2016年 感謝

今年も、拙ブログをご覧いただきありがとうございました。

2016年は私にとって、大転換期でした。
ブログの路線も、6月以降大きく変更しましたが
それでも読み続けてくださる人が沢山いらっしゃった事が、嬉しかったです。

今年に入ってエックハルト・トール氏の書籍を読み、その叡智に触れ気づいたのは
「創価脳もアンチ創価も、自分責めという一点において根っこは同じ」だという事でした。
だからずっと腹を立てているし、わだかまってるんだなーと、そのメカニズムを理解しました。
そして概ね「自分」をみていない。
他人の事ばっかり気にして、他人のことばっかり問題にして、心配したり不安になったり
軽蔑したり腹を立てたり、イライラし続けている。
私も以前はそうだったので、気持ちはわかるのですがw

エックハルト・トール氏の語る「今にある」状態とは、どういうことなのか?
4月以降、思考を止める(~とエゴが申しておりますと思考の語尾に付ける)ことから始まり、
副読本に津留晃一さんやバシャール、心理学者の大嶋信頼さんの著書を読んだりして
自分なりに理解を深め・実践してきました。
そうして徐々にわかったのですが、
「今にある」状態とは一言でいえば「調和」です。
「自分自身にわだかまりのない状態」です。

それでブログタイトルを「わだかまらない生き方」に変えました。

ブログ拍手やコメント欄からお悩み、質問を頂く中で、思い当たったことがあります。
全てに繋がることですが「自分」がどうしたいのか明確になってなくて、「他人」ありき。
「いま」にない事を問題としている方が多いな、と感じました。

ニュー・アース記事のなかでも書きましたが、「いま」困っているかいないのか。
「いま」問題としていることが、どう自分を苦しめているのか、いやな思いにさせているのか
わだかまりを生んでいるのか、ちょっと立ち止まって解析してみると良いと思います。

なんにでも言えることですが、このブログはもともと創価の家族問題を扱ったものでしたから、
「わからずやの創価脳な母親・父親・身内・外野」で例えてみましょう。

お父さんが「信心しないお前なんて無価値」だという から むかつく。
お母さんが私に悪事が起きると「それみたことか、題目あげろ」という から むかつく。
両親が今年も財務で3ケタをおさめた から むかつく。
バリ活の兄姉妹弟が「信仰から外れるなんて堕地獄だ あとで泣きを見るぞ」という から むかつく。
組織の人が「あなたのためを思って言ってる」「罰が当ってからでは遅い」と引きとめる・
しつこい家庭訪問をやめてくれない からムカつく ←はっきり「迷惑です来ないで下さい」と伝えましょう。
バリ活ブロガーが組織をたたえるような駄文を書いている から むかつく。
大本営の先生会長職員どもがシンプルにむかつく。

私の今の想像力では上記くらいしか思いつかなかったんですがw パンチ効いてなくてすいません。

で、これ青文字が主語なんですけど、気付かれましたでしょうか。
ぜんぶ「他人」に反応してるんです。
「わたし」じゃありません。

「他人」がやること話すこと(=客観的事実)に対して
「わたし」がむかついてるんです、勝手にw

これを「いま」にあてはめて考えるとき、
嫌な思いを「他人」からさせられている、と感じる底の部分・
反応(イライラざわざわむかつき)のトリガーを見てみれば
たった「いま」問題ではないと気付くことができると思います。
だって、原因は「他人」だから。
で、「わたし」が勝手に「他人=外側」に翻弄されてイライラしているだけの話。
他人=外側に翻弄されてイライラ」しているのは、まぎれもなく「思考(エゴ)」だから。
そして「思考(エゴの声)」は「わたし」ではないから。
「いま」=「わたし」は、実はなにも困ってないって、これで解ると思います。

(↑ここで「でもでも、だって~!」とゴネ始めるのも、
 あなたの底の部分にある原因が織りなす「エゴの声」ですから無視してください)

で、反応(イライラむかつきざわざわ)のトリガーとなる、底の部分にあるものは、
9割がたが「自分への罪悪感・無価値感」です。

元創価脳の方は、創価脳だった頃は「使命感」に燃えて生きていたと思います。
自分が誰かを幸せにできれば、誰かの心に灯をともせれば、
小さな事柄が大きな連帯となり世界も平和になって
ひいては自分も幸せになれるって信じて頑張っていたと思います。
「崇高な使命感」ありきの、自分だったと思います(=私もそうでした)。
それがいったん、打ち砕かれて、野に放たれて「役に立てない自分は価値がない」と
無意識のうちに、思ってしまってる人もいるかもしれません。
また、色んな意味で絶望を感じ、「自信」を失った方も多いと思います。
あれだけ長年創価を熱く語り、正義だと周囲に訴えてきた自分があっさりそれを裏切った、
そんな自分は罪びとだ、と無意識に思ってしまってる人もいると思います。
「自分が悪い」と思っているんです。
「自分を責め続けて」いるんです。

そうは言いつつも自分を悪者にしたくないから、
創価や身内を憎んだり攻撃しないと、やってられないという複雑な「仕組み」です。

親兄弟が創価をいまだに信じていることが腹立たしくてならない、気になって仕方がないのは
自分が罪悪感を手放せないからです。
(親を裏切った悲しませたという罪悪感と同時に、福子であるがゆえトンデモ教義を信じきって
 しまった自分への処罰感情などなど)
創価関係者の外野に気分を乱されたと感じるのも、罪悪感が根っこにあるからです。
関係者の動向が気になって仕方なく、監視&批判し続けないといられないのも
罪悪感が根っこにあるからです。
それをきれいさっぱり忘れてなかったことにするなんて、できません。
だって「そうして創価や身内や外野を責めている自分」がアイデンテティになってるから。
それを失ったら、立っていられないって「思いこんで」いるんです。
誰が?エゴが、です。 エゴは放下に耐えられませんから、ネガティブを絶対手放そうとは
しません。存在意義を失うことを、世界一恐れているからです。

