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ニュー・アース 第三章(6)

真実:相対的か絶対的か?

単純で検証可能な事実の場合は別として、「正しいのは私で、あなたは間違っている」
という確信は、個人の人間関係でも、国家や民族、宗教同士の関係でも危険だ。
だが、「正しいのは私で、あなたは間違っている」という信念はエゴが自分自身を強化する
方法の一つで、精神的な機能不全であり、人間同士の分裂と構想が終わらない原因で
あるなら、ふるまいや行為や信念には正しいも間違いもない、ということなのか?
(中略)
もちろん、真理は自分たちの側にのみ存在する、つまり自分たちだけが正しいという
信念は、行動やふるまいを狂気のレベルにまで堕落させる。

そのことはキリスト教の歴史そのものが如実に示している。教会は何世紀ものあいだ、
自分たちの教義や聖書(あるいは、「真理」)の狭い解釈とわずかでも違う意見をもつ者を
拷問にかけ、火あぶりにし、この行為は正しい、なぜなら犠牲者たちは「間違っている」からだ、
と考えてきた。
犠牲者たちはとんでもなく間違っているから殺されなければならなかった、というわけだ。
「真理」は人の生命よりも重要だとみなされたのだ。

ではその「真理」とは何なのか? あなたが信じるべき物語、つまり思考の塊である。
(中略)
カトリックその他の教会が、倫理的相対主義を現代の悪の一つと批判するのはなるほど
正しい。だが、絶対的真理はあるはずのない場所に探しても見つからないだろう。
あるはずのない場所とは、教義、イデオロギー、規則、物語などだ。
これらに共通しているのは何か?思考から出来上がっているということである。

思考はうまくいけば真理を指し示すが、決して真理そのものではない。
だから仏教では「月をさす指は月ではない」と言う。すべての宗教はどれも誤りであり
どれも真実で、どちらになるかはどう活用するかで決まる。

エゴの強化に役立てることも、「真理」のために役立てることも可能なのだ。
自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることに
なる。そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に
分裂や紛争を引き起こす。
 (中略)(p148-152抜粋)


もと宗教団体の一員として活動していた者としては、イタい過去の古傷を突かれる内容ですw
「絶対正義」を旗印としていれば、なんだって許されるんだ!くらいの勢いが、かの組織の
バリ活と呼ばれる人たちにはありました・・過去形。 今はどうなんでしょうかね?

”自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることに
なる。そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に
分裂や紛争を引き起こす。”

”優越感という幻想”=選民意識とも繋がっていると思います。
でも、あくまでもこれは”幻想”(だけど当事者はそれに気づかない)
かの組織の人たちの多くが「排他的だ」と世間一般から指摘されることに関しても、
上記スタンスで存在しているからでしょう。 
「絶対自分たち(の信じてるもの)が正しい」という思い込みは、理由なき無敵感を生むのですw

絶対的な「真理」はただ一つで、その他の真理はそこから派生している。その「真理」を
見出した時、あなたの行動はすべて真理に沿ったものになる。

人間の行動は「真理」を反映することもあれば、幻想を反映することもある。
「真理」は言葉で表せるか?表せる。だが、もちろんその言葉は真理そのものではなく、
真理を指し示すにすぎない。
その「真理」はあなた自身と切り離せない。
そう、あなたが「真理」なのだ。
よそに真理を探していたら、きっとだまされ続ける。
あなたという「存在」、それが「真理」だ。

イエスはこのことを「私が道であり、真理であり、生命です」という言葉で伝えようとした。
イエスのこの言葉は最も内なる「私という存在」、すべての男女、それどころかすべての
生きとし生けるもののアイデンテティの核心を意味している。
イエスはあなたという生命について語ったのだ。(中略)仏教ではこれを仏性という。
ヒンズー教ではアートマン(真我)。
自分の中にあるこの次元と触れ合う時ーこの触れ合いは本来の状態であって、
別に奇跡的な偉業ではないーあなたの行動も人間やモノとの関係も、
あなたが自分の内奥で感じる全ての生きとし生けるものとの一体感を反映するだろう。

(後略) (p152-154抜粋)


つまり、何かの団体に属すなり・師匠wに仕えるなりして
上からいわれるとおりにルーティンをこなすことが
"真理の探究"(=かの組織的にいえば、「信心で生命・心を磨く」など、目指すべき事)
にはならない・それは真理の探求ではない、ということです。
それをやっていたら・自分以外の何かに求めていたら、「騙され続ける」わけですw
だから、アンチに転じた人はまず最初こう思います
「宗教詐欺に遭った」「騙された」って。
私も、そう思っていましたw  
今だから「w」 とつけられるようになりましたが。

自分以外のところに真理を求めていたのは、いったい誰なのか? 
自分なんです結局のところ。
自分というか・・「自分の中のエゴ」と言ってもいいかもしれません。

生まれながらにして、親がやってたから・無理くり入会させられたにしても、
やらない人は一切活動なんてしませんし
それを信じることもありません(繰り返し恐縮ですが、私のきょうだいはそのパターンでした)。
子供の頃はイヤイヤやってたって、大人になったら自然と離れたとか敬遠するとか、
実家がやってるけど私は・俺は関係ないから!ってスタンスをとれる人もいるんですよね。
熱心な親族を見て、嫌気がさしてかえってアンチになるというパターンだってありますし。
(または猛烈なアンチだったのに、九死に一生を得るような「体験」をしたことから
 突如バリ活になってしまった・・なんてパターンもありますね。親戚にいました)
こればかりはもう、運なのか・何なのか。よくわかりませんw

うっかり信じてしまったのはなぜなのか。 その原因を掘るのも今後のためには一興かも
しれないのですが、自責や後悔の念が増し増し→過覚醒おこしてしまうくらいなら
掘らない方がいいです。

じゃあどうすりゃいいんだ!という人は、騙されたと思ってこの説を採用してほしい。
「ソーカを信じてしまったのは、私の中のエゴであって、私ではなかった」とw
(ソーカの部分は、詐欺師とか悪いやつ・悪い男&悪い女などをあてはめてもいいと思います)
前にも書いたように「エゴは他人事」なんです。

以下は「ニュー・アース」第二章(3)から抜粋部分↓

エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。


「そんなので納得できるわけねえよ!」って人は、それで全然OK。
ずーっと考えてぐるぐる、わだかまってください。
他人のせいや自分(だと思い込んでいるエゴの構成物)のせいにしていればいいのです。
または自分のお気に入りの「不幸な物語(ストーリー)」に執着していてください。
そうしている間ずっと、しんどいですけどね。
あくまでも状態を「選択」するだけだということに気づけば、無になります。

結局採用すべきは、肌感覚・本能だと思うのです。
此処を覗いてくださっている方々(組織とかかわりが大なり小なりあった人)も、
「あれ?組織がおかしい、なんか変だぞ?」との違和感は「肌感覚」-もっといえば「本能」に
訴えかけてくるサインがあったのではないでしょうか?
そのサインを信じて正解だったのです。
”あなたという「存在」、それが「真理」だ。”
とありますが、まさに自分の感覚・・ごちゃごちゃ理由・理屈・講釈なんていらない「直感」を
採用すればいいのだ、と私は解釈しています。
大義名分の付きまとわない、自然な思い・振る舞い=エゴのない選択といえるかと・・
自分に正直であること、とも言えると思います。
活動家時代なんて欺瞞だらけでしたから・・ほんと。 皆さんもそうでしょう?w
簡単にいえば、活動なんて心からやりたくてやってたわけではなかった、私の場合。
お題目を何時間もあげるっていうのも、正直「楽しい♪」なんて思ってなかったしw
「やってやった!」という自己満足・達成感はありましたが・・。
そうすることで「福運」が積まれると「思い込んで」いたから・正しい行いなのだと「思い込んで」
いたから、やりたくない(←これ本音)けど、やっていたまでです。
実はやらなくても死なない・困らないことを、やりたくないけどやっていた
それが自分の心を欺いていたのと同じだと今は解ります(当時はわかってませんでした)。
このあたりの「やりたくないけど~思い込み(観念)」を手放すことについては、
津留晃一さんの本が非常に解りやすいです。 
全部読んだ中で、私の一番のお勧め本は「津留さんが、心から伝えたかったこと」です。
図書館にも、あるところにはあると思いますが、
残念ながら一般の書店では販売されていません。
英光舎のHPから購入できます。興味のある方はどうぞ。

なお、補足ですが
皆に「おかしいぞ?」サインが来るわけではありませんし、サインが来ない人もいますし、
それでいいんです。
サインが来ない人(他人)にとっては、組織はパラダイスw だからです。
だからそこから他人をひっぱりだそうとか・目を覚ませ!!なんて、やらなくていいし
それは無粋なことですね。
「騙されっぱなしでほっとく気か!」なんて、正義感気取りの人も中にはいるだろーけど、
サインが来ない人(他人)は「騙されてる」なんて思ってないわけですから、大きなお世話です。
例えにはならないかもしれませんが、恋愛しません宣言のアイドルに投資している人たちと
(サインが来ないセンセイオクサマLOVEな人は)たぶん同じですw  恋は盲目。
見えているもの(世界)が違うのですから、外野がつべこべ言う問題ではありません。

