スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ニュー・アース 第三章(10)

すべての構造物は不安定

どんな形をとるにしても、エゴの奥には自分が考える自分のイメージ、
幻の自己を強化したいという強い無意識の衝動がある。その自己イメージ、
幻の自己は、思考ー大きな恵みであると同時に手ごわい厄介者ーがのさばりだして、
自分が「大いなる存在」「源」「神」とつながっているという、シンプルだが深い喜びを
覆い隠した時に出現する。
どんな行動となって表れるにせよ、エゴの隠れた動機は常に同じだ。
目立ちたい、特別でありたい、支配したい、力が欲しい、関心が欲しい、もっともっと欲しい、
ということである。それにもちろん、自分は別だという感覚を感じたい。
つまり対立相手、敵が必要になる。
エゴはつねに他者あるいは状況に何かを求めている。いつも隠れた課題を抱えてえいるのだ。
「まだ充分ではない」と感じ、非充足感、欠乏感にいら立っていて、なんとかそれを埋めなければ
ならない。そのために人や状況を利用するが、たとえ一時は欠落を埋められても、その成功は
決して長続きしない。
目的と遂げられることも多いし、たいていは「私が望む」ことと「実態」とのギャップに動揺し
苦しむ。いまは古典となった有名な「サティスファクション」は、まさにエゴの歌だ。
エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。
自分が何者でもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。
結局エゴの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい親密な
人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしか
できない。幻想は決してあなたを満足させてはくれない。ほんとうのあなたに気づくことが
できれば、それだけがあなたを解放してくれる。
なぜ不安なのか?エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、
すべて移ろいゆくことをどこかで承知している。だから外見はどれほど自信満々に見えても
エゴにはいつも不安定な頼りなさがつきまとう。
(中略)
どんなに堅固に見える物質だろうと、すべての構築物(形)は不安定だと気付き、それを
受け入れると、身のうちに安らかな気持ちがわき起こる。
形あるものは儚く無情だと認識した時、自分の中の形のない次元、死をも超える次元に
目が開かれるからである。イエスはそれを「永遠の生命」と呼んだ。

(p175-179抜粋)


”古典となった歌"とは、ローリングストーンズのサティスファクションのことだと思われます。
歌詞の和訳を調べ初めて知ったのですが、正式なタイトルは
「I can't get no satisfaction.」となっていて
これが”ぜんぜん満足できない”という意味で、二重否定となっているとのこと。
エゴはどこまでいっても満足なんかしない・どんな状況にだって難癖付ける、という状態を
まさに言い当てたタイトルですねw
歌詞全体の内容も、そのようなかんじです。 興味のある方はぐぐってください。

エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。

不安がある種、あらゆる物事に対しての原動力にもなっている。
悪いことばかりではありませんが、取り違えると各種依存へ陥ってしまう事態に
繋がっていると思います。 
宗教依存も、「ざっくり不安を取り除きたい」という動機からくるものでしょうし。
その「不安」が、えもいわれぬもの・説明のしようのないものだからこそ、
目に見えない不思議なパワー・・ご利益的なものを求める思いにつながっていくのだと
自分の経験上からそう分析しています。

「それ」をしていないと不安だ・・という行動があるとすれば、
その行動習慣を見直してみるのも一興かもしれませんね。
大昔、組織に属し活動家だったころの私は、やはり活動をしていなければどこかしら不安でした。
”遊んでばかりいたら、何か悪いことが起こるんじゃないか・・?!”
”お題目あがってない、大丈夫かな・・?!”
なんて思っていたら、やっぱりアクシデントだとか
活動に引き戻されるような出来事に折々出逢っていたしw
「自分がそう思い込んでいるから、そうなっていただけの話」だったなーって今はわかったというか
合点がいきます。

おそらくですが、現役活動家の皆さんも
やっぱり原動力の底には不安があると思います。
それをやっていなかったら、自分はどうかしてしまう・おかしくなる・空転する・芯を失う
不幸になってしまう的な?
でも、それは自分が勝手に作り上げた幻想&思い込み、マイルールなんです。
組織や親からのすりこみ・周りの影響もあるかとは思いますが、100%が周りのせいではない。
自分が不幸にもそう思い込んでしまったゆえ、そうなってしまうだけの話なので。
それが思い込みだったと気づけた時、宗教依存は自然と終わります。

つくづくも、観念は大事です。 
何に対してもですが、あまりにも不安を持ちすぎはしないけれども・用心はしておくことが
良いのではないかな、と思っています。
「用心」は落ち着いていないと出来ませんから、何度も繰り返しで恐縮ですが
「プレゼンスにある」ことに努める・・心がけかと。

「ニュー・アース」を読んだから言えることなんですが、
「不安」という説明のしようのないものも、
実は自分が作り出した幻想なんですよね。おおむね。
たとえば、まだ自分が経験したことのない怖い出来事や痛ましい事故などを
偶々ニュース映像であったり・または身近な人たちにおこった出来事として目にすると
「自分もああなったらどうしよう?!」と、不安に陥る。
けれどそれは「いまここ」にはないことで、頭の中のイマジネーションです。
自分の身にはまだおきていないことであり・起こるか起こらないかも「いまここ」ではわかりません。
が、確実に言えることは「いまここ」には、無いことなのです。
エゴの想像力は逞しいですから「いまここ」には無いことを際限なく作り出します。
でも、それらは全部、想像上のストーリーに過ぎません。

なぜ不安なのか?エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、
すべて移ろいゆくことをどこかで承知している。

だから外見はどれほど自信満々に見えてもエゴにはいつも不安定な頼りなさがつきまとう。


不安がいつまでたってもぬぐえない、尽きないことの答えが上記でしょう。

太字にした部分は、「エゴが恐れているものの正体」ですが、次のセンテンスを読み
「あ、これってあのことだ!」と思い当たった件があります(後述)↓

どんなに堅固に見える物質だろうと、すべての構築物(形)は不安定だと気付き、それを
受け入れると、身のうちに安らかな気持ちがわき起こる。
形あるものは儚く無情だと認識した時、自分の中の形のない次元、死をも超える次元に
目が開かれるからである。イエスはそれを「永遠の生命」と呼んだ。


すべてが一定ではないことを受け入れられた時、承知した時に不安は終わる。
諦観ともいえるでしょうか。

「あのこと」とは、こちらの記事で紹介した大嶋信頼さんの
「トラウマ恐怖に浸ってみる」というメソッドでした。
トラウマだと思っているそれが「恐怖じゃない」って気付くことができれば、
脳の過覚醒がおさまって「凪」へ移行する(落ち着く)という・・。

いつかは終わる、ということを、何に対してもどんな事象についても
弁えておけばいいのではないかと、最近の私はとらえています。
人として生を受けた以上、必ず寿命というものはあって、やがて死ぬことは決まっています。
これは誰人も避けようのないことですよね。
(・・某都市伝説番組でやっていた「トランスヒューマニズム」的な話はちょっと置いといてw)

エゴは終わりがくることを、よくも悪くも恐れている。究極それは「死」を指しているのか。
けれど死ぬことだけは決まっている。
誰人にも平等にその時は訪れます、どんな形かはまさに「神のみぞ知る」状態で。

だから、どうせだったら楽しく生きればいいと思うのです。
生ききれば・生き抜けば・生き伸びれば。
生きたもの勝ちです。
なにも、自ら死にたいなんておもわなくてもw
”死にたい”なんて思いたくなるような出来事だって、いつか必ず終わります。
そのことに気づけた時点でもう「終わる」のだと思います。

死にたくなるような出来事が終わらないなら、自身の中のエゴがそれを終わらせたくないのかも
しれません。 理由は様々でしょうが・・。

究極を書いてみたのでちょっと重たくなっちゃいましたが、
尽きない怒りや恨みや悲しみなどにも、同じことが言えると思います。
それらを尽きさせたくないエゴが存在している、ということです。

生きていれば日々いろんなことがおきてきます。望む・望まざるにかかわらず。
依然として常に「いま」しかなくて、すべてはやがて過ぎゆくのです。
だったら「いま」を少しでも”気分良く”すごすことに注力する、
簡単なことでいいから、行動するのが良いのではないかなーと、思っています。
(行動=プレゼンスに入ること、瞑想もアリ)

(次回に続きます)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

下書き途中で、オリンピックに夢中で見入っていたらすっかり季節が変わってしまい・・
気づけば春休み。
早くUPしなくちゃ、と思いつつ、今度は再燃した森友問題に夢中になっておりましたw

いやー、すっごい興味深い。
証人喚問で幕引きなんて、もったいないw
野党が「私たち頑張ってます!」風情を出すため・
パフォーマンスのために国会が使われたんじゃ、意味ないですよね。 
そのなかで例外的に、赤い党はGJだったと思います(が、支持はしてませんw)

この問題に関しては、政治家よりも
国会の外にいるジャーナリスト(調査し・経緯を詳しく知っている人々)の発言のほうが
利害関係がない分、信憑性もあるし支持できるなと、個人的に思います。

そしてなっちゃん党が、この問題に関しては
どーいうわけか、あたりさわりない対応なところにも注目です・・w


スポンサーサイト

ニュー・アース 第三章(9)

平和と波乱、どちらを望むか?

