的なことが。
エックハルト氏も「人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える」と言ってました。
なので、もし今なんらか、人間関係・家族関係でうまくいかない流れや・苦難のさなかにある方は
”気付き・見直しのチャンス”だと捉えてください。
きっと無用な思い込みをたくさん握ってるよ!手放してね!という、サインです。

さて、ここからやっと神社のエピソードです(前置き長!)。

私が自ら神社へ出向き初のお祓いを受けたのは、2013年夏でした。(この記事
日蓮仏法を否定した後、精神的に落ち着かない状態が続き・自宅内で奇怪な現象も
続いたため、友人の助言を思い出してA神社へ向かいました。
その時は「お金で解決できるなら楽だ」くらいの考えで出向いたんです。
半信半疑でしたが、見事に御祈祷を受けたその夜から怪現象はなくなり、私自身も
精神的な落ち着きを取り戻しました。
この経験で「神社ってパワーあるんだなぁ(上から目線)」という感想をもちましたが、
これがきっかけでハマったという事もなく、その後暫く神社を訪れることはありませんでした。

次にA神社を再訪したのが、2015年の1月。
前年の暮れに、人間関係でちょっと心配な出来事があり、ふたたびお祓いをしたほうが
良いのではないか・・と感じて、年明けに伺ったのです。
そこで2月の「節分祭」を教えていただき、年の災厄をはらう神事に参加することに。
この記事の後半にも書いたのですが、その後、縁切り社であるB神社へも参詣したところ、
心配に思っていた事の張本人が、海外転勤でいなくなるという朗報があったのです。
ここで「神社って、やっぱすごいんじゃない?!」と、そのパワーを見直したというか。
この結果が何によるものなのかは当時わからなかったけど、
神社には災厄をはらうパワーが確実にある!と感じた出来事でした。

翌月、新居への引っ越しを控え、C神社にて方位除けの御祈祷を受けました。
そして新居の近くにある氏神様のD神社でも神宮大麻と御札を頂きました。
都合、御札が多数になったので神棚を祭ることにしたのです。
リビングにむき出しの御札を複数飾ることに抵抗があり、コンパクトに収納したいとの思いから
シンプルな一社祭りを選択。
何か特別な思い入れというよりは、インテリア(見た目)重視での神棚設置でした。
あまり仰々しくしたくなかったので、当時は御供・御榊もあげていませんでした。

新居近くのD神社はとても雰囲気が良く、初めて行った時から空気感が好きでした。
そちらへ月に一度参詣をするようになったのは、お参りをすると不思議と頭がすっきりすると
気付いたからです。
一か月無事暮らせたことへの感謝と・また来月もよろしくお願いしますという祈り。
そのD神社で、不思議な経験をしたのが昨年12月。義実家問題勃発した時でした。
主人が話し合いで帰省した日の朝、いてもたってもいられずお参りへ。
D神社で具体的なお願いをしたのは、このときが初でした。
早朝、誰もいない拝殿前で参拝を済ませると、突然上方からザーッと風が吹き下ろし
私の体の周りをくるくると暖かい風が巻き上げていくのです、葉っぱも舞っていました。
12月なので、暖かい風という時点でもうかなり不思議だったんですが。
えー?なにこれ?と思っていると、風がやんで頭の中に「全て思い通りになる」という言葉が
浮かびました。 こんな経験は初のこと。
一瞬のできごとで、その前後は全くの無風。不思議だな~と思いましたが、励ましてもらって
いるのかな?と嬉しくなり。
しかし、年が明けてから新事実が多数出てきてパニックで「どこが思い通りなの?!」と
不信に思ったんですがw 今はあの風が示唆だったとわかるのです。
”大きな風(ごたごたのアクシデント)が吹き去ったあと、思い通りになるよ”との意だったと。
実際、1月2月は波乱でしたが、おかげで大きな気付きを得ることができましたし、
出来事が過ぎた後の状況は、絶対変わるはずないと思っていたことが変わり、私の思い通りに
なりました。

2016年2月もA神社の節分祭へ参加しました。
御祈祷を終えて帰宅した直後、義母さんがらみで訴状が裁判所から届きました。
凄いタイミングで、この時も一瞬
「なんなの?!お祓いしてきたばっかりなのに!もう災いが来てんじゃん!」と
不信に思いましたw が、この日の夜に主人と話しているうちに急に馬鹿馬鹿しくなって・
私は全ての問題を「手放す」ことを決めたのです。
以前も記事にした通りですが、すべてがここから変わったと言っても過言ではないほど。
後になって「必要があって、起きたこと」だったとよくわかりました。
当時は様々悩み、このトンネルを抜け出ることはできるのか?と疑わしい心境でしたが
心理学やエックハルト・トール氏、現代の覚者の教えと次々に出会うことができ、
大きな気付きを得て、いまも気付きの連続です。

今だから言えることなんですが、この、神社参詣後に起きてくることのタイミングが
まさに「神の采配」で、絶妙だったのです、今までずっと。
(他にも小さなエピソードがいくつかあるのですが、長くなるので機会があれば別記事で)
2013年夏と2015年初頭なんて、まさに「困った時の神頼み」
普段まったく神社にいくでもない・神様を信じていたわけでもない私でも助けてもらえた。
必ず良い方向へと・思ってもみない解決策へとガイドしてくれていると気付いたのです。
「大いなる存在」が、動いてくれたとしか思えない。
これって、すごい事だよなぁ・・と、しみじみ驚いたのは今年の夏ごろでした(遅)。

創価脳時代の祈りや願いと比較したら、よくわかります。
「祈るだけじゃだめだ。信行学だ!」「自行化他に渡らなければ願いはかなわない」
組織じゃこんなケチくさい・厳しい事ばっかり、言われてましたよねw
本当は祈り願うだけでよかったのに、時間と労力と金銭奉仕(←ほぼこっちメインだったかも)を
励行されて。
だから時に凄く頑張ったりしてましたが・・頑張らなくても簡単に叶ってしまったこともあったし・
頑張ったってどうにも叶えられないこともありました。
叶った時は「ご本尊のおかげ」叶わなかったときは「これも意味のあること、あとでわかる」と
していました。
神社参詣するようになってから、スピリチュアル系の本を読むとこう書いてありました
「神の采配は完ぺきで、その人にふさわしいタイミングで物事が起きてくる。
 願いが叶う・叶わないも、神の采配である」と。
この2つの融解点を考えた時、私はひとつの答えを得ました。
「どの時にあっても、生まれてこのかたずっと自分を護ってくれて・時に願いを叶えてくれたのは、
 大いなる存在だったんだ!」
と。

OOの信仰をしていたから「願いがかなった」わけじゃないんです。
OOの活動をしていたから「願いがかなった」わけでもなかったんです。
崇敬対象がなんであれ、願い祈った時、あなたの思いは「大いなる存在」を動かす。
創価時代の「願望成就」は”たまたま”だったと、私は日蓮仏法を否定した時そう思ったのですが、
”たまたま”じゃなくて「大いなる存在」が叶えてくれていた。護ってくれた。
それだけのシンプルな話だと、理解したのです。
「他力=大いなる存在は、祈り願う誰人をも無条件で助ける」
だからやはり、枝葉的なこと(選挙活動・勧誘・新聞推進・その他)は無用だと
いうことです(いまさらですが)。
創価脳の皆さんが「願いが叶った」と思っているのも、実のところ「大いなる存在」に
願いが届いてるということですし・「頑張ってるのに叶わない」というのは願いが頓珍漢だから・
矛盾があるから、そもそも叶える必要ない、ということで。 
活動や祈りの数量は直接関係なかったということです。
↑このあたりに関しては、他にも考察あるので別記事で来年書いてみます。

そして言うまでもなく、「大いなる存在」は誰人にも平等です。
空気のように、誰人にもいつも寄り添っています。

あの信仰対象でなければだめ・この宗派が絶対・・そんなことは人間が勝手に言ってるだけの話。
そういった凝り固まった「選民思想」は、わだかまりを確実に生みます。
エックハルトが指摘しているように選民思想なんてエゴの最たる形ですからね。
自分がまっすぐに、素直に、願い祈れば、それだけで十分なのだと思います。

祈りや願いは、心に安心感と余裕をもたらします。
「大いなる存在」がいつも自分のそばについている。大丈夫だ!っていう気持ちでいれば
ガチガチにならずに済みます。
そういった意味でも、宗教アレルギーはちょっと忘れて「天」に向かって願うことを
してみてもいいと思います。
「大丈夫、自分はいつも見守られている」って、思うだけでも心持ちはずいぶん変わってくるでしょう。
要は「依存」しなければいいのであって、「ギブ&テイク」の考えも捨てることです。
無条件で助けてくださっているのだから、「これだけやったのに!」なんて思わない。
そもそも、「天」にむかって願うだけなら「これだけやったのに!」なんて感情は湧かないですよねw
そこに労力やお金が絡むからおかしくなるのです・・たぶん。