非公開でコメントをいただいた中に、
親御さんが信仰を絡めて責めてきたり、脅迫的だというお話がありました。
学会家庭における「あるある」ですよね。
親御さんは「あなた」を責めているわけではなくて(そう見えたり・聞こえたりはするけど)
ただ、自分(親御さん自身)の不安を押し付け・ぶつけたいだけなんですよね。
信仰しないなんて不幸になる!怖い!って、思い込んでいる人たちは
自分の恐怖を一人で抱え込んではおけなくて、必ず相手に押し付けてきますw
「あなたのためを思って!」なんて、活動に戻れと家庭訪問にやってくる組織の人も同類です。
めんどくさいなーとか・いやな気分にもなるでしょうが、そっと右から左へと受け流し
”お父さん、お母さんは怖いんだね・・”って、心の中で静かに認めてあげてください。
そのことに対して何か言うとか・態度で表明するのではなく、ただ状態を眺めるだけにします。
そこでわだかまりを持たない(作らない)。
あくまで「恐怖」は親に起こってていることであって、自分ごとではないとわかっていれば
こちらの感情を揺らさなくて済みますね。 
自分が相手の恐怖を受け取らず、ただ落ち着いていられたらベストです。

私の母も、組織から気持ちは離れても、組織で叩き込まれた「宗教儀礼」に関しては
いまだに根強い恐怖感を抱えており
御書の一節を添えては「いちにも二にもお題目です」「題目だけはシッカリあげなさい」
とメールしてくるくらいですw
組織を離れても、母は一日も欠かさず朝夕の勤行はしており、それは別にいいのです。
母がやりたくて・良いと思ってやっていることならば。
(「やりたくて」というよりも「やらないことへの恐怖感」が上回っていると見えますが、
敢えて本人へ指摘はしておりません。自分で気づくのが一番なので・・)
ただ、どうしてそれを私にまで強いるの?!と、毎度軽くイラっとさせられていました。
(なので、上記内容のメールには返事をしませんw)
が、ある日気づきました「あー、怖いんだな、母は」と。
自分の恐怖感(=お題目をあげなくなると不幸不運に見舞われる・・という思い込み)を
押し付けてるんだな、と。
この思い込みって、子供が夜怖くてトイレに行けない・・って「お化け」と同じレベルの
お話です。
そんなのツイッターにでもつぶやいて自己完結しとけ!と、思わなくもないですがw
高齢母に対しそれは現実的ではないので
「怖いよお!って、言いたいだけなんだな、言わずにおれないよねー・・」と
そっと受け流しています。
長らくお題目なんてあげていないし、もう自宅に仏壇がないということをカミングアウトした
(ちなみに神棚のことは話してません・・転居先にも来たことが無い故、知られてない)
ので、母にとって私の所業は恐ろしくて仕方がないようです。
親の観念を子供に押し付けている典型的事由だな・・と感じるのです。

言わずもがな、親が子供の人生をコントロールなんて出来っこありません。
(自分の人生すら、コントロールなんて出来てないくせにね~!@親)
在る程度レールを敷くことくらいはできたにせよ、プレイするのは本人だから。
自分の子供たちに対しても、近頃はそんな思いがあり、
私の恐怖感を押し付けないよう・極力自主性を重んじるように接しています。

結局は、自分ではない「何(者)か」に、求めないことです。
答えはいつも自分の中に在って
生きている、この状態がもう「真理」で、ただそれだけなんだと思います。
そこを(エゴの考える)「正しい生き方」「価値ある生き方」だのと求め、
自分に何かが足りていないとか・何かをなさなければ自分は生きてはいけないとか・
なんにもできない・やってない自分は「罪人」だとか、
勝手に”思い込んで”いるから、おかしな方向に展開していったり・自分で自分の首を絞めたりも
するのであって。

静かに自分が「生きている状態(生命)」を感じ、見つめる時間を持つために
瞑想はあるのでしょう。 瞑想は、プレゼンス(臨在)に入る方法のひとつです。
頭の中のおしゃべり(エゴ)を黙らせた「臨在」の状態・・そこに「仏性」はあるとブッダは説き、
「真我 アートマン」があるとヒンズー教は説きました。

”自分の中にあるこの次元と触れ合う時ーこの触れ合いは本来の状態であって、
別に奇跡的な偉業ではないーあなたの行動も人間やモノとの関係も、
あなたが自分の内奥で感じる全ての生きとし生けるものとの一体感を反映するだろう。”


「この次元」=プレゼンス(臨在)です。
頭の中のおしゃべりを止めて、「いま」とひとつになる。
ただ自分は生かされている、生きているという状態に意識を向けることです。

以前も引用した、私の大好きな一節(であり、「ニュー・アース」の総論だと思っています)
”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに見えなかった”
”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。”

思考優位なうちは、これは理解できないだろうし、逐一エゴが難癖つけるでしょうw
けど、「思考を止めていまに在る」を続けていけば、ある日突然腑に落ちる時が来ます。
こればかりはもう、テクニックじゃないので・・そうとしか言えないw

誰かや何かのために生きなくていいのです。 自分のために生きましょう。


(次回に続きます)

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ニュー・アース 第三章(5)

幻想の防衛

疑いようのない事実というものは存在する。
たとえばあなたが「光は音より早い」と言い、誰かが逆だと言ったら、
もちろんあなたのほうが正しくて相手が間違っている。
あなたが正しいことは、稲妻のほうが雷鳴より早いことを観察するだけで確認できる。
だからあなたのほうが正しいだけではなく、あなたは自分が正しいことを知っている。
ここにエゴは介入しているだろうか?可能性はあるが、必ず介入しているわけではない。
あなたが真実だと知っていることを淡々と述べるなら、エゴは介入していない。
自分を同一化していないからだ。何に同一化していないのか?
心、ある一つの見解にである。しかし、この同一化はあなたの中にやすやすと入り込む。
もしあなたが「信じなさいって、私にはわかっているんだから」とか「どうしていつも私を
信じようとしないんだね?」と言うとしたら、すでにエゴが入り込んでいる。
エゴは「私」という簡単な言葉に隠れている。「光は音より速い」という言葉は依然として
真実だが、それが幻想を支え、エゴに利用される。
「私」という間違った意識に染め上げられ、個人化され、一つの見解、精神的な立場に
なる。
誰かが「私」の言うことを信じないと、「私」が軽視され、侮辱されたと感じる。
エゴはすべてを個人的に受け止める。そこで防衛感情や怒りまでもが生じる。
あなたは真実を防衛しようとしているのだろうか?そうではない。
いずれにしろ、真実には防衛の必要はない。光も音もあなたや誰かが
どう考えようと感知しない。
あなたは自分自身を、いや自分自身という幻想、心が作り出した自分の代替物を
防衛しようとしている。
(中略)

(思考ではなく)気づきによってのみ、事実と見解の違いを見分けることができる。
気づきによってのみ、正しく見ることができる。

こちらが状況でこれは状況に対して感じている怒りだと見分けられれば、違う対応が
可能だと、いいかえれば違う見かたや対処法があると分かる。
気づきを通してのみ、限られた一つの見方から解放されて状況や人の全体が見えてくる。

(p145-148抜粋)


本パートは初回読んだ際、かるくスルーしたのですが、読み返したら大事なことが端々に
書かれてあるじゃないか!と、驚かされました。
というか、エックハルト氏の本って全部、そうw
後日読み返して「ああっ!そうだったのか!」と、急に腑に落ちたりするのが常です。 

本文では「光と音の速さ」という絶対的な法則について書かれていますが、
たとえば”太陽が東から昇って西へ沈む”という天体法則について
それを誰かに話した時「違うよ!逆だよ」って反応をされたら、どう感じるでしょうか?
エックハルト氏が述べているとおりなんですが、「の言ってることが正しいのに」とか
が言ってるのになんで信じないのよ?」となったら、エゴの介入になるわけです。
法則の絶対性と真実に「私」を乗せることが、自己強化を誘うエゴの手段だというのだから
驚きますよね。 
でも、結構みんなフツーにやっていることだったりしてw
ここにエゴ(私)を介入させなければ「ネットで調べれば解るよねー」で、終わりです。
終わらないパターンは、調べて「ほらみたことか!の言ってたことが正しかったでしょ!」と
余計なおしゃべりを付け加えたり・口にせずとも内心相手に勝ち誇った気になる時でしょうねw

で、今回読み返して「怖いな」と感じたのは、
上記にあげた例は絶対的法則として存在する事柄ですが、
実際のところ真実かどうかよくわからない(証明はどこにもない)事柄にもかかわらず、
「絶対にこの教えが正しい」「最高のOO教、仏法」だとか「師匠の正義は弟子が証明する」などと、
自分たちの信条は1ミリたりとも間違っていないのだ!と、息巻いている人たちが
普通に世の中に存在しているということですw ・・って私も過去はその一員でしたが。
かの組織の人たちは批判を滅法嫌います。スルースキルもありません。
活動家時代の私も、批判してくる人間に対して好戦的であり、むきになることもありました。
その理由は、(私がそうだと思い込んでいた)法の「正しさ」を
相手に解ってもらいたい!・・というよりも
が信じているものを貶めてくれるな!」 という、エゴの働きだったと腑に落ちました。
だって、エックハルト氏の言うとおり「いずれにしろ、真実には防衛の必要はない」んです。
頑なにならなくても、相手をねじ伏せる必要なんてなくて
真実ならば、堂々と構えていればいいだけ。
誰が文句を言おうと槍を放とうと、太陽が西から東へ動くことはないし、音が光を超えることは
ありませんよね。 
・・まあ、かの組織教義においては、法則性・絶対性は一切担保されてないんですがww 
それにしても、本当に自信があったのならば、批判に取り合ったり戦うことなんてせずに
涼しい顔で微笑んで放っておけばよかったわけで。
だのに放っておけないのは「」の問題にすり替えているからです・・誰が?エゴが。

