ニュー・アース 第二章(4)

所有という幻

何かを「所有する」、これはほんとうはなにを意味しているのだろうか?(中略)
多くの人は、死の床に就き外部的な物がすべてはげ落ちて初めて、どんなモノも自分とは
なんの関係もないことに気付く。死が近づくと、所有という概念そのものがまったく無意味で
あることが暴露される。
さらに人は人生の最後の瞬間に、生涯を通じて完全な自己意識を求めてきたが、
実は探し求めていた「大いなる存在としての自分」はいつも目の前にあったのに見えなかった、
それはモノにアイデンテティを求めていたからで、つきつめれば思考つまり心に
アイデンテティを求めていたからだ、と気付く。
「心の貧しい者は幸いです」とイエスは言った、「天の御国はその人のものだからです」と。
「心が貧しい」とはどういうことか?
心になんの持ち物もない、何も自分を同一化(アイデンテティファイ)していない、という事だ。
そういう人はどんなモノにも、また自己意識と関係するどんな概念にも、アイデンテティを
求めていない。それでは「天の御国」とは何か?
それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。その喜びは、何かに自分を
同一化するのをやめて、「心の貧しい者」になったときに感じることができる。
だからこそ、東洋でも西洋でも古くからのスピリチュアルな実践で、あらゆる所有が否定されて
きた。しかし所有を否定しても、それだけでエゴから解放されるわけではない。
エゴは何か別のものに、たとえば自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ、
人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージにアイデンテティを求めて
生き延びようと図るだろう。
(中略)
そのアイデンテティを通じて、自分は正しくて他者は間違っていると考えることが出来る。
あとで取り上げるが、自分は正しく他者は間違っているという考えはエゴイスティックな心の
主たるパターンの一つ、無意識の主たる形の一つだ。

いいかえれば、エゴの中身は変わってもそれを生かしておく構造は変わらない。
これに関係して無意識に想定されているのが、所有というフィクションを通じてモノに自分を
同一化すると、物質が持っているかに見える堅実性や恒久性のおかげで自分にも大いなる
堅実性や恒久性が付与されるはずだという事だ。(中略)
エゴはまた所有と「大いなる存在」を同一視する傾向がある。われ所有す、ゆえにわれ在り、
というわけだ。そして多くを所有すればするほど、自分の存在も豊かになる、と考える。
エゴは比較の中に生きている。私達は、他人にどう見られているかで、自分をどう見るかを決める.
誰もが豪邸に住んで誰もが豊かなら、豪邸も富も自意識を高めるのには役立たない。
それなら粗末な小屋に住み、富を放棄して、自分は他人よりスピリチュアルだと思う事で、
自分のアイデンテティを取り戻すことが出来る。他人にどう見られるかが、自分はどういう
人間か、何者なのかを映し出す鏡になるのである。

エゴの自尊心は多くの場合、他者の目に映る自分の価値と結び付いている。
自己意識を獲得するには他者が必要なのだ。そして何をどれくらい持っているかでほぼ自尊心が
決まる社会で暮らしていると、それが集団的妄想であると見抜けない限り、自尊心を求め
自己意識を充足させようとしてむなしい希望に振り回され、一生、モノを追い求めることになる。
モノに対する執着を手放すにはどうすればいいのか?そんなことは試みないほうがいい。
モノに自分を見出そうとしなければ、モノへの執着は自然に消える。
それまでは、自分はモノに執着していると気付くだけでいい。

対象を失うか危険に晒されなければ何かに執着している、つまり何かと自分を同一化している事が
わからないかもしれない。
失いそうになって慌てたり不安になるなら、それは執着だ。
モノに自分を同一化していると気付けば、モノへの同一化は完全では無くなる。
「執着に気付いている、その気付きが私である」それが意識の変容の第一歩だ。
(p96-103抜粋)


「大いなる存在」とは、原書ではpresenceやbeingとなっています。
私は「生命そのもの」と解釈しています。

生きている、生かされている、呼吸が自分のコントロールに依らず、なにものかによって
生まれおちた瞬間から死の時まで、えんえんと続いている事・・この「生の奇跡」について
日常驚きをもって・また喜びをもって意識している人は、どのくらい居るでしょうか?
数分間、自意識で息を止めることはできても、自分でコントロールして心臓を数分間とめるなんて
ことは不可能です。
呼吸と心臓の絶え間ない動き、これこそ「神の所業」と言えると思います。

