他者の人生に軽率に関わるということ④(完)

※この記事の下に③があります。そちらの続き記事となります。


もし私が、いまも目覚めないまま創価脳であったならば、彼が店をたたむに至った事を
マイナス評価で受け止め、「私があのとき折伏できず、宿業を切ってあげられなかったからだ」
と自分を責めたかもしれません。
彼に信仰を保たせる事が出来ていれば、今もサロンは繁盛しオーナーとして辣腕をふるっていたかも
しれないのに・・と至極勝手な妄想で、彼を折伏出来なかった事を悔やんだと思います。

しかし仮に私が折伏を実らせていたとして。
彼が同じ人生のバイオリズムを辿っていたならば(サロン閉店)、私はどうしていただろうか?
「また宿業、出てきちゃったね。でも大丈夫!乗り越えられるよ!一緒にお題目あげよう!」
そんな(無責任な)声かけ・励ましだけで終わるのが関の山では無いのか。
励ましだけなら、そこに信仰が介在しなくても十分できることです。
そして無事に転職を実らせたら「やっぱり信心していて良かったね」と言ったかもしれない。
又、転職も決まらず・なかず飛ばず・彼が低空飛行をずっと続けたならば、私はどう思ったのか?
具体的に何かをしてあげられたのか。
お題目をあげ・励ましの言葉をかける、それ以外どうしようもない。
私にも家庭があり家族がいて、そこをないがしろにしてまで「折伏の子」の面倒をみるなんて
当然ながらできっこありません。
女子部当時の私は身軽だったし、将来家族が出来たとき、折伏の子の面倒などみられなくなるという
「想像力」も完全に欠如していた。
自分は万能の・自由自在な存在ではないのに「ミラクル」ありきで行動している為、そんな先の
環境変化まで全然考えちゃいなかった。
というよりも「信心すれば幸せになる・何事かあっても乗り越えられる」との法則のみで動いていたから
現実的な事なんて想像もしない。
また補足として、当時私は2人目の友人へ折伏を実らせた後であり、彼女は悩みを解決・
次々に願いをかなえ、活動家として頑張っていました。
それは「偶々」であり信仰功徳というよりは、彼女自身が元々もっていた素質によるものだったと
今は理解しているのですが、当時は「信仰によって彼女が出した結果」と信じて疑わず。
彼女が信心で変われた・良くなれたんだから、彼だってきっと不可能を可能に出来るはず!と
私は安易に「ミラクル公式」に彼を当て嵌め、折伏しようとしていたわけです。
(しかも、彼が窮地に立った理由を「身から出た錆」だったとは知らずに、です・・)
こんな浅はかな考え・根拠で彼を折伏しようとしていたのだから、私の脳内花畑っぷりが
伺い知れるというもの。
そして一家の主という立場である彼を、そんな簡単な公式で「救いたい」なんて本気で考えて
いたことに対し、まさに「頭痛が痛い」のです。 

「結婚や姻戚関係を結ぶのとは違うのだから、宗教勧誘に責任なんて感じる必要はない」
そう思う人もいるかもしれません。
私の母はまさにこのタイプで「御本尊を受けてから先は本人次第」と言います。
また、私が実際に組織で受けた指導に「福運は自分もち」というものがありました。
活動して福運をつむのも・活動をさぼって福運を積まないのも本人次第だという意味です。
じゃあ折伏とはいったい何なのか?
「相手を幸福にする」と言っておきながら、実のところ「本人次第」で「自己責任」に他ならない。
私のような生まれながらにして学会3世とは違い、外部の方が入会するという事は
相当な覚悟や葛藤・または家族の反対等、乗り越えなければならない壁が、様々ある。
そんな相手に対しさんざん信仰功徳のミラクルを語って、入会後は「自己責任」で「結果論」。
あまりに無責任・虫が良すぎるのではないか? 私はそう思います。
実際問題、相手に「幸せになるため」と背負わせるのは、組織隷属です。
新聞購読や財務と言った経済面・活動や選挙支援に伴う時間的拘束や負担。
世間の冷やかな目線というオマケも込み。
良い事があれば「信心したおかげ」 悪いことがおこれば「宿業が出た、今こそ闘う時」と
はっぱをかける。お題目だけあげていればよい、なんて事は言わない。
「信心しても変わらない」こう相手が言ったら「愚痴の心が福運を消すんだよ!」と諭しただろう。
「結果が出ない」と言われたら「誰かに折伏や仏法対話をしてみたら?」「本気の祈りが足りない」
など、幹部仕込みの常套句で相手を困惑させただろう。
なにもかもが「結果論」であるにもかかわらず、それを
「この信仰なしでは得られない、絶対的幸福境涯」などとうそぶく。
うまく文章表現できないのですが、これほど非効率で嘘だらけの(表向き)人助けはありません。

