エゴの観察

暑中お見舞い申し上げます。

また、うっかりと更新が空いてしまいました。

特段、何かがあって更新できない状態とかではなく、先月の記事にも書きました
「すべてが”いい意味で”どうでもいい状態」にあるがゆえなので、ご心配なくですv

さて、ニュー・アース記事の続きを書いていますが完成まであと2-3歩。
そちらにかかっていると、夏休み到来で、また更新が大きくずれこみそうな予感(汗)。
今回は、最近のニュースを契機にエゴの観察をし、気づいた事と
前回ちらっと紹介したDVDブックのことを書きます。

そういえば都議選が終わりましたね。今回は例年になく身辺とても穏やかでした・・w
自民大敗の原因のひとつだといわれている、
例の「このハゲー!」発言の女性議員。
不謹慎かもしれないし・該当の方には申し訳ないのですが、あの音声を聞くたびに
爆笑してしまいます・・w
いや、なかなかあんな大声で叫べる内容じゃないだけにw
あの報道を見るにつけ、彼女も完全なる機能不全状態にあったのだなーと感じるのです。
次から次へと秘書がやってきては、100人以上も
(情報番組で、そう言ってましたが盛ってる数字なのか?)メンバーチェンジがあったなんて、
尋常ではない状況を作りだしたのは、彼女のエゴではないかと見えたのです。
それは「自分が一番でなくてはならない」「自分だけがエリートで周囲は劣ってる」という
強い自己意識。
「自分が一番」「私は偉い」「どんな振る舞いも許されてしかるべき」というエゴを満たすには、
出来の良い&我慢強いスタッフは要らなかったのかもしれません。 
むしろ、ミスを立て続け繰り返してくれた方が、怒り続けていられ、自意識を満足させられるから。
非常に分かりやすい、エックハルト氏の言う「怒りや動転の中毒」症状。
「このハゲー!」その他もろもろ、罵詈雑言を叫んでいる間、彼女のエゴは満たされ
さぞかし気持ちが良かったのでしょう。 
だから次から次へ、エゴにとって必要な・都合のいい現象・人を引き寄せ、作りだした。
また”怒っている間は恐怖と向き合わなくて済む”という
トラウマ的な話もここに加味するなら、
彼女は潜在的に何かを大変強く恐れていたのかもしれず・・それはご本人にしか
解らないことですが。
とにかく今回「強制終了」がかかって、ご本人にとって良かったね(?!) と私は思いました。
失うものは大きかったかもしれませんが、
ここで気づきを得られれば、おだやかな後生を送れるのではないかと。
誰か「ニュー・アース」を、差し入れしてあげるといいですねw

で、そんな彼女のエゴの暴走報道に触れ、
私自身も過去(2013~2015年頃)を振り返って、ハッとしてゾッとさせられたのです。

過去記事に書きましたが、子供の学校関連で厄介な人物がいた時期がありました。
その頃の私は「自分は保護者としてきちんと振舞ってる」という意識が
かなり強かったのです。
今思うとおかしな話で、何を持ってして「きちんと振舞ってる」なんて思い込んでいたのか、
恥ずかしい限りですが・・。
子供の健康管理や身支度に気を配り、お行儀よくいさせる、なんてことは当然として
(子供のためを思ってというよりも、自分の評価に関わることだと感じてやっていました・汗。
 それはエゴエゴしい事であった・・と気づいた後は、子供の意思を尊重しています)、
ママ友関係で和を乱さないとか空気を読むとか、お礼は必ずするとか、
噂話や新しい有益な情報は、流す相手を時と場合で選別するとかw 
非常に小賢しい種類のことをその頃の私はやっており、
同じような人たちとつるんでいたこともあって、そうでない人間のことはなんか許せなかったり・
見下してもいました(最低だなw)。
なので、あっ!そうか!
「私はちゃんとやってる」って自己意識を満足させるためには、強化のためには、
そうではない(?)真逆の人・破天荒な人が必要だったのか!!と、最近になって合点が
いったという。
つまりは、厄介で破天荒な人がいて、その世界(対比)を見せてくれるからこそ
「私はちゃんとやってる母親だ」と(自意識が)思えるから、
配役として厄介な人を登場させたのは、私のエゴであったのか!と、今頃気がついたわけです。
(”それは、単なる偶然でしょ” ”後付けだろうw” って、思う方もいらっしゃるでしょうが
 感じ方は人それぞれなので、同意してもらえなくても一向にかまいませんw)
神社でお祓いを受けたりしたら、相手が海外転勤で居なくなったという顛末でしたが、
その人ほど強烈ではないにせよ、癖のある人はその後も登場し、今も居ます。
けど「思考を止めて今ここ」を心がけるようになって以降、癖のある人と遭遇・接触する事が
殆ど無くなったのです。 以前はしょっちゅう、外出先でも出くわしてうんざりしたのにw
自己意識の強化に、相手を使わなくて済むようになったからなのかな?と捉えています。

また、実家の母についても。
私が組織の矛盾に気づいて、アンチ創価になった後、母の創価脳をなんとかしてやる!と
躍起になっていたころ、私の意識に強くあったのは「創価脳は非常識」でした。
なんとしてでも、母を救い出さなくては・目を覚まさせてやらなきゃいけない!
そう考えて行動している「私は正しい」と思っていましたし、おせっかいだなんてこれっぽっちも
思ってませんでした。
そんな私のエゴに相応するように、母と対峙して出てくるのは、過去記事をご存じの皆さまなら
お分かりの通り、脱力するほどの残念で非常識な発言の数々w 
もう、何度がっかりさせられたか知れない。やっぱりこれだから創価脳は・・と嘆き続けた日々w
私の望みどおり(?!)に、母は私の理想wの創価脳を演じてくれたんだなーと
(演じさせたのは私ってことです) 今となっては、解るんです。
スピリチュアルな世界観では、自分の周りにいる者は鏡だとか、
自分は主人公であって・まわりはみんな脇役で背景だという内容がしょっちゅう出てきます。
主人公の「私」が「創価脳は非常識だっ!」って強く思っているから、その通りの・
いや想像のはるか上をいく言動を、母は見せてくれたのです。 
これはもう、私のエゴが作り出した「現象」だったと、私だから言ってもいいと思いますw
まぎれもなく私に起きた出来事だから。
そして創価脳うんぬんを問題化しなくなった(手放した)ら、途端に母は人が変わったように
創価から足を洗う気になったわけで
(その気にさせるような、思いもかけない出来事が、母に起こったわけで)
この相関関係は、面白いなーと思うのです。

おあつらえ向きの出来事が、起こるべくして起きている。
「この世はパラドックス」だと、津留晃一さんがおっしゃってた事はこれだなーと
腑に落ちます。
(津留さんの本についても紹介したいのですがー・・今年中になんとか)

「私がいつも正しい」「私は間違ってない」という風な自己意識(エゴ)が強ければ強いほど、
それを証明するための現象が必要になるから
敵(?)と思えるような登場人物が現れたり・出来事に遭遇する・・というか、
実はなんでもない様なものを、敵にしたり問題としているかもしれないのですよね。

もし今、気に入らない人間関係があるとか、誰かに迷惑かけられてるとか、
そういった思いが強くある人は、相手にフォーカスせず
自分がどんな「前提(思い込み)」を持っているのか見つめなおすと、答えがみつかる・・
もしくは構造に気づけるかもしれません。 
相手に対する思い&思い込みではなくて、自分についての思い込みです。
どんな思いを自分が握っているのか。
それに気が付いたら、これは役割分担だったのか!と腑に落ちるでしょうし、そこで問題は収束を
迎えるーというか、問題じゃなくなるのかもしれません。
または、自分に対する思い込みに気づくことをせずとも、
(それを掘ってるうちに「エゴのおしゃべり」に飲み込まれて、ぐるぐる悩ましくなる可能性も
アリだから)
関係性や状態に「執着」を持たず、手放してしまえば、解決する事もあります。
「執着」は、問題を生み出します。
「執着」するから「問題化」していると言ってもいいくらい。
永遠に握りしめておけるものなんて何もありません。

もう何度も、ブログの趣旨を変えてから書いていることですが
「高次から見て物事は中立」
「絶対正義」はないと気がつくと、自然と緩んでいきます。自分も、周りの空気も環境も。

「私は正しいこともあるけど、まちがうこともある」
「あの人はまちがってるけど、正しいところもある」
両方あり、って認識を、ゆるくでも持っていれば。
心の中にニュートラルなスペースがあることが、わだかまらないコツかなーと私は思っています。

そのニュートラルなスペースを作るには、「今ここ」の瞬間に完全に入ること。
自分の呼吸と、生きているというシンプルな事実・身体の状態に目を向けることです。
そこには静かで何もないように思えて、確実に「生(命)」がある。
というか、それしかない。
煩わしい人間関係も過去の出来事も最近に起こったことも問題に思うことも、なんにも関係なく
「生(命)」はそこに在る。
ただ、淡々と続いている。
ごちゃごちゃ文句を言い続けたり・悪態をついたり・些細なことでも騒ぎ立て、嘆き、
わだかまりイライラを募らせているのは(頭の中の声は)、いったい誰なのか?
思考から離れ、静寂の「生(命)」にフォーカスすれば、わだかまりの正体(マインド)に
気づけるのです。
くれぐれも、マインドに乗っ取られないことです。
そんな在り方について、大変なヒント&学びになったのが、前回も紹介しました
こちらのDVDブック。
(DVD+映像内容を書き起こした本のセットになっています)


なかでも私が感銘を受けたのは
「愚痴を言わずにプレゼンスを招く」という、エックハルト氏の講演部分(本だとp19-23あたり)。
「えーっ?!・・ああ・・そうだったのか・・だよね」と、大きな荷物を下ろした気分になりました。
”ごちゃごちゃ考えなくてよかったんだ” と。 
ほんと、いまさらだけどw
前にも書きましたが、私は「現状に疑問を持つこと=向上心(良いこと)」という刷り込み・
思い込みがかなり重症のようでして(汗)
今、とくになんの不自由も困ったこともないのに、なんかしら難癖をつけようとする
(自分のことも・家族のことも。「ニュー・アース」読む以前は他人のことも←おせっかい)
傾向があるのです・・それらは「いま」にないことばかりです。
ちなみに、このDVDブックを見た当時にうっすら疑問に思い・考えあぐねていたことは
「私にはこれといった夢がない。これでいいのだろうか?」でしたw 
(なんか平和ボケですみませんw)
これは突き詰めると、私の生まれついての生育環境・・創価脳時代からの
思考癖だろうなーと。
問題は解決せねば!人は救わねば!とかいう、訳のわからない「問題(悩み)探し」が常で
40年余り生きてきたがゆえ・三つ子の魂百までも状態といいましょうか・・。
「使命感」なる言葉が、「何かをなさないと生きてはいけない」に近い強迫観念に育ちあがっている。
もう今は「使命感」なんて頭の中にはない(つもり)だけど、なかなか強固なようです。
「考えて悩んでる自分カコイイ! 問題意識のない奴や悩まない奴は馬鹿!」も、根強いのかもw
そんなつもりも、もうないのだけど・・。
改めてその癖に気づかされ、ガッツリ向き合わされたといいましょうか。
なんだ、何も悩まなくていいんじゃん!
「いま」と格闘してどうする?!
というか「思考を止める」が、出来てませんでしたやん!
基本中の基本ですよ!・・ガックリorz と。
「エセ向上心」マインドは、なかなか手ごわいもんだな・・という、気づき。
他人の反応だとか・見聞きした出来事に関しては、いちいちあれこれ考えないというか
もう執着を持たなくなりましたが、何もないところからの「不平不満探し」に関しては
なかなか根が深い。 あくまで私の場合ですが。
こうしてすべてが”いい意味で”どうでもよくなりました。
投げやりになったのとは違いますよw ただ、一段と軽く・楽になりました。