普段なにげなさすぎて・あたりまえすぎて気付いていないだけで「呼吸している」この状態は、
実は奇跡的瞬間の連続で・ものすごいラッキーな事なんだと、
普段から意識している人は(大病や大事故や九死に一生の経験から生還した人を除いては)
あまりいないのではないか?と、思うのです。

かくいう私も、30代手前で生命の危機を感じるような出来事を経験していたにもかかわらず、
「ニュー・アース」を読むまで、「生かされている」という状態、生命の存続の奇跡については
すっかり忘れ去っていました。 
「ただ生きている」その事があたりまえになりすぎていて、ありがたみなんか全く薄れていたのです。
それどころか、生きているがゆえに起きてくる様々な出来事に対して不満を持ち、わだかまり、
怒り、妬み嫉み、見下し、被害者意識で対象を攻撃し・・勿論、喜びも笑いもありましたが、
「生きていればこそ」の大前提、その奇跡への喜びはすっ飛ばしたところで↑これらの感情・想念に
振り回されたり・抑え込んだりーと、まさにエゴに振り回されていました。

”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに
見えなかった”

”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の
喜びのことだ。”


この2つが、「ニュー・アース」の結論で総論といっても過言ではないと思います。

「生きている」「生かされている」自分がどれほど尊い幸運な存在なのか、
人はエゴに囚われている間、そこに気付くことができません。
何ものを持たずとも、ただ存在する・そこに「ある」ことだけでもう完全で素晴らしいのに、
自分がどれほど尊くすばらしく、幸運な存在であるかを全て「アイデンテティ」に求めようとする。
以前から書いている通り、あらゆる「外付けパーツ」の増強で、自分という存在価値を
見出そうとするし、
他人の「外付けパーツ」と比較しては優越感をもったり・劣等感を持ったりする・・そんな繰り返しで
生涯という時間は消費される。
そして死の間際に立った時、それら「外付けパーツ」が、自分ではなかったことに”やっと”気がつく。
(以前も書いた通り)命尽き眼を瞑る時には、「外付けパーツ」はおろか、自己の肉体さえも
失うのです。 
ただ「いま」ここで呼吸をし、「生存」していられる、これこそが「大いなる存在の喜び」なのだと
エックハルトは教示しています。
つまりは、生存しているという状態、今ここでもうすでに、誰人も幸運で幸福であり・尊いのです。
そしてこの事が「今にある」と繋がってくるのです。


「生きて存在してるだけで幸福なんてありえねぇ!」と思うのは、エゴに囚われている状態です。
幸福に条件付けをしているあいだは、「存在している」だけで幸せだなんて思えるはずもありません。
あれがない、これがない、それもない。だから私は幸せではない・完全ではない・・と
自分がいかに「不足」しているかを、わざわざ探しだそうとします。
また、誰かと比較して「あいつよりは幸せだけど、上には上がいる」と考えたりもします。
そして恐ろしい事に、エゴは満足を知りませんから、一瞬「良かった」とか「最高に幸せ」と
思えるような出来事や瞬間にめぐり合う事があっても、次の瞬間にはすぐ
「よろしくない」「足りない」という状態を想像し・引き寄せます。 
それがエゴが存在するためのエサだからです。
私の文章力では、なかなかこのあたりを簡潔に・わかりやすく書けなくてもどかしいのですが・・(汗)。

で、物質面や社会的評価に依らずとも「自分たちは幸せの直道を歩んでいる!」と
胸張る「ぼろは着てても心は錦」タイプの信者たちは、
”エゴは何か別のものに、たとえば自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ、
人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージにアイデンテティを求めて
生き延びようと図るだろう。”

まさに↑このパターンで、「信者というアイデンテティ」にハマっていると言えるでしょう。
宗教団体組織内における役職にこだわったりしがみついたり・昔OOだったと主張するタイプも
ここに当てはまるかと思います。
”自分は正しく他者は間違っているという考えはエゴイスティックな心の
主たるパターンの一つ、無意識の主たる形の一つだ。”

