「ニュー・アース」第一章(2)

人間に固有の機能不全

古い宗教やスピリチュアルな伝統をよくよく見れば、表面的な違いはどうあれ、
その多くに共通する二つの中心的な洞察がある事に気付くだろう。

一つはほとんどの人間の「ふつう」の精神状態には機能不全、もっと言えば
狂気と呼べるような強力な要素が含まれていることだ。


とくに手厳しいのはヒンズー教の中核となる教えの一つで、この機能不全を集団的な
精神病とみなし、マーヤー、妄想のベールと呼ぶ。
インドの偉大な賢者の一人ラマナ・マハリシは「心とは妄想である」と言いきっている。
(中略)ブッダによれば、ふつうの状態の人間の心はドゥッカ、苦を生み出す。
苦、不満、惨めさである。仏陀はそれが人間の置かれた状況の特徴だと見た。
どこにいても、何をしていても、あなたはドゥッカにぶつかるし、ドゥッカは遅かれ早かれ
あらゆる状況に現れる、とブッダは言う。
キリスト教の教えでは、人類という集団の普通の状態が「原罪」である。(中略)
罪とは的外れな人間の生き方を意味する。先を見ないで不器用に生きて苦しみ、
人をも苦しませるのが罪なのだ。文化的な覆いや誤解をはぎ取ってみると、ここでも人類の
状況に固有の機能不全を指している事が解る。

人類が目覚ましい発展をしてきたことは否定できない。(中略)
人類は大変に知的なのだ。だがその知性は狂気を帯びている。
科学技術は人類の精神に付きまとう機能不全が地球に、他の生命体に、
そして人類自身に及ぼす破壊的影響をさらに拡大してきた。
だからその機能不全、集団的狂気は二十世紀の歴史で最もあらわになった。
しかもこの機能不全は現実に強化、加速されている。(中略)

二十世紀の終わりまでに、同じ人類の手で暴力的な死を遂げた人々の数は一億人を
上回った。国家間の戦争だけでなく、スターリン統治下のソ連で「階級の敵、スパイ、
裏切り者」として殺された二千万人や、ナチス・ドイツによる筆舌に尽くしがたい恐怖の
ホロコーストの犠牲者たちのように、大量殺戮や集団虐殺によって死んでいった人々もいる。
(中略)
このような狂気が衰えるどころか二十一世紀の今も続いている事は、日々のテレビニュースを
見るだけですぐに解る。
人類の集団的な機能不全のもう一つの側面は、他の生命体と地球そのものに人間たちが
振るっている暴力だ。酸素を生み出す森林や植物、動物の破壊と殺害。
工場式農場における動物虐待。河川や海、大気の汚染。
人間達は欲にかられ、自分と全体のつながりを理解せず、ほうっておけば自滅に繋がるだけの
行動を今も続けている。

人間の存在の核心に在る集団的狂気が引き起こす出来事は、人類史の大きな部分を
占めている。人類の歴史は、大まかにいえば狂気の歴史なのである。

恐怖、貪欲さ、権力欲は、国家や民族、宗教、イデオロギー間の戦争と暴力の心理的動機と
なっているだけでなく、個人の人間関係の絶え間ない葛藤の原因でもある。



(中略)しましたが、2000年間にわたる、人類における機能不全がゆえの
全世界における狂気の歴史(殺戮・戦争など)が、詳細に書かれています。

機能不全とは、エゴにとりつかれた状態のことを指していると私は解釈しています。
「我を忘れる」という言葉のとおり、感情・情動・欲に振り回された振舞いのこと。

機能不全の元になる要素とは一体何か? そのひとつが「恐怖」です。
古代から現代にいたるまで、人間はずーっと「恐怖」と闘い続けている。
「恐れ」の心が、さまざまなものを生み出してきました。 宗教文化もそのひとつ。
日本に仏教が入ってきたのは、死後の世界への恐れ・ケガレを嫌う平安貴族の不安を
掃うためでした(神道には死後の世界に関する教え的な物が何もないから)。
美術、芸術、建築も、恐れのエネルギーの昇華といえたと思います。
(霊魂を鎮めるために建てられた建造物・造られた像・描かれた絵画などなど)
これら見えない世界に対する「恐れ」の思いを芸術の形にすることは、まだクリエイティブで
許される(?)範囲かもしれません・・。
が、見えない世界にとどまらず、実際に見える世界に敵を作り、恐れから攻撃・排除する・・
それが侵略戦争や殺戮に繋がってきたことは、過去の歴史に在るとおりです。
そして現代世界(社会)も全く同じ構図があります(軍備・核の保有もそのひとつですね)。

環境汚染・破壊にもエックハルトは触れています。
これも「食べられない事=死への恐怖(食糧危機)」が発端となっている思います。
過去に読んだ本(百姓暮らしの思想 筧次郎著)に、実は農業が環境破壊だとの内容が
あったのを思い出しました。
環境破壊といえば、農薬や遺伝子組み換え問題が頭に浮かびますが、それ以前の話で
山野を切り開いて畑にし、維持するーそれがもう「環境破壊」だと、私は知らなかったので
読んだ当時、たいそう驚いたことを覚えています。 
このサイトにも説明があります。
工業汚染も、つきつめれば「儲けなければ食べられない(=生きられない)」という恐れからくる、
過当競争のなれの果てです。

恐れを原動力にした貪欲さや権利・支配欲が、狂気の歴史を作り上げてきた。
そしていまなお、無差別暴力(テロ)や侵略戦争は続いている。
地球上生命体で唯一人間だけが「思考」をもったばかりに、エゴに操られ続けているー
どれだけテクノロジーが進化を遂げても、「心」の部分では全く進化できていない・・
「目覚め」ていないことを、エックハルトはこの章で明確に指摘しています。

しかしこの恐怖と貪欲さと権力欲は此処でいう機能不全そのものではなく、
それぞれの人間の心の中に深く根を下ろした集団的妄想と言う機能不全の結果である。
多くのスピリチュアルな教えは、恐怖と欲望を捨てなさいと言う。だがこの試みはたいていは
うまくいかない。機能不全の根源に取り組んでいないからだ。

もっと良い人間になろうと努力するのは確かに立派でほめられるべきことのようだが、
当人の意識に変化が起こらない限り、結局は成功しない。
良い人間になろうとするのもまた同じ機能不全の一部で、微妙で判りにくい形ながら、
やはりエゴイスティックな高揚感、自意識や自己イメージの強化を求める欲であることに
変わりは無い。

良い人間、それは、なろうとしてなれるものではない。すでに自分の中にある善を発見し、
その善を引き出すことでしか、善い人間にはなれない。だがその善を引き出すためには、
意識に根本的な変化が起こる必要がある。

もともとは高潔な理想から始まった共産主義の歴史は、人々がまず自分の意識状態という
内なる現実を変化させようとせずに、ただ外部的現実を変えようとー新しい地を創造しようとー
試みる時に何がおこるかを明白にしている。
共産主義者は、すべての人間が持っている機能不全の青写真を考慮せずに行動計画を
立てた。その機能不全とはエゴである。
(p34-42抜粋)


地球人ひとりひとり、各個人の、「意識の目覚め」がなければ、恐怖や欲望を捨てたところで
同じ事の繰り返しだとエックハルトは説いています。
「良い人間になろうとすること」も、エゴの下においては単なる「承認欲求」「自己顕示欲」に
終わってしまう事があるという指摘は、鋭い!!と思いました。
誉められたくてやってる人は、誉められなければ拗ねが生じる。
親切な行動の裏で、見返りを求めるタイプがこれに当たるかと思います。
こんなに尽くしたのに・やってあげたのに・・的な。
または「いい人と思われたい」が為の行動も当てはまるかと(創価脳にもありがちなタイプw)。

共産主義のくだりについては、読んだ時点では全くピンとこなかったのですが、
5月2日放送のTV番組「しくじり先生」の「しくじり偉人伝 カール・マルクスの資本論」を見て
「そういう事か!!」と、初めて意味が解りました。
(興味のある方はぐぐってください)
共産主義は「性善説」に基づいた理想論、実際やってみたら大コケしたーという
ソ連崩壊までの流れが実に簡潔にわかりやすく説明された番組内容でした。 
理想を掲げ、新しい国の枠組みを作り上げてみたところで、国民ひとりひとりの意識状態が
エゴに支配された状態だった故、「性善説」が成り立たず。崩壊に至った・・という。