ディーパック・チョプラ氏の講演も内容が深く・難しくてしばし考え込んだ部分もありましたが
(時間は存在しない、というお話)
脳神経科学のエピソードからも「今ここ」しかないという事を解りやすく教えてくれています。

エックハルト氏とディーパック・チョプラ氏の質疑応答コーナーも見ごたえがありました。
「幸福の定義」についての両者の回答も素晴らしかったですが、
特に私のツボに入ったのは、質問者の女性のエピソードについて
エックハルト氏が「悲しい話(ストーリー)ですね」とコメントした後
チョプラ氏の「物語(ストーリー)ですけどね」の返し。 
二人の、独特の間合いに思わず唸ってしまいました。
↑これはもう、見てもらわないと字面じゃ「何のことだよ!?」でしょうけど。
この記事(ニュー・アース第三章2)にもあった
「自分がそうだと信じ込んでいるささやかな物語」って、こういう事をいうのね・・と。
二人の間合いをみていると、非常に軽いというか・・些細なんだな本当にwと
思い知らされる感じがしました。

全体的にエゴエゴしい重たい内容はひとつもなくて、とても見易いと思います。
ある程度「思考を止めて今にある」を実践してみたけど、どこかスッキリしないーという方に
特におすすめします。

スポンサーサイト
Category: Notice&Replace

脳の過覚醒から凪へ

前回記事の終わりで紹介しましたこちらの本。
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも? [ 大嶋信頼 ]
価格:1728円(税込、送料無料) (2017/3/16時点)



まず、私がこの本を手にした切っ掛けを。
昨年1月、義実家の諸問題から、精神的ショックを受けた私は過呼吸になりました。
症状が落ち着いたのが4月後半だったんですが(「ニュー・アース」のおかげです・後述)
渦中、疑問に思っていた事があり。
過呼吸が出るのが、必ずといっていいほど夜。私一人の「リラックス時」だったことです。
日中さまざま用事をしたり・家族や友人と居る時、車の運転中や買い物中は、絶対にない。 
本来、一番リラックスするというか「ほっとできる時間」のはずなのに、調子が悪くなる。
私は心療内科ではなく、漢方薬局で処方と指導をうけていたので、
そちらでも相談したのですが「リラックス時に症状が出る人は多い」という回答でw
「気にするな」ってそれだけで、腑に落ちないわーって、モヤっとしていました。
昨年夏に、本当にふと
「そういえば偽本尊を怖がってた時期、一人時間になったら吐き気やめまいで辛かった」
この記事の最初に書いてます
「女子部時代にも、男子部の馬鹿幹部に説教されたショックで会合に行けなくなった時、
 (この記事に書いてます) 夜の7-10時(会合時間帯)になると息苦しく動悸がするから、
家にいたくなくて、しばらく毎日のように退社後遊びに行ってたわ!」
と、過去にも「リラックス時の不定愁訴」があったと思いだしたのです。
これは絶対になんかある!因果関係あるはず!と、初めて調べるに至り。
ぐぐった時に見つけたのが本書のレビュー。
早速読んでみたら、私が感じた疑問の答えが書いてあって「やっぱり!」。
そして、「ニュー・アース」に出会う前の私が感じていた生きづらさや、
悩んでいた・壁にぶちあたっていた事の謎ときが見事なまでにされており、
鳥肌&驚愕したのです。

本書はタイトル通り、トラウマによって巻き起こる脳・心身メカニズムをわかりやすく・
多数の興味深い症例を紹介&克服方法についても書かれています。
実際に読んでもらうのが一番ですし、多岐にわたる内容を此処で説明するのは無理です。
ごく一部分を紹介しているという前提をふまえていただき、記事をお読みください。

トラウマとは「記憶にない恐怖」を指すんだそうです。

そして「トラウマ」が引き起こしている状態が
「脳の過覚醒」とあります。
この、「脳の過覚醒」が実に様々な症状・状態を引き起こしている。
そしてこれ「自分で引き起こしている(自分で止められる)」という事を、
よっぽどのことでもないと自分じゃ気付けないのが厄介です。

この本を読んで私が思い当たったのは
「創価脳(元・現役)も、大半がトラウマによって
 ”脳の過覚醒”をおこしているのではないか?」

ということでした。

以下内容は、私の勝手な解釈で、本書を「創価脳」向けに読みといてみたものです。
超長文になりました、読みづらいと思います、すみません。

トラウマの原因は、主に幼少期「死」に直面するような恐怖感を体験したことにあり
(長時間一人ぼっち・夜間留守番させられた・ よその家に預けられた、
親の大喧嘩や暴力を見た、大きな音・大声等も、 乳幼児にとっては死に直面するような恐怖に
値するそうです・・これって、福子がどれか1つは経験していそうな事ですよね)
(注:子供時代に限らず、成人後でも衝撃的な出来事からトラウマ化する事があります。
 本書の、帰還した日本兵の話を参照)
「衝撃が大きすぎて記憶を脳が処理しきれなかったため、
 いつまでも恐怖だけが残り続けている
状態を指します。
つまり、そのときの恐怖は既に「過去の出来事」なのに、脳内で処理されなかったが為に
ずーっと「いま」恐怖と対峙しているような状態が継続しているということです。

(脳のメカニズム等、詳細は本書参照)

トラウマをもっている人の脳は、普通の人(トラウマなし)とは違い、
安静時ほどストレスホルモンが急上昇して、身体症状が出る(←私の不定愁訴はまさにこれ。
日常多忙な時は元気で、休みになると体調を崩すタイプも、同じかと思いますし、
これが更に酷くなると、パニック障害やうつ病になってしまうようです)。
リラックス時ほど緊張が高まるようになっている、これは普通の人と逆なんだそうです。
安静時になると「恐怖」を思い出してしまう!ヤバイ!と、回避のスイッチが入る。
トラウマ恐怖を思い出さないために、不快な体験を思い浮かべる。
そうすることでストレスホルモンが下がるという、なんとも皮肉なメカニズムで
”ストレスホルモンを下げるために、不快なストレス刺激を四六時中自分にかけ続けている”
との事。
つまり休むことなく「ずぅーっと」頭の中はビジー・興奮状態。
それも、ほぼネガティブなこと(=そのほうが、ストレスホルモンが下がるから)。
不愉快でおもしろくないこと。外部他者・社会への攻撃や反感。自己卑下。
未来への漠然とした不安、過去にあった嫌なシーン(フラッシュバック)、不満などなど。 
(これ、ぜーんぶ「いまここ」にないことです。そして見事に「エゴ」の好物ばかり!)
脳が、トラウマとなっている不安や恐怖を思い出したくないがため、
静寂や凪の状態に耐えられないから、嫌なことを思いだしたり・怒ってみたり・
考えたりするという、驚くべき状態が起こっているのです。
つまり、過覚醒の脳は「凪」(安静状態)を知らないというか・知っていても排除しているのです。

創価がどうこう、の問題以前で
不安や暗い考えばっかり浮かぶ、むしゃくしゃする、悪いニュースに反応しやすい、
(不幸・不穏なニュースをピックアップして読むことが多い)、
くよくよ過去をひきずりがちだとか、ネガティブ思考だって人は
「元から持った性格の問題」ではなくて、「トラウマ恐怖回避」の為そうなってる場合も
あるってことです。

たとえば創価の矛盾に気付いた人で、時間が経ってもその問題から離れられず、
何かとわだかまり続けることも、「脳の過覚醒」状態ではないかと。
今現在の私が、創価系ブログを拝見すると「ある種の興奮状態」
感じることがあります。 まあ、怒ってる内容だから当然といえば当然ですが@興奮。 
この「怒りを持ち続ける」状態も、トラウマ恐怖を回避するシステムなのだとありました
(これも非常に興味深かったです・・詳しくは本書参照)。
ブログを書くときって「他にやることが無い時間」 つまり余暇で、リラックスタイムですよね。
わざわざ、自分の自由な時間を使って「不愉快で面白くない創価問題」に向き合い
「わだかまり」続けている=それはストレスホルモンを下げるための行動ではないか?
何もブログを書いている人だけではありません、それを偶然目にするとかではなく、
「わざわざ読みに行っている人(読者)」も、同じメカニズムにハマってるんじゃないかな~?と、
これは私の経験上の所感です。
(注:自分の楽しみとして、ウッキウキしながら笑顔で書いてる&読んでる人は例外ですw)

また、活動家時代において、脳の「凪」状態はなかった気がするのです。
子供時代からのことを丁寧に思い返してみると、
私の場合、常に「不安」を大なり小なり持っていました(だから信仰から離れなかった)。
不安なんてどこにもない、脳の「凪」状態や「安静」を、
全く知らなかったとも言えます。

四六時中、暗い事ばかり考えてたわけではないにしても、「宿業」という「原罪」を抱え、
自分は信仰や創価から離れてはいけない。 離れたらろくなことにならない・・と
自分が自分を見張っているような精神状態・緊張感は、確かにずーっとありました。
そんな風に意識が働いている間は、リラックスなんて無いも同然。
リラックスって、頭の中をからっぽ・クリアにして緩むことなんですが、
私は長らく、少なくとも「ニュー・アース」に出会うまで「そんな風になってはダメだ」と
思っていました。 
リラックスとは、横になったり・ソファに寝そべったり、体勢(身体)を楽にすることであって、
頭の中まで何も考えないで「休む」だなんて、思いもしなかったw
それこそが「脳の過覚醒」で、考えるのをやめたら怖い事が起こる・・というような
自覚のない強迫観念・トラウマがそうさせていたのかもしれません。

創価脳における、「記憶にないトラウマ」となるような因子について考えると、
仏罰なんかその代表例ですし、返す返すも幼少期から「恐怖と罪悪感」をこれでもか!と
いうほど刷り込まれる教義だったな・・と思うのです。
もちろん脅しばかりではありません。脅しばっかりなら、子供は信じませんからw
「何でも願いが叶う」「願いとして叶わざる」「無限の可能性」などの夢も見せてくれました。
その反対側、の話。 いわゆる、アメとムチ。
「忘恩の輩」「恩知らずは餓鬼畜生にも劣る」「魔」の存在、
「仏敵を責め抜かなければ無間地獄」
「悩乱するもの頭七分に破る」「三災七難・無間大城」
 ・・どんだけ出てくるんだよw
アメよりムチのほうが多かったんじゃないかってくらい。もう、強迫観念ハンパなし。
わだかまりのない・ニュートラルな心理状態など、活動家時代にありませんでした。
そんなもの持っていたら「闘い」モードになりませんから、絶対にそうならないシステムでも
敷かれてたんじゃないかとw
実際、直接的では無くとも常に闘いを要求され「脅されっぱなし」でしたよね。
爺様の指導にも「間断なき仏と魔の闘い」なんて言葉がありましたが、
一瞬も気を緩めることのできない・闘うべき仮想敵をいくつも周囲にはべらせた、
「常在戦場」が創価脳のデフォルトであることは周知のとおりです。
→ちょっと噛み砕いて書くと、「友人に対話しなきゃ」「票をお願いしなきゃ」「会合行かなきゃ」
「新聞推進しなきゃ」「活動家増やさなきゃ」「もっとお題目上げなきゃ」・・etc 
それをやらなかったらどうなるのか?「魔に食い破られる!」「生活に障る」云々。
行動動機の背景にあったものが突き詰めれば、「トラウマ恐怖」だったということであり、
そんな環境を「常在戦場」と呼んでもいいと私は思います。 