創価脳な人に、この部分↑ぜひ繰り返し読んで暗唱してもらいたいなと。
ただ、これこそが創価脳のアイデンテティで存在する理由みたいなものですから困ったもんですねw

このあともエゴについて、事細かに解説が続いて行くわけですが
「ニュー・アース」を繰り返し読み、「大いなる存在」のなんたるかが理解できるようになって
やっと解ったことがありました。
それは「幸せになれますよ」との触れ込みによる宗教がいかに嘘っぱちか、という事についてです。

大前提として、「生きているだけで丸儲け」を自覚できていれば、新興宗教なんて要りません。
ああしてこうして・何時間も仏壇の前に座って足腰の痛みに耐えながらw祈らなくたって、
外部他者にうとまれながらも「この教えは素晴らしいの!新聞読んでみて!」なんて言わなくても、
大丈夫なのです。
だって、息をしている・心臓が動いている、しかも勝手に。
それだけでもう「ラッキー」で「幸せ」なのですから。

そんな大前提の幸運を・自分が生かされている不思議・奇跡をまず感じてみれば、
悩みごとや一見「不幸」に見える事柄には、殊更フォーカスしなくなるのです。
勝手に心臓が動いている・呼吸が連続している、この奇跡をおこせている幸福に比べたら
目先の悩みやアクシデントはとるに足りず、いずれ「過ぎ去る」ものだ、と解ってきます。
できごとは四季や天候や車窓に流れる景色と同じ。
それが通り雨か台風か豪雪かは、時と場合によって違ってはくるでしょうが「事象」にすぎません。
そこにどんな「意味」を持たせるかは、自分次第になります。

「問題を問題化しない」ことをこの記事で書きました。
そもそも、生きている事それじたいが「ラッキー」です。
その大前提を放り投げて・なきものにして、「問題」を「問題化」し騒ぎ立て・
宿業や罰論なんかわざわざ「不幸探し」をしているようなものなのです。 
あえてもう、こまごまは書きませんが・・。
信仰の原動力が「不足」からくることは、元創価脳の方なら誰しも経験がおありだと思います。
「~しなければ」「~であるべき」「~じゃないから、こうなりたい」 全部、不足です。
そこにフォーカスしている間は、どれだけ頑張って不足を埋めたところで、また次なる不足が
やってきます。
何故なのか? エゴに取りつかれているからです。 
エゴにとりつかれているときは、どこまでいったって「満足」なんかありません。
そして信仰の原動力=エゴそのもの、です。
そこを克服するのは本当に単純なことで「エゴに気付く」
「生かされているという得難い幸福・幸運に気付く」 これだけです。

******************************

ところで、ブログタイトルを変えました。
ブログの趣旨を変えた6月にしたかったのですが、当時タイトルが思いつきませんで
今頃になった次第です。
すごくどうでもいい余談ですが、don't trust///の /// はどういう意味ですか?と以前に
質問されたことがあったのですが、本当は ・・・ としたかったのです。
それが、かなキーを押していなかったため、英数キーで///と入力されてしまっただけで
実はまったく意味はございませんw 今頃の回答ですみません)

そしてご報告、2016年内に脱会届を正式に提出することになりました。
しかも、実家の母も同時です。
なぜそうなったのかについては、来年以降、落ち着いてからご報告させていただきます。
いま言えることは、私はとくに何かを母に対して働きかけていません。
母に対しては、ほんとうに何もしていないのです。
ただ自分が「今にある」こと、わだかまらず「今を受け入れる」ことをやってきた、それだけです。

もともと、脱創価からはじまったこのブログですが、やっと卒創価となりそうです。
私にとっては、エックハルト・トール氏の書籍との出会いが、とても大きな転機となりました。
また、そのた現代の覚者の教えに触れたことで、肩の力が抜け楽になりました。
今後はタイトルどおり「わだかまらない生き方」について
「今にある」「いまを受け入れる」ことについて、私なりの方法とその結果を綴っていきます。

ますます、創価への被害者意識や文句は読めなくなると思いますがww
それでもよければ、引き続きお付き合いください。


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「ニュー・アース」第二章(3)