で、その個人的エゴを利用し発展したのが、集団的エゴ(組織団体)だということです。
私(たち)の信じてるOO」ってなるから、OOと自分を同一化してしまっているから
(われらのセンセー・・と、自己を同一化しちゃってる人もいますね) そりゃみな必死です。
私(たち)・われらの」がつかなければ、あんなに狂信的になることはないでしょう。
しかし、名言ですね 「真実には防衛の必要はない」 
これ、真実は一つ!と、正義(かどうかも実はよくわからないこと)の証明のためにと
昼夜戦い続けている人たちに、ぜひ教えてあげたいですねv
「敵は責めて責めて責め抜かなければどーたら」とか、鬼の形相の爺様スピーチが
もはや懐かしいですw

”こちらが状況でこれは状況に対して感じている怒りだと見分けられれば、違う対応が
可能だと、いいかえれば違う見かたや対処法があると分かる。
気づきを通してのみ、限られた一つの見方から解放されて状況や人の全体が見えてくる。 ”


この部分は、前回後半に書きました
「対人関係において相手に高圧的な・不快な言動をとられた場合」とも通ずる話で、
自己観察をすることで、<状況>と・状況に対して湧く<感情>を分けることが可能になり
一体化を避けられ、大局的に見て対処できるということです。
エックハルト氏が「ストーリー(物語)」という表現を動画の中でときどき使っていますが、
<状況>+<湧いた感情>を完全一体化したものを指している・・と私は解釈しています。
そして、これ(一体化)はもう普通に誰もがやっていることですよね。
日常的に、家族や他人とのやりとりにおいて些細な事柄でむっとしたり、腹立たしいだとか
困惑を覚えることって、誰しもあることだと思います。
その原因の大半は私という自己意識=幻想に固執しているからだ・・と、
思考を止めて「今にある」を実践していくと、日を追って解るようになります。

自分の経験を書かせてもらうと、
「ニュー・アース」を読む以前の私は、物事は効率と合理性を考えてこなすべき、と
考えおり、すごくせっかちで・自分の計画が思い通りに進まないことに対して
とてもイライラしやすい人間でした。
日常のタスクも、この時間までにいくつ終わらせる的にプランしていました。
それが思惑通りにハマったときは「しめしめ」ですが、そうはいかない時だって当然あります。
例えば、先を急ぎたいのにママ友に呼び止められて立ち話が長引くとかw 
銀行にいくと五・十日でもないのに、なぜか異様に混んでるとか。
スーパーのレジが混んでる、自分の順番がきたのにレシート切れで待たされるとか。
そうなると私はイライラし始め、ATMでもたついてる人や何件も連続振込をしてる人なんか見ると
心の中で「さっさとしてよ!」と毒づき、不機嫌になっていました・・
「計画通りに動いてる私(という自己意識)を待たせないで!」とw非常に傲慢ですが。
スーパーのレジ待ちでも同じくですw
あと、うっかり忘れ物したとか・用事を一つとばしてしまったなんて時には、「もおー!」って
自分に腹が立ってうんざりする。 
まあ、とにもかくにも(自分が勝手に想定していた)ペースが乱れるとイライラしっぱなし。
他人に対しても、自分のエラーに対しても。
それが、思考を止めることを始めて1週間くらい経過したある日(昨年4月)、
窓口で手続きの必要があり郵便局へ向かったのですが、局まで来て忘れ物をした事に
気づきました。
それがないと、手続きができないものだからいったん帰宅しなくてはならず。
外出ついで、郵便局の後に別件で他のところへも行く予定でいました。
以前の私なら、自分に向かって猛烈に「馬鹿!」ってダメ出し、気分をひどく害したと思います。
けどこのときは、なんだか気が抜けて「あはは」と笑ってしまったのです。
自分でも驚きました。 あれ?!腹が立たない・・と。
私が私にダメ出しをしない! 
えっ?もしかして、今までダメ出しをしていたのはエックハルト氏の言っている「エゴ」?!
・・頭の中の声の、正体見たりー!
そして同時に、これまでどれほど自分を責めて生きてきたのかと気づき、泣きそうにもなりました。
また運転中、特に急ぐ必要なんか全くない時でも、常に焦って近道を行こうとしたり・
とろとろ運転してる前方の車に舌打ちしていることに、ある日気づいて驚いたんです。 
全く「いま」にいない状態で、”効率最優先”の自分がハンドルを握っていた。
事故に遭わなかったのは幸いでしたが。
それがもう常態化していて、わかっていなかったのです、全くの無意識でした。

一年経過したいま解ったことですが、「今にある」をやっていく中で
「私という自己意識」が薄まっていったというか、影を潜めたのではないかと。
ATM待ちやレジ待ちでイライラしたのは「」の計画どおりに物事が進まない!というエゴ。
忘れもので腹が立ったのも「」の計画が崩れた!というエゴ。
でも実際、の家事計画が崩れたところで、そうたいして困らない。
だのに「の計画」に殊更こだわっていたのは、
エゴが自己強化にそれを使っていたという事です。
自分を責め、追い立ててまで計画をこなそうとしていたのは、うまくいったとき
「そつなくこなせる・デキる」に酔っていたともいえましょうか・・誰が?エゴが。
(↑この背景には、主人に対して「専業主婦としてちゃんとやってますからー!」という
 意味不明の”は義務果たしてます感”もありました・・これまたエゴ。
 そしてもう一段掘り下げれば、実家の母や姉に対しての
 「私ちゃんと主婦業も子育ても出来るんです!」という、
 劣等感由来の、意味不明のスタンス?ポーズでもあったと気づきました。 
 そしてこの意識は「私がちゃんとしてるんだから、あなたもちゃんとすべき」という
 周囲に対する謎のエゴルール・押しつけがましさに繋がってたんですが、
 長くなるので、また別の機会にサンプルとして出しますw)
あと「忙しぶってる」が好きだったというか、悦に入ってた傾向もありますw
(忙しい私=充実した生活を送る私!という、よくわからない思い込み)
計画がうまくいかなかった時も、や状況周囲を責めて機嫌を損ねる・・誰が?エゴが。
今だから解るのですが、上記状況がエックハルト氏のいう
「ほとんどの人間の”ふつうの”精神状態には、狂気と呼べる要素が含まれている」だったなとw
念のため書き添えますが「計画を立て効率よく物事を進めるのは悪」と言っているのでは
ありません。 
その行動の最中にも、エゴがどんどん入り込んで機能不全に陥るパターンがありますよー、
という例としてご紹介しました。
ブログを読んでいる人の中には
「自分はそんなことではイライラしないし、他人を巻き込んだり・巻き込まれることもない」
という方もいらっしゃるでしょう。 そんな方はきっと、エゴが軽いのだと思います。

最近は、全ての物事を状況にあわせて何の計画・気合もなくやっています。
気が変わったら変更なんてしょっちゅうで、「やらねば」「やるべき」は排除。
自分を追い立て・苦しめるようなことは止めました。 
すると自分に対しても・周囲の誰に対してもイライラしない。
特に急がなくても計画がなくても、普通に目についたものから出来ることを
「いま」に集中して落ち着いてこなせば、スムーズに万事おさまるし、困った事態にもなりません。
そして、不思議なことに時間がとても緩やかなのです。
計画的にこなしていた当時、時間が全く余らなかったのに
同量のことがらをなにも考えず・流動的にやっている今のほうが余裕がある。
あれやらなきゃ、これやらなきゃと考え焦り動いていた時とは、時間の流れまで変わったというか。
シンプル&楽すぎて、なんでもっと早くこのことに気づかなかったのかと・・w 
タイトな枠に押し込んで自分を不機嫌・不愉快にさせていた犯人は、
まさかの私という自己意識だったと気づきました。

現在はスーパーのレジ待ちやATMの混雑、手間取ってる人を見たって、なんとも思いません・・
というか、たった今気づいたのですが、そんなシーンに出くわすこと自体がなくなりました。
専業主婦なので、もともと空いてる営業日・時間帯にしか行かないのもありますが、
(それでも以前は、度々もたつく人や・ずるく横入りをするオヤジに遭遇したりw
 私の順番になってまさかのATM調整中になったりとかw ありました)
エゴの私を怒らせる現象が昔ほど必要なくなったから、
そういったシーンに出くわさなくなったのでは?と勝手な解釈をしています。

エゴには燃料が必要で、中でも「怒り」は最も効率良くエゴを増強させることができるというのは、
以前紹介した通りです。
内面状態が外的状況に反映される、その仕組みについて、拙い例ではありますが
私がその効果を実感している実例のひとつとして、伝われば幸いです。

そして他人とのやりとりにおいても、「」が損なわれると感じることがなくなりました。
友人に対し、相談を受け親身にアドバイスや・悩んでいることに対しての紹介をしたけれど
後日、その友人は幾人もの人に同じ相談をしアドバイスを受けるだけ受けて、
結局何も前に進んでなかった・・なんて聞くと
「あのときののアドバイスは何だったの?時間返してよ」と思ったり。 
忙しい中、予定を開けたのに相手が大幅に遅刻をしてきて・・なんていうときも、
をなんだと思ってんの?とムッとしたりw 些細ですがそんなことも多くあり。
「ニュー・アース」を読む前は、対人関係においても「私という自己意識
=エゴが騒ぐのが日常茶飯事でした。
けれど、これも「今にある」を意識するようになって以降、エゴが騒ぎだすことが
徐々に減少していったように思います。
以前なら確実に”悪意”と受け取った他人の言動も、今はあまり気にならないというか、
悪くは受け止めなくなりました。 場合によっては相手のエゴに気づけることもあります。
するとそれは、腹立たしいことではなくなるのです。
例えばお門違いなマウンティングをしてくるような人に対しても、
「この人は、そうすることでしか自分を保てないんだな~」と解るというか・・。
相手の抱えている「重たい荷物」が、垣間見えるのです。
(重たい荷物=ペインボディと同義かと・・ 「ニュー・アース」第5章参照)
前回内容にもあったと思いますが、相手のそれがエゴだとわかれば気にならなくなり、
自然とスルーできるようになります。 

