ニュー・アース 第二章(5)

欲望:もっと欲しい

エゴは所有と自分を同一化するが、所有の満足は比較的薄っぺらで短命だ。
そこに隠れているのは根深い不満、非充足感、「まだ充分じゃない」という思いである。
エゴが「私はまだ充分に持っていない」というのは、「私はまだ充分じゃない」ということなのだ。
これまで見て来たように、何かを持っているー所有ーという概念は、エゴが自分に堅実性と
恒常性を与え、自分を際立たせ、特別な存在にするために創り出したフィクションである。
だが所有を通じて自分を発見することは不可能だから、その奥にはエゴの構造につきものの
「もっと必要だ」というさらに強力な衝動が存在する。
これが「欲望」である。エゴは、もっと必要だという欲求なしに長い間過ごすことはできない。
だからエゴを存続させているのは所有よりもむしろ欲望だ。
エゴは所有したいという以上に欲したいと願う。だから所有がもたらす薄っぺらな満足は常に、
もっと欲しいという欲望にとって代わられる。
もっと欲しい、もっと必要だというのは、自分を同一化させるモノがもっと必要だという
心理的な欲求である。ほんとうに必要なのでは無くて、依存症的な欲求なのだ。(
中略)
あるエゴは自分が欲するものを知って、冷酷に断固として目的を達成しようとする。
ジンギスカン、スターリン、ヒトラーなどはその並はずれた例である。
だが彼らの欲望の奥に在るエネルギーは同じく強烈な反対方向のエネルギーを生み出し、
結局は当人たちの破滅につながる。そして他の多くの人をも不幸にする。

前述の並はずれた例でいえば、地上に地獄を生み出す。
ほとんどのエゴは矛盾する欲望を持っている。また時が移れば欲望の対象が変化する。
欲しいのは今あるものではない、つまりいまの現実ではないという事がわかっているだけで、
実はなにが欲しいのか解らなかったりする。
苛立ち、焦燥感、退屈、不安、不満は、満たされない欲望の結果だ。
欲望は構造的な物だから、精神的な構造が変わらない限り、内容がどうであろうと
永続的な満足はあり得ない。
(中略)
「私に(me)」「私のもの(mine)」「もっと(more than)」「欲しい(I want)」「必要だ(I need)」
「どうしても手に入れる(I must have)」「まだ足りない(not enough)」というような思考の形は、
エゴの内容では無くて構造に付随する。エゴの内容、同一化の対象は変わっていくだろう。
自分自身の中にあるこの思考の形に気付かない限り、それらが無意識にとどまっている限り、
あなたはエゴの言葉を信じてしまう。
無意識の思考を行動化し、見つからないものを求め続ける運命から逃れられない。
なぜならこのような思考の形が作用している限り、どんな所有物にも場所にも人にも条件にも
満足できるはずがないからだ。
エゴの構造がそのままである限り、あなたはどんな内容にも満足できない。
何を持っていようと、何を手に入れようと幸せにはなれない。いつももっと満足できそうな
他の何かを、不完全な自分を完全だと思わせ内部の欠落感を満たしてくれるはずの何かを、
探し求めずにはいられない。
 (p103- 109抜粋)


近年、断捨離や、極力モノを持たずに暮らすミニマリストという概念が広く知られるように
なりました。
若い世代の消費行動は、私が若かった時(80年代後半~90年代バブル)とは全く違ったものに
なっているなぁ・・と感じます。
少なくともバブル当時は「所有」が豊かさの象徴で、目指すべき処のように思われていました。
時代と共にエゴが小さくなったのか?と一瞬思わなくもないのですが、
エゴの形が「私はトレンディ(死語w)だ」から「私はミニマリストだ」というアイデンテティに
変わっただけなのかもしれません・・?! 勿論、皆がみな、そうだとは言いませんが。
私はバブルをかじった世代で、当時「買い物依存症」なる言葉を週刊誌等メディアで、
さんざん見聞きしていた記憶があります。 
「所有」では満足は追いつかない。常に「欲しい」が勝っている状態・・買い物してきた紙袋を
開けることもなく、クローゼットに突っ込み、タグを切らない状態の・一度も着たことのない洋服が
山ほどある・・過去、そんな友人も身近にいました。
虚栄心からの買い物~所有ではなく(←私はこちらのタイプでした)、
ただただ「いつも(なにかが)欲しい」という一瞬の欲求を満たすため、買い続ける。
「買う」行動で手に入れてしまえば、品物になんて興味は無い・・こんなパターンも、エゴの仕業です。
これはまぎれもなく「不足」からくる行動。
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、根源的に満たされている真実を
知らない(気付いていない)
がゆえに、
不足を埋めようと、エゴに突き動かされていたのでしょう。


