ニュー・アース 第二章(7)

内なる身体を感じる

身体への同一化はエゴの最も基本的な形の一つだが、ありがたいことにこれは
最も簡単に乗り越えられるアイデンテティでもある。
ただしそのためには、自分は身体ではないと自分に言い聞かせるのではなく、関心を
外形的な身体や自分の身体に関する思考ー美しい、醜い、強い、弱い、太り過ぎ、やせ過ぎー
から引き離して、内側から感じられる生命感に移す必要がある。
外形的な身体がどんなレベルにあろうとも、形を乗り越えたところでは身体は生き生きとした
エネルギーの場なのである。


内なる身体への気付きに慣れていないなら、しばらく目をつぶって自分の両手の中に生命感を
感じられるかどうか試してみるといい。
そのときは、心に聞いてはいけない。心は「何も感じない」と答えるだろう。
さらには「もっとおもしろいことを考えたらどうだい」というかもしれない。だから心に尋ねる代わりに、
じかに両手を感じる。つまり両手の中のかすかな生命感を感じるのである。
生命感はそこにある。それに気付くには、関心を向けさえすればいい。最初はかすかなちりちりした
感触かもしれがいが、やがてエネルギーあるいは生命感を感じる事ができる。
しばらく両手に関心を集中していると、その生命感は強くなっていくだろう。

(中略)

この「内なる身体」は、本当は身体では無くて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ。
できるだけしょっちゅう、内なる身体を感じる習慣をつけるといい。そのうち目を閉じなくても
感じられるようになる。

ところで、誰かの話を聞きながら内なる身体を感じることはできるだろうか。
逆説的ながら、内なる身体を感じている時には、実は自分を身体と同一化していない。
また心とも同一化していない。要するにもう自分を「形」と同一化せず、形への同一化から形の
ないものへの同一化に移行している。
その形のないもの、それは「大いなる存在」と言ってもいい。

それがあなたのアイデンテティの核心である。
身体への気付きはいまこの瞬間にあなたをつなぎとめるだけでなく、エゴという牢獄からの
出口でもある。さらに免疫システムも、身体の自然治癒力も強化される。
(p114-117抜粋)


「ニュー・アース」を1回目に読んだ時、軽い衝撃を受けた部分がこのパートです。

自分の「生命」「生命エネルギー」に気付いたことはおろか、関心を向けた事も
うまれてこのかた一回もなかった! ということにまず、自分で驚いてしまったのです。
それは未知の領域でした。
あたりまえすぎて考えた事もなかった、といいましょうか・・。
身体と・こころと・思考を個々の存在とし、切り離して捉えた事なんてまずなかったし・
そんな発想すらなかった頃でしたから。
「身体とこころと思考は一体」という認識(していたかどうかも今となっては?
あまりにも無意識)で生きていました。

グリーンで色づけした部分に書いてある事を、本を読んでさっそく実践してみたのです。
(注:中略部分にはエネルギーを感じるための簡単な手順がさらに書いてあります)

最初、まったくといってよいほど、手のひらの上に「感覚」がやってきませんでした。
手のひらを上に向けて、何かが湧き上がってくるイメージをしてみるも
うんともすんとも、何も感じないw
「私、ほんとに生きてる?」とw 自分に対し半信半疑になったほどでした。
自分の中に確かに流れているエネルギーというものを、知らなかったというか見ていませんでした。

もう少し後のパートには簡単な瞑想の方法が出てきますが、それをやってみた時に初めて
両掌が暖かくなって、熱が自分の身体から発せられている事を感じ取ることが出来、
「これが私の身体から発しているエネルギー(熱)なんだなぁ」と実感しました。
きっと、普段からヨガなり、ジョギングや水泳なり、呼吸に意識を向ける運動をしている方は
すぐにその「エネルギー」に気が付けると思います。 
そして「エネルギー」が、思考や身体とはひっついていない別個のもの、という感覚も
体感で理解できると思います。←この体感、めちゃくちゃ重要です。

「エネルギー」が身体という入れ物におさまってる、それが”いまここ”にある自分。
「エネルギー」は形を持ってない。
この「エネルギー」を「魂」と言い換えた方が、日本人的には解りやすいかもしれませんが
それこそが「大いなる存在」なのだと、エックハルトは教えています。
(「内なる身体」=「エネルギー・魂」=「大いなる存在」)

この「内なる身体」は、本当は身体では無くて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ
とあるように、エネルギー(魂)と入れ物(身体)は別個のものだ、ということを理解でき
切り離して捉える事があたりまえになると、
うつ病なんか薬が無くても治せると、私は思います。
身体というエネルギーの入れ物と思考とを結び付けすぎて、
さらには思考に振り回されすぎて・とらわれ過ぎて・偏り過ぎて
暗黒面ばかり(自分の思考に)見せられてしまうことが、うつ病の原因といっても
きっと過言じゃないでしょう。
「頭でっかち」という言葉のとおり、思考ばかりが優先して先走って、状況や周囲が見えず
自分の脳内が勝手に作り上げた暗いストーリー(思い込み)にどっぷりとハマりこみ、
心や体をなおざりにしているうちに、機能不全を起こした状態(=うつ)といえるのでは
ないでしょうか。

苦境・辛い状況や、思うに任せない状態って、
結局は「その時の頭の中身・思考状態」です。
思考の背景によって決定づけられるイメージともいえます。
もうだめかもしれないとか、諦め状態の時、先々の悪い想像や見通ししか浮かばない時、
結局それは「頭の中で自分が作り上げたストーリー」にどっぷりハマりこんでいる。
以前も書きましたが「高次から見て出来事は中立」です。
出来事は必要があって起きている、という視点を持っていれば、殊更ネガティブに陥った後に
自分で自分を追い込むような事には、発展しないのです。

たとえば事故に遭った、病気になった、盗難に遭った、子供が不登校、非行に走った、
その他もろもろ何か事が起きた場合に
「悪い事がおこった!」と即座に決めつけたり・思わないのが賢明です。 とはいえ
なかなか難しいところではありますが。
なぜならそれは(高次から見て)悪い事、ではないからです。
悪いことだ!と感じてしまうのは、これも前に書いたとおり「思考の背景」がそうさせている。
世間一般常識、経験則に当てはめてるからそう感じてしまうだけの話。
「災い転じて福となす」という言葉がありますが、一見災難のようにも感じられるその出来事が
思ってもみない好転反応をおこすことだって十分ありうるのです。
なので一瞬落ち込んだり、悲しんだり、怒ったり・・というわいてくる感情については受け止め
解放してやる(決して我慢はしない。感情の抑圧は鬱になりますから)
で、ひととおり怒ったり泣いたりすればスッキリしますよね。
そのあとが肝心で、決してその出来事に対してわいた「悪しき感情」に執着を持たない・
グダグダ頭の中でその出来事を増長させないのが、とても大事です。

「悪しき感情」への執着=エゴの仕業だと、早めに気づくことです。

概ねそのような出来事が起きた時は「立ち止まって、休みなさい」というサインです。
当事者にとってもだし、その出来事を見て右往左往したり・仏罰だ!なんてファビョってしまってる
傍観者のあなたに対してのサインでもあります。 
「問題」と感じずに「いま」に在ることが出来る人にとっては、上記は問題にはなりません。
前にも書いたとおり「問題」にした人には本当にややこしい問題になっていきます・・
先のことなんてどう転ぶかわからないのに、悪い想像しかできずに対応したことで
さらに事をこじらせたり、長期化させたりするのです。
「いま」に在るなら、先のことはどう転ぶかわからないから想起しない。
不安は思考が作り出しているんだ、ということに早めに気付く。
そして自分の心身が落ち着けるような対処をとる。
とりあえずお茶を飲むとか、その時食べたいものがあれば採るとか、
体温が下がってるなら暖かくする、座ったり横になって休むなど
身体のケアをする(これらは「現実逃避」ではありません。大事なことです)。
そうして内なる身体・エネルギーにまず意識を向け・充電すれば心も落ち着いてきて、
冷静に状況を見ることも出来るようになるでしょうし、
慌てている時は絶対に見えてこない「抜け穴」をあっさり見つけたり出来るものなのです。
「ない」と思っていたものが「ある」ことに気づけるのは、落ち着いている時だけです。
そして出来事は「過ぎて」いくものであり、次なる展開への布石なのだと解るようになります。
一見ネガティブに思える事が、実はポジティブを開く扉だった!という気付きになることだってある。
だから「出来事は必要があって起きている」という視点をもつことが大事なのです。