あなたは平和を望むだろう。平和を望まないものはいない。
だが、あなたのなかには波乱を、紛争を望む何者かがいることも事実だ。
今この瞬間には、その何者かの存在を感じないかもしれない。だが何らかの状況が
(それどころか、ただの思考が)、あなたの反応の引き金を引いたらどうか。
誰かがあなたを非難した、あなたを認めなかった、あなたのテリトリーに侵入した、
あなたのやり方をあげつらった、金品をめぐって言い争いになった・・・・そのときあなたは
自分の中で、何か大きな力が、たぶん怒りや敵意の仮面をつけた恐怖が盛り上がってくるのに
気づけるか?
声が荒々しく、あるいは甲高くなったり、何オクターブか低い大声になったと自覚できるか?
心があわてて自分の立場を防御し、正当化し、攻撃し、相手を非難しようとするのが
わかるか?
言いかえれば、無意識が発動した瞬間にその事実に気づけるだろうか?
自分の中に戦闘態勢の何者かがいること、脅かされたと感じて、どんな犠牲を払ってでも
生き延びようと望む者、
波乱のドラマにおける勝利者として自分のアイデンテティを確認するために
劇的状況を必要とするものがいることを感じ取れるだろうか?

平和よりも自分が正しい方がいいと言う何者かが、あなたのなかにいることを
感じられるだろうか?
 (p169-171抜粋)


この章は短いながらも、深~い内容。
誰もが平和や平穏を望んではいるけれど、ひとたびその「平和(と思われる状況)」を
乱す(と思われる)なにかが現れとき、簡単に「平和」を保つことを忘れて
戦闘モードにシフトするというのです。
静かに考えれば、「戦闘モード」に入ることは「平和」を守ることと
イコールではないってことが、理解できるでしょうか?
私は「ニュー・アース」を読むまで、それが殆どわからなかったタイプですw
異を唱える者が現れれば、むきになって「それは違うだろ」と態度を表明することが
防衛につながるのだと信じてたし、
そうふるまうのが「正しい」というか、当たり前のことだと無意識レベルでそうなっており。
声に出す・出さないはその場の状況に応じて変わってましたが、
たしかに「反応」をしていたことは間違いありません。

先日、とある人物とのやりとりで、戦闘モードに入らずに済んだ自分をふと発見したことが
ありました。
相手が一方的な思い込みで「このようにしたらどうか?」と、ある件について提案をしてきました。
私からすれば相手の思い込みは大変なお門違いで、何がどうなってその提案を??
「良かれ」と思って相手が言っているのであれば、何だろう・・
すごくこの人暇なんだなぁ~と、感じたのです。 
勝手にこちらの状況を「想像」し、その想像を基にしたおせっかいを言ってくるというか・・。
あれ?何かに似ているなぁって・・「自分の信じる正義」を押し付け・ふりかざしてくるそのさまは、
まるでソーカの折伏と同じでしたw
私も過去に同じようなことを他人様にやってきたんだなぁと、苦い気持ちもわいてきたりしてw

以前の私なら、いくらでも相手の一方的な善意を「悪意の人」と仕立て上げたと思いますw
相手がこんなこと言ってきた、何考えてんだ?勘違いもいいかげんにしろよ!って。
ママ友に愚痴ネタのひとつとして語り草にしたかもしれません。
けど、今回は相手が私に抱いている思い込みを眺めることができたし・
それは真実とは違うものなので
(私が現におかれている立場状況や所感とは全くかけ離れたものだったので)
穏やかに「どうぞお気遣いなく」というだけですみました。
「私」というエゴがうるさかった時は・・相手に皮肉を交えつつ抗議したことでしょうw 
おせっかいを通り越して失礼だ!侮辱か!プライドを傷つけられた!なんて内心わだかまって。
そんなのがもう、「ニュー・アース」を読む以前は日常茶飯事だったともいえますw
けど今は、見ているものが自分と相手では全然違うんだなぁってことが理解できるし・
同じ目線に立っていないことがもうわかるので、違うんだよ!そーじゃないんだよ!
お前の考えはおかしいんだよ!(←これは言い過ぎw)なんて必死に抗うような
闘争心wは、湧かないのです。
「まったくいろんな人がいたもんだな~」で終了です。

よく「同じ土俵に上がってはいけない」的な指南がされますが、ほんとそれ。
けど、相手を見下すとか「レベルが違う」みたいなレッテル貼りで溜飲を下げるとか、
そういうこととは明らかに違います。 
他者と自分の、見えている世界の違いをシンプルに認めるだけの話です。

波乱のドラマにおける勝利者として自分のアイデンテティを確認するために
劇的状況を必要とするものがいることを感じ取れるだろうか?


「私は正しい」を証明(?!)したいがために、トラブルらしき状況を欲している。
まさかと思ってしまいますが、こういった事柄も日常どこにでも転がっている気がします。
自分を悲劇のヒロインに・はたまた逆境どん底から這い上がるヒーローのように
ドラマチックに生きたい人は、それもありかもしれませんが、ねw

エゴを超えて:真のアイデンテティ

エゴが闘っている時、
そこで生き延びるために闘っているエゴとはただの妄想にすぎないことを知るべきだ。
そのエゴと言う妄想は、自分こそあなただと考えている。

そのとき「いまに在る」証人として状況を見つめることは、初めはそう簡単ではない。
エゴがサバイバルモードに入っているか、過去を引きずった感情的なパターンが作動して
いるときは特に難しい。
だが一度その感覚を味わえば、「いまに在る」パワーは高まり、エゴの束縛力は失われるだろう。
エゴや心よりもはるかに大きな力が、あなたの人生に生まれる。
エゴから解放されるために必要なのは、エゴに気づくことだけだ。
気づきとエゴは共存できないからである。気づきとは、いまこの瞬間に秘められた力だ。
だから「いまに在る」ことと表現できる。人間と言う存在の究極の目的は(それはあなたの
目的でもある)、この「いまに在る」力を世界に広めることだ。
それはまた、エゴからの解放が将来達成すべき目標ではないのはなぜかという理由でもある。
「いま、この瞬間」だけがあなたをエゴから解放できるし、あなたは昨日でも明日でもなく
「いま、この瞬間」にしか存在できない。
「いまに在る」ことだけがあなたのなかの過去を解体し、あなたの意識の状態を変容させる。

スピリチュアルな目覚めとは何か?自分がスピリット(霊)であるという信念か?
いや、それは一つの思考だ。出生証明書に記されているのが自分だという信念よりは
多少真実に近いが、それでも思考には変わりない。
スピリチュアルな目覚めとは、自分が知覚し、体験し、考え感じている対象はつきつめてみれば
自分ではないし、つねに移ろう事物のなかに自分自身を発見することはできない、とはっきり
見抜くことである。

これを明確に見抜いた最初の人間はたぶんブッダで、だからブッダの教えの
核心の一つはアナッター(無我)だった。またイエスが「あなた自身を捨てなさい」と言ったのは、
自己という幻想を否定(そして解体)しなさい、という意味だった。(中略)
この幻想の自己を捨てた時、残るのは知覚や体験や思考や感情が現れては消える意識の明かりだ。
それが「大いなる存在」、深い真の「私」である。

この「大いなる存在」としての自分を知った時、人生で絶対に重要な出来事というものはなくなり、
全てが相対的な重要性しか持たなくなる。
その出来事を尊重はしても、絶対的な深刻さや重さは、もはや感じない。
結局のところ大切なのは次の事だけだ。
人生という背景の中で常に「大いなる存在」という自分の本質、「私は在る(I Am)」という
ことを感じていられるか?
もっと正確にいえば、いまこの瞬間に「私は在る(I Am)」と感じられるか?
意識そのものとしての自分のアイデンテティ、その本質を感じられるか?
それとも起こっている出来事や心のなか、この世界で自分を見失うのか?

