解釈の変更

今年の春休みに帰省したときのこと。
母の信仰観に変節を感じたやりとりがありました。

癌再発で入院したおばの見舞いに同行。
おばは外見こそ痩せてしまいましたが、口は達者。
声も大きく・・というか、アンチな私がやってきたからか?気勢を張っている感じがしました。
”病になんて負けてないわよ!!生命力よ!!”的な。
池田老人マンセーは相変わらず、サイドテーブルの上には新聞や創価系書籍が積まれ。
池田夫妻の写真入りフォトフレーム(B5サイズ)が飾ってあるのを見て、一瞬唖然としました。 
ここは北朝鮮ですか?!と・・w
しかし、おばにとっては夫妻が”マイアイドル”状態なんだよね・・押しつけでやらされてる訳でなく。
写真を見たら、元気が出るんだろう(創価脳流にいうと元喜?w)
こんな写真飾って、ださっ!趣味悪!と思うのは、私の美意識からであってw
おばはそれを生きる活力としている・・これはただ価値観の違いなんだな・・と思い直し。

その日の夜、母いわく
「姉(=おば)の癌は治らないって、医師がいってるし本人も解ってる。
 でも、姉は今世で宿業ださせてもらってありがたいって、最後まで闘いきるって喜んでる。
 闘いきっておけば、来世は病気をしない境涯で生まれ変わってこれるから。宿命転換だよね。
 だからいま病も苦でない。ありがたいことなんだよ」と。
私は思わず質問しました「それって、完治せずに病死しても宿命転換した事になんの?」と。
母は「そういう事。今世で因を断ち切ると、自分が決めて祈りきったらね」と答えました。
え?そうだったっけ?私が昔習った解釈と少し違うような・・と思いましたが、敢えて口にせず。
そして母も、2014年に手術した部位に再び疾患がみつかったことを話してくれました。
再手術は年齢的に厳しい為、今後新しい治療法を試していくことになったと。
「それでも私はいま(疾患が)見つかってありがたい、と思ってる。
 ここでしっかり、祈りきっておけば、来世は安泰だからね。
 この(病の)因をいま出してもらえて、良かったよ」と。
病気が再発したからと、落ち込むのではなく、前向きに受け止める・・それはいいことかも
しれません。
母は病になぞらえて、私自身におこったとある出来事についても
「しっかり御本尊様に祈り切っていきなさいよ。お題目しかないよ!」とアドバイスが。
もちろん、右から左へ聞き流しました。

私が昔、組織で聞いた「宿命転換」の解釈・・たとえば病気であれば
”祈りとして叶わざるなし”で”湿れる木より火をいだし”な勢いで祈ることにより「完治」することを
指していました。
治療に何年もかかる、と医師の見立てを短期完治した・・等もあてはまったと思います。
が、その病気が治らないままで・死因が病で亡くなる事は「宿命転換」とは呼ばなかったような?!
あくまでも「克服(=完治、寛解)」が、宿命転換できた!という基準だったはずなのです。昔は。
いうまでもなく、組織内での基準であり、日蓮大聖人がそう明言したわけではない・・
(それどころか、日蓮自身は「宿命転換」なる言葉を書き遺してもいない・・ということを
覚醒後に知ってたまげた記憶がよみがえります。 一体誰の造語なんでしょうか?!)
ベースには「不可能を可能にする信心」という前提があり←これも、誰が言いだしたのか?
もう今となってはおろすべき看板じゃないかと思いますw
15年ほど前の話ですが、放射線治療を拒否し「お題目で治す!必ず治して現場に戻ります!」と
宣言していた同志が、数カ月後に亡くなった時、葬儀では微妙な空気が漂っていました・・。
「お題目で治す!」こんな決意に、一般人なら「無茶言うなよ」との意見を当たり前にもつでしょうが、
創価脳はまず「無茶」だとは思いません、当然お題目の力を信じているからです。
それを否定してしまっては、学会員として成り立たなくなりますからw
お題目の甲斐なく病死するという事実を目の当たりにして、幾許かの動揺があったのでしょう。

