ニュー・アース 第二章(8)

忘れられる「大いなる存在」

エゴはいつも自分と形を同一化し、何らかの形に自分自身を求め、
それゆえに自分自身を失う。
この形とは物質や肉体だけでは無い。外部の形ーモノや身体ーよりもっと基本的なのが、
意識の場に常に生起する思考の形だ。(中略)
気付いてみれば、片時もやまない頭の中の声があるはずだ。絶え間ない衝動的な思考の
流れである。その考えに関心を全て吸い取られ、頭のなかの声やそれに付随する感情に
自分を同一化してしまって、その思考や感情の中で自分自身を失った時、そのときあなたは
自分を形に完全に同一化してしまい、エゴの手中に落ちる。

エゴとは、「自己」という意識、エゴという意識をまとって繰り返し生起する思考の形と
条件づけられた精神・感情パターンの塊なのだ。

形のない意識である「大いなる存在(Being)」「私は在る(I Am)」という感覚が形とごっちゃに
なったときに、エゴが生じる。
これが自分と個々の形との同一化(アイデンテティフィケーション)ということだ。
つまり「大いなる存在」を忘れるという第一義的な誤りであり、存在が個々の形に分裂するという
とんでもない幻想が、現実を悪夢に変える。
(p118-119)


「大いなる存在」=エネルギーであり魂と前回書きましたが、
”自分の存在(生存)の大前提”にあるもの、と言えると思います。
繰り返しになりますが、人は普段エネルギーそのものに余り目を向けていないというか・
その摩訶不思議の上に在る「生きている」幸いについて無頓着です。
なんもしなくても呼吸が続き・心臓が動いている不思議・奇跡に意識を向けている人は
そう多くないと思います。
状態が当たり前すぎて、ありがたいとか幸いだとか感じない・疎くなっている。
自分自身がエネルギーであることなんか知らずにいて、
形ある「何か」や「思考」に自分自身を同一化し、出来事によって巻き起こる感情思惑に
ただ振り回され 
まるで”思考”とそれがつくった「かたち」が、自分自身になっている。
実のところ、自分という存在は唯のエネルギー。
形として見えているものすべてが、いずれは消え去る「幻」だと知っていれば、
目の前の現象や物質に、過剰に振り回される必要は無くなるよ・・という、非常にシンプルで
深い教えです。

つまり「大いなる存在」を忘れるという第一義的な誤りであり、存在が個々の形に分裂するという
とんでもない幻想が、現実を悪夢に変える

とあるように、「私の家」や「私の身体」や「私の仕事」や「私の家族」や「私のお金」などなど、
「私」と紐つけた形態に対し執着を持つ状態は
「存在が個々の形に分裂するというとんでもない幻想」に当たると言えます。
これらに執着した結果、得られなければ/失えば、自分が損なわれた・終わったと感じること
=「悪夢」になるわけです。

この身体すら、「死亡」と医師に診断されれば、日本では火葬され骨と灰になる。
究極この生身の姿は「幻」となります。
私という存在は永遠のエネルギー体で、この世にあるとき「身体」という形をまとって
ここ(3次元)に存在しているように見えているんだ・・という事実を、頭のどこかで
認識しておくことも、エゴにうっかり惑わされない為には、良い心がけかもしれません。

日蓮仏法では「三世の生命」を説いていましたね、教学を少しでもかじっている人であれば
このあたりは容易に理解できるかと思います。
ただ、過去世→現世→来世の時間軸=日蓮仏法創価版が教えていたバージョンは
凝り固まっており、その解釈は宿業論や罰論の強化体系にすぎませんw
なので旧いタイプの時間軸はまるっと無視し
(過去も未来も「いま(現在)」にあります、「一念三千」は、このことを指しています。
 詳しくは後日書きます)
「エネルギー・大いなる存在は永遠のもの」と認識しておいたらいいと思います。