私が「責任」という言葉を使ったのは、創価がそれに値するほどの大言壮語で信仰の効能・
現世利益・絶対的幸福を説き、「この教え以外で幸せになることは不可能」と、
唯一無二の教えとして、日蓮仏法(改悪済み)を喧伝しているからです。
そこまでハッタリかまさず、ただ心の修養・癒しとしての信仰を推奨している団体であれば
「責任」なんて言葉は使いません。

挙句の果てに仏法の真髄は師弟だとか・
師匠に応えるのが弟子の務め・
師匠の仇をうつのが弟子の使命だとか・
寝る間を惜しみ、家族との時間を犠牲にし、財産をつぎ込み、人としての尊厳を失わせてまでも
組織拡大・機関紙拡大・選挙戦の絶対勝利へと人々を働かせ続ける。
そこまでさせる団体に他者を引き入れる事に、「責任」を感じないなんて本当は異常なのです。
(過去、自分のしてきた勧誘行動に対する悔恨を含め、書いています)

また、本テーマで綴る中で思い出したエピソードがあります。
青年部時代、男子部から聞いた話で、彼女を折伏していたメンバーがおり
彼女の父親がアンチ創価で、入会に大反対。
彼女の心は入会へ向けて動いていましたが、ある日彼女の父親が激怒し男子部の自宅に
怒鳴りこみに来たのです。
「これ以上娘を勧誘したら、ただではおかない」と、生命の危険を感じさせるような脅し文句も。
彼女が入会を考えたのは、暴力的な父親についての悩みもあってのことでした。
彼はその話を会合の席上で語った際
「脅しをかける魔に一歩も退かない、屈しない。絶対に彼女を折伏して見せます」と決意発表。
大拍手が起こったそうですが、その後四者幹部に呼び出され「折伏は見合わせるように」
と言われ、正義感に燃える彼と・厄介事から組織を護ろうとする幹部との間でひと悶着。
彼女の父親から会館に苦情電話が入ったのが、折伏見合わせ要請の理由だったとあり
結果、彼は非活になってしまったという話でした。
この話をしてくれた男子部も正義感の強い人物で、
「話しあえばわかる、対話力だ、と先生も言っている。なのにどうして折伏をやめなければ
いけないのか?父親の威圧に屈しなければならないのか。
今すぐにでも、彼女を救わなければいけない切羽詰まった状況なのに」と
幹部の方針に疑問を感じていた様子でした。
当時の私は男子部の心情を理解しつつも「今は静かに祈りをおくる時なんじゃないか」と
もっともらしい言葉を返しました。
今はわかります、男子部と私のあいだで「現実」「常識」というものがすっぽり抜け落ちた会話を
繰り広げていた事がw
当の本人達は大真面目に「祈りで全てを変えることができる・GETミラクル」と思っていたのですから。
しかし幹部は、解っていたんでしょう「祈りや話しあいで解決する相手ばかりではない」という事を。
国内末端世間でこの調子なのですから、グローバルは何をかいわんや、です。

長くなってしまいましたが、まとめます。

他者の幸福を祈ることは、特定宗教を持たずとも、誰にでも可能な事であります。
そして自身の属するカテゴリ(団体)に他者を属させることが、幸福の直道などという考え方は
概ね間違いです。