創価脳もアンチ創価脳も、攻撃的になりやすいのは、
上記した環境下におかれていた(いる) せいで「脳の過覚醒がデフォルト」だからでは?
トラウマ(仏罰)恐怖を回避するための、脳がずーっと興奮状態。
不愉快なのに(創価)問題から離れられない、情報収集しないと落ち着かない、
せっかく創価から離れられたのに、ずっと監視していないと気が済まない。
何かをやり玉に挙げることで「安心」を得ている、無意識に。
それらはトラウマ恐怖と向き合わないための、無意識の行動なのです(たぶん)。

「仏罰なんて怖くないから、自分にはトラウマ関係ない!」って方もいるかもしれませんね。
なにもトラウマの原因は、仏罰だけでは無いのです。
他にもいろーんなトラウマがあって
「親から見捨てられる恐怖」「嫌われる恐怖」「死の恐怖」「居場所を失う恐怖」「殺される恐怖」
「孤独の恐怖」 「貧困の恐怖」 
家庭環境や人生経験で千差万別、人それぞれ異なります。
創価と直接関係のない「トラウマ」が、恐怖回避の為に創価問題を使ってストレスホルモンを
下げているという、可能性もあるのです。

そして、脳の過覚醒を止める方法についてですが、ざっくり書くと
「トラウマとなっている恐怖に浸ってみる」事で
方法について詳しくは本書を読んでください。
(一部レビューに方法そのまま書いてありますが・・説明不十分かと思いますので、本書参照を
推奨します)
トラウマだと思っているそれが「恐怖じゃない」って気付いたら
脳の過覚醒がおさまって「凪」へ移行するとあります。

「凪」とは文字通り、風にそよぐような・心地よい状態です。
頭の中が平穏で、楽~な状態。
何の不安もなく、心底リラックスできている状態。
私思うに、
「恐怖は”いまここ”にない」って感じて認めている、
「恐怖」は自分の思考が作り出した幻想だと理解していること

だと捉えています。

で、大嶋先生提唱の方法と同じ効果がある(と私は思った)のが、
エックハルト氏が提唱している「思考を止める」です。

「脳の過覚醒」該当者は、「思考を止める」ことが出来ないタイプ。
「考えるのをやめるなんて、馬鹿になってしまう・騙されるかもしれない・損するかも」などの
「いまここ」にない不安や恐怖や懸念が浮かぶとか、抵抗感があるというなら
過覚醒の傾向があります。
あと、教学が大好きで自分を作り上げてきた・ここまでやってこれたんだ!
というような、勉強大好き(頭でっかち)思考優先タイプも、陥りやすいのではないかと。
理論武装大好きなタイプも要注意でしょうねw 
余談ですが、アンチ創価まわりでよく使われる「思考停止」って言葉に過剰反応し、
「今まで騙されてきたのは、自分が余りにも考えなさすぎて、信じ切ってしまったせいだ!
 これからはどんなことも、仔細に沢山考えるぞ!」なんて決意して、更なる脳の過覚醒に
繋げてしまった人もいるかもしれません(=過去の私)。
以前も書いたんですが、それ「思考停止」じゃなくて「思考奪取状態」でした。
創価脳アプリが搭載された思考自体は、まったく停止なんてしておらず
この記事「変化をもたらすためのツール」章に書きました)。
むしろフルスロットルで「広布拡大」について考えていたはずですw
考えてどうにかなったものではなく、ただ思考のしすぎで「閃き」に従えなかった・
違和感を無視していただけなのです。

思考を止めて「凪」を知れば、実はもっと早く創価の矛盾に気付けたかもしれないw
この件は長くなるので後日「ニュー・アース」記事の中で触れます。

私は昨年4月に「ニュー・アース」を読み、だまされたと思って日常的に思考を止めてみたり
「~と、エゴが申しております」と付け加えることをやってみて、劇的に気分よく暮らせるように
なりました。 
思考を止める習慣によって、「凪」状態を、生まれて初めてレベルで知ることができたのです。
思考を止めるをやってみたことで、前述のとおり、それまで悩まされていた過呼吸が
いつの間にか出なくなりました。
「いまここ」になんの問題もなく、頭の中の騒がしい声は全部「エゴ」で、幻想なんだ・・って
解ったら、気持ちがとても楽になる。
要はトラウマも同じことで、
その記憶にない恐怖も「いまここ」には無いものです。
過去に脳が処理しきれなかった・得体のしれない「不安」
それって=「幻想」です。

幻想なんて嘘だ!不安も恐怖も恨みつらみも事実だ!って、拘って離れられない人は、
過去にとらわれすぎで「いま」にない人でしょう。
「ニュー・アース」第五章「過去にこだわる」を読み、自分の状態を理解するといいと思います。
 
過覚醒の脳は、ずっとフル回転であれやこれや、忙しく働いて問題を探し創り出します。
エックハルト風に言うなら「エゴにとりつかれている」状態です。
「思考を止め」て「いまここ」を意識してみれば、頭の中に静寂が訪れるはずです。
だって、思考フルスロットルの中身は大半が「いま」にないことばかり。
自分がこの目で見たわけじゃない憶測、この目で見た”過去”、妄想の未来、その他もろもろ。 
創価問題にせよ、自分を不安や憂鬱で嫌な気分にさせている問題の大半は
全部「もう終わったこと」または「まだ起きてないこと」ですよね。
冷静に思考を見つめてみれば、「いま」何を思い悩む必要があるんだろう? と、なるはずです。
「終わったこと(過去)」「まだ起きてないこと(未来)」に、ワクワクしたり・楽しかったな~♪など
単純に良き思い出に浸るのは、まだ精神衛生上よいことですが、
過去と未来に嫌な思いをさせられる(正しくは、自分がやっている)のは、何の得にもなりません。
精神衛生上、もっともよろしくないことです。
繰り返しですが、「いまここ」にないことは全部幻想です。
つまり創価問題(あなたが問題だと感じて腹を立てたり・ゆゆしき事態だと思ってる事・
自分以外の他人のこと・過去の恨みつらみ)も、ぜーんぶ幻想です。
幻想に向かって、文句を言い続けたり、やり場のない怒りをくすぶらせたり、機嫌悪くなっている。
いわば自作自演です。
そのことに「気付き」、忌々しいと感じてるその思考を、止めるだけでいいのです。

私がしつこくこの事を書くのは、結局わだかまりは「自分いじめ」だからなのです。
(この件に関しても「ニュー・アース」記事の中で書いて行きたいと思います。) 
心当たりの方は”思考を止める・「いまここ」に問題は無い確認” 是非やってみてください。
早ければ2~3週間で効果を感じられると思います。

次に「他人軸」の原因もトラウマによる脳の過覚醒にあるというお話。

本書によれば、キャパオーバーな・トラウマ化するような恐怖を感じると、
意識が真っ白に飛んで、自分を抜けだし相手に憑依するというのです(解離状態)。
自分が酷い目にあっていることを受け止めきれず、耐えられないから
脳が意識をとばして「他人事」のようにその状況を「客観視」する。
たとえば子供が親に怒られている時、恐怖で意識が解離して親に入り込む(憑依する)から、
怒っている親の気持ちが手に取るように解ってしまう(そして自分の気持ちは感じにくい)。
なので、子供の頃にそのような目にあった人は映像でそのシーンを記憶している事が多い。
自分が親から暴言や暴力を受けているそのシーンを俯瞰で見ている・まるで自分が主人公の
映画のごとく、映像で覚えているのだと。
私、ここを読んで鳥肌が立ちました。
実際に、私も子供時代の辛い体験が俯瞰の映像記憶で残っているからです。
この傾向にある人は、相手(他人)になり変わることで、自分のトラウマ恐怖を回避しています。
相手の気持ちを想像していれば、自分の中にある“恐怖”に注目しないでいられるから。

依存的な人間関係に陥った場合、悪意の相手の言いなりになる傾向があるとのこと。
自分の意志や意識の介在しないところで、相手に憑依し勝手に先回りで「相手に良かれ」と
行動するため、ふと気付いたとき「あれっ?私、なんでこんな事してるんだろう?!」となる。
そこに「自分(の意識・気持ち)」が介在していないことを自覚していない。
やりたくてやっているわけではないため、達成感は当然薄く、不条理な思いをしたり、
なんでこんな目に遭わなきゃいけない?私ばっかり損な役回り・・と不満・不審が募る。
また、「相手から見た自分」が全ての評価基準になるため、常に反応を気にして動くことになる。
「自分がどうしたいか」よりも「相手の反応」が優位になっている。
まさに「他人軸」です。 
なにも虐待や暴力というような強い経験じゃなくても、
「教義教条」と「罰論」で長期にわたって精神的に抑圧されてきた福子が
他人軸に陥りがちなのは、やはり仏罰その他のトラウマ起因ではないか・・?と感じました。
大人になった今でも「親が怖い」という人が、創価脳には結構多いですしね。
過去の私も含め、女子部時代の同志がダメンズ相手に不毛に尽くしすぎるとかw
自分の事なんてそっちのけで、折伏の相手にひたむきにアプローチするとか、
他人に利用されやすかった事などなど・・が思い出されます。
純真な青年部がそうしていたのは、なにも福運がほしかったんじゃなくて
相手のことを考えたり祈ってる間、「自分の中の恐怖」に向き合わなくて済むからだったのか?!
と、今となっては感じてしまうのです。

何が自分をそう(過覚醒に)させているのか・根底にあるトラウマ恐怖を探ってみる場合、
探しだすとあれもこれもと出てきて、最初は不安になってしまうかもしれませんが、
そんな時は「思考を止める」「いまここ」を強く意識することをお勧めしたいです。

トラウマの人の過覚醒の脳はものすごい能力を発揮している。
なぜなら、想像したことが、どんどん現実になってしまうのだから。
でも、残念なことに、トラウマの人は「自分がこの現象を創り出している!」という自覚が無い。
自分が作り出している現象なのに「自分は不幸な星の下で生まれ、もがき苦しみ続けて
生きるしかない」と心のどこかで思っている。
いつも、次から次へと襲ってくる不幸な出来事に対処し続けなければならず、
常に「先のこと!先のこと!」を考えてこれから起こりうる不幸に備えていなければならない。
(p218抜粋)