瞬時に「悪事だ」と決めつけず、「中立だ」とまずは捉え、
常に「いま」にあることが大事なのでしょう。
↑こういうことを、本当は宗教が教えてくれたら一番いいのだけど、
宗教団体の多くはビジネスだからw
儲からなくなったら困るんで、本当に幸いな生き方や物事の見方は教えないんですね。
教えるどころか、それ今が活動のしどきだぞ!新聞・票取り!なんて焚きつける。
いいように吸い上げて、団体側の養分にしてしまうわけだからorz
まったく困ったもんですw

頭の中がネガティブでいっぱいのとき、身体もなんだか元気をなくすし、心だって冷えてくる。
するとちょっとした「現象」を、ことさら悪い兆しのように見てしまったりする。
「思考」と「身体」と「こころ」が別個の存在だと知らない間は
ネガティブな思考に囚われ~紐つきになって身体にも不調をきたし~紐つきになってる
こころも病んでいく・蝕まれる・・といった、負の連鎖状態が完成しがちです。
先にも書きましたがうつ病などは、その代表格でしょう。

けれど、実際は「思考」「こころ」「身体」はそれぞれが独立している。
そのことをしっかりと認識していれば「思考」が作り出したネガティブに、こころや身体を
支配され・蝕まれる事はなくなります。
エックハルトが何故「思考を止める」提唱をしているのか、ここで生きてくるというか、
その意味を理解できると思うのですが、
「思考」が作り上げた悪夢の物語に、こころや身体を
飲みこまれないようにするため
 だと私は認識しています。

自分を苦しめたり、追い込んでいるのは、自分の思考だと「ただ」気付く。
苦しんでいる時も、追い込まれている時も、自分の中に静かに流れている
エネルギーに目を向け・気付く事は、重苦しい思考にとらわれた状態に
風穴をあける一助になると思います。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

ブログの趣旨を変えた頃(2016年6月~)より、繰り返し書いている事ですが、
創価の矛盾に気付いて、活動をやめたり・脱会した方は
出来るだけ早く、創価問題から離脱されることをおすすめします。

親や家族や友人がまだ学会員で・・という事で悩まれている方も多いようですが
それは、あなたの課題ではありません。
文字通り「親や家族や友人」当事者における課題(じゃない場合もあります、当事者が喜んで
やっているのなら、それは問題でも何でもありませんから・・)なのであって、
あなたは悩まなくていいんです。
考える必要も実はありません。
あなたが考えてもどうにもならない事は、ちょっと頭を働かせたらわかることだと思います。

で、自分以外の創価問題で悩んだり憤ったりわだかまっている方は
それ(他人の創価問題)がなぜ自分をそうさせているのかを、自身に問うていくことが
あなたの課題です。
その問題がどう自分の生活を脅かすのか、自分をどういった面で困らせるのか、
自分の生活の質を下げているのか?と、掘り下げてみるのです。
するとおのずと解決策が見えてきます。
「その問題に関わらなければいい(意識を向けない)」 これだけです。

自分の人生は自分のものです。自分を生きるのは自分だけです(あたりまえ)。
その人生を、誰にも明け渡してはいけません。
私たち福子は長らく、宗教団体やその団体の長に自分の人生を明け渡してきた。
その癖が抜けきっていないうちは、組織と離別を決意してもなお
他者(親家族含む)の事が気にかかって仕方ない。
「自分」をおいてきぼりにし、他者のことばっかり気にして躍起になったり執着する
傾向があります。
そうすること(他者の創価問題をなんとかしようとする)を「救済」のように思っている・
まだ目覚めない親家族を助け出さない自分は悪意の人みたいに思っている。
実際はただのおせっかいなのにw
そして、それが創価時代の「折伏精神」と何ら変わらないことに気付いてない。
(過去の私が、まさに上記タイプでした)

他者を変えようなんて、思わなくていいし、それは無理。
他人を変えることに満足を見出すーそれはエゴの性質だと知ることです。

真の満足は、自分が自分を認められたところにしか存在しません。
他者にわだかまるよりもっと前に、自分が自分を満足させてあげられることに注力する。
それが自分を生きるための早道だと、私は思います。

あと、組織の事をgdgd考えているその状態は、あなたの生活の質をたいして向上させないと
思うのですがw いかがでしょうか。

悩める方には自分の事、自分の生活を大切にしてもらいたいなーと願っています。

(次回に続きます)

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ニュー・アース 第二章 (6)

身体との同一化

モノ以外に自分を同一化させる基本的な対象は「私の(my)」身体だ。
体はまず男か女だから、ほとんどの人の自己意識の中では男性であるか女性であるかが
大きな部分を占める。その性別がアイデンテティになる。
自分の性別への同一化は幼いころから促され、役割意識が植え付けられ、
性的な面だけでなく生活のすべてに影響する行動パターンを条件づけられる。
多くの人たちは完全にこの役割に囚われている。が、性別に関する意識が多少とも
薄れかけている西欧より一部の伝統的な社会のほうがその傾向は一層強い。
そのような伝統的な社会では、女性にとっては未婚や不妊が、男性にとっては性的能力の
欠落と子供をもうけられないことが最悪の運命となる。
満たされた人生とは性別というアイデンテティを充足することだとみなされる。
西欧では物理的外見的な身体が、つまり他人と比較して強いか弱いか、美しいか醜いかが
自意識に大きな影響を及ぼす。多くの人々の自尊心は肉体的な力や器量、容姿、
外見などと強く結び付いている。身体が醜いとか不完全だと思うために自尊心が委縮して
傷ついている人たちは多い。
(中略)

美しい容貌や肉体的な力、能力などと自分を同一化している人は、そういう資質が
(当然のことながら)衰えて消えていくと苦しみを味わう。それらの資質によるアイデンテティ
そのものが崩壊の危機にさらされるからだ。
醜くても美しくても、つまりマイナスでもプラスでも、ヒトはアイデンテティのかなりの部分を
身体から引き出している。もっと正確にいえば、自分の身体に関する精神的なイメージや
概念を間違って自分だと思いこみ、その思考に自分を同一化しているが、実は体も
他の物理的な形態と同じで、すべての形がもつー 一時的なもので結局は滅びるしかないー
運命を分かち合っている。
近くに感知される物理的な身体はいずれは老いて衰え、死ぬ運命に在るのに、
その身体を自分と同一視すれば、遅かれ早かれきっと苦しむ。

身体にアイデンテティを求めないということは、身体を無視したり嫌悪したり、かまわずに
放置することではない。身体が強くて美しく、背力的ならば、その資質をーそれが存続
するあいだはー感謝して楽しめばいい。
さらに正しい食生活や運動で体のコンディションを改善することもできる。
身体を自分と同一視していなければ、美貌が色あせ、精力が衰え、身体の一部や能力が
損なわれても、自尊心やアイデンテティは影響されないだろう。それどころか身体が衰えれば、
衰えた身体を通して形のない次元が、意識の光がやすやすと輝き出るようになる。

完璧に近い優れた身体をもつ人々だけが身体と自分を同一視するわけではない。
人は「問題のある」身体にも簡単に自分を同一化し、身体の欠損や病気や障害を
アイデンテティに取り込む。そうなると自分は損傷や慢性的な病気や障害に「苦しんでいる者」
だと考え、人にもそう語る。そして障害に苦しむ者、感謝という概念的なアイデンテティをつねに
確認してくれる医師その他から多大の関心を獲得する。
すると無意識のうちに疾病にしがみつく。それが自分の考える「自分自身」アイデンテティの
もっとも重要な部分になるからだ。
それもエゴが自分を同一化する思考の形の一つである。エゴは一度発見したアイデンテティは
手放そうとしない。驚くべきことだが、より強力なアイデンテティを求めて、エゴが疾病を
創り出すことだって珍しくはない。
(p109-114)


以前「外付けパーツ」の話を書きましたが、今度は「身体(生命の入れ物)」について。

体型や肌の色、髪の毛の有無、美醜といったものもやはり「外付けパーツ」であって
「わたし」そのものではない。
年齢を経れば変化していくし、環境によっても左右される。
中略した部分に拒食症のことが書かれているのですが、若い女性が見た目を異様に気にして
行きすぎた食事制限をすることも、エゴに取りつかれた状態であると書かれています。
誰かと比べて自分をいじめるような事は、生命そのものを傷つけているようなもの。
エゴって、地獄からの使いみたいなもんですw
あるがままをまず受け入れる・自己肯定のためには、
自分が生かされている奇跡と幸いについての「気付き」「意識」が必要であると思います。
ダイエットをしたり、自分磨きするにしても自己否定から入れば欲求は尽きません。天井知らずです。
美容整形を経験した人が、一か所では済まずに「次は豊胸」「もっと鼻を高くしたい」etc
止まらなくなるという話はよく聞くのですが、これも命ある幸いを無視した・自己否定が
ベースにあるからなのでしょう。
まず、命あることが幸い。この身体(生命の入れ物)を授かっていることが幸い。
そう心から感じていれば、自分の身体とも仲良く出来ると思います。
(べつに整形を否定している訳ではないのです。
エゴにとりつかれて顔面崩壊するのは怖いよね!ほどほどにしようね!ということで。)

