幸福境涯の寒い現実

2014年8月。
夏休みに入り、母の退院にあわせ子供達を連れて実家へ帰省しました。
姉とともに簡単な退院祝いの食卓を囲み。
子供達は姉家で飼っている犬が大好きで、前年の夏、姉宅にお邪魔した時に遊んだ事が
忘れられない様子。
「わんちゃんに会いたいな」と姉にお願いし、翌日、連れてきてくれることになりました。

早速散歩に連れて行きたいという子供達。
留守番しておくから、行っておいでよと姉がいうので、子供達と出かける事にしました。
実家帰省をしても、周辺をじっくりと歩く機会はなかなか無く。
ほぼ車移動のため、徒歩で行くのは近所のコンビニ往復程度。
久しぶりに歩く町内ぐるっと、懐かしいなぁと思いながら住宅地を進み、
旧知のお方や同級生の実家表札を見かけては元気かなぁ?などと思いめぐらせ。
ここをまっすぐ行ったところに公園があるよ、と子供達に声をかけ、曲がり角を入った場所に
母が懇意にしていた同志のお宅があります。
同中や新年GG会へ行く際、車をだしてくださっていたご夫妻です。
ふと目をやって、「え?」驚いて足が止まり。
詳細は省きますが、ご夫妻の家はありませんでした。
つい一か月前、母の見舞いに来てくださったご夫妻。私は何も事情を聞いていない。
どういう事なんだろう・・帰ったら母に聞いてみよう、と思い。

その夜、子供たちが寝た後に母とくつろいでいる時、尋ねました。
「昼間散歩に行ったとき、XXさん(同志ご夫妻)の家の前通ったんだけど・・?」と。
「X月に、OOO(集合住宅)に引っ越したんだよ」と母が答え。
何があったんだろう?
2013年の暮れ、御主人が体調を崩し、入院した話は聞いていました。
それでこの年(2014年)の新年GG会はご一緒できなかった・母がひとり参加したということも
聞いていました。
先月の見舞いにやってきたご主人は元気そうだったけれども・・? 点と線がまったく繋がらず。
母は苦々しい表情で「全くね、いやになっちゃうわよね」とひとりごとの様につぶやいて。
諸事情で、夫妻は家を手放したのだと。
(諸事情についても聞きましたが、個人が特定されそうなので割愛します)
母がその話題を、面白くなさそうに話すのがひっかかり。
よくよく話を聞いたところ、驚きの事実が判明しました。

母は2013年から、とある人物(女性)を折伏していました。
親御さんが要介護な上、女性(既に50代)も持病があり定職に就くことが出来ず
親の介護をしながらアルバイトで食いつなぐという、いわゆる生活弱者だとのこと。
2014年に入り、女性に会いに行くと骨折してしまったので仕事が出来なくなったと聞かされた。
生活は大丈夫なの?と、母が尋ねると、預金も底をついてしまっている。
親族に援助を頼んでいるが、その親族も大変な状況なのでいつまでも頼るわけにいかない。
「もう死ぬしかないんですかね」と、呟かれたとのこと。
これは大変だ!と、母は懇意の市会議員に
「行政で支援してもらえないか?道はないか?」と相談をしたのです。
この市会議員と言うのは、前々回の記事に書きましたお見舞いにやってきた人物です。
(母がその人物へ塩対応していたのが、ひっかかっていました)

