ニュー・アース 第三章(5)

幻想の防衛

疑いようのない事実というものは存在する。
たとえばあなたが「光は音より早い」と言い、誰かが逆だと言ったら、
もちろんあなたのほうが正しくて相手が間違っている。
あなたが正しいことは、稲妻のほうが雷鳴より早いことを観察するだけで確認できる。
だからあなたのほうが正しいだけではなく、あなたは自分が正しいことを知っている。
ここにエゴは介入しているだろうか?可能性はあるが、必ず介入しているわけではない。
あなたが真実だと知っていることを淡々と述べるなら、エゴは介入していない。
自分を同一化していないからだ。何に同一化していないのか?
心、ある一つの見解にである。しかし、この同一化はあなたの中にやすやすと入り込む。
もしあなたが「信じなさいって、私にはわかっているんだから」とか「どうしていつも私を
信じようとしないんだね?」と言うとしたら、すでにエゴが入り込んでいる。
エゴは「私」という簡単な言葉に隠れている。「光は音より速い」という言葉は依然として
真実だが、それが幻想を支え、エゴに利用される。
「私」という間違った意識に染め上げられ、個人化され、一つの見解、精神的な立場に
なる。
誰かが「私」の言うことを信じないと、「私」が軽視され、侮辱されたと感じる。
エゴはすべてを個人的に受け止める。そこで防衛感情や怒りまでもが生じる。
あなたは真実を防衛しようとしているのだろうか?そうではない。
いずれにしろ、真実には防衛の必要はない。光も音もあなたや誰かが
どう考えようと感知しない。
あなたは自分自身を、いや自分自身という幻想、心が作り出した自分の代替物を
防衛しようとしている。
(中略)

(思考ではなく)気づきによってのみ、事実と見解の違いを見分けることができる。
気づきによってのみ、正しく見ることができる。

こちらが状況でこれは状況に対して感じている怒りだと見分けられれば、違う対応が
可能だと、いいかえれば違う見かたや対処法があると分かる。
気づきを通してのみ、限られた一つの見方から解放されて状況や人の全体が見えてくる。

(p145-148抜粋)


本パートは初回読んだ際、かるくスルーしたのですが、読み返したら大事なことが端々に
書かれてあるじゃないか!と、驚かされました。
というか、エックハルト氏の本って全部、そうw
後日読み返して「ああっ!そうだったのか!」と、急に腑に落ちたりするのが常です。 

本文では「光と音の速さ」という絶対的な法則について書かれていますが、
たとえば”太陽が東から昇って西へ沈む”という天体法則について
それを誰かに話した時「違うよ!逆だよ」って反応をされたら、どう感じるでしょうか?
エックハルト氏が述べているとおりなんですが、「の言ってることが正しいのに」とか
が言ってるのになんで信じないのよ?」となったら、エゴの介入になるわけです。
法則の絶対性と真実に「私」を乗せることが、自己強化を誘うエゴの手段だというのだから
驚きますよね。 
でも、結構みんなフツーにやっていることだったりしてw
ここにエゴ(私)を介入させなければ「ネットで調べれば解るよねー」で、終わりです。
終わらないパターンは、調べて「ほらみたことか!の言ってたことが正しかったでしょ!」と
余計なおしゃべりを付け加えたり・口にせずとも内心相手に勝ち誇った気になる時でしょうねw