2016年2月から、神棚を三社祭にし、御榊と毎朝御供をし、朝夕の参拝を
しています。
神道の基本は、始祖崇敬であり、自然の恵みへの感謝です。
何千年と連綿と続く「命」「循環」への感謝。
神話には陰陽があり、生命体のすべて、宇宙のすべて、といってもいいくらいで
(古事記や日本書紀を読んでみてください)
神道でまつられる八百万神は「大いなる存在」ともいえると私は思っています。
朝夕、自宅の神棚にて
「生かしていただいて、ありがとうございます」
「いつも助けていただいて、ありがとうございます」という感謝を伝える。
シンプルで拘束感なく出来ますし、何より清々しいルーティンとなっています。
お供~参拝で3分くらいなので、気軽なところも続けやすく良い点だと感じます。

長文になりましたが、自分の現実はすべて自分の「思い込み」で出来ていると知ったら
心がけが変わります。 
本当に恐ろしい程、自分の思い通り・願いがかなっての「今」なんです。
だから思考には、よくよく気をつけたほうが良いのです。
絶望諦めよりは、何かを信じ希望を持って生きるほうがプラスであることは、言わずもがなです。

私の現状は、人間関係も家族関係も平穏な問題無いものになり、
日々機嫌よく過ごしています。
振り返れば、昨年のちょうど今頃に義実家の問題が発覚しました。
あのとき、こんな一年後を全く想像できませんでした。
今、好きな場所で音楽を聴きながら・マイペースでブログを書くことができている、
感謝しかありません。
あの一連の出来事がなければ、今をこんなに幸せに感じることもなかっただろうし、
そこでバシャールのいう「コントラスト」という言葉が、とてもしっくりくるのです。

過去も今も、あなたを苦しめるために在るのではありません。
自分の思考がそうさせているだけ、と気付くだけで世界は変わります。
気付けば・変われば、コントラストの意味も即座にわかります。
すべては自分次第です。

神社の話は一切でてきませんが、おすすめの本です。
意識の使い方・在り方がわかりやすく書いてあります。
タイトルが若干胡散臭いですがw同シリーズの「ワクワクの使い方」も
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他力=大いなる存在に気づくこと

この一年を通じて、私が神道から学んだことは「他力」の存在でした。
そしてこの「他力」が、エックハルト氏のいう「大いなる存在」だという事にも気付きました。

「他力」というと、創価脳的には「他力本願の”神頼み”」という悪しきイメージが浮かびがちです。
心の弱い人がやること、みたいな。
言葉の意味を調べると「他力本願」とは仏教用語で、阿弥陀仏による衆生救済の力を
指すのだそうです。 「仏の功力」ということですね。
ありがたいことに、これは仏の本願。つまり、衆生を救うこと・助ける事が「仏の願い」だと
いうことです。 そして驚くべきことに、仏は衆生に対して、無条件で救済の手を差し伸べ、
力を与えてくれるという。
知ってる言葉をここに当てはめるなら「大慈悲」です。

仏教から離れてみても、人は誰しも「他力」に支えられて生きています。
たった一人の・自分だけの頑張りで生きているわけではありません。
なかなか忘れがちなところですが。
孤独に思える時でも、電車やタクシーやバスで移動できるのは其処で働く人がいてくれるから、
コンビニでおにぎりや飲み物を買えるのも、製造・輸送・販売に携わっている人がいるから、
ネットが24時間つながるのも、電気やガスや水道がいつも使える事も、
各種産業に携わる誰かが働いてくれているから、
自分が支払うそのお金も、誰かのところから巡り巡って自分の手元にある。
また、自分が支払ったそのお金が誰かの元へと巡っていく。
何気ないようでいて、人に支えられ・自分も見えないところで誰かを支えて生きている。
モノ申さないけれど確かに存在する、そんな大きな循環=「他力」があるということに、
創価脳時代まったく気付きませんでした。
というか、それを「他力」と呼ぶとは知らなかったのです。
「他力本願」のほんとうの意味を理解すれば、なんてありがたいんだろうと、
自然と感謝がわいてきます。

ところで創価脳は、「感謝」が口癖の割に、その対象は限定的かつ序列のあるものでした。
(当時は感謝感謝いいすぎて、超薄っぺらでしたね・・はずかしい)
まずいの一番は「ご本尊様」への感謝。これはまだいいとしましょう。
次に「大聖人」そして「組織」や「師匠」←私はコレはなかったけどw
その後ろに「家族」や「周囲の人」や「同志」だったような気がします。
同列に感謝はありえなかったというか・・まあ1番がご本尊で、残り全部が同列はあったかも
しれませんが「全体に対する感謝」という視点をもった人に、ほとんど会ったことがない気がします。
もし「全体に対する感謝」が基本にあるならば、外部に対しての上から目線は生まれるわけありませんw
自分がかつてそうだったからこう言えるのですが、「感謝」といいながらとても傲慢でした。
でもそれは仕方がないんです。
だって、創価の教義(日蓮の教義とも言えるでしょうか、ちょっとこのあたりは
掘り下げてみなければと思いながらも、面倒で勉強していないのですがw)は
「何か(功徳)がほしければ、何か(布教活動・票・お金等)をよこせ」というギブ&テイク型だから。
つまり「何かをしなければ与えてもらえない・与えられない」「甘えんなよ」という教義だったから。
施しの裏側には、必ず見返りを求める心がある。 これが「傲慢」の部分です。

仏様も神様も、そんなセコイ存在ではありません。
何もできなくても、ぶっちゃけ何もしなくても、
自分がどんなに非力で無力であろうとも、
いつも大きな力で支え・護ってくれているのです。

そしてこの教えは、わりと既成仏教宗派ではスタンダードで、神道においては、いわずもがなです。

もう少し創価脳のカラクリを書いてみますが、
たとえば祈って動いて何かが「叶った」とします。その時は「功徳を頂いた!」と、喜びます。
感謝の先は、もちろんご本尊様(=大いなる存在)です。 
ただ、その願いを実質かなえてくれたのは、他者である場合もあります。
そんなときも、感謝のベクトルがまっすぐ他者へは向かいにくかったように思います。
(一応他者へも「感謝」はあるのですが、何かが一枚挟まった感覚)
創価脳にとっては
「ご本尊」に祈って→「諸天」が動いて→「他者」を動かしたんだ・・というフローです。
これだとつまり、ご本尊に願ったり祈ったり・ついでに活動がんばっちゃったりしたのはあくまでも
「自分」です。 
だから「他力」よりも”自分の力(信心)でかなえたんだ!”が優位になっていた、と私は分析します。
それが「傲慢さ」を生む因ではなかったか、素直にまっすぐ「他力」に気付けなかったトラップでは
なかったか?と。

「創価脳時代のくせ」が抜けていなかった私は、2012年秋の覚醒~今年の春に至るまで
結構な気苦労を経験しました。
創価仏法を捨て去った後、信仰を保つことに関して異様なまでに慎重になっており。
2013年夏に神社でお祓いをうけましたが(この記事)その後、とくに神道にハマったというわけでは
ありませんでした。 もともと神社アレルギーでしたし・・このあたりの話を書くと長いので
神社参詣と神棚エピソードについては次回UPさせてもらいます。
いいことがあれば「ご本尊様のおかげだ」と喜んでいた私が、ご本尊様を信じなくなったら
今度は「相手」に対し、ダイレクトに感謝するようになりました。
ただ、私の「感謝」は「報恩」がセットだったんです・・これが創価脳時代のくせです。
(前に書いた、義母さんへのそれと同じです)
何かをもらったらお返ししないといけないし・何かをしてもらったら自分も役に立たないといけない、
「他力」に甘えることをよしとしない、それが自分の首を絞めることになろうとは
思いもしませんでしたw
2013年初旬以降、不思議なことに人間関係ががらりと変わったのですが、その中でやりたくない
役割をひきうけることになりました。
断ればよかったのですが、恩義があったため「それは無理」と勝手に自分で思い込み。
イヤイヤだったので当然不満だらけ、でも吐き出せない。人にはいい顔をしてしまう。
しかしストレスはたまる一方、それで派手に人と揉めたりもありました。
勝手に相手のことを決めつけて、本音を出せず、恩着せがましくその役割を引き受け続け。
結局、2015年末の「とある出来事」のおかげ?で、その役割を降りることができました。
ほっとした反面、自分の望む形ではなかったためしばらく忸怩たる思いが消えませんでした。
それが、神社参詣をつづけるうち・真言宗の御寺での法話を聴く機会に恵まれたのち
「ハッ」と気付かされたのです。
「ああ、私、勘違いしてたんだなあ・・」と。
「他力」を信用していなかったんだ、100%ありがたく「ただ受け取る」が、出来なかったんだと。
だってしかたないよ、「ただで功徳はいただけない・自分が動かなきゃ功徳はもらえない・
そしてなにがなんでも受けた恩は返せ」って、教わって生きてきたんだから(涙)と。
三つ子の魂百までも・・恐ろしい言葉です。
きっと同じ思いを抱えた、学会2,3,4世の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
他人の親切をただ受け取れない。受け取るけど意地でも返す。返さないと気が済まない的なw
これ、「忘恩の輩」系刷り込みなんですよね、げに恐ろしき。
だから恩を返さない人にはイライラしたりもするw 自分がなまじ、やっているだけに。
私は過去そのタイプで、ママ友でもお返しをきちんとする人とは親しく付き合うけれど、
てきとーな人とは距離を置いていましたw 
いろんな人がいて、一概には言えないけれど(見返りがほしい人もそれなりに存在はします)、
それでも「他力」って優しくて、とてつもなく大きなもの。
たとえば外出先で見ず知らずの方に親切にしてもらった事、一期一会で、お礼を言うだけで
精いっぱいだったけど
次は自分がまたどこかで、困った誰かに遭遇したなら気が向いたらお手伝いすればいい。
そういった軽やかな循環を「他力」とも、呼べると思います。
そこに「損得勘定」や「見返りを求める心」があったらおかしくなるのです。
ついでにいえば「押しつけがましさ」もw