親子は賃貸物件に住んでおり、家賃は家主さんのご厚意でかなり安くしてもらっている&
滞納も大目に見てもらっているとのこと。車も所有していません。
母的に”一時的にでも、生活保護が受けられる世帯状況だろう”と踏んでの、相談でした。
市会議員は「一度役所に行くようにその方へ伝えてください」と返事。
母はそれを、(勝手に)後ろだてをもらったような気で聞き、女性に伝えました。
しかし役所にいったところ、生活保護はおりませんとの回答だったのです。
このあたりは行政判断なので、何がダメだったのかなど私にも母にも判りません。
母は「ダメだった」と女性から聞き、すぐに市会議員に直談判。
こんなに困っているのに、何故一時的でも支援してもらえないのか?女性は勤労意欲はある。
骨折で働けないだけで、治れば社会復帰する。 なんとかお力添え願えないのか?と。
市会議員は「そういう事は、もう無理なんですよ」と
ただでさえ、この党は生活保護を通りやすく便宜をはかっている・・等の噂がたっているので、
そのような力添えはできないし、党としても「やってない」との答えだったと。
私は聞きながら内心「うそつけw」と思いましたし、「いやいや、やってるでしょ」と
おもわず口走ってしまいました。
すると母が「そうなのよね~」というので、エエエ?!
「その直後に、XXさん(同志ご夫妻)が、生活保護を受けたんだよって聞いてさ・・」と。
うっわぁ・・。
家を手放して一円も残らない状態だったXXさんご夫妻。
国民年金もまともな額ではなく、生活に困窮。
自営業者でしたが、老後に備えての蓄えも無かったようです。
車を手放したのも、生活保護受給のため。
母は、引っ越しをするという話を夫妻から全く聞かされていませんでした。
引っ越しが済んでだいぶ経ってから、しらゆり長より聞かされたとのこと。
(ちなみに引っ越し先は地区内でした)
何故言ってくれなかったのだろう?と、さびしさと共に不信感もあり、そのことを
近所のおしゃべりな学会おばさま(前々回の記事にも書いた、オペ当日に実家にきたおばさま)に
ごちたところ、真実を聞かされてドンビキしてしまったようです。
おばさま曰く、生活保護を受けているのはXXさんだけではない、持家でもOO議員に相談に行き
受給してる同志が他にもいる・・と、次々に名前をあげていったらしく。
その中に、ごく近所で長年自宅を拠点として提供している方の名前もありました。
ご主人に先立たれ年金が半減。
短時間のアルバイトをしていますが、それだけでは生活が成り立たないという事で
保護をもらっている。そのことを「長年会場提供してきた功徳だ」と、話しているらしい・・と。
母は憤慨し、そんな人たちがもらえて、どうして私の知り合い親子が受給できないんだ?
なぜ議員は積極的に動いてくれないんだ?と、おばさまに話すと、
「枠があるんだって、何人までとか・今年はどこの地域とか。
 もう枠がいっぱいだったんじゃない?」と、おばさまが言ってのけたのだと。
この「枠がある」情報はあくまでおばさま伝ですが、ネット上で私も見たことがあったため、
こっちでも実際そういう話、あるんだなぁ・・と妙に納得してしまいました。
そして、入院中見舞いにやってきたXX夫妻との微妙な空気感はこんな背景があったからか!と
(議員への塩対応も含め)点と線がつながった感じで、腑に落ちました。

その後、母が民生委員にかけあい、その方を通じ某党議員さんの後押しで
件の親子は生活保護を受けられることになったそうです。
おいおい・・なにが庶民の味方なんだかwナツヲ党。庶民って、学会員の総称じゃねぇぞ。
昨年だったか、創価脳な方のブログに、公明党の市民相談実績回数が他党に比べ
群を抜いて多いと書いてありました。
その方の主張は、「こんなに市民の・民衆の声を聞いている政党は他にない」とw
私はそれを読んだ時思いました、その市民=99%は学会員だと思うよ?
一介の市民の声なんて聞いちゃいないでしょ&一介の市民は公明党に相談なんて
いかねーよw と。
だけど創価脳だから、井の中の蛙状態。
そんな簡単で当たり前なこともわかんないよね・・自慢げに思っちゃうんだね・・と呆れたことを、
いまふと思い出しました。