なくなった指輪

スピリチュアルな問題について指導するカウンセラーとして、ある女性がん患者の元へ
週に二度ずつ通っていた事がある。その女性は四十代の教員で、医師から余命数か月と
宣告されていた。
(中略)ある日訪ねてみると、彼女はひどくがっかりし、怒っていた。
「何があったのですか?」と尋ねたところ、ダイヤの指輪が無くなったという。(中略)
きっと毎日数時間、世話をしにくる女性が盗んだに違いない、病人に対してよくもそんな
無神経なひどいことができるものだ、と彼女は言った。
そしてその女性を問いただすべきか、それともすぐに警察に通報したほうがいいか、と私の
意見を求めた。
どうすべきか指図はできないと答えたが、しかし指輪であればどんな品物で在れ、
今のあなたにどれほど重要なのかを考えてみてはどうか、と私は助言した。
「あなたはおわかりにならない」と彼女は言いかえした。
「あれは祖母からもらった指輪でした。毎日はめていたのだけれど、病気になって手がむくんで
はめられなくなったんです。あれはただの指輪じゃない。騒ぎ立てるのも当然じゃないですか、
そうでしょう?」
その返事の勢いや声にこもる怒りと自己防衛の響きは、彼女がまだ十分に「いまに在る」
心境になれず、おこった出来事と自分の反応を切り離して別々に観察するに至っていないことを
示していた。
怒りと自己防衛は、まだ彼女を通じてエゴが発言しているしるしだった。
私は言った。「それじゃ、いくつか質問をします。すぐに答えなくていいですから、自分の中に
答えが見つかるかどうか探してみてください。(中略)」
「あなたはいずれ、それもたぶん近いうちに指輪を手放さなくてはならないことに
気付いていますか? それを手放す用意ができるまで、あとどれほどの時間が必要でしょう?
手放したら、自分が小さくなりますか?それがなくなったら、あなたは損なわれますか?」
最後の質問の後、しばらく沈黙があった。
再び話し始めた時、彼女の顔には安らかな笑みが浮かんでいた。
「最後の質問で、とても大切なことに気付きました。自分の心に答えを聞いてみたら、
こういう答えが返ってきたんです”そりゃ、もちろん損なわれるわ”
それからもう一度、問い返してみました”私は損なわれるだろうか?”今度は考えて答えを
出すのではなく、感じてみようとしました。そうしたらふいに「私は在る」と感じることが
できたのです。こんなふうに感じたのは初めてだわ。こんなに強く自分を感じられるなら、
私はまったく損なわれていないはず。いまでもそれを感じられる。
穏やかだけれど、とても生き生きとした自分を感じられます。」
「それが”大いなる存在”の喜びですよ」と私は言った。「頭から抜けだした時に、初めてそれを
感じられるんです。それは感じるしかない。考えたって解りません。エゴはそれを知らない。
だってエゴは思考で出来ていますからね。その指輪は実は思考としてあなたの頭の中にあり、
それをあなたは自分と混同していたんですよ(中略)
エゴが求め執着するのは、エゴが感じることが出来ない、”大いなる存在”の代用品です。
モノを評価して大切にするのはいいが、それに執着を感じたら、それはエゴだと気付かなくては
いけません。(中略)
喪失を完全に受け入れた時、あなたはエゴを乗り越え、あなたという存在が”私は在る”
ということが、つまりその意識そのものが現れるのです」(中略)
身体がますます衰弱していった最後の数週間、彼女はまるで光が内側から輝きだして
いるように明るかった。いろいろな人にたくさんのモノを分け与えたが、その中には
指輪を盗んだと疑った女性も入っていた。
そして与えるたびに、彼女の喜びはますます深くなった。
彼女の死を知らせてきた母親は、亡くなった後で例の指輪がバスルームの薬品戸棚で
見つかったと言った。手伝いの女性が指輪を返したのか、それともずっとそこに
置き忘れられていたのか?それは誰にもわからない。 だがわかっていることが一つある。
人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える、ということだ。(中略)

自分の所有物に誇りを持ったり、自分より豊かな人を羨んだりするのは
間違っているのか?そんなことはない。誇りや目立ちたいという思いや、「もっと多く」によって
自己意識が強化され「より少なく」によって自分が小さくなると感じるのは、善でも悪でもない。
エゴだというだけである。
エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。(p87-94抜粋)


