2017年 ご挨拶

本年もよろしくお願いいたします。

すでにご報告した通りですが、2016年内に内容証明を発送+地元会館への連絡を通じ
脱会手続きを完了しました。
細かい話は、後日書かせていただきます。

今年のお正月も自宅で迎え、初詣は氏神様と一の宮神社へ出向きました。
帰省は2泊3日と短めの中、
初めて、自分の産土神社へ行くことが出来ました。

このブログを読む大半の御方が、創価家庭に育った人という前提のもと
「産土神」を説明しますが、自分が生まれた時に住んでいた土地を護っている
氏神様のことです。
私は福子ですから、お宮参りなんて当然していないわけで(汗)、
実家方面の神社についても全く知識なく・まず足を踏み入れたことがありませんでした。
昨年友人から「産土神参りもすると良い」と聞かされ、興味を持ち、調べたのです。
神社の名前を知って驚きました。単なる偶然ですが、私の現姓(苗字)と
同じ名前の神社だったからです。
なにか不思議な御縁を感じ。
参詣し、生まれてから今日まで生かして頂いたお礼を述べてきました。
それほど大きな神社ではありませんが、歴史は古く、多くの参拝客でにぎわい
地域の方々に崇敬を受けている様子がよく解りました。
そして子供たちのお宮参りも、実際の(居住地の)氏神様ではなく、主人の氏神様で
してもらったので、改めて先日、子供たちを連れて産土神へ参詣に行きました。
(注・絶対そうしなければならない、というものではありません。単に気の問題です)
今年は遠方に在る父方の親戚筋の神社へも、正式参詣する予定でおります。

さて、話は変わりますが、前回の記事に対して1件の質問コメントがありました。
非公開希望のコメントには返事をしないというのがマイルールですが、
この質問(疑問)は、多くの人が立ち止まっている個所かもしれないと感じたので
こちらで回答いたします。

その方は親御さんが強固な創価脳でお悩みとのことで、御自身の脱会を許してもらえないし
親御さんが組織を信じ切っていることがもう耐えられない。他人事だなんて放置はできない。
親と縁を切ってまで脱会する気はないし、親をほっとけない。
親と同時に脱会出来たら一番いいが、どうしたらいいのか?ということでした。
年代が書いていなかったのですが、たぶん成人した方だとおもいますのでその前提で
お答えします。

脱会については、してもしなくても、あまり変わらないと思います。
気の問題というか、地域の学会員が来るからうざいっていうのであれば
「脱会の意思がある。絶対訪問禁止・来たら弁護士に相談しちゃいますよ」くらい言いましょう。
あくまでも事務的に対応。まちがっても愛想なんてふりまかないでくださいw いい顔したら
つけあがることは、皆さんも知ってのとおりです。
訪問はスルーしているが、チラシを入れられて気持ち悪いとかむかつく、というのであれば
それは他のチラシ同様「ただの紙片」ですから、感情をはさまずにゴミ箱へ捨てましょう。
「創価関連のもの」って思うからわだかまるんです、多分。 
気持ち悪がったり・ムカついてる感情はあなた自身ではなくエゴですから、惑わされないでください。
暫くその感情を観察してみればいいのです、決して感情にとらわれないように気を付けてください。
これでひとまず平穏は保たれるはずです。
で、学会員のことはきれいさっぱり「忘れて」ください。
また来るかも、いやだなとか、意識するから来る(引き寄せる)んです。これは本当です。
そして脱会を本気でしたいのであれば、なにも親の許可はいりません。
気の向いた時に本部に内容証明を送りましょう。
親と同時に脱会するつもりなら、その時がやってくるのをただ待つしかないと思います。
親に働きかけることは何もしなくていいと思うし、あなたはあなたを生きていれば
自然とその時が来るかと思います。

こちらから逆質問をしたいのですが、
親御さんが脱会すればあなたの機嫌は直るのでしょうか?
親御さんが自分の思う通りになれば、あなたは幸せなんでしょうか?

その逆を、親御さんがあなたに望んでいる現実についてどう感じますか?
(=活動家として頑張ってほしいと思われている)
其処に矛盾が生じてくることに、気がつきませんか?
「創価がまちがってて悪だから、こっちが正しいから親に気付いてほしいだけだ!」
っていうのも、その逆を親御さんが望んでいる現実について考えてみてください。
互いの利害が一致しない以上、どこまでいっても平行線ですw
高次から見て、物事に良いも悪いもないのです。
そこを知っておけば、思考の背景が各自違うことが理解できていれば、
誰かを自分と同じ考えにさせようなんて、高慢な発想にはなりません。

私もそうだったからわかるのですが、私たち学会2,3,4世で
一瞬でもまじめに学会活動に取り組んだり、学会員として信仰活動してきた人間のほとんどは
そうすることで「親の機嫌を取ってきた」経緯がある。
その自覚は誰人にもあると思います。
(中には、親はたいしてやってなかった未活だったけど、家に女子部や男子部が訪ねてきて、
 自ら活動家になったってパターンの方もいるかもしれませんが)
たぶん親から勤行や信心のイロハを教わった人たちは、「それで親の機嫌を取ってきた」んです。
少なくとも、そうする(活動)ことで親が上機嫌になることはあっても、
不機嫌になることはなかったはずです。
(注:親子関係を夫婦間におきかえてもらっても、いいとおもいます)