ここを読んだ時、まさに「思考の現実化」だと感じました。
人間の脳にはどんな思考をも現実にする能力が備わっている、ということです。
だから、何度も書いてますが、普段何を考えてる・どんな観念で居るかってすごく重要で
怖いことでもあるんです。
「難を乗り越えるための信心」なんて思ってたら、その通り難が来るんですw 
これリアルですよね・・「宿業出させてください」なんて、絶対祈っちゃダメでしょう。
そんなもん(宿業)、最初っからないのにw 無実の罪をかぶってるようなもので・
自ら不幸を作りだしているようなもんなのです。
「闘わせてください」と祈れ、とかいう指導もありましたよね・・全く、ろくでもなかったなとw

また、考えようによっては、もと創価脳は「信じ込む」特性をうまく使うことが出来れば
ポジティブな願望も現実化しやすい、と言えると思うのです←朗報w
なので、自信を持ちましょう!と私は言いたい。
そのためには、前回もちらっと書きましたが、観念を入れ変えること。
わくわくやポジティブを「でも」「だって」「どうせ」「以前こうだったああだった」で
打ち消さないための、徹底したネガティブクリーニング&「いまここ」を意識することが
大事になってきます。 これは、いずれ別カテで書いていきます。

で、「こんなトラウマ植えつけたのは組織(または創価脳な親)じゃねえか!
許すまじムキー!」って、一瞬怒ったり、爺様の写真にラクガキ&踏み絵するなどw
その他ストレス解消するのは大いに賛成だけれども、
怒り恨みつらみ状態を「長々と引きずらない」でくださいね、くれぐれも。
それ、過覚醒です(=エゴに取りつかれた状態です)。
怒り自体は、決して悪いことではないのです。そのことによって自分の腹の底の思いや願いに
気付ける事もあるからです。
ただ、それを「くすぶらせて長々と持ち続ける」のは、エゴに燃料をやっているようなもの。
(まあ、引きずるのは個人の自由だしw それが生きがいというなら止めません)
また、「トラウマをもっている私」というレッテルを自分に貼り付けて、それに浸らないでください。
自分を不幸のヒーロー・ヒロインに仕立て上げないでください。それはエゴの仕業と気付きましょう。
新しいエゴの創出のために、この本を紹介したわけじゃないのです。
あくまでも「あなたのイライラ・くよくよの原因、脳の過覚醒だから。それ、自分で止められるよ!」
という、希望的アドバイスのために私は本書を紹介したくなったのです。

「いま」にないことで、自分の気分を害することほど、馬鹿げた・アホらしい事はありません。
(それを教えてくれるのが「ニュー・アース」です。)

本書は「どうしてそうなったのか」「自分に何がおきているのか」謎ときをしてくれるので、
理由が解るだけでも安心できるすごい本です。
以前にも書きましたが、私は「過去」にものすごく執着する人間でした。(この記事
その原因も、本書で「トラウマのせいだったんだな」って気付いたら、更に楽になれた。
「ニュー・アース」と通ずるところも多々あって、私は非常に唸らされました。 

過去をくよくよ悩んだり・あれが悪かったこれがよくなかった・あいつのせいこいつのせい!
ムキー!!! ってなった時は、気付きましょう。
「あ、脳が過覚醒してるな」
「いま自分、思考フルスロットルだな」
「はい、休憩~!」って。
お茶でも飲んでゆっくり、思考を止めて過覚醒から凪へ行きましょう。
それだけでも、かなりあなたの生活の質は向上すると思います。
全ては自分次第です。



Category: Notice&Replace

神社参詣と神棚のこと

前回、神社参詣を通じて「他力=大いなる存在」に気付くことができたと書きましたが
他にも以下の気付きがありました。

まず一つ目に
「私は、日蓮仏法を捨てた時点で、祈りや願いを封印していた」
でした。
これは全くの無意識でしていたことで、最近になって気付いて驚愕したんです。
祈りや願いを封印した結果、どうなったのか・・そして、神道を通じて「祈り・願い」の力を
再び教えられた経緯をお伝えしたいと思います。

二つ目が
「他力=大いなる存在は、祈り願う誰人をも無条件で助ける」
ということです。
下線入れました「無条件」ここがミソです。

三つ目が
「そして私は、生まれてこのかた実はずっと
 大いなる存在に助けられていたとわかった」
です。
創価脳時代、いくつもの願いをかなえました。当時は「ご本尊様」に祈ったおかげだ!と
思ってきました。が・それは実際のところ、「ご本尊様」を通じ「大いなる存在」へ
アクセスしていた、それで願いを叶えたり・なにかと護られたり、不思議な体験を
してきたのだ・・と、理解し・腑に落ちたのです。
つまり、祈りの対象は何であれ、その願いは「大いなる存在」へ届き、
自分が願って叶ったことは「他力=大いなる存在」の作用である
だからどんな宗派であっても(勿論日蓮仏法でも)願いは叶っているのだ・・
と、私は解釈しました。

上記3点を軸に書きたいと思います。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

まず、神社観について。
創価家庭に育った人の大半は「神社なんて行かなくてよい」と親に教わったと思います。
私ももれなくで、「神社には悪鬼魔神が住んでるよby日蓮」が思考の背景にありました。
残念なことに、幼稚園の遠足で神社に行った日の夜、高熱+嘔吐でシンドイ思いをし
幼心に「仏罰があたったんだ!」と、トラウマになってしまいました。たった1度のことなのにw

父方の親戚に大きな神社があり、遠方でめったに里帰りしない父を案じてか
祖父母が時折、そちらの神社の御祈祷札やお守りを送ってきました。
その小包を見ただけで、私は頭痛や吐き気を催していたのです。
母はそんな家系の父と結婚したことを「自分(=母)の宿業が深いせいだ」と申しておりました。
なんでもかんでも不幸の材料にしたがるw どんな宗教なんだよ!と、今となると思います。
物心ついたころから「神社は禁忌・鬼門」だと刷り込まれ、
大人になって以降もできるだけ近寄らないようにしていました。 
そんな私の「思考の背景」が変わったのが、覚醒前の2010-2011年頃。
日本史の本を読むようになって、それまで抱いていた神社へのイメージががらっと変わりました。
(この記事に書いています)
以降、日本人として参詣くらいはお作法として出来なければ、いい大人なのに恥ずかしい!と
思うようになり、義実家帰省時の初詣に参加するようになりました。
ただまだ、この頃は「日蓮仏法最高!」と思っていたので、神社へ行ってもなにもお願いはせず
「無」の境地で、お題目を心で唱えていましたw

2012年秋、創価が宗教をかさにきた巨大ビジネスだった!と気付いた時も
「日蓮仏法は絶対だ」という考えは揺らぎませんでした。
創価の活動を一切やめても、日蓮仏法だけは個人信仰していこうと思っていたほど。
けれど、自分の信仰観を見つめなおすことで核となる「選民思想」に行き当たり、
2013年5月に旧友(東日本大震災の被災者)と再会し、九死に一生を得た体験を聞かされて
その「選民思想」が砕け散ってしまいました(この記事   )。
ここで私は「日蓮仏法は信ずるに値しない」という結論を下します。

日蓮仏法を否定する=それまでの生き方の根幹をまるっと覆すわけで、辛い事でした。
同時に、自分責めが始まります。
主には「祈ってればなんとかなる」という考え方を強く戒めるようになり。
そんなお花畑思想は捨てよう!と思ったのです。
此処で私は、祈ったり願ったり望んだりということを、やめてしまった・忘れたのでしょう。
「やめよう」と、特別に決意したわけではありません。
単純に、それまでの”祈る対象”が、無くなってしまい・・かといって「はい次~!」なんて
他の対象に飛びつくことも、したくなかった。 
何かを信じることに対して・・「宗教」に対して、特別悪しきイメージを持ってしまった事も
ありましたし、こんなに簡単に創価に40年も騙されてきちゃって、
自分が非常に愚かな人間なのでは・・またやらかすのでは?という懸念もあったのです。
「祈ればなんとかなる」というような、甘い考えは今後、排除して生きていかねば!と。
↑思えばこれが、そのあとに約3年続く「逆流の中を漕ぐボート」のような状況を
生みだしていたと、今だから解ります。

もし今、なにも祈る対象がなくなってて・願ったりしてない・出来ないって人は、
月でも星でも太陽でもかまいません、大いなる存在へ祈り願うことをすぐ始めてください。
もちろん神社やお寺へ行くことでもかまわないのです、抵抗がなければ。
とにかく「上(天・宇宙)を向いて」願って行くことって大事です。
それが人生を大きく下げない事に繋がります。

大いなる存在は、ぶっちゃけ何もしなくても助けてくれますが(絶妙な・ぎりぎりのラインでw)
「願い・祈り」を、表明したほうが、もっと話は早いのです。
そしてその「願い・祈り」に「嘘」が一切ないこともポイントになります・・が、この話は別記事で
書かせてもらいます。 

2013年5月以降、祈るのをやめた私は、現実に強くフォーカスするようになります。
「祈り願う」ことで得られる安心感がまるでなくなった為、かわりに現実に不安を感じないよう
目に見えるものを増強するようになりました。
それはまるで「大いなる存在」を否定するようなもの。
完全に「今にある」状態にはなく「まだそこにない未来」に強く不安を抱くようになりました。
何が起こるか分からないから、あれもこれもと先取りして考え・方策を立てジタバタとし
「取り越し苦労」が増えました。
希望的観測をもつことより厳しい見通しをもつことが主になり・・今思えば、なのですが
本当に2013年~昨年までの私は、その前と比べ疲労感が増大していたのです。
子供たちの成長に伴い(幼稚園と小学校)用事が増えたことプラス、厳しく現実を
見ていたので、子供たちに対しても「今やっておかなきゃ、あとで困るんだよ!」と
重荷を課すような事もしていました・・それにつきあう自分も完璧でいなくては、と肩肘張って。
役割をしょい込み、自らどんどん状況をタイトなものにし、「がんばり過ぎ」ていました。
「祈ってればなんとかなる」を封印してしまったから、
「他力」を知らなかったから、自分でやるしかない・自分がやるしか!と
ガチガチに肩に力を入れ、余裕なく思い込んでいたのです。

するとどうなったか。
やりたくない役割を頼まれるも「NO」と言えず、いやいや続けることに
なってしまったり・・人間関係が悪化しました。
2013年からガラリと周りにいる人たちが変わったんですが、どういう訳か次から次へ
厄介な人(?)ばかり現れるのですw
また、こちらが正義をふりかざして事に当たると全く解決せずこじれていくばかり、という
ケースにも遭遇しました。
しかし、人間関係の悩みなんてどこにでもあるし~とか・命取られるわけじゃないし・
実際自身の生存に関わるような問題でもなかった為、「どうも変な流れだな?」と
薄々思いながらも、深刻に思い悩んだり煮詰まるほどには、当時至っていませんでした。
最後には義実家問題で強制終了となったわけですが、本当に、「なるべくして」
この苦難に遭わせてもらえたんだなぁ・・とw
「そっちじゃないよー」と、大いなる存在が常々教えてくれたんだなと、今は解ります。
それでも私が気付かないから、ショック療法的な義実家問題が出てきちゃったのかな?と。
スピリチュアル系の本を読むと概ね、そう書いてあるんです「ピンチはチャンス」的なことが。
エックハルト氏も「人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える」と言ってました。
なので、もし今なんらか、人間関係・家族関係でうまくいかない流れや・苦難のさなかにある方は
”気付き・見直しのチャンス”だと捉えてください。
きっと無用な思い込みをたくさん握ってるよ!手放してね!という、サインです。