信仰があってもなくても「他力=大いなる存在」は、誰人をも護り支えてくれます。
ただそれを知って、感謝できる心があれば、人生を大きく下げることはないと私は思います。

よく、創価を脱会した人が不幸になっているとか・精神を病んだなどの噂をきくことがあります。
それを創価脳はしたり顔で「仏罰」「現証」なんて言います。
これは何もそういった現象ではなくて、私思うに「他力」に気付けなくて・信じられないがため
一時的に人生を下げている、それだけの話だと思います。
何かのきっかけで「他力」の存在に気づいたら、瞬時に浮上するでしょう。
不遇が続くかに見えるのは「そっちじゃないよー」と、教えてくれているのです。
(↑私はそれを身をもって経験しましたw)
本人の意識はほんとに一瞬で大変換しますし、意識が変われば環境も徐々に好転します。

創価から脱した後、もう騙されるものか!と、宗教や思想体系にやたら警戒心を抱く気持ちは
わかります。
ガチガチの鎧を着て、自分を律しなくては!と自他に厳しくなることもあるでしょう。
が、忘れてほしくない&信じていてほしいのは「他力は存在している」ということです。
ご本尊様を信じていた当時の「諸天の護り」が「他力」であり「大いなる存在」のことです。
宗派や各世間で表現が変わっているだけで、とどのつまりは同じ事。
そして認識を変えるべきは「ぶっちゃけ何もしなくても、他力の存在を認めれば
大いなる存在はいつでも自分を支え助けてくれている」ということです。

だから「ありがたい」し「大慈悲」です。
だって、ぶっちゃけ何もしなくても・助けて支えてくれているんですから・・。
特定信仰も持たなくてよくて、とにかくなんの条件もいらない。
ただ自分が他力の存在に「気付く」だけ。
ただ自分が「生き」て「気付いて」さえいれば、「大いなる存在」はいつもそばにあって、
支えてくれています。
いまの私にとってはその「大いなる存在」へ、日々の感謝の思いを伝えに行く場が
神社であり・自宅の神棚であるという感じです。
でも、それは神道に限らず、お寺だったり・自然崇拝(花や木や滝とか岩とか)だっていいと
思います。自分が「大いなる存在」を感じられるのだったら、なんでもありでしょう。 
なにも絶対に神社に行きましょう!とか言いたいわけじゃないことだけ、お知りおきください。

前回記事の
ただ、自分がいま「生かされている」事について、シンプルに奇跡を感じられたら、
世界は変わります。

この部分について、本当に些細で、文章にするとたいしてインパクトないのですがw
一応書いてみます。

とても楽しみにしていたある予定が当日になって中止(延期なし)になってしまった日のこと。
かなり気合い入れて準備をし、その日に備えていただけにショックでした。
今年春に「思考はエゴのおしゃべり」と知り、俯瞰でみれるようになったとはいえ、しばし呆然とし。
腹を立てるとか・怒る・ひどく落胆などの感情の揺れはなかったけど気分は下がっていました。
少し時間が経過して「前にもこんなパターンあったよなぁ・・」と過去を反芻。
そうなると今度は原因探しがはじまる・・のが、以前のお決まりでした。
創価脳時代だと「一凶」探しで、最終的には「自分のせい」「業のせい」という自分責めに至り
「だから宿命転換しなくちゃ!」と繋がっていたわけですが
2016年の私はさすがにそのトラップにはまることはなくw
ただ過去のネガティブを淡々と思い返すにとどめていたのですが
「ああ、あのときそういえばキャンセルになったな」とか「あのときもこうだったな」とか・・
次の瞬間「!」と驚きました。
「いやいや、そんなこともあんなこともあったけど、
 全部大丈夫だったよ!」
「全部大丈夫だったから、いまここに生きて存在してるよ!」
「だから今もだけど、これからも大丈夫なんだ!」

ということに、気付いたのです。
過去の様々なシーンが巻き戻しのように頭の中に巡り、あれもこれも、大丈夫だった・・
大きな輪のように巡り巡って、全部今に繋がってて、大丈夫だった、と。
するとどっと涙があふれてきて、ずっと大丈夫だったことは「他力=大いなる存在」の
おかげであったと、しみじみと、解ったのです。
その瞬間もう、感謝しかありませんでした。

悲しかったこと、傷つけたこと、傷つけられたこと、騙された事、
裏切られた事、誤解を受けたこと、約束に間に合わなかったこと、
約束を破られた事、もう立ち直れないと思うほど泣いたこと、
冷たくされた事、冷たくあしらったこと、暴言を吐かれた事、悔しかったこと、
我慢したこと、いじわるしたこと、嫌味を言われた事、悪口を言ったこと、
負けたこと、勝ち誇ったこと、返ってこなかったこと、果たせなかったこと、
叶わなかったこと、一寸先も闇で何も未来が描けないと思っていたこと、
50年近く生きてきたなかで、本当にいろんなことがありました。
もう駄目だと思ったことが山ほどあったはずだったけど、私はここでこうして生きている。
どうにもならなかった事なんて、結局は一度もなかった。
うまれてこのかた、何百回と悩んでも困っても激しく憤ってもわだかまっても、
ちゃんと「いま」へ導かれた事に、
鳥肌がたつほど感動したというか・・改めて「生かされた」事に、驚きと感謝でいっぱいに
なったのです。
エックハルト・トール氏の教えに触れて「生きている」「呼吸が連続している」ことの奇跡に
気づけたからこそ、こんな心境に至れたのだと思います。
(まずそこが「あたりまえ」すぎてなんの感動も持てずにいるなら、人生は不平不満だらけでしょう・・)

そして「ずっと大丈夫だった」という気付きのあと、じわじわと環境が変化しはじめ
望んだことが現実化するスピードが速くなったのです。
偶々かもしれませんが・・具体的にいえば探していたものがすぐ見つかり手に入ったり、
ずっとどうしているかな?と案じていた昔の友人と20年以上ぶりの再会を果たせたり
(過去、何度かSNSで検索をかけても全く情報があがってこなかったのですが、
 先日友人の勤務先名+名字でぐぐったら、画像検索で瞬時に上がってきてビックリ!でした。
 そんな探し方を思いついたのも初めてで、まさかのまさかでしたが
 連絡もすんなりとることができ、驚く速さで再会まで出来たのです。)
この事のための準備だったのか?と思うほど、何気なく以前していたことが完璧に今と繋がったり、
某件に関する情報がほしい・・と思った次の瞬間テレビ番組やネットで紹介を目にしたり、
流れが良くなったというか、急いでいるとき信号が全部青ですんなり到着できたり、様々です。
スピリチュアルな人たちの間ではこれを「シンクロ」と呼ぶらしいのですが、
どっかの教団施設で爺様と読経の声をあわせなくても、宇宙とリズムは合致するようですww

創価問題に対しても、騙された腹立たしい・家族崩壊させられた云々、おのおの恨み節は
あると思います(私もありました、皆様ご存じのとおりです)。
だけれども、その期間があったればこそ、護られた事もあったかもしれないのです。
それがなかったとして人生が100%ばら色だったとは、誰にも言えないのです。
それは経験すべき魂の修行時間(?)だったのかもしれないし、それがあったればこそ、
この先の人生が彩られることもあるのかもしれません。
バシャールはそれを「コントラスト」と表現しており、私はその示唆にすごく納得ができたのです。
(詳しく知りたい方はぐぐってください)

「神の采配」という言葉があります。
全ての出来事は、その人に完璧なタイミングがもたらされているという意味です。
自分の人生の物語を、自らネガティブにする必要もないと思います。
なにも過去にとらわれなくていいのです。

私たちが生きているのはまぎれもなく「いま」しかありません。
生きられるのも「いま」しかありません。
だとしたらどんな「いま」を過ごしますか?
私は、抗わず・わだかまらない「いま」でありたいなと、思っています。

悩んでいる人も、わだかまっている人も、これまでが「大丈夫」であったことを
しみじみと、思い出してください。
そしてこれからも「大丈夫」だと実感してみてください。
不安を作り出しているのは紛れもなく自分の思考=エゴであり、思考の背景=過去です。

最後にエックハルト・トール氏の言葉を紹介します。
(「世界で一番古くて大切なスピリチュアルの教え」より)