また肩書きや社会的地位の前に、男性であるか・女性であるかということもアイデンテティに
含まれており、女性も男性もその「性」にまつわる事柄において
比較や格差を感じることによって、執着を持ってしまう傾向について述べられています。
男女ともに、「恋人」や「結婚相手」がいないことに不足を覚え、周りの目が気になったり・
自分はおかしいのではないかとわだかまったりすることは、大いにあると思います。
また、結婚すると今度は「子供」がいないことに不足を覚えることもあります。
それらが(恋人、結婚相手、子供)ないと、自分は「完璧になれない」「完成されない」
「(女や男として)完全ではない」という不足感や欠乏感からくる苦悩は、エゴの仕業です。
そんなものがなくても、いのちある時点で完全なのです。

基本的な捉え方として、自分vs外界(周りの世界、世間)を比較で見ない事が大切なのだと
思います。 
他との比較で見てしまうと「あれもない」「これもない」となって、自分自身の生命の尊さ・
呼吸が続いている奇跡、幸いをまるまる見失うからです。
また「あいつよりは持ってる」「恋人いる・結婚してる・子供居るから自分の方が上」というような
「下見て満足」も、エゴに取りつかれている状態です。
それらはやっぱり「外付けパーツ」であり、状態は一定ではなく変化し、いずれは失います
(別れ、離婚や死別、自分の寿命)。
言うまでもなくそれらの有無は人生の幸、不幸を決定づけるものではありません。
いろんな生き方があって良いのだから、他との比較で矮小になる必要なんかないんです。
このブログを読んでいる若い人で、恋人がいないとか、結婚が出来ないから「自分はだめだ」とか
「自分は劣っている」ように思う方がもしいたら、何故恋人がほしいのか・結婚がしたいのかを
自分に聞いてみましょう。
「世間体が・・」「周りが・・」「自分だけ独身は世間に対して恥ずかしい」
というのであれば、恋人ができても結婚出来ても、次なる不足感や不満足がおそらく来ます。
外の世界(一般世間)との比較をやめない限りそうなります。
エゴとはそういうものだからです。
恋人がいなくても、結婚相手がいなくても「いま」私には生命があり、呼吸の連続と言う奇跡もあり、
幸いで不足はない、とわかっていれば・
そうして自分にわだかまらずに、自分と仲良くできる人のところに縁はやってくる、と私は思います。
または縁がこなかったとしても、人生が楽しい驚きに彩られていくでしょう。
なぜなら自分の内面が、心模様が、外の世界を作り出し目の前の現実で見せてくれるからです。
それを解りやすく教えてくれているのがバシャールで
「鏡は先に笑わない」という有名な一節があります(バシャール 鏡でぐぐると出てきます。
引用すると長くなるので、興味のある方はぐぐって読んでください)。
自分自身の内面世界が映し出されるのが、目の前に広がる現実だということ。
内面が変われば、少し遅れて目に見える現実も変わっていく。
環境に左右されるのではなく、まず自分の心状態ありきという法則です。

そして身体にとって「病気」さえアイデンテティという、驚くべき指摘。
”エゴは一度発見したアイデンテティは
手放そうとしない。驚くべきことだが、より強力なアイデンテティを求めて、エゴが疾病を
創り出すことだって珍しくはない。"


エゴは「かまってちゃん」なんですよね。
ここを読んで「うわっ・・思い当たる節ありまくり!」と怖くなってしまったのですが、
私の母は数年前(まだ猛烈創価脳だった時)国の難病指定疾患に罹りました。
現在も認定患者で、薬代や治療費の助成金を頂いております。
当時はどうしてそんな病気にかかったのか?さっぱり意味がわかりませんでした。
遺伝的なものもある、とネットサイトに書いてあったのですが、母の親族にその病気に
罹った人は誰もいません。
「ニュー・アース」を読んでエゴの構造を知るうちに、そういうことか!と合点がいったのですが
母は常々「自分は他人とは違う」という意識を強く持っています。
私は特別なんだ、という意識です。 
いいことに対しても悪い事にしても「私は特別」を発動させていました、大昔から。
それが日蓮仏法に紐ついた選民思想の軸にもなってると思います。
病気になりたいと願ってた訳ではないと思いますが、人生の仕上げという時期に来て
「難病認定」をもらうという、「私は特別」だと思いたい・アイデンテティがいつでも欲しいと願ってた
母にとってはある意味、宇宙からのギフトと言えるかもしれません?!
なぜなら、そのこと(難病認定)を自慢のように周囲に語っているからですw
「難病認定もらってるけど、私こんなに元気で活動的なの!海外旅行もいっちゃうし~」的な。
そしてそれを「信仰のおかげ」と胸張って言う、まるで勲章みたいなものになっているんです。
強い痛みや不定愁訴、手術やいつ終わるか解らない治療投薬を伴ってでも、
手に入れたかった(?)「難病患者」というアイデンテティ。
これを「願兼於業」と呼ぶんだなぁと、その言葉の意味するところがやっと納得できました。

学会員の方々にも、聞いたことないような難病に見舞われている人が多くいることを
SP紙上で皆さんもよく目にしていたかと思います。
また、私が以前居住していた地域でも、ある婦人部員の子どもさんが兄弟そろって心臓疾患で
幼い年齢の頃、連続で大手術を受けていました(=同盟題目お願いしますメールが来て
そのことを知りました)。
思い返せば、知ってる学会員の方でも難病にかかっている人・九死に一生を得るような
大事故で障害をおった方などなど普通に組織にいました。
いま、まったく学会と無関係の世間に身を置いてると、そんな人が誰もいないんです。
偶々なのかもしれませんが、見事に居ない。
これが何を意味しているのかといえば、学会員の多くは「難を乗り越える信心」という
思い込み(=刷り込み)ありきで生きています。
信心で困難を乗り越えること=学会員のアイデンテティ。
辛いことを乗り越えるための信心なので、辛いことや難問が必要・セットになっているのです。
いわば信仰、学会活動のモチベーションが、難病や諸問題。
辛い事も難問も無いのなら、信心なんかしなくていいのだから。
「こんなに辛いことや難病ありましたが、信心のおかげで乗り越えて生きています!」
難病や諸問題は、アイデンテティ充足のために必要不可欠なのです。
願って災いを受けているような感じが、しないでもありません。
私が女子部だった頃、100万遍唱題が課題のひとつにあって皆でとりくんでいましたが
なんでこんなに不幸がおこるの?!と思ってしまう状況が、自分にも周囲の挑戦者にも
ありました(この記事に書いています)。
当時はその原因がわからず「魔が競ってるから負けないように闘おう!」なんて
励ましあっていましたが・・なんのことはない、自分たちで難を引き寄せていたのですねw
今更だけど、すっごく合点がいきましたw

こんなことを書くとお叱りを受けるかもしれませんが、信心しても一向に幸せにならない・
何も上向かない・良くならないって方は、おかしな思い込みを握っているからそうなっていると
気付いたほうが良いと思います。
「幸せになったら、上向いたら、良くなったら困る」って、潜在意識が働いている可能性が
あります。
「幸せになったら、良くなったら、信心や活動をさぼるようになってしまうかもしれない!」
「天界に魔は棲むっていうくらいだから、幸せになったら堕落するかもしれない。
 だったら不幸なくらいがちょうどいい!」
という、無意識下の自作自演です。

またこれは、特定宗教を信仰していない一般人にだって言えることです。
願いがかなわない・・と言う時、必ず無意識下で「その願いがかなうと困る(ことがおきる)」
という、相反する思いを握っている可能性があります。
疾病で言うなら「病気が治ったら周囲にかまってもらえなくなるかもしれない」し、
恋人がほしいなら「自由を奪われるかもしれない」など。
お金がほしいも「人にねたまれたり恨まれるかもしれない、盗難に遭うかもしれない」
その願いが叶うのと引き換えに、今のポジションを手放さなければならない・
危険にさらされるかもしれない・・そんな思い込みがブレーキをかけて
「不足」の現状を維持するという、これはエゴの仕組みだそうです。

また、その願いや願望が叶わないから「自分はダメなんだ」「劣った人間だ」というように
その願いがかなわないことを「自分責め」の材料にしている間は、願望が達成されることは
ありません。仮に達成されたにしても、すぐまた別の「不足」「不満」が生じてきます。
いったい何故なのか、「自分責め」はエゴが生き延びるための餌だからです。
エゴが居場所や目的を失うことを究極に恐れていることは、これまでもエックハルトが
教えてくれた通りです。