今回の記事を書くにあたり、一般活動家の認識をしるべくブログなど検索し、いくつか読んだの
ですが、やはり「完治・寛解が宿命転換の証」と捉えている方がおられました。
けれど当事者や家族が祈っても・活動(新聞推進や対話等)を頑張っても、病状は悪化していく。
このまま治る見込みなく死ぬのだろうか?心が折れそうだ・・と素直な胸の内を語っていました。
それを読んで「やっぱり、宿命転換って完治ベースだよね?昔、そう言ってたよね。
完治もしていないのに、克服したとか・因を切ったというのはちょっと違うよなー?」と思い。
だのに、ついているコメントを読むと、母と同じような見解で
「祈りきった者にしかわからない境智がある」「完治だけが宿命転換ではない、生きざまにそれが
あらわれる」云々とありました。
結局はポリアンナ症候群に収まるのだなぁ・・と思い。
あくまでも自分の信じているものを否定しないように、都合良く折りあうのです。

以前頂いた非公開コメントで、覚醒のきっかけが「同志のマウンティングに疑問を持った事」と
教えてくださった方がいました。
その方はお身内を若くして癌で亡くされ、大変落ち込んでいたとのこと。
同時期に癌を克服した地域同志がおり、その同志が
「家族全体でまぎれもない絶対勝利をかちとった。勝利なくして信心はありえない。
 勝利したものにしかこの確信はつかめない」と勝ち誇っていた事に大きなショックを受けた、と。
(↑この同志はあまりにも配慮がなさすぎると思いますが、それもまた創価脳の常で、
 自分さえ良ければ、それでいい。選民思想のなせる技です)
自分たちだって家族全体で祈り動いたが、がんを克服することはできなかった。
自分たちの信心は何か間違っているのだろうか? 病死=敗北なのだろうか?と悩み。
指導を受けても、しっくりくるような・腑に落ちる答えは無く・・。
このような経験を持っている方は、多数おられると思います。
癌が日本人の死因1位であり、完治しないまま亡くなられるというのは、組織内においても
決して珍しい事ではありません。
私の知る限りで、学会員で癌を完治した人は1割にも満たない。
寛解しても後年再発して亡くなられた、ということだってありました。
それでも葬儀の際は「闘いきって安祥として霊山浄土へ旅立った」
「(病気で亡くなっても)見事な宿命転換の姿」とか幹部が挨拶しちゃうよねー。
あれはいったい、なんだったんだ?今さらだけど。
結局は「(自分達学会員が)いいように思えればそれでいい」という話じゃないかw
必ずしも「完治」が勝利ではない・・という事にしないと、敗北者→脱落者が続出してしまう故、
「今世病気になって万一治らなくても、信心しておけば来世は病気にならない」なんて説を
採用し、条件緩和で、信じているものに都合良く折り合う手法を取り入れるようになったのか?と
思うにいたり。

ふと去来したのは、2014年の手術前夜「生きて帰れるのだろうか?」と呟き、術後は涙ぐみ
この年齢になって大病をしたのは一凶を断ずることが出来なかったからだ・・と、見舞いに来た
幹部の前で自省していた母の姿と(この記事)・
2015年2月、おばが癌を患ったが公表せず、手術が終わるまで誰にも言ってくれるな!と
恐怖に怯えていた事でした(この記事)。
母もおばも、70代も半ば過ぎて思いがけず大病に遭い、一時は怯んだのだろう。
「これまで活動も信仰もこんなに頑張ってきたのに何故?」と。
おそらく、病に遭うまではおばも母も、選民思想でこう思っていたはず
「他の学会員がそうなっても、自分に限ってそれ(大病)はない」。
しかしそうなってしまったことで揺らいだ・・が、この信仰だけは絶対と思いたい。
人生の殆どをかけてきたこの信仰を、いまさら否定したくは無い。
そこで、新たな解釈を手に入れた。
病が完治しなくても自分が「闘いきった」「祈りきった」とできれば、そこで因が断たれるんだ・
いま治らなくても、来世が安泰だから、いいんだ!と。
自分で見ることのできない「来世」に希望を見出し、今この現実を受け入れるという解釈。
うーん・・。
これって、宿命転換なんだろうか?  本人がそう思えるなら、それでいいのかもしれないが。
ただ、一つ言えることは、すべて自分でそう「思って」そう「決める」だけでいいのなら、
じつのところ、特定の宗教(団体)に依らなくてもいいのです。