「私という自己意識」=エゴがおとなしくなると、本当に楽です。
なんで今まであんなに怒ってたんだろう?些細なことに腹を立てていたのだろう?
ひとりよがりに傷ついていたのだろう?馬鹿にされた!なんて悔しく感じていたのだろう?
と、不思議に思えるほどなのです。
誰にも何からも自分は侵されていなくて、ただここに「在る」のだと気づけた時、
そこにあるのは無の境地というか・・知ってる仏教用語でいえば「仏界」でしょうか。

エックハルト氏が動画の中でたびたび「プレゼンス(臨在)」という言葉を使うのですが、
思考を止めて、今に”ある”←この時生まれる次元のことを指しています。
そしてこのプレゼンスがあることで、幻の私=「エゴ」を引き離し、静寂に入れると語っています。
この臨在における静寂もまた、私の知ってる用語でいえば「仏界」なのかなー、と。

今年の3月に発売されたDVDブックで、プレゼンスについて語られています。
内容が非常に深く・良かったので、ぜひ見ていただきたいです。


いずれ記事でも紹介できればと思っていますが、文章化が難しい~。
先月こちらを見てから、なんだか全てが良い意味でどうでもよくなってしまい、
今回ブログの更新が遅れましたw

(続きます)

ニュー・アース 第三章(4)

反応と怨恨

怨みにはたいてい不満という感情が付随するが、ときにはもっと激しい怒りや
その他の感情的動揺が付きまとうこともある。
これによって、不満にはさらに強力なエネルギーが充填される。そのとき不満は、
もうひとつのエゴの自己強化策である反応に変わる。
いつも何かに拒否反応を示そうと待ち構え、すぐに苛だったりムカついたりする人たちは多い。
その人たちはすぐに拒否反応の対象を見つける。「なんてことだ、頭にくる」「よくもあんたは
こんなことを・・」「ただじゃおかないからな」と言い出す。
こういう人たちは、薬物ならぬ怒りや動転の中毒なのだ。
あれこれに拒否反応することで自己主張し、自己意識を強化しようとする。

根の深い恨みは怨恨になる。怨恨を抱くというのは、いつも「対立」している状態で、
だからこそ怨恨が多くの人々のエゴの相当部分を占める。(中略)

怨恨はときにははるか昔の出来事と結び付いた激しい否定的感情だ。
「誰かが私にしたこと」「誰かが私たちにしたこと」を強迫的に考え続けたり、頭の中で、
あるいははっきり口に出して繰り返し物語ることによって、その出来事はいつまでも生々しい
ままでいる。この怨恨の影は人生のほかの領域にまで広がる。
たとえば怨恨を抱き続けていると、そのマイナスの感情エネルギーによって現在起こっている
出来事に対する見方が歪んだり、目の前の人間に対する話し方や行動に影響が及ぶ。
強い怨恨が一つあるだけで人生の大きな領域が翳って、エゴの罠から逃れられなくなることもある。
自分が怨恨を抱いているかどうか、自分の人生において完全に許せない何者かが、
つまり「敵」がいるかどうかを見極めるには、正直にならなければいけない。
怨恨を抱いているのなら、思考と感情の両方のレベルでその怨恨と怨恨を生かし続けている
思考に気付き、その思考への身体的対応の結果である感情をしっかりと感じることだ。
怨恨を捨てようとしてはいけない。怨恨を捨てようとか許そうとかしても上手くいかない。
怨恨はまがいものの自己意識を強化してエゴを温存する以外何の役にも立たないと気づいた時、
自然にゆるすことができる。真実を見抜けば解放される。

「敵をゆるせ」というイエスの教えは、人類の心に存在するエゴイスティックな構造の一つを
解体しなさい、ということだ。
過去にはあなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力はない。
その力を持っているのは、過去に対してあなたが抱く怨恨だけだ。
では怨恨とは何か。古い考えと感情というお荷物ではないか

(p140-143抜粋)


"薬物ならぬ怒りや動転の中毒"
ニュー・アースに出会う前の私が、まさにこの状態でした。
昔と比べて怒りっぽくなっていたのは事実で、
自分でもときどき「独身時代はこんなことなかったのに?」「更年期?」と思っていましたw
それが「自己意識の強化」だなんて渦中は思ってもみませんでしたが、今は「さもありなん」と
感じます。
どんな内容にむかついたか・自分が不当な思いをしたかを主張することが「自己意識の強化」と
なっていた、とエゴの構造を知った今は解る。
それはプライベートに於いてもだし・このブログの2013-2015年頃の内容にも表れています。
怒り続けている間も、被害者意識と同じくで、実は気持がいいんですよね。
自分の正当性を一方的に誇示できるし、なんだか強くなった気分でもいられるから。
以前紹介しました、大嶋先生のトラウマ本にも
「ストレスホルモンを下げるために怒り続ける」という内容が出ています。 
それを読んだ時も、超絶納得してしまいました。
怒っているあいだは自分が優位に立てるので、恐怖を感じなくて済むそうです(要旨)。
同じ内容に長年怒り続けていられるって、ある意味「中毒状態」なのかもしれません。
だからなかなか、堂々巡りから抜け出せないという事かと、自分の経験を通して
そう思います。

で、繰り返し同じことを言いますが、上記のような状態が芳しいはずはなく
”強い怨恨が一つあるだけで人生の大きな領域が翳って、エゴの罠から
 逃れられなくなることもある”
 
とあるように、更なる「よろしくない状況・状態」を招くことに繋がります。
事実認識の歪みや、妄想、悪い方向に暴走する憶測なんかは、まさにエゴの罠。
他人の言動を殊更悪く受け止めることで、新たな怨みを覚えたり・勝手に傷ついては
被害者意識を増強させたりと・・。 ほんと、ろくなことはありません。

「でもどうしろって言うんだ?!怨恨は事実だ!
 自分はひどい目にあわされた、だのに相手(怒りの対象となる個人・組織)は
 罰されることなく、のうのうと生きている。この恨みはらさいでか!」 という嘆きに対して、
エックハルトは明確な回答をしてくれました。
傍線部はもちろんですが、私がしびれたのは太字にした以下。

”過去にはあなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力はない。
その力を持っているのは、過去に対してあなたが抱く怨恨だけだ。
では怨恨とは何か。古い考えと感情というお荷物ではないか。 ”


もう、ぐうの音も出ない名回答です。
私のへっぽこ解説なんかいらないw 上記が全てです。

***

正しいか、間違っているか

不満はあら探しや反応と同じく、エゴの存在を支える境界や分離という意識を強固にするが、
同時にエゴの糧になる優越感を与えることによってエゴを強化する。
たとえば交通渋滞や政治家や、強欲な金持ちや怠け者の失業者に対する、あるいは同僚や
元配偶者やいろいろな人たちに対する不満がどうして優越感につながるのか、
ちょっとわかりにくいかもしれない。
実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は
間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。

自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。 正しいというのは、ある精神的な
立場ー視点、見解、判断、物語ーと自分を同一化することだ。
もちろん自分が正しいというためには、間違っている誰かと比較しなくてはならない。
だからエゴは自分が正しいと思うために、好んで誰かが間違っていると決めつける。言い換えれば、
自分という意識を強化するためには、誰かが間違っていなくてはならない。(中略)
自分が正しいなら、間違っているとか欠陥があると判断される人や状況に対して、
自分が倫理的に優越していると思うことができる。
その意味でエゴは優越感を欲し、優越感を通じて自らを強化する。
(p143-145抜粋)


耳が痛いわ~w と思いながら、読んだこのパート。
”実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は
間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。” 

だいたい、自分の正当性が認められないとか無視されたと感じた時に不満が生じるものです。
コミニュケーションがうまくいかない・・伝わらない、という時。
なのでこれは、生活していく上で多少はそうなっても仕方がない面もあると私は思います。
で、ここに「正しさ」を持ち込んでしまうと、ものすごく厄介なことになるんですよねw
「お互いさま」って思える余裕があれば、相手を責めつつも、後に自省ができて
エゴが引っ込むこともある。 
けどこれが「正しさ」の主張になってしまうと、エゴは絶対引っ込まないw
”自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。”
この指摘を読むと、いやでも思い出してしまうのは、かの組織の方々ですよね・・w
かつて自分もその一員だったわけなので、よくわかるのですが。
この「正しさ」が「優越感」と繋がってるから、「選民思想」に結びついたのか!と、
エックハルトのおかげで謎ときができましたw
かの組織の方々の「上から目線」に関しても、この「正しさ」に紐付いた「優越感」由来だと
考えれば、非常に納得のいく話です。
さらに突き詰めるなら、「五重の相対」が正しさ・優劣の証明(?)的な教義といえるので
さもありなんというか・・なんというか・・w
一方向の「正しさ」をこれでもか!というほど叩き込まれた私たちこそ
「物事は高次から見て中立」という大原則を知り、「両極をやって真ん中に戻る」
意識して生きていくのが良いのではないかと、思います。 

何につけ「正しさ」にこだわる癖は、組織を離れたところで簡単に取れるものではないと
思うから。
だから、いろんなことや人が許せない!って、頑ななアンチになる・・私もその一人でした。

