自我喪失

2014年 正月帰省中、恒例の墓参りへ出かけました。
姉は年末年始、旦那さんの里へ行くということで合流できませんでしたが、
年の瀬にお掃除とお参りは済ませておいたとの連絡。
母の方にも「根つきのしきみを供えてあるから(長持ちするので)お正月の墓参りに
新しいものを持って行く必要はないよ」と、電話があったとのこと。
お線香と蝋燭を持参し、墓苑へ向かいました。
雪が舞うほど寒い日で、父の墓に辿りつくと、連日の寒さのお陰もありしきみは綺麗なまま。
母は「やっぱり根つきだと長持ちする、枯れ無いのよ。
すぐダメになってしまう仏花なんかより、絶対根つきのしきみがいいに決まってる。
あの子(姉のこと)も、やっとわかったのね~」と、まるで自分の指導の賜物だと言わんばかり。
そして、まるで「勝った」ような物言いだったことも引っかかりました。

補足ですが、姉は暫くの間、父の墓前に仏花を供えていました。
母から度々「うちの宗派はおしきみだから、色花なんて供えないで」と注意があっても
墓苑の売店にしきみ販売がないとの単純な理由で。
しきみをわざわざ取り寄せたり・創価系仏具店に買いに行くという事はしなかったのです。
姉はアンチ創価で、一般人感覚で生きてきた故、なにがなんでも「しきみ」でないと無理、
という母の拘りについて全くピンとこなかったのだと思います。
しかし13年秋、姉と母が二人で墓参りに行く事になり姉が実家へ迎えに行くと、母が不在だった。
暫く待っていると自転車で戻ってきた母のズボンの膝が破れて血も出ており。
一体どこへ行ってたの?どうしたの?と尋ねると、母はしきみを買うため近所の(行きつけの)
花屋へ行ったが定休日だった。
そのため、家から離れた仏具店へ自転車で向かった際、うっかり転倒。
膝をけがしたので、自転車をゆっくりとしか漕げずに帰宅が遅れたというのです。
姉は、そこまでして母がしきみに拘る・必死という事実を目の当たりにし、認識を変えたと
言っていました。
しきみのために自転車こいで出かけて、事故にでも遭われたらたまらない・・と。
だったら自分が用意して行く方がマシと、しきみに変えたとの事。以来現在もそうしています。

覚醒して久しい今、思うのは、供養する側の「気持ち」であるお供えが
どうして「しきみがマストで色花はダメ」になるのか・・という点です。
排他主義と、本当の主役を不在にしてしまうカルト性をそこに見てしまう。
以前にも書きましたが、神道であっても墓前へのお供えは玉串でなくてよく、色花OKだそうで
しきみ限定としているのは、創価と正宗位のもの(私の知る限りですが)。
御本尊を祭った仏壇にしきみを供える、これはまだ理解できます。 
大聖人(御本尊)へのお供えという意味合いで、正宗から引き継いだ伝統しきたりでしょう。
創価や正宗がしきみを仏壇に供える理由としては、常緑が三世の生命論とリンクしている等々
諸説あるようです。
それらは、いわれとしてもっともらしいと感じます。
また、他宗派でも奥の院や本山へのお供えは高野槇に限定するといった事もあるようですが、
個人の墓に関しては普通に仏花で問題ないとなっています。

お墓は故人が眠るところであって、大聖人や御本尊の居場所では無い。
お墓のお供えくらい、供養する側の好きにさせてくれたっていいんじゃないのか・・。
それも、創価やその教義なんて殆ど知らない、一般の人にまで強いる事じゃないのでは?
と、疑問に思ったのです。