そして太字にした部分は、宗教を使った錬金術の虜になってしまったオジサンたちも
(オバサンもいるんでしょうかね? 大本営ってどうにも男社会にしか見えないんですが・・
 副会長だのなんだの、大層な役職名の付く人は、ほぼオッサンだし)
全くこれと同じだなぁ・・と思い、紹介した次第です。
もう創価の事はあまり書くつもりがないと言いながらもwやはりエゴまみれというと真っ先に
浮かんでくるのは、大本営の中の人&上層部のこと。
年がら年じゅう「拡大!拡大!」と下々に号令をかけ、世界何百カ国に拡がった!と言ってる割に
なかなか「これでもう十分です」とは言わないw この先も絶対言わない・言うわけがない。 
”まだまだ、もっともっと、いつもずっと全然足りない”そう言い続けるのです。
これをエゴと言わずして、何だというのか。 
数をもって勝ち誇るような姿勢こそ、エゴです。

”ほとんどのエゴは矛盾する欲望を持っている。また時が移れば欲望の対象が変化する。
欲しいのは今あるものではない、つまりいまの現実ではないという事がわかっているだけで、
実はなにが欲しいのか解らなかったりする。
苛立ち、焦燥感、退屈、不安、不満は、満たされない欲望の結果だ。
欲望は構造的な物だから、精神的な構造が変わらない限り、内容がどうであろうと
永続的な満足はあり得ない。”

↑太字にした部分は「わだかまり」だと私が捉えた部分です。
そして、生まれてこのかた~創価脳だった頃も・アンチになってからも
ずっと私は「そこはかとない不足感」に包まれ、時に「わだかまり」を持って生きてきたんだなぁ・・
って事に、ニュー・アースや、現代の覚者の教えに触れて初めて気がつきました。

人それぞれ、出自もおかれた環境も違いますが、すべての人が平等に「恩恵」の下にあると
ひとつだけはっきりしていることがあります。
それは、「生かされている」という奇跡を「いま」経験していることです
そして実はこれが、何物にも代えがたい「満たされた」状態であるという事実です。
前回記事でもとりあげた、エックハルトの言葉

”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに見えなかった”
”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。”


まさにこの言葉どおりの、シンプルで深い「いのちある喜び」が「満たされた状態」です。
元創価脳の方なら知っているであろう言葉「輪円具足」とは、まさに上記を表現していると
私は思うのです。
尊極の生命、「ただ生きている」ことでもう、すでに完全で満たされた状態。
条件や環境は関係ありません。

輪円具足とは
”全てのものが具わって欠けているものはないという意、十界具足(十界互具) を表わす”
これはまさに、生命のこと。 
日蓮が活躍した鎌倉時代というのは、歴史に詳しい方ならご存知の通りですが
戦乱も、疫病や飢饉も頻繁にありましたし、ひとたび飢饉があれば数千人が命を落とし、
ひとつの村ごと消滅してしまう・・そんな過酷な時代。 今とは生存率が全く違うわけです。
生活環境だって今とは格段に違います、つまり今日を生き・あすを一日でも長く「生きる」ことが
現代よりもっともっと奇跡に近い、そんな時代であったと推察できます。
「命落とさず、一日でも長く生きる」←これが現世利益だったといっても過言ではないでしょう。
輪円具足を「またの名を功徳聚」とあるくらいですから、やはり「生存こそ功徳」だったのです。

現代はといえば、まず食糧難は回避できています。棄てるほど食べ物があふれている時代。
時々貧困で命を落とす方のニュースを耳にはしますが、ニュースになるくらいですから
レアケースです(数多かったら報道すらされないでしょう、一般人の離婚と同じで)。
基本的な「生存」に関して、鎌倉時代ほど恐れなくて済む時代だとわかるかと思います。
良くも悪くも、現代の人にとって基本的「生存」は当然のことであり、そのことを
絶対的+(プラス)とは捉えない。だからこそ、上積みの「何か」を求める。
生かされている奇跡や不思議は「あたりまえ」すぎて、エゴの前に見落とされています。

人それぞれ、条件や環境や、どこかしらに不足を感じ不満を憶え暮らしている。
その不足や不満は「生きている」状態がなければ経験はおろか、意識もできないことです。
そして、条件や環境にネガティブな感情をもつことについても「思考の背景」が邪魔をしているだけで
実際に「思考の背景」が変わるような出来事があれば、不満も悩みも一瞬にして消え去ることがある。