親の機嫌を取ってきた私たちは、活動をやめたり脱会(決意)することで、
もう親の機嫌を取るのをやめました。 いわば自立、親離れです。
大人ならば、そこで終われるはずなんです。 自分は一人の人格者として、活動を拒絶した。
信じるに値しないって思って離れた。 それでいいんですよ、それだけで。

ここでさらに「親にも創価をやめさせたい」っていうのは、実は子供のわがままですw
大人になりきれてない、子供の側からの「駄々っ子」です。
「私もいい子にして従ってきたんだから、お母さんお父さんも応えてよ!」っていうアレです。
気付いてください。 私も長らくそれをやってました!(お恥ずかしい)。

そして親もりっぱな大人であり、一人の人格者として創価を信じています。
それがどんなに子供の側から見て間違いで・くだらなくて、腹立たしい事であったってw
親はそれを、人生をかけて信じている。
嫌だったら、少しずつでも離れて行っているはずです。嫌じゃないからついて行ってる。
一寸は楽しいのかもしれないし、心の支えかもしれないし、功徳を感じてるのかもしれない。
御近所づきあいの一環もあるかもしれないし、親子とはいえ自分以外の他人の心の中なんて
はかりようがありません。 
盲目状態で目覚めないのには、それなりに理由も条件もあるのです。
かつての自分たち(活動家からアンチへ転じた、離れた)と同じように、です。
だから、そんな「他人ごと」にわだかまるだけ時間の無駄です。
そんなこと考えていらつく暇があったら、自分の機嫌を取ってください、全力で。
好きな飲み物をのむもよし・おやつをたべるもよし・マッサージに行くもよし・好きな音楽を聴き
リラックスするのも・DVDを見たり・好きなマンガを思いっきり読むもよし。
好きな場所へ行ってのんびりぼーっと過ごすとか、欲しかった物をひとつ買うとか、
出来る範囲で、なんでもいいので気分を「上機嫌」に変えましょう。
嫌な気分を引きずるのも良くないし、我慢するのも良くないから「気分転換」してください。

親が創価脳である現実は、文字通り「親」のものです。
あなた自身とは関係がありません。
(このあたりのことは「ニュー・アース」を読めば簡単に理解できると思います)
あなたが親の「現実」を気にするから、それが自分の世界に入ってきて、うっとおしい事になって
いるだけです。 
(親とか他人だけではなく、創価組織そのものも、あなたとは関係がありません。
 創価の「現実」を気にするから~以下、上記と同文)
そしてそれをさせているのは(繰り返しですが)エゴの仕業です。
エゴは問題を作り出したいし、わだかまりたいし、悩みたいんです。
自分が幸いな人であるという事実をそう簡単に認めさせようとはしませんw
エゴとは、そういうもんなんです。 だからみんな、問題でないことを問題にし・悩みにし・
不平不満を抱えて最終的には宗教にハマるんですw
詳しくはこれから先「ニュー・アース」の続章で書いていきますが、上記エゴの動きの基本を
覚えておいたらいいと思います。

自分以外の人に、自分のご機嫌取りを求めるのはやめましょう。
今更親や他人に、自分の機嫌を取らせようなんて、思わないほうが賢明です。
相手に求めてるうちは、安定感もないし、幸せをいつまでも探し続けることになります。
「親の脱会が自分の幸せ」なんて、幸福に条件をつけているのは、エゴの仕業です。
他人のことはほっといて、自分が「いま」安らぎを感じられることに全力を傾ければいいんです。
自分の機嫌は自分でとるのが一番です。

「ニュー・アース」にも書かれているのですが

エゴには他者が必要なのだが、しかし深いところで他者を憎み恐れているという
ジレンマがある。(中略)
あなたのなかのエゴが強ければ強い程、人生でぶつかる問題は誰か他人のせいだと
思うはずだ。
それに、きっとまわりの人たちに生き難い思いをさせているだろう。
もちろんあなたはそれに気付けない。いつも苦しめられているのは自分なのだ。
(p246抜粋)


「他人に嫌な思いをさせられている、人生を狂わされている」と思っている人は
自分の人生を生きていない・・我慢ばかりして、勝手にネガティブな思い込みで見通しを
悪くして、自分が自分をつかまえていない(「いま」にない)状態で、
他人の動向ばかりを気にして・自分がどうしたいかよりは、他人の反応ばかりを憂慮している・・
まさに、エゴに振り回されているパターンだと思います(それが、以前の私でした)。
ここが解ったら、すべては独り相撲だった!ってことに気づいて、脱力するし笑えますよ。
そして自分が自分に優しくなれれば、しっかり自分をつかまえて「いま」に在れるようになれたら、
目の前の現実も優しい・穏やかなものになっていきます。