自分が「完全ではない」「不幸である」「不足している」「十分ではない」という思い込みが、
いかに恐ろしいか、上記の例で解っていただけるでしょうか?
もと創価脳の方なら、理解できると思うのです。

生きているだけで、呼吸の連続という奇跡を「いま」体験していることで
自分がいかに幸いな存在であるか、もう認める。
だって本当にそうなんだから。
この「生きているだけで丸儲け」がベースにある人生が、ないものねだりや青い鳥探しに
陥らないことは明白です。


(次回に続きます)


ニュー・アース 第二章(5)

欲望:もっと欲しい

エゴは所有と自分を同一化するが、所有の満足は比較的薄っぺらで短命だ。
そこに隠れているのは根深い不満、非充足感、「まだ充分じゃない」という思いである。
エゴが「私はまだ充分に持っていない」というのは、「私はまだ充分じゃない」ということなのだ。
これまで見て来たように、何かを持っているー所有ーという概念は、エゴが自分に堅実性と
恒常性を与え、自分を際立たせ、特別な存在にするために創り出したフィクションである。
だが所有を通じて自分を発見することは不可能だから、その奥にはエゴの構造につきものの
「もっと必要だ」というさらに強力な衝動が存在する。
これが「欲望」である。エゴは、もっと必要だという欲求なしに長い間過ごすことはできない。
だからエゴを存続させているのは所有よりもむしろ欲望だ。
エゴは所有したいという以上に欲したいと願う。だから所有がもたらす薄っぺらな満足は常に、
もっと欲しいという欲望にとって代わられる。
もっと欲しい、もっと必要だというのは、自分を同一化させるモノがもっと必要だという
心理的な欲求である。ほんとうに必要なのでは無くて、依存症的な欲求なのだ。(
中略)
あるエゴは自分が欲するものを知って、冷酷に断固として目的を達成しようとする。
ジンギスカン、スターリン、ヒトラーなどはその並はずれた例である。
だが彼らの欲望の奥に在るエネルギーは同じく強烈な反対方向のエネルギーを生み出し、
結局は当人たちの破滅につながる。そして他の多くの人をも不幸にする。

前述の並はずれた例でいえば、地上に地獄を生み出す。
ほとんどのエゴは矛盾する欲望を持っている。また時が移れば欲望の対象が変化する。
欲しいのは今あるものではない、つまりいまの現実ではないという事がわかっているだけで、
実はなにが欲しいのか解らなかったりする。
苛立ち、焦燥感、退屈、不安、不満は、満たされない欲望の結果だ。
欲望は構造的な物だから、精神的な構造が変わらない限り、内容がどうであろうと
永続的な満足はあり得ない。
(中略)
「私に(me)」「私のもの(mine)」「もっと(more than)」「欲しい(I want)」「必要だ(I need)」
「どうしても手に入れる(I must have)」「まだ足りない(not enough)」というような思考の形は、
エゴの内容では無くて構造に付随する。エゴの内容、同一化の対象は変わっていくだろう。
自分自身の中にあるこの思考の形に気付かない限り、それらが無意識にとどまっている限り、
あなたはエゴの言葉を信じてしまう。
無意識の思考を行動化し、見つからないものを求め続ける運命から逃れられない。
なぜならこのような思考の形が作用している限り、どんな所有物にも場所にも人にも条件にも
満足できるはずがないからだ。
エゴの構造がそのままである限り、あなたはどんな内容にも満足できない。
何を持っていようと、何を手に入れようと幸せにはなれない。いつももっと満足できそうな
他の何かを、不完全な自分を完全だと思わせ内部の欠落感を満たしてくれるはずの何かを、
探し求めずにはいられない。
 (p103- 109抜粋)


近年、断捨離や、極力モノを持たずに暮らすミニマリストという概念が広く知られるように
なりました。
若い世代の消費行動は、私が若かった時(80年代後半~90年代バブル)とは全く違ったものに
なっているなぁ・・と感じます。
少なくともバブル当時は「所有」が豊かさの象徴で、目指すべき処のように思われていました。
時代と共にエゴが小さくなったのか?と一瞬思わなくもないのですが、
エゴの形が「私はトレンディ(死語w)だ」から「私はミニマリストだ」というアイデンテティに
変わっただけなのかもしれません・・?! 勿論、皆がみな、そうだとは言いませんが。
私はバブルをかじった世代で、当時「買い物依存症」なる言葉を週刊誌等メディアで、
さんざん見聞きしていた記憶があります。 
「所有」では満足は追いつかない。常に「欲しい」が勝っている状態・・買い物してきた紙袋を
開けることもなく、クローゼットに突っ込み、タグを切らない状態の・一度も着たことのない洋服が
山ほどある・・過去、そんな友人も身近にいました。
虚栄心からの買い物~所有ではなく(←私はこちらのタイプでした)、
ただただ「いつも(なにかが)欲しい」という一瞬の欲求を満たすため、買い続ける。
「買う」行動で手に入れてしまえば、品物になんて興味は無い・・こんなパターンも、エゴの仕業です。
これはまぎれもなく「不足」からくる行動。
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、根源的に満たされている真実を
知らない(気付いていない)
がゆえに、
不足を埋めようと、エゴに突き動かされていたのでしょう。


そして太字にした部分は、宗教を使った錬金術の虜になってしまったオジサンたちも
(オバサンもいるんでしょうかね? 大本営ってどうにも男社会にしか見えないんですが・・
 副会長だのなんだの、大層な役職名の付く人は、ほぼオッサンだし)
全くこれと同じだなぁ・・と思い、紹介した次第です。
もう創価の事はあまり書くつもりがないと言いながらもwやはりエゴまみれというと真っ先に
浮かんでくるのは、大本営の中の人&上層部のこと。
年がら年じゅう「拡大!拡大!」と下々に号令をかけ、世界何百カ国に拡がった!と言ってる割に
なかなか「これでもう十分です」とは言わないw この先も絶対言わない・言うわけがない。 
”まだまだ、もっともっと、いつもずっと全然足りない”そう言い続けるのです。
これをエゴと言わずして、何だというのか。 
数をもって勝ち誇るような姿勢こそ、エゴです。

”ほとんどのエゴは矛盾する欲望を持っている。また時が移れば欲望の対象が変化する。
欲しいのは今あるものではない、つまりいまの現実ではないという事がわかっているだけで、
実はなにが欲しいのか解らなかったりする。
苛立ち、焦燥感、退屈、不安、不満は、満たされない欲望の結果だ。
欲望は構造的な物だから、精神的な構造が変わらない限り、内容がどうであろうと
永続的な満足はあり得ない。”

↑太字にした部分は「わだかまり」だと私が捉えた部分です。
そして、生まれてこのかた~創価脳だった頃も・アンチになってからも
ずっと私は「そこはかとない不足感」に包まれ、時に「わだかまり」を持って生きてきたんだなぁ・・
って事に、ニュー・アースや、現代の覚者の教えに触れて初めて気がつきました。

人それぞれ、出自もおかれた環境も違いますが、すべての人が平等に「恩恵」の下にあると
ひとつだけはっきりしていることがあります。
それは、「生かされている」という奇跡を「いま」経験していることです
そして実はこれが、何物にも代えがたい「満たされた」状態であるという事実です。
前回記事でもとりあげた、エックハルトの言葉

”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに見えなかった”
”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。”


まさにこの言葉どおりの、シンプルで深い「いのちある喜び」が「満たされた状態」です。
元創価脳の方なら知っているであろう言葉「輪円具足」とは、まさに上記を表現していると
私は思うのです。
尊極の生命、「ただ生きている」ことでもう、すでに完全で満たされた状態。
条件や環境は関係ありません。

輪円具足とは
”全てのものが具わって欠けているものはないという意、十界具足(十界互具) を表わす”
これはまさに、生命のこと。 
日蓮が活躍した鎌倉時代というのは、歴史に詳しい方ならご存知の通りですが
戦乱も、疫病や飢饉も頻繁にありましたし、ひとたび飢饉があれば数千人が命を落とし、
ひとつの村ごと消滅してしまう・・そんな過酷な時代。 今とは生存率が全く違うわけです。
生活環境だって今とは格段に違います、つまり今日を生き・あすを一日でも長く「生きる」ことが
現代よりもっともっと奇跡に近い、そんな時代であったと推察できます。
「命落とさず、一日でも長く生きる」←これが現世利益だったといっても過言ではないでしょう。
輪円具足を「またの名を功徳聚」とあるくらいですから、やはり「生存こそ功徳」だったのです。