で、実は「不安」や「不足」や「問題」なんか無かった、そもそも無いと言ったら
まず誰も「信じられない!」「馬鹿言うな」と、怒り出す人もいるでしょう。
けれど少し立ち止まってみて、同じ人間でも「不安」「不足」「問題」のレベルが違うことに
気づけば、どうでしょうか? 感じ方は人それぞれ。
同じアクシデントにあっても平気でいられる人・少し落ち込んでもすぐ持ち直す人・
ショックからなかなか立ち直れずにいる人・・様々です。
どうして差が出るのかといえば、環境の違いよりは「思考の背景」の違いが大きいのです。
落ち込んでいる人も・腐っている人も・浮かれて調子に乗っている人も・平常心の人も
すべての人に、平等に与えられた「いま」この瞬間は「生きている」という事実。
「生きている」という揺るがない事実の上にあって、
どの状態を選択するかは自分しだいなのです。

「不安や恐れ」も「不足」も「問題」も、実際自分の思考=エゴが作り出した幻影ですから。
仏罰と呼ばれる概念も、いうまでもなく幻影です。

過去に書いたように、私の母は「一家和楽」という青い鳥を探してずーっとさまよっておりました。
私も同じくで、「信心に理解のない父と兄姉」に不幸不平不満を感じ・勝手にわだかまりを憶え、
母の青い鳥探しを手伝って(?)いました。
それが実は、青い鳥は家の中にすでにいて、母や私が「一生不退転」などと思いこみ・
握りしめてきた信心を手放せば、家の中の青い鳥に気が付けたという、お粗末な展開だったのです。
(が、これでよかった・私たちはこのことを「経験したくて」やっていたのだと、
 現在は納得できておりますので、創価を殊更恨んで糾弾してやる!なんて思いはもうありません。
 詳しくは、脱会の顛末とともに後日書かせてもらいます)
婦人部に嫌気がさして学会活動をやめたあと・選民思想で創価仏教を信奉していた頃も、
不足を感じていたから、怖かったから、安心がほしかった。
そして、創価信仰を持っていた頃はかろうじて「不足」を多少補えていたと、今は思えます。
ただしそれは「完全」ではありませんでした・・どのみちスタート地点・ベースにあったのは
「欠乏感」だったからです。
ゆる活だろうがバリ活だろうが、自分になんの不足も感じていないなら、わざわざ現世利益を
追求するような創価と関わらないはずで、そこは何かしらの「不安」「不足」「問題(意識)」が
あったから、救いを求めたのでしょう。
これはなにも宗教団体依存だけではなく、一般人で開運アクセサリーやグッズを節操無く
買い集める人も同じです・・そしてまさにこの「不安感」「不足感」「不完全と感じる心」は、
エゴの仕業です。
その「エゴ」に付け込んで、商売にしている人たちが少なからず存在しているということです。
なにも宗教団体だけではありませんw 騙されないように気をつけましょう。

”エゴの構造がそのままである限り、あなたはどんな内容にも満足できない。
何を持っていようと、何を手に入れようと幸せにはなれない。いつももっと満足できそうな
他の何かを、不完全な自分を完全だと思わせ内部の欠落感を満たしてくれるはずの何かを、
探し求めずにはいられない。”

では、エゴに振り回されないためには、欠乏感ベースにならない為にはどうすればいいのか?
答えは至ってシンプルで
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、
根源的に満たされている真実に気づく。

これだけです。

「そんなはずない!」「そんな馬鹿な!」「ええ?信じられない・・」という思考のおしゃべりは
「~と、エゴが申しております」で、ひとまず受け流してくださいね。

なぜ問題は問題でなく、条件や環境は関係ないのかについては、
この先に書いていきますが、多分かなり先になりますのでw
早く知りたい方は、エックハルト・トール氏の書籍を読まれることをお勧めします。

また、
「生きてるだけで感謝しろ、っていうの?贅沢言うなっていうの?」と思われそうですが、
(↑これは私が以前思っていたことですw 全く理解できなかった時期に)
決してそれが全てではありません。 
ただ、自分がいま「生かされている」事について、シンプルに奇跡を感じられたら、世界は変わります。
私がそのことに気付いたのは、実は最近です。
ある日突然「!」と、気づかされました。
本当に些細な話で恐縮なのですが・・今回書くつもりでしたが、まとめられませんでしたので
別記事で書きたいと思います。
リクエストをいただいている神社参詣と神棚の件と共に、次回とさせていただきます。

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