すべての理解にまさる安らぎ

人生のどこかで悲劇的な喪失に出会い、その結果として新しい次元の意識を
経験した人は多い。 持ち物のすべてを失った人もいれば、子供や配偶者を、
社会的地位を、名声を、肉体的能力を失った人もいる。
場合によっては災害や戦争によってあらゆるものを同時に失い「何も」残されていない事に
気付いた人もいる。それは「限界的な状況」と呼んでもいいだろう。
何に自分を同一化していたにせよ、何が自分自身という意識を与えていたにせよ、それが
奪い去られた、そこでなぜかわからないが、当初感じた苦悶やはげしい恐怖に変わって、
ふいに「いまに在る」という聖なる意識、深い安らぎと静謐と、恐怖からの完璧な自由が訪れる。
この現象は「人のすべての考えにまさる神の平安」という言葉を残した聖パウロには
なじみのものだったに違いない。確かにこの安らぎは筋が通らず、人は自分に問いかける。
こんなことになったのに、どうしてこのような安らぎを感じられるのだろう、と。
エゴとは何でどのように作用するかがわかれば、答えは簡単だ。
あなたが自分を同一化していた形、自己意識を与えてくれた形が崩壊したり奪い去られたり
すると、エゴも崩壊する。

エゴとは形との同一化だからだ。もはや同一化する対象が何もなくなったとき、あなたは
どうなるか?まわりの形が死に絶えた、あるいは死にかけた時、あなたの「大いなる存在」の感覚
「私は在る(I Am)」という意識は形の束縛から解放される。
物質に囚われていたスピリットが自由になる。あなたは形のないあまねく存在、あらゆる形や
同一化に先立つ「大いなる存在」という真のアイデンテティの核心に気付く。
自分をなんらかの対象に同一化する意識ではなく、意識そのものとしての自分という
アイデンテティに気付く。
これが神の平安である。あなたという存在の究極の真実とは、私はこれであるとか
あれであるとかではなくて、「私は在る」なのだ。
大きな喪失を経験した人のすべてがこの気付きを経験して、形との同一化から切り離される
わけではない。
一部の人はすぐに、状況や他人や不当な運命や神の行為の被害者という強力な精神的イメージや
思考を創り出す。この思考の形とそれが生み出す怒りや恨み、自己憐憫などの感情に
自分を強く同一化するから、これが喪失によって崩壊した他のすべての同一化に
たちまちとって代わる。言いかえれば、エゴはすぐに新しい形を見出す。
この形が酷く不幸なものだということは、エゴにとっては大した問題ではない。
良くも悪くも同一化できればいいのだ。それどころか、この新しいエゴは前よりもっと凝縮されて
強固で難攻不落である。

悲劇的な喪失にぶつかったとき、人は抵抗するか屈するかしかない。深い恨みを抱いて
苦々しい人生を送る人もあれば、優しく賢く愛情深くなる人もいる。
屈するとは、あるがままを受け入れることだ。人生に向かって自分を開くのである。
抵抗すると心が縮こまって、エゴの殻が硬くなる。あなたは閉ざされる。抵抗している時に
(否定的な状態の時に、といってもいい)どんな行動をとっても、さらに外部の抵抗に遭う。
宇宙はあなたの味方にはならない。人生は助けてはくれない。(中略)
抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が開ける。
そのとき行動が必要であれば、あなたの行動は全体と調和したものとなり、創造的な知性と
開かれた心、つまり条件づけられていない意識によって支えられるだろう。
状況や人々が有利に、強力的に展開する。不思議な偶然がおこる。
どんな行動も不可能ならば、あなたは抵抗の放棄と共に訪れる平安と静謐のうちに安らぐだろう。
それは神のもとでの安らぎである。(p122-127)


このパートを初めて読んだ当時、私の状況とぴったりで、「見てたの?!」と
思ったくらいw 驚かされたのを覚えています。
それほどエックハルト氏がエゴの構造を見事に言い当てている&私が完全に
エゴにとりつかれていた、ということです。
2015年末に「とある出来事」によって、義実家が資産を失う事が決定したとき、
強いショックを受けましたが、同時に私は平安を確かに覚えていました。
嫁ぎ先(=玉の輿といわれる事は自慢=アイデンテティの一つでした・・これはエゴ)が
不動産も人手に渡り・金銭的に厳しい状態に陥ることはエゴの崩壊にあたります。
そして、同時にやってきた平安とは、
前にも書いたと思いますが、義実家(4家族が泊まっても十分なスペースがある
家屋でした)が人手にわたることで(転居先は手狭)、
毎年恒例の年越し帰省がなくなる!という喜び&姑の金銭にものをいわせた支配が終わる!
(しかも、これらは崩れることなくずっと続くものだと私は「思い込んで・諦めて」いただけに
 ものすごいサプライズだったのです)
という安堵感でした。 