現代はといえば、まず食糧難は回避できています。棄てるほど食べ物があふれている時代。
時々貧困で命を落とす方のニュースを耳にはしますが、ニュースになるくらいですから
レアケースです(数多かったら報道すらされないでしょう、一般人の離婚と同じで)。
基本的な「生存」に関して、鎌倉時代ほど恐れなくて済む時代だとわかるかと思います。
良くも悪くも、現代の人にとって基本的「生存」は当然のことであり、そのことを
絶対的+(プラス)とは捉えない。だからこそ、上積みの「何か」を求める。
生かされている奇跡や不思議は「あたりまえ」すぎて、エゴの前に見落とされています。

人それぞれ、条件や環境や、どこかしらに不足を感じ不満を憶え暮らしている。
その不足や不満は「生きている」状態がなければ経験はおろか、意識もできないことです。
そして、条件や環境にネガティブな感情をもつことについても「思考の背景」が邪魔をしているだけで
実際に「思考の背景」が変わるような出来事があれば、不満も悩みも一瞬にして消え去ることがある。

で、実は「不安」や「不足」や「問題」なんか無かった、そもそも無いと言ったら
まず誰も「信じられない!」「馬鹿言うな」と、怒り出す人もいるでしょう。
けれど少し立ち止まってみて、同じ人間でも「不安」「不足」「問題」のレベルが違うことに
気づけば、どうでしょうか? 感じ方は人それぞれ。
同じアクシデントにあっても平気でいられる人・少し落ち込んでもすぐ持ち直す人・
ショックからなかなか立ち直れずにいる人・・様々です。
どうして差が出るのかといえば、環境の違いよりは「思考の背景」の違いが大きいのです。
落ち込んでいる人も・腐っている人も・浮かれて調子に乗っている人も・平常心の人も
すべての人に、平等に与えられた「いま」この瞬間は「生きている」という事実。
「生きている」という揺るがない事実の上にあって、
どの状態を選択するかは自分しだいなのです。

「不安や恐れ」も「不足」も「問題」も、実際自分の思考=エゴが作り出した幻影ですから。
仏罰と呼ばれる概念も、いうまでもなく幻影です。

過去に書いたように、私の母は「一家和楽」という青い鳥を探してずーっとさまよっておりました。
私も同じくで、「信心に理解のない父と兄姉」に不幸不平不満を感じ・勝手にわだかまりを憶え、
母の青い鳥探しを手伝って(?)いました。
それが実は、青い鳥は家の中にすでにいて、母や私が「一生不退転」などと思いこみ・
握りしめてきた信心を手放せば、家の中の青い鳥に気が付けたという、お粗末な展開だったのです。
(が、これでよかった・私たちはこのことを「経験したくて」やっていたのだと、
 現在は納得できておりますので、創価を殊更恨んで糾弾してやる!なんて思いはもうありません。
 詳しくは、脱会の顛末とともに後日書かせてもらいます)
婦人部に嫌気がさして学会活動をやめたあと・選民思想で創価仏教を信奉していた頃も、
不足を感じていたから、怖かったから、安心がほしかった。
そして、創価信仰を持っていた頃はかろうじて「不足」を多少補えていたと、今は思えます。
ただしそれは「完全」ではありませんでした・・どのみちスタート地点・ベースにあったのは
「欠乏感」だったからです。
ゆる活だろうがバリ活だろうが、自分になんの不足も感じていないなら、わざわざ現世利益を
追求するような創価と関わらないはずで、そこは何かしらの「不安」「不足」「問題(意識)」が
あったから、救いを求めたのでしょう。
これはなにも宗教団体依存だけではなく、一般人で開運アクセサリーやグッズを節操無く
買い集める人も同じです・・そしてまさにこの「不安感」「不足感」「不完全と感じる心」は、
エゴの仕業です。
その「エゴ」に付け込んで、商売にしている人たちが少なからず存在しているということです。
なにも宗教団体だけではありませんw 騙されないように気をつけましょう。

”エゴの構造がそのままである限り、あなたはどんな内容にも満足できない。
何を持っていようと、何を手に入れようと幸せにはなれない。いつももっと満足できそうな
他の何かを、不完全な自分を完全だと思わせ内部の欠落感を満たしてくれるはずの何かを、
探し求めずにはいられない。”

では、エゴに振り回されないためには、欠乏感ベースにならない為にはどうすればいいのか?
答えは至ってシンプルで
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、
根源的に満たされている真実に気づく。

これだけです。

「そんなはずない!」「そんな馬鹿な!」「ええ?信じられない・・」という思考のおしゃべりは
「~と、エゴが申しております」で、ひとまず受け流してくださいね。

なぜ問題は問題でなく、条件や環境は関係ないのかについては、
この先に書いていきますが、多分かなり先になりますのでw
早く知りたい方は、エックハルト・トール氏の書籍を読まれることをお勧めします。

また、
「生きてるだけで感謝しろ、っていうの?贅沢言うなっていうの?」と思われそうですが、
(↑これは私が以前思っていたことですw 全く理解できなかった時期に)
決してそれが全てではありません。 
ただ、自分がいま「生かされている」事について、シンプルに奇跡を感じられたら、世界は変わります。
私がそのことに気付いたのは、実は最近です。
ある日突然「!」と、気づかされました。
本当に些細な話で恐縮なのですが・・今回書くつもりでしたが、まとめられませんでしたので
別記事で書きたいと思います。
リクエストをいただいている神社参詣と神棚の件と共に、次回とさせていただきます。

ニュー・アース 第二章(4)

所有という幻

何かを「所有する」、これはほんとうはなにを意味しているのだろうか?(中略)
多くの人は、死の床に就き外部的な物がすべてはげ落ちて初めて、どんなモノも自分とは
なんの関係もないことに気付く。死が近づくと、所有という概念そのものがまったく無意味で
あることが暴露される。
さらに人は人生の最後の瞬間に、生涯を通じて完全な自己意識を求めてきたが、
実は探し求めていた「大いなる存在としての自分」はいつも目の前にあったのに見えなかった、
それはモノにアイデンテティを求めていたからで、つきつめれば思考つまり心に
アイデンテティを求めていたからだ、と気付く。
「心の貧しい者は幸いです」とイエスは言った、「天の御国はその人のものだからです」と。
「心が貧しい」とはどういうことか?
心になんの持ち物もない、何も自分を同一化(アイデンテティファイ)していない、という事だ。
そういう人はどんなモノにも、また自己意識と関係するどんな概念にも、アイデンテティを
求めていない。それでは「天の御国」とは何か?
それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。その喜びは、何かに自分を
同一化するのをやめて、「心の貧しい者」になったときに感じることができる。
だからこそ、東洋でも西洋でも古くからのスピリチュアルな実践で、あらゆる所有が否定されて
きた。しかし所有を否定しても、それだけでエゴから解放されるわけではない。
エゴは何か別のものに、たとえば自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ、
人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージにアイデンテティを求めて
生き延びようと図るだろう。
(中略)
そのアイデンテティを通じて、自分は正しくて他者は間違っていると考えることが出来る。
あとで取り上げるが、自分は正しく他者は間違っているという考えはエゴイスティックな心の
主たるパターンの一つ、無意識の主たる形の一つだ。

いいかえれば、エゴの中身は変わってもそれを生かしておく構造は変わらない。
これに関係して無意識に想定されているのが、所有というフィクションを通じてモノに自分を
同一化すると、物質が持っているかに見える堅実性や恒久性のおかげで自分にも大いなる
堅実性や恒久性が付与されるはずだという事だ。(中略)
エゴはまた所有と「大いなる存在」を同一視する傾向がある。われ所有す、ゆえにわれ在り、
というわけだ。そして多くを所有すればするほど、自分の存在も豊かになる、と考える。
エゴは比較の中に生きている。私達は、他人にどう見られているかで、自分をどう見るかを決める.
誰もが豪邸に住んで誰もが豊かなら、豪邸も富も自意識を高めるのには役立たない。
それなら粗末な小屋に住み、富を放棄して、自分は他人よりスピリチュアルだと思う事で、
自分のアイデンテティを取り戻すことが出来る。他人にどう見られるかが、自分はどういう
人間か、何者なのかを映し出す鏡になるのである。

エゴの自尊心は多くの場合、他者の目に映る自分の価値と結び付いている。
自己意識を獲得するには他者が必要なのだ。そして何をどれくらい持っているかでほぼ自尊心が
決まる社会で暮らしていると、それが集団的妄想であると見抜けない限り、自尊心を求め
自己意識を充足させようとしてむなしい希望に振り回され、一生、モノを追い求めることになる。
モノに対する執着を手放すにはどうすればいいのか?そんなことは試みないほうがいい。
モノに自分を見出そうとしなければ、モノへの執着は自然に消える。
それまでは、自分はモノに執着していると気付くだけでいい。