なにか特別な教えが・宗教行為が無ければダメなんだ、という次元では既になくなっています、
”自分で思って、そう決めるだけ”の話ならば。
宗祖日蓮もそこ(宿命転換)に言及していないし、ましてや誰ひとりとして、結果としての「来世」を
見たことが無い。
こんな不確かな話ってあるだろうか。前提からしてgdgdだということに、なんで誰も気付かない?!
さらには「創価学会に加入した状態で日蓮仏法をベースとした信行学に励む」←これがないと
”宿命転換はできない”(逆にこれをすれば宿命転換ができる)だなんて、理屈が通らない。
それこそ「学会活動」とかいう、新聞推進や票取りなんて行為は、全く無用な事でしょう。
そんなことに時間とお金を費やすくらいなら、もっと自分を喜ばせる方向に使えばいいのです。
もちろん、学会活動がどうしようもなく好きで好きで楽しくてやってるんだ!というのなら
個人の娯楽を、止めはしませんがw

これまで母は一度も学会(大本営)を批判した事はありませんし、会合に参加しなくなっても
大本営および組織を、否定も肯定もしていません。
脱会について口にすることもないし、新聞は購読を続けています。
新聞購読に関しては、母にとって組織=ご近所づきあいの延長線上ということもあり、
つきあいの一環としてやめられない・・という側面があるのだと思います。
会合にはほとんど出ていませんが、近隣同志とのつきあいは続けていますし、
周辺へ非活宣言をしたわけでもない。 実にゆるっとしたものです。
そのあたりどういう気でいるのかは、聞いていません(というか、聞かない事にしています)。
御本尊を日々拝し祈る。悩んでいる人がいたら、題目をあげるように勧める。
その行動が現状母の信仰スタイルとなったようです。
他人に勧めるのはいかがなものか?と思いますが(どうしてもその先に本流→組織入会が
ちらつくので)
表立って活動をしなくなっただけでも、ずいぶんましだと私は思っています。
そして、脱会する・しないには、私はもう拘っていません。
母らしく、楽しい余生を送ってくれたらそれでよし、と思っています。

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母との対峙が始まってから、まる3年。
私が創価問題に躍起になっていた頃は、全くと言っていいほど進展がなく、
むしろ母の独善性ばかりを知ることになってしまい、残念でなりませんでした。
それは、これまで綴ってきた通りです。
風向きが変わったのは、母に(絶対言えないと思っていた)創価信仰オカルト論をぶつけた事で
(この記事)母の本音が飛び出し、姉に役割をシェアしたあたりからです(この記事)。
以降、私は創価問題に「躍起」になるのをやめました。
自然とそうなった、というのが正確だと思いますが、力が抜け必要以上に創価問題に対して
腹を立てることもなくなり、意識を向けることも少なくなっていったのです。
これが「問題解決のために、問題を手放す」ということなのですが、それを知らずのうちに
実践していたんだ・・!と気付いたのが、「とある出来事」に悩みに悩んで、答えを探していた
時でした。
「とある出来事」に遭ったおかげで、他にもたくさんの気付きがあり、
自分が創価や日蓮仏法を否定してもなお、長年刷り込まれてきた「思考のくせ」を固く握りしめて
これまで生きてきた事を知り・唖然としました。
次回から新カテゴリにて、書いて行きます。

この記事をもって、いったん「創価脳な親との関係」は〆させていただきます。
長らく読んでいただきありがとうございました。

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殊更ネガティブという罠

2015年末。
「とある出来事」から精神的に疲れ、正月の帰省も止めたいと思っていました。
が、12月の七回忌にも行かず正月も帰らないとなれば、「何かあったのではないか?」と
母が勘ぐるだろう。
それがイヤだったので、気は進まないながらも帰省しました。
(今思えば、無理しなくてもよかったなwと思いますし、
何かにつけて、いちいちどれだけ母を意識していたのか自分!と、恥ずかしい思いです・・)

とある出来事を話せば、母はこう言うだろう
「それみたことか!信心をおそろかにし・学会を誹謗した、あんたのせいでそうなったんだ!」
=罰が出たと、いの一番に責められるに決まってる・・と想像したのです。
また、せっかく非活道を歩み始めた母が、「自分が会合にでなくなったから罰が出たのか?」と
勝手な”玉突き責任論”を感じ、活動に復帰したら目も当てられない!との懸念も有りました。
何かと言えばすぐ、信仰状況と結び付けて説教をぶつ。創価脳な親の脊椎反応はもうたくさん。
ただでさえ、とある出来事にショックを受けているのに、母と無用なバトルを繰り広げるなんて
疲れが増幅する一方。それは避けたい。
こんな想いが一瞬にして頭の中を駆け巡り、創価脳な親子関係って本当に異常だし・
つまらないもんだな~・・と悲しくなり。
「こんな困ったことがおきて・・」と話した時、普通の親子だったらどんな会話になるのだろう?
”それは大変だったね・・気を取り直して・気を強く持って・頑張りなさい”こんな感じ?
単純に励ましの言葉または、叱咤激励するにしても素行や言動について注意する感じかな・・。
少なくとも、”特定宗教団体にたてついたからだ!”とか”活動に参加しなかったからだ!”
なんて会話は、普通の親子にはないよね。
現実に、私と子供の間でそんな会話、ありえない。
”ネガティブ”な話が、非常にしづらい。
創価脳は「ただあるがまま」を受け止めず、創価教学フィルター越しだから、話が通じない。
異次元の解釈をされてしまうという事が、創価脳の親を持つ家族にとって何より一番の不幸だ・・
と感じていました。

