ニュー・アース 第二章 (6)

身体との同一化

モノ以外に自分を同一化させる基本的な対象は「私の(my)」身体だ。
体はまず男か女だから、ほとんどの人の自己意識の中では男性であるか女性であるかが
大きな部分を占める。その性別がアイデンテティになる。
自分の性別への同一化は幼いころから促され、役割意識が植え付けられ、
性的な面だけでなく生活のすべてに影響する行動パターンを条件づけられる。
多くの人たちは完全にこの役割に囚われている。が、性別に関する意識が多少とも
薄れかけている西欧より一部の伝統的な社会のほうがその傾向は一層強い。
そのような伝統的な社会では、女性にとっては未婚や不妊が、男性にとっては性的能力の
欠落と子供をもうけられないことが最悪の運命となる。
満たされた人生とは性別というアイデンテティを充足することだとみなされる。
西欧では物理的外見的な身体が、つまり他人と比較して強いか弱いか、美しいか醜いかが
自意識に大きな影響を及ぼす。多くの人々の自尊心は肉体的な力や器量、容姿、
外見などと強く結び付いている。身体が醜いとか不完全だと思うために自尊心が委縮して
傷ついている人たちは多い。
(中略)

美しい容貌や肉体的な力、能力などと自分を同一化している人は、そういう資質が
(当然のことながら)衰えて消えていくと苦しみを味わう。それらの資質によるアイデンテティ
そのものが崩壊の危機にさらされるからだ。
醜くても美しくても、つまりマイナスでもプラスでも、ヒトはアイデンテティのかなりの部分を
身体から引き出している。もっと正確にいえば、自分の身体に関する精神的なイメージや
概念を間違って自分だと思いこみ、その思考に自分を同一化しているが、実は体も
他の物理的な形態と同じで、すべての形がもつー 一時的なもので結局は滅びるしかないー
運命を分かち合っている。
近くに感知される物理的な身体はいずれは老いて衰え、死ぬ運命に在るのに、
その身体を自分と同一視すれば、遅かれ早かれきっと苦しむ。

身体にアイデンテティを求めないということは、身体を無視したり嫌悪したり、かまわずに
放置することではない。身体が強くて美しく、背力的ならば、その資質をーそれが存続
するあいだはー感謝して楽しめばいい。
さらに正しい食生活や運動で体のコンディションを改善することもできる。
身体を自分と同一視していなければ、美貌が色あせ、精力が衰え、身体の一部や能力が
損なわれても、自尊心やアイデンテティは影響されないだろう。それどころか身体が衰えれば、
衰えた身体を通して形のない次元が、意識の光がやすやすと輝き出るようになる。

完璧に近い優れた身体をもつ人々だけが身体と自分を同一視するわけではない。
人は「問題のある」身体にも簡単に自分を同一化し、身体の欠損や病気や障害を
アイデンテティに取り込む。そうなると自分は損傷や慢性的な病気や障害に「苦しんでいる者」
だと考え、人にもそう語る。そして障害に苦しむ者、感謝という概念的なアイデンテティをつねに
確認してくれる医師その他から多大の関心を獲得する。
すると無意識のうちに疾病にしがみつく。それが自分の考える「自分自身」アイデンテティの
もっとも重要な部分になるからだ。
それもエゴが自分を同一化する思考の形の一つである。エゴは一度発見したアイデンテティは
手放そうとしない。驚くべきことだが、より強力なアイデンテティを求めて、エゴが疾病を
創り出すことだって珍しくはない。
(p109-114)