で、果たして本当のあなたは悪人・罪びとなのでしょうか?
そうだと思い込んで、勝手にそう決めつけているのは、
実は自分(あなたのエゴ)ではないでしょうか。
(親・身内から言われた等あるかと思いますが、それは外野の声なので無視してください。)

「周りが・親が・あいつが悪い!」と思っている間は、残念ながらなんにも変わりません。
なぜなら、それは巧妙な「自分責め」だからなんです。
「自分が悪い」をこじらせて周囲を責めている。解りにくいんですが、本当です。
続ければむしろ、自身を取り巻く環境はどんどん悪くなっていきます。

エックハルト氏が「ニュー・アース」で教えてくれているのは、
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、
根源的に満たされている真実に気づく
ことの大切さです。

エックハルト氏が提唱する「思考を止める」とは、一番てっとり早い「自分責め」を
止める方法です。
無意識に四六時中なされている頭の中のダメ出しを止めるわけですから、効果絶大です。
前々回記事でも触れたように、
私たちは誰人も「大いなる存在」に生かされています。
そして何があっても、生きて呼吸が続いている間は
「大丈夫」なんです。
あなたの存在こそが「大いなる喜び」です。
そこになんの条件も理由もいりません。
この絶対的な生命への信頼感を、まず知ってほしいと思います。
 
生かされている、その奇跡と幸いの前に、責められるべき理由なんて何もありません。
そして何かを成さなければ・役に立たねば無価値だということもないのです。
(自分の思考が勝手に評価を下しているだけです)
誰人も生きているだけで、根源的に満たされています。

そして、周りに影響を受け・翻弄されているうちは、なかなか心は安定しませんし・
「わだかまらない」で過ごすことはまず困難だと思います。

どうしても人というものは、外側の現象ありき・目に見える状態(現実)ありきで
「自分が祝福され・認められて此処にいる存在か」を判断しようとします。 
実際それがわかりやすいですしね。
けれど、外側や他人に「祝福の証拠」や「幸せ」を求めているうちは、不安定なわだかまりの多い
生き方になりがちです。
外側や他人の承認という「条件」がなければ「幸せ」で「満たされ」ていられないのなら、
それが無くなったら不幸や不安・欠乏感に陥るのは明白だからです。
この記事でも書いたように、上記は「外付けパーツ」です。

結局は「自分が自分を認め、励まし、肯定し、自分を心地よくいさせる」ことにしか
揺るがない調和はありません。 他人や周りは全く関係ないのです。
「いま」にあることの真髄は、上記太字部分だと思っています。

自分が自分と調和出来ていれば、満たされていれば、周りのことはほんと全く気にならなくなりますよw
面白い程です。
そして、周囲の人間の状態は、あなた自身の幸・不幸には全く関係ありません
勝手に他人の現象を見て引っ張られて「不安」や「不幸」を感じるだけで、実際は「凪」です。
(だから親兄弟が創価脳でも、あなたが悩む必要はありません。
 あなたがそのことを一切問題にしなくなったとき、勝手に親兄弟は目覚めます。)
自分が自分の内面を、なだらかなものにできた時、現実や環境もなだらかで心地よいものへ
自然と変化しています。 

とりあえず、周りのことは忘れて棚に上げて・
自分責めをやめて、自分に優しくしてみるところから始めてみるといいと思います。
自分に集中し、自分と仲直りすることです。

”お父さんがお母さんが、身の回りの人すべてが創価を脱会することが自分の幸せだ!”と
思っている人は、それが達成されない間は不満・欠乏感にさいなまれ続けるでしょう。
とっととあきらめて、もう自分が幸せになってください。
自分の状態はコントロールできても、他人の生き方をコントロールしようなんて思わないことです。
勿論、わだかまって欠乏感だらけの自分が好きで・それを楽しんでやってるなら止めませんよw

まだ紹介出来ていないのですが、「ニュー・アース」(p238)に
「いま安らぎを得るにはどうすればいいか?
 いまという瞬間と仲直りをすることだ」
という一文があります。
今年の4月に読んださい、一番衝撃を受けたのがこの言葉でした。
今の”自分”と仲直りすること、と解釈してもいいと思います。

人生も現実も、私たちがかつて組織で洗脳されていたような辛く厳しい「濁世」なんてものではなく、
本当は、優しいんです。
自分がどう見ているか、ってそれだけの話です。
これは日蓮も語っていたことで
「餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随って別別なり」
自分の意識状態がどこにあるかで、目の前の現実は変幻するということです。
けどなにも、お経を唱えたり特別な活動が必要なわけじゃないですよw(前回書いたとおり)
意識の使い方ひとつ、心のありかたひとつ、自分の思い込みを変えるだけの話です。
そのために必要なことは「自分自身にわだかまらないこと」です。
(たまたま、日蓮御書を思い出したので、いい部分を引用してみました。
 日蓮の言葉は真髄をついたものも多くあります。が、なにがなんでも自教が正しくて
 他は全部アウトって言っちゃったところや、過去世による自分責めが「前時代的」で
 今の時代にはそぐわないな、と。
 まだ総括できるまでに至ってませんが、いずれ私の考察も述べてみたいと思います)

えらく長文になってしまいましたが
一人でも悩める方が、少しでも気持ちを楽にするきっかけを
これからも伝えられたら幸いです。
来年もマイペースではありますが、更新していきますので
よろしくお願いします。

良いお年を迎えてください。ありがとうございました。

追記:今月申請完了し、脱会者となりました。近々、プロフィール書き換えますw

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神社参詣と神棚のこと

前回、神社参詣を通じて「他力=大いなる存在」に気付くことができたと書きましたが
他にも以下の気付きがありました。

まず一つ目に
「私は、日蓮仏法を捨てた時点で、祈りや願いを封印していた」
でした。
これは全くの無意識でしていたことで、最近になって気付いて驚愕したんです。
祈りや願いを封印した結果、どうなったのか・・そして、神道を通じて「祈り・願い」の力を
再び教えられた経緯をお伝えしたいと思います。