ここまで「思考=エゴ」に振り回され続けてきた人類史の解説を読み、
時代は変われども確かに人間は同じことを繰り返してきてるよな・・と、歴史的観点から見ても
理解が出来ました。
ひとつひとつの時代が終わり・新たにはじまり・・の理由まで考えた事はなかったけれど、
(それまでは単純に「流れ」だとしか思ってきませんでした)
エックハルトが初めて「エゴ」がそうさせてきたのだ、と教えてくれたように思い、凄い!と
シンプルに私は感動したのです。

全ての人がおなじもの(宗教)を信じる事で平和が訪れるーというような無茶を
エックハルトは言いません。 
それ(一つの宗教で統一)こそが「エゴ」の望みなんでしょうし、全世界のあらゆる宗派が
そこを目指している限り、そんなことは永遠に成し遂げられず、平和になる道理がないのです。
これまでの歴史を見ていれば、簡単に解る事ですね。
だからもう宗教は、ただ「各個人の心の修養」や「拠り所」「祭祀」としてあればいいと私は思います。
あくまでも自己完結で。
「宗教」の名のもとに、みんなで何かを目指す必要は無い。
集団で力を持つような事とは、違うのではないかと。
そこにエゴがある限り、ろくなことにならないし・ならなかった事は周知のとおりです。

エックハルトは、一人ひとりの意識状態が大切だと説いています。
わかりやすい動画です↓


機能不全は、ごく身近なところにあるものです。
身の回りにもいませんか?不愉快をまき散らすタイプの人。
不愉快ならその物事から離れればいいのに、執着し離れず、グチグチネチネチ・・。
こういった状態も、短期間ならまだいいのです。
その人にとって、次の段階へ進む必要なプロセスの場合もあります。
しかし数年間に渡って続くとなると、確実にその人自身が不愉快を引き寄せるように
なります。 動画の中でエックハルトが教示している通りです。 
そうならないためにどうするか、といえば「自分を俯瞰で見る」これに尽きると思います。
不愉快な思いや攻撃心・酷い落ち込みや恨みなど、ネガティブ感情が上がってきたら
「あ、今自分はネガティブに陥ってるな」と、一段上から自分を見て、その感情に陥っている
自分に気付いて観察する。
その感情に対して「いい・悪い」という評価はしません。
ただ、自分がどのような状態に在るか、そこに気付くだけでOKです。
この繰り返しで、エゴに振り回される「機能不全」を回避できるようになります。
「自分責め」も、機能不全の一つだと思いますが、この方法で止める事ができます。
機能不全状態(自分責め含む)は、百害あって一利なしです。
パフォーマンスを下げるだけで、何一ついい事はありません。

是非、この「自分を俯瞰で見る」やったことのない方はお試しください。

大仰に世界情勢や世間の「問題」を憂う前に、まず自身の「内面状態」に目を向ける。
外世界の物騒が気になって仕方が無い時は、内面が物騒なのです、だいたい。
そこに目を向けないで、目をそらすがため「外界」を糾弾・攻撃する事で納めようと
しているけれど、これは機能不全のサイクルに巻かれている状態。ラットレースです。
そして、すでに創価から離れ覚醒した人間に対し、未練がましく講釈をたれる創価脳な人も
同じですねw 
自身の内面状態に問題があるのに、外に憂さ晴らしの種を求めている。
このブログなど、創価脳が読んだらイライラするだけなのですw
だったら読まなければいいのに、わざわざやってきては自分の内面を更に波立たせて
何かひとこと言ってやらなければ気が済まない!と。 ←これこそが、エゴの働きです。
たぶんご本人はそれを「破折」のつもり・・正義感でやっているとは思うのですが、
言うまでも無くそれもエゴですw
「目覚めていない」から、エゴに囚われているからそうなるわけで、自分で気付かなければ
なかなかその行動の非礼さ・恥ずかしさには気付かないものです。
トンチンカンな拍手コメントが目障りだから消したらどうですか?というコメントを頂いたのですが、
敢えて全部残しています。
件のお方が目覚めた時に自分で見直したら、ものすごく恥ずかしいことになるでしょう&
過去の自分は馬鹿だったなぁと、笑い飛ばしてもらえれば幸いだと思っています。

新しい意識

人類にとって最大の成果は芸術作品でも科学でも技術でもなく、自らの機能不全、
狂気の認識だ。遠い昔に既にこの認識に到達していた人々がいた。(中略)
二千六百年前のインドにいたゴータマ・シッダルタ(釈迦)である。
ほぼ同時に中国にも目覚めた人類の教師が現れた。その名を老子と言う。
老子は最も深い霊的な書物の一つである「道徳経」という形で、その教えを遺した。

勿論自らの狂気を認識することが正気の台頭であり、治癒と変容の始まりである。
既に地球上には意識の新たな次元が現れ、最初の花々が少しずつ開きだしている。
これまでごく少数ではあるが、同時代人に語りかけた人たちがいた。
彼らは罪について、苦しみについて、妄想について語った。「自分の生き方を見てごらん。
自分が何をしているか、どんな苦しみを生み出しているかを見てごらん」と。
それから彼らは「”ふつうの”人間存在と言う集団的な悪夢から目覚めることができるのだよ」
と指摘した。彼らは道を示した。
この人たちは人類の目覚めに必要不可欠だったが、世界の側の準備はまだできていなかった。
だからたいていは同時代人に、そして後世の人々にも誤解された。
彼らの教えはシンプルで力強かったが、歪められ、間違って解釈され、場合によっては
弟子たちに誤って記録された。
何世紀かが過ぎる間、本来の教えとは何の関係も無い、それどころか基本的な誤解を
反映する多くの事が付け加えられていった。
(中略)

こうして、宗教は人々をまとめるよりもむしろ分断する力となってきた。
生きとし生けるものはひとつであるという認識を通じて暴力や憎悪に終止符を打たせるのでは
なく、もっと激しい暴力や憎悪を引き起こし、人間同士を、異なる宗教を、さらには同じ宗教の
内部までを分裂させたのである。
宗教はイデオロギーになり、人々が自分を同一化させ、間違った自我意識を強化しようと
試みる信念体系になった。
人々はこの信念をよりどころに自分が「正しく」て相手が「間違っている」と断じ、
敵を、「他者」「異端」「間違った思想の持ち主」と呼んだ。
それによって自分のアイデンティティを確立しようとし、
対立者の殺害すらもたびたび正当化した。


だがー宗教の名ではびこってきたこのような狂気の行動にもかかわらずーそれでもなおー
核心部分では各宗教が指し示した真実が依然として輝いている。
どれほどかそけき光であろうとも、何層もの歪曲や誤解を貫いていまも輝き続けている。
ただし人は自らの中にその真実の片鱗を垣間見ない限り、その光を認識できない。
(p43-47抜粋)


上記抜粋はもう、首をぶんぶん縦に振りながら「全くその通りだよ!」と共感しきり。
(下線太字にしたところなんて、まんま創価のことじゃん!とw)

「宗教」の名のもとに組織をつくってみたりすることは、間違いの元なのでしょう。
そこにエゴがある限り・代表者やその周辺がエゴの塊なだけに・ろくなことにならないのです。
組織の歴史を振り返っても、まさにおんなじことが言えますよね。
(もう、皆さんわかってると思うのでいちいち取り上げませんけどもw
元々は信徒の団体だった創価が「宗教法人格」を持っていることも、実は珍しい事だそうで・・)

ただ、祖といえる人物(キリストしかり、仏陀しかり)が説いた教えはどんなに時間が経とうとも・
エゴの塊に利用されようとも、教えの真実だけは輝いている。
自分の中に、その教えの真実を見つけよう。 と、エックハルトは言うのです。