しかし、エゴのなんたるかも知らなかった私は、その後に発覚する「とある出来事」について
姑がついた嘘・新事実を知ると、今度は途端に「被害者」というアイデンテティにしがみつき、
自分がいかに不当な扱いを受けたか・従順に接してきたのに酷い仕打ちを受けたか・・と
恨みをもち、苦しむ状態に陥ったのです。
”状況や他人や不当な運命や神の行為の被害者という強力な精神的イメージや
思考を創り出す。この思考の形とそれが生み出す怒りや恨み、自己憐憫などの感情に
自分を強く同一化するから、これが喪失によって崩壊した他のすべての同一化に
たちまちとって代わる。言いかえれば、エゴはすぐに新しい形を見出す。 ”

もう↑まさにこの状態だったわけですw
その後、自分の中のおさまらない怒りの原因・根っこを見て行ったら
自分の姑への接し方に、創価時代の刷り込みが背景としてあったことが判明し、ビックリした・・
という話をこの記事に書いています。 
そして根っこがわかれば、どういうわけか怒り恨みの感情はサーっと引いて行きました。
自分が自分を解ってあげられたから、安心したのだと思います。

そしてこの構造は、アンチ創価で長く機能不全をおこす仕組みと同じだと気付きました。
「覚醒」によって、清く正しい組織の一員というアイデンテティの崩壊がやってきたとき、
ショックと同時に、安堵も生まれたと思うのです。 
それは誰にも見せないよう押し隠していた理不尽さが認められる・やっと日の目を見る、
長年自分が感じてきた矛盾違和感はやっぱり間違いがなかったんだ!という、晴れやかさでした。
もう意味不明の恥ずかしい各種活動をしなくてすむ!という開放感もありましたね。
しかし、「覚醒者」となって晴れやかすっきり~!で、
その後を何の引っかかりもなく歩むということが、まずない事は皆さんもご存じのとおりですw
(軽やかに進むことができた人は、エゴがとても軽い人だと思います。そういった方は幸いです)
今度は「アンチ創価」というアイデンテティにしがみつく。
創価のせいで私の人生を・家族を・青春をむちゃくちゃにされてしまったのだ!という、
被害者と言う強力な精神的イメージと「創価は社会の巨悪」という思考に占拠され、
倒さねば!許すまじ!と恨み憎しみを持ち続ける・・という状態を作りだしていました。

なにがそうさせていたのか、エゴがそうさせていたんですねw

だから、気付いた人は笑って手放せばいいと思うんです。
あー、私って・俺って、エゴにとりつかれてずっと怒ってたんだな~!テヘペロ、くらいにw
それが「俯瞰で見る」ということです。
エゴは、残念ながら完全になくすことはできません。
アンパンマンにおけるバイキンマンみたいなもので、呼んでないのにいつもどこからか
やってきて悪さをする・・そんな存在です。 
バイキンマンほど可愛いもんじゃない場合もありますがw
だから、「見つけた!」(気付いた)時は、さっさと追い払えばいいんです。
追い払っても隙を見てまた来るけどw その時はやっぱりまた追い払うのです。 
そう繰り返せばいつの間にか、悪さも可愛いレベルになっていくと思います。
あんまり大げさに考えないのが吉です。

いつまでも恨み憎しみを握り続けている必要はありません。
もちろんそれをライフワークとして・好きでやってる人の事は、いつものように止めませんw

ここで「創価は社会の巨悪、は正しい。間違いではない!」と怒りだす人もいそうですが
確かにそう思ってる人が大半で一般人もしかりです。
私も創価が「善」だとは思っていません。 
ただ「巨悪」だとまでは、最近思わなくなりました。
正直言うと「どうでもいい(存在)」です。
すくなくとも私の生活圏、自分の世界には全く不要なものなので
関知しない・採り入れないようにしています。

なぜ「巨悪」だとまでは思わないかと言えば、今現在も確かにその組織に救われている
(と信じている)人がいます。
イケダセンセーは素晴らしいって、心底うちふるえてるめでたい人だって存在するのです。
件の3人だってそうでしょう。生きる理由になってると思います。
そして私だって、覚醒前まで40余年、日蓮仏法創価版に救われていました。
これらはすべてリアルな話で、巨悪なんてみじんこも思わず、外界を知らず・
ただひとつを信じるが故に成り立っている(いた)「善」の世界が、今この瞬間にも
確かに存在しているのです。