出来事は、身体に苦痛をもたらすことはあるかもしれませんが、
人間を不幸にするパワーはありません。
人間を不幸にしているのは、ほかでもない、
自分自身の思考なのです。


次回はお約束通り、神社にまつわるエピソードを書かせていただきます。



Category: Notice&Replace

問題を手放す

以前の記事で少し触れました「問題解決のために問題を手放す」について、
お尋ねもありましたので今回はその件について書きます。

「問題を手放す」 には、2つの側面があります。
ひとつは人としての在り方・相手を尊重する事。
もうひとつは受容の奇跡。
どちらも「手放す」ことにより、問題は本来あるべきところに戻り・解決するという流れです。

まず、私が心理学など全く知らない時期に「問題を手放す」をやったことで
問題が解決していた経験から。

私自身、主人におこったネガティブな出来事に一切関わるのを途中で止めたのは、
馬鹿らしくなったという理由の他に、過呼吸症状が出た為、自分を護る目的もありました。
関わっていたらますます、心身ともに追い詰められてしまう!と感じ、降りたのです。
ただ、完全に無視を決め込みながらも心はざわついていましたし、
「冷たい奴と思われないだろうか?」という不安も時々よぎっていました。
その払拭に、問題には一切触れないけれど健康管理にはいつもより気を配るようにしました。
また、自分の気持ちの整理のために「断捨離」「掃除」「神社参詣」をルーティンにして過ごしました。

そして実家母の創価問題に関して、私が躍起にならなくなったのは
姉のかかわりが大きかったと思います。
家族の中で唯一、私だけが母の創価趣味(←今はこう表現できます)につきあわなければ
ならない!と(勝手に)背負いこんできましたが、
2014年春に姉から「創価の事で母を刺激するな」と釘を刺されたこともあり、以降の私は
母に対し、「問題意識」や「敵対意識」をあからさまに向けて創価を語る事を自粛しました。
過去の記事にも書きましたが、あくまでも兄姉の意向に沿うよう・邪魔しないようにとの配慮でした。

手放しの理由はどうあれ、主人に巻き起こった全ての問題は綺麗に片付きました。
そして母も、私が膝づめ対話w を継続しなくても、勝手に非活動の道を歩み始めました。
「問題を手放したら、問題が解決」していたのです。

一連の出来事を経て、心理を学び始めたところ「問題は解決しようとしない」とか
「問題を手放せば、問題は解決する」といった教えが、あちこちにあることに驚きました。  
いろんな心理学者・カウンセラー・覚者が、表現こそ違いますが同じことを言っており。
「他人の問題に首を挟むのは、相手を低く見て信用・信頼していないから」
(相手に解決能力が無いと見くびって、相手の仕事や役割を奪っている)
との示唆を読んだ時、
なんですとー?!でした。 が、これは当たってるかも・・(汗)と、自分を振り返り。
私が主人と義弟の訴訟問題に首をつっこみかけたのも、ふたりが頼りなく思えたからでした。
(常々、そう思ってきたということです) 
また、母に対しても「長年盲目なんだから、自分で気付けるわけがない(=だから私が創価の矛盾を
母に教えなければ・訴え続けなければ!に繋がっていた)」と決めつけていました。
つまり「相手を見くびって」いたことになります・・。
そして「相手が問題を解決するチャンスは譲るべきであり、首を突っ込むべきでない」
ともありました。
相手の役割や成長・気付きのチャンスを奪ってはいけない、という事です。
これが基本的な「人としての在り方」の部分で、問題を手放す理由のひとつめです。

実際、私が手を出さなくても主人の問題は片付きました。
私の出番なんて全く無用だったということですw
そして、一連の出来事を経て主人が大きく変わりました。
本来持っている力を出すようになった・・というよりも、これまで義母さんや私が
主人を「頼りない」と決めつけて「役割」を奪っていただけだったんだ・・と、理解しました。
実家の母についても、私がヤイヤイいわずとも、自分の目で組織の中を見「これ如何に?」と
気付き、離れたのです。
それも、2014年春頃には思いもよらなかった理由(安保法案をめぐっての内部対立を目撃)で。

心理を学ぶと、創価で叩きこまれた事のほぼ全てが覆るというか・前提が違いすぎて
改めて驚くと共に、
「幸せとは真逆の理論を叩き込まれてたんだなぁ・・」と、しょっぱい気持になるのです。
そんな組織を離れて良かった、と思うと同時に、折に触れ自分の中にある「前提」を
チェックしてみる・おかしな「思考のくせ」が残ってないか、点検してみる必要性を感じます。

心理学は、条件なんて何も必要なく、人は誰でも最初から幸いで尊い凄い存在だ、
という大前提から始まります。
「かわいそうな人・救うべき人」なんていません。
この大前提から出発しているため、自分も他者も素晴らしい存在であり、信用・信頼して
委ねることが「自他の尊厳を護る」ことになります。
人が不幸だと感じるのは、思い込みや勘違いで思考が偏ってしまった(思考のくせがついた)
せいであり、
その心の仕組みを理解し・偏りを真中へ戻すのが、心理学の様々なテクニック(療法)です。
そして心理学の究極は、助けるのは「わたし(自分自身)」だけです。 
他者には問題も原因もありません。(人のせいにしているうちは、何一つ解決しません)。
自分が助かり救われる事で、何もしなくても他者も救われるし、大丈夫。
むしろ、他者のことを気にしているから、自分が救われないのだーと教えてくれます。
自分の投影が他者である、自分が他者に何を感じているのか。これが出発点だからです。 
そして、心理学は徹して「自分」に決定権があります。
自分の内側を変えるだけで、外側=相手に影響を与えるのです。
つまり外側=相手を敢えてどうこうと、弄ったり働きかけたり、変えようとしなくていい・
相手を、どうにかしなくていいのです。 
心理学のおすすめ本があったら教えてほしいとのお尋ねもありましたので、記事の最後で
紹介いたします。

対し創価では「条件付き」の幸福論に終始していました。
いうまでもなく、信仰を保たなければ真の幸せは無いという考え方です。
この考え方は、選民思想を生みだします(信仰のない人は不幸・・だから救わなければ!と)。
.自分の幸福だけで満足してはいけない、他人も幸せにしなくては! ←下線部が罠です。
このあたりの話は、別の機会にもっと詳しく書きたいと思います。
もと創価脳で悩まれている方には、ぜひ知ってもらいたい大前提です。

「ニュー・アース」を読んで、エゴの構造について知ると、よりこの「問題を手放す」について
理解が深まります。
詳しくは次回から書きますが、エックハルト氏は「ニュー・アース」をはじめとした著書の中で
エゴ(自我)に振り回されないためには
「”いま(現状)”を受け入れ・”いま(現状)”と喧嘩しない」ことを提唱しています。
先日読んだ「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」にも
「受容と手放すこと」について詳しく書いてありましたので、一部紹介します。

注:なお、私がエックハルトトール氏を神押しw しているのは、誰の心理学の本を読んでも・
全部エックハルト氏が語ることと同じで・その智慧に結びつくからなのです。
なんだか宗教にハマったように思われた方もいらっしゃるようですがw 
上っ面だけ見ての話ならば残念ですし、まだ「ニュー・アース」の内容について私は
全く書いてないのにw えらく早く「レッテル貼り」をされた事は、残念だなと思います。
けれど、どんな感想を持つのもその人の自由です。感性やポテンシャルの違いだと
承っておきます。
また、私はエックハルト氏ではない現代の覚者・心理学者にも影響を受けています。
おいおい紹介します。



↑「ニュー・アース」よりやさしく読みやすい文体・内容です。
(エゴのメカニズムについては「ニュー・アース」が一番詳しく書いてあるかと思います)

習慣性になっているリアクション的な「ノー」は、エゴを強化します。
一方、「イエス」はエゴを弱めます。エゴは、「手放す事」「放下」に耐えられないのです。

人、場所、状況や出来事に、無理難題を要求しなくなった途端、不思議なことに、
それらは、あなたにとって満足のいくものに変化して行くだけでなく、より調和のとれたものに、
より平和なものになっていきます。これが、受容の心が起こす「奇蹟」です。

「手放すこと」は、いわば、抵抗から受容への「ノー」から「イエス」への内なる変容です。
手放す時、「わたし」は、リアクション、あるいは知的なレッテル貼りという認識によるものから、
それらを超越した感覚へとシフトします。

なんであれ、完全に受け入れるなら、あなたは平和へと導かれます。
たとえそれが、自分が抵抗している事の受容であろうと、受け入れ不可能なことの
受容であろうと。

人生を放っておきましょう。逆らわず、そのままにしておくのです。(p122-p138抜粋)


問題を解決しようと、執着することじたいが「エゴ」の働きです。
下線を引いた「受容の心が起こす奇蹟」については、私は「親和性」だと解釈しています。
「親和性」の反対は「敵対」です。
(他者の)問題を解決したい!という「エゴ」を手放すには、まずあるがままを「受容」する。
動かしようのない現実をまず、認めてしまうのです。 そのうえで「手放す」。
エックハルト氏も、この奇蹟について「物理学の法則に近い」と動画の中で言及していましたが、
執着によって生じるエネルギーが、抵抗力を生むことによって
どんどん解決という「的」から離れていく・抵抗を手放せば、「的」に引き寄せられる・・といった
感じかと解釈しています。
私が経験したいくつかの「問題解決」は、(全く意図してませんでしたが)
この、物理学の法則に近い”手放しからうまれた親和性”かと思います。