「自他共の幸福」その具体的行動とは。
どちらかが必要としている時、寄り添う事。それだけでいいのではないでしょうか。
喜怒哀楽、分かち合い、悩める時には必要な励まし・時には助言を。
互いを信頼し、相手がどのような状況にあっても態度を変えず、
雄大な山海の如く見守り・受け入れる。
そのために大事なことは、まず「自分」のことを一生懸命やることでしょう。
こんな関係性がわずかでも・どこかにあれば、人はどんなときも我を取り戻し
頑張れると思うのです。
なにも同じ対象・宗教を信じる必要なんてありません。 
どこかに属して、仲間になって、特定組織に利する活動をしないと幸福になれないなんて・
苦境を切り開けないだなんて、そんな話はありませんし、ペテンは不要なのです。

そして自身の抱える悩みや問題を解決するために、悩める他者を入会に導くとか・
機関誌を購読してもらうことが、事実なんの解決にもならないという現実と一般常識を、
創価脳はわきまえるべきです。
それを世間一般では「現実逃避」と呼びます。

「ミラクル」ありきで、軽率に他者の人生に関わってはいけません。

なにもかもが「結果論」である限り、
創価に拘る必要もなければ、創価でなければならない理由も実際のところ無いのです。
一日も早く、このことに気付き、本当の自分を取り戻し・自分の頭で考えぬいて決め進む。
それはとても幸せな事なんだと、知ってもらいたい。
私はそう願っています。
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他者の人生に軽率に関わるということ③

創価が推奨する「宿命転換のための折伏」
「目的達成(宿命転換)のための手段(折伏)」と言えると思うのですが、
この構図がいかにインチキでトンデモ・オカルト・ばかばかしいかを
覚醒された方は、よくご存じかと思います。 

自己完結ミラクル(百万遍唱題等)ならまだしも、そこに他人を巻き込む折伏=創価への入会勧誘。
それは”他者の人生に軽率に関わること”
私自身の経験談、未遂に終わった折伏とその顛末。
十余年という時間を経て、覚醒した今だからこそ解ったことです。

私が女子部長を務めていた頃の話です。
20代前半から通っていたヘアサロンの担当者(美容師)が、翌年オープンする支店の店長を
務める事になったと報告してくれました。
新店は今より遠い場所になるけど、私も彼についていく形で顧客になるね!と約束。
自分がひいきにしていた美容師さん(年齢も近い)が出世する。それは私にとって嬉しい事でした。
しかし後日、店へ行くと彼が浮かない表情をしており。どうかしたの?と尋ねると
「店長の話が無くなったんです」と。
事情を聞いたところ、前々から気になっていた身体の不調を診てもらうため病院へ行ったら
入院手術が必要な疾患が見つかった・入院リハビリで、仕事復帰に3ヶ月程度かかる。
ちょうど新店オープン時期と被るため、オーナーが「店長就任はいったん白紙に」と言って来た。
オーナーは誰を店長に据えるとは明言していない。
でも、自分はもう諦めていて、店に迷惑をかけることに責任も感じ、入院と同時に店を辞めようかと
思っている・・というのです。
私は叫びました「諦めちゃダメだよ!」
彼に学会宣言をしたことも、選挙を頼んだ事も無かった私でしたが
「乗り越えられない壁なんてない」とかなんとか、当時創価青年部まわりで仏法対話の際に語られた
耳当たりの良い・力強いフレーズを幾つも口にしました。 
しかし「信心」「御本尊様」や「お題目」という決めゼリフは出すことができず。
彼は半笑いで「ありがとうございます、励ましてくれて嬉しいです。祥蘭さんは優しいなぁ」と
社交辞令で返してきましたが、当時の私は筋金入りの創価脳です。
”違うよ!そうじゃない!優しいとかイイ人とかじゃない!
 私はあなたの無限の可能性を引き出す方法を知ってるんだよ!それをあたなに伝えたいんだよ!”
と、内心もやもや。
しかし両隣に施術中のお客さん&スタッフもおり、彼も私につきっきりという訳でなく、
合い間に他のお客さんの施術へ向かったりで、落ち着いて「対話」など出来ない状況。
彼の窮状を聞き、創価脳だった私の心は焦燥でいっぱいでした。
「目の前に、仏法を求めている人がいる!(=彼)。私が勇気を出して折伏しなくては!」
「いざという時に彼の宿業が出たのだ・今こそ宿命転換の時だって教えてあげなければ」
しかし客と美容師という関係以外、接点なし。
店外で会った事も無ければ、私は彼が既婚者だという事は知っていましたが、連絡先はおろか
居住地域等全く知らない。
10年近いつきあいではありましたが、私が一方的に自分のプライベートをしゃべることはあっても
彼はそれを愛想よく聞くだけ、互いの事をよく知っているという訳ではない。
当時の私は、上記のような薄い間柄であっても
「自分は仏法を弘めるために存在している」との思いこみにより、彼の話を「誤変換」し受けとめます。
「彼が私に窮状を打ち明けてきたのは、折伏して欲しいからだ!」と解釈したのです。