で、そもそも「正しさ」の反対は「間違い」なのか?というと、
そこは人によって答えが違うのです。
だからこそ「正しさ」にこだわっている状態=バランスを欠いた・偏った状態なんだという事に
気付かないと、エゴはベッタリと貼りつくばかりで、なかなか心を自由にはしてくれません。
「正しさ/間違い」に殊更こだわってると、本当にただ苦しいだけ。
ずっと他人も自分も裁き続けていく事になるからです。
「気づき」さえすれば、エゴはぺろーんと剥がれるんです。コレ本当に。
でも、繰り返しですがエゴはなくすことはできませんので、忘れたころにまた来ますw
そのときも「あ、いま自分は偏ってんな、バランスおかしいな」と気づけたら
さっといなくなるのです。
最初はなかなか難しいかもしれないけど、習慣性のものなので慣れたらこっちのもの。
自分の内面状態を常にチェックする、これがとても有用です。

具体的には、何かに臨む時は自分がざわついていないか、うわついていないか
今一度確認をします。
自分が興奮状態にあるな、とか、不安感でゆらいでるな、と「気づいた」ら
クールダウンのためにお水を飲むとか、手を洗うなどして「いまここ」に意識を戻す。
このとき、水を飲む・手を洗っているー行動に集中し意識を向ける。
(その行為をしつつも、頭の中が考え事でグルグルしているようでは「いま」にない状態です)
そうして整えてから事に当たるだけでも、ずいぶんと違ってきます。

また、もし、対人関係において相手に高圧的な・不快な言動をとられた場合も、
すかさず意識を「自分の状態」に向けてみてください。
相手の言動・態度に意識をもっていかれないように。
「いま、自分どんな感じ?」と、自己観察する。怒りでかっとなっているのか・恐怖を感じたのか、
萎縮してるのか、厭な気分なのか・・そうして「気づく」だけで、不思議と少し落ち着くのです。
湧いた感情と一体化して振り回されることがなくなるというか
状況を一歩引いて見ることができる。
ここで注意してほしいのは、決して感情を否定したりはしないってことです。
ダメ出しをするんじゃなくて、自分がどんな「状態」なのかに気付いてあげることが目的です。
すると、相手のペース(=相手の感情・意識状態)に完全にのまれることはなくなるはずで、
自分を立て直し、落ち着いて自分の意見を述べたり・しかるべき行動がとれると思います。
売り言葉に買い言葉、みたいな泥沼展開になることはまず避けられるでしょう。
そしてこちらが意識的であれば、相手の中のエゴを見抜くこともできる。
相手はエゴに振り回された言動をとっているのだと観察すれば、こちらが
それに殊更反応する必要はないんだと、振り回されることなく「いま」に在ることが
出来、落ち着いて対処ができます。
これはもう、一度体験してもらえればはっきり解りますし、格段に不愉快が減ります。

余談ですが、先日すごく久しぶりに熱が出たのです。
夕方なんだかぼーっとする、身体がだるい、おかしいな?と思って体温計で確認。
最初は「インフルエンザはやってるけど、まさかね・・」とか
「昼間全然なんともなかったのに、どうしてだろう?」って、めったに熱など出さないだけに、
原因探し・若干の不安と不信感がよぎっていました。
けど次の瞬間「あ、いま不安に傾いてるな」と気づきました(勝手にです、最近は
特に意識しなくても気づけるようになりました)。
すると途端に「熱はあるけど頭痛はないし、体がぽかぽかしてなんだか気持いいなぁ。
だるさも、生きてるって感じがするなぁ」と嬉しく思えてきて(←?!ですが、こんな風に思うのは
初めてでした)、薬は飲まず。
動きたくなかったので家事は手抜きし、ソファでごろごろしながら音楽を聴いていたら
結局2時間後に熱はすっきり下がっていたのです。 これには驚きました。 
自分がどんな状態にあるのかを「気づく」だけで、そこに空間が生まれ、切り替わるような
イメージを最近の私は持っています。
そして、気づいて→内面状態を整えたら、展開がなだらかで好ましい方向に流れていくんです。
このあたりも、いずれ別記事でまとめられたらと思っています。

最近、再びエックハルト氏の動画を繰り返し見ています。
「いまここ」に意識を置くことを解りやすく教えてくれているものがありましたので
貼っておきます。 
仕事や日常生活が退屈でうんざりだ、という方は試しに御覧になってください。

※2017年5月18日追記
 動画が削除されてしまったので、リンクは消しました。
 信仰についても後半ちらっと触れられていて、面白い内容だっただけに残念です!


(続きます)

ニュー・アース 第三章(3)

不満と恨み 続き

エゴは他人だけでなく、状況にも不満や恨みを持つのが大好きだ。
人に対してできることは、状況にもできる。つまり状況を敵にすることもできる。
それはいつもこんな思いとして現れる。 こんなことが起こっていいはずがない。
私はこんなところにいたくない。こんなことはしたくない。こんなのは不公平だ。
そしてもちろんエゴの最大の敵は、いまのこの瞬間、いわば人生(生命)そのものである。

不満と、誰かに過ちや欠陥を教えて正させることを混同してはいけない。
不満を持たないことは、必ずしも質の悪さや劣悪な振る舞いを我慢することではない。
ウェイターにスープが冷めているから温めなおす必要があると伝えることはー事実だけを
取り上げるなら、事実は常に中立だからーエゴではない。

「良くも私にこんな覚めたスープを出せたもんだ・・」。これは不満である。
ここには「この私に」という意識があり、冷めたスープに個人的な侮辱を感じて
ここぞとばかり騒ぎ立てる「私」、誰かが悪いと決めつけて喜ぶ「私」がいる。
この不満は変化を起こすのではなく、エゴを喜ばせるのに役立つだけだ。
ときにはエゴがほんとうは変化を望んでいないことが明白な場合さえある。それなら不満を
言い続けられるから。
何かに不満を持った時、頭の中の声を把握できるかどうか、つまりその正体に
気づけるかどうか、試して御覧になるといい。それはエゴの声、条件づけられた心の
パターン、思考でしかない。その声に気づけば、同時に自分はその声とは違うこと、
その声に気付いているのが自分であることがわかるだろう。
実際、声に気付いている、その「気づき」があなたなのだ。
(中略)
自分の中のエゴに気付いた時、それは厳密にいえばもうエゴではなく、
古い条件付けられた心のパターンになる。
エゴとは無意識である。気づきとエゴは共存できない。(後略)
(p137-139抜粋)


真髄を突く、深すぎる一文。
そしてもちろんエゴの最大の敵は、いまのこの瞬間、いわば人生(生命)そのものである。”
今回記事を書くにあたって、改めて読み返し
「うわっ!そのとおりだ!」と、私は怖くなったほどでした。
これといって何の問題もない時でさえ、先の不安(=いまにないこと)を態々思い浮かべたり・
自分ではない他人(家族含む)が置かれている状態について憂いたり、悪い想像をしてみたり。
とりわけ何も問題のない「いま」についても、
「問題のないことが問題」とばかり、マイナス探しの視線を
注いでみたりする。
しかも、それが習慣になっている。

物事って見ようによっては、いくらでも悪く見ることが出来ますよね。
ニュースサイトには悲しく不安な情報が溢れており、それが「いま」自分自身に
なんの関係もない事柄であろうとも、気分・考えに影響を及ぼすこともある(=感化される)。
(例:物騒な事件報道を目にして、自分もああなったらどうしよう?!などと考えたり)
外側の現象・・「いま」自分が直面していない・何の関係もないネガティブに態々関心を向け
内面状態(心の内側)を波立たせることがある・・誰が? エゴが。
私の中にもまだまだ上記傾向があって、
この記事にも書いたトラウマ回避とも、関連があるように思います。

また、先日ふと思い出したのですが
私が「ニュー・アース」に出会い、思考を止めることを意識し始めてわりとすぐのころ、
疑問をもったことがあり、それは
「思考を止める=向上心をなくしてしまうことにつながるのではないか?」という懸念でした。

湧きあがる不安や不満は、時に自分を向上させるモチベーションになる、という考えです。
コンプレックスをバネにとか、ハングリー精神もおなじ類いかと思います。
今ここに問題はないとか・あるものにすっかり満足して、上を目指さなくなったら
私はどんどん堕落するのではないか・・?という心配。
「思考を止めたら馬鹿になるのではないか?」と並んで、疑心暗鬼。
騙されたと思って「思考を止める」日々を過ごしていく中で、ある日突然
「そういうことか!」と気づきが。
私にとっての向上心をひも解くと
人生をより良くするために失ってはならないものという定義でしたが、
裏を返すと=どんな現状にも満足してはいけない、という強い観念(思い込み)でした。
現状に満足してしまうこと=向上心を失うのと同義。だから満足してはいけない!
常に高い理想を持ち、追い求め続けるのが人生(だと私は思いこんでいました・・
ちなみにこの思い込みを握ったのは20代後半、リストラが契機。この記事に書いてます。
読み返すと「思い通りになっているのに、気持に余裕がなく常にイライラしていた」との記載がw
まさしく、エゴにとりつかれていたんですね・・答え合わせしてるみたいで、我がこと乍面白いw)。
だから常に「うっすら不満足」(←エゴ)をキープしようとする(無意識に)。
この意識状態でいると、理想は天井知らず。
未来像ばかりをみて「いまここ」の幸いを確認しようとは、絶対にしない。
(→そんなことしたら、エゴの居場所がなくなる!)
おそらくどこまでいっても、真に満足も充足も感じられず、
一瞬「自己満足」できたにしても、すぐさま新たな外側の条件(他者との比較)によって
鼻っ柱はへし折られるw
比較対象を内面にも外側にも求め、私はまだまだだ!もっともっと・・。
自分の人生にけしてYESと言ってはいけない、なぜなら向上できなくなるからだ!と。
しかも、結婚し家族ができると、それは自身の問題のみにとどまらず
子供の成績や出来・不出来(外付けパーツ)を「我がこと」と同一化し、コントロールしようと
事実必死になっていました(お恥ずかしい・・もちろん、気づいてからは、きっぱり止めました)。
まさに、エゴの思うツボ状態です。
こんな思い込みで生きてきたんだ?! 超苦しい生き方じゃんorz 実際苦しかったよ・・ と。
自分でやっていたくせに、全然解ってなかったw 
エックハルトの指摘通り、無意識の中にエゴは潜んでいたのです。
これに気がついたとき、ちょっと衝撃でした。
自分はあくまでも「より良くなるため」に、やっていたつもりだったのに、
まさかそれが自分や周囲を窮屈にさせてたなんて!と。
(注:向上心を持つことが悪いと言ってるわけではなく、私においてはそこにエゴを発見したって
 話です。)
現在、向上心については
「自分を心地よくいさせない・苦しめるならそれは虚栄心かと疑ってみる」
との認識に落ち着きました。 
(当然、自分以外の他人を含めることは大間違いだという認識も追加)
また、向上心は”願望”とも繋がっていると思いますが、執着をもてば苦しくなるのは当然のこと。
このあたりもエゴを挟まずにどう向き合っていくか、追々紹介します。