何度も繰り返しですが
覚醒は「思考の背景」が変わったから、善だった世界が悪になっただけの話。
黒と白は、状況に寄りけりで、いとも簡単にひっくり返ります。オセロみたいなもんです。
私にとっての悪も誰かにとっては善だし、逆もあって、時と場合により変化する。
これを「高次から見て物事は中立」というのです。
ただそれだけの話だと、もう解ったらジャッジする必要がなくなりました。

エックハルトの言う「抵抗」はこの場合、「恨みつらみを握りしめる」こと・執着でしょうし、
「受け入れる」は「恨みつらみ、執着を手放す」ことに当たるかと思います。

恨み続けるのも、創価を殊更の問題とし・敵視&注視していくことも、エネルギーの消耗、
時間の無駄じゃないでしょうか?
お笑いネタとして楽しくヲチしている、または研究対象としてやってる方は別として・
各種情報を眺めていたって、憎しみからの目線では少なくとも
「楽しい・素敵な・いい気分」にはなれないと思うんです。
もっと他に見るべき対象が絶対ある。
自分を心地よく、楽しくさせてくれる対象がいくらでも。そっちを見る時間にあてたほうが
人生は有意義に・楽しくなることでしょう。

恨み憎しみ続けないとやっていられないんだよ!という人は、
おそらく「自分(や周囲)の不遇・不幸の原因は創価」にしておきたい方でしょう。
それはエゴなのですが、そのエゴから解放されない限りはずっとそのままです。
つまり「創価のせいで不遇で不幸な自分」というアイデンテティ下にある以上、
そのような現実ばかりを見聞きすることになりますし、
「創価のせいで不遇で不幸」なまま一生を終える事になります。
自分でその事に気付いて、思い込みを変えない限り、残念ながらそうなります。

前にも書いたと思いますが、思考は現実化します。
自分が信じていること(内面)が、今も目の前に現象として現れているのです。
だからよくよく、思考には気をつけないといけないし、
上記のようなネガティブな思い込み(観念)を持ち続けたまま生きる事は、賢明といえません。
(思い込みじゃない!事実だ!という人もたぶんいるでしょうが・・それがエゴなのですw
 詳しくはこの後に続いて行く章や、他の本の紹介で触れて行くつもりです。が、
 エゴに気付くための「今にある」実践を積み重ねる中で、自分の感覚・腑に落とさない限りは、
 いくら文章読んだって 理解できないかもしれません。)

わざわざ、不機嫌で不愉快な気持ちになる情報やニュースを自ら見に行ってしまう事が
いかに自分の魂にとってマイナスか・・それらを見ている時、自分の気持ちはほっとしているか・
幸せなのか・楽しいのか。チェックしてみることをお勧めします。
それらが思考を形作り・助長しているからです。
むかついたり、卑下するような思いを抱いたり、攻撃的な気分、その情報に触れることで
自分の恨みつらみ怒りを正当化しているような気分、ネガティブでわだかまるような感情であれば、
それは自身の内面・外面=生活にとって害でしかありません。
目の前の現実は、チャンネルを変えるのと同じで自分で切り替えることが出来ます。
自分で選べるのです
悩まれている方や、面白くないことが続いている・なかなか気分が晴れないという方は
ぜひ、自身がどんな情報に反応しやすいか・好んでチェックしているかを点検し
「観心」してみるとよいと思います。

手放すだけなんです、本当に。
簡単に言うなと怒られそうだけどw 
1%でも、そんなアイデンテティに自分を不幸にされてたまるかよ!と思った方は
是非に「ニュー・アース」を全編読んでみてほしいと思います。

第二章はこれにて終了です。次回から第三章に入ります。

ちなみに第十章まであるので、最後までたどり着くのは本当にいつになるやら
わかりませんし、私が途中で飽きてやめないとも限らないのでw
ご自身で一読されることを重ねてお勧めします。

(次回に続きます)


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ニュー・アース 第二章(7)