一旦流れを止めますが、この受けとめかた↑、普通の人からすれば「ハァ?!」ですよねw
彼が私にしたことは「予定変更(または中止)」というただの「報告」です。
そこには何の訴求も無くて、あるとすれば店長就任を喜んでいた私に対し「申し訳ない」という
思いからの報告になるかと思います。
まさか自身の窮状を「祥蘭さんなんとかして!」なんて思っちゃいないでしょう。
だけど創価脳は思いこむ。そこが怖いのです。
悩みや困りごとをうっかり外部から打ち明けられようものなら、勝手に
「私に救いを・仏法を求める人が現れた!」と思うわけです。
覚醒したから冷静に分析なんてしていられますが、当時の私はお門違いも甚だしい「使命感」に燃え
一刻も早く彼に信心させてあげなきゃ!と、メラメラしていました。

話を元に戻しますが、この機に彼を折伏しなければ!と思い立った私。
施術を終え店を出て近くの喫茶店に入り、彼に手紙を書きました。
”唐突で驚かれるかもしれないけど、あなたの力になりたい。
私もお題目をあげて完治と無事の職場復帰・店長就任を祈っているから、あなたも一遍でもいいから
お題目を唱えてみて欲しい。祈りとして叶わざるなしの御本尊様をあなたにも受けてもらいたい・・”
というような内容でした。
そして自分のメアド・携帯番号を書き添え、連絡くださいと。
彼が妻帯者であることを知っていて、(覚醒後の)私ならメアドや携帯を教えるなんて軽率な真似は
絶対にしません。何が・どのような・あらぬ誤解を生むかもわからないからです。
しかし当時「自分は仏法を弘める為に存在する」と思いこんでいた私。
自分にやましいことがないかぎり、なんの問題もないと「信じて」いました。
実際何もなかったですが、もし奥さんが手紙を見たら、穏やかでは無かったと思います。
それが宗教勧誘であっても、独身の女子が主人に連絡先を書いて寄こすなど気持ちのいいものでは
ありませんから。
ミラクルありきで生きていた故です。トラブルの可能性など、微塵も想像しないのです。

以前にも書きましたが、活動で遅くなり暗い夜道を一人で帰宅する事を「怖い」と全く思わなかった・
身近に不幸にも被害に遭った女子部もいたというのに、自分が偶々そのような目に
遭わなかった事を「信仰功徳によって護られている」と思いこんでいました。
信仰功徳などというものはすべて「結果論」。
今はそう言えますし理解できているのですが、ミラクル前提の思考(停止)回路を持つ創価脳は
そんなシンプルなことも理解が出来ません。
コメントで頂いた体験談に「折伏に応じてくれた外部が、マルチ商法の勧誘をしてき騙された」
「相手から入会するかわりにと、性的関係を迫られた」というものがありました。
創価脳は折伏したい下心=良心のみで相手に接しますが、それを逆手に取る者や
弱みにつけ込む輩だって存在する。
これは創価に限らず、特定宗教団体に属し熱心に信仰している人の「盲点」ではないでしょうか。
先日も東海地方で痛ましい事件があり、報道第一報を聞いた私は「学会婦人部?」と勘繰りました。
実際は別の宗教団体でしたが。
故人の御冥福をお祈りするとともに、”信仰をたもつ自分は絶対護られる”などと非現実な過信は
今すぐ捨て去ってもらいたい。
バリ活の皆さん・とりわけうちの母に、よくよく注意してもらいたいと思った次第です。