このパートを初回読んだ時は、全く腑に落ちませんでしたw
愛着ある高価なアクセサリーが忽然と消えたら、そりゃ慌てるし、誰かを疑いもするだろうし・・
たとえ余命が幾許であっても・・盗まれたり・紛失したら辛いし、引きずるに決まってるじゃん!と。
エゴについて全く理解していない状態でしたので(エゴに囚われまくっていたので)
執着感ばりばりの私が、1回目はそう感じて当然だったと思います。
当時の私は、「とある出来事」で義実家や主人がいろんなもの(財産)を失っていくのを見て、
なんともいえない不穏な気持ちに苛まれていた時期でした。
不動産が人手に渡り、「管理物件」という看板が立っているのを見た時(春休み)も
忸怩たる思いがありました。
それらが「わたし」のものではないにもかかわらず、です。 
(余談ですが、私が義母さんに貸したお金は主人が戻してくれました)
「とある出来事」さえなければ、あれもこれも失わずに済んだんじゃないか・・なんでこんな事に
なったんだ!と、過去を責めていた頃で、まさにエゴにグルグルと巻かれた状態でした。

しかし、さまざま「いまに在る」を実践した数か月後に読むと、違和感なく受け入れることが
出来ました。
ふと思い出したことですが、20代半ば、私は腕時計を紛失したことがありました。
腕にはめていたはずのそれが、通勤帰りに「ない」と気付いて真っ青になり、すぐ電車を折り返して
会社までの道のりを探しまわりました(&社内も)。 
駅と交番に紛失届も出しましたが、結局戻ってこなかったのです。
その時計は父方の祖母が大学進学祝いでくれたものですが、高価な品だったため
父が「学生には分不相応。社会人になったら使いなさい」と、暫く父に預けていたものでした。
社会人になったとき手渡され、父も知っている特別な品物だっただけに、私は紛失した事を
ずっと黙っていました。 絶対に怒られる・大目玉をくらうと思い、言えなかったのです。
(これには父と父方祖父母の関係性や家庭環境もあるのですが、畏敬の念をもって
 父は祖父母に接していましたし、祖父母の前で姿勢を崩すのを見た事がありません。
 私達にもそのように接するよう・祖父母には敬語を使うよう教育されていました。
 私にとっての祖父母は親しみのわく存在ではなく、どこか遠い存在で、
 成人してなお、祖母からもらった大切な時計を失うなんて「とんでもないこと」だったのです。
 簡単にいえば、現代のような「フレンドリーな家族関係」は全くありませんでした。
 このエピソードを書くまで全く思い出しもしませんでしたが、改めて見るとちょっと特殊というか、
 こういった生育環境も私の「思考の背景」を作った材料の一つで、長らく囚われ続けた
 「絶対感」の基礎にあったものではないかと、思い当たりました・・)
十年以上経過してから、「あの時計、実は昔、紛失した」とカミングアウトしたところ
父は「災難を除けてくれたんだろう。失くした事をそんな深刻にとらえなくてもいい」と言ってくれ、
拍子抜けしたと同時に、とても気持ちが軽くなった事を思い出しました。
それはずっと私が一方的に・片思いのように抱えてきた罪悪感が、解放された瞬間でもあり。
父のエゴが軽かったのか・私のエゴが重たすぎたのか?w それは解りませんが、
腕時計がなくなっても「わたし」が損なわれることは、確かに無かったのです。

「罪悪感」とは、上記したように、自分がひとりでに抱え込んで勝手に重くなって身動きとれなく
なっているもの・・と、言えます。
もっと後の章で例を引いてエックハルトが解説してくれますので、ここでは一旦おきますが、
自分が気にするほど相手はなんとも思っていない(逆にいえば、自分に覚えのないようなことを
相手がしっかり覚えて恨みに思っている)パターンがある、ということを知っておくといいかも
しれません。