内なる身体を感じる

身体への同一化はエゴの最も基本的な形の一つだが、ありがたいことにこれは
最も簡単に乗り越えられるアイデンテティでもある。
ただしそのためには、自分は身体ではないと自分に言い聞かせるのではなく、関心を
外形的な身体や自分の身体に関する思考ー美しい、醜い、強い、弱い、太り過ぎ、やせ過ぎー
から引き離して、内側から感じられる生命感に移す必要がある。
外形的な身体がどんなレベルにあろうとも、形を乗り越えたところでは身体は生き生きとした
エネルギーの場なのである。


内なる身体への気付きに慣れていないなら、しばらく目をつぶって自分の両手の中に生命感を
感じられるかどうか試してみるといい。
そのときは、心に聞いてはいけない。心は「何も感じない」と答えるだろう。
さらには「もっとおもしろいことを考えたらどうだい」というかもしれない。だから心に尋ねる代わりに、
じかに両手を感じる。つまり両手の中のかすかな生命感を感じるのである。
生命感はそこにある。それに気付くには、関心を向けさえすればいい。最初はかすかなちりちりした
感触かもしれがいが、やがてエネルギーあるいは生命感を感じる事ができる。
しばらく両手に関心を集中していると、その生命感は強くなっていくだろう。

(中略)

この「内なる身体」は、本当は身体では無くて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ。
できるだけしょっちゅう、内なる身体を感じる習慣をつけるといい。そのうち目を閉じなくても
感じられるようになる。

ところで、誰かの話を聞きながら内なる身体を感じることはできるだろうか。
逆説的ながら、内なる身体を感じている時には、実は自分を身体と同一化していない。
また心とも同一化していない。要するにもう自分を「形」と同一化せず、形への同一化から形の
ないものへの同一化に移行している。
その形のないもの、それは「大いなる存在」と言ってもいい。

それがあなたのアイデンテティの核心である。
身体への気付きはいまこの瞬間にあなたをつなぎとめるだけでなく、エゴという牢獄からの
出口でもある。さらに免疫システムも、身体の自然治癒力も強化される。
(p114-117抜粋)


「ニュー・アース」を1回目に読んだ時、軽い衝撃を受けた部分がこのパートです。

自分の「生命」「生命エネルギー」に気付いたことはおろか、関心を向けた事も
うまれてこのかた一回もなかった! ということにまず、自分で驚いてしまったのです。
それは未知の領域でした。
あたりまえすぎて考えた事もなかった、といいましょうか・・。
身体と・こころと・思考を個々の存在とし、切り離して捉えた事なんてまずなかったし・
そんな発想すらなかった頃でしたから。
「身体とこころと思考は一体」という認識(していたかどうかも今となっては?
あまりにも無意識)で生きていました。

グリーンで色づけした部分に書いてある事を、本を読んでさっそく実践してみたのです。
(注:中略部分にはエネルギーを感じるための簡単な手順がさらに書いてあります)

最初、まったくといってよいほど、手のひらの上に「感覚」がやってきませんでした。
手のひらを上に向けて、何かが湧き上がってくるイメージをしてみるも
うんともすんとも、何も感じないw
「私、ほんとに生きてる?」とw 自分に対し半信半疑になったほどでした。
自分の中に確かに流れているエネルギーというものを、知らなかったというか見ていませんでした。

もう少し後のパートには簡単な瞑想の方法が出てきますが、それをやってみた時に初めて
両掌が暖かくなって、熱が自分の身体から発せられている事を感じ取ることが出来、
「これが私の身体から発しているエネルギー(熱)なんだなぁ」と実感しました。
きっと、普段からヨガなり、ジョギングや水泳なり、呼吸に意識を向ける運動をしている方は
すぐにその「エネルギー」に気が付けると思います。 
そして「エネルギー」が、思考や身体とはひっついていない別個のもの、という感覚も
体感で理解できると思います。←この体感、めちゃくちゃ重要です。

「エネルギー」が身体という入れ物におさまってる、それが”いまここ”にある自分。
「エネルギー」は形を持ってない。
この「エネルギー」を「魂」と言い換えた方が、日本人的には解りやすいかもしれませんが
それこそが「大いなる存在」なのだと、エックハルトは教えています。
(「内なる身体」=「エネルギー・魂」=「大いなる存在」)