今年も「ニュー・アース」を通して、私の経験や思った事を交えながら
わだかまらない生き方をお伝えして行けたらと思っています。

皆様にとりましても、自分史上最高に面白い2017年になりますようにv


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2016年 感謝

今年も、拙ブログをご覧いただきありがとうございました。

2016年は私にとって、大転換期でした。
ブログの路線も、6月以降大きく変更しましたが
それでも読み続けてくださる人が沢山いらっしゃった事が、嬉しかったです。

今年に入ってエックハルト・トール氏の書籍を読み、その叡智に触れ気づいたのは
「創価脳もアンチ創価も、自分責めという一点において根っこは同じ」だという事でした。
だからずっと腹を立てているし、わだかまってるんだなーと、そのメカニズムを理解しました。
そして概ね「自分」をみていない。
他人の事ばっかり気にして、他人のことばっかり問題にして、心配したり不安になったり
軽蔑したり腹を立てたり、イライラし続けている。
私も以前はそうだったので、気持ちはわかるのですがw

エックハルト・トール氏の語る「今にある」状態とは、どういうことなのか?
4月以降、思考を止める(~とエゴが申しておりますと思考の語尾に付ける)ことから始まり、
副読本に津留晃一さんやバシャール、心理学者の大嶋信頼さんの著書を読んだりして
自分なりに理解を深め・実践してきました。
そうして徐々にわかったのですが、
「今にある」状態とは一言でいえば「調和」です。
「自分自身にわだかまりのない状態」です。

それでブログタイトルを「わだかまらない生き方」に変えました。

ブログ拍手やコメント欄からお悩み、質問を頂く中で、思い当たったことがあります。
全てに繋がることですが「自分」がどうしたいのか明確になってなくて、「他人」ありき。
「いま」にない事を問題としている方が多いな、と感じました。

ニュー・アース記事のなかでも書きましたが、「いま」困っているかいないのか。
「いま」問題としていることが、どう自分を苦しめているのか、いやな思いにさせているのか
わだかまりを生んでいるのか、ちょっと立ち止まって解析してみると良いと思います。

なんにでも言えることですが、このブログはもともと創価の家族問題を扱ったものでしたから、
「わからずやの創価脳な母親・父親・身内・外野」で例えてみましょう。

お父さんが「信心しないお前なんて無価値」だという から むかつく。
お母さんが私に悪事が起きると「それみたことか、題目あげろ」という から むかつく。
両親が今年も財務で3ケタをおさめた から むかつく。
バリ活の兄姉妹弟が「信仰から外れるなんて堕地獄だ あとで泣きを見るぞ」という から むかつく。
組織の人が「あなたのためを思って言ってる」「罰が当ってからでは遅い」と引きとめる・
しつこい家庭訪問をやめてくれない からムカつく ←はっきり「迷惑です来ないで下さい」と伝えましょう。
バリ活ブロガーが組織をたたえるような駄文を書いている から むかつく。
大本営の先生会長職員どもがシンプルにむかつく。

私の今の想像力では上記くらいしか思いつかなかったんですがw パンチ効いてなくてすいません。

で、これ青文字が主語なんですけど、気付かれましたでしょうか。
ぜんぶ「他人」に反応してるんです。
「わたし」じゃありません。

「他人」がやること話すこと(=客観的事実)に対して
「わたし」がむかついてるんです、勝手にw

これを「いま」にあてはめて考えるとき、
嫌な思いを「他人」からさせられている、と感じる底の部分・
反応(イライラざわざわむかつき)のトリガーを見てみれば
たった「いま」問題ではないと気付くことができると思います。
だって、原因は「他人」だから。
で、「わたし」が勝手に「他人=外側」に翻弄されてイライラしているだけの話。
他人=外側に翻弄されてイライラ」しているのは、まぎれもなく「思考(エゴ)」だから。
そして「思考(エゴの声)」は「わたし」ではないから。
「いま」=「わたし」は、実はなにも困ってないって、これで解ると思います。

(↑ここで「でもでも、だって~!」とゴネ始めるのも、
 あなたの底の部分にある原因が織りなす「エゴの声」ですから無視してください)

で、反応(イライラむかつきざわざわ)のトリガーとなる、底の部分にあるものは、
9割がたが「自分への罪悪感・無価値感」です。

元創価脳の方は、創価脳だった頃は「使命感」に燃えて生きていたと思います。
自分が誰かを幸せにできれば、誰かの心に灯をともせれば、
小さな事柄が大きな連帯となり世界も平和になって
ひいては自分も幸せになれるって信じて頑張っていたと思います。
「崇高な使命感」ありきの、自分だったと思います(=私もそうでした)。
それがいったん、打ち砕かれて、野に放たれて「役に立てない自分は価値がない」と
無意識のうちに、思ってしまってる人もいるかもしれません。
また、色んな意味で絶望を感じ、「自信」を失った方も多いと思います。
あれだけ長年創価を熱く語り、正義だと周囲に訴えてきた自分があっさりそれを裏切った、
そんな自分は罪びとだ、と無意識に思ってしまってる人もいると思います。
「自分が悪い」と思っているんです。
「自分を責め続けて」いるんです。