以前「外付けパーツ」の話を書きましたが、今度は「身体(生命の入れ物)」について。

体型や肌の色、髪の毛の有無、美醜といったものもやはり「外付けパーツ」であって
「わたし」そのものではない。
年齢を経れば変化していくし、環境によっても左右される。
中略した部分に拒食症のことが書かれているのですが、若い女性が見た目を異様に気にして
行きすぎた食事制限をすることも、エゴに取りつかれた状態であると書かれています。
誰かと比べて自分をいじめるような事は、生命そのものを傷つけているようなもの。
エゴって、地獄からの使いみたいなもんですw
あるがままをまず受け入れる・自己肯定のためには、
自分が生かされている奇跡と幸いについての「気付き」「意識」が必要であると思います。
ダイエットをしたり、自分磨きするにしても自己否定から入れば欲求は尽きません。天井知らずです。
美容整形を経験した人が、一か所では済まずに「次は豊胸」「もっと鼻を高くしたい」etc
止まらなくなるという話はよく聞くのですが、これも命ある幸いを無視した・自己否定が
ベースにあるからなのでしょう。
まず、命あることが幸い。この身体(生命の入れ物)を授かっていることが幸い。
そう心から感じていれば、自分の身体とも仲良く出来ると思います。
(べつに整形を否定している訳ではないのです。
エゴにとりつかれて顔面崩壊するのは怖いよね!ほどほどにしようね!ということで。)

また肩書きや社会的地位の前に、男性であるか・女性であるかということもアイデンテティに
含まれており、女性も男性もその「性」にまつわる事柄において
比較や格差を感じることによって、執着を持ってしまう傾向について述べられています。
男女ともに、「恋人」や「結婚相手」がいないことに不足を覚え、周りの目が気になったり・
自分はおかしいのではないかとわだかまったりすることは、大いにあると思います。
また、結婚すると今度は「子供」がいないことに不足を覚えることもあります。
それらが(恋人、結婚相手、子供)ないと、自分は「完璧になれない」「完成されない」
「(女や男として)完全ではない」という不足感や欠乏感からくる苦悩は、エゴの仕業です。
そんなものがなくても、いのちある時点で完全なのです。

基本的な捉え方として、自分vs外界(周りの世界、世間)を比較で見ない事が大切なのだと
思います。 
他との比較で見てしまうと「あれもない」「これもない」となって、自分自身の生命の尊さ・
呼吸が続いている奇跡、幸いをまるまる見失うからです。
また「あいつよりは持ってる」「恋人いる・結婚してる・子供居るから自分の方が上」というような
「下見て満足」も、エゴに取りつかれている状態です。
それらはやっぱり「外付けパーツ」であり、状態は一定ではなく変化し、いずれは失います
(別れ、離婚や死別、自分の寿命)。
言うまでもなくそれらの有無は人生の幸、不幸を決定づけるものではありません。
いろんな生き方があって良いのだから、他との比較で矮小になる必要なんかないんです。
このブログを読んでいる若い人で、恋人がいないとか、結婚が出来ないから「自分はだめだ」とか
「自分は劣っている」ように思う方がもしいたら、何故恋人がほしいのか・結婚がしたいのかを
自分に聞いてみましょう。
「世間体が・・」「周りが・・」「自分だけ独身は世間に対して恥ずかしい」
というのであれば、恋人ができても結婚出来ても、次なる不足感や不満足がおそらく来ます。
外の世界(一般世間)との比較をやめない限りそうなります。
エゴとはそういうものだからです。
恋人がいなくても、結婚相手がいなくても「いま」私には生命があり、呼吸の連続と言う奇跡もあり、
幸いで不足はない、とわかっていれば・
そうして自分にわだかまらずに、自分と仲良くできる人のところに縁はやってくる、と私は思います。
または縁がこなかったとしても、人生が楽しい驚きに彩られていくでしょう。
なぜなら自分の内面が、心模様が、外の世界を作り出し目の前の現実で見せてくれるからです。
それを解りやすく教えてくれているのがバシャールで
「鏡は先に笑わない」という有名な一節があります(バシャール 鏡でぐぐると出てきます。
引用すると長くなるので、興味のある方はぐぐって読んでください)。
自分自身の内面世界が映し出されるのが、目の前に広がる現実だということ。
内面が変われば、少し遅れて目に見える現実も変わっていく。
環境に左右されるのではなく、まず自分の心状態ありきという法則です。

そして身体にとって「病気」さえアイデンテティという、驚くべき指摘。
”エゴは一度発見したアイデンテティは
手放そうとしない。驚くべきことだが、より強力なアイデンテティを求めて、エゴが疾病を
創り出すことだって珍しくはない。"