話を元に戻します。

私の母は、生活保護受給に関してかなり厳しい意見を持っています。
(様々な状況があるので、一概に言えないとは思いますが)
「本当に困っている人が受給すべき」と母は考えている為、学会同志の・しかも持家・又は
かつて持家だった高齢同志が受給しているという状況を
「だらしがない。恥ずかしいとは思わないのか?」と、腹立たしく感じているようでした。
XXさんも、会場提供者(のご主人)も、もと自営業者です。
国民年金は少ない、そんなこと最初からわかってたはず。だったらなんで備えておかなかったの?
生活保護受給を、恥だとは思ってないのかしら・・と、母が言うので
「恥なんて思うわけないじゃん、功徳だって言ってるくらいだしw」と私は返答。
母は困惑した表情で「そんなもの、功徳とは呼べないわ。恥よ、恥」と切り捨てるように言い。
「それにね、悪びれずにしれっとしてるのよね。みんなが、受給してる事を知らないと思ってるみたい。
言わないだけで(周囲の学会員)み~んな、知ってるわよ」と呆れたように吐き捨てました。
XX夫妻は信心ウン十年の功徳のおかげで楽しい老後を送ってます、的なことを
よく会合でも発言する。
母は(保護受給の事実を)何も知らなかった頃は、夫婦円満で学会活動が出来て羨ましいなと
XX夫妻を尊敬していた。
だのに、蓋を開けてみたらこの体たらく。がっかりして、もうまともにつきあう気にはなれない、と。

私が青年部当時のことがフラッシュバックし、XX夫妻が選挙となると車を遠方まで走らせ
F活動に行ってきたと報告することは常でした。
多彩な趣味をもっておられ、自宅に制作物がたくさん飾られていたことも思い出し。
それらはお金のかかる趣味だと思います。 当時はそれが出来る経済力があった、ということかも
しれませんが、老後に備え蓄えるという考えは失礼ながら無かったのでしょう。
また、会場提供者宅では拠点闘争のさいに用意される軽食やおやつが豪華でしたw
もちろん提供者が全部用意したわけでなく、差し入れや持ち込みもあったと思いますが・・。
年に数回、女子部の会合でお宅を貸していただくことも有りましたが、頼んでもいないのに
優雅なお茶とお菓子を用意してくださって、恐縮&ありがたかったことも思い出され。
奥さんも常に身綺麗にしていて、あこがれの婦人部wだったのに。
15年以上前のことだけど、当時はみんな豊か(そうに見えた)だったのにな・・。
こんな老後が来ることを皆、想像はしていなかったのでしょう、おそらく。
そして、彼らとそれこそ30~40年来、組織の中でつきあってき、羽振りの良い時代を見てきた
母からしてみれば、信じられない思いがするのも、無理はありません。
余談ですが、築30-40年ともなる古い住宅地のため、近年リフォームや建て替えをされるおうちも
数多くあります(私の実家も、10年ほど前にリフォームをしました)。
真新しい住宅と古ぼけた住宅が交互に居並ぶ、そんな風景となった町内。
外壁外溝が劣化しても放置したままのお宅は、たいてい同志宅である事にも、この帰省散歩時に
気がつき、なんともいえないさびしい気持ちがしました。
なお、補足ですが彼らの生活保護受給は間違いない事実です。
(財務部員会でそのことがハッキリします。後日記します)

母は「長年信心してる人間が、そんなことでどうするのかってね。なんでかね~?」と
不思議そうに言うので
私はキタ!と思いながら母に問いました。
「XX夫妻も、拠点の某さんも、あなたより何十倍・何百倍も組織に尽くしてきた人だよね?
そんな人たちの晩年がこうなってるって事実を、客観的にどう思うの?」と。
母は不意を突かれたようで言葉が出てこず。
私は続けて
「前にも言ったよね。学会活動に功徳があるなんて嘘だって。
私が青年部だったとき、こういわれたよ。
”20代30代を組織に尽くせば、晩年バラ色の幸福境涯が待ってるんだよ”
”若い今が楽しくても、晩年が幸福でなければ意味がない。そのために組織に尽くせ”って。
それをまじめに聞いちゃって、プライベート殺して組織に尽くしたメンバーが今、どうなってると思う?
40半ばにもなって、みーんな独身だよ。
(経済面で)親の面倒見てる子だっているよ? 結婚なんて出来ないよね。
自分のライフプランを、しっかり見据えて生活なんてさせなかったじゃん。
お金も時間も組織のために費やさせて。さんざん、ひっぱりまわしてさ。
騙しだったなって、思うよ全部。
10年20年30年後の未来のことなんて、誰にも何も解らないじゃん?
組織のいいなりになって信じた者が、けっきょく馬鹿をみてる”今”じゃないの?
”未来は盤石”だのなんだのって、さんざん絵に描いた餅見せて言い聞かせてさ・・。
まぁでも、考えようによればXX夫妻も会場提供某さんも、バラ色の幸福境涯かもしれないよね。
最終的には国が面倒みてくれて、晩年困ってないんだからねぇ?」
私がこう言うと、母は険しい表情で
「そんな(生活保護受給)状況を、バラ色の幸福境涯なんて思っていられるのだとしたら、
神経を疑うわ・・」と、珍しくまともな発言をしました。