対象を失うか危険に晒されなければ何かに執着している、つまり何かと自分を同一化している事が
わからないかもしれない。
失いそうになって慌てたり不安になるなら、それは執着だ。
モノに自分を同一化していると気付けば、モノへの同一化は完全では無くなる。
「執着に気付いている、その気付きが私である」それが意識の変容の第一歩だ。
(p96-103抜粋)


「大いなる存在」とは、原書ではpresenceやbeingとなっています。
私は「生命そのもの」と解釈しています。

生きている、生かされている、呼吸が自分のコントロールに依らず、なにものかによって
生まれおちた瞬間から死の時まで、えんえんと続いている事・・この「生の奇跡」について
日常驚きをもって・また喜びをもって意識している人は、どのくらい居るでしょうか?
数分間、自意識で息を止めることはできても、自分でコントロールして心臓を数分間とめるなんて
ことは不可能です。
呼吸と心臓の絶え間ない動き、これこそ「神の所業」と言えると思います。

普段なにげなさすぎて・あたりまえすぎて気付いていないだけで「呼吸している」この状態は、
実は奇跡的瞬間の連続で・ものすごいラッキーな事なんだと、
普段から意識している人は(大病や大事故や九死に一生の経験から生還した人を除いては)
あまりいないのではないか?と、思うのです。

かくいう私も、30代手前で生命の危機を感じるような出来事を経験していたにもかかわらず、
「ニュー・アース」を読むまで、「生かされている」という状態、生命の存続の奇跡については
すっかり忘れ去っていました。 
「ただ生きている」その事があたりまえになりすぎていて、ありがたみなんか全く薄れていたのです。
それどころか、生きているがゆえに起きてくる様々な出来事に対して不満を持ち、わだかまり、
怒り、妬み嫉み、見下し、被害者意識で対象を攻撃し・・勿論、喜びも笑いもありましたが、
「生きていればこそ」の大前提、その奇跡への喜びはすっ飛ばしたところで↑これらの感情・想念に
振り回されたり・抑え込んだりーと、まさにエゴに振り回されていました。

”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに
見えなかった”

”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の
喜びのことだ。”


この2つが、「ニュー・アース」の結論で総論といっても過言ではないと思います。

「生きている」「生かされている」自分がどれほど尊い幸運な存在なのか、
人はエゴに囚われている間、そこに気付くことができません。
何ものを持たずとも、ただ存在する・そこに「ある」ことだけでもう完全で素晴らしいのに、
自分がどれほど尊くすばらしく、幸運な存在であるかを全て「アイデンテティ」に求めようとする。
以前から書いている通り、あらゆる「外付けパーツ」の増強で、自分という存在価値を
見出そうとするし、
他人の「外付けパーツ」と比較しては優越感をもったり・劣等感を持ったりする・・そんな繰り返しで
生涯という時間は消費される。
そして死の間際に立った時、それら「外付けパーツ」が、自分ではなかったことに”やっと”気がつく。
(以前も書いた通り)命尽き眼を瞑る時には、「外付けパーツ」はおろか、自己の肉体さえも
失うのです。 
ただ「いま」ここで呼吸をし、「生存」していられる、これこそが「大いなる存在の喜び」なのだと
エックハルトは教示しています。
つまりは、生存しているという状態、今ここでもうすでに、誰人も幸運で幸福であり・尊いのです。
そしてこの事が「今にある」と繋がってくるのです。


「生きて存在してるだけで幸福なんてありえねぇ!」と思うのは、エゴに囚われている状態です。
幸福に条件付けをしているあいだは、「存在している」だけで幸せだなんて思えるはずもありません。
あれがない、これがない、それもない。だから私は幸せではない・完全ではない・・と
自分がいかに「不足」しているかを、わざわざ探しだそうとします。
また、誰かと比較して「あいつよりは幸せだけど、上には上がいる」と考えたりもします。
そして恐ろしい事に、エゴは満足を知りませんから、一瞬「良かった」とか「最高に幸せ」と
思えるような出来事や瞬間にめぐり合う事があっても、次の瞬間にはすぐ
「よろしくない」「足りない」という状態を想像し・引き寄せます。 
それがエゴが存在するためのエサだからです。
私の文章力では、なかなかこのあたりを簡潔に・わかりやすく書けなくてもどかしいのですが・・(汗)。

で、物質面や社会的評価に依らずとも「自分たちは幸せの直道を歩んでいる!」と
胸張る「ぼろは着てても心は錦」タイプの信者たちは、
”エゴは何か別のものに、たとえば自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ、
人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージにアイデンテティを求めて
生き延びようと図るだろう。”

まさに↑このパターンで、「信者というアイデンテティ」にハマっていると言えるでしょう。
宗教団体組織内における役職にこだわったりしがみついたり・昔OOだったと主張するタイプも
ここに当てはまるかと思います。
”自分は正しく他者は間違っているという考えはエゴイスティックな心の
主たるパターンの一つ、無意識の主たる形の一つだ。”

創価脳な人に、この部分↑ぜひ繰り返し読んで暗唱してもらいたいなと。
ただ、これこそが創価脳のアイデンテティで存在する理由みたいなものですから困ったもんですねw

このあともエゴについて、事細かに解説が続いて行くわけですが
「ニュー・アース」を繰り返し読み、「大いなる存在」のなんたるかが理解できるようになって
やっと解ったことがありました。
それは「幸せになれますよ」との触れ込みによる宗教がいかに嘘っぱちか、という事についてです。

大前提として、「生きているだけで丸儲け」を自覚できていれば、新興宗教なんて要りません。
ああしてこうして・何時間も仏壇の前に座って足腰の痛みに耐えながらw祈らなくたって、
外部他者にうとまれながらも「この教えは素晴らしいの!新聞読んでみて!」なんて言わなくても、
大丈夫なのです。
だって、息をしている・心臓が動いている、しかも勝手に。
それだけでもう「ラッキー」で「幸せ」なのですから。

そんな大前提の幸運を・自分が生かされている不思議・奇跡をまず感じてみれば、
悩みごとや一見「不幸」に見える事柄には、殊更フォーカスしなくなるのです。
勝手に心臓が動いている・呼吸が連続している、この奇跡をおこせている幸福に比べたら
目先の悩みやアクシデントはとるに足りず、いずれ「過ぎ去る」ものだ、と解ってきます。
できごとは四季や天候や車窓に流れる景色と同じ。
それが通り雨か台風か豪雪かは、時と場合によって違ってはくるでしょうが「事象」にすぎません。
そこにどんな「意味」を持たせるかは、自分次第になります。

「問題を問題化しない」ことをこの記事で書きました。
そもそも、生きている事それじたいが「ラッキー」です。
その大前提を放り投げて・なきものにして、「問題」を「問題化」し騒ぎ立て・
宿業や罰論なんかわざわざ「不幸探し」をしているようなものなのです。 
あえてもう、こまごまは書きませんが・・。
信仰の原動力が「不足」からくることは、元創価脳の方なら誰しも経験がおありだと思います。
「~しなければ」「~であるべき」「~じゃないから、こうなりたい」 全部、不足です。
そこにフォーカスしている間は、どれだけ頑張って不足を埋めたところで、また次なる不足が
やってきます。
何故なのか? エゴに取りつかれているからです。 
エゴにとりつかれているときは、どこまでいったって「満足」なんかありません。
そして信仰の原動力=エゴそのもの、です。
そこを克服するのは本当に単純なことで「エゴに気付く」
「生かされているという得難い幸福・幸運に気付く」 これだけです。

******************************

ところで、ブログタイトルを変えました。
ブログの趣旨を変えた6月にしたかったのですが、当時タイトルが思いつきませんで
今頃になった次第です。
すごくどうでもいい余談ですが、don't trust///の /// はどういう意味ですか?と以前に
質問されたことがあったのですが、本当は ・・・ としたかったのです。
それが、かなキーを押していなかったため、英数キーで///と入力されてしまっただけで
実はまったく意味はございませんw 今頃の回答ですみません)

そしてご報告、2016年内に脱会届を正式に提出することになりました。
しかも、実家の母も同時です。
なぜそうなったのかについては、来年以降、落ち着いてからご報告させていただきます。
いま言えることは、私はとくに何かを母に対して働きかけていません。
母に対しては、ほんとうに何もしていないのです。
ただ自分が「今にある」こと、わだかまらず「今を受け入れる」ことをやってきた、それだけです。