二つ目が
「他力=大いなる存在は、祈り願う誰人をも無条件で助ける」
ということです。
下線入れました「無条件」ここがミソです。

三つ目が
「そして私は、生まれてこのかた実はずっと
 大いなる存在に助けられていたとわかった」
です。
創価脳時代、いくつもの願いをかなえました。当時は「ご本尊様」に祈ったおかげだ!と
思ってきました。が・それは実際のところ、「ご本尊様」を通じ「大いなる存在」へ
アクセスしていた、それで願いを叶えたり・なにかと護られたり、不思議な体験を
してきたのだ・・と、理解し・腑に落ちたのです。
つまり、祈りの対象は何であれ、その願いは「大いなる存在」へ届き、
自分が願って叶ったことは「他力=大いなる存在」の作用である
だからどんな宗派であっても(勿論日蓮仏法でも)願いは叶っているのだ・・
と、私は解釈しました。

上記3点を軸に書きたいと思います。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

まず、神社観について。
創価家庭に育った人の大半は「神社なんて行かなくてよい」と親に教わったと思います。
私ももれなくで、「神社には悪鬼魔神が住んでるよby日蓮」が思考の背景にありました。
残念なことに、幼稚園の遠足で神社に行った日の夜、高熱+嘔吐でシンドイ思いをし
幼心に「仏罰があたったんだ!」と、トラウマになってしまいました。たった1度のことなのにw

父方の親戚に大きな神社があり、遠方でめったに里帰りしない父を案じてか
祖父母が時折、そちらの神社の御祈祷札やお守りを送ってきました。
その小包を見ただけで、私は頭痛や吐き気を催していたのです。
母はそんな家系の父と結婚したことを「自分(=母)の宿業が深いせいだ」と申しておりました。
なんでもかんでも不幸の材料にしたがるw どんな宗教なんだよ!と、今となると思います。
物心ついたころから「神社は禁忌・鬼門」だと刷り込まれ、
大人になって以降もできるだけ近寄らないようにしていました。 
そんな私の「思考の背景」が変わったのが、覚醒前の2010-2011年頃。
日本史の本を読むようになって、それまで抱いていた神社へのイメージががらっと変わりました。
(この記事に書いています)
以降、日本人として参詣くらいはお作法として出来なければ、いい大人なのに恥ずかしい!と
思うようになり、義実家帰省時の初詣に参加するようになりました。
ただまだ、この頃は「日蓮仏法最高!」と思っていたので、神社へ行ってもなにもお願いはせず
「無」の境地で、お題目を心で唱えていましたw

2012年秋、創価が宗教をかさにきた巨大ビジネスだった!と気付いた時も
「日蓮仏法は絶対だ」という考えは揺らぎませんでした。
創価の活動を一切やめても、日蓮仏法だけは個人信仰していこうと思っていたほど。
けれど、自分の信仰観を見つめなおすことで核となる「選民思想」に行き当たり、
2013年5月に旧友(東日本大震災の被災者)と再会し、九死に一生を得た体験を聞かされて
その「選民思想」が砕け散ってしまいました(この記事   )。
ここで私は「日蓮仏法は信ずるに値しない」という結論を下します。

日蓮仏法を否定する=それまでの生き方の根幹をまるっと覆すわけで、辛い事でした。
同時に、自分責めが始まります。
主には「祈ってればなんとかなる」という考え方を強く戒めるようになり。
そんなお花畑思想は捨てよう!と思ったのです。
此処で私は、祈ったり願ったり望んだりということを、やめてしまった・忘れたのでしょう。
「やめよう」と、特別に決意したわけではありません。
単純に、それまでの”祈る対象”が、無くなってしまい・・かといって「はい次~!」なんて
他の対象に飛びつくことも、したくなかった。 
何かを信じることに対して・・「宗教」に対して、特別悪しきイメージを持ってしまった事も
ありましたし、こんなに簡単に創価に40年も騙されてきちゃって、
自分が非常に愚かな人間なのでは・・またやらかすのでは?という懸念もあったのです。
「祈ればなんとかなる」というような、甘い考えは今後、排除して生きていかねば!と。
↑思えばこれが、そのあとに約3年続く「逆流の中を漕ぐボート」のような状況を
生みだしていたと、今だから解ります。

もし今、なにも祈る対象がなくなってて・願ったりしてない・出来ないって人は、
月でも星でも太陽でもかまいません、大いなる存在へ祈り願うことをすぐ始めてください。
もちろん神社やお寺へ行くことでもかまわないのです、抵抗がなければ。
とにかく「上(天・宇宙)を向いて」願って行くことって大事です。
それが人生を大きく下げない事に繋がります。

大いなる存在は、ぶっちゃけ何もしなくても助けてくれますが(絶妙な・ぎりぎりのラインでw)
「願い・祈り」を、表明したほうが、もっと話は早いのです。
そしてその「願い・祈り」に「嘘」が一切ないこともポイントになります・・が、この話は別記事で
書かせてもらいます。 

2013年5月以降、祈るのをやめた私は、現実に強くフォーカスするようになります。
「祈り願う」ことで得られる安心感がまるでなくなった為、かわりに現実に不安を感じないよう
目に見えるものを増強するようになりました。
それはまるで「大いなる存在」を否定するようなもの。
完全に「今にある」状態にはなく「まだそこにない未来」に強く不安を抱くようになりました。
何が起こるか分からないから、あれもこれもと先取りして考え・方策を立てジタバタとし
「取り越し苦労」が増えました。
希望的観測をもつことより厳しい見通しをもつことが主になり・・今思えば、なのですが
本当に2013年~昨年までの私は、その前と比べ疲労感が増大していたのです。
子供たちの成長に伴い(幼稚園と小学校)用事が増えたことプラス、厳しく現実を
見ていたので、子供たちに対しても「今やっておかなきゃ、あとで困るんだよ!」と
重荷を課すような事もしていました・・それにつきあう自分も完璧でいなくては、と肩肘張って。
役割をしょい込み、自らどんどん状況をタイトなものにし、「がんばり過ぎ」ていました。
「祈ってればなんとかなる」を封印してしまったから、
「他力」を知らなかったから、自分でやるしかない・自分がやるしか!と
ガチガチに肩に力を入れ、余裕なく思い込んでいたのです。