で、今回読み返して「怖いな」と感じたのは、
上記にあげた例は絶対的法則として存在する事柄ですが、
実際のところ真実かどうかよくわからない(証明はどこにもない)事柄にもかかわらず、
「絶対にこの教えが正しい」「最高のOO教、仏法」だとか「師匠の正義は弟子が証明する」などと、
自分たちの信条は1ミリたりとも間違っていないのだ!と、息巻いている人たちが
普通に世の中に存在しているということですw ・・って私も過去はその一員でしたが。
かの組織の人たちは批判を滅法嫌います。スルースキルもありません。
活動家時代の私も、批判してくる人間に対して好戦的であり、むきになることもありました。
その理由は、(私がそうだと思い込んでいた)法の「正しさ」を
相手に解ってもらいたい!・・というよりも
が信じているものを貶めてくれるな!」 という、エゴの働きだったと腑に落ちました。
だって、エックハルト氏の言うとおり「いずれにしろ、真実には防衛の必要はない」んです。
頑なにならなくても、相手をねじ伏せる必要なんてなくて
真実ならば、堂々と構えていればいいだけ。
誰が文句を言おうと槍を放とうと、太陽が西から東へ動くことはないし、音が光を超えることは
ありませんよね。 
・・まあ、かの組織教義においては、法則性・絶対性は一切担保されてないんですがww 
それにしても、本当に自信があったのならば、批判に取り合ったり戦うことなんてせずに
涼しい顔で微笑んで放っておけばよかったわけで。
だのに放っておけないのは「」の問題にすり替えているからです・・誰が?エゴが。

で、その個人的エゴを利用し発展したのが、集団的エゴ(組織団体)だということです。
私(たち)の信じてるOO」ってなるから、OOと自分を同一化してしまっているから
(われらのセンセー・・と、自己を同一化しちゃってる人もいますね) そりゃみな必死です。
私(たち)・われらの」がつかなければ、あんなに狂信的になることはないでしょう。
しかし、名言ですね 「真実には防衛の必要はない」 
これ、真実は一つ!と、正義(かどうかも実はよくわからないこと)の証明のためにと
昼夜戦い続けている人たちに、ぜひ教えてあげたいですねv
「敵は責めて責めて責め抜かなければどーたら」とか、鬼の形相の爺様スピーチが
もはや懐かしいですw

”こちらが状況でこれは状況に対して感じている怒りだと見分けられれば、違う対応が
可能だと、いいかえれば違う見かたや対処法があると分かる。
気づきを通してのみ、限られた一つの見方から解放されて状況や人の全体が見えてくる。 ”


この部分は、前回後半に書きました
「対人関係において相手に高圧的な・不快な言動をとられた場合」とも通ずる話で、
自己観察をすることで、<状況>と・状況に対して湧く<感情>を分けることが可能になり
一体化を避けられ、大局的に見て対処できるということです。
エックハルト氏が「ストーリー(物語)」という表現を動画の中でときどき使っていますが、
<状況>+<湧いた感情>を完全一体化したものを指している・・と私は解釈しています。
そして、これ(一体化)はもう普通に誰もがやっていることですよね。
日常的に、家族や他人とのやりとりにおいて些細な事柄でむっとしたり、腹立たしいだとか
困惑を覚えることって、誰しもあることだと思います。
その原因の大半は私という自己意識=幻想に固執しているからだ・・と、
思考を止めて「今にある」を実践していくと、日を追って解るようになります。

自分の経験を書かせてもらうと、
「ニュー・アース」を読む以前の私は、物事は効率と合理性を考えてこなすべき、と
考えおり、すごくせっかちで・自分の計画が思い通りに進まないことに対して
とてもイライラしやすい人間でした。
日常のタスクも、この時間までにいくつ終わらせる的にプランしていました。
それが思惑通りにハマったときは「しめしめ」ですが、そうはいかない時だって当然あります。
例えば、先を急ぎたいのにママ友に呼び止められて立ち話が長引くとかw 
銀行にいくと五・十日でもないのに、なぜか異様に混んでるとか。
スーパーのレジが混んでる、自分の順番がきたのにレシート切れで待たされるとか。
そうなると私はイライラし始め、ATMでもたついてる人や何件も連続振込をしてる人なんか見ると
心の中で「さっさとしてよ!」と毒づき、不機嫌になっていました・・
「計画通りに動いてる私(という自己意識)を待たせないで!」とw非常に傲慢ですが。
スーパーのレジ待ちでも同じくですw
あと、うっかり忘れ物したとか・用事を一つとばしてしまったなんて時には、「もおー!」って
自分に腹が立ってうんざりする。 
まあ、とにもかくにも(自分が勝手に想定していた)ペースが乱れるとイライラしっぱなし。
他人に対しても、自分のエラーに対しても。
それが、思考を止めることを始めて1週間くらい経過したある日(昨年4月)、
窓口で手続きの必要があり郵便局へ向かったのですが、局まで来て忘れ物をした事に
気づきました。
それがないと、手続きができないものだからいったん帰宅しなくてはならず。
外出ついで、郵便局の後に別件で他のところへも行く予定でいました。
以前の私なら、自分に向かって猛烈に「馬鹿!」ってダメ出し、気分をひどく害したと思います。
けどこのときは、なんだか気が抜けて「あはは」と笑ってしまったのです。
自分でも驚きました。 あれ?!腹が立たない・・と。
私が私にダメ出しをしない! 
えっ?もしかして、今までダメ出しをしていたのはエックハルト氏の言っている「エゴ」?!
・・頭の中の声の、正体見たりー!
そして同時に、これまでどれほど自分を責めて生きてきたのかと気づき、泣きそうにもなりました。
また運転中、特に急ぐ必要なんか全くない時でも、常に焦って近道を行こうとしたり・
とろとろ運転してる前方の車に舌打ちしていることに、ある日気づいて驚いたんです。 
全く「いま」にいない状態で、”効率最優先”の自分がハンドルを握っていた。
事故に遭わなかったのは幸いでしたが。
それがもう常態化していて、わかっていなかったのです、全くの無意識でした。