また、主人や義実家においても、半年経過し気付いてみれば、モノやお金を失いはしましたが、
以前と事情は様々変わったものの、義実家の皆も私達も「いま」驚くほど普通に・平穏に
暮らしています。
まだ一年経過してないにも関わらず、怒り悩み苦しんだ日々が、もう遠い昔の出来事に思えるくらい
私の中で「風化」しつつあります。恨みつらみは、嘘のように消えました。
私においては、「とある出来事」に出会わなければ、ずっとエゴに囚われて悩ましい毎日をおくり・
現実問題のはけ口に創価問題を使ってw悪口言って憂さ晴らしで過ごしていたかもしれません。
「とある出来事」のおかげで、エックハルトの本と出会う事が出来、エゴについても理解し、
さまざまな執着を手放すことができました。
それが本当に幸いなことだった、と感じています。
エゴに囚われたままだったら、(私のものではない)義実家が失ったあれやこれやを恨めしく思い、
「義母さんさえ騙されなければこんな事にならなかったのに!」などなど、いつまでも過去をネチネチ
蒸し返しては、いまごろ機嫌悪く生きていたことでしょうw
何よりも、わだかまりなく生きることが出来るようになったのが最大の収穫で
人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える、ということだ。
この言葉の真実味を実感しています。

本パートでは「指輪」(高価で大切にしていたもの)を題材にしていますが、なにも物にとどまらず、
特定の人間関係であったり・仕事・ステータス・恋愛・趣味・その他もろもろ全てに通じてくる話です。
それらを失ったとしても「わたし」は損なわれない。
なぜならそれらは「外付け」であり「わたし」ではないから。外的要因だから、です。
これが腑に落ちない間は「エゴ」にとりつかれ囚われている、という目安になります。

エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。


ここを読んだ時「ほお!」と、大変おどろいたのを覚えています。
自分個人の問題じゃないなら、他人(エゴ)事なの?!そりゃ面白い、とw
そして私がすぐ実践を始めた事があります。それは、腹立たしいことや不愉快な想念が
浮かんできた際や・プライベートな日記を書いていて、わだかまりが文章に表われてきた際、
語尾に「~と、エゴが申しております」 と付け加えてみる事でした。
つまり、自分の意見じゃありません、エゴの意見です、という事にしてしまうのですw
これをやってみると、とても客観的に見ることが出来ますし、なんか面白い。
例えば「OOむかつく! と、エゴが申しております」とか
「XXいい加減にしろよ!と、エゴが申しております」という風に。
これは妄想の暴走を止めるのにも、とても効果があるのです。
憶測に対して「~じゃないか?、ってエゴが申しております」とすれば、あれっ?! 
それ、真実じゃないよね・・。確かめもしていない、勝手な想像だよね?
相手に聞いてみなければ、わからない事だよね。
なにわだかまってんだろう・・確認すればすむことじゃん!・・と発想の転換に役立ちました。
「~と、エゴが申しております」を習慣化すると、わだかまる時間も不毛な脳内会議も
どんどん短縮されていくのです。 
あ、いま自分はエゴに囚われてるな・・と気付き、その時点で思考を止めることができます。
ただ、ここで勘違いしてはいけないのは「善からぬことを考えている私が悪い」と我慢するのとは
違うという事です。 思考を止めるとは=自分の感情を、押し込めることではありません。
あくまでも、いま「こういう気持ちを抱いてるんだな(エゴが)」と、気付くだけでいいのです。
客観視しても、怒りやわだかまりが消えない時は
「自分(エゴ)が何をじぶん(真我)に解ってほしいのか?」を考えます。根問いです。
相手ありきの事柄であっても、自分が何を解ってほしくてその状態に在るのかを客観視して
答えを出す。

そこでわだかまりと一心同体になってイライラ・モヤモヤを続けていても、時間がたてば忘れますが、
根本的に解決はしていないので、またいずれおなじことを繰り返します。
ほんとうの自分の気持が解れば、相手に伝える事なくともあっさり溜飲が下がったり・
解決してしまうものなのです。 本当です。 これは経験した人にしか解らないと思いますが・・。

思考を止めることが習慣となれば、悪い・よからぬ想像が肥大化していくことを防げるという事で、
するとどうなるか、そこには平らかでなだらかな心の状態「いま」に在るが常態化するのです。
「~とエゴが申しております」とすると、自分がいかにくだらないことに腹を立てているのか・
自分が考えたり想像をめぐらしたところで、真実なんてわからないことに怒っているのか・
わだかまっているのか、とてもよく解って、時に脱力しますし、笑えます。 
まさに「自己観察」です。
あくまで私の場合ですが、この方法は効果的だと感じました。 
エゴを克服されたい方は、一度お試しください。