するとどうなったか。
やりたくない役割を頼まれるも「NO」と言えず、いやいや続けることに
なってしまったり・・人間関係が悪化しました。
2013年からガラリと周りにいる人たちが変わったんですが、どういう訳か次から次へ
厄介な人(?)ばかり現れるのですw
また、こちらが正義をふりかざして事に当たると全く解決せずこじれていくばかり、という
ケースにも遭遇しました。
しかし、人間関係の悩みなんてどこにでもあるし~とか・命取られるわけじゃないし・
実際自身の生存に関わるような問題でもなかった為、「どうも変な流れだな?」と
薄々思いながらも、深刻に思い悩んだり煮詰まるほどには、当時至っていませんでした。
最後には義実家問題で強制終了となったわけですが、本当に、「なるべくして」
この苦難に遭わせてもらえたんだなぁ・・とw
「そっちじゃないよー」と、大いなる存在が常々教えてくれたんだなと、今は解ります。
それでも私が気付かないから、ショック療法的な義実家問題が出てきちゃったのかな?と。
スピリチュアル系の本を読むと概ね、そう書いてあるんです「ピンチはチャンス」的なことが。
エックハルト氏も「人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える」と言ってました。
なので、もし今なんらか、人間関係・家族関係でうまくいかない流れや・苦難のさなかにある方は
”気付き・見直しのチャンス”だと捉えてください。
きっと無用な思い込みをたくさん握ってるよ!手放してね!という、サインです。

さて、ここからやっと神社のエピソードです(前置き長!)。

私が自ら神社へ出向き初のお祓いを受けたのは、2013年夏でした。(この記事
日蓮仏法を否定した後、精神的に落ち着かない状態が続き・自宅内で奇怪な現象も
続いたため、友人の助言を思い出してA神社へ向かいました。
その時は「お金で解決できるなら楽だ」くらいの考えで出向いたんです。
半信半疑でしたが、見事に御祈祷を受けたその夜から怪現象はなくなり、私自身も
精神的な落ち着きを取り戻しました。
この経験で「神社ってパワーあるんだなぁ(上から目線)」という感想をもちましたが、
これがきっかけでハマったという事もなく、その後暫く神社を訪れることはありませんでした。

次にA神社を再訪したのが、2015年の1月。
前年の暮れに、人間関係でちょっと心配な出来事があり、ふたたびお祓いをしたほうが
良いのではないか・・と感じて、年明けに伺ったのです。
そこで2月の「節分祭」を教えていただき、年の災厄をはらう神事に参加することに。
この記事の後半にも書いたのですが、その後、縁切り社であるB神社へも参詣したところ、
心配に思っていた事の張本人が、海外転勤でいなくなるという朗報があったのです。
ここで「神社って、やっぱすごいんじゃない?!」と、そのパワーを見直したというか。
この結果が何によるものなのかは当時わからなかったけど、
神社には災厄をはらうパワーが確実にある!と感じた出来事でした。

翌月、新居への引っ越しを控え、C神社にて方位除けの御祈祷を受けました。
そして新居の近くにある氏神様のD神社でも神宮大麻と御札を頂きました。
都合、御札が多数になったので神棚を祭ることにしたのです。
リビングにむき出しの御札を複数飾ることに抵抗があり、コンパクトに収納したいとの思いから
シンプルな一社祭りを選択。
何か特別な思い入れというよりは、インテリア(見た目)重視での神棚設置でした。
あまり仰々しくしたくなかったので、当時は御供・御榊もあげていませんでした。

新居近くのD神社はとても雰囲気が良く、初めて行った時から空気感が好きでした。
そちらへ月に一度参詣をするようになったのは、お参りをすると不思議と頭がすっきりすると
気付いたからです。
一か月無事暮らせたことへの感謝と・また来月もよろしくお願いしますという祈り。
そのD神社で、不思議な経験をしたのが昨年12月。義実家問題勃発した時でした。
主人が話し合いで帰省した日の朝、いてもたってもいられずお参りへ。
D神社で具体的なお願いをしたのは、このときが初でした。
早朝、誰もいない拝殿前で参拝を済ませると、突然上方からザーッと風が吹き下ろし
私の体の周りをくるくると暖かい風が巻き上げていくのです、葉っぱも舞っていました。
12月なので、暖かい風という時点でもうかなり不思議だったんですが。
えー?なにこれ?と思っていると、風がやんで頭の中に「全て思い通りになる」という言葉が
浮かびました。 こんな経験は初のこと。
一瞬のできごとで、その前後は全くの無風。不思議だな~と思いましたが、励ましてもらって
いるのかな?と嬉しくなり。
しかし、年が明けてから新事実が多数出てきてパニックで「どこが思い通りなの?!」と
不信に思ったんですがw 今はあの風が示唆だったとわかるのです。
”大きな風(ごたごたのアクシデント)が吹き去ったあと、思い通りになるよ”との意だったと。
実際、1月2月は波乱でしたが、おかげで大きな気付きを得ることができましたし、
出来事が過ぎた後の状況は、絶対変わるはずないと思っていたことが変わり、私の思い通りに
なりました。