話が横道にそれましたが、再び店に戻り書いた手紙を彼に手渡しました。
以降私は彼の手術成功と店長として就任できることなど「湿れる木より火をいだし」な勢いで
題目をあげ、祈念しました。
そして彼からの連絡も待っていました。
しかし当然ですが彼からの連絡は一切無かったのです。
お客さんから、突然宗教勧誘の手紙なんてもらったらドン引きする・・と今なら解るけど、
当時の私はただ馬鹿だったというか・なんというか。お恥ずかしい限りですが「愚かで直球」でした。
そういった部分は実家の母とかぶるところもあり、母の言動を見ていると自分の過去をなぞるようで
余計に歯痒く・腹立たしく感じてしまうのかもしれません。

2ケ月後、サロンに予約の電話を入れると彼は退職した為、施術は別の者になると告げられ。
仕事辞めちゃったんだ・・と、相当がっくりきました。
とりあえずサロンへ行き、彼のことを知る美容師さんから話を聞くと手術は無事成功・リハビリ中で
アルバイトを時折やっているとの情報を得ました。
店長にはなれずとも、店を辞める必要なんて全くなかったのでは?と思えるような内容で
私は思わず「じゃあ休職で良かったんじゃ?なんで退職?」と聞いたのです。
美容師さんは苦笑いを浮かべつつ「お客さんには言えない、内輪の事情が・・」と。
突っ込んで聞いても教えてもらえませんでしたが、後日同じ店(別の担当者)に通っている友人の話で
彼が店の後輩女子と不倫関係にあり、それを知ったオーナーが激怒し、店長の話を白紙に。
入院手術がオープン時期と被るから・・という理由は正式・直接的なものではない・
店長になると言いふらしていた彼は居づらくなって辞めたというのが実際である、と解ったのです。
唖然とし、裏切られた様な寂しい気持ちになったものの、私は彼を恨むような事はなく。
「お題目、上げさせてくれてありがとう。きっとこれは意味のある事」とポジティブシンキングで
収めたのです。

それから約半年後、彼からメールが届きました。
文面は「新しいサロンに転職し、そちらで店長を務める事になったので、もしよかったら
来てください」という案内でした。
今は解ります、これは彼にとっての「営業活動」です。
私は「いいお客さん」でした。
見た目にとても気をつかっていた(ある意味珍しい女子部だった)為、サロンにマメに通い、
提案されたケアや商品はまず断らない、出費を惜しまない方でした。
そんなお金を落とす上顧客は新しい店に引っ張りたい・これは当然のことでしょう。

私は連絡を喜びました。「やっぱり仏縁があったんだ!」と思ったのです。
宗教勧誘の手紙を渡してドン引かれたわけじゃなかった・彼は(やるやらないは別として)
私の宗教的バックグラウンドを容認したうえで、連絡をくれたのだ・繋がろうとしてくれているんだ!
(創価の私が嫌ならメールなんてよこさないはず!)と、これまた超ポジティブシンキングで
受け取めました。
そして新しいサロンへ向かい再会。彼の全快と、新天地での活躍を祝福。
そのさまを「私の祈りが叶った」と、まるで我が事のようにw誇らしく思ったのだから重症でした。
以降、彼に仏法対話を試みる事もなく・彼からも特にその件についてお尋ねもないまま、再び
「客と美容師」として数年。結婚式直前まで通っていました。
その翌年、彼が独立し自分の店をもったことを知り、帰省の際に訪れた事もありました。
とても立派なお店で感心&感動。
もう活動家ではなくなっていた私は、彼を「折伏したい」なんて熱意は失っていましたが
数年前、窮地に立っていた彼がわずか数年で、自身の店をもつまでに再起した・・という経緯を
感動的に見ていました。
そしてそこには過去の私の祈りも「効いている」と思っていましたw
折伏は未遂に終わっても、私は彼の幸せを祈念していた。そして彼は、幸せになった。
この事実だけで自己満足していました。
どんだけずうずうしいんだ・・というか、こうして今、振り返り綴りながら「病的」だったな・・と
当時の自分を客観視し、背筋が寒くなります。