さて、ここからやっと神社のエピソードです(前置き長!)。

私が自ら神社へ出向き初のお祓いを受けたのは、2013年夏でした。(この記事
日蓮仏法を否定した後、精神的に落ち着かない状態が続き・自宅内で奇怪な現象も
続いたため、友人の助言を思い出してA神社へ向かいました。
その時は「お金で解決できるなら楽だ」くらいの考えで出向いたんです。
半信半疑でしたが、見事に御祈祷を受けたその夜から怪現象はなくなり、私自身も
精神的な落ち着きを取り戻しました。
この経験で「神社ってパワーあるんだなぁ(上から目線)」という感想をもちましたが、
これがきっかけでハマったという事もなく、その後暫く神社を訪れることはありませんでした。

次にA神社を再訪したのが、2015年の1月。
前年の暮れに、人間関係でちょっと心配な出来事があり、ふたたびお祓いをしたほうが
良いのではないか・・と感じて、年明けに伺ったのです。
そこで2月の「節分祭」を教えていただき、年の災厄をはらう神事に参加することに。
この記事の後半にも書いたのですが、その後、縁切り社であるB神社へも参詣したところ、
心配に思っていた事の張本人が、海外転勤でいなくなるという朗報があったのです。
ここで「神社って、やっぱすごいんじゃない?!」と、そのパワーを見直したというか。
この結果が何によるものなのかは当時わからなかったけど、
神社には災厄をはらうパワーが確実にある!と感じた出来事でした。

翌月、新居への引っ越しを控え、C神社にて方位除けの御祈祷を受けました。
そして新居の近くにある氏神様のD神社でも神宮大麻と御札を頂きました。
都合、御札が多数になったので神棚を祭ることにしたのです。
リビングにむき出しの御札を複数飾ることに抵抗があり、コンパクトに収納したいとの思いから
シンプルな一社祭りを選択。
何か特別な思い入れというよりは、インテリア(見た目)重視での神棚設置でした。
あまり仰々しくしたくなかったので、当時は御供・御榊もあげていませんでした。

新居近くのD神社はとても雰囲気が良く、初めて行った時から空気感が好きでした。
そちらへ月に一度参詣をするようになったのは、お参りをすると不思議と頭がすっきりすると
気付いたからです。
一か月無事暮らせたことへの感謝と・また来月もよろしくお願いしますという祈り。
そのD神社で、不思議な経験をしたのが昨年12月。義実家問題勃発した時でした。
主人が話し合いで帰省した日の朝、いてもたってもいられずお参りへ。
D神社で具体的なお願いをしたのは、このときが初でした。
早朝、誰もいない拝殿前で参拝を済ませると、突然上方からザーッと風が吹き下ろし
私の体の周りをくるくると暖かい風が巻き上げていくのです、葉っぱも舞っていました。
12月なので、暖かい風という時点でもうかなり不思議だったんですが。
えー?なにこれ?と思っていると、風がやんで頭の中に「全て思い通りになる」という言葉が
浮かびました。 こんな経験は初のこと。
一瞬のできごとで、その前後は全くの無風。不思議だな~と思いましたが、励ましてもらって
いるのかな?と嬉しくなり。
しかし、年が明けてから新事実が多数出てきてパニックで「どこが思い通りなの?!」と
不信に思ったんですがw 今はあの風が示唆だったとわかるのです。
”大きな風(ごたごたのアクシデント)が吹き去ったあと、思い通りになるよ”との意だったと。
実際、1月2月は波乱でしたが、おかげで大きな気付きを得ることができましたし、
出来事が過ぎた後の状況は、絶対変わるはずないと思っていたことが変わり、私の思い通りに
なりました。

2016年2月もA神社の節分祭へ参加しました。
御祈祷を終えて帰宅した直後、義母さんがらみで訴状が裁判所から届きました。
凄いタイミングで、この時も一瞬
「なんなの?!お祓いしてきたばっかりなのに!もう災いが来てんじゃん!」と
不信に思いましたw が、この日の夜に主人と話しているうちに急に馬鹿馬鹿しくなって・
私は全ての問題を「手放す」ことを決めたのです。
以前も記事にした通りですが、すべてがここから変わったと言っても過言ではないほど。
後になって「必要があって、起きたこと」だったとよくわかりました。
当時は様々悩み、このトンネルを抜け出ることはできるのか?と疑わしい心境でしたが
心理学やエックハルト・トール氏、現代の覚者の教えと次々に出会うことができ、
大きな気付きを得て、いまも気付きの連続です。

今だから言えることなんですが、この、神社参詣後に起きてくることのタイミングが
まさに「神の采配」で、絶妙だったのです、今までずっと。
(他にも小さなエピソードがいくつかあるのですが、長くなるので機会があれば別記事で)
2013年夏と2015年初頭なんて、まさに「困った時の神頼み」
普段まったく神社にいくでもない・神様を信じていたわけでもない私でも助けてもらえた。
必ず良い方向へと・思ってもみない解決策へとガイドしてくれていると気付いたのです。
「大いなる存在」が、動いてくれたとしか思えない。
これって、すごい事だよなぁ・・と、しみじみ驚いたのは今年の夏ごろでした(遅)。

創価脳時代の祈りや願いと比較したら、よくわかります。
「祈るだけじゃだめだ。信行学だ!」「自行化他に渡らなければ願いはかなわない」
組織じゃこんなケチくさい・厳しい事ばっかり、言われてましたよねw
本当は祈り願うだけでよかったのに、時間と労力と金銭奉仕(←ほぼこっちメインだったかも)を
励行されて。
だから時に凄く頑張ったりしてましたが・・頑張らなくても簡単に叶ってしまったこともあったし・
頑張ったってどうにも叶えられないこともありました。
叶った時は「ご本尊のおかげ」叶わなかったときは「これも意味のあること、あとでわかる」と
していました。
神社参詣するようになってから、スピリチュアル系の本を読むとこう書いてありました
「神の采配は完ぺきで、その人にふさわしいタイミングで物事が起きてくる。
 願いが叶う・叶わないも、神の采配である」と。
この2つの融解点を考えた時、私はひとつの答えを得ました。
「どの時にあっても、生まれてこのかたずっと自分を護ってくれて・時に願いを叶えてくれたのは、
 大いなる存在だったんだ!」
と。

OOの信仰をしていたから「願いがかなった」わけじゃないんです。
OOの活動をしていたから「願いがかなった」わけでもなかったんです。
崇敬対象がなんであれ、願い祈った時、あなたの思いは「大いなる存在」を動かす。
創価時代の「願望成就」は”たまたま”だったと、私は日蓮仏法を否定した時そう思ったのですが、
”たまたま”じゃなくて「大いなる存在」が叶えてくれていた。護ってくれた。
それだけのシンプルな話だと、理解したのです。
「他力=大いなる存在は、祈り願う誰人をも無条件で助ける」
だからやはり、枝葉的なこと(選挙活動・勧誘・新聞推進・その他)は無用だと
いうことです(いまさらですが)。
創価脳の皆さんが「願いが叶った」と思っているのも、実のところ「大いなる存在」に
願いが届いてるということですし・「頑張ってるのに叶わない」というのは願いが頓珍漢だから・
矛盾があるから、そもそも叶える必要ない、ということで。 
活動や祈りの数量は直接関係なかったということです。
↑このあたりに関しては、他にも考察あるので別記事で来年書いてみます。

そして言うまでもなく、「大いなる存在」は誰人にも平等です。
空気のように、誰人にもいつも寄り添っています。

あの信仰対象でなければだめ・この宗派が絶対・・そんなことは人間が勝手に言ってるだけの話。
そういった凝り固まった「選民思想」は、わだかまりを確実に生みます。
エックハルトが指摘しているように選民思想なんてエゴの最たる形ですからね。
自分がまっすぐに、素直に、願い祈れば、それだけで十分なのだと思います。

祈りや願いは、心に安心感と余裕をもたらします。
「大いなる存在」がいつも自分のそばについている。大丈夫だ!っていう気持ちでいれば
ガチガチにならずに済みます。
そういった意味でも、宗教アレルギーはちょっと忘れて「天」に向かって願うことを
してみてもいいと思います。
「大丈夫、自分はいつも見守られている」って、思うだけでも心持ちはずいぶん変わってくるでしょう。
要は「依存」しなければいいのであって、「ギブ&テイク」の考えも捨てることです。
無条件で助けてくださっているのだから、「これだけやったのに!」なんて思わない。
そもそも、「天」にむかって願うだけなら「これだけやったのに!」なんて感情は湧かないですよねw
そこに労力やお金が絡むからおかしくなるのです・・たぶん。

2016年2月から、神棚を三社祭にし、御榊と毎朝御供をし、朝夕の参拝を
しています。
神道の基本は、始祖崇敬であり、自然の恵みへの感謝です。
何千年と連綿と続く「命」「循環」への感謝。
神話には陰陽があり、生命体のすべて、宇宙のすべて、といってもいいくらいで
(古事記や日本書紀を読んでみてください)
神道でまつられる八百万神は「大いなる存在」ともいえると私は思っています。
朝夕、自宅の神棚にて
「生かしていただいて、ありがとうございます」
「いつも助けていただいて、ありがとうございます」という感謝を伝える。
シンプルで拘束感なく出来ますし、何より清々しいルーティンとなっています。
お供~参拝で3分くらいなので、気軽なところも続けやすく良い点だと感じます。

長文になりましたが、自分の現実はすべて自分の「思い込み」で出来ていると知ったら
心がけが変わります。 
本当に恐ろしい程、自分の思い通り・願いがかなっての「今」なんです。
だから思考には、よくよく気をつけたほうが良いのです。
絶望諦めよりは、何かを信じ希望を持って生きるほうがプラスであることは、言わずもがなです。

私の現状は、人間関係も家族関係も平穏な問題無いものになり、
日々機嫌よく過ごしています。
振り返れば、昨年のちょうど今頃に義実家の問題が発覚しました。
あのとき、こんな一年後を全く想像できませんでした。
今、好きな場所で音楽を聴きながら・マイペースでブログを書くことができている、
感謝しかありません。
あの一連の出来事がなければ、今をこんなに幸せに感じることもなかっただろうし、
そこでバシャールのいう「コントラスト」という言葉が、とてもしっくりくるのです。

過去も今も、あなたを苦しめるために在るのではありません。
自分の思考がそうさせているだけ、と気付くだけで世界は変わります。
気付けば・変われば、コントラストの意味も即座にわかります。
すべては自分次第です。

神社の話は一切でてきませんが、おすすめの本です。
意識の使い方・在り方がわかりやすく書いてあります。
タイトルが若干胡散臭いですがw同シリーズの「ワクワクの使い方」も
いい本です。
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

人生に奇跡を起こすバシャール名言集 [ ダリル・アンカ ]
価格:1296円(税込、送料無料) (2016/12/22時点)


Category: Notice&Replace

他力=大いなる存在に気づくこと

この一年を通じて、私が神道から学んだことは「他力」の存在でした。
そしてこの「他力」が、エックハルト氏のいう「大いなる存在」だという事にも気付きました。

「他力」というと、創価脳的には「他力本願の”神頼み”」という悪しきイメージが浮かびがちです。
心の弱い人がやること、みたいな。
言葉の意味を調べると「他力本願」とは仏教用語で、阿弥陀仏による衆生救済の力を
指すのだそうです。 「仏の功力」ということですね。
ありがたいことに、これは仏の本願。つまり、衆生を救うこと・助ける事が「仏の願い」だと
いうことです。 そして驚くべきことに、仏は衆生に対して、無条件で救済の手を差し伸べ、
力を与えてくれるという。
知ってる言葉をここに当てはめるなら「大慈悲」です。