(補足:今回は「他者の問題」としましたが、エックハルト氏は自分自身が抱える「問題」も
同じく受容・手放しを推奨しています。「ニュー・アース」にその内容が出てきますので
後日触れます)

「問題を手放す」って、責任感の強い人にとっては、物凄く怖いことだと思います。
こと、元創価脳の方には「恐ろしい」と感じることだと思うのです(私がそうでした)。
創価では「問題」に立ち向かうのが当たり前でしたから、放置・看過するなんてトンデモナイ。
そんな「思考のくせ」「過去からの条件反射」を残している人も、多いかと思います。

しかし「問題に立ち向かう」のは、見方を変えれば「抵抗」です。
まして他者の「問題」に、横から手を出すのは「相手への不信・見くびり」であり
解決してあげたい、なんていう事こそ「個人的エゴ」。 
創価流日蓮仏法を叩き込まれた者からしたら、びっくりですよね。
「他者を救う」ことこそが生きる目的みたいなもの・それこそが正しい生き方だって
幼少期から教わってきたのにw 真っ向から否定。

心理を学ぶと「問題は問題化するから問題になる・放っておけばよい」とか
「自分の周囲で起こる問題は、自分自身の心の投影」で「自分の内側に答えを探せ」
という示唆に、しょっちゅう出遭います。
これって、創価で教えられ・正しいとされていた事の、まるで真逆ですw
創価では、「自分の悩みを解決したければ他人をまず救え(折伏せよ)」でした。
”自分の悩み(問題・内面)ばっかり見ずに、他人の問題に必死になれ”と。
そうすれば知らないうちに自分の問題は解決しているから・・と、これが定説でした。
他者の問題も親身になって取り組むことこそ、正しい行い・・的な指導が
なされていたのですが、これも行きつくところはやっぱり「上から目線=選民意識」でしょう。
「相手を救う」と、まるで崇高な行為とされてきたことが、実際は「横取り御手柄ゲット!」
だったのかもしれません。 
まして、組織ではそれを「功徳」を積める行動としていました。
ふと思い出しました、婦人部の活動に疑問を持ち・だるいわー・・と思いつつ会合に出ていた頃。
「悩みは無いのか?」と聞かれ、ないと答えると「じゃあ友達で悩んでる人はいないのか?」って
聞かれたよなぁ・・と。
そうやって本人になければ他人にまで「問題」探しをして、解決しなきゃ!お題目よ!
新聞よ!選挙よ!って、駆り立てていたわけです・・組織は。 
問題が、飯のタネです。
何かと言えば「闘い」「闘争」って・・ほんっと、揉め事好きだね~、としかw

身の回りの誰かに「問題」がおきている時、ざわつくかもしれませんが、
「大丈夫、あのひとなら解決できる」と信頼を寄せ、そっとしておく。見守る。
勿論、話を聞いてほしいとか、相談に乗ってほしいと請われた時はのればよいと思いますし、
具体的な応援要請があれば、自分の心に従って受けたり断ったりすればいい。
「頼まれもしないのに、手柄を横取り」だけは、やめるのが吉です。
そして、事が過ぎるまで「自分に集中」するのが、よい過ごし方だと思います。

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また、創価脳な親・身内に対しての悩みや思いをコメントで寄せてくださる方へ。

私がブログを継続しようと思った大きな理由の一つは、
創価脳を抜けてもなお悩んでいる人の大半が「自分責め」が大変に強いこと・
「他者」「他所」に不愉快の原因があると考えていること・・又は自分が迷惑を被っているとの
被害者意識がどこかにあること・
その原因に執心していたら気分が悪い・・のに、離れようとせず、不愉快な気分のまま
問題から離れない人が多いこと(上記すべて、かつての私もそうでした)に気付いたからです。
その原因が、心理学を知って創価時代~幼少期からの刷り込みから来ているとわかりましたし・
誰がそれを解決してくれるわけでなく、自分が紐解いていくしかないんだって事も解ったから。
それら気付きを書く事で、悩める誰かの小さなヒントになれば・・と、思った次第です。

覚醒してしまった者として色々思う処はあるかと思いますが、
基本、創価脳な身内は「そっとしておく」のが良いと思われます。
さんざん格闘してきた私が「そっとしておく」って言うのもなんですが。
ただ経験者として言えることは、創価脳との対峙は疲れるだけです!w
そして、ただ反発力を強めるだけで、実は逆効果だったりもします。
創価脳な親や身内に対して、あなたは悩まなくていいのです。
それは当事者(親や身内)の問題だから。
疲れたり・さらに悩んだりするくらいなら、相手を信じて手放すことです。
信仰を強要したり、信仰に絡んで説教してくるような親・身内には「信教の自由」を
主張し、それでもらちが明かないようなら距離を置きましょう。
取り合う必要はありません。問題化してしまうからです。

単に創価脳を言い負かしてやりたい・ねじ伏せてやりたいって人も、中にはいそうですが
それはそれでいいと思いますw 
その人がやりたくて、楽しいからやっていることでしょうから。
そして、バリバリ創価脳の人もきっと「やりたくてやっている」のです。
そこを理解できれば、スルー出来ると思います。
こちら側がどんなにそれを「くだらない・搾取されてる・時間の無駄だ!」なんて思ったって、
気付いてない人にはそんなの関係ない。 恋は盲目、と同じで。
だから認めて、そっとしておけばいいと今の私は思っています。
ただし、迷惑な行為や決めつけがあった時にはハッキリ「迷惑だよ」って言いましょう。
「認める」と「見過ごす」は違いますから。

さんざん創価脳な母親との対峙をブログに書きなぐっておいて、自己矛盾もいいところだと、
お叱りを受けるかもしれませんねw
いまだから言える事ですが(自己弁護しますが)、私が躍起になって母と対峙してきたことも
物理学の法則と同じ「反発」だったと思っています。
創価脳だった人が、創価が搾取団体だと気付いた時のショックは、計り知れないものです。
パニックになるのは当たり前だし、人によってその方向性は違うけれど、
大きく逆向きの力が働き、強いアンチテーゼ・攻撃心が生まれるのは避けようがありません。
身近な創価脳の人をみると、放っておけない。
間違いから、搾取支配から救ってやらねば!って必死になるのはごく自然なことです。
だけど心理学の指し示す通り、私は母を「見くびり・見下して」いました・・
”こんなことに半世紀以上も騙されているなんて、うちの母親は相当な馬鹿だ!
 半世紀以上も解ってないんだから、強く言わなきゃ、自分で気付けるわけない”って。
(注:そんな創価脳の親が「かわいそう」も、残念ながら見下しに入ります。慈悲にはなりません・・)
だから首を突っ込んだのです。 
決して母の尊厳を護ろうとはしていなかった事について、自分を恥ずかしく思います・・が
エックハルト氏の言葉を借りれば私も「目覚めていなかった」ので、仕方が無かったかと。
たまたま私は、このたびの出来事のおかげで心理学やエックハルトトール氏をはじめとする
覚者の教えに出遭う事が出来、「そっとしておけばいい」なんて言えるようになりました。
人が「やりたくて、やってる」ことは、止められないと、いまの私は思っています。

創価脳な誰かを責め続けている間は、自分の中の闘いも争いも終わりません、きっと。
「責め」を、楽しくて・使命感wをもって、やりたくてやってる人のことは止めませんが、
あまり楽しくないなら違う方向へシフトすることをお勧めします。

やりたくてやってるようには到底見えない・
やりたくないのにやってて、不愉快をまき散らしてるような活動家(某三名)についても。
そんな人にも、自分で気付くときが必ずやってくると思うのです。
もがけばもがくだけ、気付いた時の突き抜け感は、きっと大きなものになるでしょう。
そんな日が、早く来ればいいですねw ←

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心理学のおすすめ本がたくさんあるのですが、今回は「問題を手放す」理由や
仕組みが良く解る2冊を紹介します。 

嫌われる勇気 [ 岸見一郎 ]
価格:1620円(税込、送料無料)


↑アドラー心理学の本です。
「課題の分離」を知ると、他人の問題で悩んだり・抱え込んだり・ざわざわすることが
減ると思います。 
そして「承認欲求の否定」を読めば、創価脳な人たちとの取り組み方・付き合い方が
変わるでしょう。
「今、ここを生きる」というエックハルト氏の教えと非常に近しい内容もあります。


↑恋愛を主題としていますが、人間関係全般において
目からうろこの心理メカニズムが書かれてあります。
内容が平易でとてもわかりやすいと思います。
特に創価脳の母親・身内・友達をなんとかしたいとお考えorお悩みの方、
一読されると、世界観が変わるかもしれません。