2016年2月もA神社の節分祭へ参加しました。
御祈祷を終えて帰宅した直後、義母さんがらみで訴状が裁判所から届きました。
凄いタイミングで、この時も一瞬
「なんなの?!お祓いしてきたばっかりなのに!もう災いが来てんじゃん!」と
不信に思いましたw が、この日の夜に主人と話しているうちに急に馬鹿馬鹿しくなって・
私は全ての問題を「手放す」ことを決めたのです。
以前も記事にした通りですが、すべてがここから変わったと言っても過言ではないほど。
後になって「必要があって、起きたこと」だったとよくわかりました。
当時は様々悩み、このトンネルを抜け出ることはできるのか?と疑わしい心境でしたが
心理学やエックハルト・トール氏、現代の覚者の教えと次々に出会うことができ、
大きな気付きを得て、いまも気付きの連続です。

今だから言えることなんですが、この、神社参詣後に起きてくることのタイミングが
まさに「神の采配」で、絶妙だったのです、今までずっと。
(他にも小さなエピソードがいくつかあるのですが、長くなるので機会があれば別記事で)
2013年夏と2015年初頭なんて、まさに「困った時の神頼み」
普段まったく神社にいくでもない・神様を信じていたわけでもない私でも助けてもらえた。
必ず良い方向へと・思ってもみない解決策へとガイドしてくれていると気付いたのです。
「大いなる存在」が、動いてくれたとしか思えない。
これって、すごい事だよなぁ・・と、しみじみ驚いたのは今年の夏ごろでした(遅)。

創価脳時代の祈りや願いと比較したら、よくわかります。
「祈るだけじゃだめだ。信行学だ!」「自行化他に渡らなければ願いはかなわない」
組織じゃこんなケチくさい・厳しい事ばっかり、言われてましたよねw
本当は祈り願うだけでよかったのに、時間と労力と金銭奉仕(←ほぼこっちメインだったかも)を
励行されて。
だから時に凄く頑張ったりしてましたが・・頑張らなくても簡単に叶ってしまったこともあったし・
頑張ったってどうにも叶えられないこともありました。
叶った時は「ご本尊のおかげ」叶わなかったときは「これも意味のあること、あとでわかる」と
していました。
神社参詣するようになってから、スピリチュアル系の本を読むとこう書いてありました
「神の采配は完ぺきで、その人にふさわしいタイミングで物事が起きてくる。
 願いが叶う・叶わないも、神の采配である」と。
この2つの融解点を考えた時、私はひとつの答えを得ました。
「どの時にあっても、生まれてこのかたずっと自分を護ってくれて・時に願いを叶えてくれたのは、
 大いなる存在だったんだ!」
と。

OOの信仰をしていたから「願いがかなった」わけじゃないんです。
OOの活動をしていたから「願いがかなった」わけでもなかったんです。
崇敬対象がなんであれ、願い祈った時、あなたの思いは「大いなる存在」を動かす。
創価時代の「願望成就」は”たまたま”だったと、私は日蓮仏法を否定した時そう思ったのですが、
”たまたま”じゃなくて「大いなる存在」が叶えてくれていた。護ってくれた。
それだけのシンプルな話だと、理解したのです。
「他力=大いなる存在は、祈り願う誰人をも無条件で助ける」
だからやはり、枝葉的なこと(選挙活動・勧誘・新聞推進・その他)は無用だと
いうことです(いまさらですが)。
創価脳の皆さんが「願いが叶った」と思っているのも、実のところ「大いなる存在」に
願いが届いてるということですし・「頑張ってるのに叶わない」というのは願いが頓珍漢だから・
矛盾があるから、そもそも叶える必要ない、ということで。 
活動や祈りの数量は直接関係なかったということです。
↑このあたりに関しては、他にも考察あるので別記事で来年書いてみます。

そして言うまでもなく、「大いなる存在」は誰人にも平等です。
空気のように、誰人にもいつも寄り添っています。

あの信仰対象でなければだめ・この宗派が絶対・・そんなことは人間が勝手に言ってるだけの話。
そういった凝り固まった「選民思想」は、わだかまりを確実に生みます。
エックハルトが指摘しているように選民思想なんてエゴの最たる形ですからね。
自分がまっすぐに、素直に、願い祈れば、それだけで十分なのだと思います。

祈りや願いは、心に安心感と余裕をもたらします。
「大いなる存在」がいつも自分のそばについている。大丈夫だ!っていう気持ちでいれば
ガチガチにならずに済みます。
そういった意味でも、宗教アレルギーはちょっと忘れて「天」に向かって願うことを
してみてもいいと思います。
「大丈夫、自分はいつも見守られている」って、思うだけでも心持ちはずいぶん変わってくるでしょう。
要は「依存」しなければいいのであって、「ギブ&テイク」の考えも捨てることです。
無条件で助けてくださっているのだから、「これだけやったのに!」なんて思わない。
そもそも、「天」にむかって願うだけなら「これだけやったのに!」なんて感情は湧かないですよねw
そこに労力やお金が絡むからおかしくなるのです・・たぶん。

2016年2月から、神棚を三社祭にし、御榊と毎朝御供をし、朝夕の参拝を
しています。
神道の基本は、始祖崇敬であり、自然の恵みへの感謝です。
何千年と連綿と続く「命」「循環」への感謝。
神話には陰陽があり、生命体のすべて、宇宙のすべて、といってもいいくらいで
(古事記や日本書紀を読んでみてください)
神道でまつられる八百万神は「大いなる存在」ともいえると私は思っています。
朝夕、自宅の神棚にて
「生かしていただいて、ありがとうございます」
「いつも助けていただいて、ありがとうございます」という感謝を伝える。
シンプルで拘束感なく出来ますし、何より清々しいルーティンとなっています。
お供~参拝で3分くらいなので、気軽なところも続けやすく良い点だと感じます。

長文になりましたが、自分の現実はすべて自分の「思い込み」で出来ていると知ったら
心がけが変わります。 
本当に恐ろしい程、自分の思い通り・願いがかなっての「今」なんです。
だから思考には、よくよく気をつけたほうが良いのです。
絶望諦めよりは、何かを信じ希望を持って生きるほうがプラスであることは、言わずもがなです。