もともと、脱創価からはじまったこのブログですが、やっと卒創価となりそうです。
私にとっては、エックハルト・トール氏の書籍との出会いが、とても大きな転機となりました。
また、そのた現代の覚者の教えに触れたことで、肩の力が抜け楽になりました。
今後はタイトルどおり「わだかまらない生き方」について
「今にある」「いまを受け入れる」ことについて、私なりの方法とその結果を綴っていきます。

ますます、創価への被害者意識や文句は読めなくなると思いますがww
それでもよければ、引き続きお付き合いください。


「ニュー・アース」第二章(3)

なくなった指輪

スピリチュアルな問題について指導するカウンセラーとして、ある女性がん患者の元へ
週に二度ずつ通っていた事がある。その女性は四十代の教員で、医師から余命数か月と
宣告されていた。
(中略)ある日訪ねてみると、彼女はひどくがっかりし、怒っていた。
「何があったのですか?」と尋ねたところ、ダイヤの指輪が無くなったという。(中略)
きっと毎日数時間、世話をしにくる女性が盗んだに違いない、病人に対してよくもそんな
無神経なひどいことができるものだ、と彼女は言った。
そしてその女性を問いただすべきか、それともすぐに警察に通報したほうがいいか、と私の
意見を求めた。
どうすべきか指図はできないと答えたが、しかし指輪であればどんな品物で在れ、
今のあなたにどれほど重要なのかを考えてみてはどうか、と私は助言した。
「あなたはおわかりにならない」と彼女は言いかえした。
「あれは祖母からもらった指輪でした。毎日はめていたのだけれど、病気になって手がむくんで
はめられなくなったんです。あれはただの指輪じゃない。騒ぎ立てるのも当然じゃないですか、
そうでしょう?」
その返事の勢いや声にこもる怒りと自己防衛の響きは、彼女がまだ十分に「いまに在る」
心境になれず、おこった出来事と自分の反応を切り離して別々に観察するに至っていないことを
示していた。
怒りと自己防衛は、まだ彼女を通じてエゴが発言しているしるしだった。
私は言った。「それじゃ、いくつか質問をします。すぐに答えなくていいですから、自分の中に
答えが見つかるかどうか探してみてください。(中略)」
「あなたはいずれ、それもたぶん近いうちに指輪を手放さなくてはならないことに
気付いていますか? それを手放す用意ができるまで、あとどれほどの時間が必要でしょう?
手放したら、自分が小さくなりますか?それがなくなったら、あなたは損なわれますか?」
最後の質問の後、しばらく沈黙があった。
再び話し始めた時、彼女の顔には安らかな笑みが浮かんでいた。
「最後の質問で、とても大切なことに気付きました。自分の心に答えを聞いてみたら、
こういう答えが返ってきたんです”そりゃ、もちろん損なわれるわ”
それからもう一度、問い返してみました”私は損なわれるだろうか?”今度は考えて答えを
出すのではなく、感じてみようとしました。そうしたらふいに「私は在る」と感じることが
できたのです。こんなふうに感じたのは初めてだわ。こんなに強く自分を感じられるなら、
私はまったく損なわれていないはず。いまでもそれを感じられる。
穏やかだけれど、とても生き生きとした自分を感じられます。」
「それが”大いなる存在”の喜びですよ」と私は言った。「頭から抜けだした時に、初めてそれを
感じられるんです。それは感じるしかない。考えたって解りません。エゴはそれを知らない。
だってエゴは思考で出来ていますからね。その指輪は実は思考としてあなたの頭の中にあり、
それをあなたは自分と混同していたんですよ(中略)
エゴが求め執着するのは、エゴが感じることが出来ない、”大いなる存在”の代用品です。
モノを評価して大切にするのはいいが、それに執着を感じたら、それはエゴだと気付かなくては
いけません。(中略)
喪失を完全に受け入れた時、あなたはエゴを乗り越え、あなたという存在が”私は在る”
ということが、つまりその意識そのものが現れるのです」(中略)
身体がますます衰弱していった最後の数週間、彼女はまるで光が内側から輝きだして
いるように明るかった。いろいろな人にたくさんのモノを分け与えたが、その中には
指輪を盗んだと疑った女性も入っていた。
そして与えるたびに、彼女の喜びはますます深くなった。
彼女の死を知らせてきた母親は、亡くなった後で例の指輪がバスルームの薬品戸棚で
見つかったと言った。手伝いの女性が指輪を返したのか、それともずっとそこに
置き忘れられていたのか?それは誰にもわからない。 だがわかっていることが一つある。
人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える、ということだ。(中略)

自分の所有物に誇りを持ったり、自分より豊かな人を羨んだりするのは
間違っているのか?そんなことはない。誇りや目立ちたいという思いや、「もっと多く」によって
自己意識が強化され「より少なく」によって自分が小さくなると感じるのは、善でも悪でもない。
エゴだというだけである。
エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。(p87-94抜粋)


このパートを初回読んだ時は、全く腑に落ちませんでしたw
愛着ある高価なアクセサリーが忽然と消えたら、そりゃ慌てるし、誰かを疑いもするだろうし・・
たとえ余命が幾許であっても・・盗まれたり・紛失したら辛いし、引きずるに決まってるじゃん!と。
エゴについて全く理解していない状態でしたので(エゴに囚われまくっていたので)
執着感ばりばりの私が、1回目はそう感じて当然だったと思います。
当時の私は、「とある出来事」で義実家や主人がいろんなもの(財産)を失っていくのを見て、
なんともいえない不穏な気持ちに苛まれていた時期でした。
不動産が人手に渡り、「管理物件」という看板が立っているのを見た時(春休み)も
忸怩たる思いがありました。
それらが「わたし」のものではないにもかかわらず、です。 
(余談ですが、私が義母さんに貸したお金は主人が戻してくれました)
「とある出来事」さえなければ、あれもこれも失わずに済んだんじゃないか・・なんでこんな事に
なったんだ!と、過去を責めていた頃で、まさにエゴにグルグルと巻かれた状態でした。

しかし、さまざま「いまに在る」を実践した数か月後に読むと、違和感なく受け入れることが
出来ました。
ふと思い出したことですが、20代半ば、私は腕時計を紛失したことがありました。
腕にはめていたはずのそれが、通勤帰りに「ない」と気付いて真っ青になり、すぐ電車を折り返して
会社までの道のりを探しまわりました(&社内も)。 
駅と交番に紛失届も出しましたが、結局戻ってこなかったのです。
その時計は父方の祖母が大学進学祝いでくれたものですが、高価な品だったため
父が「学生には分不相応。社会人になったら使いなさい」と、暫く父に預けていたものでした。
社会人になったとき手渡され、父も知っている特別な品物だっただけに、私は紛失した事を
ずっと黙っていました。 絶対に怒られる・大目玉をくらうと思い、言えなかったのです。
(これには父と父方祖父母の関係性や家庭環境もあるのですが、畏敬の念をもって
 父は祖父母に接していましたし、祖父母の前で姿勢を崩すのを見た事がありません。
 私達にもそのように接するよう・祖父母には敬語を使うよう教育されていました。
 私にとっての祖父母は親しみのわく存在ではなく、どこか遠い存在で、
 成人してなお、祖母からもらった大切な時計を失うなんて「とんでもないこと」だったのです。
 簡単にいえば、現代のような「フレンドリーな家族関係」は全くありませんでした。
 このエピソードを書くまで全く思い出しもしませんでしたが、改めて見るとちょっと特殊というか、
 こういった生育環境も私の「思考の背景」を作った材料の一つで、長らく囚われ続けた
 「絶対感」の基礎にあったものではないかと、思い当たりました・・)
十年以上経過してから、「あの時計、実は昔、紛失した」とカミングアウトしたところ
父は「災難を除けてくれたんだろう。失くした事をそんな深刻にとらえなくてもいい」と言ってくれ、
拍子抜けしたと同時に、とても気持ちが軽くなった事を思い出しました。
それはずっと私が一方的に・片思いのように抱えてきた罪悪感が、解放された瞬間でもあり。
父のエゴが軽かったのか・私のエゴが重たすぎたのか?w それは解りませんが、
腕時計がなくなっても「わたし」が損なわれることは、確かに無かったのです。

「罪悪感」とは、上記したように、自分がひとりでに抱え込んで勝手に重くなって身動きとれなく
なっているもの・・と、言えます。
もっと後の章で例を引いてエックハルトが解説してくれますので、ここでは一旦おきますが、
自分が気にするほど相手はなんとも思っていない(逆にいえば、自分に覚えのないようなことを
相手がしっかり覚えて恨みに思っている)パターンがある、ということを知っておくといいかも
しれません。