Category: Notice&Replace

ラットレースを抜け出す方法

「ニュー・アース」について書く前に、
もう少し、私が各種気付きに至った背景について書いておこうと思います。

「とある出来事」には書きませんでしたが(長文+複雑になるので割愛しました)、
実は同時期に、主人の身に多数の不運な出来事が連続で起こっていました。
時期は全てことし1月中で、毎週何かがおこるという感じで気味が悪かったのです。
仕事における大きなトラブル・主人の個人的な過失により警察からお尋ね・とどめは出先で
物損事故をおこし、本人無傷でしたが愛車が廃車になりました。
1月といえば、義母さんの大きなウソ2点が発覚し、私のトリガースイッチが入った時期です。
そんな、(私が)精神的に盛大にざわついている時期に、毎週のようにトラブルが起きる。
もう、この人(=主人)はどうしてここまで運が悪いの?
誰かに呪詛でもされたの? 何なの?と、主人に対し信じがたい気持が生まれていました。
特に個人的な過失に関しては、私の理解の範疇を超えており、怒りや悲しみの感情も湧いてこず
「失望」し、静かに離婚が頭をよぎるほどでした。

↑これだけのことがあっても、私がこれらを「仏罰だ!」「信心に戻らねば!」と捉えずに
済んだ事が本当に幸いでした。 
実際「罰」ではなく、結果私の思い通りになったというだけなのです。それは次回の記事で
書きます。

幸い、仕事のトラブルは周囲の協力を得て早期解決しました・・が、
今年春の異動で、主人は長年務めてきた事業から外れ、別部門に移りました。
待遇面は変わらなかったものの、主人はショックだった様子です。
(私的には、長期の出張がなくなり・主人が子供達を朝送って行ける職場環境にもなって
非常~にありがたいことでした)
個人的過失に関しても裁判沙汰になるんじゃないか?と不安視していましたが、
おおごとにならずに無事済み。
事故に関して、完全なる主人の趣味車で、私は前々から手放してほしかったので
(他にも保有しており、維持費過大だった為です)
期せずして(私の)願望成就でしたが、主人は愛着をもっており、相当ショックが大きい様子でした。

3月初めに義母さんの件も含め、大半の出来事が落ち着き・無事過ぎる見通しも立ったのですが
私の心はまったくもって晴れやかではなく。
全てが思いのほか早く片付いた、ラッキー!と、本来なら喜ばしく思うところですが、
皮肉にも精神的な昂ぶりから落ち着きへ移ったところで、冷静に考えてしまう事が増えたのです。
起きたトラブルについてこまごまと疑問を持ち、「過去」を持ち出して考え、重苦しい気分でいました。
「主人にこれだけ集中してアクシデントが起こるってどういう事だろう?」
「なにか意味があるのではないか・この流れは、止まったように見えるがまだ続くのではないか?」
(そう思ってしまうほど、トラブルの類とは無縁で、穏やかなこれまでを送ってきた人でした)

また、義実家の家族の関係性についても、自分が見て見ぬふりを十数年続けていた事について
改めて考え。
とくに義母さんに関してはキツネに抓まれたような思いを抱いていました。
「この結婚生活十数年は、いったいなんだったんだろう?」 そんな思いも湧いてき。
主人と結婚を決めた当時の私は、バリバリの創価脳で女子部長でしたから
「創価脳だった私は、判断を誤ったのではないか?」などと、果ては今さらどうしようもないことまで
悩むようになり。

ごちゃごちゃ書きましたが、軽く受け流して次に進もう!ってノリには到底なれなかったのです。
まさに「苦悩」という言葉がぴったりの状況。
しかし、目の前からすでに「問題」らしきことは全部消え去っているのです。
出来事は過ぎ去り、平穏な・普通の毎日は戻ってきていたのです。
にもかかわらず、私は変えようのない「過去」にひきずられ、
その「過去」を下敷きにした「未来」しか描くことが出来ず、
下敷きが不味いために、見通しが良いと言えない「未来」しか浮かんでこなくて、
苦しくて仕方ありませんでした。

50年近く生きてきて、初めてと言えるほどの苦悩。人生について「謎解き」を求めたくなった私。
特に、順風満帆におもえた主人がここへきていろんなものを「失う」という状況について疑問で、
占い師にでも見てもらう?と、興味半分でネット検索しました。
ただ、居住地付近限定で探したせいもあるのか、胡散臭い対象しか見つからず。
この謎を解きたい。同じ悩みを持つ人はどう解決しているんだろう・・と調べていったら
たまたま行き当たったのが、心理カウンセラーのブログでした。
そこに書いてあった言葉に不思議とひきつけられ、関係する本やブログを読みあさるようになりました。
これが心理学に答えを求めたきっかけでした。
そこで創価脳ならではな「思考のくせ」に気付き、私自身が自分に嘘をついて周囲に接していたこと・
「他人軸」で生きてきた事を知って、驚いたと同時に謎も解けていきました・・が、
すぐに気持ちがスッキリしたわけではなかったのです。

「ニュー・アース」に出遭ったのは4月の初めです。
この頃まだ「過去」への問いかけがとまらず、苦しい思いをしていました。
苫米地氏の時間軸について調べていた時、行きあたったブログで紹介されており、
いわゆる精神世界の本か・・と最初はそれほど惹かれず。
私は「引き寄せ」だとか「宇宙からのメッセージ」的なものを
創価脳時代も・覚醒後も拒否し続けていたので(なんとなく怪しいと思っていた故です・・)。
後日、たまたま別件で調べていた時にまた「ニュー・アース」のレビュー記事に出遭い。
そちらを読むと怪しい本でもなさそうだ、と感じたのと・なんとなくこの本に私の求める答えが書いて
あるんじゃないかーという直感で、DLしました。
2日かけて読みましたが、いきなりすべてが腑に落ちたというわけでもありません。
意味がわからない・・というか、何度か繰り返して読まないと入ってこない内容もありました。
数か月経過して最近やっと「そう言う事か!」とわかった内容もあります。

最近、エックハルトトール氏の動画(講演やインタビュー)をよく見ているのですが
その中でエックハルト氏が、自身の教えについて
「目覚めの為の準備の整った人には理解できる」(趣旨)、
目覚めの準備に至るためには「”これ以上もういい”という位、苦悩する経験」が必要であり
「苦悩こそが、 私たちにとってもっとも大切な教師」と語っていました。
(この動画 1時間ほどあり長いのですが上記内容が含まれています)



ああ、全くその通りだ! と、納得してしまいました。
私においても、昨年末からの一連の出来事からなる
「50年近く生きてきて初めてレベルの苦悩」がなければ
「ニュー・アース」をはじめとした、エックハルトトール氏の教えは、ここまでしっかりと
入ってこず・理解もできなかったと思います。

「ニュー・アース」読みました・難しくて解りづらかったです・・という感想もいただいてます。
そういった方々は幸いにも、まだ「”これ以上もういい”というレベルの苦悩」が訪れていないのかも
しれません。
本当に悩み過ぎてわからなくなった時・人生のなぞ解きをしたくなる時まで、本棚に寝かせておくと
良いかと思います。

で、「ニュー・アース」を読むのも勿論いいのですが、動画を見るとよりわかりやすいので
(YouTubeに多数上がっています「エックハルトトール」で検索)
興味のある方はご覧になってください。
どっかの耄碌したおじーちゃん指導者の「私が全てやったんです!」的傲慢な態度は皆無で、
好々爺といった雰囲気をもつ氏の、落ち着いた(時に眠くなる)語りは、心穏やかに見ることが
できますv

先日なにげなく見ていたエックハルト氏の動画で、耳に刺さった言葉がありました。

「思考は過去からの条件反射」 というものです。

創価脳を抜けてもなお、悩んでいる方がいたら、ちょっと振り返ってみてほしいのです
「自分責め」してませんか?
自分が悪い、自分がすべての原因・・これ全部、創価時代の刷り込みです。
そうして自分自身を「悪の元凶」とすることによって、罪を滅さなければ・私がやらなければ・
私が変わらなければ! と、自分を追い込ませる。
自分を追い込んだバリ活時代、何をしていたか? 外部拡大・内がため・票取りでしたね。
そうやって「無罪の人」を「有罪だよ、救われたきゃ頑張りな」って追い込んで、
組織の「利益」としていく・・これが宗教団体の手口です。
もう、創価の活動は一切やめていても、この「自分を責める癖」が抜けていない人は
わりに多いと思うのです(←そしてこれこそ「過去からの条件反射」です)。
私自身がそうでした。
そして、自分を責め・自分に厳しくある人は、実は他人にも厳しい。
他人と言っても全ての他人というわけではなく、それが「特定の対象」に向かう事があります。
自分責めからくる無意識のストレスが、「特定の対象」に向かうのです。
これがあらたな不満やストレスをうむことになり、無限ループに陥ります。