2016年正月帰省時、いつものように父のお墓参りに行き、姉夫妻をまじえ食事をし
何事もなかったかのように過ごして、居住地に戻りました。
が・2月に入り、「とある出来事」を話さざるを得ない状況がやってきました。
その頃にはもう、事態は終息へむかっていたのですが「実はこんな事があって・・」と
カミングアウト。
私は身構えていました「罰が出たんだ・・」云々の嫌味と説教がとんでくることを。
だがしかし、出てきたのは想定外の言葉。
「まさかだね・・大変だったね。 
 私の事はなにも心配いらないから、自分の家族をしっかり支えてやんなさいよ」と。
エー?!
まさかの説教なし?オカルト罰論なし?と、驚きました。
ただ直後に「今こそしっかりお題目あげなきゃ。今年は100万遍チャレンジだよ!」とorz
そこ(題目)だけは、何が何でも譲らない母。
これ、今聞いて大丈夫かな・・地雷踏むかもなwと思いつつ、母に尋ねました。
「”学会活動しないから罰が出た”って言わないの?いつもそう言ってたのに」と。
母は「究極は御本尊様を裏切らないことでいいの。信心の根本はお題目と御本尊様以外に
ないんだよ!」と、言ってのけ。
なんか嘘みたい・・w と、私は信じられない思いでした。
前年末に「会合に出るのを止めた」とは聞いていたけれど、ここまで母の創価(活動)離れが
進んでいたとは想定外で、ただ驚きでした。

思い起こせば、ちょうど一年前の1~2月、義父さんが倒れ入院した事を連絡した時、
母は珍しく「罰論」を持ち出しませんでしたが、その裏には信心強情な母方おば(もと学会幹部)が
癌で入院したという(創価脳的に)「不都合な現実」がありました。
当時の私は条件付きで母が罰論を口にしなかったのだろうと、この事例は「特別ケース」と
思っていました。
もし以降に、おばの病状が奇跡的に良くなる(癌克服)等があれば、
母の選民意識&学会宣揚は再び勢いを取り戻し、「そら見たことか!学会正義だ!」と、
活動にまつわるオカルト功徳論をふりかざし・返す刀でオカルト罰論をもって
こちらを斬ってきたはずです。
けれど残念ながら、おばの病状は一年経過後も良くならずで、緩やかに進行しています。
また、2015年以降に他の母方親戚(バリ活)にも、ネガティブな出来事がありました。
前年度から母の身辺に続いた「良い」とは言い難い出来事の数々に、バリ活な親戚のあれこれも
積み増しされ、「罰論」で他者を容赦なくぶった斬ってもいられなくなったのか?!
いや、昔の母はそれでも自分たち創価脳のことは都合良く
「転重軽受」「変毒為薬」などと棚に上げ・
敵対勢力には「仏罰が出た!」と、恥ずかしげも無く言っていました。
そんな過去からみれば、母が罰論を封印した=学会活動にまつわる効力(功徳)や万能性の
否定とも取れ、覚醒の第一段階に入ったんだろうと、私は見ています。

そもそも、学会活動は信仰行為ではありません。にもかかわらず「現代の仏道修行」と
位置づけ・教義に盛り込んだことで、大企業化に成功したといっても過言ではないでしょう。