また、主人や義実家においても、半年経過し気付いてみれば、モノやお金を失いはしましたが、
以前と事情は様々変わったものの、義実家の皆も私達も「いま」驚くほど普通に・平穏に
暮らしています。
まだ一年経過してないにも関わらず、怒り悩み苦しんだ日々が、もう遠い昔の出来事に思えるくらい
私の中で「風化」しつつあります。恨みつらみは、嘘のように消えました。
私においては、「とある出来事」に出会わなければ、ずっとエゴに囚われて悩ましい毎日をおくり・
現実問題のはけ口に創価問題を使ってw悪口言って憂さ晴らしで過ごしていたかもしれません。
「とある出来事」のおかげで、エックハルトの本と出会う事が出来、エゴについても理解し、
さまざまな執着を手放すことができました。
それが本当に幸いなことだった、と感じています。
エゴに囚われたままだったら、(私のものではない)義実家が失ったあれやこれやを恨めしく思い、
「義母さんさえ騙されなければこんな事にならなかったのに!」などなど、いつまでも過去をネチネチ
蒸し返しては、いまごろ機嫌悪く生きていたことでしょうw
何よりも、わだかまりなく生きることが出来るようになったのが最大の収穫で
人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える、ということだ。
この言葉の真実味を実感しています。

本パートでは「指輪」(高価で大切にしていたもの)を題材にしていますが、なにも物にとどまらず、
特定の人間関係であったり・仕事・ステータス・恋愛・趣味・その他もろもろ全てに通じてくる話です。
それらを失ったとしても「わたし」は損なわれない。
なぜならそれらは「外付け」であり「わたし」ではないから。外的要因だから、です。
これが腑に落ちない間は「エゴ」にとりつかれ囚われている、という目安になります。

エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。


ここを読んだ時「ほお!」と、大変おどろいたのを覚えています。
自分個人の問題じゃないなら、他人(エゴ)事なの?!そりゃ面白い、とw
そして私がすぐ実践を始めた事があります。それは、腹立たしいことや不愉快な想念が
浮かんできた際や・プライベートな日記を書いていて、わだかまりが文章に表われてきた際、
語尾に「~と、エゴが申しております」 と付け加えてみる事でした。
つまり、自分の意見じゃありません、エゴの意見です、という事にしてしまうのですw
これをやってみると、とても客観的に見ることが出来ますし、なんか面白い。
例えば「OOむかつく! と、エゴが申しております」とか
「XXいい加減にしろよ!と、エゴが申しております」という風に。
これは妄想の暴走を止めるのにも、とても効果があるのです。
憶測に対して「~じゃないか?、ってエゴが申しております」とすれば、あれっ?! 
それ、真実じゃないよね・・。確かめもしていない、勝手な想像だよね?
相手に聞いてみなければ、わからない事だよね。
なにわだかまってんだろう・・確認すればすむことじゃん!・・と発想の転換に役立ちました。
「~と、エゴが申しております」を習慣化すると、わだかまる時間も不毛な脳内会議も
どんどん短縮されていくのです。 
あ、いま自分はエゴに囚われてるな・・と気付き、その時点で思考を止めることができます。
ただ、ここで勘違いしてはいけないのは「善からぬことを考えている私が悪い」と我慢するのとは
違うという事です。 思考を止めるとは=自分の感情を、押し込めることではありません。
あくまでも、いま「こういう気持ちを抱いてるんだな(エゴが)」と、気付くだけでいいのです。
客観視しても、怒りやわだかまりが消えない時は
「自分(エゴ)が何をじぶん(真我)に解ってほしいのか?」を考えます。根問いです。
相手ありきの事柄であっても、自分が何を解ってほしくてその状態に在るのかを客観視して
答えを出す。

そこでわだかまりと一心同体になってイライラ・モヤモヤを続けていても、時間がたてば忘れますが、
根本的に解決はしていないので、またいずれおなじことを繰り返します。
ほんとうの自分の気持が解れば、相手に伝える事なくともあっさり溜飲が下がったり・
解決してしまうものなのです。 本当です。 これは経験した人にしか解らないと思いますが・・。

思考を止めることが習慣となれば、悪い・よからぬ想像が肥大化していくことを防げるという事で、
するとどうなるか、そこには平らかでなだらかな心の状態「いま」に在るが常態化するのです。
「~とエゴが申しております」とすると、自分がいかにくだらないことに腹を立てているのか・
自分が考えたり想像をめぐらしたところで、真実なんてわからないことに怒っているのか・
わだかまっているのか、とてもよく解って、時に脱力しますし、笑えます。 
まさに「自己観察」です。
あくまで私の場合ですが、この方法は効果的だと感じました。 
エゴを克服されたい方は、一度お試しください。

余談ですが、私が「~とエゴが申しております」を実践しはじめて一カ月くらい経った頃、
ふと「こんなに悩まない・考えないなんて、私はこのさき馬鹿になってしまうんじゃないか?」と
頭の中のおしゃべりが来ました。
そして「えっ・・?!私、悩んだり考えたりしない人=馬鹿だって思ってきたんだ!」と
古い思い込みに気付いたのです。 
我ながらビックリしました。若いころからよく周囲(外部)に「祥蘭は考えすぎだよ」とか
「あまり悩まないようにしてね」と、アドバイスされる事が多かったんですが・・。
確かにいつも何かを考え・大なり小なり悩むことが常でした。現状に満足するという事が無い時期も
ありました・・特に、30代手前で女子部の活動に戻った頃。
そして「すっごくよく考えてるんだね!」「いろんな(社会の)問題に関心が高いんだね!」と
他人から言われることに、ものすごい優越感を覚えていた事も思いだしました。
決して、そう言ってくれた方が私を「誉めた」とは限らないのに(暇なのね、にオブラートをかぶせて
そう言っていただけかもしれないのに)おめでたいことにw私は誉められたと勘違いして
喜んでいたのです・・。ほんと、我がことながら、面白くて笑えます今はw
私は、どこかで「悩まない・考えない人は馬鹿」という強い思い込みを握ってしまっていた。
だから、常に頭を忙しく働かせ、悩まなくていい事を悩み・考えなくていい事を考え思いをはせ・
問題にしなくていい事を態々問題化し・なにもかも自分の問題にして背負いこみ抱え込み・・と
やってきたんだなぁ~と。 なぜなら、馬鹿だと思われたくないから。馬鹿になりたくないから。
そら、疲れるわ!とw
そして、この「悩まない・考えない人は馬鹿」というメンドクサイ思い込みが何由来なのか?と
考えると・・やはり、創価教育(家庭内プロパガンダ)ではないかと行きあたり。
「悩みが無いのが幸せではない」 ←こんな言葉、子供時代からずーっと聞かされてきました。
ためしに”悩みが無いのが幸せ 創価”でぐぐると、上記が池田老人の指導だと判明しました。
やっぱり・・w

悩まなくても、考えなくても馬鹿ではありません。 当たり前のことですが。
そして、自分がいかに悩まなくても考えなくてもいい事を「態々」悩み・考え・問題化し、
勝手にわだかまり、無駄な時間を過ごしてきたのか・・と気付いて、唖然としました。
私が何度か「生きることがとても楽になった」と書いているのは、
この無駄に「悩み・考える」という時間が・無駄なことにエネルギーを使うことで精神的に疲弊し
パフォーマンスを下げることが、無くなったからなのです。
本当に気持が穏やかになりましたし、細かいことにいちいち腹も立たなくなりました。

「悩み・諸問題を考え」ている時は、決して楽しくはありませんし、わくわくもしません。
建設的では無い方向へむかったり、ただ嘆いてみたり、何かを叩くくらいしか出来ないのです。
問題点をあげつらうばかりで解決策を示すわけではない、そんな人をメディアやSNS上で
公人私人にかかわらず、よく見かけますが、そういった人たちは総じて楽しくなさそうですし・
わくわくともしていないでしょう。
一つ言えるのは、そういった人たちは「悦に入る」ことでバランスを保っているんだな、という
ことです・・そして過去の私も、創価問題に対してその傾向が大いにありました。
いうまでもなく、その思考性はエゴのなせる技です。
同じ「思考」であっても、楽しいことや・わくわくする事に時間を使えばいい。
そのほうが、ずっと平穏で心豊かであることは間違いないのです。

もと創価脳の方で論じ好きwなお方は、上記のような思い込みがないか少し振り返ってみると
何か発見があるかもしれません。ご参考まで。

それと、お問い合わせがあったのですが
私が本文紹介に書いているページ数は、電子書籍版のページ数です。
実物(書籍版)の方とは違いますので、ご了承ください。

私があれこれ語るよりも、いちど読んでいただく方が
きっと何万倍も早いです↓まだのかたは是非。
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(次回に続きます)