(p171-175抜粋)


このパートは何度も読み返したい。これまでのおさらい&基本中の基本が
書かれている個所だと思います。

私は最近、何事かに迷ったり悩んだりで時間を使うことが殆どなくなりました。
日常生活上AとB、どっちがいいかで迷うことはあります。
だいたい直感で決めますが、決めきれないときは
「今はえらぶ時期じゃないんだな」と即切り替え、保留にします。
gdgd考えなくても、必要な時に選択はおりてくるというか・・勝手におさまるべき方向で
決まるということがわかってきたので、そんなに迷う必要もなくなったのです。
なるようになるというか。
それは、「私が」考え抜いてだした答え!というような力みが・・「私が」というエゴに昔ほど
囚われなくなったってことかもしれません。
以前、ABの選択すら「我がのもの」と握りしめていたときはそりゃーもう大変でしたw 
損したくないしヘタこきたくないし、絶対後悔したくない!いちいちそんな思い入れたっぷりでいると
疲れます正直。 
うまくいった時はドヤ!と大喜びですが、ダメだったときは自責の嵐だったりしたしw
そこまで力む必要がなかったんだな何事も・・と、今はそういった心境でおります。

悩みに関しても、軽く「どうしたものかな」と思い煩うときはありますが
長引かなくなりました。
たいていが「私」ではない他者(というか、家族)の事柄ですが、私が思いあぐねたところで
どうにもならないんだってことが判ってしまったので、執着しなくなったのです。
私が悩まなくても・しゃしゃり出なくても、たいてい忘れたころに解決してますしねw
自分自身のことについては以前この記事で書いた
「愚痴を言わずにプレゼンスを招く」で、瞬時に解決ですw 
エックハルト氏がSNSでも時々短いメッセージを発信しているのですが
(ツイッター、インスタグラムがあります。興味のある方はご覧ください)
「物事はシンプルに」ということを、繰り返して伝えています。
まさにそのとおりで、わざわざ物事や状況を難しくややこしいものにしているのは、
自分(のエゴ)だったりするんです。
「今にある」を常態化していけば、そのうちわかるようになります。

上記も、生きている(とエゴが感じたい)実感や物語・・ストーリーを強く求める人にとっては
「そんなの無責任だ!」って見解になるんでしょうけどねw
(余談:過去、エックハルト氏のもとに、ビリビリに破いた「ニュー・アース」を
 送りつけてきた人物がいたそうですが、まさにそういった人は己の人生は
 ジェットコースターでドラマチックであってほしい・・と願う、
 自分のつくった物語にとりつかれていることを、認めたくない人なんだろうなーと・・)

何かを守ったりうまくいかせようと必死になったり、自分の考えで誰かを変えたいと願ったり、
そううまくいかず打ちひしがれたり、勝利の喜びに浸ったりと
ビビッドな人生を送りたい方は、もれなく悩みも迷いも抵抗もつきまといますが
「ニュー・アース」を読まずに、生きていったらいいと思います。

本文とは離れますが、私が20年以上応援している某アーチストの方がインタビューの中で
「苦節を経てセールス的に成功し・周りに称賛してくれる人が増え、お金も手に入ったとたん
 ”自分が望んでいたものは、こんなものではなかった”と憂鬱になった。
 全部自分が望んで欲しかったものだったのに」と語っていて、驚いたと同時に、
なんというかエゴの性質を見せられた気持ちになりました。
そのアーチストにとっては、理解者が増えず売れない不遇の状況や日々は確実に
「いい楽曲を作ってやる!」というモチベーションになっていたという。
安穏な状況が訪れた途端、スランプに陥ったというお話でした。
その後、また新たな悩みができたおかげでいい曲が書けたっていうエピソードもありw
アーチスト系の人は、エゴでもってアップダウンを繰り返すほうがいい曲が書ける場合も
あるんだな~と、思った次第です。
件のお方は存命ですし、精力的な活動を継続していますが
アーチストの中には絶頂期と思われる中で自ら命をたってしまう人も、多くいます。
ある意味、エゴに振り回されとりつかれーというのが特に激しい種類の人たちなのかも
しれませんね。

”結局のところ大切なのは次の事だけだ。
人生という背景の中で常に「大いなる存在」という自分の本質、「私は在る(I Am)」という
ことを感じていられるか?
もっと正確にいえば、いまこの瞬間に「私は在る(I Am)」と感じられるか?
意識そのものとしての自分のアイデンテティ、その本質を感じられるか?
それとも起こっている出来事や心のなか、この世界で自分を見失うのか? ”


ときどき今でも、自分が学会2,3,4世として長年生きてきたことを後悔されたり・
活動に熱心だったことを悔やんでいるーという内容のコメントをいただくことがあります。
私も、このブログを始めた当時は凄まじくその件について心に重い十字架を背負ってるような
苦しい気持ちでいました。
過去は消せないし・・いまさら、10代の自分に戻ってやり直すこともできない。
どうしてくれよう!!という、親や組織やいろんな方面にうらみがましいような思いと・
また組織の矛盾に早々と気づいていながら目や耳をふさいできた自分を責めていた面も
ありました。

でも、それって「私を構成する(重要な)アイデンテティ」だったんですね。
はっきりいえば幻想です。
過去にその道を通ってきたことは間違いないにせよ「いま」ではない。過去の話です。
それをいちいち・わざわざ十字架にして「いま」も背負ってるのは誰なのか?
何者かに背負わされているのではありませんよ、自分が勝手に背負っちゃってるんです。
自分がそんな十字架、ぶん投げてしまえばオシマイの話。じつは。

その十字架を、後生大事に背負っていなきゃならない理由は何なのか。
ぶん投げていいのに、投げない理由があるとしたら
自分の側に「背負っていないと不都合」があるからではないでしょうか。

「学会員の親の下に生まれたから私は不遇な幼少期を過ごしたんだ!」
これを握りしめておかなければ、自分は何かを失う・・。
そうやっていついつまでも、いい年こいた大人になってても、
永遠に拗ねていなければ「私」が失われる・・何かの整合性がとれなくなってしまう!
そんな思いに、囚われてはいないでしょうか。

大丈夫です、何も失いません。それどころか、なにも最初から持ってなどいませんw
「不遇なストーリー」を大事に握りしめたがっているのは、エゴなのです。

”それとも起こっている出来事や心のなか、この世界で自分を見失うのか? ”

ただ「私は在る」それだけのことなのです。

少なくとも、ネガティブなストーリー(自分の構成要素)は、必要ないから封印しちゃって
いいと思います。
うらみがましさも拗ねも、人生をいいものにはしません故。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


次回は年末記事・・ってもう年末だけどw
2017年に私が読んで面白かった本を紹介したいと思います。


ニュー・アース 第三章(8)

闘いは心の癖

他人に傷つけられそうになって自分や誰かを守る必要がある場合もあるが、
「悪を退治する」のが自分の使命だと考えないように気をつけた方がいい。
そんなふうに考えると、自分も闘う相手と同じことになってしまう。
無意識のままで闘うと、あなた自身が無意識に引っ張り込まれてしまう。
無意識つまり機能不全のエゴイスティックな行動は、闘っても退治できない。たとえ相手を
打ち負かしても、その意識はたんにあなたの中へ移行するか、新しい姿で現れるだけだ。
何を相手に闘っても、闘えば相手はますます強くなるし、あなたが抵抗するものはしつこく
存在し続ける。
あれやこれやとの「闘い」という表現を最近よく耳にするが、そのたびに私は、闘いは
失敗するに決まっている、と思う。
麻薬との闘い、犯罪との闘い、テロとの闘い、ガンとの闘い、貧困との闘いなどという。
だが、たとえば犯罪や麻薬との闘いが行われているにもかかわらず、この二十五年で
犯罪や麻薬がらみの違法行為は劇的に増加した。アメリカの刑務所の収容人員は
1980年には30万人足らずだったのに、2004年にはなんと210万人に激増している。
(中略)
闘いは心の癖で、そういう癖から生じる行動はすべて、悪と想定される敵をかえって
強くするし、たとえ闘いに勝っても打ち負かした敵と同じような、それどころかもっとも手ごわい
新しい敵、新しい悪を生み出す。

あなたの意識の状態と外部的現実との間には、深い相関関係がある。
あなたが「闘い」という心の癖にとらわれていると、あなたの知覚は極めてえり好みの強い
ものとなってゆがめられる。言いかえればみたいものしか見ず、しかもそれを曲解する。

そんな妄想のシステムからどんな行動が生じるかは、簡単に想像がつくだろう。
想像がつかなければ、今夜のテレビニュースをごらんになるといい。
エゴをありのままに人間の心の集団的な機能不全として認識すること。ありのままを認識
すれば、もうそれを誰かのアイデンテティだと誤解したりはしない。
また、エゴに反応しないで居ることも容易になる。個人的に受け止めることもない。
不満を抱いたり、非難したり、なじったり、おまえが悪いと決めつけもしなくなる。
誰も悪くはない。それは誰かの中のエゴ、それだけのことだ。