私の現状は、人間関係も家族関係も平穏な問題無いものになり、
日々機嫌よく過ごしています。
振り返れば、昨年のちょうど今頃に義実家の問題が発覚しました。
あのとき、こんな一年後を全く想像できませんでした。
今、好きな場所で音楽を聴きながら・マイペースでブログを書くことができている、
感謝しかありません。
あの一連の出来事がなければ、今をこんなに幸せに感じることもなかっただろうし、
そこでバシャールのいう「コントラスト」という言葉が、とてもしっくりくるのです。

過去も今も、あなたを苦しめるために在るのではありません。
自分の思考がそうさせているだけ、と気付くだけで世界は変わります。
気付けば・変われば、コントラストの意味も即座にわかります。
すべては自分次第です。

神社の話は一切でてきませんが、おすすめの本です。
意識の使い方・在り方がわかりやすく書いてあります。
タイトルが若干胡散臭いですがw同シリーズの「ワクワクの使い方」も
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Category: Notice&Replace

他力=大いなる存在に気づくこと

この一年を通じて、私が神道から学んだことは「他力」の存在でした。
そしてこの「他力」が、エックハルト氏のいう「大いなる存在」だという事にも気付きました。

「他力」というと、創価脳的には「他力本願の”神頼み”」という悪しきイメージが浮かびがちです。
心の弱い人がやること、みたいな。
言葉の意味を調べると「他力本願」とは仏教用語で、阿弥陀仏による衆生救済の力を
指すのだそうです。 「仏の功力」ということですね。
ありがたいことに、これは仏の本願。つまり、衆生を救うこと・助ける事が「仏の願い」だと
いうことです。 そして驚くべきことに、仏は衆生に対して、無条件で救済の手を差し伸べ、
力を与えてくれるという。
知ってる言葉をここに当てはめるなら「大慈悲」です。

仏教から離れてみても、人は誰しも「他力」に支えられて生きています。
たった一人の・自分だけの頑張りで生きているわけではありません。
なかなか忘れがちなところですが。
孤独に思える時でも、電車やタクシーやバスで移動できるのは其処で働く人がいてくれるから、
コンビニでおにぎりや飲み物を買えるのも、製造・輸送・販売に携わっている人がいるから、
ネットが24時間つながるのも、電気やガスや水道がいつも使える事も、
各種産業に携わる誰かが働いてくれているから、
自分が支払うそのお金も、誰かのところから巡り巡って自分の手元にある。
また、自分が支払ったそのお金が誰かの元へと巡っていく。
何気ないようでいて、人に支えられ・自分も見えないところで誰かを支えて生きている。
モノ申さないけれど確かに存在する、そんな大きな循環=「他力」があるということに、
創価脳時代まったく気付きませんでした。
というか、それを「他力」と呼ぶとは知らなかったのです。
「他力本願」のほんとうの意味を理解すれば、なんてありがたいんだろうと、
自然と感謝がわいてきます。

ところで創価脳は、「感謝」が口癖の割に、その対象は限定的かつ序列のあるものでした。
(当時は感謝感謝いいすぎて、超薄っぺらでしたね・・はずかしい)
まずいの一番は「ご本尊様」への感謝。これはまだいいとしましょう。
次に「大聖人」そして「組織」や「師匠」←私はコレはなかったけどw
その後ろに「家族」や「周囲の人」や「同志」だったような気がします。
同列に感謝はありえなかったというか・・まあ1番がご本尊で、残り全部が同列はあったかも
しれませんが「全体に対する感謝」という視点をもった人に、ほとんど会ったことがない気がします。
もし「全体に対する感謝」が基本にあるならば、外部に対しての上から目線は生まれるわけありませんw
自分がかつてそうだったからこう言えるのですが、「感謝」といいながらとても傲慢でした。
でもそれは仕方がないんです。
だって、創価の教義(日蓮の教義とも言えるでしょうか、ちょっとこのあたりは
掘り下げてみなければと思いながらも、面倒で勉強していないのですがw)は
「何か(功徳)がほしければ、何か(布教活動・票・お金等)をよこせ」というギブ&テイク型だから。
つまり「何かをしなければ与えてもらえない・与えられない」「甘えんなよ」という教義だったから。
施しの裏側には、必ず見返りを求める心がある。 これが「傲慢」の部分です。

仏様も神様も、そんなセコイ存在ではありません。
何もできなくても、ぶっちゃけ何もしなくても、
自分がどんなに非力で無力であろうとも、
いつも大きな力で支え・護ってくれているのです。

そしてこの教えは、わりと既成仏教宗派ではスタンダードで、神道においては、いわずもがなです。

もう少し創価脳のカラクリを書いてみますが、
たとえば祈って動いて何かが「叶った」とします。その時は「功徳を頂いた!」と、喜びます。
感謝の先は、もちろんご本尊様(=大いなる存在)です。 
ただ、その願いを実質かなえてくれたのは、他者である場合もあります。
そんなときも、感謝のベクトルがまっすぐ他者へは向かいにくかったように思います。
(一応他者へも「感謝」はあるのですが、何かが一枚挟まった感覚)
創価脳にとっては
「ご本尊」に祈って→「諸天」が動いて→「他者」を動かしたんだ・・というフローです。
これだとつまり、ご本尊に願ったり祈ったり・ついでに活動がんばっちゃったりしたのはあくまでも
「自分」です。 
だから「他力」よりも”自分の力(信心)でかなえたんだ!”が優位になっていた、と私は分析します。
それが「傲慢さ」を生む因ではなかったか、素直にまっすぐ「他力」に気付けなかったトラップでは
なかったか?と。