このとき、私は確かな手ごたえを感じたのです。
あれっ?今までの母とは違うぞ?と。
今までならば、あさっての方向を見つめてむちゃくちゃなこじつけをしてでも、
同志を庇い・何かを守ろうとしたはず。

私の母は、基本的にまじめなほうだと思います。
そして馬鹿みたいに信仰を保つ優位性や・神聖さを信じ切っている。
学会組織だって一般社会と一緒で玉石混交、いい人もまともな人もいるけど、むちゃくちゃで
いい加減な人だっている。そんなの当たり前です。が、母はお花畑の住人。
母にとって、少なくとも身の周りにいる学会員はある時までは「あらゆる意味で恵まれた人」
「良識ある人」という認識だったのだと思います。
現世利益を盲信し偶然の幸運を「功徳」と呼び・勝利勝利と口うるさく声高に叫び
「生活で実証を示す」ことが身上だったはずの、学会同志たち。
それが実際のところ、母の価値観では看過しがたい「生活保護受給者」であったという
寒々しい現実を知ってしまったことで、ある種の幻想が崩れたといえるかもしれません。
母は偶々、父と結婚したことで経済的に苦労ない老後を送れているだけです。
それは単純に運が良かったとしか言いようがなく、自分だって一歩間違えばあちら側だった
可能性は大いにある。 だのに、そのことが見えていないようにこの時は感じました。
ただただ「創価信仰をたもつ人の盤石」を、過信しすぎたことで
「そうではない同志」にたいして疑問を抱いている、そんな風に思えました。

最後に断っておきますが、受給要件を満たしているのならば生活保護をうけることは当然。
刻々と変化する社会情勢の中で、老齢期に生活破たんするパターンが多いことも
報道などで承知しています。
学会員が、そのような状況下にあったとしてもなんら不思議はありません。ただ、
「保護受給を功徳だ」と言ってのける人がいることについては、理解に苦しみます。

組織のスローガンともいえた「社会で実証を示せ」という言葉も、今となっては
しらじらしく感じてしまう。
誰もこんな未来がくることは、予想していなかったでしょう@創価脳な面々。
かくいう私も、お花畑の青年部時代にみていた壮年婦人部の方々が(一部とはいえ)
20余年後のいま、下流老人になっているなどと、思いもしませんでしたから。

(続きます)
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一凶なる強迫観念

母の入院つきそい中にあった出来事は私的に内容が濃く、
なかなか話が先に進まずもどかしいのですが、もう少し続けさせてください。

お見舞いにやってきた婦人部3人組。全員が圏やら何やらつく、幹部です。
うち一人は20年前まで、実家のすぐ近くに住むご近所さんで仮にAさんとします。
同市内で転居され、現在は所属地域が違います。
同じ地域に居たころ、母はAさんと懇意だったようですが、転居後は顔をあわせることも
少なかったようで、久方ぶりの再会を懐かしんでいました。
また、あとの2人(BさんCさん)も、幹部のおばと懇意であり、
「学会組織の軽い顔見知り」とは違う、旧知の関係。年齢的に母と同世代です。