人によっては症状が重いかもしれないが、誰もが同じ心の病に苦しんでいると分かれば
共感を持てるし、優しくなれる。
すべてのエゴイスティックな関係につきものの波乱の火に油を注ぐこともない。
油とは何か?反応だ。エゴは反応を糧にして肥え太る。

(p165-169抜粋)


(中略)の部分には、医療行為の事が書かれています。
日本においても「病魔」なんて言葉を使いがちだし、「闘い」は創価脳時代は日常茶飯事orz
「闘わない」なんて選択肢があることを、まず認めていませんでした。
闘ってナンボ的な世界観。

ニュー・アースからは離れますが、ことし読んだ本の中に、ガンに闘いを挑むというよりは
ウェルカムな姿勢を持つことで、治癒に繋がったというお話がありました。
ガンを悪とみなすのではなくて"いらっしゃい。仲良くしようね!”と、赦す心持ちで
治療を受けたり日々を過ごすのと・敵ととらえ憎しみを燃やし、執念のもと成敗してやるわい!と
問題意識で治療するのとでは、結果が違ってくるというのは「なんか解るなぁー」と思ったのです。
普通~に考えて、どっちが気力体力・心持ちの消耗が少ないか?ということです。
問題意識からの取組みでは、結果に一喜一憂することも多くなりますものね。

病気ではなくても、たとえば身近な人物にうっすらとでも敵対心を抱いてしまった時、
気力の消耗、結構ありませんか?
私は以前、まさにその悪しきパターンにはまっていてw
相手の一挙手一投足が気にいらない・・いらつく!なんて無駄にわだかまっては疲れていました。
嫌いなのに・イヤなのに意識してしまうという矛盾w
直接相手と闘うことはなくても・そんな気はなくても、相手を「敵」とか「悪」とみなしている間は
なーんか、気が抜けないと言うかw 
「気を張っている」から疲れるんですよね。ある種、興奮状態。
それが当たり前の無意識状態にあった時期が、長期間に及んでいました。
以前も紹介したトラウマちゃんの話(この記事)と繋がってくるのですが、
(もと)創価脳は「闘い癖」をつけられている方が多いように感じます。
たとえ組織から抜けたとしても「闘い癖」は、それに気づかない限り、カビのように生き続けます。
常に何かに怒りや不満をもつ興奮状態を維持することで、ストレスホルモンを下げるという
悪循環。 
信じられないことだけど、自ら進んで機嫌の悪くなる状況を選ぶのです。
それ違うよ!ってことに気づかないと、いつまでも生き辛い、しんどいまんまです。

”たとえ闘いに勝っても打ち負かした敵と同じような、それどころかもっとも手ごわい
新しい敵、新しい悪を生み出す。 ”


インフルエンザワクチンなんか、まさに↑これですよね。毎年パターンが変わるというし、
予防注射の出始めは「昨年より強い」が決まり文句になっているような・・?!
普段から手洗い・うがい・保湿などで心がけておくことも大切ですが、かかってしまったときは
「そういうものか」と受け入れて、しっかり休息をとる・できること(通院、栄養、水分補給)を
淡々とする事かと思います。 そこにマイナス思考は挟まない。
「予防注射しとけばよかった!」と後悔することもいらないし・「予防注射うったのに何なの?」
と訝ることもいらない。 ただ、シンプルにとっぷり休む。
どんな病でも、おなじことがいえるかと。

”あなたの意識の状態と外部的現実との間には、深い相関関係がある。
あなたが「闘い」という心の癖にとらわれていると、あなたの知覚は極めてえり好みの強い
ものとなってゆがめられる。言いかえればみたいものしか見ず、しかもそれを曲解する。”

それを=妄想のシステム、と。 
創価脳時代、まさにこのシステムにハマっていましたw
みたいものしか見ない、なんてそのまんまですよね。
ネットは見ない。組織からの情報のみw
または、組織からドロップアウトしたり脱会した人の偶然にも不幸な例ばかりを見聞きする。
安穏と暮らしている人だってごまんといるのに、そんな例は絶対意地でも参照しないし、
なんなら「今はそうかもしれないけど、将来はわからない!」なんて恨みごとをいうw
常に「いま」しかない事を理解していないから、そんな寝言をいうんですよね。

また、私はアンチに転じてから異常なほどに高齢学会員の困窮を耳にする機会が
多くなっていました。 
以前の居住地では同世代の学会員が病死、事故死、お子さんが大病と
ほんと「どうかしてるぜ?!」と思うほど、ネガティブな話題しか記憶にないしw
良い話を耳にしたことが、見事になかった(・・聴こうともしてなかったかもしれないw)
それも、今思えば「みたいものしか見ない」だったのかなぁ、と最近感じるようになり。
全ては「たまたま」というか、陰陽はどこにでもあって、”学会員だから”とか
”一般人だから”とか、それは関係ないし無意味なんですよね。
近頃は組織ときっぱり縁を切ったこともありますが、そういった話題を一切耳にしなくなりました。
もし耳にしたにしても「それは本人の日ごろの願いがかなっての状況」という感想です。
自分の信じたことが真実になっていってる、それだけのことだから。

前にも書きましたが、くれぐれも「過去世の罪業」なんて自ら背負わないようにしてください、
ここを読んでおられる方はw
そんなもの、ないのです。 
悪い思いこみは持たないことです。

”エゴをありのままに人間の心の集団的な機能不全として認識すること。ありのままを認識
すれば、もうそれを誰かのアイデンテティだと誤解したりはしない。
また、エゴに反応しないで居ることも容易になる。個人的に受け止めることもない。
不満を抱いたり、非難したり、なじったり、おまえが悪いと決めつけもしなくなる。
誰も悪くはない。それは誰かの中のエゴ、それだけのことだ。 ”


こういう目線を持てれば、本当にどれだけ・どれほど心穏やかにいられるでしょう。
上記が、キリストやブッダが「人間」に伝えたかった境地とも言えるのではないでしょうか。
「誰も悪くはない。それは誰かの中のエゴ、それだけのことだ」 なんて。かっこいいw

”すべてのエゴイスティックな関係につきものの波乱の火に油を注ぐこともない。
油とは何か?反応だ。エゴは反応を糧にして肥え太る。”


この部分は、以前紹介した「ニュー・アース第三章(2)」のこの部分とも通じます。

”あなたがエゴという無意識を相手個人と同一視したとき、その相手は敵になる。
反応しないのは決して弱さではなく、強さである。反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見過ごすこと、いや見抜くことである。
エゴを通してすべての人間の核心、本質である正気を見抜くのだ。”


反応しない、というのは世間一般的には「ずるい」事のように思われがちだったりしますが
実は見過ごすことは=見抜くこと。
以前から何度も書いている例として、世間一般の方がソーカ問題にあえて触れない様にしたり・
選挙を頼まれても優しい嘘で「わかった、OOさんね覚えとくわ!」と表面上は学会員を喜ばせ、
敢えて矛盾を突いたり闘いを挑んだりせず、穏便にあしらうのは、
「君子危うきに近寄らず」の実践です。
反応して火に油を注がない様にしているのですね。 へたにロックオンされないようにw

エゴは反応を糧にして肥え太る 昨今で言えば炎上商法もそれにあたるかと。
今年の夏、某おそうじ棒で有名な女優さんが俳優のご主人を題材(?)にしたブログや動画を
連日UPすることでワイドショーをにぎわせていましたが、
世間の反応・フォロー数やら再生回数だのに呼応するかのように、エスカレートしていくさまが
見てうかがえました。
規約の問題や法的手段に訴えられたあたりから、トーンダウンしたので何よりでしたが、
世間が騒げば騒ぐほど、ヒステリックに感情的に、高ぶっていく様子を見ていた当時
「エックさま(←私はこう呼んでいるw)が言ってる通りだなぁ」と、深く感心した次第です。
きっと心底から冷静になった時、「あれは私ではなかった」と、
エゴにとりつかれて半狂乱になっていた2017年夏の自分に気づくのではないでしょうか。

繰り返しですが、心がけたいのは深い「落ち着き」です。
いついかなるときでも、自分の中に確かにある静けさ(プレゼンス)に気づくことです。

で、また創価脳あるあるになってしまいますが
良くも悪くも、(エゴに)「反応」をしやすい人が多いように思います(以前の私がそうでした)。
それは「全ては自分が源」という教えがベースにあったからでしょうね。
まあ、間違いではありません。
でも、全てを自分のせいにしてしまうことは違うのです。
ここをうまく文章で表現できないのがもどかしいのだけど・・誤解曲解を承知で書くと
「自分の」せいにしてしまった時点で、それはエゴに囚われていることになる。
いろんなものを自ら背負わなくていいよ、ってことと
気分よく過ごすのも・悪くするのも自分次第です、ということです。今の私が書けるのは。