「ニュー・アース」を読んでも・心理を学んでも、同じ結論に行きつきます。
”「自分責め」は、ラットレースを抜け出せない無限の罠”なんだな、と。
組織にいた当時のことを思い出してみると、常に問題意識を持たされていました。
体験(悩みを信仰で乗り越えた)が無いことが、女子部では「恥」のような風潮も
私が若かった当時はあったほどですw (どんな組織なんだ・・異常ですよね)。
そのような、体験のない幸せな部員にむかって「信心の確心を掴ませてくださいって祈れ!」
と、行き遅れのおばさん幹部は檄を飛ばしていました・・。
つまり「信心で乗り越えるための不幸ください」と祈れ!と、指導されていたわけですw
きっと、こんなエピソードをお持ちの方は、山ほどいるはずです。
やたら仕事で勝て!生活面で勝て!信心で勝て!・・と、これも「自分」との闘いをけしかけられて
いたのですが、実際のところ、「自分と争え」って言われてたわけです。
これも形を変えた「自分責め」であり、今のままの己じゃだめだ!と、無意味にたきつけられて
いただけ。
そんなことを、年がら年中やらされていたのですから、この癖は相当に気をつけないと
抜けませんし、ふと顔を出してくることがきっとあると思います。
これらは全部、苦悩の元凶です。
自分を責めている間は一生不幸感がつきまとうし、充足感とも無縁の人生を送ることになります。
組織はそこを意図的に利用しているのです。
ラットレースから抜け出せない無限の罠とは、そういうことです。

じゃあ、抜け出すにはどうすればいいのか。

自分を絶対に責めない事です。

自分を責めることは、百害あって一利なしです。
無意識のうちに「自分が悪い」が頭をよぎったり・責任を背負いこみそうになった時
これは、組織や親から刷り込まれたものであると自覚してください。
なんの根拠もない、思いこまされた無実の罪だと認識し、
「自分は悪くない」に入れ変えるだけで、OKです。
ふとしたとき、自分を責めそうになったら思いだしてください。

そして、悪しき古い思考は捨て去り・”いま”思考を止めることです。
これは「ニュー・アース」に終始書かれている、大切な習慣でもあります。

「思考を捨て去るって・”いま”思考を止めるって何言ってんだ?!」と、
私も当初、相当な抵抗がありました。
そんなこと出来ないよ!そんなことしたら人間としてダメになってしまうじゃないか!!と。

でも、大丈夫でした。
そしてすごく楽になり、自分も周囲もいい感じで、心地よく暮らせています。

次回、ひとつ別記事を挟んで、(やっと)「ニュー・アース」について書いて行きます。

Category: Notice&Replace

過去への執着ー時間軸の逆転

「とある出来事」を通じ、強いネガティブな感情に苛まれた私でしたが
その間、頭の中を占領していたのが「過去(の出来事)に原因を探すこと」
(過去への執着)でした。

義母さんがどうして嵌められてしまったのか?
何のきっかけ?どうしてあれだけの金額に膨れ上がってしまったのか?
近隣に住むきょうだいの誰か一人でも、異変に気付けなかったのはどうして?
何故に、最後まで誰にも相談しなかったのか?
(ちなみに、家族が問いただしても詳しく話さないため、真相は闇の中です)
これ以外にも、たくさんの疑問がありました(次回書きます)。

すべての疑問は私が考えたところで、解る訳のないことばかりです。
なので「自分の知っている事柄(過去)から妄想を膨らませる」 結局やっているのはそんな事。
その出来事をなんとかして「理解」したい、そのためにストーリーを知りたい(作りたい?)、
こんな動機があったかと思います。

創価脳は、ネガティブな出来事があれば、信仰の中身・姿勢に原因を見つけ出そうとする。
また、過去世からの「宿業」という、誰も見ることのできないものを原因にすることもありました。
「三世(永遠の生命)」など、過去→現在→未来・・という時間軸の教えを柱とし、
日蓮御書の一節(「開目抄」)をひいて
”過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば
 其の現在の因を見よ” を引用し、過去と未来の為にいま、信心(学会活動)に励んどけ!と
子供時代から、日常的に叩き込まれたものでした。
(余談:この引用部分、日蓮自身が紡いだ言葉ではなくて、教主釈尊の教説「因果教」なんですね・・
 てっきり「日蓮説」だと思っていました!←こんなことが多すぎるorz 切文教学の弊害かと)
そして「以前から真面目にコツコツ信心(活動)やってんのに、ネガティブな出来事が起きた」
という、一見整合性の取れないパターンに遭遇した場合に
(誰も見たことのない)「過去世の宿業」または「家族の誰かの宿業」を持ちだすのも
組織内の定説であったと思います。
幹部指導で必ず「宿命転換の時来たりだよ!」と云われるのも、上記所以でしょう。

「いま」があるのは、「過去」があるから。
「過去」が「いま」を作っている、という認識。
だからこそ過去に原因を探る・・これは至極当たり前で、創価脳でなくとも、一般人の多くも
やっていることでしょう。
過去の経験則から物事を分析することは、自然な行いとして定着していると思います。

「とある出来事」にあうずっと以前から、覚醒後に私が漠然と悩んでいたのは
「過去への囚われ」でした。
「信仰の内容」やら「過去世」という(組織に都合のいい、嘘の)正解に求めなくなった分、
覚醒後は堂々巡りが増えたのです。
現実的な手立てをもって、問題が解決したにしても、その原因を過去に探し・分析したくなる。
「過去」「おきてしまったこと」そして「過去の出来事の意味」への執着を手放すことが難しく。
ネガティブと思われる出来事に対して、それは顕著でした。
なかなか気持ちを切り替える事が出来ず、いつまでも引っ張られるのです。
「あの時あんなことが起こった・・また、同じ事がおこるんじゃないだろうか?」と不安になったり。
「あの時あんな風にしてしまったけど・・他に方法があったのではないか?」
「あの時あの人にこんな事いわれた・されたけど、あれって何だったんだろう?」
「あの時ああしたから、今こうなってしまったんじゃないだろうか?」
「あの時あんなこと、言わなきゃよかった・やらなきゃよかった!あのせいでこうなったんじゃ?」
「あの時こうしておけば、こうはならなかったのかもしれないorどうなってただろうか?」
たいていは「後悔」。 そして何気なく流してしまった事に、重大な意味が隠されていたのでは?
という置き去りにした原因探し。
それで腑に落ちるときもあれば、何の答らしきものも見つからないときもある。
勿論、ポジティブな出来事に対しても
「過去のあれが今こうなってよかったんだ!」「過去こうしておいたから、結果出た!」など、
過去と結び付けて今を納得するのが大好きwでした。
まったく後ろばっかり振り返って見てる・うしろ向きの人生だったのです。
(↑ただ、第三次覚醒前はそんな自覚、ありませんでしたw これは現在の評価です)

「とある出来事」に対して過去をいくら掘り返しても、主人公は「私」じゃないので
(当事者は義母さんですから) 当然答えなど出ず、疑問と疑惑が深まるばかりでした。
そうするとますます気分も滅入りますし、いい事なんかひとつもないw
ここでもある日突然、苦しさMAXになり、ふと
「どうして私は、過去に囚われてばかりいるのだろう?いつまでも考えてしまうのだろう?」
と疑問が浮かんだのです。

だって”過去”に”今起きている事”の原因があるって教わったからじゃん!

それ、創価の教えだけどねw
いやいや、世間でも因果律は定説じゃん・・いや、待てよ?となり。
思い付きで検索してみたのですが(キーワードは失念)これまで目にした事のなかった
時間軸の新説を発見し、驚きました。
認知科学者である苫米地英人さんの「時間は未来から過去へ流れる」というものです。
wikiの「時間」カテゴリにその説が掲載されていたので、リンクを貼ろうと思っていたのですが
先ほど確認したら消えていました(残念)。 
某サイトから一部抜粋しますが、

現在は一瞬で過去になります。
今、現在だったことはちょっと前の未来です。
今現在やっていることが、1時間後には過去になります。つまり現在が過去になるのです。
当たり前のことですよね。現在の行為が過去になるのです。
つまり現在の結果が過去です。
あなたのいる位置が現在とすると、あなたに向かって未来がどんどんとやってきては、
過去へ消えていっているわけです。