一年経過したいま解ったことですが、「今にある」をやっていく中で
「私という自己意識」が薄まっていったというか、影を潜めたのではないかと。
ATM待ちやレジ待ちでイライラしたのは「」の計画どおりに物事が進まない!というエゴ。
忘れもので腹が立ったのも「」の計画が崩れた!というエゴ。
でも実際、の家事計画が崩れたところで、そうたいして困らない。
だのに「の計画」に殊更こだわっていたのは、
エゴが自己強化にそれを使っていたという事です。
自分を責め、追い立ててまで計画をこなそうとしていたのは、うまくいったとき
「そつなくこなせる・デキる」に酔っていたともいえましょうか・・誰が?エゴが。
(↑この背景には、主人に対して「専業主婦としてちゃんとやってますからー!」という
 意味不明の”は義務果たしてます感”もありました・・これまたエゴ。
 そしてもう一段掘り下げれば、実家の母や姉に対しての
 「私ちゃんと主婦業も子育ても出来るんです!」という、
 劣等感由来の、意味不明のスタンス?ポーズでもあったと気づきました。 
 そしてこの意識は「私がちゃんとしてるんだから、あなたもちゃんとすべき」という
 周囲に対する謎のエゴルール・押しつけがましさに繋がってたんですが、
 長くなるので、また別の機会にサンプルとして出しますw)
あと「忙しぶってる」が好きだったというか、悦に入ってた傾向もありますw
(忙しい私=充実した生活を送る私!という、よくわからない思い込み)
計画がうまくいかなかった時も、や状況周囲を責めて機嫌を損ねる・・誰が?エゴが。
今だから解るのですが、上記状況がエックハルト氏のいう
「ほとんどの人間の”ふつうの”精神状態には、狂気と呼べる要素が含まれている」だったなとw
念のため書き添えますが「計画を立て効率よく物事を進めるのは悪」と言っているのでは
ありません。 
その行動の最中にも、エゴがどんどん入り込んで機能不全に陥るパターンがありますよー、
という例としてご紹介しました。
ブログを読んでいる人の中には
「自分はそんなことではイライラしないし、他人を巻き込んだり・巻き込まれることもない」
という方もいらっしゃるでしょう。 そんな方はきっと、エゴが軽いのだと思います。

最近は、全ての物事を状況にあわせて何の計画・気合もなくやっています。
気が変わったら変更なんてしょっちゅうで、「やらねば」「やるべき」は排除。
自分を追い立て・苦しめるようなことは止めました。 
すると自分に対しても・周囲の誰に対してもイライラしない。
特に急がなくても計画がなくても、普通に目についたものから出来ることを
「いま」に集中して落ち着いてこなせば、スムーズに万事おさまるし、困った事態にもなりません。
そして、不思議なことに時間がとても緩やかなのです。
計画的にこなしていた当時、時間が全く余らなかったのに
同量のことがらをなにも考えず・流動的にやっている今のほうが余裕がある。
あれやらなきゃ、これやらなきゃと考え焦り動いていた時とは、時間の流れまで変わったというか。
シンプル&楽すぎて、なんでもっと早くこのことに気づかなかったのかと・・w 
タイトな枠に押し込んで自分を不機嫌・不愉快にさせていた犯人は、
まさかの私という自己意識だったと気づきました。