エゴは「かまってちゃん」なんですよね。
ここを読んで「うわっ・・思い当たる節ありまくり!」と怖くなってしまったのですが、
私の母は数年前(まだ猛烈創価脳だった時)国の難病指定疾患に罹りました。
現在も認定患者で、薬代や治療費の助成金を頂いております。
当時はどうしてそんな病気にかかったのか?さっぱり意味がわかりませんでした。
遺伝的なものもある、とネットサイトに書いてあったのですが、母の親族にその病気に
罹った人は誰もいません。
「ニュー・アース」を読んでエゴの構造を知るうちに、そういうことか!と合点がいったのですが
母は常々「自分は他人とは違う」という意識を強く持っています。
私は特別なんだ、という意識です。 
いいことに対しても悪い事にしても「私は特別」を発動させていました、大昔から。
それが日蓮仏法に紐ついた選民思想の軸にもなってると思います。
病気になりたいと願ってた訳ではないと思いますが、人生の仕上げという時期に来て
「難病認定」をもらうという、「私は特別」だと思いたい・アイデンテティがいつでも欲しいと願ってた
母にとってはある意味、宇宙からのギフトと言えるかもしれません?!
なぜなら、そのこと(難病認定)を自慢のように周囲に語っているからですw
「難病認定もらってるけど、私こんなに元気で活動的なの!海外旅行もいっちゃうし~」的な。
そしてそれを「信仰のおかげ」と胸張って言う、まるで勲章みたいなものになっているんです。
強い痛みや不定愁訴、手術やいつ終わるか解らない治療投薬を伴ってでも、
手に入れたかった(?)「難病患者」というアイデンテティ。
これを「願兼於業」と呼ぶんだなぁと、その言葉の意味するところがやっと納得できました。

学会員の方々にも、聞いたことないような難病に見舞われている人が多くいることを
SP紙上で皆さんもよく目にしていたかと思います。
また、私が以前居住していた地域でも、ある婦人部員の子どもさんが兄弟そろって心臓疾患で
幼い年齢の頃、連続で大手術を受けていました(=同盟題目お願いしますメールが来て
そのことを知りました)。
思い返せば、知ってる学会員の方でも難病にかかっている人・九死に一生を得るような
大事故で障害をおった方などなど普通に組織にいました。
いま、まったく学会と無関係の世間に身を置いてると、そんな人が誰もいないんです。
偶々なのかもしれませんが、見事に居ない。
これが何を意味しているのかといえば、学会員の多くは「難を乗り越える信心」という
思い込み(=刷り込み)ありきで生きています。
信心で困難を乗り越えること=学会員のアイデンテティ。
辛いことを乗り越えるための信心なので、辛いことや難問が必要・セットになっているのです。
いわば信仰、学会活動のモチベーションが、難病や諸問題。
辛い事も難問も無いのなら、信心なんかしなくていいのだから。
「こんなに辛いことや難病ありましたが、信心のおかげで乗り越えて生きています!」
難病や諸問題は、アイデンテティ充足のために必要不可欠なのです。
願って災いを受けているような感じが、しないでもありません。
私が女子部だった頃、100万遍唱題が課題のひとつにあって皆でとりくんでいましたが
なんでこんなに不幸がおこるの?!と思ってしまう状況が、自分にも周囲の挑戦者にも
ありました(この記事に書いています)。
当時はその原因がわからず「魔が競ってるから負けないように闘おう!」なんて
励ましあっていましたが・・なんのことはない、自分たちで難を引き寄せていたのですねw
今更だけど、すっごく合点がいきましたw

こんなことを書くとお叱りを受けるかもしれませんが、信心しても一向に幸せにならない・
何も上向かない・良くならないって方は、おかしな思い込みを握っているからそうなっていると
気付いたほうが良いと思います。
「幸せになったら、上向いたら、良くなったら困る」って、潜在意識が働いている可能性が
あります。
「幸せになったら、良くなったら、信心や活動をさぼるようになってしまうかもしれない!」
「天界に魔は棲むっていうくらいだから、幸せになったら堕落するかもしれない。
 だったら不幸なくらいがちょうどいい!」
という、無意識下の自作自演です。