これもすごく大事で、何かの宗派に「入会」「所属」するなんてことは全く余計な話で、
現代は自らの求めに応じ選択し・学び、自分の中に答えをみつけていく時代なんでしょう。
そして宗教との関わり方も、あくまで自分主導・自分次第でいいのだと思います。
自由に、興味に応じて、自分の為になると思える事があれば心がける。
ましてや修行僧じゃないので、厳しい「訓練」(特殊な活動)なんか無用ですw
私個人の意見としては、宗教「団体」は要らないと思います。
伝統的な既成仏教と、神道と、キリスト教会があればそれで十分なんじゃないかと。
季節の祭祀や、人々の心のよりどころとして地域にあれば良い。
信者を布教活動に行かせたり・出版印刷物をやたらと購入させたり・会費を集めたり・
教義だと偽り、一般常識から逸脱したルールを強要するような団体は、
ろくなもんじゃないと経験上思いますw

昔々は現代のように、かんたんにその教えの中身を知ることはできなかった。
情報量の絶対的な少なさ・宗教の閉鎖性。
だからなんらかの会に属して教えに触れるしかなかった・・のかもしれませんし、それが元で
「権威化」していったのでしょう。
現代は過去と比べ、随分と開かれた時代になったと思います。
本流ともいえる寺院・教会は広く門戸を開き、一般人にもその教えに触れる機会を
与えてくれているところが多くあります。
(入場の際に手荷物チェックをするような団体は、怪しいので近づかないのが無難ですw)
図書館でも、いろんな本や資料を借りることが出来るし、アマゾンや楽天等で
大きい書店まで出向かずとも、本もずいぶん買いやすくなりました。
インターネットには、膨大な情報があふれている。動画も身近な存在になりました。
そこにどうアクセスするか(できるか)、きっかけの問題になってはくるけれど、
インターネットの出現によって、個人の力でも在る程度
「調べる」「知る」ことの可能性の幅が広がったのは大きなことだったと感慨深く。
インターネットが日本で一般に使われ始めたのが1995年でした。
私がその存在を知ったのは1996年、勤務先で導入されたことがきっかけです。
1998年には自宅にパソコンを購入し回線を引いて、ネットを始めました。
エックハルトの最初の書籍(The Power of Now)が海外で発売されたのが、1997年です
(日本では2002年)。
この95-97年あたりが、新時代への転換期だったのかなぁ・・?と、思ったりしています。

おばさんのたわごとですが、私が若いころ(20代前半)は本当に調べようがなかったんですw
週刊誌に創価スキャンダルが出ても、幹部の「そんなものはデタラメねつ造記事だ!」でハイ終了。
なんかおかしい・・と思っても、そんなことはどこにも吐けないし・同じ考えの人が広い世の中に
いるかどうかを、確認するすべもなかった。 
それが今じゃ、ネットで個人が気軽に発信・広く交流する事が出来るようになりました。
全てが信用できる情報ではないかもしれないけれど、それでも「集合知」の御蔭でどれだけ
覚醒が進んだことか。 インターネットに感謝しています。

ああ、また話題が脱線してしまいましたw 次回に続きます。


↑「The Power of Now」の日本語訳本です。
問答集のようになっていて、日常生活の中でどのように「今」にあれば良いか
詳細に書かれています。
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「ニュー・アース」 第一章(1)

(やっと)今日から「ニュー・アース」について書いて行きます。

まず初めに断っておきますが、完全なる私の自己満足な感想文の体となります。
あまりに素晴らしい本で、私の琴線にひっかかった部分は全部紹介したい&
脱線するため、最後まで紹介するのにかなり時間がかかる気がします・・。
(実際今回、序章のさわりだけで終わってしまいましたw)

元創価ではないごく一般の方で「ニュー・アース」を解説されている方がおられます。
(「ニュー・アース」解説 で検索すると出てきます)
簡潔にまとめられているので、まだ本書を読んでいないけれど内容を早く確実に
知りたい方・興味のある方は、そちらをどうぞご参照ください。

本題に入る前に一言。

この本に出遭った当時の状況はこの記事に書いたとおりで、
心理学によって自分の掘り下げを開始し、目からウロコが落ちる体験をある程度重ねて
いました。
創価脳に限らず、誰人も「思い込み」で生きている、という現実を心理学は教えてくれました。

私は創価ロジックから脱した事で、なんとなく「思い込みから逃れた」気でいました。
選民思想が自分の持つ「思い込み」の9割だと思っていたのです・・が、それは大きな見当違いで、
選民思想は全体の一部・氷山の一角に過ぎず、他にも「思い込み」を山ほどもっていたことに
まったく気付いていませんでした。
創価ロジックから脱せた・創価を否定出来、一般人化したにしても、やっかいなことに「思い込み」は
多数存在している。
(勿論、創価を経ていない一般人にも同等に「思い込み」があります)
人生にプラス影響をもたらす思い込みもあれば・残念な思い込みもある。
悩みや理不尽な思い、問題にぶつかった時は、「残念な思い込み」を知ってプラスに転じ、
マイナスをプラスにする=フラット(ゼロ)に戻るチャンスだと心理学では言われています。

私がエックハルトトール氏や「ニュー・アース」を神押しすることに、違和感やざわつき、
嫌悪感を覚える人は、気付きのチャンスだと捉えてくださいw

創価から覚醒した人が、何をどう参考にしようと信じようと、自由です。
覚醒できたなら「信教の自由」を、理解できているはずですよね?
そんな視点をいま持てずにいるなら、まだ「覚醒」したとは言えないのでは・・?

ざわざわする、その原因を自分の中に探してみたら面白いですよ。
あなたの中に、創価時代の「日蓮仏法以外は取るに足りない教え」だとか「正法誹謗」だとか
「日蓮・創価・池田思想以外の思想を取り入れたり賛美したらダメ」
「そんなことしたら、お母さん(又はお父さん、祖父母、先輩、幹部)に叱られる・嫌われる」
「何か思想的な事に夢中になってはいけない。信心を一番にしなくてはいけない」
という、古い思い込みがないか、思い込みが見つかったらその基底部にあるものを
じっくり確認してみるのも一興かと思います。


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第一章
「花、開く」


花に美を見出すことを通じて、人類はほんの束の間で在れ、自分の最も内なる存在の
核心に在る美や本質に目覚めるのではないか。
美と言うものの最初の認識は、人類の意識の進化にとって最も重要な出来事の一つだった。
その認識と本来的に結びついているのが喜びと愛と言う感情である。
それとははっきりと気付かないうちに、花々は私達にとって、自らの中の最も高貴で清らかな、
究極的には形になりえないものを表現するものになった。
生まれ出る元の植物よりももっとはかなくて、美しく繊細な花々は別の領域から来た
メッセンジャー。
物理的な形の世界と形のない世界をつなぐ橋のようなものだ。
花々には人々を喜ばせる繊細な良いにおいがあるだけではなく、霊性の領域の香りをも
運んでくる。「悟り」という言葉を普通に言われるよりも広い意味で使うなら、私達は花々に
植物の悟りを見る事ができる。

人間がある程度「いまに在る」という本質的な生き方ができるようになり、外界への静かで
鋭敏な意識が芽生えると、生命の聖なる本質、つまりすべての生物、あらゆる生命体に
存在する意識・あるいは魂を感じ取り、それが自分自身の本質でもあると気付いて
愛するようになる。
だが、それまでは、たいていは外形的な姿ばかりを見て、内なる本質になかなか気付かない。
自分自身の本質がわからず、肉体的、心理的な形が自分であると信じ込む。

そこで花や結晶や小鳥の名称を意識せずに虚心に見詰め、思いを寄せると、形のないものへの
窓口が見えてくる。
ほんのわずかな隙間から、魂(スピリット)の領域に通じる内なる道が開けるのだ。
(p23~26抜粋)


上記は本の序章部分ですが、1回目読んだ時は???の連続でしかなくw
意味が解らない・・と思いながら流し読みしていました。
2度目以降この部分を読むと、なんと詩的で美しい表現だろうとかと味わい深く・感嘆するのです。
1回目読んだ当時の私は、精神的混乱のさなかにあったので「???」としか感じなかったけど、
2度目以降は「いまに在る」という状態を知ることができたから、詩的で美しいと思えるように
なりました。
なんなんだそれ?!と思われそうですがw 
この本が「読者の意識を変化させる、目覚めさせる目的(p30)」で書かれているという事の、
わかりやすい例です。