ひととおり、経過経緯と現状を聞いてもらったあと母は
「この年齢になって、こんなこと(入院手術)になるとは思ってもいなかった。
自分が一凶を乗り越えられなかったことに原因があると思っている。
私の一凶は、臆病な心。いつも肝心な時に、引いていた。
信心でひいてはダメっていうのに・・」と、自身が父生存時、何度も役職の話を受けていたのに
すべて断ってきたことを挙げました。
つまり、今回の入院手術の原因は「学会の役職をずっと断っていたから(その罰)」とでも
言いたいようでした。
私は内心、口あんぐりで聞いていました。(いや、実際口あけてたかもしれません・・w)
”いやいや、んなわけないだろ!!”と、心で激しくつっこんでいました。
母は言葉をつづけ、父のせいにして役職を断り続けた事を実は悔いていた・そのぶん父亡き後、
少しでも組織に尽くそうと頑張ってきた。
それでもやっぱり、自分が過去に殻を破れなかった事をいまだに後悔し・尾をひいている
気がする・・と。
「過去に殻を破れなかったこと」とは、言うまでもなくですが、アンチの父に背いてでも
自分は役職を受けるべきだった・・という事です。
これを聞いて、ただただ驚くだけでした。
まさか母が、そんな風に今回のできごと(入院手術)の因をとらえているとは・・。
戻らない過去を、今更どう変える事もできないし語りようもないですが、「もし」母が父生存時
役職を受けていたならどうなっていたのか?
少なくとも、良い結果にはならないと私は思います。 父はますます、母から心を離したでしょう。
離婚という道に進んだかもしれません。
しかし、母はそんな風には考えてないようで、自分が一歩殻を破ることで父が変わったかも
しれない=アンチの父が最後は理解者となったかもしれない! くらいの、良い結果を想像して
「やらなかったこと」を悔いているように見受けられました。

自身や家族が思わぬ悪事に遭遇した際、創価脳の大半は「宿業がでた」「宿命転換の時来り」
と捉えます。
そしてなぜ自分や家族がこんな目にあってしまうのか、その理由を信仰履歴に探そうとする。
家族の誰かがアンチ創価で、学会の悪口ばかりいってるからこうなっただとか・
創価入会前の実家の信仰がいわゆる「邪宗」だったからだとか・
自身が組織の同志に怨嫉をいだいていたからこうなったのかもしれないとか・
お題目あげてなかった・折伏できなかった・会合さぼりまくってた・財務頑張らなかったとか、
およそ一般人なら途方もつかないような事柄を「自分や家族の不幸の原因」としてしまうのです。
私の母は、いつも元気で病気ひとつしないというタイプではなく、どちらかというと虚弱体質。
家で寝込むという事は、それほどなかったけれど、常に病院通い&薬が手放せず。
疲労がピークに達すると、数年に一度かは救急車で運ばれるというようなこともありました。
けれども手術を要する入院をすることは、この年代までありませんでした。
その状況をおそらく「自分は信仰のおかげで守られている。大病までいかずに済んでる」と
ずっと感じてきたに違いなく。
高齢期を迎えて入退院を繰り返すという話は、ざらにあります。私の周囲でも、実の両親や
舅さん姑さんが入院しただの・介護施設を探しているだの、この手の話題がよく聞かれるように
なってきました。
40代も半ばすぎ、周囲も私もそんな年代になってきたんだなぁ、と思っています。
だから母の入院手術についても、殊更ネガティブにとらえる事はありませんでした。
しかし母本人にとっては、この時期の現実が相当重かったのでしょう。
(自身の高齢化という現実はすっとばしで)
「それなりに信心頑張ってきた自分が何故いまこんな目に?」というような。
母をそう思わせたのは、まぎれもなく組織から受けたマインドコントロールが原因です。
今でも幹部は会員に問うのでしょうか?「自身の一凶はなんですか?」と。
一凶という言葉を使い、当人から「怖れ」をおびき出し、巧みにだまくらかしている。
宗教依存を強めるためだけに、利用しているのです。
立派に精神的迫害であり、こんなもの「指導」なんて呼べたものではありません。