「創価脳時代のくせ」が抜けていなかった私は、2012年秋の覚醒~今年の春に至るまで
結構な気苦労を経験しました。
創価仏法を捨て去った後、信仰を保つことに関して異様なまでに慎重になっており。
2013年夏に神社でお祓いをうけましたが(この記事)その後、とくに神道にハマったというわけでは
ありませんでした。 もともと神社アレルギーでしたし・・このあたりの話を書くと長いので
神社参詣と神棚エピソードについては次回UPさせてもらいます。
いいことがあれば「ご本尊様のおかげだ」と喜んでいた私が、ご本尊様を信じなくなったら
今度は「相手」に対し、ダイレクトに感謝するようになりました。
ただ、私の「感謝」は「報恩」がセットだったんです・・これが創価脳時代のくせです。
(前に書いた、義母さんへのそれと同じです)
何かをもらったらお返ししないといけないし・何かをしてもらったら自分も役に立たないといけない、
「他力」に甘えることをよしとしない、それが自分の首を絞めることになろうとは
思いもしませんでしたw
2013年初旬以降、不思議なことに人間関係ががらりと変わったのですが、その中でやりたくない
役割をひきうけることになりました。
断ればよかったのですが、恩義があったため「それは無理」と勝手に自分で思い込み。
イヤイヤだったので当然不満だらけ、でも吐き出せない。人にはいい顔をしてしまう。
しかしストレスはたまる一方、それで派手に人と揉めたりもありました。
勝手に相手のことを決めつけて、本音を出せず、恩着せがましくその役割を引き受け続け。
結局、2015年末の「とある出来事」のおかげ?で、その役割を降りることができました。
ほっとした反面、自分の望む形ではなかったためしばらく忸怩たる思いが消えませんでした。
それが、神社参詣をつづけるうち・真言宗の御寺での法話を聴く機会に恵まれたのち
「ハッ」と気付かされたのです。
「ああ、私、勘違いしてたんだなあ・・」と。
「他力」を信用していなかったんだ、100%ありがたく「ただ受け取る」が、出来なかったんだと。
だってしかたないよ、「ただで功徳はいただけない・自分が動かなきゃ功徳はもらえない・
そしてなにがなんでも受けた恩は返せ」って、教わって生きてきたんだから(涙)と。
三つ子の魂百までも・・恐ろしい言葉です。
きっと同じ思いを抱えた、学会2,3,4世の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
他人の親切をただ受け取れない。受け取るけど意地でも返す。返さないと気が済まない的なw
これ、「忘恩の輩」系刷り込みなんですよね、げに恐ろしき。
だから恩を返さない人にはイライラしたりもするw 自分がなまじ、やっているだけに。
私は過去そのタイプで、ママ友でもお返しをきちんとする人とは親しく付き合うけれど、
てきとーな人とは距離を置いていましたw 
いろんな人がいて、一概には言えないけれど(見返りがほしい人もそれなりに存在はします)、
それでも「他力」って優しくて、とてつもなく大きなもの。
たとえば外出先で見ず知らずの方に親切にしてもらった事、一期一会で、お礼を言うだけで
精いっぱいだったけど
次は自分がまたどこかで、困った誰かに遭遇したなら気が向いたらお手伝いすればいい。
そういった軽やかな循環を「他力」とも、呼べると思います。
そこに「損得勘定」や「見返りを求める心」があったらおかしくなるのです。
ついでにいえば「押しつけがましさ」もw

信仰があってもなくても「他力=大いなる存在」は、誰人をも護り支えてくれます。
ただそれを知って、感謝できる心があれば、人生を大きく下げることはないと私は思います。

よく、創価を脱会した人が不幸になっているとか・精神を病んだなどの噂をきくことがあります。
それを創価脳はしたり顔で「仏罰」「現証」なんて言います。
これは何もそういった現象ではなくて、私思うに「他力」に気付けなくて・信じられないがため
一時的に人生を下げている、それだけの話だと思います。
何かのきっかけで「他力」の存在に気づいたら、瞬時に浮上するでしょう。
不遇が続くかに見えるのは「そっちじゃないよー」と、教えてくれているのです。
(↑私はそれを身をもって経験しましたw)
本人の意識はほんとに一瞬で大変換しますし、意識が変われば環境も徐々に好転します。

創価から脱した後、もう騙されるものか!と、宗教や思想体系にやたら警戒心を抱く気持ちは
わかります。
ガチガチの鎧を着て、自分を律しなくては!と自他に厳しくなることもあるでしょう。
が、忘れてほしくない&信じていてほしいのは「他力は存在している」ということです。
ご本尊様を信じていた当時の「諸天の護り」が「他力」であり「大いなる存在」のことです。
宗派や各世間で表現が変わっているだけで、とどのつまりは同じ事。
そして認識を変えるべきは「ぶっちゃけ何もしなくても、他力の存在を認めれば
大いなる存在はいつでも自分を支え助けてくれている」ということです。

だから「ありがたい」し「大慈悲」です。
だって、ぶっちゃけ何もしなくても・助けて支えてくれているんですから・・。
特定信仰も持たなくてよくて、とにかくなんの条件もいらない。
ただ自分が他力の存在に「気付く」だけ。
ただ自分が「生き」て「気付いて」さえいれば、「大いなる存在」はいつもそばにあって、
支えてくれています。
いまの私にとってはその「大いなる存在」へ、日々の感謝の思いを伝えに行く場が
神社であり・自宅の神棚であるという感じです。
でも、それは神道に限らず、お寺だったり・自然崇拝(花や木や滝とか岩とか)だっていいと
思います。自分が「大いなる存在」を感じられるのだったら、なんでもありでしょう。 
なにも絶対に神社に行きましょう!とか言いたいわけじゃないことだけ、お知りおきください。