私は花が好きで、特にバラが大好きです。
シーズンになると植物園に出かけて、しばし眺め、写真を撮ります。
(以下2枚、私が撮ったものです)
nr0001.jpg

花の美しさに吸い込まれるように凝視、花びらの巻きの規則性・色彩グラデーションに
神秘性・宇宙を感じます。

nr0002.jpg

エックハルト氏のいう「いまに在る状態」とは、「思考が止まった状態」を指します。
花や植物や小鳥を、何も考えずに・それがなんて名前のどんな種類の花だ・樹だなんて
なんにも考えず、ただ無心に見つめるとき、人は自然に思考を止め「いまに在る」状態に
なることができます。
そして「生き物」「生命」としての花や植物や小鳥の発するもの・・ただ其処にいま「生きている」
という状態を感じ取る。
花や植物や小鳥が、「いまに在る状態」なのは、そこに思考が無いからです。

この本を読む前の私は、バラを見つめて「これはOO(名称)だ」「綺麗だな~」などなど、
認識し・うっとり見とれることはあっても、
バラに生物としての「息吹・息使いのようなもの・生命」を感じた事は皆無でした。
あたりまえすぎて、その前提(生きてそこにある)を見落としてしまっていた。
そんな風に見た事もなければ・そこには意識が向かなかったというか。
「バラだ」という外形的な姿ばかりを見て、内なる本質になかなか気付かない状態でした。

内なる本質とは、ただ「いま」ここにあって息づく「生命」だと私は解釈しました。

動画だったか、エックハルトの他の書籍だったか失念しましたが、
感銘を受けたフレーズがあります。
「花を見なさい。過去の後悔や・明日の心配をして咲いている花はいません」(要旨)
↑このフレーズを知って以降、
ガーデニングの花でも・自宅に飾っている切り花でも・観葉植物の新芽でも、
じーっと見つめていると、その存在に感動すら覚えるようになりました、大袈裟でなく。
ただ「いま、ここ」にある気高さ。 
花や小鳥や観葉植物が、過去にクヨクヨしたり愚痴吐き文句言うわけはないのだけどw 
そうだよね、その通りだよ!と。
未来がどんな運命になるなんて何も知らなくても、健気に、瞬間瞬間にそこに在る美しさ。
人も、同じであっていいのです。
頭の中の絶えることない”思考のおしゃべり”(=エックハルト曰くメンタルノイズ)が邪魔をし、
そうあることを忘れているだけ・思いだしていないだけで。

頭の中の絶えることない”思考のおしゃべり”(=エックハルト曰くメンタルノイズ)
これは「エゴ」=自我 の仕業なのです。
「エゴ」は、過去と未来に条件づけられ・餌を貰い続け、人を支配しています。
頭の中の絶えることない”思考のおしゃべり”を止めた状態=「いまに在る」状態です。

この後、「エゴ」の正体や構造について展開して行きますが、まずこの序章において
エックハルトが「いまここに在る」ことの根源的な素晴らしさ・強さ・美しさを
花や小鳥や結晶の「悟り」の姿を通じて教えてくれている・・と、私は感じました。
そして「いまに在る」という状態を知った事で、私は過去追いと自分責めから解放され、
すごく楽になりました。
その具体的方法についても、のちのち出てきます・・が、なにも難しい事ではありません。

私なりに簡単に説明すれば、ほんと単純に「いま」を自分が意識することだけです。
過去や未来に思いをはせてはいけません、「いま、ここ」しかない事を認識します。
不安や不愉快やイライラざわざわ・・がやってきたら、それは思考のせいなので
思考を止めて「いま」の自分を俯瞰で見てください。
「いま、ここ」にいる自分に、何の問題も生じていないことを知る、
自分が不安や不愉快やイライラ・ざわざわしたその原因が「過去」か「まだ見ぬ未来」に
あることを知る・・「過去」も「未来」も、「いま」じゃない、と理解する。
それだけです。

「いまに在る」とは、傾いた偏った心をゼロベースに戻す、
心の平和を取り戻す確実な方法
だと私は思っています。

余談:今年5月にも植物園でバラを見てきましたが「ニュー・アース」読後だったので
それはそれは、有意義な時間になりました。 
意識が変わったのでしょう、ものの見方・過ごし方が全く変わったのです。
以前の私は、まずが写真を撮ることに夢中、カメラの操作やら・他人が写り込まないようにと
気をもんだり(邪魔だよ!早く行ってよねーと他人に思ったりw)なんだかんだで気忙しく。
いかに自分がメンタルノイズ全開で過ごしていたかを思いだして、ちょっと笑えましたw

「変化をもたらすためのツール」

目覚めに不可欠なのは目覚めていない自分を自覚すること
エゴイスティックに考え、話し、行動する自分と、そういう目覚めていない状態を持続させている、
人類に刷り込まれた思考プロセスを認識する事である。
(中略)
本書ではまずエゴの主な側面に目を向け、それが個人や集団でどう働いているかを考える。
これには二つの重要な理由がある。
第一の理由は、エゴが働く基本的な仕組みを知らなければエゴを認識できず、
そのためにだまされっぱなしで何度でもエゴを否認することになるからだ。
つまりあなたは支配され、操られ続ける。
第二の理由は、認識そのものが目覚めの一つの方法だからである。
(中略)エゴと闘っても勝ち目は無い。闇と闘えないのと同じである。
必要なのは意識と言う光のみである。そして、その光とはあなたなのだ。
(p32-33抜粋)


先ほども書きましたが、エゴ=自我です。
ここを読んだ時、思いだされたのが、創価の「自分の頭で考えてるうちはダメ」
「ご仏智がでてくるまでお題目をあげなさい」というような指導です。
これが実は一部分は正解(?)で・大きく間違ってたのはその方向性でした。
思考を止める=まさに”自分の頭で考えるな”ということです。
其処は良いのです。が、思考を創価に「乗っ取られ」ていたからマズかった・・という事に
気が付きました。
創価脳をよく「思考停止」と表現し、私も使ってきましたが「ニュー・アース」読後は
認識が変わりました。
正しくは創価脳は「思考奪取状態」ですね。
罰論と言う暴力を片手に、思考を乗っ取られている状態です。
アメとムチで縛り上げ、創価脳アプリをがっちり搭載されてしまった状態、とも言えるでしょう。

また、お題目を上げるという行為は精神統一・無心になるという目的でならアリだった。
けど実際、邪念雑念オンパレードだった頭の中w 数珠をじゃらじゃら揉み鳴らしてみたりw 
特に会合や唱題会など同志の皆さんと集っての場合、集中なんかできやしませんでした。 
全く何も考えずに唱題なんて一年のうち、自宅で、2回か3回あればいい方だったのでは
ないかと・・。 あくまで私の場合ですが。
そもそも日蓮が、団体を組織して大勢で題目上げろなんて思ってたとは考えにくいですし、
組織のあれは”集団催眠”にすぎなかったと私は思います。
個人信仰で、心を無にして、意識を集中するために数回唱える程度ならまだ有用かと・・。
前にも書きましたが題目の「数」がものをいう世界では無いと私は思っています。
題目数を積み重ねていくことを推奨している組織の思惑は、単純に「呪縛」目的
それだけでしょう。

自我とは闘えない。
自分で「自我」に気付くこと・意識をもつことで、自我を超えられる
とエックハルトは
言っています。
ただそれだけの、実にシンプルな話で、此処が解れば実は題目を唱える必要も・特定宗教に
依る必要も全くないのです。
(ニュー・アースを読み進めれば追々解ってきます)

さらに気付いたことですが
日蓮の「心の師とはなるとも心を師とせざれ」という有名な一節があります。
創価ではこれを「自分の心を信じてはダメ、祈り切り御本尊様にお任せするのだ」と指導してみたり・
果ては「師匠(じいさん)ならどうするかを随筆や人革から学び・考え、その行動に倣え」
なんてことも言ってました。
私は女子部だった当時から、どっちの解釈も腑に落ちなかったのですw
どっちかといえば前者を信じるべきだろうな、と思いつつも”自分の心を信じないでどうするの?”
という気持ちを消し去ることができなかったというか・・。
自分のこうしたら・ああしたらをすっ飛ばしで、じいさんの行動に倣うって一体・・と、まるで
自分の心を全否定・自己否定されたような気分になっていたのです。
こういった指導が横行していたが故に、元創価脳の方は「自分責め」傾向になりがちなのでは
ないか・・とも分析できます。
「エゴ」の正体も解き明かさずに、やみくもに「御本尊にお任せするのだ」なんて押しつけは
直接言葉にしなくても逆説的に「自分が悪い」思考に追い込むのではないか、と。