エゴの最大の敵が人生(生命)そのものって、決して大げさな話ではなく、
結局は「責め」が身を滅ぼすって事でしょう。
自分や周囲の環境を責めて苦悩の末、うつ病になる人は多いし、
ストレスが免疫力低下を招くことで各種発病につながることも、よく知られているとおりです。
とにかく、原因は何であれ、自分責めも環境責めも、ろくなことはありません。
そして”自分がエゴに取り付かれてるな”って気づけば「責め」は止められるんです。

ごく簡単なことだから、試さない手はないと私は思うのですが・・。

繰り返しになりますが、「生きているだけで丸儲け」をベースに
呼吸と鼓動が続いている奇跡、「いまここ」に何の問題もない幸いに気付いて、
そこへ意識を戻すことができれば、エゴに飲み込まれ翻弄されるのを防ぐことができます。
それを「子供だましだ!」なんて、私も最初は思ってましたw 
「そんなことで、なにも解決しない!」ってw
私の中のエゴが、そうやって拒絶していたのです、最初は。
けど冷静に分析してみると・・確かにまだ何も起こっていないのに、勝手に不安を思い浮かべ、
いやな気分になったり・想像の世界で物事や他人を悪者にしてわだかまるなんて、
時間の無駄というか精神消耗するだけだし、ばかばかしいことだよなーって気づいたのです。
それで思考を止めて「いま」にある励行ができたのですが、実際やってみたら気力消耗や・
いやな気分になることも、わだかまりも激減し、これはすごい!と思い。
そして事実をただ認識し、そこに過剰な憶測や感情(=被害者意識)を絡めずに
ものごとに当たることが出来るようになると、目の前の状況が確実に穏やかで
なだらかなものへ自然と変化するというのを、身をもって経験しています。

”不満を持たないことは、必ずしも質の悪さや劣悪な振る舞いを我慢することではない。”
”ー事実だけを 取り上げるなら、事実は常に中立だからーエゴではない。 ”

このパートは、前回書きました「感情を絡めず、事実を伝える」についての解説になります。
たとえばアポなし家庭訪問が迷惑だ、ということについて
この私をいやな気持ちにさせやがって・・イライラ!」という感情で
「家庭訪問にこないでください」と相手に伝える場合、やや攻撃的な口調になったりしがちです。
創価脳な相手は言葉よりも”攻撃的になってる、怒ってる”という状態の方を受け止めます。
そして「かわいそうに、魔に食い破られている・・祈ってあげなきゃ!」とか
「もっと関わっていこう!」という、創価脳ならではな謎の迷走スイッチを入れてしまうことにも
つながりかねませんw ←あくまで経験上からの言葉です。
なので、感情は入れずに事実のみ伝えることが無難だと私は思います。
↑確か、だいぶ前にも(ニュー・アースを知る以前)同じことを記事に書いた気がしますw
これは対創価だけでなく、一般社会でも応用可能で、けっこう有用です。
私はクレーム申し入れの際に心がけていますが、一切こちらの感情を織り込まず、
ただ中立な事実だけを伝えます。
(前提として「悪意」で事を受け止めなくなったので、怒りの感情もわかなくなりました)
すると「こうしてほしい」などの要望を一切言ってないにもかかわらず、
期せずして新品と交換してもらえたり・次回注文の際に大量におまけを入れてもらうという
神対応をしてもらいました。
どんなに表向きの言葉を行儀よく整え・表面をきれいにつくろったって
わだかまりの感情(エゴ)って、「言葉」に乗るんです。こちらが思っている以上に。
それが相手に伝播し、望ましくない状況や状態を引き寄せることに、繋がるのではないか?と
思う次第です。

また、心の中で「ケッ、迷惑なんだよ!」などなど不満に思いつつも口には一切出さず、
表向きなんでもないふりをして、内心沸々とわだかまり続けていることは
”ときにはエゴがほんとうは変化を望んでいないことが明白な場合さえある。それなら不満を
言い続けられるから。 ”

ということかもしれません。
自覚なしに、エゴを自分の中で飼育しているという感じでしょうかw
文句を言い続けられなくなったら困るのです、だって自我(エゴ)が優位でいられなくなるから。
相手を悪者にしておかなければ、自分が正義でいられなくなるから。
そしてこの状態だと、いつまでたっても迷惑行為はやまないと思います、残念ながら。
これも機能不全状態を自ら望んで「引き寄せ」ているのです・・誰が?エゴが。 

余談ですが、この春休みに実家の母・姉を交えて旅行に行った際、驚いたことがありました。
母からひとことも、他人に対する愚痴やマウンティング発言がなかったのです。
(そういえば・・母はまだ脱会しておりません。諸事情で延期になりました。
 活動は完全に停止しています)
これまで何度か、母と旅行先や帰省のさいに話をするたび
他人(学会員・非学会員どちらも)に対する文句愚痴マウンティングがひどくてorz
正直いつもうんざりしていました。
(余談・私は普段ほとんど実家に電話を入れません。用件はメールで済ませるので
 「じっくり会話」の機会は少なめです)
TPOをわきまえず、話し続けていないと死ぬのか!?と思うほどのマシンガントークで、
そのことについても常に???で。
交友関係がガラリと変わった&組織の人と一切付き合わなくなったことで、
常識人が周りに増えたこともあるのでしょうが、お友達との楽しい・微笑ましい話題が中心。
また、沈黙も苦痛でなくなったようで、マシンガントークもなし!
実に穏やかで、まるで別人のようでしたw
母にとっていかに組織での人間関係や各種活動が、ストレスの巣窟だったのかが
はっきりと解るな・・と思ったのと同時に、
これは私の内面状態の反映でもあるんだと、旅から戻ってそう思いました。
母に対して、(以前は持っていた)わだかまりの感情が、現在一切ないのです。
脱会が延期になったときも、なんとも思いませんでした。母の人生だから、母が決めれば
いいことで、私の人生を左右することでもなく・自分に影響ないと分かっているから。
誰かを変えようとか・コントロールしようという考えは、まぎれもなくエゴです。
そういったものから解放されると、執着しなくなると、本当に「楽」になれます。
そして状況も勝手に変わるのです。

近しい人間関係でお悩みの方は、自分が相手を変えようとしていないか・コントロール
しようとしていないか、今一度確認してみてください。
不満の原因が、相手が変わらないことにあると考えているなら、まぎれもなくそれはエゴw
なので気づいて、手放すことをお勧めします。
(思うに、組織で「他者の幸福を祈る」的な事を、これでもか!というほど叩き込まれた事が、
 必要以上に他人を気にする・我がことのように他人を意識に入れてしまう悪習慣と
 繋がっているのではないか?と。 他者との関係性や距離感の問題ですね。
 これに関しては、また別の機会に述べたいと思いますが、いい人ぶるのはもうやめましょうw)
具体的には、相手のことを憂慮心配しない&問題にしない・相手は大丈夫だ!と安心し
信頼して放置する。
そして自分に集中することです。
自分の機嫌を取ることだけに集中してください。
内面状態を整える、自分が自分の機嫌を取るのです、全力で。
 
そこに他人を入れない。
他人に自分の機嫌を取らせようとは考えない・望まないでください。
自分の上機嫌が定着安定する頃、こちらが何もしなくても、相手は勝手に変わってます。

どんな生き方・考えを持つことも、その人の自由です。
恨みごとを持ち攻撃的になり、悲観的な外の現象ばかり取り上げ眺めては、
政治が悪い宗教が悪い、あいつが駄目でこいつは劣ってて・・とこき下ろすのだって・
誰かや何かを一生許すまじと、監視し・挑み続けるのも一興。
それが楽しい・生きがいって人がいてもおかしくない。全然OK。
どんな生き方も状態も、自分が選んでいて、選べるのです。
だけれども残念なことに、勘違いを起こしてしまっている場合
「自分は(怨むべき対象に)そうさせられている」と思いこんでいるパターンが大半です。
「自分は恨みたいわけじゃない!本当は楽しくいたいよ!でも、誰かや何かが存在する限り
 アイツらが自分を”そうさせて”いるんだ!」なんて、
自分が相手に主導権を渡している(事に気付いてない)。
忌まわしい対象の前に仁王立ちして睨みつけ、一歩も動かないこともできるけど・
今すぐそこから立ち去って、自分の好きな・心躍る目的だけ選んで楽しむ事もできるんです。
忌まわしい相手に主導権なんかありません、主導権はいつも自分にある。
そして立ち去ることは、負けでも・ずるいことでもなんでもない。
(それを敗北だとかずるいとか、思いこんでるのは自分のエゴであって、
 他人は誰もあなたを裁こうとなんてしていない・興味もないことに気付けばいいのです)
また、恨んだり憎んだりしてる間、相手にパワーを奪われていることを自覚したらいいと思います。
その間中、自分の貴重なエネルギーを憎い相手に注いでいることは間違いないのです。
一瞬悦に入り、いい気にはなれるかもしれませんが、消耗・焦燥が強まるだけかと・・。
なんだか勿体なくないですか?
自分の人生を、面白くて喜びある方向に舵取りすることも選べるし、それは自由です。