私は自説にご満悦の母に、そうじゃない・・と解って欲しくなり
「お母さんが無理してしきみを買いに行って、怪我や事故にあわれてちゃ困るからって
(姉は)しきみに変えたんだよ? 
長持ち云々じゃなくって、お母さんの事を心配して・思いやって姉はそうしてくれてるんだよ?」
と言いました。
この言葉に母はハッとした表情を見せました。
そして「でも、昨年の夏だっけ。あのときは色花だったじゃない?」と言ったのです。
私はドキッとしました。
前年末、姉からの電話で色花を供えて下さったご夫妻のことを聞きました。
姉は母にそのご夫妻の件を話すつもりはない、と言っていました。
話したところで、残念な反応しか返って来ないだろう・それで気分を害するのが嫌だからと。
私に口止めは特になかったけれど、私もなんとなくこの件は母に内緒にしておくつもりでいました。
しかしこの流れです、細かいところまでは話さずとも、言っておくべきだと感じ。
「あの花はね、お父さんの友達がお供えしてくれたんだよ」と言いました。
母は驚いて「なんであなたがそんな事知ってるのよ?」と。
「それは言えないけど、事実だから」と私が返すと、母は特に詮索してくる事も無く言い放ちました
「それなら、うちは創価なので色花はダメなんですって言っておいてくれなきゃ。ちゃんと注意してくれた?
 お供えは有り難いことだけど、折角でも色花は(捨てるから)無駄にしてしまうのよ」と。
私はしばし唖然。
・・ああ言わなきゃよかった。姉のいうとおりだ・・と悲しく情けなくなり。
このやりとりの最中、主人と子供も傍に居たため、議論を長引かせてもと思い、その場ではスルー。
しかしどうしても腑に落ちない、と思い、夜に母と二人になった時に再び話題にしました。

相手の方が、父の訃報を知らず死後月日が経過して知り、葬儀に出席できなかった。
せめてものお弔いにと、お墓を尋ねてくださって時折お参りをして下さっていた事。
当然その方はうちが創価だなんて知らない。
(細かい事を言えば、父自身も入会はしていたが創価への帰依は皆無だった)
仮に創価だと知っていたにしても、一般人(創価と深くかかわった事のない人)であれば
しきみを供えるなんて知らないと思う。 
創価などマイノリティであり、外部の方の心からの御供養に「うちの流儀に合わせろ」
なんていうことは、実はすごく無粋で失礼な話だと思う。
お参り下さった方の気持ちを、ただありがたく受け止める。それでいいのではないか。
しきみが当然だと思っているあなた(母)に仏花が違和感あっても、その方には何の瑕疵もない。

「文化の違いを、認めないとダメだと思うよ。
文化や宗派が違っていたって、父を思ってお参りして下さるその精神は等しく同じでしょう?」
母をこう諭してみました。

母はだまって聞いていましたが
「あんた、随分ものわかりがいいのね」と言いました。
「しきみを供えるというしきたりについても、別に創価や正宗のオリジナルじゃないでしょ。
 密教修法から来ているんだよ」と私が話すと、母は「知らなかったわ」と。
「何故にそこまでしきみにこだわるの?どうして無理してでも買いに行くわけ? 
創価が推奨してるから?」と、私がつっこむと
母は「そんなの考えた事無かった。元々供花=しきみ以外無いと思ってるから」と。
このお供え問題について、いろいろと意見交換したのですが、最終的には
「花は枯れるから嫌い。手入れの要らない・長持ちするしきみが一番いい」という、
母のごく個人的な理由で拘っている、との結論が出ました。
「だったら、父のお友達や他の宗派の方が、墓前にしきみを御供えしなくても問題ないよね?
 別に色花であっても。 あなた自身が、それが嫌だからっていう理屈は通用しないんじゃない?」
私がそう尋ねると、母は困った顔で
「そりゃそうだけど・・でも、なんかおかしいわ。あんたに言いくるめられてる気がする」とw

上記は読んで居る方にとっては、どうでもいい退屈なやりとりかもしれません。
しかしこの時の私にとって、これは大事な問答でした。
どんな些細な内容でもいいから母に「改めてちゃんと考える」という機会をもってほしかったのです。
「考えた事も無かった」で、何でも創価のいいなり・流儀が一番正しい・正義だ!と、思考もせずに
行動につなげてしまう。 
パブロフの犬的行動をとる、そんな馬鹿センサーをぶっ壊すための問答だったのです。

たいていの創価脳は、突き詰めて考えさせられることを嫌います。
それは読者の方々もよくおわかりのように、アンチ系のブログなどで意見交換となっても
アンチ側の質問にはきっちり回答しないで自分の言いたい事だけ言って去る・・というのと同じ。
最終的には「確信」だとか、個人しか知り様のない・万人には理解しづらい「感覚」だけで
どうしてもなにがなんでもこの信心は正しいだの絶対だの、アワアワ言うしかないのです。
そして殻にこもってしまいます。 (←2015年6月現在、母はこの段階におります・・)