「問題から目をそらすな!」だとか
「問題を先送りしたところでまた同じ問題を繰り返すぞ」などの、
指導だとかありますが・ありましたが
これ実は・・問題にした瞬間から問題になるだけなのであって、問題にしなければ問題じゃないんです。
全てがそうなのです。
禅問答みたいですけど。
ここに気づいたら、本当に楽ですよv 
エックハルト氏も、津留さんもそれを仰っているのだと私は受け止めています。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

トップ画像を10月から更新しておらず、新しい記事が更新されていることに気づけなかった
とのコメントがありました。 すいませんw
この景色写真が気に入ってしまったので、しばらくこのままで行こうと思います。

師走に入りますね、多忙な次節ですが風邪など召されませんよう。

年内あと2回くらい更新したいと思っているので
トップ画像はそのまんまだけど、たまに覗いてくださいね~v

(続きます)

ニュー・アース 第三章(7)

エゴは個人的なものではない

集団的なレベルの「正しいのはわれわれで、彼らは間違っている」という考え方は、
国家間、人種間、民族間、宗教間、イデオロギー間の激しい紛争が延々と燃え盛る
世界の紛争地帯にとくに深く根付いている。
対立する陣営はどちらも自分たちとは別の見方、「物語」、つまり思考と自分を
同一化している。どちらも自分たちとは別の見方、別の物語が存在するかもしれず、
それもまた妥当かもしれないことを理解できない。
(中略)
対立するどちらも自分たちの側にだけ真理があると信じている。どちらも自分たちは
犠牲者で「あいつら」が悪だと考え、相手を人間ではなく敵という概念でくくっているので、
おとなどころか子供たちにまでありとあらゆる暴力をふるうことができるし、
人間らしい心の痛みも苦しみも感じないで居られる。
この人たちは攻撃と報復、やられてはやり返すという悪循環に陥っている。
これをみると、「われわれ」対「彼ら」という集団的な場に現れる人間のエゴは「私」という
個々のエゴと仕組みは同じでも、さらに狂気じみていることがよくわかる。
人間がお互いに振るってきた暴力の多くは犯罪者や精神異常者たちの手によるのではなく、
ごくふつうの立派な市民が集団的エゴに駆られて実行したものなのだ。
それどころか、この地球では「ふつう」とは狂態だと言うことさえできるかもしれない。
この根底に在るのは何か?思考や感情への自分の完全な同一化、つまりエゴである。


貪欲、自己中心性、搾取、残虐性、暴力はいまもこの地球にはびこっている。
それが根底に在る機能不全あるいは精神の病の個々及び集団的な現れであることが
認識できないと、それを個人的なものと受け取る過ちを犯す。
個人や集団についての観念的なアイデンテティをつくりあげ「彼はこういつやつだ、
彼らはこういう人間だ」と言い出す。
あなたが他者の中に在るエゴを相手そのものと混同した時、あなた自身の中のエゴは
その誤解をもとに自分が正しくて優れていると考え、敵と想定する相手に非難や
憤慨や怒りで反応することにより自分自身を強化する。こうしてエゴは大きな満足を得る。

あなたと他者は別の存在だという意識が強くなり、相手の「他者性」がとんでもなく
拡大されて、もう相手が自分と同じ人間だとは思えず、人間として根源的な一つの生命を
共有していることも、人間に共通の神性も感じられなくなる。
特定にエゴイスティックなパターンを誰かに発見して強く反応し、それが相手そのものだと
誤解するときは、たいてい自分にも同じパターンが存在するのだが、自分ではそれを
見分ける力もないし、その気もない場合が多い。
その意味では、相手から学ぶことはたくさんある。
あなたがいちばんむかつくのは、腹立たしいのは、相手のどんなところだろう。
自己中心的なところか?強欲さか?権力欲、支配欲か?言行不一致なところか、
不誠実さか、暴力的傾向か。さて何だろう?
何にしても、あなたが一番怨みがましく感じて強く反応する資質は、あなた自身の中にもある。
だがそれはエゴの一つの形であって、個人的なものではない。
相手の人間もあなたという人間とも、関係ないのだ。

ただその資質と自分を同一化してしまうと、それを自分の中に発見した時、自己意識が
脅かされたと感じるだろう。 (p160-165抜粋)


最初に下線を入れた部分について、イスラム圏の事を指していると思われますが
身近なところでいえば、宗門VS学会の抗争も、まさにそのままでしたよね。

”どちらも自分たちとは別の見方、別の物語が存在するかもしれず、
 それもまた妥当かもしれないことを理解できない。”

”対立するどちらも自分たちの側にだけ真理があると信じている。どちらも自分たちは
犠牲者で「あいつら」が悪だと考え、相手を人間ではなく敵という概念でくくっている”


(一方的な)正義のためならば、国や宗教が違えば人を殺すことだって平気になってしまう
エゴの所業。

「人間ではなく敵と言う概念でくくっている」ーなんて、ほんとその通りだったよな!と思いだすのが、
幹部が宗門の僧侶を指し「犬畜生」などと酷い言葉を使って会合席上、指導の中で
揶揄していたことですw
そんなシーンが日本全国いたるところの会合&座談会上で繰り広げられていたんだから、
目も当てられませんよね。 
敵とするものに対して、一分の尊厳も与えないその姿勢。
そこが、「正義」を勘違いした(=正義というエゴに取付かれた)人たちの恐ろしさです。
ああ、もちろん逆もありなんで、きっと宗門側でも同じことはあったんだろうなと思います。
言いたいのは、一方的な正義を主張する者同士、どっちもどっちだってことですw

で、そういった集団的エゴ(教団)の上層部・運営側の人たちは
対立構造を下々(会員・法華講)に示しておくことが「生業」です。
そのことで下々をワーワー・キャアキャア・ガヤガヤ・ドヤドヤさせることで
組織が活性化してお金も回ると言う仕組みなので、実際のところ敵対?していたって
「勝敗をつける」「白黒をはっきりさせる」というような目的なんて、上の者は
さらさらないでしょう。
戦いは続く方が良いって寸法。
対立構造のまんまでいることが存続の道なのですから、お互いに。
もしかしたら信者の知らない裏で、互いに手を握り合っている・・なんてことがあったりして?!
まあこれは私の勝手な想像ですが。
集団的エゴに扇動されて今日も婦人部は「打倒OO宗!」「完全勝利!」を真剣に心から祈り、
活動しています。
集団的エゴ(=組織とその方針)を自分と同一化しているからこその行動です。
そう、組織では「自分の願い事を組織の戦いに乗っける」というメソッド(?)が指導徹底されて
いました。
たとえば病気を治したいとか・子供の就職や受験を勝ち取りたい・自身の就職転職も含めて、
そういった個人的な願いをかなえるための、活動(集票や入会ゲット)という考え方です。
私自身も活動家時代はそうすることが当然で正攻法なのだと信じて疑っていませんでしたw
この図式は、エックハルト流にいえば「自己との同一化」なんですね。
エゴが集団的エゴにいいように使われていた、という。
「同一化」を避けられる・自分と組織とを分けて考えられる人は、まず活動なんかやりません。 
下々はいつも健気といいましょうか、不憫な気もしますがw こればっかりは仕方ない。
自分が自分の中にある「エゴ」に気づくことができないと・
俯瞰で自分の行いを見られるようにならないと、
いつまでも何かに騙されっぱなし&利用されっぱなしなんです。
まあ、ここを読んでるヒトはもうそんなの解ってる・または興味ないですよねw

で、これは政治の世界もまるでおんなじことが言えますよね。
政党と候補者においてもだし・政党候補者と有権者の関係においてもです。
最近の政局のgdgdっぷりで、それがよりわかりやすくなった気がしています。

選挙においては
「同情を集める」という手法が日本人に最も効果的なんだと、政治記者の方が仰っていました。
昨年、小池さんが都知事になれたこともそれ(同情票)だったし、
立憲民主党に今回、風が吹いたのもそれだという説に、大変納得してしまいましたw
「排除」されちゃった弱者、という風にうまーく有権者に映ったといいますか・・
有権者に”かわいそう”って思わせるのが肝要らしいのです。
(だから平気で大のオトナが演説で泣いたり・土下座もしちゃうんでしょうね~@泡沫候補)
逆風に立つ人を見て、力になってあげなきゃ!って、思う人は多くいます・・
でも、実は全然「かわいそう」じゃないんだけど。当の本人たちw
候補者や党が置かれている”かわいそう”な立場状態と・かかげている政策には関連性が
一切ありません。
「かわいそうだから」と一票投じたところで、思ったような働きを見せる議員or政党が
一体どれだけいるでしょうね?
逆に裏切られることの方が多いんじゃないかとw