幹部Aさんは
「一凶だなんて、そんな風に自分を責めちゃだめよ。
私が何度もしつこく(担当当時)役職の話、あなたにもっていったから言ってるの?」と
優しく言いました。
これも初耳だったので、エーッ?!そうだったんだ・・知らなかったと驚き。
同席していた2人も、そうよそんな風におもっちゃだめよ!と同調。
「あなたは旦那さんが反対でも、よく頑張っていたじゃない。知ってるわよ」
「そうよ、祥蘭ちゃんだってね?青年部、すっごく頑張ってたもの。みんな知ってるわよ」とw
内心”私に創価話題の水を向けないで~!”と思いましたが・・。
すると一人の幹部が
「私ね、おおやけにはしてないけどね、いま癌の治療中なのよ」とカミングアウト。
思わず私は「えっ?!」と声をあげてしまいました。
ぱっと振り返って「祥蘭ちゃん、いま他県に住んでるんだよね?他言は無用よ~」と笑顔で。
仮にBさんとしますが、まったく闘病中になんて見えない。実に健康的に見えるのです。
もともとおきれいな方で、後で気付きましたが、完璧ともいえるヘアスタイルは
おそらく高級ウイッグなのだと思います。
Bさんは「心配されちゃうし、立場もあるから言わないことにしてるの。
再発だしね・・」と、公表はしていないけど、何度めかの癌治療だと話しました。
現場最前線でずっぱりの幹部ではなく、幹部指導でお呼びがかかれば出ていきます・・という
かなり上の立場ともなれば、がんを公表しないでいられるのも理解できます。
自分のタイミングで、治療も入院も選ぶことができるから可能なのでしょう。
幹部指導役の代わりは、いくらでもいますしねw
しかし最前線の現場幹部(本部以下)なら、まずそんなわけにはいきません。
そしてAさんも「私もね、OO病で長く通院してる。もう治らないってお医者さんにいわれてるのよ」
3人目のCさんも「私も健康診断でOOの数値が悪くて~云々」と、
さながら病気カミングアウト大会のようになっていました。

幹部だって病気する。あたりまえのことです。誰人も生老病死は、避けようがありません。
その病状がSTAY(治らない)状態であっても、それを「良し」としている。
昔の学会まわりでは、考えられなかった事だなぁ・・と私は変化を感じてしまいました。
昔ならば「絶対に治します!」と、決意発表していました。
”良くならなければ信心してる意味ない”そんなマインドが、老いも若きも学会員の
共通項だったはずです。一昔前までは。
ふと思い出したのが、私が部長当時に50代の壮年幹部が末期がんをカミングアウトし
半年後にお亡くなりになったときの事でした。
お通夜だったか葬儀だったか忘れましたが、旧知の幹部が挨拶で言っていました。
「彼は病に倒れ、亡くなってしまったけれども、決して心は癌に負けなかった。
さきほど彼のお顔を拝見して確信した。彼は勝った。見事な大勝利の姿でした」と。
当時はその言葉をよく吟味もせずに聞き
闘病の末、亡くなった同志への尊厳あるお弔いの言葉だと受け止めていました。
亡くなった幹部もカミングアウトの際「絶対に癌に打ち勝ち、現場に戻ってまいります」と
皆の前で決意発表していたのです。
支部でも幹部の病気平癒のための唱題会がとられていました。
それでもやはり、死を避けられないことがある。 そんなの一般社会では常識です。
けれども、当時組織の中では誰が口にせずとも、ひそかに「動揺」が起きる事でした。
葬儀だか通夜の席で語られた
「彼は勝った。見事な大勝利の姿でした」は、そんなメンバーの動揺を鎮めるための
言葉だったのか?
あるがままの「死」を受け入れ、悲しみ、故人を偲びながらも・遺族をそっと見守り
必要な時に励ましの言葉をかける・・そんな当たり前のことで、本当はいいはずなのに。
とにもかくにも「勝った」と言いたがるその精神性が、身近な和平を遠ざけていることに気付けない。
そんな宗教団体、私はまっぴらごめんですw