けど誰にもこんな疑問をぶつけた事はなかったのですが(幹部に言いくるめられるだけなので)。
「ニュー・アース」を読んで、ああ!そう言う事か!と初めて合点がいきました。
(創価を離れた今頃解るっていうのが、皮肉ですけどもw)
日蓮のいう「師とせざれ(師匠にしちゃいけないやつ)」とは、「エゴ=自我」を指していたのだな!
と解ったのです。
エゴに振り回されちゃいけないよ・エゴのいうこと聞いちゃだめだよってことね!と。
というか、私はそのように理解したら腑に落ちました。
何も「自分の心そのもの」を否定していたのではなく、(エックハルトのいう)「エゴ」の
否定だったんだな、と。
(その「エゴ」の正体と構造は、のちのち出てきます)

そして「心の師」とは、エゴを黙らせることで初めて覘いてくる「真我」のことだったのではないかと。
「心の師」はなにも、耄碌じいさんでは無かった(私は、はなからじいさんを師だとは
思ってませんでしたが)。
これまた、組織に都合のいい解釈をつけて指導されてたんだねーということを、発見したような
気になりました。

話が脱線しまくりますが
御書も「自分で勝手に解釈して読むな」とか組織じゃ言われてましたよね。
なんでも「我見が入ったらまちがった解釈になる」とか。
原田会長は、池田老人の御書講義しか参考にしちゃならねぇ、的なことも言ってたそうで。
んな馬鹿な!? 
だいたい、日蓮が個人的に書いた手紙も入ってたりするし、門下一同にあてたものも
あるけれど、そんなの読む人によって全然意味が変わってきたっておかしくない。
弟子100人が100人全員同じことを、その手紙から感じとるとは限らない。
だのに、特定の人物の講義(解釈)しかNGとか、ありえねぇよ!!
と、活動家当時から私は思っており、幹部にやんわり文句言ったこともありました・・
そしたら手厳しい指導が入って、めんどくせーなと思って以降はなにも言わないようにした思い出が
ありますw
今となっては微笑ましく懐かしいお話ですが(?!)自由な解釈・感想をもつことさえ禁じられる、
そんな「教え」 限界が来て当然かと。
(まあそれが、収益ベースな新興宗教界のセオリーなのかもしれませんけども・・)
我見がアウトで、耄碌じいさんの解釈ならOKなんて・・やっぱ私には昔も今も理解しがたいところですw

補足ですが「ニュー・アース」はエックハルト氏が古今東西の宗教・思想・哲学を学んだうえで
自身の悟りについて書かれています。 ブッダの言葉や、禅宗の言葉も先々、出てきます。
唐突に日蓮を引き合いにだしてきたな・・と思われたかもしれませんが、仏教やあらゆる教説を
読み説き・表現した、という意味では日蓮もエックハルトも時代は違えど同じ
「覚者・メッセンジャー」だと私は思っています。
あと、私の宗教的(?)知識ベースが(現状否定してはおりますが)
あいにく日蓮仏法創価版しかないので、比較対象として上がってきてしまうのは
仕方がないところです。ご了承ください。

(内容がとっ散らかっていてすみません、次回に続きます)

問題を手放す

以前の記事で少し触れました「問題解決のために問題を手放す」について、
お尋ねもありましたので今回はその件について書きます。

「問題を手放す」 には、2つの側面があります。
ひとつは人としての在り方・相手を尊重する事。
もうひとつは受容の奇跡。
どちらも「手放す」ことにより、問題は本来あるべきところに戻り・解決するという流れです。

まず、私が心理学など全く知らない時期に「問題を手放す」をやったことで
問題が解決していた経験から。

私自身、主人におこったネガティブな出来事に一切関わるのを途中で止めたのは、
馬鹿らしくなったという理由の他に、過呼吸症状が出た為、自分を護る目的もありました。
関わっていたらますます、心身ともに追い詰められてしまう!と感じ、降りたのです。
ただ、完全に無視を決め込みながらも心はざわついていましたし、
「冷たい奴と思われないだろうか?」という不安も時々よぎっていました。
その払拭に、問題には一切触れないけれど健康管理にはいつもより気を配るようにしました。
また、自分の気持ちの整理のために「断捨離」「掃除」「神社参詣」をルーティンにして過ごしました。

そして実家母の創価問題に関して、私が躍起にならなくなったのは
姉のかかわりが大きかったと思います。
家族の中で唯一、私だけが母の創価趣味(←今はこう表現できます)につきあわなければ
ならない!と(勝手に)背負いこんできましたが、
2014年春に姉から「創価の事で母を刺激するな」と釘を刺されたこともあり、以降の私は
母に対し、「問題意識」や「敵対意識」をあからさまに向けて創価を語る事を自粛しました。
過去の記事にも書きましたが、あくまでも兄姉の意向に沿うよう・邪魔しないようにとの配慮でした。

手放しの理由はどうあれ、主人に巻き起こった全ての問題は綺麗に片付きました。
そして母も、私が膝づめ対話w を継続しなくても、勝手に非活動の道を歩み始めました。
「問題を手放したら、問題が解決」していたのです。

一連の出来事を経て、心理を学び始めたところ「問題は解決しようとしない」とか
「問題を手放せば、問題は解決する」といった教えが、あちこちにあることに驚きました。  
いろんな心理学者・カウンセラー・覚者が、表現こそ違いますが同じことを言っており。
「他人の問題に首を挟むのは、相手を低く見て信用・信頼していないから」
(相手に解決能力が無いと見くびって、相手の仕事や役割を奪っている)
との示唆を読んだ時、
なんですとー?!でした。 が、これは当たってるかも・・(汗)と、自分を振り返り。
私が主人と義弟の訴訟問題に首をつっこみかけたのも、ふたりが頼りなく思えたからでした。
(常々、そう思ってきたということです) 
また、母に対しても「長年盲目なんだから、自分で気付けるわけがない(=だから私が創価の矛盾を
母に教えなければ・訴え続けなければ!に繋がっていた)」と決めつけていました。
つまり「相手を見くびって」いたことになります・・。
そして「相手が問題を解決するチャンスは譲るべきであり、首を突っ込むべきでない」
ともありました。
相手の役割や成長・気付きのチャンスを奪ってはいけない、という事です。
これが基本的な「人としての在り方」の部分で、問題を手放す理由のひとつめです。

実際、私が手を出さなくても主人の問題は片付きました。
私の出番なんて全く無用だったということですw
そして、一連の出来事を経て主人が大きく変わりました。
本来持っている力を出すようになった・・というよりも、これまで義母さんや私が
主人を「頼りない」と決めつけて「役割」を奪っていただけだったんだ・・と、理解しました。
実家の母についても、私がヤイヤイいわずとも、自分の目で組織の中を見「これ如何に?」と
気付き、離れたのです。
それも、2014年春頃には思いもよらなかった理由(安保法案をめぐっての内部対立を目撃)で。

心理を学ぶと、創価で叩きこまれた事のほぼ全てが覆るというか・前提が違いすぎて
改めて驚くと共に、
「幸せとは真逆の理論を叩き込まれてたんだなぁ・・」と、しょっぱい気持になるのです。
そんな組織を離れて良かった、と思うと同時に、折に触れ自分の中にある「前提」を
チェックしてみる・おかしな「思考のくせ」が残ってないか、点検してみる必要性を感じます。