以降、遠方住まいで彼との接点もなく、どうしているのか全く知らず。
彼の存在をも忘れかけていましたが、昨年偶然FBで彼を見つけました。
そこで初めて知ったのですが、彼の店は無くなっていました。現在は異業種で働いているとの事。
いったい何があったのだろう? 
返事がこないことを承知の上で「お久しぶりです」とメッセージを送ってみました。
暫くして返事がもどってき、彼がサロンオーナーから転職するに至った理由を知りました。
創価脳でなくなった私の受け止め方は「それでも今、元気で働いていて良かった」というものです。
お互いまだ子供が小さいので(同い年の子供がいます)頑張ろうね、と返信を結びました。

彼の窮地を救いたいと、折伏のつもりで手紙を書き個人的なコンタクトをとろうとしたり・
勝手にお題目をあげまくったり・彼が一時成功をおさめた際に「私の祈りが通じた・叶ったんだ」
なんてほくそ笑んでいた事を思い出すと、恥ずかしさを通り越して笑ってしまいます。
「若さゆえ」だったと誤魔化すしかない、黒歴史。
そして当時の自分に問いかけたくなったのは
「私は彼の人生に、責任をとる覚悟ありきで折伏しようとしていたのか?」という事でした。

(④に続きます)

2015年 御挨拶

遅れ馳せながら、2015年も宜しくお願いいたします。

年末にいただいたコメントのお返事が出来ていない体たらく、申し訳ありません。
(今週末に書かせていただきます)

今年のお正月も、帰省ついでに主人の氏神様へ初詣に行ってきました。
私が義実家の初詣に参加するようになって、三度目です。
子供達もしっかりとお作法を覚え一人で出来るようになり、健康面や習い事の上達をお祈りしたと
それぞれ話してくれました。

そして居住地に戻って、私一人で地域の神社に初詣。
以前記事にも書きました、2013年夏に御祈祷(お祓い)を受けた神社です。
その際に頂いたお札を返していない事が気になっており、出向きました。
お返しし、新たに御祈祷を頂こうと社務所の方に尋ねたのですが
(社務所の方が、前回が災厄祓いの御祈祷だったことをふまえて)
「今日されてもいいですが、2月に節分行事(大祭)がありますよ」とご紹介頂きました。
無知でお恥ずかしい限りですが、節分とは年の災厄をはらうというまつりごとなんですね。
有名神社で豆まきをおこなう芸能人の映像をワイドショーで見る機会はありましたが、
なぜ・どういった目的でそれが神社で行われているのか考えた事もありませんでした。

決して押しつけがましさはなく、こちらのニーズ(?)に沿った案内をして下さった、
この社務所の方とのやりとりにおいて私は感心したのです。
なんというかとても「心」の通ったやりとり、私にはそう感じられました。
神社で行われる節分行事とは一体どんなものなのか、参加してみたいという興味もあり
新たな御祈祷は2月3日にお願いする事にしました。

創価脳だった頃、こういった神社・寺院の厄除け行事的なものを「邪宗の金儲け」なんて口汚く
罵っていました。
つくづくも、馬鹿で無知だった、創価活動家時代の自分。
ひとつひとつの行事を誠実に・粛々・連綿と、長きにわたって続けて来られている神社・寺院。
ただ人々の咎をはらうため、心の平穏・人々の平和を願い行われている。
参加は誰でも自由。真に開かれた宗教とは、こうあるべきでしょう。

私が2月に参加するつもりの大祭、祈祷料は「一口千円」
祈祷料はその人の思いなので、何口でも構わないとのこと。
けっして一口一万円からなんて法外なことは言わないのです。
金額で人生が変わる、3桁に挑戦!なんて下品なことも仰らない。
そして、こういった神事は「選挙があるから」なんて理由で延期・中止になったりしませんw
やっぱり創価は宗教では無かったんだなぁ・・と、しみじみ思うのです。
「こじらせ系自己啓発セミナー(ボッタクリ)」とでも呼べば恰好がつくでしょうかw