そうは言いつつも自分を悪者にしたくないから、
創価や身内を憎んだり攻撃しないと、やってられないという複雑な「仕組み」です。

親兄弟が創価をいまだに信じていることが腹立たしくてならない、気になって仕方がないのは
自分が罪悪感を手放せないからです。
(親を裏切った悲しませたという罪悪感と同時に、福子であるがゆえトンデモ教義を信じきって
 しまった自分への処罰感情などなど)
創価関係者の外野に気分を乱されたと感じるのも、罪悪感が根っこにあるからです。
関係者の動向が気になって仕方なく、監視&批判し続けないといられないのも
罪悪感が根っこにあるからです。
それをきれいさっぱり忘れてなかったことにするなんて、できません。
だって「そうして創価や身内や外野を責めている自分」がアイデンテティになってるから。
それを失ったら、立っていられないって「思いこんで」いるんです。
誰が?エゴが、です。 エゴは放下に耐えられませんから、ネガティブを絶対手放そうとは
しません。存在意義を失うことを、世界一恐れているからです。

で、果たして本当のあなたは悪人・罪びとなのでしょうか?
そうだと思い込んで、勝手にそう決めつけているのは、
実は自分(あなたのエゴ)ではないでしょうか。
(親・身内から言われた等あるかと思いますが、それは外野の声なので無視してください。)

「周りが・親が・あいつが悪い!」と思っている間は、残念ながらなんにも変わりません。
なぜなら、それは巧妙な「自分責め」だからなんです。
「自分が悪い」をこじらせて周囲を責めている。解りにくいんですが、本当です。
続ければむしろ、自身を取り巻く環境はどんどん悪くなっていきます。

エックハルト氏が「ニュー・アース」で教えてくれているのは、
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、
根源的に満たされている真実に気づく
ことの大切さです。

エックハルト氏が提唱する「思考を止める」とは、一番てっとり早い「自分責め」を
止める方法です。
無意識に四六時中なされている頭の中のダメ出しを止めるわけですから、効果絶大です。
前々回記事でも触れたように、
私たちは誰人も「大いなる存在」に生かされています。
そして何があっても、生きて呼吸が続いている間は
「大丈夫」なんです。
あなたの存在こそが「大いなる喜び」です。
そこになんの条件も理由もいりません。
この絶対的な生命への信頼感を、まず知ってほしいと思います。
 
生かされている、その奇跡と幸いの前に、責められるべき理由なんて何もありません。
そして何かを成さなければ・役に立たねば無価値だということもないのです。
(自分の思考が勝手に評価を下しているだけです)
誰人も生きているだけで、根源的に満たされています。

そして、周りに影響を受け・翻弄されているうちは、なかなか心は安定しませんし・
「わだかまらない」で過ごすことはまず困難だと思います。

どうしても人というものは、外側の現象ありき・目に見える状態(現実)ありきで
「自分が祝福され・認められて此処にいる存在か」を判断しようとします。 
実際それがわかりやすいですしね。
けれど、外側や他人に「祝福の証拠」や「幸せ」を求めているうちは、不安定なわだかまりの多い
生き方になりがちです。
外側や他人の承認という「条件」がなければ「幸せ」で「満たされ」ていられないのなら、
それが無くなったら不幸や不安・欠乏感に陥るのは明白だからです。
この記事でも書いたように、上記は「外付けパーツ」です。

結局は「自分が自分を認め、励まし、肯定し、自分を心地よくいさせる」ことにしか
揺るがない調和はありません。 他人や周りは全く関係ないのです。
「いま」にあることの真髄は、上記太字部分だと思っています。

自分が自分と調和出来ていれば、満たされていれば、周りのことはほんと全く気にならなくなりますよw
面白い程です。
そして、周囲の人間の状態は、あなた自身の幸・不幸には全く関係ありません
勝手に他人の現象を見て引っ張られて「不安」や「不幸」を感じるだけで、実際は「凪」です。
(だから親兄弟が創価脳でも、あなたが悩む必要はありません。
 あなたがそのことを一切問題にしなくなったとき、勝手に親兄弟は目覚めます。)
自分が自分の内面を、なだらかなものにできた時、現実や環境もなだらかで心地よいものへ
自然と変化しています。 

とりあえず、周りのことは忘れて棚に上げて・
自分責めをやめて、自分に優しくしてみるところから始めてみるといいと思います。
自分に集中し、自分と仲直りすることです。

”お父さんがお母さんが、身の回りの人すべてが創価を脱会することが自分の幸せだ!”と
思っている人は、それが達成されない間は不満・欠乏感にさいなまれ続けるでしょう。
とっととあきらめて、もう自分が幸せになってください。
自分の状態はコントロールできても、他人の生き方をコントロールしようなんて思わないことです。
勿論、わだかまって欠乏感だらけの自分が好きで・それを楽しんでやってるなら止めませんよw