創価ロジックから抜けた私からすれば、ここ数年の母や創価脳な親戚におこっている
大病(癌)や急逝や、よからぬ出来事は「よくあること」という評価です。
高齢者が大きな病気を患うのは珍しくもなんともない。
総合病院のロビーなんていつ何時も老人だらけです。
また、それ以外の出来事に関しても、中高年ともなれば世間的によくある話だったりで
殊更ネガティブに受け取るような事ではない。
けれど、創価脳はネガティブな事象に大変敏感です。
創価脳には、ネガティブがおこる→「今こそ闘う時!」とスイッチONになるアプリが搭載されて
いるゆえ。
「難がおきてこそ本物の信仰」という教義があり、この信心で難を必ず乗り越えられる!とし、
組織はこれを巧みに利用している。
お題目だけではダメ。学会活動(いうまでもなく集票や献金・新たな手駒ゲットのことです)と
両輪そろってこそはじめて「信仰」なのだ!との刷り込み。
実は、不安やネガティブを要素に・不安やネガティブを煽って・そこにつけこむ「商売」は
世の中に横行しています。なにも極悪w宗教団体だけではありません。
不安をあおればすっごく儲かる、そこを生業としている人たちがいて、仕掛けている。
その「罠」、仕組みを、知っておくといいかもしれません。

創価脳の不幸なところは、問題を解決すべく、問題の本質からまったくかけ離れた
「学会活動」をジタバタやってしまうところにあります。
また、組織とは衆人環視の場。創価脳は必要以上に「他者」の目を気にします。
会合席上でネガティブをカミングアウトしようものなら「決意」させられることは必須。
(周りなんて関係なく、自ら勝手に決意することもありますが・・)
信心で実証を示したい!と思うがあまり、望む結果を出そうと重要視するがあまり、
「学会活動」という、目の前でおきている問題と一切関係のない事柄に躍起になります。 
また思うような・自身の望む結果がなかなか出ないとなると、
自分の何が悪いのか?の原因を活動内容のなかに見出そうとする。
新聞推進できてないからか・仏法対話がお題目がたりてないのか・友達にもっと熱く語らないと
わかってもらえない・・自分の気合が足りないから、結果が出ないんじゃないか?云々と。 
実際、そんなの全く関係ありません。
しかし悲しいかな現実問題と信仰を「ひも付き」にされているため、このループに陥ります。

実は「闘う」なんてことはしなくても難局大嵐は「過ぎる」し、たいていの問題は解決する。
多くの一般人は皆、そうしています。
無駄にジタバタ闘うなんてしなくても、じっとしていてもそれなりの結果がやってくる。
私がこの法則を身をもって経験したのが「とある出来事」でした。
(引っ張ってますが、これは新カテで書かせていただきます)

一般人がじっとしていても得られる「良い結果」を、創価脳はさんざんジタバタした挙句に
「祈りきって闘いきって結果を勝ち取った!」と大喜びします。
一般人がじっとしていて得た「悪い結果」も、創価脳はさんざんジタバタした揚句に
「これは意味ある敗北(結果)。今はわからなくてもそのうち解る時がくる」と納得しようと努めます。
好きでジタバタするぶんには、その人の自由ですが、他者を巻き込みいやな思いをさせたり・
身体的精神的疲労を招いてまで、やるような事でしょうか?
勝利しても負けても・良くても悪くても、創価脳の背後にはピッタリと「大本営」がついている。
創価脳が感情のバロメーターを上げ下げしつつ、ジタバタ各種活動する間、大本営は背後にいて
静かに確実に利を得ている・・創価脳から搾取しているわけです、時間やお金や、諸々を。
大本営なんていなくても、良くも悪くも結果は出ますし、問題は解決するにもかかわらず、です。
このげにおそろしきシステムに、実家の母もうっすら気付いたのかもしれません。

ただ、母は日蓮仏法(?と、呼べるかどうか疑わしい。創価仕込みなので・・)だけは・
お題目の力だけは絶対なのだ!という「信仰」に関しては、未だ一歩も譲りません。
人間、大嵐や難局に遭遇しているあいだは不安でたまらなくて当然です。
そこをお題目を上げる事や・神社や寺院や教会で御祈祷してもらったりすることによって、
ひととき心の霧を掃うのは、有用であると思いますし、心のよりどころは必要です。
自分の内におさまる信仰行為であれば、それはいいと思うのです。祈りに罪はありません。
あくまでも自己完結、他者を巻き込まなければ問題はないと私は考えています。
どんな宗教団体であれ、問題となる・私が最も嫌う点は
「自分が救われるために他人をまず救う」というような、耳当たりのいいことを推奨している
点です。
集票活動をも「下種」や「現代の仏道修行」とうそぶき、さも「いいこと」をしているように思わせ
会員を操っている組織(それを鵜呑みにしている会員自身も問題ありますが・・)。
まさにゲスの極みでしょう。