仏教から離れてみても、人は誰しも「他力」に支えられて生きています。
たった一人の・自分だけの頑張りで生きているわけではありません。
なかなか忘れがちなところですが。
孤独に思える時でも、電車やタクシーやバスで移動できるのは其処で働く人がいてくれるから、
コンビニでおにぎりや飲み物を買えるのも、製造・輸送・販売に携わっている人がいるから、
ネットが24時間つながるのも、電気やガスや水道がいつも使える事も、
各種産業に携わる誰かが働いてくれているから、
自分が支払うそのお金も、誰かのところから巡り巡って自分の手元にある。
また、自分が支払ったそのお金が誰かの元へと巡っていく。
何気ないようでいて、人に支えられ・自分も見えないところで誰かを支えて生きている。
モノ申さないけれど確かに存在する、そんな大きな循環=「他力」があるということに、
創価脳時代まったく気付きませんでした。
というか、それを「他力」と呼ぶとは知らなかったのです。
「他力本願」のほんとうの意味を理解すれば、なんてありがたいんだろうと、
自然と感謝がわいてきます。

ところで創価脳は、「感謝」が口癖の割に、その対象は限定的かつ序列のあるものでした。
(当時は感謝感謝いいすぎて、超薄っぺらでしたね・・はずかしい)
まずいの一番は「ご本尊様」への感謝。これはまだいいとしましょう。
次に「大聖人」そして「組織」や「師匠」←私はコレはなかったけどw
その後ろに「家族」や「周囲の人」や「同志」だったような気がします。
同列に感謝はありえなかったというか・・まあ1番がご本尊で、残り全部が同列はあったかも
しれませんが「全体に対する感謝」という視点をもった人に、ほとんど会ったことがない気がします。
もし「全体に対する感謝」が基本にあるならば、外部に対しての上から目線は生まれるわけありませんw
自分がかつてそうだったからこう言えるのですが、「感謝」といいながらとても傲慢でした。
でもそれは仕方がないんです。
だって、創価の教義(日蓮の教義とも言えるでしょうか、ちょっとこのあたりは
掘り下げてみなければと思いながらも、面倒で勉強していないのですがw)は
「何か(功徳)がほしければ、何か(布教活動・票・お金等)をよこせ」というギブ&テイク型だから。
つまり「何かをしなければ与えてもらえない・与えられない」「甘えんなよ」という教義だったから。
施しの裏側には、必ず見返りを求める心がある。 これが「傲慢」の部分です。

仏様も神様も、そんなセコイ存在ではありません。
何もできなくても、ぶっちゃけ何もしなくても、
自分がどんなに非力で無力であろうとも、
いつも大きな力で支え・護ってくれているのです。

そしてこの教えは、わりと既成仏教宗派ではスタンダードで、神道においては、いわずもがなです。

もう少し創価脳のカラクリを書いてみますが、
たとえば祈って動いて何かが「叶った」とします。その時は「功徳を頂いた!」と、喜びます。
感謝の先は、もちろんご本尊様(=大いなる存在)です。 
ただ、その願いを実質かなえてくれたのは、他者である場合もあります。
そんなときも、感謝のベクトルがまっすぐ他者へは向かいにくかったように思います。
(一応他者へも「感謝」はあるのですが、何かが一枚挟まった感覚)
創価脳にとっては
「ご本尊」に祈って→「諸天」が動いて→「他者」を動かしたんだ・・というフローです。
これだとつまり、ご本尊に願ったり祈ったり・ついでに活動がんばっちゃったりしたのはあくまでも
「自分」です。 
だから「他力」よりも”自分の力(信心)でかなえたんだ!”が優位になっていた、と私は分析します。
それが「傲慢さ」を生む因ではなかったか、素直にまっすぐ「他力」に気付けなかったトラップでは
なかったか?と。

「創価脳時代のくせ」が抜けていなかった私は、2012年秋の覚醒~今年の春に至るまで
結構な気苦労を経験しました。
創価仏法を捨て去った後、信仰を保つことに関して異様なまでに慎重になっており。
2013年夏に神社でお祓いをうけましたが(この記事)その後、とくに神道にハマったというわけでは
ありませんでした。 もともと神社アレルギーでしたし・・このあたりの話を書くと長いので
神社参詣と神棚エピソードについては次回UPさせてもらいます。
いいことがあれば「ご本尊様のおかげだ」と喜んでいた私が、ご本尊様を信じなくなったら
今度は「相手」に対し、ダイレクトに感謝するようになりました。
ただ、私の「感謝」は「報恩」がセットだったんです・・これが創価脳時代のくせです。
(前に書いた、義母さんへのそれと同じです)
何かをもらったらお返ししないといけないし・何かをしてもらったら自分も役に立たないといけない、
「他力」に甘えることをよしとしない、それが自分の首を絞めることになろうとは
思いもしませんでしたw
2013年初旬以降、不思議なことに人間関係ががらりと変わったのですが、その中でやりたくない
役割をひきうけることになりました。
断ればよかったのですが、恩義があったため「それは無理」と勝手に自分で思い込み。
イヤイヤだったので当然不満だらけ、でも吐き出せない。人にはいい顔をしてしまう。
しかしストレスはたまる一方、それで派手に人と揉めたりもありました。
勝手に相手のことを決めつけて、本音を出せず、恩着せがましくその役割を引き受け続け。
結局、2015年末の「とある出来事」のおかげ?で、その役割を降りることができました。
ほっとした反面、自分の望む形ではなかったためしばらく忸怩たる思いが消えませんでした。
それが、神社参詣をつづけるうち・真言宗の御寺での法話を聴く機会に恵まれたのち
「ハッ」と気付かされたのです。
「ああ、私、勘違いしてたんだなあ・・」と。
「他力」を信用していなかったんだ、100%ありがたく「ただ受け取る」が、出来なかったんだと。
だってしかたないよ、「ただで功徳はいただけない・自分が動かなきゃ功徳はもらえない・
そしてなにがなんでも受けた恩は返せ」って、教わって生きてきたんだから(涙)と。
三つ子の魂百までも・・恐ろしい言葉です。
きっと同じ思いを抱えた、学会2,3,4世の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
他人の親切をただ受け取れない。受け取るけど意地でも返す。返さないと気が済まない的なw
これ、「忘恩の輩」系刷り込みなんですよね、げに恐ろしき。
だから恩を返さない人にはイライラしたりもするw 自分がなまじ、やっているだけに。
私は過去そのタイプで、ママ友でもお返しをきちんとする人とは親しく付き合うけれど、
てきとーな人とは距離を置いていましたw 
いろんな人がいて、一概には言えないけれど(見返りがほしい人もそれなりに存在はします)、
それでも「他力」って優しくて、とてつもなく大きなもの。
たとえば外出先で見ず知らずの方に親切にしてもらった事、一期一会で、お礼を言うだけで
精いっぱいだったけど
次は自分がまたどこかで、困った誰かに遭遇したなら気が向いたらお手伝いすればいい。
そういった軽やかな循環を「他力」とも、呼べると思います。
そこに「損得勘定」や「見返りを求める心」があったらおかしくなるのです。
ついでにいえば「押しつけがましさ」もw

信仰があってもなくても「他力=大いなる存在」は、誰人をも護り支えてくれます。
ただそれを知って、感謝できる心があれば、人生を大きく下げることはないと私は思います。

よく、創価を脱会した人が不幸になっているとか・精神を病んだなどの噂をきくことがあります。
それを創価脳はしたり顔で「仏罰」「現証」なんて言います。
これは何もそういった現象ではなくて、私思うに「他力」に気付けなくて・信じられないがため
一時的に人生を下げている、それだけの話だと思います。
何かのきっかけで「他力」の存在に気づいたら、瞬時に浮上するでしょう。
不遇が続くかに見えるのは「そっちじゃないよー」と、教えてくれているのです。
(↑私はそれを身をもって経験しましたw)
本人の意識はほんとに一瞬で大変換しますし、意識が変われば環境も徐々に好転します。

創価から脱した後、もう騙されるものか!と、宗教や思想体系にやたら警戒心を抱く気持ちは
わかります。
ガチガチの鎧を着て、自分を律しなくては!と自他に厳しくなることもあるでしょう。
が、忘れてほしくない&信じていてほしいのは「他力は存在している」ということです。
ご本尊様を信じていた当時の「諸天の護り」が「他力」であり「大いなる存在」のことです。
宗派や各世間で表現が変わっているだけで、とどのつまりは同じ事。
そして認識を変えるべきは「ぶっちゃけ何もしなくても、他力の存在を認めれば
大いなる存在はいつでも自分を支え助けてくれている」ということです。

だから「ありがたい」し「大慈悲」です。
だって、ぶっちゃけ何もしなくても・助けて支えてくれているんですから・・。
特定信仰も持たなくてよくて、とにかくなんの条件もいらない。
ただ自分が他力の存在に「気付く」だけ。
ただ自分が「生き」て「気付いて」さえいれば、「大いなる存在」はいつもそばにあって、
支えてくれています。
いまの私にとってはその「大いなる存在」へ、日々の感謝の思いを伝えに行く場が
神社であり・自宅の神棚であるという感じです。
でも、それは神道に限らず、お寺だったり・自然崇拝(花や木や滝とか岩とか)だっていいと
思います。自分が「大いなる存在」を感じられるのだったら、なんでもありでしょう。 
なにも絶対に神社に行きましょう!とか言いたいわけじゃないことだけ、お知りおきください。

前回記事の
ただ、自分がいま「生かされている」事について、シンプルに奇跡を感じられたら、
世界は変わります。

この部分について、本当に些細で、文章にするとたいしてインパクトないのですがw
一応書いてみます。

とても楽しみにしていたある予定が当日になって中止(延期なし)になってしまった日のこと。
かなり気合い入れて準備をし、その日に備えていただけにショックでした。
今年春に「思考はエゴのおしゃべり」と知り、俯瞰でみれるようになったとはいえ、しばし呆然とし。
腹を立てるとか・怒る・ひどく落胆などの感情の揺れはなかったけど気分は下がっていました。
少し時間が経過して「前にもこんなパターンあったよなぁ・・」と過去を反芻。
そうなると今度は原因探しがはじまる・・のが、以前のお決まりでした。
創価脳時代だと「一凶」探しで、最終的には「自分のせい」「業のせい」という自分責めに至り
「だから宿命転換しなくちゃ!」と繋がっていたわけですが
2016年の私はさすがにそのトラップにはまることはなくw
ただ過去のネガティブを淡々と思い返すにとどめていたのですが
「ああ、あのときそういえばキャンセルになったな」とか「あのときもこうだったな」とか・・
次の瞬間「!」と驚きました。
「いやいや、そんなこともあんなこともあったけど、
 全部大丈夫だったよ!」
「全部大丈夫だったから、いまここに生きて存在してるよ!」
「だから今もだけど、これからも大丈夫なんだ!」