まだ紹介出来ていないのですが、「ニュー・アース」(p238)に
「いま安らぎを得るにはどうすればいいか?
 いまという瞬間と仲直りをすることだ」
という一文があります。
今年の4月に読んださい、一番衝撃を受けたのがこの言葉でした。
今の”自分”と仲直りすること、と解釈してもいいと思います。

人生も現実も、私たちがかつて組織で洗脳されていたような辛く厳しい「濁世」なんてものではなく、
本当は、優しいんです。
自分がどう見ているか、ってそれだけの話です。
これは日蓮も語っていたことで
「餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随って別別なり」
自分の意識状態がどこにあるかで、目の前の現実は変幻するということです。
けどなにも、お経を唱えたり特別な活動が必要なわけじゃないですよw(前回書いたとおり)
意識の使い方ひとつ、心のありかたひとつ、自分の思い込みを変えるだけの話です。
そのために必要なことは「自分自身にわだかまらないこと」です。
(たまたま、日蓮御書を思い出したので、いい部分を引用してみました。
 日蓮の言葉は真髄をついたものも多くあります。が、なにがなんでも自教が正しくて
 他は全部アウトって言っちゃったところや、過去世による自分責めが「前時代的」で
 今の時代にはそぐわないな、と。
 まだ総括できるまでに至ってませんが、いずれ私の考察も述べてみたいと思います)

えらく長文になってしまいましたが
一人でも悩める方が、少しでも気持ちを楽にするきっかけを
これからも伝えられたら幸いです。
来年もマイペースではありますが、更新していきますので
よろしくお願いします。

良いお年を迎えてください。ありがとうございました。

追記:今月申請完了し、脱会者となりました。近々、プロフィール書き換えますw

2016年 御挨拶

新しい年が明けました。
全国的に暖冬、好天に恵まれた2016年の幕開けでしたね。
いかがお過ごしでしたか?

さて、私は例年、暮れから実家方面へ帰省をしますが、今回は新居にて
家族だけの年越しをしました。
結婚から十年以上になりますが、今回初めてです。
元旦の初詣もこれまた初めて、自宅付近の氏神様へ家族で赴き。
この氏神様へ、引っ越した直後から毎月一度お参りで訪れています。
新居には仏壇・ご本尊は持ち込まず、新たに神棚を祭りました。
神棚といっても、かしこまったものではなく現代風のコンパクトな物です。
(興味のある方は、福島いわきの木工職人集団moconoco(モコノコ) 神棚 で検索してみてください)
その際、お札を頂いたのが、現在地の氏神様でした。
引っ越しを決めた際、この神社について特に調べたり・意識もしませんでしたが、
訪れて御由緒を知ると、不思議なご縁を感じ。
偶然ですが、子供たちの命名に込めた意味と通ずる由縁があり、驚かされました。
引っ越してより、心静かに日々暮らせているのは、こちらへ月一度のお参りをし
周囲に感謝できる心を取り戻させてもらっているからかな?と感じています。
お参りを終え、最後に鳥居に一礼するとき、不思議と頭がすっきりしているのです。
心のお掃除、という感覚で、心を糺すためのルーティンとしています。

創価脳時代のような「おすがり信仰」や「必死さ」とは、まるで無縁の参詣。
神社への参詣を開始し、いかに創価脳時代の自分が「強欲」で「独りよがり」「独善的」だったかを
思い知らされ、己を振り返ると恥ずかしいし、反省しきりです。

年が明けてすぐ、帰省。
義実家へ挨拶のち、実家へ向かい、2泊してきました。

年初のビックリは、母が姉と共に元旦の新年GG会に参加したという話。
姉からきいたところ、母が車を出してくれと姉に頼んできて、姉は渋々OK。
送迎だけのつもりが、母が駐車券を持っており、車で待機している・・と言える状況でなくなり
(駐車場係の創価班がうろついている中で、注目されるのが嫌だったとのことw)
一緒に会館に入る羽目になったが、会合中は目をつぶってなにも見ないように・
聞かないようにした。
正座が限界になり、先に退出し車で待機した(最後まで参加しなかった)とのこと。
新年からお疲れだったね!と、労いました。

自発的に会合参加を減らしている母ですが、新年GG会はスルーできなかったようです。
理由を尋ねたところ
「初詣(へ神社や寺)に行くわけにいかないし、私の新年初出式はGG会しかない」
ということでした。
母の学会員としての長い歴史の中で、昔は日蓮正宗菩提寺への参詣があった。
新年を迎えられた喜びを、お寺で感謝申し上げる事ができた。母にとり、立派な年中行事であった。
それが宗門と学会の決別があり、お寺への参詣は出来なくなり、会館での新年GG会が
母にとっての年中行事になり変った。
創価学会に対して、思うところがあったって、心のよりどころとしての「場所」「聖地」が
大石寺や菩提寺でなくなり(ある意味、創価に其処を奪われ)、20年以上経過する今。 
消去法で、現役学会員の自分にはけっきょく会館しかない・・という思いのようでした。
(参加しないと、地域メンバーからあらぬ心配をされてしまうという懸念もあったようです)