余談ですが、私が「~とエゴが申しております」を実践しはじめて一カ月くらい経った頃、
ふと「こんなに悩まない・考えないなんて、私はこのさき馬鹿になってしまうんじゃないか?」と
頭の中のおしゃべりが来ました。
そして「えっ・・?!私、悩んだり考えたりしない人=馬鹿だって思ってきたんだ!」と
古い思い込みに気付いたのです。 
我ながらビックリしました。若いころからよく周囲(外部)に「祥蘭は考えすぎだよ」とか
「あまり悩まないようにしてね」と、アドバイスされる事が多かったんですが・・。
確かにいつも何かを考え・大なり小なり悩むことが常でした。現状に満足するという事が無い時期も
ありました・・特に、30代手前で女子部の活動に戻った頃。
そして「すっごくよく考えてるんだね!」「いろんな(社会の)問題に関心が高いんだね!」と
他人から言われることに、ものすごい優越感を覚えていた事も思いだしました。
決して、そう言ってくれた方が私を「誉めた」とは限らないのに(暇なのね、にオブラートをかぶせて
そう言っていただけかもしれないのに)おめでたいことにw私は誉められたと勘違いして
喜んでいたのです・・。ほんと、我がことながら、面白くて笑えます今はw
私は、どこかで「悩まない・考えない人は馬鹿」という強い思い込みを握ってしまっていた。
だから、常に頭を忙しく働かせ、悩まなくていい事を悩み・考えなくていい事を考え思いをはせ・
問題にしなくていい事を態々問題化し・なにもかも自分の問題にして背負いこみ抱え込み・・と
やってきたんだなぁ~と。 なぜなら、馬鹿だと思われたくないから。馬鹿になりたくないから。
そら、疲れるわ!とw
そして、この「悩まない・考えない人は馬鹿」というメンドクサイ思い込みが何由来なのか?と
考えると・・やはり、創価教育(家庭内プロパガンダ)ではないかと行きあたり。
「悩みが無いのが幸せではない」 ←こんな言葉、子供時代からずーっと聞かされてきました。
ためしに”悩みが無いのが幸せ 創価”でぐぐると、上記が池田老人の指導だと判明しました。
やっぱり・・w

悩まなくても、考えなくても馬鹿ではありません。 当たり前のことですが。
そして、自分がいかに悩まなくても考えなくてもいい事を「態々」悩み・考え・問題化し、
勝手にわだかまり、無駄な時間を過ごしてきたのか・・と気付いて、唖然としました。
私が何度か「生きることがとても楽になった」と書いているのは、
この無駄に「悩み・考える」という時間が・無駄なことにエネルギーを使うことで精神的に疲弊し
パフォーマンスを下げることが、無くなったからなのです。
本当に気持が穏やかになりましたし、細かいことにいちいち腹も立たなくなりました。

「悩み・諸問題を考え」ている時は、決して楽しくはありませんし、わくわくもしません。
建設的では無い方向へむかったり、ただ嘆いてみたり、何かを叩くくらいしか出来ないのです。
問題点をあげつらうばかりで解決策を示すわけではない、そんな人をメディアやSNS上で
公人私人にかかわらず、よく見かけますが、そういった人たちは総じて楽しくなさそうですし・
わくわくともしていないでしょう。
一つ言えるのは、そういった人たちは「悦に入る」ことでバランスを保っているんだな、という
ことです・・そして過去の私も、創価問題に対してその傾向が大いにありました。
いうまでもなく、その思考性はエゴのなせる技です。
同じ「思考」であっても、楽しいことや・わくわくする事に時間を使えばいい。
そのほうが、ずっと平穏で心豊かであることは間違いないのです。

もと創価脳の方で論じ好きwなお方は、上記のような思い込みがないか少し振り返ってみると
何か発見があるかもしれません。ご参考まで。

それと、お問い合わせがあったのですが
私が本文紹介に書いているページ数は、電子書籍版のページ数です。
実物(書籍版)の方とは違いますので、ご了承ください。

私があれこれ語るよりも、いちど読んでいただく方が
きっと何万倍も早いです↓まだのかたは是非。
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(次回に続きます)