この「内なる身体」は、本当は身体では無くて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ
とあるように、エネルギー(魂)と入れ物(身体)は別個のものだ、ということを理解でき
切り離して捉える事があたりまえになると、
うつ病なんか薬が無くても治せると、私は思います。
身体というエネルギーの入れ物と思考とを結び付けすぎて、
さらには思考に振り回されすぎて・とらわれ過ぎて・偏り過ぎて
暗黒面ばかり(自分の思考に)見せられてしまうことが、うつ病の原因といっても
きっと過言じゃないでしょう。
「頭でっかち」という言葉のとおり、思考ばかりが優先して先走って、状況や周囲が見えず
自分の脳内が勝手に作り上げた暗いストーリー(思い込み)にどっぷりとハマりこみ、
心や体をなおざりにしているうちに、機能不全を起こした状態(=うつ)といえるのでは
ないでしょうか。

苦境・辛い状況や、思うに任せない状態って、
結局は「その時の頭の中身・思考状態」です。
思考の背景によって決定づけられるイメージともいえます。
もうだめかもしれないとか、諦め状態の時、先々の悪い想像や見通ししか浮かばない時、
結局それは「頭の中で自分が作り上げたストーリー」にどっぷりハマりこんでいる。
以前も書きましたが「高次から見て出来事は中立」です。
出来事は必要があって起きている、という視点を持っていれば、殊更ネガティブに陥った後に
自分で自分を追い込むような事には、発展しないのです。

たとえば事故に遭った、病気になった、盗難に遭った、子供が不登校、非行に走った、
その他もろもろ何か事が起きた場合に
「悪い事がおこった!」と即座に決めつけたり・思わないのが賢明です。 とはいえ
なかなか難しいところではありますが。
なぜならそれは(高次から見て)悪い事、ではないからです。
悪いことだ!と感じてしまうのは、これも前に書いたとおり「思考の背景」がそうさせている。
世間一般常識、経験則に当てはめてるからそう感じてしまうだけの話。
「災い転じて福となす」という言葉がありますが、一見災難のようにも感じられるその出来事が
思ってもみない好転反応をおこすことだって十分ありうるのです。
なので一瞬落ち込んだり、悲しんだり、怒ったり・・というわいてくる感情については受け止め
解放してやる(決して我慢はしない。感情の抑圧は鬱になりますから)
で、ひととおり怒ったり泣いたりすればスッキリしますよね。
そのあとが肝心で、決してその出来事に対してわいた「悪しき感情」に執着を持たない・
グダグダ頭の中でその出来事を増長させないのが、とても大事です。

「悪しき感情」への執着=エゴの仕業だと、早めに気づくことです。

概ねそのような出来事が起きた時は「立ち止まって、休みなさい」というサインです。
当事者にとってもだし、その出来事を見て右往左往したり・仏罰だ!なんてファビョってしまってる
傍観者のあなたに対してのサインでもあります。 
「問題」と感じずに「いま」に在ることが出来る人にとっては、上記は問題にはなりません。
前にも書いたとおり「問題」にした人には本当にややこしい問題になっていきます・・
先のことなんてどう転ぶかわからないのに、悪い想像しかできずに対応したことで
さらに事をこじらせたり、長期化させたりするのです。
「いま」に在るなら、先のことはどう転ぶかわからないから想起しない。
不安は思考が作り出しているんだ、ということに早めに気付く。
そして自分の心身が落ち着けるような対処をとる。
とりあえずお茶を飲むとか、その時食べたいものがあれば採るとか、
体温が下がってるなら暖かくする、座ったり横になって休むなど
身体のケアをする(これらは「現実逃避」ではありません。大事なことです)。
そうして内なる身体・エネルギーにまず意識を向け・充電すれば心も落ち着いてきて、
冷静に状況を見ることも出来るようになるでしょうし、
慌てている時は絶対に見えてこない「抜け穴」をあっさり見つけたり出来るものなのです。
「ない」と思っていたものが「ある」ことに気づけるのは、落ち着いている時だけです。
そして出来事は「過ぎて」いくものであり、次なる展開への布石なのだと解るようになります。
一見ネガティブに思える事が、実はポジティブを開く扉だった!という気付きになることだってある。
だから「出来事は必要があって起きている」という視点をもつことが大事なのです。