またこれは、特定宗教を信仰していない一般人にだって言えることです。
願いがかなわない・・と言う時、必ず無意識下で「その願いがかなうと困る(ことがおきる)」
という、相反する思いを握っている可能性があります。
疾病で言うなら「病気が治ったら周囲にかまってもらえなくなるかもしれない」し、
恋人がほしいなら「自由を奪われるかもしれない」など。
お金がほしいも「人にねたまれたり恨まれるかもしれない、盗難に遭うかもしれない」
その願いが叶うのと引き換えに、今のポジションを手放さなければならない・
危険にさらされるかもしれない・・そんな思い込みがブレーキをかけて
「不足」の現状を維持するという、これはエゴの仕組みだそうです。

また、その願いや願望が叶わないから「自分はダメなんだ」「劣った人間だ」というように
その願いがかなわないことを「自分責め」の材料にしている間は、願望が達成されることは
ありません。仮に達成されたにしても、すぐまた別の「不足」「不満」が生じてきます。
いったい何故なのか、「自分責め」はエゴが生き延びるための餌だからです。
エゴが居場所や目的を失うことを究極に恐れていることは、これまでもエックハルトが
教えてくれた通りです。

自分が「完全ではない」「不幸である」「不足している」「十分ではない」という思い込みが、
いかに恐ろしいか、上記の例で解っていただけるでしょうか?
もと創価脳の方なら、理解できると思うのです。

生きているだけで、呼吸の連続という奇跡を「いま」体験していることで
自分がいかに幸いな存在であるか、もう認める。
だって本当にそうなんだから。
この「生きているだけで丸儲け」がベースにある人生が、ないものねだりや青い鳥探しに
陥らないことは明白です。


(次回に続きます)


スポンサーサイト

2017年 ご挨拶

本年もよろしくお願いいたします。

すでにご報告した通りですが、2016年内に内容証明を発送+地元会館への連絡を通じ
脱会手続きを完了しました。
細かい話は、後日書かせていただきます。

今年のお正月も自宅で迎え、初詣は氏神様と一の宮神社へ出向きました。
帰省は2泊3日と短めの中、
初めて、自分の産土神社へ行くことが出来ました。

このブログを読む大半の御方が、創価家庭に育った人という前提のもと
「産土神」を説明しますが、自分が生まれた時に住んでいた土地を護っている
氏神様のことです。
私は福子ですから、お宮参りなんて当然していないわけで(汗)、
実家方面の神社についても全く知識なく・まず足を踏み入れたことがありませんでした。
昨年友人から「産土神参りもすると良い」と聞かされ、興味を持ち、調べたのです。
神社の名前を知って驚きました。単なる偶然ですが、私の現姓(苗字)と
同じ名前の神社だったからです。
なにか不思議な御縁を感じ。
参詣し、生まれてから今日まで生かして頂いたお礼を述べてきました。
それほど大きな神社ではありませんが、歴史は古く、多くの参拝客でにぎわい
地域の方々に崇敬を受けている様子がよく解りました。
そして子供たちのお宮参りも、実際の(居住地の)氏神様ではなく、主人の氏神様で
してもらったので、改めて先日、子供たちを連れて産土神へ参詣に行きました。
(注・絶対そうしなければならない、というものではありません。単に気の問題です)
今年は遠方に在る父方の親戚筋の神社へも、正式参詣する予定でおります。

さて、話は変わりますが、前回の記事に対して1件の質問コメントがありました。
非公開希望のコメントには返事をしないというのがマイルールですが、
この質問(疑問)は、多くの人が立ち止まっている個所かもしれないと感じたので
こちらで回答いたします。

その方は親御さんが強固な創価脳でお悩みとのことで、御自身の脱会を許してもらえないし
親御さんが組織を信じ切っていることがもう耐えられない。他人事だなんて放置はできない。
親と縁を切ってまで脱会する気はないし、親をほっとけない。
親と同時に脱会出来たら一番いいが、どうしたらいいのか?ということでした。
年代が書いていなかったのですが、たぶん成人した方だとおもいますのでその前提で
お答えします。