心理学は、条件なんて何も必要なく、人は誰でも最初から幸いで尊い凄い存在だ、
という大前提から始まります。
「かわいそうな人・救うべき人」なんていません。
この大前提から出発しているため、自分も他者も素晴らしい存在であり、信用・信頼して
委ねることが「自他の尊厳を護る」ことになります。
人が不幸だと感じるのは、思い込みや勘違いで思考が偏ってしまった(思考のくせがついた)
せいであり、
その心の仕組みを理解し・偏りを真中へ戻すのが、心理学の様々なテクニック(療法)です。
そして心理学の究極は、助けるのは「わたし(自分自身)」だけです。 
他者には問題も原因もありません。(人のせいにしているうちは、何一つ解決しません)。
自分が助かり救われる事で、何もしなくても他者も救われるし、大丈夫。
むしろ、他者のことを気にしているから、自分が救われないのだーと教えてくれます。
自分の投影が他者である、自分が他者に何を感じているのか。これが出発点だからです。 
そして、心理学は徹して「自分」に決定権があります。
自分の内側を変えるだけで、外側=相手に影響を与えるのです。
つまり外側=相手を敢えてどうこうと、弄ったり働きかけたり、変えようとしなくていい・
相手を、どうにかしなくていいのです。 
心理学のおすすめ本があったら教えてほしいとのお尋ねもありましたので、記事の最後で
紹介いたします。

対し創価では「条件付き」の幸福論に終始していました。
いうまでもなく、信仰を保たなければ真の幸せは無いという考え方です。
この考え方は、選民思想を生みだします(信仰のない人は不幸・・だから救わなければ!と)。
.自分の幸福だけで満足してはいけない、他人も幸せにしなくては! ←下線部が罠です。
このあたりの話は、別の機会にもっと詳しく書きたいと思います。
もと創価脳で悩まれている方には、ぜひ知ってもらいたい大前提です。

「ニュー・アース」を読んで、エゴの構造について知ると、よりこの「問題を手放す」について
理解が深まります。
詳しくは次回から書きますが、エックハルト氏は「ニュー・アース」をはじめとした著書の中で
エゴ(自我)に振り回されないためには
「”いま(現状)”を受け入れ・”いま(現状)”と喧嘩しない」ことを提唱しています。
先日読んだ「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」にも
「受容と手放すこと」について詳しく書いてありましたので、一部紹介します。

注:なお、私がエックハルトトール氏を神押しw しているのは、誰の心理学の本を読んでも・
全部エックハルト氏が語ることと同じで・その智慧に結びつくからなのです。
なんだか宗教にハマったように思われた方もいらっしゃるようですがw 
上っ面だけ見ての話ならば残念ですし、まだ「ニュー・アース」の内容について私は
全く書いてないのにw えらく早く「レッテル貼り」をされた事は、残念だなと思います。
けれど、どんな感想を持つのもその人の自由です。感性やポテンシャルの違いだと
承っておきます。
また、私はエックハルト氏ではない現代の覚者・心理学者にも影響を受けています。
おいおい紹介します。



↑「ニュー・アース」よりやさしく読みやすい文体・内容です。
(エゴのメカニズムについては「ニュー・アース」が一番詳しく書いてあるかと思います)

習慣性になっているリアクション的な「ノー」は、エゴを強化します。
一方、「イエス」はエゴを弱めます。エゴは、「手放す事」「放下」に耐えられないのです。

人、場所、状況や出来事に、無理難題を要求しなくなった途端、不思議なことに、
それらは、あなたにとって満足のいくものに変化して行くだけでなく、より調和のとれたものに、
より平和なものになっていきます。これが、受容の心が起こす「奇蹟」です。

「手放すこと」は、いわば、抵抗から受容への「ノー」から「イエス」への内なる変容です。
手放す時、「わたし」は、リアクション、あるいは知的なレッテル貼りという認識によるものから、
それらを超越した感覚へとシフトします。

なんであれ、完全に受け入れるなら、あなたは平和へと導かれます。
たとえそれが、自分が抵抗している事の受容であろうと、受け入れ不可能なことの
受容であろうと。

人生を放っておきましょう。逆らわず、そのままにしておくのです。(p122-p138抜粋)


問題を解決しようと、執着することじたいが「エゴ」の働きです。
下線を引いた「受容の心が起こす奇蹟」については、私は「親和性」だと解釈しています。
「親和性」の反対は「敵対」です。
(他者の)問題を解決したい!という「エゴ」を手放すには、まずあるがままを「受容」する。
動かしようのない現実をまず、認めてしまうのです。 そのうえで「手放す」。
エックハルト氏も、この奇蹟について「物理学の法則に近い」と動画の中で言及していましたが、
執着によって生じるエネルギーが、抵抗力を生むことによって
どんどん解決という「的」から離れていく・抵抗を手放せば、「的」に引き寄せられる・・といった
感じかと解釈しています。
私が経験したいくつかの「問題解決」は、(全く意図してませんでしたが)
この、物理学の法則に近い”手放しからうまれた親和性”かと思います。

(補足:今回は「他者の問題」としましたが、エックハルト氏は自分自身が抱える「問題」も
同じく受容・手放しを推奨しています。「ニュー・アース」にその内容が出てきますので
後日触れます)

「問題を手放す」って、責任感の強い人にとっては、物凄く怖いことだと思います。
こと、元創価脳の方には「恐ろしい」と感じることだと思うのです(私がそうでした)。
創価では「問題」に立ち向かうのが当たり前でしたから、放置・看過するなんてトンデモナイ。
そんな「思考のくせ」「過去からの条件反射」を残している人も、多いかと思います。

しかし「問題に立ち向かう」のは、見方を変えれば「抵抗」です。
まして他者の「問題」に、横から手を出すのは「相手への不信・見くびり」であり
解決してあげたい、なんていう事こそ「個人的エゴ」。 
創価流日蓮仏法を叩き込まれた者からしたら、びっくりですよね。
「他者を救う」ことこそが生きる目的みたいなもの・それこそが正しい生き方だって
幼少期から教わってきたのにw 真っ向から否定。

心理を学ぶと「問題は問題化するから問題になる・放っておけばよい」とか
「自分の周囲で起こる問題は、自分自身の心の投影」で「自分の内側に答えを探せ」
という示唆に、しょっちゅう出遭います。
これって、創価で教えられ・正しいとされていた事の、まるで真逆ですw
創価では、「自分の悩みを解決したければ他人をまず救え(折伏せよ)」でした。
”自分の悩み(問題・内面)ばっかり見ずに、他人の問題に必死になれ”と。
そうすれば知らないうちに自分の問題は解決しているから・・と、これが定説でした。
他者の問題も親身になって取り組むことこそ、正しい行い・・的な指導が
なされていたのですが、これも行きつくところはやっぱり「上から目線=選民意識」でしょう。
「相手を救う」と、まるで崇高な行為とされてきたことが、実際は「横取り御手柄ゲット!」
だったのかもしれません。 
まして、組織ではそれを「功徳」を積める行動としていました。
ふと思い出しました、婦人部の活動に疑問を持ち・だるいわー・・と思いつつ会合に出ていた頃。
「悩みは無いのか?」と聞かれ、ないと答えると「じゃあ友達で悩んでる人はいないのか?」って
聞かれたよなぁ・・と。
そうやって本人になければ他人にまで「問題」探しをして、解決しなきゃ!お題目よ!
新聞よ!選挙よ!って、駆り立てていたわけです・・組織は。 
問題が、飯のタネです。
何かと言えば「闘い」「闘争」って・・ほんっと、揉め事好きだね~、としかw

身の回りの誰かに「問題」がおきている時、ざわつくかもしれませんが、
「大丈夫、あのひとなら解決できる」と信頼を寄せ、そっとしておく。見守る。
勿論、話を聞いてほしいとか、相談に乗ってほしいと請われた時はのればよいと思いますし、
具体的な応援要請があれば、自分の心に従って受けたり断ったりすればいい。
「頼まれもしないのに、手柄を横取り」だけは、やめるのが吉です。
そして、事が過ぎるまで「自分に集中」するのが、よい過ごし方だと思います。

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また、創価脳な親・身内に対しての悩みや思いをコメントで寄せてくださる方へ。

私がブログを継続しようと思った大きな理由の一つは、
創価脳を抜けてもなお悩んでいる人の大半が「自分責め」が大変に強いこと・
「他者」「他所」に不愉快の原因があると考えていること・・又は自分が迷惑を被っているとの
被害者意識がどこかにあること・
その原因に執心していたら気分が悪い・・のに、離れようとせず、不愉快な気分のまま
問題から離れない人が多いこと(上記すべて、かつての私もそうでした)に気付いたからです。
その原因が、心理学を知って創価時代~幼少期からの刷り込みから来ているとわかりましたし・
誰がそれを解決してくれるわけでなく、自分が紐解いていくしかないんだって事も解ったから。
それら気付きを書く事で、悩める誰かの小さなヒントになれば・・と、思った次第です。