なんというか、一人の純粋な(?)信仰者が、創価組織に懐疑的な思いを抱きつつも、
もういまさら寺には戻れない・何処へも行き場がない・・。
年始から学会員のツイートやネットでの発言を読んでいて、
ここ最近(とくに昨年の、安保法制をめぐる学会本部のグダグダっぷりから)学会に対して
欺瞞・疑問を抱いている人たちの、何処へも行けなさ(または、自己流解釈で痛々しいまでに
なんとかどうにか、組織に居場所を見つけようとしている)を感じ、
結果、純粋な信仰者が置き去りになっているんだな・・と感じました。
自己矛盾・ダブルスタンダードは、それこそ大昔から学会のお家芸ともいえるものでしたが、
此処へ来てあからさまに、わかりやすく表出してしまったことで、組織が揺らいでいる。
その中で、純粋に日蓮仏法を求め・心のよりどころとして生きている人たちの心の部分が
翻弄されているように、思います。
その事について、組織はこれまでの「なぁなぁ」を改め、金にも集票マシンにもならない会員は
ばっさり切るべきだ、と私は思います。
本性を丸出しにして、”金と集票につながらない会員はいらねーよ!イエスマンしかいらねーよ!”と、
正面切って表明してほしいw
もはや「心」を大切にするような、団体では無く。
純粋な信仰者である会員に対し、不誠実が過ぎるのではないか?と、
ここ最近の状況を見ていると、そう思えてなりません。

↑こんなことを書くと、私が学会改革派だとかカンチガイされる方もおられるのですがw
(なにをどう読めば、そうなるのか解らないのですが・・たまにいます、そーいう感想くれる人)
そのようなつもりは一切ありません。
まだかろうじて、籍はありますが、学会とは一日も早く縁切りしたいと思っております。

私が覚醒してすぐの頃(2012年秋~)、個人信仰を志した時期があったのを思い出し。
儀礼的な事柄において、個人信仰は行き場がないな・・と軽く行き詰ったことを思い出しました。
心は日蓮大聖人を求めていても、正宗に戻るには躊躇があるし、ハードル高い。
仮想的との闘いなんて、やってることはさほど学会と変わらない。
しかしもう、学会にその拠り所は求められない。そう考えた時、
私はネットで日蓮宗や、日蓮フォロワー的な小さな宗派なども調べ、自分の求める信仰に
見合ったところ(団体や寺院)は無いものか・・と、探したこともありました。
そうこうしているうちに、選民思想が崩壊し、現世利益を追う日蓮仏法そのものに疑問を感じ、
なにも団体や寺に依る必要はない。日蓮に帰依するのも違う。と、卒業できたのですが。

母が、どんな変遷をたどってゆくのかは、これから見守って行きたいと思いますし、
順を追ってブログにも記していきます。

2016年、皆さまにとりまして、健やかで素晴らしい年になりますように。
本年も、よろしくお願いいたします。

2015年 感謝

今年も、拙ブログをご覧いただきありがとうございました。

更新頻度を上げるのが年頭の目標だったのですが、振り返るとさほど進んでおらず(汗)
年の瀬も押し迫り、慌ててこの記事の下に
「創価脳な親との関係」カテゴリの新記事をUPしました。

先の記事にも少し書きましたが、2015年は創価脳の母に明らかな変化がありました。
現在の母は、やんわりと非活の道を歩んでいます。自らすすんで、です。
これは昨年の暮れには考えられなかった事態で、私も大変驚きつつ、喜んでいます。
まだ、脱会への道のりには距離があるという感じですが、時間薬が効力を発揮することを
静かに見守っている。そんな現況です。
どうしてそこに至ったのか、早く書きたくて気だけは急いているのですがw
要因をひとつ書くと、「集団的自衛権」を巡る創価の対応と・熱心(?)な会員との
攻防を見聞きしたことにあります。
これは、私には物凄く意外&想定外なことでした。
その話を早く書けるように、来年の更新頻度をあげるべく・
内容を簡潔にまとめるべく(←実はここが難題で一番手間取っておりますが)頑張ります。

閑話休題
今年、私が最も感銘を受けた、大前研一さんの言葉を紹介します。

人間が変わる方法は3つしかない。
1番目は時間配分を変える。
2番目は住む場所を変える。
3番目はつきあう人を変える。
この3つの要素でしか人間は変わらない。
もっとも無意味なのは、「決意を新たにする」ことだ。


これぞ、創価脳や仏罰恐怖症からの脱却にぴったりの方法論だと、感嘆しました。
(いや、そんなつもりで紡いだ言葉ではないとは思いますがw)