さて、正月は実家にも帰省。
多くのブロガーさんが話題にされていました、箱根駅伝。
復路の中継を実家で母と一緒に見ました。
こういった場面でも、脳内花畑パワーは全開なんだなぁ・・と、ある意味感心してしまったのですが
私の母は、刻々と過ぎて行くレースの中間報告のたび「創大はO位に上がってるでしょ?」
と、順位がヒトケタ台に上がっている事を期待していたのです。
結果は皆さんご存じのとおりで、序盤から終盤まで、最下位を這う展開。
やっとの思いで初の出場権を掴んだルーキー校。
はじめの第一歩・記念出場といっても過言でない。
はなから最下位に沈んでいたとしたって「出場できたことがラッキー、足がかり」くらいに捉えるのが
妥当ではないか。
これは特段創大に限らず、どこの大学であっても、同じ事だと思うのです。
私は何度も「順位上がってるでしょ?」と確認する母のことが、滑稽でならずw
思わず聞いたのです「なんで(順位が上がっていると)そう思うの?」と。
すると母は自信満々に
「だって創大なのよ。日本全国の同志が祈りを送ってんのよ!負けるわけがないでしょ!」と答えました。

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(無駄に草生やしてすみません)

はい出ました、ミラクル発言。

やっとの思いで出場を掴んだルーキー校(実力は到底他大に及ばず)であっても
「日本全国の同志が祈りを送る」と、順位を上げて行く・走者のタイムが速くなると信じているwww

めでたすぎるよ、お母さん。
いくらなんでも、そんなことはありえない。

冷静に、状況を説明してやりました。
やっとの思いで掴んだ一枠なんだ・他大と比べて(大学駅伝における)歴史もないし
スキル・ノウハウ的な蓄積もない(おそらく)。
本当に冷静に。たとえば自分の出身大(創価ではない)が箱根駅伝に初出場したとしよう。
私だったら思います「出場できただけでも万歳だよ。よくがんばったね」と。
順位結果なんて関係ない。その場所へ辿りつけただけでも凄い事だよ。
ここからちょっとずつでも上がってこ!と。
おそらく普通の人(誇大妄想や選民思想を持たない人)も、おおむね上記の感想をもつのでは
ないでしょうか。
一般常識的に考えて、最後の一枠をやっとこ掴んだ学校に過度の期待をよせるなんてしないでしょう。

けど母は違ったのです。
日本全国の学会同志がお題目を送り応援しているのだから、最下位はないだろう。
ミラクルは起こる!(なんだったら初出場・初優勝もありうる)と思っていた。
実力云々なんて関係ない。祈りの力が不可能を可能にするんだ! そう思っている風でした。

途中から皆で外出したため、生中継を最後まで見ることは出来ず。
夜半帰宅してテレビのニュース番組をはしごしながら、創価大がそれほど扱われていない事について
母は不満げでした。
「全国同志が見ているのに、もうちょっと映してくれなきゃ苦情くるわよ!」とw
まるで自分たちが世界の中心・・とまでいわずとも、決してマイノリティだとは思っていない。
世間に確実に影響を与える層なのだ、という自信確信は、先の選挙結果からきているものなのか?
駅伝のことなんて何もわからない・知らない。だのに創価だからという理由だけでミラクルが起こる!と
そこまで思いこんでしまえる、この心理状態って一体なんなのだろう・・。
統合失調症ってこんなかんじ?
などと、新年から深く考えさせられました。

もちろん学会員のすべてが母と同じ考えを持っているとは言いません。
それはさすがにないと思いますw
私の母が、ちょっと行きすぎた誇大妄想の持ち主だという事と、
その誇大妄想を際限なく膨張暴走させてしまうのが、創価のトンデモ教義なのだと認識しています。

時系列で書いている記事は、2013年11月頃まで今来ています。
そこからもう一年あまりが経過し現在、上記のとおり母は創価脳のままですorz
記事にしていない14ヶ月ほどの間、母と様々話をしてきました。
その過程で、一撃を与えられたかに思えたやりとりもありました。
が、上記のとおり、母は覚醒とは程遠い状態に有り、いまだ創価というフィールドに居続け
そこから出ようとも・動こうともしていません。

これはもう、結論に近いことかもしれませんが、私は母の精神疾患を疑っています。
覚醒させる云々の問題以前に、「病」なのだとすれば、別のアプローチが必要なのではないか。
そう考えるに至った、2015年1月現在です。

早く記事が現在に追いつくように、更新頻度をあげる・・今年の目標にしますw

2015年、健やかな善き一年としていきましょう。