このやりとりの際、姉の優しさについても私は母に噛んで含めて話しました。
なにも「根つきのしきみが長持ちする」から、しきみに変えたんではない。
母が無理して買い物に出かけて事故にあうことがないよう、多忙でも入手に走ってくれている、
そんな姉の優しさにどうして気がつけないの?と。
母はこの時も困った表情をして「感謝してるわよ・・」と言いましたが、言葉は続かず。

私が覚醒後、母のさまざまな発言で気になっていた点についても言及しました。
それは姉夫妻であったり周囲の(学会以外の)方であったりが、母によくしてくれた等の話題をする際
「これは信心のおかげ」
「私は御本尊様に守られてるから、イイ事がよってくる」等の発言です。
「みんなお母さんを思ってしてくれてる事であって、創価がすごいからとか信心がどうこうとか、
そういうんじゃないよ? それがお母さんが組織で頑張ったから出た功徳だ、という解釈も違う。
誰も損得勘定なく、あなたのことを思ってしている行動なんだから」
目の前の出来事・外部の誰かとのやりとりを真っ先に、創価の常識公式にあてはめる事よりも
まずは相手の気持ちを汲んでほしい、と伝えました。
母はぽかーんとしていました。
この時は、なんだか暖簾に腕押しだな・・と感じましたが、母が自分自身を見失っている事を
はっきり確認したような手ごたえがありました。

思えば創価では「我見に陥る」事が最も自身の信仰面での成長を妨げると教えられていました。
繰り返し、我を捨てよ、自我をなくせ=自分をなくせと指導されていました。
自分の頭で考えているうちは「仏智」なんて出て来ない。とにかくお題目をあげて御本尊様に
すべてを託すのだ! というような指導は、現在もあります。
覚醒してしまった今は、こんな馬鹿な話ある?と大いに思います。
なんで自分の頭で考えちゃいけないの?大事な自分の人生の諸問題を。
とどのつまり「自我をなくせ」とは、依存心を煽っているだけのこと。
全てが結果論であるにもかかわらず「御本尊のおかげ・功徳」だと思わせる。
そこがなんでストレートに「自分の実力・人望・持って生まれた強運・努力の結果」であっては
いけないのか?
勿論、組織の思惑に嵌めるために他なりません。

この帰省中、私は母に敢えてこうも言いました。
「お母さんは、そのまんまでもすごい人なんだよ。社交性もあるし達者だし。
信心のおかげとか、そんなのなくても・・」と。
普通の感覚をもつ人であれば、謙遜しつつも誉め言葉と受け取ると思います。
しかし母は、そうではなかった。
「何言ってるのよ。私から信心をとったら何も残らないわよ」と返したのです。

ここまで自我(魂)抜かれちゃって・骨抜きにされるって、人生の半分・・それこそ半世紀以上を
カルトに毒されてしまうと、人間こんな風になってしまうのだろうか?
完全に「本来の自分のポテンシャル」を信じられず、全く自我を失っている。 
信心が・創価があったから自分は生きて来れたと、思い込まされている。
監禁された人物が、ある一定の期間を過ぎると逃げる事を諦めて、その世界でなんとか
生きながらえようと、無抵抗となり服従してしまうのとなんだか似ている。
どうして母は、ここまで自分を見失ってしまったのだろう?

この当時は、母が私の話をばっさり切り捨てずに聞くようになっただけでも進歩だ!と
嬉しく思っていました。
が、どこか寂しさが心をよぎり、うまく言い表せない感情だったのですが
今になってみればそれは自我喪失している母に対しての
「この人は圧倒的に不憫で弱い存在なのだ」という、憐憫だったのだと思います。

数日の帰省ではありましたが、出来るだけ母に「普通の楽しい時間」を過ごしてもらいたいと、
このあと自ら創価話題を持ちかける事はせず。
その甲斐あってか和やかに過ぎ、母から「楽しい正月だった。もう春休みが待ち遠しいくらいですよ」
とメールが届いたほどでした。
財務に関しての追及だってなかったし、年明け早々これはなかなかイイ感じだ♪
そんな手ごたえを感じていた私でしたが、それが実はとんだ勘違いであったと翌月知ることに
なるのです。

(続きます)
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