1番目の時間配分を変えるというのは、創価関連に割いている時間を
まったく別のことがらに費やすといった意味で捉えられると思います。
ごん行唱題に費やしていたその時間を、読書の時間に充てるとか・30分長く朝寝するでも
いいですしw
会合に出ず、別のことを始める。仕事でも習い事でも、ウォーキングでもなんでもいいと思う。
時間を、自分の好きに計画的に使う。これは洗脳を解いていくための第一歩です。

2番目の住む場所を変える。これは様々状況があり簡単ではないかもしれませんが、
組織から足抜けしたい時には一番最適な方法だと思います。
広義でとれば、一切活動に出なくなることも「住む場所を変える」に等しいかもしれません。
自分の生きる大事な場所は、学会世間ではなく他のフィールドにある、と捉え
ごく普通の生活を取り戻し「居場所」を変えることは、呪縛からの解放に有効です。

3番目のつきあう人を変える。
創価同志から離れ、外部と積極的につながり触れ合っていくことは、
偏狭特殊な世界観・価値観を打ち破るためにも肝要です。

そして一番刺さるフレーズが、「もっとも無意味なのは決意を新たにすること」w
創価では「決意」という言葉を好んで使います。常套句です。
あらゆる機会を使ってとにもかくにも、会員に「決意」させようとします。
それは主に会合席上であったり、幹部との語らいや指導中であったりと様々ですが、
あくまでも「創価信仰」というフィールド内においての決意であり、決意との言葉を使いながら
その実は、お飾り師匠&組織への忠誠を誓うものなのです。
それは「もっとも無意味な事」・・w その通りだ!と感心した次第です。

総じて人間、環境と生活習慣を変えないことには、変われないという事なのだと思います。

覚醒から3年経過した私の2015年は、後半に思いもよらない出来事がありました。
そのせいで、ある計画が完全に白紙となり、少なからずショックをうけました。
当初は落ち込み、どう気持ちを切り替えたらいいのかわからず、悩んでいましたが
ふとしたときに、あれ?これって角度を変えて考えれば、最終的には私の思い通りの方向へ
進んでる・・?こうなればいいのに、と願ってきた事に近付いてる!と気付いて、驚きました。
抽象的なかきかたで、なんのことだかさっぱり伝わらない文章ですみません。
創価脳のままであれば、私はこの出来事を悲観で捉えたし、それこそ「仏罰だ」と思ったかも
知れない。
その原因を信仰の中身に探ろうとしただろうし、問題解決の策として題目をあげたり・
場合によっては活動に復帰したりしたかもしれませんw 
そんなこと、ひとつも、なんの意味もなさないのに。
そういった思考習慣から完全に抜け出して、落ち着いて、多角的にものごとを見られるように
なったことが3年目の大きな収穫です。
そして、組織で言う仏罰なんて、やっぱりありません。

来年も、ブログを書き続けますので、時々のぞいていただければ幸いです。

みなさん、よいお年を迎えてください。

2015年 御挨拶

遅れ馳せながら、2015年も宜しくお願いいたします。

年末にいただいたコメントのお返事が出来ていない体たらく、申し訳ありません。
(今週末に書かせていただきます)

今年のお正月も、帰省ついでに主人の氏神様へ初詣に行ってきました。
私が義実家の初詣に参加するようになって、三度目です。
子供達もしっかりとお作法を覚え一人で出来るようになり、健康面や習い事の上達をお祈りしたと
それぞれ話してくれました。

そして居住地に戻って、私一人で地域の神社に初詣。
以前記事にも書きました、2013年夏に御祈祷(お祓い)を受けた神社です。
その際に頂いたお札を返していない事が気になっており、出向きました。
お返しし、新たに御祈祷を頂こうと社務所の方に尋ねたのですが
(社務所の方が、前回が災厄祓いの御祈祷だったことをふまえて)
「今日されてもいいですが、2月に節分行事(大祭)がありますよ」とご紹介頂きました。
無知でお恥ずかしい限りですが、節分とは年の災厄をはらうというまつりごとなんですね。
有名神社で豆まきをおこなう芸能人の映像をワイドショーで見る機会はありましたが、
なぜ・どういった目的でそれが神社で行われているのか考えた事もありませんでした。

決して押しつけがましさはなく、こちらのニーズ(?)に沿った案内をして下さった、
この社務所の方とのやりとりにおいて私は感心したのです。
なんというかとても「心」の通ったやりとり、私にはそう感じられました。
神社で行われる節分行事とは一体どんなものなのか、参加してみたいという興味もあり
新たな御祈祷は2月3日にお願いする事にしました。

創価脳だった頃、こういった神社・寺院の厄除け行事的なものを「邪宗の金儲け」なんて口汚く
罵っていました。
つくづくも、馬鹿で無知だった、創価活動家時代の自分。
ひとつひとつの行事を誠実に・粛々・連綿と、長きにわたって続けて来られている神社・寺院。
ただ人々の咎をはらうため、心の平穏・人々の平和を願い行われている。
参加は誰でも自由。真に開かれた宗教とは、こうあるべきでしょう。