現在はスーパーのレジ待ちやATMの混雑、手間取ってる人を見たって、なんとも思いません・・
というか、たった今気づいたのですが、そんなシーンに出くわすこと自体がなくなりました。
専業主婦なので、もともと空いてる営業日・時間帯にしか行かないのもありますが、
(それでも以前は、度々もたつく人や・ずるく横入りをするオヤジに遭遇したりw
 私の順番になってまさかのATM調整中になったりとかw ありました)
エゴの私を怒らせる現象が昔ほど必要なくなったから、
そういったシーンに出くわさなくなったのでは?と勝手な解釈をしています。

エゴには燃料が必要で、中でも「怒り」は最も効率良くエゴを増強させることができるというのは、
以前紹介した通りです。
内面状態が外的状況に反映される、その仕組みについて、拙い例ではありますが
私がその効果を実感している実例のひとつとして、伝われば幸いです。

そして他人とのやりとりにおいても、「」が損なわれると感じることがなくなりました。
友人に対し、相談を受け親身にアドバイスや・悩んでいることに対しての紹介をしたけれど
後日、その友人は幾人もの人に同じ相談をしアドバイスを受けるだけ受けて、
結局何も前に進んでなかった・・なんて聞くと
「あのときののアドバイスは何だったの?時間返してよ」と思ったり。 
忙しい中、予定を開けたのに相手が大幅に遅刻をしてきて・・なんていうときも、
をなんだと思ってんの?とムッとしたりw 些細ですがそんなことも多くあり。
「ニュー・アース」を読む前は、対人関係においても「私という自己意識
=エゴが騒ぐのが日常茶飯事でした。
けれど、これも「今にある」を意識するようになって以降、エゴが騒ぎだすことが
徐々に減少していったように思います。
以前なら確実に”悪意”と受け取った他人の言動も、今はあまり気にならないというか、
悪くは受け止めなくなりました。 場合によっては相手のエゴに気づけることもあります。
するとそれは、腹立たしいことではなくなるのです。
例えばお門違いなマウンティングをしてくるような人に対しても、
「この人は、そうすることでしか自分を保てないんだな~」と解るというか・・。
相手の抱えている「重たい荷物」が、垣間見えるのです。
(重たい荷物=ペインボディと同義かと・・ 「ニュー・アース」第5章参照)
前回内容にもあったと思いますが、相手のそれがエゴだとわかれば気にならなくなり、
自然とスルーできるようになります。 

「私という自己意識」=エゴがおとなしくなると、本当に楽です。
なんで今まであんなに怒ってたんだろう?些細なことに腹を立てていたのだろう?
ひとりよがりに傷ついていたのだろう?馬鹿にされた!なんて悔しく感じていたのだろう?
と、不思議に思えるほどなのです。
誰にも何からも自分は侵されていなくて、ただここに「在る」のだと気づけた時、
そこにあるのは無の境地というか・・知ってる仏教用語でいえば「仏界」でしょうか。

エックハルト氏が動画の中でたびたび「プレゼンス(臨在)」という言葉を使うのですが、
思考を止めて、今に”ある”←この時生まれる次元のことを指しています。
そしてこのプレゼンスがあることで、幻の私=「エゴ」を引き離し、静寂に入れると語っています。
この臨在における静寂もまた、私の知ってる用語でいえば「仏界」なのかなー、と。

今年の3月に発売されたDVDブックで、プレゼンスについて語られています。
内容が非常に深く・良かったので、ぜひ見ていただきたいです。


いずれ記事でも紹介できればと思っていますが、文章化が難しい~。
先月こちらを見てから、なんだか全てが良い意味でどうでもよくなってしまい、
今回ブログの更新が遅れましたw

(続きます)
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