前回記事の
ただ、自分がいま「生かされている」事について、シンプルに奇跡を感じられたら、
世界は変わります。

この部分について、本当に些細で、文章にするとたいしてインパクトないのですがw
一応書いてみます。

とても楽しみにしていたある予定が当日になって中止(延期なし)になってしまった日のこと。
かなり気合い入れて準備をし、その日に備えていただけにショックでした。
今年春に「思考はエゴのおしゃべり」と知り、俯瞰でみれるようになったとはいえ、しばし呆然とし。
腹を立てるとか・怒る・ひどく落胆などの感情の揺れはなかったけど気分は下がっていました。
少し時間が経過して「前にもこんなパターンあったよなぁ・・」と過去を反芻。
そうなると今度は原因探しがはじまる・・のが、以前のお決まりでした。
創価脳時代だと「一凶」探しで、最終的には「自分のせい」「業のせい」という自分責めに至り
「だから宿命転換しなくちゃ!」と繋がっていたわけですが
2016年の私はさすがにそのトラップにはまることはなくw
ただ過去のネガティブを淡々と思い返すにとどめていたのですが
「ああ、あのときそういえばキャンセルになったな」とか「あのときもこうだったな」とか・・
次の瞬間「!」と驚きました。
「いやいや、そんなこともあんなこともあったけど、
 全部大丈夫だったよ!」
「全部大丈夫だったから、いまここに生きて存在してるよ!」
「だから今もだけど、これからも大丈夫なんだ!」

ということに、気付いたのです。
過去の様々なシーンが巻き戻しのように頭の中に巡り、あれもこれも、大丈夫だった・・
大きな輪のように巡り巡って、全部今に繋がってて、大丈夫だった、と。
するとどっと涙があふれてきて、ずっと大丈夫だったことは「他力=大いなる存在」の
おかげであったと、しみじみと、解ったのです。
その瞬間もう、感謝しかありませんでした。

悲しかったこと、傷つけたこと、傷つけられたこと、騙された事、
裏切られた事、誤解を受けたこと、約束に間に合わなかったこと、
約束を破られた事、もう立ち直れないと思うほど泣いたこと、
冷たくされた事、冷たくあしらったこと、暴言を吐かれた事、悔しかったこと、
我慢したこと、いじわるしたこと、嫌味を言われた事、悪口を言ったこと、
負けたこと、勝ち誇ったこと、返ってこなかったこと、果たせなかったこと、
叶わなかったこと、一寸先も闇で何も未来が描けないと思っていたこと、
50年近く生きてきたなかで、本当にいろんなことがありました。
もう駄目だと思ったことが山ほどあったはずだったけど、私はここでこうして生きている。
どうにもならなかった事なんて、結局は一度もなかった。
うまれてこのかた、何百回と悩んでも困っても激しく憤ってもわだかまっても、
ちゃんと「いま」へ導かれた事に、
鳥肌がたつほど感動したというか・・改めて「生かされた」事に、驚きと感謝でいっぱいに
なったのです。
エックハルト・トール氏の教えに触れて「生きている」「呼吸が連続している」ことの奇跡に
気づけたからこそ、こんな心境に至れたのだと思います。
(まずそこが「あたりまえ」すぎてなんの感動も持てずにいるなら、人生は不平不満だらけでしょう・・)

そして「ずっと大丈夫だった」という気付きのあと、じわじわと環境が変化しはじめ
望んだことが現実化するスピードが速くなったのです。
偶々かもしれませんが・・具体的にいえば探していたものがすぐ見つかり手に入ったり、
ずっとどうしているかな?と案じていた昔の友人と20年以上ぶりの再会を果たせたり
(過去、何度かSNSで検索をかけても全く情報があがってこなかったのですが、
 先日友人の勤務先名+名字でぐぐったら、画像検索で瞬時に上がってきてビックリ!でした。
 そんな探し方を思いついたのも初めてで、まさかのまさかでしたが
 連絡もすんなりとることができ、驚く速さで再会まで出来たのです。)
この事のための準備だったのか?と思うほど、何気なく以前していたことが完璧に今と繋がったり、
某件に関する情報がほしい・・と思った次の瞬間テレビ番組やネットで紹介を目にしたり、
流れが良くなったというか、急いでいるとき信号が全部青ですんなり到着できたり、様々です。
スピリチュアルな人たちの間ではこれを「シンクロ」と呼ぶらしいのですが、
どっかの教団施設で爺様と読経の声をあわせなくても、宇宙とリズムは合致するようですww

創価問題に対しても、騙された腹立たしい・家族崩壊させられた云々、おのおの恨み節は
あると思います(私もありました、皆様ご存じのとおりです)。
だけれども、その期間があったればこそ、護られた事もあったかもしれないのです。
それがなかったとして人生が100%ばら色だったとは、誰にも言えないのです。
それは経験すべき魂の修行時間(?)だったのかもしれないし、それがあったればこそ、
この先の人生が彩られることもあるのかもしれません。
バシャールはそれを「コントラスト」と表現しており、私はその示唆にすごく納得ができたのです。
(詳しく知りたい方はぐぐってください)

「神の采配」という言葉があります。
全ての出来事は、その人に完璧なタイミングがもたらされているという意味です。
自分の人生の物語を、自らネガティブにする必要もないと思います。
なにも過去にとらわれなくていいのです。

私たちが生きているのはまぎれもなく「いま」しかありません。
生きられるのも「いま」しかありません。
だとしたらどんな「いま」を過ごしますか?
私は、抗わず・わだかまらない「いま」でありたいなと、思っています。

悩んでいる人も、わだかまっている人も、これまでが「大丈夫」であったことを
しみじみと、思い出してください。
そしてこれからも「大丈夫」だと実感してみてください。
不安を作り出しているのは紛れもなく自分の思考=エゴであり、思考の背景=過去です。

最後にエックハルト・トール氏の言葉を紹介します。
(「世界で一番古くて大切なスピリチュアルの教え」より)

出来事は、身体に苦痛をもたらすことはあるかもしれませんが、
人間を不幸にするパワーはありません。
人間を不幸にしているのは、ほかでもない、
自分自身の思考なのです。


次回はお約束通り、神社にまつわるエピソードを書かせていただきます。



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