また、
”信心や学会活動でも病が治らないことがある(注・当然、適切な医療を受けた上での話)”
これが暗黙の了解となり、病は治らないこともあるし・治らなくてもかまわない・・という
風潮に現在なっているのだとしたら、前回も書いた宗教の優位性など、存在しないも同然です。
それでも「自分たちの信仰が一番なんだ」と、譲らないのはよほど頭が悪いのだろうか・・。
と、私は不思議でなりません。
余談ですが、近頃学会員で「家族葬」を行う人がたいへん多いと聞きました。
実際、私の実家方面でも、有名な活動家一族の長老が亡くなった際も家族葬で送られ
一部の学会員から「おかしい」「水臭い」「自分もお別れしたかったのに」と、文句(?)が
出ていたとのこと。
長老は体調を崩して長期の入院をし、病院で亡くなられました。
食事が摂れず胃ろうをしており、亡くなった時はガリガリにやせ細っていたとのこと。
きっと、そんなやせ細った最期の姿を他人(学会員)に見せたくなかったのだろう・・と聞きました。
それが組織内に伝わる「理想の臨終」とは違うから、という事でしょう。
親がバリで子供がアンチという事でなく、創価脳であっても家族葬を選ぶ時代になった事にも
変化を感じずにいられません。

話を元に戻します。

幹部の皆さま方は母を元気づけるように
「とにかく、自分を責めたりしないでね。
この年齢まで(70代まで)生きてこられただけでも、大きな功徳を頂いているじゃないの!
病になったって、どんな境遇でも明るく生きて、信仰をたもつ人の強さ・信心の素晴らしさを
周囲に伝えていく。それが私たちの使命」(要旨)と話していました。
「今はとにかく養生に専念して、元気になってまた一緒に頑張りましょう」と言い残し、
お三方は帰って行きました。

改めて、創価脳な見舞客の発言を聞いて感じたことなのですが
末端会員になればなるほど、「信仰でぜったい治癒する」「信仰で良くなる」という
現状打破・変革のメッセージを会話の端々に込めているのに対し、
大幹部は「現状を受け入れましょう・養生しましょう」と言っていたのです。
「今こそ信心よ!」「信心が試されているよ!」なんてことは、幹部連中は一言もいわない。
昔なら絶対に聞いたであろう、「強情の大信力」なんて言葉もまったく出てきませんでしたw
いったい、なんなんだよ?
いつからこんな、物分かりのいい事言う路線に変わったわけ?
ひとつ思い当たったのは、母がもう高齢者だからかな・・?という事。
私が「強情の大信力」なる幹部発言を耳にしていたのは、私自身青年部で若いころでしたし、
そんな威勢のいい言葉を発していた幹部も~50代でした。
老い先短い高齢者に、強い言葉はさすがに吐けないというところなのでしょう。
池田老人も老衰のため「後事を託す」という大義名分のもと、雲隠れしているくらいですし・・。
もしも、未だにピンピンして、同時中継スピーチ指導も毎月開催・露出過多・
海外の要人にだって、ばりばり会っちゃう・先頭に立ち陣頭指揮をとっていようものなら・・
「池田先生を見習え!80を超えてもまだ第一線で闘っておられるんだよ!」なんて指導が
高齢者相手でも、飛び交ったかもしれませんねw 皮肉なことです。

それから、非公開コメントで質問があったのですが、当時の母の態度について。

私が「学会活動で功徳が出るなんてオカルトだ」と言ったことが発端で
「今後の付き合いを考える」と言った母でしたが、入院という窮地(?)に立ったら
私を頼ってきた。
このことについて、当時の私も「意外」だと感じていました。
家族の関係性でいえば、このときは母にとって姉が一番の頼りでした。その姉が不在。
消去法で兄の嫁さんに頼ることは絶対に出来ない(父の法事以来、会っていない上
日常的なやりとりも一切ない)ため、私しかいなかったのでしょうw
私は母に伝えたとおり、信仰の絆が失われたって親子であることは変わりないと
思っている為、付き添いをすることは当然と考えました。
幸い、義家族の助けもありましたから引き受ける事ができたのです。
ここでおかしな意地を、母も私も互いに張らなかったことは、結果的に良かったと思います。
実家へ出向く際はちょっと緊張したけれど、後は至って普通で、今に至ります。

姉に付き添いをバトンタッチし自宅方面へ戻る際、母は病室で私に握手を求め
「ありがとう。娘がいてくれて、良かったなぁって感謝してるよ」と言いました。
私は「感謝するなら、主人や義両親にだよ?」と返し
母は「もちろんだよ、わかってるよ」と答えて。

いま振り返ると、この時期の出来事は母が変節を迎えるベースとなったように思います。

(続きます)