エゴの構造について知り、そういった視点から政治の世界など見ていると、
誰にも投票したくなくなります、正直な話w 
選挙戦って9割がたイメージ戦略だから、選ばれるまでは、みんな必死こいてイイ顔します。
政治家にとっては選挙が最大重要なお仕事なんだなって解りますよね。
当選しなきゃ、どーしようもないっていう。

どのような理由で投票しようと個人の自由ですが、自分ではない他人に過剰な期待を
寄せてみたり・表向きをきれいにつくろっている・基本いいことしか書いてない
プロフィールを読んで
「期待できそうだ・信じられそうだ」なんて、思いこまないのが賢明でしょうね。
それこそ「思考や感情への自分の完全な同一化、つまりエゴである」で、
人物に対しての「思い入れ」は、持ちすぎないのが吉かと・・。
思い入れとは、自我(エゴ)が入り込むことです。 過剰な思いが働くことです。
私が応援してやったのに裏切りやがって!」って、なるわけです。下手こかれたときに。
候補者があくまで党の手駒で使い捨てでもあることを、ある意味私たちは
一番よく知っていますよね?w

「党」=集団的エゴ。 
支持団体にも各々エゴがあります。そして議員は手駒であり、自身もエゴですw
集団的エゴ(の上にいる奴)にいいように使われてなるものか!と思う者が新党を結成し、
また新たな集団的エゴを構築する。 現状そう見えます。
右があるから左があり、左があるから右もある。持ちつ持たれつ。
どちらか一つだけの世界、というのはありえません。
光があるから影が出来、暗闇があってはじめて光を認識できるのと同じ事で。
まさに「君たちがいて、僕がいる」 みんな違って、みんないいw
右も左もある、日本の良さはそこなんだと、私は最近そう思うようになりました。
かといって個人的に「リベラル」というキャッチコピーごり押し議員は大嫌いなんだけどもw、
リベラルがいるから保守が成り立つともいえるのですよね。
考え方が違う相手への敵対心をむき出しにするようなことは、あまり賢明とは言えません。
自分はそんな相手のおかげで生かされ・引きたててもらえている部分もある、逆もしかり。
お互い様だよね!って思えるくらいでないと。
そしていくら嫌いでもリスペクトは払わないと、同じ人間として。
だから安倍さんの、7月都議選最終日の演説中(野次を飛ばした輩に向かって)
「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」という発言については。
エゴ丸出しの、余計なひとことだったね・・しくじりましたな、と。 
一瞬にして、相手を敵だと認定してしまった。ラベルを貼ってしまったことからの瓦解。
そこはにっこり笑って「お疲れ様でぇーす」くらい言う余裕を見せればよかったのに。

”あなたが他者の中に在るエゴを相手そのものと混同した時、あなた自身の中のエゴは
 その誤解をもとに自分が正しくて優れていると考え、敵と想定する相手に非難や
 憤慨や怒りで反応することにより自分自身を強化する。こうしてエゴは大きな満足を得る。 ”


要は、何に対しても不用意な先入観を持たない・ラベルを貼らない・レッテルを貼らない事だと
思います。
また、繰り返しですが物事や人物や団体に対して「過剰な思い入れ」も持たないことが
心を平和に保つ・わだかまらない方法の一つです。

”何にしても、あなたが一番怨みがましく感じて強く反応する資質は、あなた自身の中にもある。
 だがそれはエゴの一つの形であって、個人的なものではない。
 相手の人間もあなたという人間とも、関係ないのだ。 ”


この部分、とても重要なことが書かれています。

私流に簡単に訳すなら「エゴは他人事」 これに尽きますw

「あの人の、こーいう部分が大っきらい」は、自分の中にも確実にある要素。
だけれども、それは個人的なものではなくてエゴが見せる側面のひとつであって
「他人事」なんだよと。
「他人事」っていうとひどく無責任な・投げやりな感じがしてしまうかもしれませんが、
天気と同じことだと思えばいいと思うんです。
人間には喜怒哀楽があります。感情に伴うものです。
地球における気象が、感情と同じだと考えれば解りやすくないですか?
地上は晴れの日ばかりではない、雨の日も風の日もあります。
日本は雨でもハワイは晴れている時もあるし、逆だってある。
人間においても、悲しい日ばかり続くわけではありません、笑える日もあれば落ち込むときも
怒れる日もあります。 
それらは長続きはしないし、永続性はない、いつかは止むし、とにかくたえず変化している。
気象も感情も、どちらも「現象」です。
その「現象」を見ている者になればいいのです。

人間は多面体のように、いろんな顔をみせている。
まさに万華鏡のごとく。 いわゆる「一念三千」の世界ですw
自身だって、機嫌のいい時わるいとき、いろいろあると思います。その時々で人に与える印象も
違ってくるはずです。
同じく他人だって、ひとつの顔・側面だけで判断はできないのです。

だからどんなことであっても、深刻に悩んで悩みに飲み込まれてしまう必要もないし、
わだかまらなくていい。
どんな現象を見ていようとも・なんの渦中にあっても、
自分の中に揺るがず・いかなる時も静かにただ「生命」が流れていることを確認すればいい。
(確認方法は、瞑想や「ニュー・アース」p502呼吸を参照)
そこが「臨在=プレゼンス」です。
この次元(プレゼンス)に気づくことができれば、物事の見方はがらりと変わります。
驚くほど静寂で穏やかな次元(エックハルトのいう「在る」)が、
いつなんどきも自分の内側に在ることにちゃんと気がつけば、
いかに自分が、目の前の出来事(現象)やあれこれに翻弄されまくって生きてきたか・
エゴに振り回され疲弊してきたのかが解って、驚くかもしれません。

それをものすごく簡単に要約すると
「落ち着いていきや~」(byゆりやんレトリィバー)です。
プレゼンスにあるとは=究極に落ち着いている状態、だと私は解釈しています。

自己観察も俯瞰も、落ち着いていないと、なかなかできないものです。
強烈な感情に見舞われたまま、ひとつの思いや考えがぐるぐると渦巻き長引いているときには
「ちょっと待て」と、一呼吸置いてみる。
強烈な感情とべったり一体化している自分に、気づいてみる。
そこで御茶を飲むなりフリスク食べるなり手を洗うなり音楽聴くなり、「間」を入れてみる。
(エックハルト氏が、スペースを作るという表現をしますが、まさにそのような感じ)
強烈な感情に見舞われた「エゴなわたし」を、べりっと引きはがすのです。
エゴは言うでしょう「そんなのつまんないよ!」
「もっと嘆こうよ!騒ごうよ!泣こうよ!悲しもうよ!切ながろうよ!怒りをぶちまけようよ!
 そして他人を巻き込もうよ!」ってw
まあ、若いうちはそれもありかもしれません。 
あんま悟っちゃうと、ハプニングやドラマ(ストーリー)が生まれないからですw
もちろん穏やかな人生を歩みたいと、若いころから志向するならエゴの観察はアリですが・・。
でも、いい大人の年齢でしたらぜひ、エゴを一段上から見て「そうかそうか、それでどうした?」
と相手してやることを、覚えておいたらいいと思うのです。

私自身の変化として、自己観察を始めて以降、
さまざまな感情を長くは引きずらなくなりました。
以前はわりと恨み深い方でしたのでw 何年も前の誰かの言動を突然思い出しては
「あいつめ!失礼なやつだ!」と舌打ちするなんてしょっちゅうだったんですが、
近頃は思いだしもしないし、思い出したにしても「そんなこともあったね~」って笑えます。
結局「いまここ」しかない・
自分からも他人からも、発せられる感情は「現象」で、どれも永続性はないのだと
解ってしまったら、あまり意に介さなくなったというか受け入れられるようになったのです。
当然、日々「喜怒哀楽」あります、人間だものw
ただそれを然と受け入れる・眺めて、受け入れられなければ受け流すのです。 とっても楽ですよv