また、母が自分の信じるものを否定したくないがため「教義解釈の変更」をしていることに
先日気付きました。
(これは高齢信者の皆さまに多い傾向かもしれません、次回記します)
私自身、2012年の覚醒時、組織に対してはすぐに拒絶否定することができましたが、
日蓮仏法に関しては、選民思想が邪魔をしてなかなか思いきることができませんでした。
すべてが「思い込み」だと、気付く事が出来れば覚醒はあっという間だと思いますが、
それをハッキリと認めてしまうのに、母はあまりにも年を取り過ぎているのかもしれず・・。
この点について、私はそっとしておくつもりです。

次回で「創価脳な親との関係」はいったん〆とします。

(続きます)

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2016年5月のいま、冒頭に書いた昨年末の私の心情を振り返ってわかることは、
創価ロジックから脱却してもなお、私は「母を悲しませたくない」と思っていたんだな・・
という事です。
ネガティブな話をして「そらみたことか!」と言われるのが「うざい」から、
あくまでも自分側の問題で”自分がイヤな思いをしたくないから” 隠しておくんだ・・と
当時は思っていましたが、それって実は「母の反応」をとても意識している。
まるで0点のテスト用紙を、みつからないよう隠している子供とおんなじだな・・と気付いて、
笑えるのです、今は。

学会2,3,4世の福子の皆さんは、おそらく「他人軸」で生きている人が多いと思います。
親子関係で苦悩しておられる方は、大半がそうでしょう。 
物凄く単純なことだけれど、「他人軸」思考に気付けて以降、私はとても楽になりました。
そのあたりも、新カテゴリで書いて行きたいと思っています。

独善的臨終観アゲイン

2015年11月(夜の会合に出るのをやめたと聞いた後日)母に電話。
12月の父の七回忌は、母と姉夫妻だけでやってもらう事になった為、
当日に合うよう、お供え物を手配した旨連絡を入れました。
世間話ついでに出てきた話題が、とある学会同志の訃報についてでした。

私も知っている方で、入会10年前後の独居老人です。
私が実家に住んでいた時期、その方は非学会員でした。
当時(入会前)の印象しかないのですが、ちょっと変わり者で町内じゃ有名なおばさまでした。
御主人に先立たれ・お子さんは独立し全く実家に寄りつかなくなっていた様子で、
ふさぎこんでいるところを各種会合つれだし~集団囲い込みで入会へ・・という
独居老人を狙った、よくあるパターンの折伏劇だったようです。
母は、入会以前からこのおばさまに対し良い印象は抱いておらず。
そのおばさまが亡くなった・死因はこう(詳細伏せます)・葬儀はなかった(お子さんの意志で直葬)
との話を聞いて、私は「それは御気の毒だね、なんだかかわいそうだわ」と感想を述べました。
すると母が
「かわいそう?なんてことあるもんですか。あの人がいなくなって、みんな清々してるんだから」と
言ったのです。
エーッ?! いまなんて言いました??? と、耳を疑う発言でした。

過去記事に書いた通り、これまでも母は故人を貶める物言いをしてきました。
生前に学会批判をしたり・母に対して敵意ある態度をとってきた外部人物に対しては
容赦なく失礼な・まるで故人を冒涜するかのような発言が多々ありました。
そのたびに私はたしなめていたのですが、母はすべて学会正義?で正当化。
「創価信仰(日蓮仏法)を保っている自分が絶対優位のルールブック!」とでもいわんばかりの。
たとえば、同一死因で一般人と学会同志が亡くなったとして、学会同志の事は一切貶めない。
けど一般人に対しては手厳しい評価を下す。
罰が出ただの、生前苦しんだ・さびしい余生だっただの、なんだのかんだのと・・。
それらはほぼ「憶測」「想像の世界」のことで、真実ではない。
信心していない人の事は、とりあえずケチつけないと・悪く言わないと気が済まないのか?
そらおそろしい独善的臨終観の持ち主だな・・と、語りを聞き、わが親のことながら毎回
背筋も凍る思いでいました。
その失礼で・手厳しい評価は「非学会員」にだけ向けられたものだ、と私は思いこんでいました。
(この記事にも書きました)
つまり創価脳の母にとって、相手が学会員であれば、どんな悲惨な死であっても荘厳される。
「使命を果たした」「遺された家族が安泰だからだいじょうぶ」「すぐに素晴らしい境涯のもと
生まれ変わってくる事は決まっている」云々かんぬん、肯定的な評価をする。
とにかく悪いようには絶対言わない。 
これが創価脳の常だと思っていました。
自分たち(学会同志)だけが良ければ(良く思えれば)、それでいい。
あくまでも信心してきた自分たちの死は特別で、いわゆる「成仏」が約束されたものであり・
仏法をたもたなかった・学会批判してきた一般人は残念でしたね・・的な解釈が出来れば
気の済む問題なんだろうなと。
しかし、このとき母は「学会同志の死」を、冒涜したわけです。
こりゃありえないことがおこった・・!と思いました。