脱会については、してもしなくても、あまり変わらないと思います。
気の問題というか、地域の学会員が来るからうざいっていうのであれば
「脱会の意思がある。絶対訪問禁止・来たら弁護士に相談しちゃいますよ」くらい言いましょう。
あくまでも事務的に対応。まちがっても愛想なんてふりまかないでくださいw いい顔したら
つけあがることは、皆さんも知ってのとおりです。
訪問はスルーしているが、チラシを入れられて気持ち悪いとかむかつく、というのであれば
それは他のチラシ同様「ただの紙片」ですから、感情をはさまずにゴミ箱へ捨てましょう。
「創価関連のもの」って思うからわだかまるんです、多分。 
気持ち悪がったり・ムカついてる感情はあなた自身ではなくエゴですから、惑わされないでください。
暫くその感情を観察してみればいいのです、決して感情にとらわれないように気を付けてください。
これでひとまず平穏は保たれるはずです。
で、学会員のことはきれいさっぱり「忘れて」ください。
また来るかも、いやだなとか、意識するから来る(引き寄せる)んです。これは本当です。
そして脱会を本気でしたいのであれば、なにも親の許可はいりません。
気の向いた時に本部に内容証明を送りましょう。
親と同時に脱会するつもりなら、その時がやってくるのをただ待つしかないと思います。
親に働きかけることは何もしなくていいと思うし、あなたはあなたを生きていれば
自然とその時が来るかと思います。

こちらから逆質問をしたいのですが、
親御さんが脱会すればあなたの機嫌は直るのでしょうか?
親御さんが自分の思う通りになれば、あなたは幸せなんでしょうか?

その逆を、親御さんがあなたに望んでいる現実についてどう感じますか?
(=活動家として頑張ってほしいと思われている)
其処に矛盾が生じてくることに、気がつきませんか?
「創価がまちがってて悪だから、こっちが正しいから親に気付いてほしいだけだ!」
っていうのも、その逆を親御さんが望んでいる現実について考えてみてください。
互いの利害が一致しない以上、どこまでいっても平行線ですw
高次から見て、物事に良いも悪いもないのです。
そこを知っておけば、思考の背景が各自違うことが理解できていれば、
誰かを自分と同じ考えにさせようなんて、高慢な発想にはなりません。

私もそうだったからわかるのですが、私たち学会2,3,4世で
一瞬でもまじめに学会活動に取り組んだり、学会員として信仰活動してきた人間のほとんどは
そうすることで「親の機嫌を取ってきた」経緯がある。
その自覚は誰人にもあると思います。
(中には、親はたいしてやってなかった未活だったけど、家に女子部や男子部が訪ねてきて、
 自ら活動家になったってパターンの方もいるかもしれませんが)
たぶん親から勤行や信心のイロハを教わった人たちは、「それで親の機嫌を取ってきた」んです。
少なくとも、そうする(活動)ことで親が上機嫌になることはあっても、
不機嫌になることはなかったはずです。
(注:親子関係を夫婦間におきかえてもらっても、いいとおもいます)

親の機嫌を取ってきた私たちは、活動をやめたり脱会(決意)することで、
もう親の機嫌を取るのをやめました。 いわば自立、親離れです。
大人ならば、そこで終われるはずなんです。 自分は一人の人格者として、活動を拒絶した。
信じるに値しないって思って離れた。 それでいいんですよ、それだけで。

ここでさらに「親にも創価をやめさせたい」っていうのは、実は子供のわがままですw
大人になりきれてない、子供の側からの「駄々っ子」です。
「私もいい子にして従ってきたんだから、お母さんお父さんも応えてよ!」っていうアレです。
気付いてください。 私も長らくそれをやってました!(お恥ずかしい)。