蛇足ですが、政治家の下半身問題w で思ったこと少し。

不倫や重婚のスキャンダルが暴露され「離党」はしても議員辞職まではしなかった方々。
世間では「みっともない」と捉えられていましたよね。
私も最初はそう思ってました。 何をポジションにしがみついてんだろう?と。
重婚の男性議員は、お父様が大物議員だったため地盤もあるから、簡単に「ハイ辞めます」とは
言えない事情もあるんだろうなーと思いつつも。
だがしかし、今般の衆議院選直前に、なっちゃん党の男性議員が2人も相次いで
下半身問題により、超高速で議員辞職。
世間では「処理が早い」「当然」なんて意見もありましたが、私はこのときふと
「怖いな~。これ、まんま粛清じゃん・・」と思ったのです。
まあ、なっちゃん党で不祥事なんて起こしちゃったら、辞職しかありません。
そんなのは、元学会員ですから知ってますw
支持母体という背景を見れば、離党で議員を続けるだなんて、まず地元にいられないですよね家族がw
それくらい村意識が強い・村社会だから。 
でも、これって本当~は怖くないですか?冷静に考えたら。
離党じゃ済まない。
「議員をやめる・やめない」は、本人の意志といっさい関係ないという世界です。
ああ、議員に立候補する(なりたい?なりたくなくても・・)も、本人の意思とは関係ないんだったw
民主主義じゃないんですよね。
それ以前に、自分の人生であるにもかかわらず、その選択を集団的エゴにいいように
扱われるんですよね。
ああ、そんなのもう、組織内では常識だしw ご本人も重々解っていらっしゃるとは思いますが。
(やりたくないこと=政治家を「使命」と押し付けられ、イヤイヤやっているストレスを解消すべく
 「やりたいこと」やっちゃったのか? 
 いまごろ、荷の重たい国会議員を辞められて内心ラッキーって思ってるんじゃ?!
 とか、 私はそういう底意地の悪い見方もしておりますw
 本当に自分がやりたくて・使命感を持って議員をしているのであれば、こんな軽率な行動は
 まず取らないでしょうし・・。
 ましてや学会なんて婦人部様がメインの支持組織。女関係だなんてもっともタブーと
 わかっていそうなもんですけどね?)

何が言いたいかというと、自分の意志&意思で決められない狭小な世界でなんて
生きなくてもいいんです。
(それが好きなドMな人も存在するけどね~w そんな人は一生涯をささげるがよし)
「実はやらなくても死なない・困らないことを、やりたくないけどやっていた」
組織ってそういうところです。
宗教団体だけではありません、自分で作ったわけのわからないルールに縛られて
身動きとれなくなってる場合だって、世間にはそんなサンプルがいっぱいあるから。
気づこうよ、自分で選べるよ、世界は広いんだよってことですv

下半身問題でしくじりはしても、そこで人生終わったわけじゃないんだし、
ご家族の方も含め、別の道でのびのびと・自分を取り戻して生きてくれたらいいなぁーと、
辞職した方々に対し、私はそう思いました。
重たい荷物(=罪悪感)背負わせようと必死な人たちからは、とっとと縁を切って
欲しいですねv
(注:べつに元職のお二方と地元が一緒でもなければ、知り合いでもなんでもありません
 念のため・・)
(注2:選挙前に記事を書いていたので、選挙がらみな内容になってしまいました。
 投票日前にUPするつもりだったんですが、もう少し推敲したい~なんて思っていたら
 投開票日を過ぎてしまいましたw お粗末ですいません)


(次回に続きます)

ニュー・アース 第三章(6)

真実:相対的か絶対的か?

単純で検証可能な事実の場合は別として、「正しいのは私で、あなたは間違っている」
という確信は、個人の人間関係でも、国家や民族、宗教同士の関係でも危険だ。
だが、「正しいのは私で、あなたは間違っている」という信念はエゴが自分自身を強化する
方法の一つで、精神的な機能不全であり、人間同士の分裂と構想が終わらない原因で
あるなら、ふるまいや行為や信念には正しいも間違いもない、ということなのか?
(中略)
もちろん、真理は自分たちの側にのみ存在する、つまり自分たちだけが正しいという
信念は、行動やふるまいを狂気のレベルにまで堕落させる。

そのことはキリスト教の歴史そのものが如実に示している。教会は何世紀ものあいだ、
自分たちの教義や聖書(あるいは、「真理」)の狭い解釈とわずかでも違う意見をもつ者を
拷問にかけ、火あぶりにし、この行為は正しい、なぜなら犠牲者たちは「間違っている」からだ、
と考えてきた。
犠牲者たちはとんでもなく間違っているから殺されなければならなかった、というわけだ。
「真理」は人の生命よりも重要だとみなされたのだ。

ではその「真理」とは何なのか? あなたが信じるべき物語、つまり思考の塊である。
(中略)
カトリックその他の教会が、倫理的相対主義を現代の悪の一つと批判するのはなるほど
正しい。だが、絶対的真理はあるはずのない場所に探しても見つからないだろう。
あるはずのない場所とは、教義、イデオロギー、規則、物語などだ。
これらに共通しているのは何か?思考から出来上がっているということである。

思考はうまくいけば真理を指し示すが、決して真理そのものではない。
だから仏教では「月をさす指は月ではない」と言う。すべての宗教はどれも誤りであり
どれも真実で、どちらになるかはどう活用するかで決まる。

エゴの強化に役立てることも、「真理」のために役立てることも可能なのだ。
自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることに
なる。そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に
分裂や紛争を引き起こす。
 (中略)(p148-152抜粋)


もと宗教団体の一員として活動していた者としては、イタい過去の古傷を突かれる内容ですw
「絶対正義」を旗印としていれば、なんだって許されるんだ!くらいの勢いが、かの組織の
バリ活と呼ばれる人たちにはありました・・過去形。 今はどうなんでしょうかね?

”自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることに
なる。そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に
分裂や紛争を引き起こす。”

”優越感という幻想”=選民意識とも繋がっていると思います。
でも、あくまでもこれは”幻想”(だけど当事者はそれに気づかない)
かの組織の人たちの多くが「排他的だ」と世間一般から指摘されることに関しても、
上記スタンスで存在しているからでしょう。 
「絶対自分たち(の信じてるもの)が正しい」という思い込みは、理由なき無敵感を生むのですw

絶対的な「真理」はただ一つで、その他の真理はそこから派生している。その「真理」を
見出した時、あなたの行動はすべて真理に沿ったものになる。

人間の行動は「真理」を反映することもあれば、幻想を反映することもある。
「真理」は言葉で表せるか?表せる。だが、もちろんその言葉は真理そのものではなく、
真理を指し示すにすぎない。
その「真理」はあなた自身と切り離せない。
そう、あなたが「真理」なのだ。
よそに真理を探していたら、きっとだまされ続ける。
あなたという「存在」、それが「真理」だ。

イエスはこのことを「私が道であり、真理であり、生命です」という言葉で伝えようとした。
イエスのこの言葉は最も内なる「私という存在」、すべての男女、それどころかすべての
生きとし生けるもののアイデンテティの核心を意味している。
イエスはあなたという生命について語ったのだ。(中略)仏教ではこれを仏性という。
ヒンズー教ではアートマン(真我)。
自分の中にあるこの次元と触れ合う時ーこの触れ合いは本来の状態であって、
別に奇跡的な偉業ではないーあなたの行動も人間やモノとの関係も、
あなたが自分の内奥で感じる全ての生きとし生けるものとの一体感を反映するだろう。

(後略) (p152-154抜粋)


つまり、何かの団体に属すなり・師匠wに仕えるなりして
上からいわれるとおりにルーティンをこなすことが
"真理の探究"(=かの組織的にいえば、「信心で生命・心を磨く」など、目指すべき事)
にはならない・それは真理の探求ではない、ということです。
それをやっていたら・自分以外の何かに求めていたら、「騙され続ける」わけですw
だから、アンチに転じた人はまず最初こう思います
「宗教詐欺に遭った」「騙された」って。
私も、そう思っていましたw  
今だから「w」 とつけられるようになりましたが。

自分以外のところに真理を求めていたのは、いったい誰なのか? 
自分なんです結局のところ。
自分というか・・「自分の中のエゴ」と言ってもいいかもしれません。

生まれながらにして、親がやってたから・無理くり入会させられたにしても、
やらない人は一切活動なんてしませんし
それを信じることもありません(繰り返し恐縮ですが、私のきょうだいはそのパターンでした)。
子供の頃はイヤイヤやってたって、大人になったら自然と離れたとか敬遠するとか、
実家がやってるけど私は・俺は関係ないから!ってスタンスをとれる人もいるんですよね。
熱心な親族を見て、嫌気がさしてかえってアンチになるというパターンだってありますし。
(または猛烈なアンチだったのに、九死に一生を得るような「体験」をしたことから
 突如バリ活になってしまった・・なんてパターンもありますね。親戚にいました)
こればかりはもう、運なのか・何なのか。よくわかりませんw

うっかり信じてしまったのはなぜなのか。 その原因を掘るのも今後のためには一興かも
しれないのですが、自責や後悔の念が増し増し→過覚醒おこしてしまうくらいなら
掘らない方がいいです。