私が2月に参加するつもりの大祭、祈祷料は「一口千円」
祈祷料はその人の思いなので、何口でも構わないとのこと。
けっして一口一万円からなんて法外なことは言わないのです。
金額で人生が変わる、3桁に挑戦!なんて下品なことも仰らない。
そして、こういった神事は「選挙があるから」なんて理由で延期・中止になったりしませんw
やっぱり創価は宗教では無かったんだなぁ・・と、しみじみ思うのです。
「こじらせ系自己啓発セミナー(ボッタクリ)」とでも呼べば恰好がつくでしょうかw

さて、正月は実家にも帰省。
多くのブロガーさんが話題にされていました、箱根駅伝。
復路の中継を実家で母と一緒に見ました。
こういった場面でも、脳内花畑パワーは全開なんだなぁ・・と、ある意味感心してしまったのですが
私の母は、刻々と過ぎて行くレースの中間報告のたび「創大はO位に上がってるでしょ?」
と、順位がヒトケタ台に上がっている事を期待していたのです。
結果は皆さんご存じのとおりで、序盤から終盤まで、最下位を這う展開。
やっとの思いで初の出場権を掴んだルーキー校。
はじめの第一歩・記念出場といっても過言でない。
はなから最下位に沈んでいたとしたって「出場できたことがラッキー、足がかり」くらいに捉えるのが
妥当ではないか。
これは特段創大に限らず、どこの大学であっても、同じ事だと思うのです。
私は何度も「順位上がってるでしょ?」と確認する母のことが、滑稽でならずw
思わず聞いたのです「なんで(順位が上がっていると)そう思うの?」と。
すると母は自信満々に
「だって創大なのよ。日本全国の同志が祈りを送ってんのよ!負けるわけがないでしょ!」と答えました。

wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
(無駄に草生やしてすみません)

はい出ました、ミラクル発言。

やっとの思いで出場を掴んだルーキー校(実力は到底他大に及ばず)であっても
「日本全国の同志が祈りを送る」と、順位を上げて行く・走者のタイムが速くなると信じているwww

めでたすぎるよ、お母さん。
いくらなんでも、そんなことはありえない。

冷静に、状況を説明してやりました。
やっとの思いで掴んだ一枠なんだ・他大と比べて(大学駅伝における)歴史もないし
スキル・ノウハウ的な蓄積もない(おそらく)。
本当に冷静に。たとえば自分の出身大(創価ではない)が箱根駅伝に初出場したとしよう。
私だったら思います「出場できただけでも万歳だよ。よくがんばったね」と。
順位結果なんて関係ない。その場所へ辿りつけただけでも凄い事だよ。
ここからちょっとずつでも上がってこ!と。
おそらく普通の人(誇大妄想や選民思想を持たない人)も、おおむね上記の感想をもつのでは
ないでしょうか。
一般常識的に考えて、最後の一枠をやっとこ掴んだ学校に過度の期待をよせるなんてしないでしょう。

けど母は違ったのです。
日本全国の学会同志がお題目を送り応援しているのだから、最下位はないだろう。
ミラクルは起こる!(なんだったら初出場・初優勝もありうる)と思っていた。
実力云々なんて関係ない。祈りの力が不可能を可能にするんだ! そう思っている風でした。

途中から皆で外出したため、生中継を最後まで見ることは出来ず。
夜半帰宅してテレビのニュース番組をはしごしながら、創価大がそれほど扱われていない事について
母は不満げでした。
「全国同志が見ているのに、もうちょっと映してくれなきゃ苦情くるわよ!」とw
まるで自分たちが世界の中心・・とまでいわずとも、決してマイノリティだとは思っていない。
世間に確実に影響を与える層なのだ、という自信確信は、先の選挙結果からきているものなのか?
駅伝のことなんて何もわからない・知らない。だのに創価だからという理由だけでミラクルが起こる!と
そこまで思いこんでしまえる、この心理状態って一体なんなのだろう・・。
統合失調症ってこんなかんじ?
などと、新年から深く考えさせられました。

もちろん学会員のすべてが母と同じ考えを持っているとは言いません。
それはさすがにないと思いますw
私の母が、ちょっと行きすぎた誇大妄想の持ち主だという事と、
その誇大妄想を際限なく膨張暴走させてしまうのが、創価のトンデモ教義なのだと認識しています。

時系列で書いている記事は、2013年11月頃まで今来ています。
そこからもう一年あまりが経過し現在、上記のとおり母は創価脳のままですorz
記事にしていない14ヶ月ほどの間、母と様々話をしてきました。
その過程で、一撃を与えられたかに思えたやりとりもありました。
が、上記のとおり、母は覚醒とは程遠い状態に有り、いまだ創価というフィールドに居続け
そこから出ようとも・動こうともしていません。

これはもう、結論に近いことかもしれませんが、私は母の精神疾患を疑っています。
覚醒させる云々の問題以前に、「病」なのだとすれば、別のアプローチが必要なのではないか。
そう考えるに至った、2015年1月現在です。

早く記事が現在に追いつくように、更新頻度をあげる・・今年の目標にしますw

2015年、健やかな善き一年としていきましょう。