ということに、気付いたのです。
過去の様々なシーンが巻き戻しのように頭の中に巡り、あれもこれも、大丈夫だった・・
大きな輪のように巡り巡って、全部今に繋がってて、大丈夫だった、と。
するとどっと涙があふれてきて、ずっと大丈夫だったことは「他力=大いなる存在」の
おかげであったと、しみじみと、解ったのです。
その瞬間もう、感謝しかありませんでした。

悲しかったこと、傷つけたこと、傷つけられたこと、騙された事、
裏切られた事、誤解を受けたこと、約束に間に合わなかったこと、
約束を破られた事、もう立ち直れないと思うほど泣いたこと、
冷たくされた事、冷たくあしらったこと、暴言を吐かれた事、悔しかったこと、
我慢したこと、いじわるしたこと、嫌味を言われた事、悪口を言ったこと、
負けたこと、勝ち誇ったこと、返ってこなかったこと、果たせなかったこと、
叶わなかったこと、一寸先も闇で何も未来が描けないと思っていたこと、
50年近く生きてきたなかで、本当にいろんなことがありました。
もう駄目だと思ったことが山ほどあったはずだったけど、私はここでこうして生きている。
どうにもならなかった事なんて、結局は一度もなかった。
うまれてこのかた、何百回と悩んでも困っても激しく憤ってもわだかまっても、
ちゃんと「いま」へ導かれた事に、
鳥肌がたつほど感動したというか・・改めて「生かされた」事に、驚きと感謝でいっぱいに
なったのです。
エックハルト・トール氏の教えに触れて「生きている」「呼吸が連続している」ことの奇跡に
気づけたからこそ、こんな心境に至れたのだと思います。
(まずそこが「あたりまえ」すぎてなんの感動も持てずにいるなら、人生は不平不満だらけでしょう・・)

そして「ずっと大丈夫だった」という気付きのあと、じわじわと環境が変化しはじめ
望んだことが現実化するスピードが速くなったのです。
偶々かもしれませんが・・具体的にいえば探していたものがすぐ見つかり手に入ったり、
ずっとどうしているかな?と案じていた昔の友人と20年以上ぶりの再会を果たせたり
(過去、何度かSNSで検索をかけても全く情報があがってこなかったのですが、
 先日友人の勤務先名+名字でぐぐったら、画像検索で瞬時に上がってきてビックリ!でした。
 そんな探し方を思いついたのも初めてで、まさかのまさかでしたが
 連絡もすんなりとることができ、驚く速さで再会まで出来たのです。)
この事のための準備だったのか?と思うほど、何気なく以前していたことが完璧に今と繋がったり、
某件に関する情報がほしい・・と思った次の瞬間テレビ番組やネットで紹介を目にしたり、
流れが良くなったというか、急いでいるとき信号が全部青ですんなり到着できたり、様々です。
スピリチュアルな人たちの間ではこれを「シンクロ」と呼ぶらしいのですが、
どっかの教団施設で爺様と読経の声をあわせなくても、宇宙とリズムは合致するようですww

創価問題に対しても、騙された腹立たしい・家族崩壊させられた云々、おのおの恨み節は
あると思います(私もありました、皆様ご存じのとおりです)。
だけれども、その期間があったればこそ、護られた事もあったかもしれないのです。
それがなかったとして人生が100%ばら色だったとは、誰にも言えないのです。
それは経験すべき魂の修行時間(?)だったのかもしれないし、それがあったればこそ、
この先の人生が彩られることもあるのかもしれません。
バシャールはそれを「コントラスト」と表現しており、私はその示唆にすごく納得ができたのです。
(詳しく知りたい方はぐぐってください)

「神の采配」という言葉があります。
全ての出来事は、その人に完璧なタイミングがもたらされているという意味です。
自分の人生の物語を、自らネガティブにする必要もないと思います。
なにも過去にとらわれなくていいのです。

私たちが生きているのはまぎれもなく「いま」しかありません。
生きられるのも「いま」しかありません。
だとしたらどんな「いま」を過ごしますか?
私は、抗わず・わだかまらない「いま」でありたいなと、思っています。

悩んでいる人も、わだかまっている人も、これまでが「大丈夫」であったことを
しみじみと、思い出してください。
そしてこれからも「大丈夫」だと実感してみてください。
不安を作り出しているのは紛れもなく自分の思考=エゴであり、思考の背景=過去です。

最後にエックハルト・トール氏の言葉を紹介します。
(「世界で一番古くて大切なスピリチュアルの教え」より)

出来事は、身体に苦痛をもたらすことはあるかもしれませんが、
人間を不幸にするパワーはありません。
人間を不幸にしているのは、ほかでもない、
自分自身の思考なのです。


次回はお約束通り、神社にまつわるエピソードを書かせていただきます。



Category: Notice&Replace

問題を手放す

以前の記事で少し触れました「問題解決のために問題を手放す」について、
お尋ねもありましたので今回はその件について書きます。

「問題を手放す」 には、2つの側面があります。
ひとつは人としての在り方・相手を尊重する事。
もうひとつは受容の奇跡。
どちらも「手放す」ことにより、問題は本来あるべきところに戻り・解決するという流れです。

まず、私が心理学など全く知らない時期に「問題を手放す」をやったことで
問題が解決していた経験から。

私自身、主人におこったネガティブな出来事に一切関わるのを途中で止めたのは、
馬鹿らしくなったという理由の他に、過呼吸症状が出た為、自分を護る目的もありました。
関わっていたらますます、心身ともに追い詰められてしまう!と感じ、降りたのです。
ただ、完全に無視を決め込みながらも心はざわついていましたし、
「冷たい奴と思われないだろうか?」という不安も時々よぎっていました。
その払拭に、問題には一切触れないけれど健康管理にはいつもより気を配るようにしました。
また、自分の気持ちの整理のために「断捨離」「掃除」「神社参詣」をルーティンにして過ごしました。

そして実家母の創価問題に関して、私が躍起にならなくなったのは
姉のかかわりが大きかったと思います。
家族の中で唯一、私だけが母の創価趣味(←今はこう表現できます)につきあわなければ
ならない!と(勝手に)背負いこんできましたが、
2014年春に姉から「創価の事で母を刺激するな」と釘を刺されたこともあり、以降の私は
母に対し、「問題意識」や「敵対意識」をあからさまに向けて創価を語る事を自粛しました。
過去の記事にも書きましたが、あくまでも兄姉の意向に沿うよう・邪魔しないようにとの配慮でした。

手放しの理由はどうあれ、主人に巻き起こった全ての問題は綺麗に片付きました。
そして母も、私が膝づめ対話w を継続しなくても、勝手に非活動の道を歩み始めました。
「問題を手放したら、問題が解決」していたのです。

一連の出来事を経て、心理を学び始めたところ「問題は解決しようとしない」とか
「問題を手放せば、問題は解決する」といった教えが、あちこちにあることに驚きました。  
いろんな心理学者・カウンセラー・覚者が、表現こそ違いますが同じことを言っており。
「他人の問題に首を挟むのは、相手を低く見て信用・信頼していないから」
(相手に解決能力が無いと見くびって、相手の仕事や役割を奪っている)
との示唆を読んだ時、
なんですとー?!でした。 が、これは当たってるかも・・(汗)と、自分を振り返り。
私が主人と義弟の訴訟問題に首をつっこみかけたのも、ふたりが頼りなく思えたからでした。
(常々、そう思ってきたということです) 
また、母に対しても「長年盲目なんだから、自分で気付けるわけがない(=だから私が創価の矛盾を
母に教えなければ・訴え続けなければ!に繋がっていた)」と決めつけていました。
つまり「相手を見くびって」いたことになります・・。
そして「相手が問題を解決するチャンスは譲るべきであり、首を突っ込むべきでない」
ともありました。
相手の役割や成長・気付きのチャンスを奪ってはいけない、という事です。
これが基本的な「人としての在り方」の部分で、問題を手放す理由のひとつめです。

実際、私が手を出さなくても主人の問題は片付きました。
私の出番なんて全く無用だったということですw
そして、一連の出来事を経て主人が大きく変わりました。
本来持っている力を出すようになった・・というよりも、これまで義母さんや私が
主人を「頼りない」と決めつけて「役割」を奪っていただけだったんだ・・と、理解しました。
実家の母についても、私がヤイヤイいわずとも、自分の目で組織の中を見「これ如何に?」と
気付き、離れたのです。
それも、2014年春頃には思いもよらなかった理由(安保法案をめぐっての内部対立を目撃)で。

心理を学ぶと、創価で叩きこまれた事のほぼ全てが覆るというか・前提が違いすぎて
改めて驚くと共に、
「幸せとは真逆の理論を叩き込まれてたんだなぁ・・」と、しょっぱい気持になるのです。
そんな組織を離れて良かった、と思うと同時に、折に触れ自分の中にある「前提」を
チェックしてみる・おかしな「思考のくせ」が残ってないか、点検してみる必要性を感じます。

心理学は、条件なんて何も必要なく、人は誰でも最初から幸いで尊い凄い存在だ、
という大前提から始まります。
「かわいそうな人・救うべき人」なんていません。
この大前提から出発しているため、自分も他者も素晴らしい存在であり、信用・信頼して
委ねることが「自他の尊厳を護る」ことになります。
人が不幸だと感じるのは、思い込みや勘違いで思考が偏ってしまった(思考のくせがついた)
せいであり、
その心の仕組みを理解し・偏りを真中へ戻すのが、心理学の様々なテクニック(療法)です。
そして心理学の究極は、助けるのは「わたし(自分自身)」だけです。 
他者には問題も原因もありません。(人のせいにしているうちは、何一つ解決しません)。
自分が助かり救われる事で、何もしなくても他者も救われるし、大丈夫。
むしろ、他者のことを気にしているから、自分が救われないのだーと教えてくれます。
自分の投影が他者である、自分が他者に何を感じているのか。これが出発点だからです。 
そして、心理学は徹して「自分」に決定権があります。
自分の内側を変えるだけで、外側=相手に影響を与えるのです。
つまり外側=相手を敢えてどうこうと、弄ったり働きかけたり、変えようとしなくていい・
相手を、どうにかしなくていいのです。 
心理学のおすすめ本があったら教えてほしいとのお尋ねもありましたので、記事の最後で
紹介いたします。

対し創価では「条件付き」の幸福論に終始していました。
いうまでもなく、信仰を保たなければ真の幸せは無いという考え方です。
この考え方は、選民思想を生みだします(信仰のない人は不幸・・だから救わなければ!と)。
.自分の幸福だけで満足してはいけない、他人も幸せにしなくては! ←下線部が罠です。
このあたりの話は、別の機会にもっと詳しく書きたいと思います。
もと創価脳で悩まれている方には、ぜひ知ってもらいたい大前提です。

「ニュー・アース」を読んで、エゴの構造について知ると、よりこの「問題を手放す」について
理解が深まります。
詳しくは次回から書きますが、エックハルト氏は「ニュー・アース」をはじめとした著書の中で
エゴ(自我)に振り回されないためには
「”いま(現状)”を受け入れ・”いま(現状)”と喧嘩しない」ことを提唱しています。
先日読んだ「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」にも
「受容と手放すこと」について詳しく書いてありましたので、一部紹介します。