そして親もりっぱな大人であり、一人の人格者として創価を信じています。
それがどんなに子供の側から見て間違いで・くだらなくて、腹立たしい事であったってw
親はそれを、人生をかけて信じている。
嫌だったら、少しずつでも離れて行っているはずです。嫌じゃないからついて行ってる。
一寸は楽しいのかもしれないし、心の支えかもしれないし、功徳を感じてるのかもしれない。
御近所づきあいの一環もあるかもしれないし、親子とはいえ自分以外の他人の心の中なんて
はかりようがありません。 
盲目状態で目覚めないのには、それなりに理由も条件もあるのです。
かつての自分たち(活動家からアンチへ転じた、離れた)と同じように、です。
だから、そんな「他人ごと」にわだかまるだけ時間の無駄です。
そんなこと考えていらつく暇があったら、自分の機嫌を取ってください、全力で。
好きな飲み物をのむもよし・おやつをたべるもよし・マッサージに行くもよし・好きな音楽を聴き
リラックスするのも・DVDを見たり・好きなマンガを思いっきり読むもよし。
好きな場所へ行ってのんびりぼーっと過ごすとか、欲しかった物をひとつ買うとか、
出来る範囲で、なんでもいいので気分を「上機嫌」に変えましょう。
嫌な気分を引きずるのも良くないし、我慢するのも良くないから「気分転換」してください。

親が創価脳である現実は、文字通り「親」のものです。
あなた自身とは関係がありません。
(このあたりのことは「ニュー・アース」を読めば簡単に理解できると思います)
あなたが親の「現実」を気にするから、それが自分の世界に入ってきて、うっとおしい事になって
いるだけです。 
(親とか他人だけではなく、創価組織そのものも、あなたとは関係がありません。
 創価の「現実」を気にするから~以下、上記と同文)
そしてそれをさせているのは(繰り返しですが)エゴの仕業です。
エゴは問題を作り出したいし、わだかまりたいし、悩みたいんです。
自分が幸いな人であるという事実をそう簡単に認めさせようとはしませんw
エゴとは、そういうもんなんです。 だからみんな、問題でないことを問題にし・悩みにし・
不平不満を抱えて最終的には宗教にハマるんですw
詳しくはこれから先「ニュー・アース」の続章で書いていきますが、上記エゴの動きの基本を
覚えておいたらいいと思います。

自分以外の人に、自分のご機嫌取りを求めるのはやめましょう。
今更親や他人に、自分の機嫌を取らせようなんて、思わないほうが賢明です。
相手に求めてるうちは、安定感もないし、幸せをいつまでも探し続けることになります。
「親の脱会が自分の幸せ」なんて、幸福に条件をつけているのは、エゴの仕業です。
他人のことはほっといて、自分が「いま」安らぎを感じられることに全力を傾ければいいんです。
自分の機嫌は自分でとるのが一番です。

「ニュー・アース」にも書かれているのですが

エゴには他者が必要なのだが、しかし深いところで他者を憎み恐れているという
ジレンマがある。(中略)
あなたのなかのエゴが強ければ強い程、人生でぶつかる問題は誰か他人のせいだと
思うはずだ。
それに、きっとまわりの人たちに生き難い思いをさせているだろう。
もちろんあなたはそれに気付けない。いつも苦しめられているのは自分なのだ。
(p246抜粋)


「他人に嫌な思いをさせられている、人生を狂わされている」と思っている人は
自分の人生を生きていない・・我慢ばかりして、勝手にネガティブな思い込みで見通しを
悪くして、自分が自分をつかまえていない(「いま」にない)状態で、
他人の動向ばかりを気にして・自分がどうしたいかよりは、他人の反応ばかりを憂慮している・・
まさに、エゴに振り回されているパターンだと思います(それが、以前の私でした)。
ここが解ったら、すべては独り相撲だった!ってことに気づいて、脱力するし笑えますよ。
そして自分が自分に優しくなれれば、しっかり自分をつかまえて「いま」に在れるようになれたら、
目の前の現実も優しい・穏やかなものになっていきます。

今年も「ニュー・アース」を通して、私の経験や思った事を交えながら
わだかまらない生き方をお伝えして行けたらと思っています。

皆様にとりましても、自分史上最高に面白い2017年になりますようにv