覚醒してしまった者として色々思う処はあるかと思いますが、
基本、創価脳な身内は「そっとしておく」のが良いと思われます。
さんざん格闘してきた私が「そっとしておく」って言うのもなんですが。
ただ経験者として言えることは、創価脳との対峙は疲れるだけです!w
そして、ただ反発力を強めるだけで、実は逆効果だったりもします。
創価脳な親や身内に対して、あなたは悩まなくていいのです。
それは当事者(親や身内)の問題だから。
疲れたり・さらに悩んだりするくらいなら、相手を信じて手放すことです。
信仰を強要したり、信仰に絡んで説教してくるような親・身内には「信教の自由」を
主張し、それでもらちが明かないようなら距離を置きましょう。
取り合う必要はありません。問題化してしまうからです。

単に創価脳を言い負かしてやりたい・ねじ伏せてやりたいって人も、中にはいそうですが
それはそれでいいと思いますw 
その人がやりたくて、楽しいからやっていることでしょうから。
そして、バリバリ創価脳の人もきっと「やりたくてやっている」のです。
そこを理解できれば、スルー出来ると思います。
こちら側がどんなにそれを「くだらない・搾取されてる・時間の無駄だ!」なんて思ったって、
気付いてない人にはそんなの関係ない。 恋は盲目、と同じで。
だから認めて、そっとしておけばいいと今の私は思っています。
ただし、迷惑な行為や決めつけがあった時にはハッキリ「迷惑だよ」って言いましょう。
「認める」と「見過ごす」は違いますから。

さんざん創価脳な母親との対峙をブログに書きなぐっておいて、自己矛盾もいいところだと、
お叱りを受けるかもしれませんねw
いまだから言える事ですが(自己弁護しますが)、私が躍起になって母と対峙してきたことも
物理学の法則と同じ「反発」だったと思っています。
創価脳だった人が、創価が搾取団体だと気付いた時のショックは、計り知れないものです。
パニックになるのは当たり前だし、人によってその方向性は違うけれど、
大きく逆向きの力が働き、強いアンチテーゼ・攻撃心が生まれるのは避けようがありません。
身近な創価脳の人をみると、放っておけない。
間違いから、搾取支配から救ってやらねば!って必死になるのはごく自然なことです。
だけど心理学の指し示す通り、私は母を「見くびり・見下して」いました・・
”こんなことに半世紀以上も騙されているなんて、うちの母親は相当な馬鹿だ!
 半世紀以上も解ってないんだから、強く言わなきゃ、自分で気付けるわけない”って。
(注:そんな創価脳の親が「かわいそう」も、残念ながら見下しに入ります。慈悲にはなりません・・)
だから首を突っ込んだのです。 
決して母の尊厳を護ろうとはしていなかった事について、自分を恥ずかしく思います・・が
エックハルト氏の言葉を借りれば私も「目覚めていなかった」ので、仕方が無かったかと。
たまたま私は、このたびの出来事のおかげで心理学やエックハルトトール氏をはじめとする
覚者の教えに出遭う事が出来、「そっとしておけばいい」なんて言えるようになりました。
人が「やりたくて、やってる」ことは、止められないと、いまの私は思っています。

創価脳な誰かを責め続けている間は、自分の中の闘いも争いも終わりません、きっと。
「責め」を、楽しくて・使命感wをもって、やりたくてやってる人のことは止めませんが、
あまり楽しくないなら違う方向へシフトすることをお勧めします。

やりたくてやってるようには到底見えない・
やりたくないのにやってて、不愉快をまき散らしてるような活動家(某三名)についても。
そんな人にも、自分で気付くときが必ずやってくると思うのです。
もがけばもがくだけ、気付いた時の突き抜け感は、きっと大きなものになるでしょう。
そんな日が、早く来ればいいですねw ←

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心理学のおすすめ本がたくさんあるのですが、今回は「問題を手放す」理由や
仕組みが良く解る2冊を紹介します。 

嫌われる勇気 [ 岸見一郎 ]
価格:1620円(税込、送料無料)


↑アドラー心理学の本です。
「課題の分離」を知ると、他人の問題で悩んだり・抱え込んだり・ざわざわすることが
減ると思います。 
そして「承認欲求の否定」を読めば、創価脳な人たちとの取り組み方・付き合い方が
変わるでしょう。
「今、ここを生きる」というエックハルト氏の教えと非常に近しい内容もあります。


↑恋愛を主題としていますが、人間関係全般において
目からうろこの心理メカニズムが書かれてあります。
内容が平易でとてもわかりやすいと思います。
特に創価脳の母親・身内・友達をなんとかしたいとお考えorお悩みの方、
一読されると、世界観が変わるかもしれません。

Category: Notice&Replace

ラットレースを抜け出す方法

「ニュー・アース」について書く前に、
もう少し、私が各種気付きに至った背景について書いておこうと思います。

「とある出来事」には書きませんでしたが(長文+複雑になるので割愛しました)、
実は同時期に、主人の身に多数の不運な出来事が連続で起こっていました。
時期は全てことし1月中で、毎週何かがおこるという感じで気味が悪かったのです。
仕事における大きなトラブル・主人の個人的な過失により警察からお尋ね・とどめは出先で
物損事故をおこし、本人無傷でしたが愛車が廃車になりました。
1月といえば、義母さんの大きなウソ2点が発覚し、私のトリガースイッチが入った時期です。
そんな、(私が)精神的に盛大にざわついている時期に、毎週のようにトラブルが起きる。
もう、この人(=主人)はどうしてここまで運が悪いの?
誰かに呪詛でもされたの? 何なの?と、主人に対し信じがたい気持が生まれていました。
特に個人的な過失に関しては、私の理解の範疇を超えており、怒りや悲しみの感情も湧いてこず
「失望」し、静かに離婚が頭をよぎるほどでした。

↑これだけのことがあっても、私がこれらを「仏罰だ!」「信心に戻らねば!」と捉えずに
済んだ事が本当に幸いでした。 
実際「罰」ではなく、結果私の思い通りになったというだけなのです。それは次回の記事で
書きます。

幸い、仕事のトラブルは周囲の協力を得て早期解決しました・・が、
今年春の異動で、主人は長年務めてきた事業から外れ、別部門に移りました。
待遇面は変わらなかったものの、主人はショックだった様子です。
(私的には、長期の出張がなくなり・主人が子供達を朝送って行ける職場環境にもなって
非常~にありがたいことでした)
個人的過失に関しても裁判沙汰になるんじゃないか?と不安視していましたが、
おおごとにならずに無事済み。
事故に関して、完全なる主人の趣味車で、私は前々から手放してほしかったので
(他にも保有しており、維持費過大だった為です)
期せずして(私の)願望成就でしたが、主人は愛着をもっており、相当ショックが大きい様子でした。

3月初めに義母さんの件も含め、大半の出来事が落ち着き・無事過ぎる見通しも立ったのですが
私の心はまったくもって晴れやかではなく。
全てが思いのほか早く片付いた、ラッキー!と、本来なら喜ばしく思うところですが、
皮肉にも精神的な昂ぶりから落ち着きへ移ったところで、冷静に考えてしまう事が増えたのです。
起きたトラブルについてこまごまと疑問を持ち、「過去」を持ち出して考え、重苦しい気分でいました。
「主人にこれだけ集中してアクシデントが起こるってどういう事だろう?」
「なにか意味があるのではないか・この流れは、止まったように見えるがまだ続くのではないか?」
(そう思ってしまうほど、トラブルの類とは無縁で、穏やかなこれまでを送ってきた人でした)

また、義実家の家族の関係性についても、自分が見て見ぬふりを十数年続けていた事について
改めて考え。
とくに義母さんに関してはキツネに抓まれたような思いを抱いていました。
「この結婚生活十数年は、いったいなんだったんだろう?」 そんな思いも湧いてき。
主人と結婚を決めた当時の私は、バリバリの創価脳で女子部長でしたから
「創価脳だった私は、判断を誤ったのではないか?」などと、果ては今さらどうしようもないことまで
悩むようになり。