注:なお、私がエックハルトトール氏を神押しw しているのは、誰の心理学の本を読んでも・
全部エックハルト氏が語ることと同じで・その智慧に結びつくからなのです。
なんだか宗教にハマったように思われた方もいらっしゃるようですがw 
上っ面だけ見ての話ならば残念ですし、まだ「ニュー・アース」の内容について私は
全く書いてないのにw えらく早く「レッテル貼り」をされた事は、残念だなと思います。
けれど、どんな感想を持つのもその人の自由です。感性やポテンシャルの違いだと
承っておきます。
また、私はエックハルト氏ではない現代の覚者・心理学者にも影響を受けています。
おいおい紹介します。



↑「ニュー・アース」よりやさしく読みやすい文体・内容です。
(エゴのメカニズムについては「ニュー・アース」が一番詳しく書いてあるかと思います)

習慣性になっているリアクション的な「ノー」は、エゴを強化します。
一方、「イエス」はエゴを弱めます。エゴは、「手放す事」「放下」に耐えられないのです。

人、場所、状況や出来事に、無理難題を要求しなくなった途端、不思議なことに、
それらは、あなたにとって満足のいくものに変化して行くだけでなく、より調和のとれたものに、
より平和なものになっていきます。これが、受容の心が起こす「奇蹟」です。

「手放すこと」は、いわば、抵抗から受容への「ノー」から「イエス」への内なる変容です。
手放す時、「わたし」は、リアクション、あるいは知的なレッテル貼りという認識によるものから、
それらを超越した感覚へとシフトします。

なんであれ、完全に受け入れるなら、あなたは平和へと導かれます。
たとえそれが、自分が抵抗している事の受容であろうと、受け入れ不可能なことの
受容であろうと。

人生を放っておきましょう。逆らわず、そのままにしておくのです。(p122-p138抜粋)


問題を解決しようと、執着することじたいが「エゴ」の働きです。
下線を引いた「受容の心が起こす奇蹟」については、私は「親和性」だと解釈しています。
「親和性」の反対は「敵対」です。
(他者の)問題を解決したい!という「エゴ」を手放すには、まずあるがままを「受容」する。
動かしようのない現実をまず、認めてしまうのです。 そのうえで「手放す」。
エックハルト氏も、この奇蹟について「物理学の法則に近い」と動画の中で言及していましたが、
執着によって生じるエネルギーが、抵抗力を生むことによって
どんどん解決という「的」から離れていく・抵抗を手放せば、「的」に引き寄せられる・・といった
感じかと解釈しています。
私が経験したいくつかの「問題解決」は、(全く意図してませんでしたが)
この、物理学の法則に近い”手放しからうまれた親和性”かと思います。

(補足:今回は「他者の問題」としましたが、エックハルト氏は自分自身が抱える「問題」も
同じく受容・手放しを推奨しています。「ニュー・アース」にその内容が出てきますので
後日触れます)

「問題を手放す」って、責任感の強い人にとっては、物凄く怖いことだと思います。
こと、元創価脳の方には「恐ろしい」と感じることだと思うのです(私がそうでした)。
創価では「問題」に立ち向かうのが当たり前でしたから、放置・看過するなんてトンデモナイ。
そんな「思考のくせ」「過去からの条件反射」を残している人も、多いかと思います。

しかし「問題に立ち向かう」のは、見方を変えれば「抵抗」です。
まして他者の「問題」に、横から手を出すのは「相手への不信・見くびり」であり
解決してあげたい、なんていう事こそ「個人的エゴ」。 
創価流日蓮仏法を叩き込まれた者からしたら、びっくりですよね。
「他者を救う」ことこそが生きる目的みたいなもの・それこそが正しい生き方だって
幼少期から教わってきたのにw 真っ向から否定。

心理を学ぶと「問題は問題化するから問題になる・放っておけばよい」とか
「自分の周囲で起こる問題は、自分自身の心の投影」で「自分の内側に答えを探せ」
という示唆に、しょっちゅう出遭います。
これって、創価で教えられ・正しいとされていた事の、まるで真逆ですw
創価では、「自分の悩みを解決したければ他人をまず救え(折伏せよ)」でした。
”自分の悩み(問題・内面)ばっかり見ずに、他人の問題に必死になれ”と。
そうすれば知らないうちに自分の問題は解決しているから・・と、これが定説でした。
他者の問題も親身になって取り組むことこそ、正しい行い・・的な指導が
なされていたのですが、これも行きつくところはやっぱり「上から目線=選民意識」でしょう。
「相手を救う」と、まるで崇高な行為とされてきたことが、実際は「横取り御手柄ゲット!」
だったのかもしれません。 
まして、組織ではそれを「功徳」を積める行動としていました。
ふと思い出しました、婦人部の活動に疑問を持ち・だるいわー・・と思いつつ会合に出ていた頃。
「悩みは無いのか?」と聞かれ、ないと答えると「じゃあ友達で悩んでる人はいないのか?」って
聞かれたよなぁ・・と。
そうやって本人になければ他人にまで「問題」探しをして、解決しなきゃ!お題目よ!
新聞よ!選挙よ!って、駆り立てていたわけです・・組織は。 
問題が、飯のタネです。
何かと言えば「闘い」「闘争」って・・ほんっと、揉め事好きだね~、としかw

身の回りの誰かに「問題」がおきている時、ざわつくかもしれませんが、
「大丈夫、あのひとなら解決できる」と信頼を寄せ、そっとしておく。見守る。
勿論、話を聞いてほしいとか、相談に乗ってほしいと請われた時はのればよいと思いますし、
具体的な応援要請があれば、自分の心に従って受けたり断ったりすればいい。
「頼まれもしないのに、手柄を横取り」だけは、やめるのが吉です。
そして、事が過ぎるまで「自分に集中」するのが、よい過ごし方だと思います。

@@@@@@@@@@@@@@@@@

また、創価脳な親・身内に対しての悩みや思いをコメントで寄せてくださる方へ。

私がブログを継続しようと思った大きな理由の一つは、
創価脳を抜けてもなお悩んでいる人の大半が「自分責め」が大変に強いこと・
「他者」「他所」に不愉快の原因があると考えていること・・又は自分が迷惑を被っているとの
被害者意識がどこかにあること・
その原因に執心していたら気分が悪い・・のに、離れようとせず、不愉快な気分のまま
問題から離れない人が多いこと(上記すべて、かつての私もそうでした)に気付いたからです。
その原因が、心理学を知って創価時代~幼少期からの刷り込みから来ているとわかりましたし・
誰がそれを解決してくれるわけでなく、自分が紐解いていくしかないんだって事も解ったから。
それら気付きを書く事で、悩める誰かの小さなヒントになれば・・と、思った次第です。

覚醒してしまった者として色々思う処はあるかと思いますが、
基本、創価脳な身内は「そっとしておく」のが良いと思われます。
さんざん格闘してきた私が「そっとしておく」って言うのもなんですが。
ただ経験者として言えることは、創価脳との対峙は疲れるだけです!w
そして、ただ反発力を強めるだけで、実は逆効果だったりもします。
創価脳な親や身内に対して、あなたは悩まなくていいのです。
それは当事者(親や身内)の問題だから。
疲れたり・さらに悩んだりするくらいなら、相手を信じて手放すことです。
信仰を強要したり、信仰に絡んで説教してくるような親・身内には「信教の自由」を
主張し、それでもらちが明かないようなら距離を置きましょう。
取り合う必要はありません。問題化してしまうからです。

単に創価脳を言い負かしてやりたい・ねじ伏せてやりたいって人も、中にはいそうですが
それはそれでいいと思いますw 
その人がやりたくて、楽しいからやっていることでしょうから。
そして、バリバリ創価脳の人もきっと「やりたくてやっている」のです。
そこを理解できれば、スルー出来ると思います。
こちら側がどんなにそれを「くだらない・搾取されてる・時間の無駄だ!」なんて思ったって、
気付いてない人にはそんなの関係ない。 恋は盲目、と同じで。
だから認めて、そっとしておけばいいと今の私は思っています。
ただし、迷惑な行為や決めつけがあった時にはハッキリ「迷惑だよ」って言いましょう。
「認める」と「見過ごす」は違いますから。

さんざん創価脳な母親との対峙をブログに書きなぐっておいて、自己矛盾もいいところだと、
お叱りを受けるかもしれませんねw
いまだから言える事ですが(自己弁護しますが)、私が躍起になって母と対峙してきたことも
物理学の法則と同じ「反発」だったと思っています。
創価脳だった人が、創価が搾取団体だと気付いた時のショックは、計り知れないものです。
パニックになるのは当たり前だし、人によってその方向性は違うけれど、
大きく逆向きの力が働き、強いアンチテーゼ・攻撃心が生まれるのは避けようがありません。
身近な創価脳の人をみると、放っておけない。
間違いから、搾取支配から救ってやらねば!って必死になるのはごく自然なことです。
だけど心理学の指し示す通り、私は母を「見くびり・見下して」いました・・
”こんなことに半世紀以上も騙されているなんて、うちの母親は相当な馬鹿だ!
 半世紀以上も解ってないんだから、強く言わなきゃ、自分で気付けるわけない”って。
(注:そんな創価脳の親が「かわいそう」も、残念ながら見下しに入ります。慈悲にはなりません・・)
だから首を突っ込んだのです。 
決して母の尊厳を護ろうとはしていなかった事について、自分を恥ずかしく思います・・が
エックハルト氏の言葉を借りれば私も「目覚めていなかった」ので、仕方が無かったかと。
たまたま私は、このたびの出来事のおかげで心理学やエックハルトトール氏をはじめとする
覚者の教えに出遭う事が出来、「そっとしておけばいい」なんて言えるようになりました。
人が「やりたくて、やってる」ことは、止められないと、いまの私は思っています。

創価脳な誰かを責め続けている間は、自分の中の闘いも争いも終わりません、きっと。
「責め」を、楽しくて・使命感wをもって、やりたくてやってる人のことは止めませんが、
あまり楽しくないなら違う方向へシフトすることをお勧めします。

やりたくてやってるようには到底見えない・
やりたくないのにやってて、不愉快をまき散らしてるような活動家(某三名)についても。
そんな人にも、自分で気付くときが必ずやってくると思うのです。
もがけばもがくだけ、気付いた時の突き抜け感は、きっと大きなものになるでしょう。
そんな日が、早く来ればいいですねw ←

@@@@@@@@@@@@@@@@@

心理学のおすすめ本がたくさんあるのですが、今回は「問題を手放す」理由や
仕組みが良く解る2冊を紹介します。 

嫌われる勇気 [ 岸見一郎 ]
価格:1620円(税込、送料無料)


↑アドラー心理学の本です。
「課題の分離」を知ると、他人の問題で悩んだり・抱え込んだり・ざわざわすることが
減ると思います。 
そして「承認欲求の否定」を読めば、創価脳な人たちとの取り組み方・付き合い方が
変わるでしょう。
「今、ここを生きる」というエックハルト氏の教えと非常に近しい内容もあります。


↑恋愛を主題としていますが、人間関係全般において
目からうろこの心理メカニズムが書かれてあります。
内容が平易でとてもわかりやすいと思います。
特に創価脳の母親・身内・友達をなんとかしたいとお考えorお悩みの方、
一読されると、世界観が変わるかもしれません。

Category: Notice&Replace