瞬時に「悪事だ」と決めつけず、「中立だ」とまずは捉え、
常に「いま」にあることが大事なのでしょう。
↑こういうことを、本当は宗教が教えてくれたら一番いいのだけど、
宗教団体の多くはビジネスだからw
儲からなくなったら困るんで、本当に幸いな生き方や物事の見方は教えないんですね。
教えるどころか、それ今が活動のしどきだぞ!新聞・票取り!なんて焚きつける。
いいように吸い上げて、団体側の養分にしてしまうわけだからorz
まったく困ったもんですw

頭の中がネガティブでいっぱいのとき、身体もなんだか元気をなくすし、心だって冷えてくる。
するとちょっとした「現象」を、ことさら悪い兆しのように見てしまったりする。
「思考」と「身体」と「こころ」が別個の存在だと知らない間は
ネガティブな思考に囚われ~紐つきになって身体にも不調をきたし~紐つきになってる
こころも病んでいく・蝕まれる・・といった、負の連鎖状態が完成しがちです。
先にも書きましたがうつ病などは、その代表格でしょう。

けれど、実際は「思考」「こころ」「身体」はそれぞれが独立している。
そのことをしっかりと認識していれば「思考」が作り出したネガティブに、こころや身体を
支配され・蝕まれる事はなくなります。
エックハルトが何故「思考を止める」提唱をしているのか、ここで生きてくるというか、
その意味を理解できると思うのですが、
「思考」が作り上げた悪夢の物語に、こころや身体を
飲みこまれないようにするため
 だと私は認識しています。

自分を苦しめたり、追い込んでいるのは、自分の思考だと「ただ」気付く。
苦しんでいる時も、追い込まれている時も、自分の中に静かに流れている
エネルギーに目を向け・気付く事は、重苦しい思考にとらわれた状態に
風穴をあける一助になると思います。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

ブログの趣旨を変えた頃(2016年6月~)より、繰り返し書いている事ですが、
創価の矛盾に気付いて、活動をやめたり・脱会した方は
出来るだけ早く、創価問題から離脱されることをおすすめします。

親や家族や友人がまだ学会員で・・という事で悩まれている方も多いようですが
それは、あなたの課題ではありません。
文字通り「親や家族や友人」当事者における課題(じゃない場合もあります、当事者が喜んで
やっているのなら、それは問題でも何でもありませんから・・)なのであって、
あなたは悩まなくていいんです。
考える必要も実はありません。
あなたが考えてもどうにもならない事は、ちょっと頭を働かせたらわかることだと思います。

で、自分以外の創価問題で悩んだり憤ったりわだかまっている方は
それ(他人の創価問題)がなぜ自分をそうさせているのかを、自身に問うていくことが
あなたの課題です。
その問題がどう自分の生活を脅かすのか、自分をどういった面で困らせるのか、
自分の生活の質を下げているのか?と、掘り下げてみるのです。
するとおのずと解決策が見えてきます。
「その問題に関わらなければいい(意識を向けない)」 これだけです。

自分の人生は自分のものです。自分を生きるのは自分だけです(あたりまえ)。
その人生を、誰にも明け渡してはいけません。
私たち福子は長らく、宗教団体やその団体の長に自分の人生を明け渡してきた。
その癖が抜けきっていないうちは、組織と離別を決意してもなお
他者(親家族含む)の事が気にかかって仕方ない。
「自分」をおいてきぼりにし、他者のことばっかり気にして躍起になったり執着する
傾向があります。
そうすること(他者の創価問題をなんとかしようとする)を「救済」のように思っている・
まだ目覚めない親家族を助け出さない自分は悪意の人みたいに思っている。
実際はただのおせっかいなのにw
そして、それが創価時代の「折伏精神」と何ら変わらないことに気付いてない。
(過去の私が、まさに上記タイプでした)

他者を変えようなんて、思わなくていいし、それは無理。
他人を変えることに満足を見出すーそれはエゴの性質だと知ることです。

真の満足は、自分が自分を認められたところにしか存在しません。
他者にわだかまるよりもっと前に、自分が自分を満足させてあげられることに注力する。
それが自分を生きるための早道だと、私は思います。

あと、組織の事をgdgd考えているその状態は、あなたの生活の質をたいして向上させないと
思うのですがw いかがでしょうか。

悩める方には自分の事、自分の生活を大切にしてもらいたいなーと願っています。

(次回に続きます)