このサイトの一番後半部「二度とやってこない過去と未来には何の関係もない。」にも、
少し説明がありますので参考にご一読ください。

この説を読んで、目からウロコでした。こんな考え方があったなんて!!と。
ただ自分の中で「感覚」として落とし込むには、少し時間がかかりました。
やはり、50年近くも固く握りしめてきた概念・思考のくせはそう簡単に逆転できず・・。
どうしてもイメージとしては「これをやったから(過去)~こうなった(結果・現在・未来)」が
スタンダードで。
過去に因(理由)があるのだ・・とのベースが固定常識化しすぎており・・頭が固いんでしょうねorz
或る時たまたま、しっくりきた事があって、それはとある公演を見に行った時でしたが
数か月前にチケットを買って(過去)→見に行った(現在・未来)ところ、出演者事情で
公演が延期、見る事が出来なかったのです。
”あー、こういうことか・・”と。
チケットを買った時点で、中止になる可能性なんてほぼ考えません、通常は。
「見る事が出来て当然」という結果を求めてチケットを買いました。
でも、中止になった。
この(未来の)公演が中止になる因を、(過去に)私や出演者側が何か仕込んだわけじゃない。
たまたま、その当日にそうなった。 これは未来が流れてきたんだ、と非常に合点がいったのです。
リンクを貼った苫米地さんの解説の中に「川上から流れてくるボールの色」の話がありますが
これと同じ事だ、と理解ができました。
赤いボールの次に青いボールが来る絶対の法則性は、ない。結果は偶々。
”過去に意味は無い・結果に過去なにしたかは関係ない”ってこういう事か!と。
いったんこれが感覚として解ってくると、全部辻褄が合うようになりました。
予測のできるアクシデントも、全くないとは言いませんが、出来ないアクシデントのほうが
世の中多いのではないでしょうか。 
これだけテクノロジーが発達しても、巨大地震が正確に予知できないのと同じです。
なぜ東日本大震災や、九州の震災があの日に起きたのか?を、過去に遡ったところで
近似するデータが出てきたにしても、確たる理由や原因づけにはなりません。
これを創価脳だと「いやそうじゃない、一念三千・因果具時じゃ!」とか持ち出すんでしょうがw
そんなこと言ってるから現実を変えられないのだ、という事をもう知った方がいいと思います・・。
そして、創価ロジックを抜けてなお、私が「過去」にこだわっていた、その奥底にあったものも
この昔叩き込まれた教学「一念三千・因果具時」なかでも「究極の因は過去世にある」との
刷り込みだったと行き当たりました。
ただ、「因果具時」は、未来を同時に含んでの事なので「未来から過去へ」という
時間の流れの解釈があてはまるのです。要は、捉え方・解釈の違いでしょう。
宗教依存を強める目的があったか・なかったかは知りませんが、過去世の変換(宿命転換)や・
過去現在の罪障の消滅を教義に取り入れ・より強く「過去」にフォーカスさせたのは
一体誰なのか・・これはなかなか興味深いテーマかと思います・・。
私は掘り下げる暇がないので、どなたか調べてくださいw(←他力)。

以前の私の時間軸(過去から未来へ時間が流れている)イメージは、
過去という時間に背中を押されながらずんずんと未来へ進んでいる・・というもの。 
振り返るといつも、そこには過去があって、そっちばかり見てる、後ろ向きの人生でした。
後ろばかり見ていても、過去がちゃんと背中を押してくれるので前に進んではいるのです。
ただ、「いま」、後ろばかり見ているが故、「前(未来)」の展開を自分でどう描くか?という
事に対しては、かなり意識が低かったといえます。
思いあたった事ですが、私が一切の創価流日蓮教義を否定して以降、あらゆる先の出来事を
「楽観視」しなくなっていました。
それまで握っていた選民思想の拠り所が打ち砕かれ、根拠が無くなったと思った故
(そもそも、根拠なんか不要だったという事を心理を学んで知るのですが、それは後日)
必要以上に用心深く・楽観主義を持たないよう・無意識に現実主義~やや悲観主義寄りに
なっていたのです。 
それが更に、過去にばかり目を向ける因になっていたのかもなと。皮肉なことですがw

しかし、「時間は未来から過去に流れている」という説を知ると。
私のなかで浮かんだイメージは、時間が・未来が前方から突風のように吹いてくるイメージ。
すると、前を見ます。何が飛んでくるかわからないから、しっかり前を向かなければ。
後ろばっかり見てたら、いいものも・避けるべきものも見逃し、いいものをキャッチできず・
悪いものにぶつかって倒れてケガするかもしれないw
これはもう、後ろなんて見ている場合ではない。絶対前向いとかなきゃダメだな!と。

先ほどリンクを貼ったサイトから一部抜粋しますが
未来に何が起きるかで、今何が起きるかということがあるから、過去に何したかは、一切関係ない。
時間は未来から過去に流れる。すべて未来の因果が現在を作る。
過去の因果は過去に流れていくだけで、なんの関係もない。

この苫米地氏の言葉が、すっかり腑に落ちて。
だって、これまでいくら過去に囚われて原因・犯人探しをしたところで、100%正解なんて無かった。
100%納得できる答えなんかなかった。
創価脳の頃は、100%納得できる原因がないときは(見たことのない)「過去世の宿業」ってことに
しておいた。 
得体の知れない理由が解らないものに対して、名前と理由が付けば
ひとまず気が楽になるから。
しかし、これが実は「過去世なる、実態のない事柄による自分責め」であったと
今なら理解できますし、これが創価(宗教)依存の鎖になっているんだと解ると、もう・・。
そんな、奴隷みたいな生き方やめようよ~。と、言いたいのです。
殊に、自分も誰もみたことない「過去世」の罪障消滅なんて、無意味だってことです。
現世の過ちについては、自省すべきは自省し、潔く認め謝罪をし、区切りをつける。
その過ちを「未来がうまくいかない糧」として、えんえんと握りしめていく必要はありません、
それは足枷になるだけだから。
向かい風でやってくる未来のチャンスを、躊躇で受け取れなくなることだってあるからです。
(ただ、心理を学んでいくと、「未来がうまくいかない糧」を自分が握りしめておきたくて、
手放したくなくて、やってる場合もある・・と出てきます。 
”うまくいかないほうが、自分にとって都合がいい”という嘘のような本当の話ですw
このテーマもまた、別の機会に書きたいと思います)

また、別の角度で見れば「これだけやったのに結果が出ない」も、同じかと思います。
努力(過去からの積み重ね)は必ず報われる・・とは、残念ながら限らない場合もある。
別の何かだったらすんなりうまくいくのに・たまたまそこに拘ってるから結果がでないだけ、
そんなことだって人生にはあります。
また、結果が出ない・・でも自分にはこの道しかないんだ!と、結果なんて関係なく
自分の情熱と意志のみで継続したら、ある日とつぜん開花・思いがけない結果がやってくる、
なんてこともあります。
そう考えるとやはりある程度、結果(未来)というものは決まっていて・その結果が
良くてもダメであっても、その人物にとっての「最適」が用意されている・・と考えても
いいのかもしれません。
何が起きても、受け入れる。抗わない・問題化もしない。最適なのだから。
(・・と、これはエックハルト・トール氏の「ニュー・アース」に絡んだ話なのでまた後日)
このバイオリズム的な流れに信仰を絡め、
(ネガティブであっても)「最適」を「宿業の嵐」なんて捉え、信心根本!と振り回されすったもんだ、
最終的にはすべて「信仰のおかげ」としていくのは、私は違うんじゃないかなぁ・・?と思います。
ただ、人それぞれ・好き好きがありますので、信仰のおかげにしておきたい人はそれでいいと
思うし・くれぐれも自己完結でお願いしますね~!と、思います。

過去になんて、原因も意味もない。
終わってしまったことに、過ぎたことに、いついつまでも執着を持たなくていい。
また、過去世の罪業なんて誰も見た事ないものにおびえなくていい。
いかに早く意識を切り替え・心の整理をつけ、ただ自分の機嫌をとって生きてゆくか。
自分とまわりの世界を信頼し、新しい未来の流れにのってゆく。
それが心地よく自分を生きていく術だと、いまの私は思います。

この本にも「時間は未来から~」の説明が漫画で描かれていて
非常に解りやすかったです(151ページから)

立ち読みしなさい! [ 苫米地英人 ]
価格:1512円(税込、送料無料)


↑この本においては、夢を叶えるための方法として
「過去を向いて、できないことへの理由探しをしている間に、未来から流れてくるチャンスや
 必要な情報をキャッチできず不意にしてしまう。だから過去は関係ない、前だけ向くこと」の
重要性が説かれています。 
他にも”コンフォートゾーン”と”ホメオスタシス”の説明は、創価脳がたいして自己実現が
できなくても、組織を抜けられない構造そのものだと思いました。 
本書はあくまでも、夢を叶える為の指南書で、全体通して読むと???な部分もあるのですが
いろんなものごとの見方を知ることが出来、勉強になりました。 
大きな図書館にだったら、置いてあるかも知れません。

この苫米地氏の時間軸解釈を調べているうちに出遭ったのが
エックハルト・トール氏の「ニュー・アース」でした。
「ニュー・アース」を読むと、さらにこの時間軸の逆転についての理解が深まりました。
そして「ニュー・アース」の中に書かれたある事をやってみたことで
以降、過去に答えを求めたり・振り返ってクヨクヨしたり・イライラを蒸し返したりwすることが
劇的になくなり、本当に心地よく気分よく暮らせるようになりました。
これまでいかに自分が後ろばっかり見て、自分で自分の首を閉めながら・気分を害しながら
生きてきたかが、今になるとわかり、ぞっとします・・。
人生半ばを過ぎてしまいましたが、今ここに気付けて本当に良かったと心底思います。

次から「ニュー・アース」に答えがあった、私の長年の悩み
「過去への執着」その正体について書いて行きたいと思います・・が、
一記事では紹介しきれないボリュームのため「ニュー・アース」についてはカテゴリを設けます。
解説?とまではいきませんが、私なりに元創価脳wの琴線に触れる教えを紹介して
いきたいと考えております。
(違う記事が先に上がることもあるかもしれませんが、ご了承ください。)

Category: Notice&Replace