難しいことは何もなくて、ただ自分が心地よいこと・安心できること・楽しいなって思えることに
興味関心を注げばいいと思うのです。 
ネガティブ、恨み、不安や心配にあてる時間は無用で、そんな思考が頭をもたげた時は
「はい終了~!」と、パチンと手を打って、そこで止める。
そして即好きなDVDや動画を見たり・音楽を聴いたり、今すぐに此処で出来る簡単なことで
気分を変えたらいいのです。
好きな飲み物をのんでもいいし、景色を眺めるのもいいし、
実現性はさておいて愉快な計画を立ててみるとか、とにかく「切り替える」。
ほんと簡単なことでいいから、イヤな気分に留まろうとしない&長引かせない。
ネガティブクリーニングの一環です。

これはもう、習慣にしたらいいと思います。 なんせエゴは神出鬼没ですからねw 
そして、上機嫌の時間をキープすることが習慣になれば、ネガティブ思考は減少し
物事の受け止め方が、より良い方向へ変化します。

小さな不快・不満を解消せずに放置し、積み重ねること(我慢して押し込めることも同じ)が、
エゴの増幅剤になっていると、私は分析しています。
特に、かの組織に尽くしてきたような人は「我慢」がデフォルトになっています。気づかないうちに。
自覚のある方は、特に自分優先で、自分に親切にしてみてください。
心のささくれは他人や特別な何かに依らずとも、日常生活の小さな工夫で・自分で治せます。

エゴとの付き合い方は「ニュー・アース」を2回も読めば、大体わかります。
難しいからと、読むのをやめたって方もいらっしゃるようですがw
是非お手元においてほしい一冊です(DL版もあります)。
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(次回に続きます)

ニュー・アース 第三章(2)

不満と恨み

不満は、エゴが自分自身を強化するために用いる得意の戦略の一つだ。
不満はどれも心が作り出し、あなたが完全に信じ込んでいるささやかな物語である。
不満を声に出そうと頭の中にとどめておこうと、違いは無い。
他に自分を同一化するものをあまりもたず、不満だけで楽々と生き延びているエゴもある。
そういうエゴの虜になると、不満、とくに他人に対する不満が無意識のうちに習性となる。
無意識だから勿論自分では気づかない。人々を見た時、最も多いのはその人たちについて
話したり思い浮かべるとき、心の中で否定的なラベルを貼り付けるというのもこのパターンの
一つだ。悪口雑言はこのラベル貼りの最も露骨な形で、自分は正しいと勝ち誇らずには
いられないエゴの必要性を満たしてくれる。

(中略)
恨みは不満や精神的なラベル貼りに付随する感情で、エゴはそこからさらに大きな
エネルギーを汲み取る。恨むというのは苦々しい思いをする、憤慨する、馬鹿にされたと
感じる、傷ついたと思うことだ。

人は他人の貪欲さ、不誠実さ、いい加減さ、現在や過去の行動、言ったこと、しなかったこと、
すべきだったことやすべきでなかったことを恨む。エゴはこれが大好きだ。
他者の無意識さを見過ごさず、相手と同一化する。
誰がそうしているのか?あなたのなかの無意識、エゴである。
ときにはあなたが他者に見る「過ち」は、ほんとうはありもしないものかもしれない。
まったくの誤解で、敵を見つけたがり、自分が正しくて優れていると思いたがるよう
条件づけられた心の投影にすぎないかもしれない。

また過ちが事実あったとしても、そこにばかり集中し他の一切を顧みないことで、
あなたはその過ちを拡大して見ているかもしれない。それに他人のなかに見て反応することほど、
自分の中にもしっかりと存在している。

他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、
人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。

だが反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な
機能不全の表れだと認識できるときだけだ。
そのような行動が個人的なものでは無いと気付けば、相手個人に反応しようという衝動は
なくなる。そしてエゴに反応しないでいると、相手の正気、つまり条件づけられていない意識を
引き出せる場合が多い。(中略)
あなたがエゴという無意識を相手個人と同一視したとき、その相手は敵になる。
反応しないのは決して弱さではなく、強さである。反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見過ごすこと、いや見抜くことである。

エゴを通してすべての人間の核心、本質である正気を見抜くのだ。(p133-136抜粋)


私が「ニュー・アース」を手にしたのは、(繰り返しで恐縮ですが)
落胆の出来事のあとにやってきた極度の落ち込み・心苦しさから抜け出したい!
との動機でした。
御蔭で随分と心が楽になり、過呼吸まで治ったというありがたき本なのですが、
読み進めるうちに「あれっ?これって創価脳やアンチ創価のための本?!」と思ったほど、
そのものズバリな傾向性が書かれている事に面食らったのが、この章でした。

不満はどれも心が作り出し、あなたが完全に信じ込んでいるささやかな物語である。
この個所を初めて読んだ時、心がざわついたのを覚えています。
環境や待遇、身近な人間に対して、自分自身の性格や容姿にまつわるコンプレックスなど、
人は大なり小なり「不満」をさまざま持っているもの。
(これらを持って生まれた「境涯」「宿命」と呼んでましたね)
それを「自分が完全に信じ込んでいるささやかな物語」って一体?!
自分が見ている世界を否定されているような・・お前が悩んでること・気にしていること・
問題にしてる事柄なんざ、とるに足りない小さなことだよ!と言われたようで
戸惑いを覚えました。
ニュー・アースに出会った当時の私は、(義実家問題で)「自分が酷い目に遭った」という
負の感情に支配されていました。
もう少し付け加えると「真面目にやってきた自分が、騙され・酷い目に遭わされた不条理感」です。
どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの!!という・・。
この負の感情が、私が覚醒した当時の、創価組織に対しての思いと似ていると気づきました。

この章を完全に理解できたのは、実はつい最近ですw
恨みは不満や精神的なラベル貼りに付随する感情
これ、全くその通りなんですね。

私の場合、昨年春ニュー・アースを読んだ当時、自分にこんなラベルを貼っていた。
「文句も言わず健気な”いい嫁”を演じてきたのに、姑にしてやられた不幸な私
「こっちに一分の落ち度もないのに、悪人に仕立て上げられた可哀そうな私

これを言いかえれば「被害者意識」です。

私の中のエゴが、自分を被害者に仕立て上げた。
”こんなに頑張ってきたのに、裏切られて可哀そうな私!”というw ←今だからwと
つけられます。

被害者意識に浸っている間というのは、ある意味「気持ちいい」のです。
不幸のヒーロー・ヒロインでいられるし、たとえば他人にそれを話すことで
「大変だったね」「かわいそうに」「相手が悪いね」などなど、同情を得る事も出来るかもしれない。
すると一瞬、自分の正当性を認めてもらえた気分になって「気持ちがいい」。
けどそれで傷が「癒える」とは限らない。 
場合によってはますます「可哀そうな私」増強に励んでしまうかもしれないw 誰が? エゴが。
前回紹介しました大嶋先生の本を読んでから、こんな風にも思うようになりました。
「被害者意識にしがみつくことも、ストレスホルモンを下げるのに丁度良かったのかもな」と。
ただ残念なことに、自分が自分を被害者だと思ってる間は、ずうーっと被害者のままです。
当たり前だけど。
そして、環境は「助け舟」なんか出してくれませんw
というか「助け舟」なんて、ありません。
唯一の解決策は「自分が被害者をやめること」だけなんです。

「私は自分の意志もないうちに入会させられた不幸な学会O世」というのも
自分へのラベル貼りです。
ラベルに「不幸な」って入れると、どんどん不満が湧いて出てきますよねw
親が悪い、じいさんばあさんが悪い、組織が悪い、過去のいまわしい思い出、云々と。

そして逆の現象もあって、今度は創価脳時代にちょっと戻ってみると
非学会員で悩みを持っている友人を目の前にした際
「仏法に出会っていないがために、希望を持てない、折伏すべき可哀そうな友人」とかw
「救ってあげなければ!」なんて思っていた人も、いたのではないでしょうか。
大きなお世話だよ! って、今となっては思えてきませんか?
これも立派な他者への「ラベル貼り」でしたね。
それを「慈悲」だなんて思っていましたが、実は違っていたのかもしれず、
相手を「不幸だ・可哀そうだ」なんて至極失礼で勝手なラベル貼りすることで、
実際のところは優越感を得ていたかもしれないのです。 
選民思想的な話になっていきますが。
前にも書いたように、救わなければならない・可哀そうな人はこの世には存在しません。
なぜなら全ての出来事は「高次から見て中立」だからです。
なんか、全部これ↑に行きついてる気がしますがw それほどこの「世界の見方」って重要です。

つまり、必要があってそこに「事(一般的にいうところの問題)」がおきている。
それを「不幸で不運な出来事だ」と評価しているのは、自身の主観であって、
自分に起きたことでも・他人に起きたことでも同じ。
こちらの一方的主観で勝手に相手を「可哀そう」だの「宿業の嵐が吹き荒れている」だの思うのは
違う。
その出来事が、先々どう転がっていくかはわからない。だのに勝手に「大変だ!」との
レッテルを貼り付けて騒ぎ立てるのは、ありもしない話をそうであるように仕立てあげていくのと
同じ事なのです。
他人が窮地に陥っているかに見える時、相手の求めに応じて出来る事は手伝えばいいけど
(自分が心にわだかまりなく出来ることだけを)、
しゃしゃり出て相手の出番を奪うような事をしたり、コントロールするような事はしなくていい・・
というか、すべきでは無いのです。
ましてや、自分自身の問題のごとく抱え込んでしまう必要なんて絶対ない。
「同苦」だなんて、自分の慈悲深さを相手に示そう的な教えもありましたが、大きなお世話です・・。
かといって、創価時代にやっちまった事(折伏、相手の為に御祈念、その他)を悔いることは
ありません。 
だって、その時は解らなかったし・「そうしなさい」って組織に教え込まれてただけだから。