「相手が学会同志なのに、そんなこと言うなんて酷いね」と私がたしなめると
「あんたは直接の迷惑被っていないから、そんなキレイゴトが言えるんだよ!」と反論され。
母が「清々した」と発言した裏には、おばさまが数年前から時々奇行を繰り返し
界隈住民とのトラブルがあった・・という背景がありました。 
このとき初めて聞かされた話でした。
状況を聞くに、おばさまはおそらく軽度の認知症で不穏状態だったのではないかと思われ。
それでもかろうじて日常生活が送れていたり、会合にも普通に出てきていたり、
同居家族もいなかった為、誰も認知症だと気付かずに接していたのかもしれない・・と推測。
または躁うつ病だった可能性もあります。

また、おばさまの事を、幹部に苦情かたがた相談した学会員もいたのですが、
「精神的な病気だろうから仕方ない。厄介時は相手にしない様に」との回答。
この回答も苦し紛れで、そう言うよりほかなかったのは解りますが、なんともいい加減だなwと感じ。
創価は「信仰によって良く変わる事(宿命転換)」を掲げ折伏・入会を推進してきた団体です。
そして折伏にあたった学会員も、おばさまが「良く変わる事」を信じ・変わらないなんて事は
1ミリも考えずに入会に導いたはずなのです。
「善かれ」でやったことは、まちがいないでしょう。
しかし蓋を開けてみれば、活動に出てひととおりの事をしていたって変わらない人だって出てくるし、
前より悪くなる人もいないとは限らない。
変われなかろうが・悪くなろうが、誰にもその責はありません。
ただ組織に引き入れた、ということで新参者に迷惑厄介をかけられても、困惑するのも対応するのも
すべて「現場」で直接かかわる人たちです。
新規入会を促し・御本尊を下付し新聞を取らせ現金を巻き上げることがお仕事の「大本営」は、
新参者の面倒なんて一切見ません。現金収入と一票を得てホクホク。 それだけです。
どこの馬の骨が入ってこようと、金と票さえ得られたら目的は達成される。
それが永続的でなくても、たった1度きりでもかまわない。収入・得票にかわりはありません故。
会員が問題行動や事件を起こしたときは、即「除名処分」で切り捨てれば済む話ですしw
しかも大本営は数字(お金も含め)管理・把握だけがお仕事。
現場の苦悩なんて知ったこっちゃありませんし、ぶっちゃけどうでもいい。
美談だけクレクレ、しんどい・ややこしい話はいらねー。厄介はそっち(現場)で処理しろよ。
いつまでもどこまでも、生身の人間がぶつかりあい、シンドイのは「現場」だけ。
もうそろそろ、このからくりに「現場」でシンドイ思いをしている方々も気付いていい頃だと思います。

話を元に戻します。
いくら迷惑かけられてたにしたって、故人に対して(清々したなんて)それはないだろ、
しかも「みんな清々した」の「みんな」って誰が言ってるの?本当にそんなこと言ってる?と尋ねると
「清々した、とハッキリ言わなくても、誰ひとりとして故人の事を”かわいそう”とも”残念だ”とも
 言っていない。亡くなったね~・・(シーン)という感じで、話題にすることすら避けてる」
と母は答え。
これも完全に母の「憶測」「想像の世界」のことで、皆が清々していると思っているのは真実ではない。
確認してないのです、でも母の中では「みんながそう思ってる」となっている。
此処が大変重要なポイントなのです。
創価脳は、思い込みが激しく、単なる自分の想像で思った事を「真実」のようにすり替えてしまいます。