ごちゃごちゃ書きましたが、軽く受け流して次に進もう!ってノリには到底なれなかったのです。
まさに「苦悩」という言葉がぴったりの状況。
しかし、目の前からすでに「問題」らしきことは全部消え去っているのです。
出来事は過ぎ去り、平穏な・普通の毎日は戻ってきていたのです。
にもかかわらず、私は変えようのない「過去」にひきずられ、
その「過去」を下敷きにした「未来」しか描くことが出来ず、
下敷きが不味いために、見通しが良いと言えない「未来」しか浮かんでこなくて、
苦しくて仕方ありませんでした。

50年近く生きてきて、初めてと言えるほどの苦悩。人生について「謎解き」を求めたくなった私。
特に、順風満帆におもえた主人がここへきていろんなものを「失う」という状況について疑問で、
占い師にでも見てもらう?と、興味半分でネット検索しました。
ただ、居住地付近限定で探したせいもあるのか、胡散臭い対象しか見つからず。
この謎を解きたい。同じ悩みを持つ人はどう解決しているんだろう・・と調べていったら
たまたま行き当たったのが、心理カウンセラーのブログでした。
そこに書いてあった言葉に不思議とひきつけられ、関係する本やブログを読みあさるようになりました。
これが心理学に答えを求めたきっかけでした。
そこで創価脳ならではな「思考のくせ」に気付き、私自身が自分に嘘をついて周囲に接していたこと・
「他人軸」で生きてきた事を知って、驚いたと同時に謎も解けていきました・・が、
すぐに気持ちがスッキリしたわけではなかったのです。

「ニュー・アース」に出遭ったのは4月の初めです。
この頃まだ「過去」への問いかけがとまらず、苦しい思いをしていました。
苫米地氏の時間軸について調べていた時、行きあたったブログで紹介されており、
いわゆる精神世界の本か・・と最初はそれほど惹かれず。
私は「引き寄せ」だとか「宇宙からのメッセージ」的なものを
創価脳時代も・覚醒後も拒否し続けていたので(なんとなく怪しいと思っていた故です・・)。
後日、たまたま別件で調べていた時にまた「ニュー・アース」のレビュー記事に出遭い。
そちらを読むと怪しい本でもなさそうだ、と感じたのと・なんとなくこの本に私の求める答えが書いて
あるんじゃないかーという直感で、DLしました。
2日かけて読みましたが、いきなりすべてが腑に落ちたというわけでもありません。
意味がわからない・・というか、何度か繰り返して読まないと入ってこない内容もありました。
数か月経過して最近やっと「そう言う事か!」とわかった内容もあります。

最近、エックハルトトール氏の動画(講演やインタビュー)をよく見ているのですが
その中でエックハルト氏が、自身の教えについて
「目覚めの為の準備の整った人には理解できる」(趣旨)、
目覚めの準備に至るためには「”これ以上もういい”という位、苦悩する経験」が必要であり
「苦悩こそが、 私たちにとってもっとも大切な教師」と語っていました。
(この動画 1時間ほどあり長いのですが上記内容が含まれています)



ああ、全くその通りだ! と、納得してしまいました。
私においても、昨年末からの一連の出来事からなる
「50年近く生きてきて初めてレベルの苦悩」がなければ
「ニュー・アース」をはじめとした、エックハルトトール氏の教えは、ここまでしっかりと
入ってこず・理解もできなかったと思います。

「ニュー・アース」読みました・難しくて解りづらかったです・・という感想もいただいてます。
そういった方々は幸いにも、まだ「”これ以上もういい”というレベルの苦悩」が訪れていないのかも
しれません。
本当に悩み過ぎてわからなくなった時・人生のなぞ解きをしたくなる時まで、本棚に寝かせておくと
良いかと思います。

で、「ニュー・アース」を読むのも勿論いいのですが、動画を見るとよりわかりやすいので
(YouTubeに多数上がっています「エックハルトトール」で検索)
興味のある方はご覧になってください。
どっかの耄碌したおじーちゃん指導者の「私が全てやったんです!」的傲慢な態度は皆無で、
好々爺といった雰囲気をもつ氏の、落ち着いた(時に眠くなる)語りは、心穏やかに見ることが
できますv

先日なにげなく見ていたエックハルト氏の動画で、耳に刺さった言葉がありました。

「思考は過去からの条件反射」 というものです。

創価脳を抜けてもなお、悩んでいる方がいたら、ちょっと振り返ってみてほしいのです
「自分責め」してませんか?
自分が悪い、自分がすべての原因・・これ全部、創価時代の刷り込みです。
そうして自分自身を「悪の元凶」とすることによって、罪を滅さなければ・私がやらなければ・
私が変わらなければ! と、自分を追い込ませる。
自分を追い込んだバリ活時代、何をしていたか? 外部拡大・内がため・票取りでしたね。
そうやって「無罪の人」を「有罪だよ、救われたきゃ頑張りな」って追い込んで、
組織の「利益」としていく・・これが宗教団体の手口です。
もう、創価の活動は一切やめていても、この「自分を責める癖」が抜けていない人は
わりに多いと思うのです(←そしてこれこそ「過去からの条件反射」です)。
私自身がそうでした。
そして、自分を責め・自分に厳しくある人は、実は他人にも厳しい。
他人と言っても全ての他人というわけではなく、それが「特定の対象」に向かう事があります。
自分責めからくる無意識のストレスが、「特定の対象」に向かうのです。
これがあらたな不満やストレスをうむことになり、無限ループに陥ります。

「ニュー・アース」を読んでも・心理を学んでも、同じ結論に行きつきます。
”「自分責め」は、ラットレースを抜け出せない無限の罠”なんだな、と。
組織にいた当時のことを思い出してみると、常に問題意識を持たされていました。
体験(悩みを信仰で乗り越えた)が無いことが、女子部では「恥」のような風潮も
私が若かった当時はあったほどですw (どんな組織なんだ・・異常ですよね)。
そのような、体験のない幸せな部員にむかって「信心の確心を掴ませてくださいって祈れ!」
と、行き遅れのおばさん幹部は檄を飛ばしていました・・。
つまり「信心で乗り越えるための不幸ください」と祈れ!と、指導されていたわけですw
きっと、こんなエピソードをお持ちの方は、山ほどいるはずです。
やたら仕事で勝て!生活面で勝て!信心で勝て!・・と、これも「自分」との闘いをけしかけられて
いたのですが、実際のところ、「自分と争え」って言われてたわけです。
これも形を変えた「自分責め」であり、今のままの己じゃだめだ!と、無意味にたきつけられて
いただけ。
そんなことを、年がら年中やらされていたのですから、この癖は相当に気をつけないと
抜けませんし、ふと顔を出してくることがきっとあると思います。
これらは全部、苦悩の元凶です。
自分を責めている間は一生不幸感がつきまとうし、充足感とも無縁の人生を送ることになります。
組織はそこを意図的に利用しているのです。
ラットレースから抜け出せない無限の罠とは、そういうことです。

じゃあ、抜け出すにはどうすればいいのか。

自分を絶対に責めない事です。

自分を責めることは、百害あって一利なしです。
無意識のうちに「自分が悪い」が頭をよぎったり・責任を背負いこみそうになった時
これは、組織や親から刷り込まれたものであると自覚してください。
なんの根拠もない、思いこまされた無実の罪だと認識し、
「自分は悪くない」に入れ変えるだけで、OKです。
ふとしたとき、自分を責めそうになったら思いだしてください。

そして、悪しき古い思考は捨て去り・”いま”思考を止めることです。
これは「ニュー・アース」に終始書かれている、大切な習慣でもあります。

「思考を捨て去るって・”いま”思考を止めるって何言ってんだ?!」と、
私も当初、相当な抵抗がありました。
そんなこと出来ないよ!そんなことしたら人間としてダメになってしまうじゃないか!!と。

でも、大丈夫でした。
そしてすごく楽になり、自分も周囲もいい感じで、心地よく暮らせています。

次回、ひとつ別記事を挟んで、(やっと)「ニュー・アース」について書いて行きます。

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