エックハルトの言葉でいえば「自分のしていることがわからない」状態だったのです。
気付くことができたら、そこで終わり。 次へ進んだらいいのです。
(それを「過去の自分はバカだったまちがってた~!!そもそも親が悪い周囲が悪い!」って、
自分責め&環境責めするのは、エゴの仕業ですし・大嶋先生的にいえば、トラウマ回避です。)
くれぐれも、罪悪感をもたないように。
それがわだかまり・機能不全の原因となって、
あなたの人生を、いいものにはしないからです。


そしてどうせ自分にラベル貼りをするのなら
「生まれながらにしてラッキーな私・俺」にしておけばいいのです。 
上記は私の個人的な考えですが。
いま何かを持っていないから・何かに達していないから・過去の諸々があるから
「自分は幸せではない」なんて思いこまない・憂いを持たないことです。
”思い込みが現実を作っている” これは確かなことだから。
エックハルト氏が教えてくれているように、私たちは生命を持ってこの世に存在している・
呼吸と鼓動いう不思議が続いていること、
それだけでもう奇跡の体験者です。
無条件に幸いな存在なんです。

命ある幸いに全面降伏しなければ、いつまでたってもラットレースから抜け出せないし、
”あいつが悪いこいつが悪い、自分は馬鹿だった”等の不平不満をモチベーションに
生きていくことが是となってしまいます。
まあ↑この状態でも「生きているだけで丸儲け」には変わりないので、いいんですがw
どうせなら意識の使い方を変えて、わだかまらず・心穏やかに和やかに生きていくほうが
いいんじゃないかなーと思いながら、私はこのブログを続けています。

他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、
人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。


このパートに関して、「創価脳の迷惑行為を言い当ててる!」って
初めて読んだ当時は驚き・ほとほと感心しました。

私の話で言えば、このブログを立ち上げるきっかけにもなった、選挙投票日の当日確認w
(この記事に書いてます)
活動家における、投票日の当日確認という行動は「集団的エゴ」によるものです。
おそらく活動家本人は「集団的エゴ」に取付かれているだなんて気付いてない。
その団体に属し・近いところにいなければ、「当日確認をしよう」なんて発想・行動はまず無い。
というか完全に団体の・上からの指示でやってるわけで、ある意味コントロールされている。 
実際やってる本人は「自分が心からやりたくてやってる」わけじゃないんですよね。
誰に頼まれなくても自発的にやりたくて(当日確認)やってる、なんて人は皆無でしょう。
全部が「だって先生のため、党のため、幹部が言ってるから・組織のきまりだから」って
他人軸の理由。
本当はやりたくないけど、やっとけば功徳あるし・ 組織の人も喜ぶし」的な発想で
行動していると思われます(し、私も活動家時代を振り返ると同様でした)。
当時かなり怒っていた私は(この記事の中段以降にも書いてます)、実家にまで投票の有無を
問い合わせた本人をとっつかまえて、なんでそうしたのかを問いただしたい!と思っていました。
「当日確認の行動原理は、突き詰めたら何なのか?」って聞きたいとw
「果たしてそこまで必死になるような事なのかよ?」と。
だけど、おそらく活動家みんな自分でも行動原理はちゃんと分かってないと思いますし
(誰かに押しつけられた理由ばかりで、自分が心からやりたくてやった・・なんてことは
 100%出てこないでしょうね)、
答えに窮するでしょう。
繰り返しですが、活動家はエックハルトの言うとおり
「自分が何をしているか解っていない」のです。
(以前この記事で紹介した動画参照)
そしてこの、明確に説明できない行動原理こそ「集団的エゴ」のなせる業なのでしょう。

結局私は当日確認の相手を見つけ出す事も、問いただす事も出来ないまま組織を去りました。
が、このとき怒り心頭になったからブログを立ち上げたので、この出来事に遭ったことも
意味があったというか・・良かったのかもしれません?!w 
そしてこの時、私自身が、自分の中に確実にある「エゴ」に反応していたって事です。
もしエゴの構造を知っていれば「エゴに取りつかれた活動家のヤラカシ」と、一瞬イラっとしても
此処まで怒りはしないで、スルーできたと思います。
だって、相手は「自分のしていることがわかっていない」のだから。
怒鳴りつけた処で・どうおかしいのかを逐一糺してみた処で、暖簾に腕押し・糠に釘なのです。

”反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な
機能不全の表れだと認識できるときだけだ。
そのような行動が個人的なものでは無いと気付けば、相手個人に反応しようという衝動は
なくなる。そしてエゴに反応しないでいると、相手の正気、つまり条件づけられていない意識を
引き出せる場合が多い。”


つまり、活動家のしつこい家庭訪問だとか「あなたの為を思って云々」とかいうのは、
「集団的エゴ」による行動で、その人自身が本心からやりたくてやっていることではない
組織の刷り込みがなかったらそんな行動、絶対してないはずだからw
(正気の沙汰ではない)と捉え、スルーすればいいという事じゃないでしょうか。
こちらが深刻にとらえて、逐一イライラ・ムカムカ・ムキー!ってなる必要はないのです。
「ああ、集団的エゴに取りつかれてる人たちがやってきたなー」くらいの、ライトな反応で
いいと思います。 
そして、集団的エゴにとりあう必要も義務もないってことです。
まともに対応することが自分の気分を害することなら、放置すればいいのだし(=居留守など)。
それを申し訳ないとか思う必要なんて、みじんこもありません。
「考え方が変わったし、議論する気もないからもう来ないでね♪」って、しっかり伝えることも
いいと思います。
これは地域組織の人に限らず、創価脳の身内家族についても同じ対応でよろしいのでは
ないかと。

”反応しないのは決して弱さではなく、強さである。反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見過ごすこと、いや見抜くことである。”


相手の中にある「エゴ」を見抜けば、反応しないでいられるってことです。
「目覚めていない人たち」だとわかれば、許せる(スルーできる)ということです。

つい「対創価脳」について書いてしまいますがw これはすべての人間関係においても
言えることですね。
「なんでこんな事してくるんだろう?言ってくるんだろう?」とか、不愉快だなって思う態度の人間が
周囲にいたとして、その人のエゴに反応しないよう気をつける。
毅然と相手の行動のどこが不愉快か、やめてほしい旨、事実だけを相手に伝えれば良いんです。
そこに「感情」を絡めないことです(詳しくは次回の章で)。
その上で、相手は機能不全をおこしている、自分のしていることがわかっていないんだな・・と
とらえる。
きっと相手は、自分が自分のやっていることをわかっていないだけに苦しいのです。

また、相手の態度にイラっとしたり・モヤっとする・怒りを覚える・・などの反応に気付いたら
自分の中のエゴを見つけるチャンス。
相手の態度に自分を傷つけられた・損なわれた・脅かされた・馬鹿にされた・・と感じる時には
そこに「過去の思い込み・条件付け・レッテル貼り」を発見し、
癪に障る感情に付随する「自分の思考の背景」を探ってみるのです。
実は不遜な態度をとった相手のことをいくら掘ったって、憶測ばかりで不愉快になるだけです。
反応した「自分の内側」にしか、解決策は見つからないのです。
すると、本当はさして相手に悪気がないことに気づけたり・ことさら自分が相手の態度や
言葉をネガティブなものと受け取っていることに気づいたりと、思いもかけなかった別の側面が
見えてくるものです。
その「気づき」が、「いまここ」からの展開を変えていく。
悪い評価しかできず、恨みを抱いたり一方的な不満を抱くような状況が、うってかわって
良い方向・印象へ変わることもあります。すると「いまここ」から先の状態をより良いものに
変えるんです。 
先の未来だけではない、忌まわしい・振り返りたくないと思っていた過去までも、あの時間が
あったからここへ繋がったんだ・・と、感謝であったり・良い思い出(評価)に変わります。
これは現実に、起こせることです。
これを「一念三千」っていうのでしょう。
トランス状態になるほど題目あげなくてもw エゴに気付くだけで・観察するだけで
その境地に行くことができるんだと、私は「ニュー・アース」やバシャールの本から学び、
深い感銘を覚えました。
そして現実に、自分がそれを体験できているから、すごいよって伝えたくてブログを書いています。

誰かや何かを悪者にして自分を被害者にしておければ、ある意味「楽」です。
(戦わなくてもいいものと戦ったりわだかまったりと、精神的にはシンドイでしょうが・・)
でも、被害者を辞めれば心が本当に、別次元の「楽」になる。
わだかまりが激減し、精神的にもおだやかになり、身辺状況もなだらかなものへと
変わってきます。 
これは私がこの一年を通じて人体実験wして検証済みです。

どんな状態も、自分で選べるし、実際もう選んでいる。
それが「いま」です。
現状つらい思いを抱えている人も・苦しい人も、絶対に大丈夫だから、
まずは自分へのネガティブなレッテル貼りを、やめてみてください。
命ある幸いを確認し、「いま」自分の内面状態を整える。
(前回書いた、思考を止めてお茶でも飲んで「凪」へ移行)
まずはそこから始めてみるとよいと思います。

(次回に続きます)

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