私は改めて聞きました。
「御本尊様を受けて、信心活動していた人が、どうしてそんな亡くなり方をしたと思う?
 それに、亡くなって同志から”いなくなって清々した”なんていわれる現実はどうなの?
 まじめに学会活動もしてたのに、なんでだろうね?おかしくない?」と。
母は「さー?なんでかねー?」とトボけていましたが、次に
「あの人の信心は本物じゃなかったから(そうなったの)よ」と言いだしたのです。
私は「ふーん、あなたも偉くなったもんだねぇ。
 他人の信心がニセモノか本物かまで、査定できるようになったんだ?
 大聖人様も顔負けだね。すごいねぇ」と嫌味を込めて返しました。
すると母は急にうろたえたように
「私だってあの人のこと、さんざん(良くなるように)祈ってきたんだから!」
「あの人が成仏しないとは言ってないわよ!」云々と、よくわからない弁明を開始。
はいはい、と聞き流し
「祈ってきたから故人の悪口言っても、それで無罪放免・チャラだって言いたいの?
 なんで周囲が祈ってきた人なのに、そのような亡くなり方をして・亡くなってなお悪く言われなきゃ
 いけないんだろ?おかしくない?
 自分の今まで言ってきたことと矛盾してるって、気がついてないの?
 結局お母さんが信じてるのは、日蓮仏法でもなんでもない。
 日蓮を使った、自分さえよければそれでいい、ご都合主義の独善教だよ。
 自分だけが選ばれし民なんだよね」と突きつけました。
母は「そんなことはない!」と否定し、何か言っていましたが既に記憶に残ってないほど
まともに反論にもならないような事柄でした。

ちなみに、実際はもっと長いやりとりでしたが、文言がいまいち思い出せません(残念)。

「選民思想」についても、この時母に説明しました。
私も長らくこの選民思想に取りつかれていた。日蓮仏法をたもつ私は無敵だ!と信じ切っていた。
でも、そうじゃなかったんだと気付かされる出来事に、次々と出会ってしまった。
「組織の中にいたんじゃ、絶対気付けないんだよね・・なんでかって、外部を見下すアプリが
 インストールされてる状態だから。
 どんだけ外部が窮地から救われていようとも・九死に一生を得るような大奇跡を起こしていても
 ”そんなの偶然” ”仏法の目でみれば、それが真の幸福と言えるかどうかは解らない”とか
 何かとケチつけるような思考回路になってるんだよ。
 でもね、本当はそうじゃないよ。 自分たちだけが特別で、周囲のラッキーは偶々なんて
 んなわけないんだよ。 逆も同じだよ?
 自分たち学会員の不幸は転重軽受だけど、それ以外はただの罰とかそんなわけないよ。
 どれもこれも、選民思想アプリ搭載で見てちゃ、本当のことなんか解らなくて当たり前だし。
 ましてやさ、同じ学会員でも自分の気に入らないヤツ(件の故人)だったら見下し入るって
 どー考えたって、おかしいじゃん。
 ちょっと、考え直したほうがいいんじゃないの?自分の信仰観を」と話し。
母は「あんたが何を言いたいのか、さっぱりわからない」と言いつつ
「私は本当につらく苦しかった時、いつも必ず御本尊様が助けてくれた。その体験がある。
 その体験を、誰も”違う”とは言えないし、言わせない。
 あんただって、何度も助けてもらったじゃないのよ?どうしてそうなってしまったの?」と、
論点をすりかえ。 

えー・・?今の私の話、ちゃんと聞いてた?!とガックリorz
私が突きつけたのは、長年組織が掲げてきた「創価信仰の万能性」の否定についてであり・
組織でもっともらしく語られてきた事+母がこれまで語ってきた・信じてきた事との齟齬。
そこはすっ飛ばしで、「御本尊様が助けてくれたことは事実」のみでカバーできると思ってるの?!

どうしたって、「非」や「自己矛盾」は認めないんだな・・。
なんかすげーな・・と、この時点では呆れと言うよりは、もう感嘆の域でした。
この会話をどう切り上げたか記憶にありませんが、通話の最後のほうで、母の声に
力がなかったことだけは覚えています。

このやりとりを経、今年に入り、母が格段に変化しました。
非活になったこともそうですが「学会批判や非活動に転じることで不幸になる・トラブルが出る」との
オカルト罰論を封印したのです。
それを知る契機は、2015年後半に私の周辺でおこった「とある出来事」を
カミングアウトした時でした。

「とある出来事」を通して、私に第三次覚醒が訪れたといってもよいかもしれません。
それほど大きな気付きのある出来事でした。 これは別カテで今後書いて行く予定です。

(続きます)