じゃあどうすりゃいいんだ!という人は、騙されたと思ってこの説を採用してほしい。
「ソーカを信じてしまったのは、私の中のエゴであって、私ではなかった」とw
(ソーカの部分は、詐欺師とか悪いやつ・悪い男&悪い女などをあてはめてもいいと思います)
前にも書いたように「エゴは他人事」なんです。

以下は「ニュー・アース」第二章(3)から抜粋部分↓

エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。


「そんなので納得できるわけねえよ!」って人は、それで全然OK。
ずーっと考えてぐるぐる、わだかまってください。
他人のせいや自分(だと思い込んでいるエゴの構成物)のせいにしていればいいのです。
または自分のお気に入りの「不幸な物語(ストーリー)」に執着していてください。
そうしている間ずっと、しんどいですけどね。
あくまでも状態を「選択」するだけだということに気づけば、無になります。

結局採用すべきは、肌感覚・本能だと思うのです。
此処を覗いてくださっている方々(組織とかかわりが大なり小なりあった人)も、
「あれ?組織がおかしい、なんか変だぞ?」との違和感は「肌感覚」-もっといえば「本能」に
訴えかけてくるサインがあったのではないでしょうか?
そのサインを信じて正解だったのです。
”あなたという「存在」、それが「真理」だ。”
とありますが、まさに自分の感覚・・ごちゃごちゃ理由・理屈・講釈なんていらない「直感」を
採用すればいいのだ、と私は解釈しています。
大義名分の付きまとわない、自然な思い・振る舞い=エゴのない選択といえるかと・・
自分に正直であること、とも言えると思います。
活動家時代なんて欺瞞だらけでしたから・・ほんと。 皆さんもそうでしょう?w
簡単にいえば、活動なんて心からやりたくてやってたわけではなかった、私の場合。
お題目を何時間もあげるっていうのも、正直「楽しい♪」なんて思ってなかったしw
「やってやった!」という自己満足・達成感はありましたが・・。
そうすることで「福運」が積まれると「思い込んで」いたから・正しい行いなのだと「思い込んで」
いたから、やりたくない(←これ本音)けど、やっていたまでです。
実はやらなくても死なない・困らないことを、やりたくないけどやっていた
それが自分の心を欺いていたのと同じだと今は解ります(当時はわかってませんでした)。
このあたりの「やりたくないけど~思い込み(観念)」を手放すことについては、
津留晃一さんの本が非常に解りやすいです。 
全部読んだ中で、私の一番のお勧め本は「津留さんが、心から伝えたかったこと」です。
図書館にも、あるところにはあると思いますが、
残念ながら一般の書店では販売されていません。
英光舎のHPから購入できます。興味のある方はどうぞ。

なお、補足ですが
皆に「おかしいぞ?」サインが来るわけではありませんし、サインが来ない人もいますし、
それでいいんです。
サインが来ない人(他人)にとっては、組織はパラダイスw だからです。
だからそこから他人をひっぱりだそうとか・目を覚ませ!!なんて、やらなくていいし
それは無粋なことですね。
「騙されっぱなしでほっとく気か!」なんて、正義感気取りの人も中にはいるだろーけど、
サインが来ない人(他人)は「騙されてる」なんて思ってないわけですから、大きなお世話です。
例えにはならないかもしれませんが、恋愛しません宣言のアイドルに投資している人たちと
(サインが来ないセンセイオクサマLOVEな人は)たぶん同じですw  恋は盲目。
見えているもの(世界)が違うのですから、外野がつべこべ言う問題ではありません。

非公開でコメントをいただいた中に、
親御さんが信仰を絡めて責めてきたり、脅迫的だというお話がありました。
学会家庭における「あるある」ですよね。
親御さんは「あなた」を責めているわけではなくて(そう見えたり・聞こえたりはするけど)
ただ、自分(親御さん自身)の不安を押し付け・ぶつけたいだけなんですよね。
信仰しないなんて不幸になる!怖い!って、思い込んでいる人たちは
自分の恐怖を一人で抱え込んではおけなくて、必ず相手に押し付けてきますw
「あなたのためを思って!」なんて、活動に戻れと家庭訪問にやってくる組織の人も同類です。
めんどくさいなーとか・いやな気分にもなるでしょうが、そっと右から左へと受け流し
”お父さん、お母さんは怖いんだね・・”って、心の中で静かに認めてあげてください。
そのことに対して何か言うとか・態度で表明するのではなく、ただ状態を眺めるだけにします。
そこでわだかまりを持たない(作らない)。
あくまで「恐怖」は親に起こってていることであって、自分ごとではないとわかっていれば
こちらの感情を揺らさなくて済みますね。 
自分が相手の恐怖を受け取らず、ただ落ち着いていられたらベストです。

私の母も、組織から気持ちは離れても、組織で叩き込まれた「宗教儀礼」に関しては
いまだに根強い恐怖感を抱えており
御書の一節を添えては「いちにも二にもお題目です」「題目だけはシッカリあげなさい」
とメールしてくるくらいですw
組織を離れても、母は一日も欠かさず朝夕の勤行はしており、それは別にいいのです。
母がやりたくて・良いと思ってやっていることならば。
(「やりたくて」というよりも「やらないことへの恐怖感」が上回っていると見えますが、
敢えて本人へ指摘はしておりません。自分で気づくのが一番なので・・)
ただ、どうしてそれを私にまで強いるの?!と、毎度軽くイラっとさせられていました。
(なので、上記内容のメールには返事をしませんw)
が、ある日気づきました「あー、怖いんだな、母は」と。
自分の恐怖感(=お題目をあげなくなると不幸不運に見舞われる・・という思い込み)を
押し付けてるんだな、と。
この思い込みって、子供が夜怖くてトイレに行けない・・って「お化け」と同じレベルの
お話です。
そんなのツイッターにでもつぶやいて自己完結しとけ!と、思わなくもないですがw
高齢母に対しそれは現実的ではないので
「怖いよお!って、言いたいだけなんだな、言わずにおれないよねー・・」と
そっと受け流しています。
長らくお題目なんてあげていないし、もう自宅に仏壇がないということをカミングアウトした
(ちなみに神棚のことは話してません・・転居先にも来たことが無い故、知られてない)
ので、母にとって私の所業は恐ろしくて仕方がないようです。
親の観念を子供に押し付けている典型的事由だな・・と感じるのです。

言わずもがな、親が子供の人生をコントロールなんて出来っこありません。
(自分の人生すら、コントロールなんて出来てないくせにね~!@親)
在る程度レールを敷くことくらいはできたにせよ、プレイするのは本人だから。
自分の子供たちに対しても、近頃はそんな思いがあり、
私の恐怖感を押し付けないよう・極力自主性を重んじるように接しています。

結局は、自分ではない「何(者)か」に、求めないことです。
答えはいつも自分の中に在って
生きている、この状態がもう「真理」で、ただそれだけなんだと思います。
そこを(エゴの考える)「正しい生き方」「価値ある生き方」だのと求め、
自分に何かが足りていないとか・何かをなさなければ自分は生きてはいけないとか・
なんにもできない・やってない自分は「罪人」だとか、
勝手に”思い込んで”いるから、おかしな方向に展開していったり・自分で自分の首を絞めたりも
するのであって。

静かに自分が「生きている状態(生命)」を感じ、見つめる時間を持つために
瞑想はあるのでしょう。 瞑想は、プレゼンス(臨在)に入る方法のひとつです。
頭の中のおしゃべり(エゴ)を黙らせた「臨在」の状態・・そこに「仏性」はあるとブッダは説き、
「真我 アートマン」があるとヒンズー教は説きました。

”自分の中にあるこの次元と触れ合う時ーこの触れ合いは本来の状態であって、
別に奇跡的な偉業ではないーあなたの行動も人間やモノとの関係も、
あなたが自分の内奥で感じる全ての生きとし生けるものとの一体感を反映するだろう。”


「この次元」=プレゼンス(臨在)です。
頭の中のおしゃべりを止めて、「いま」とひとつになる。
ただ自分は生かされている、生きているという状態に意識を向けることです。

以前も引用した、私の大好きな一節(であり、「ニュー・アース」の総論だと思っています)
”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに見えなかった”
”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。”

思考優位なうちは、これは理解できないだろうし、逐一エゴが難癖つけるでしょうw
けど、「思考を止めていまに在る」を続けていけば、ある日突然腑に落ちる時が来ます。
こればかりはもう、テクニックじゃないので・・そうとしか言えないw

誰かや何かのために生きなくていいのです。 自分のために生きましょう。


(次回に続きます)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。