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ニュー・アース 第三章(8)

闘いは心の癖

他人に傷つけられそうになって自分や誰かを守る必要がある場合もあるが、
「悪を退治する」のが自分の使命だと考えないように気をつけた方がいい。
そんなふうに考えると、自分も闘う相手と同じことになってしまう。
無意識のままで闘うと、あなた自身が無意識に引っ張り込まれてしまう。
無意識つまり機能不全のエゴイスティックな行動は、闘っても退治できない。たとえ相手を
打ち負かしても、その意識はたんにあなたの中へ移行するか、新しい姿で現れるだけだ。
何を相手に闘っても、闘えば相手はますます強くなるし、あなたが抵抗するものはしつこく
存在し続ける。
あれやこれやとの「闘い」という表現を最近よく耳にするが、そのたびに私は、闘いは
失敗するに決まっている、と思う。
麻薬との闘い、犯罪との闘い、テロとの闘い、ガンとの闘い、貧困との闘いなどという。
だが、たとえば犯罪や麻薬との闘いが行われているにもかかわらず、この二十五年で
犯罪や麻薬がらみの違法行為は劇的に増加した。アメリカの刑務所の収容人員は
1980年には30万人足らずだったのに、2004年にはなんと210万人に激増している。
(中略)
闘いは心の癖で、そういう癖から生じる行動はすべて、悪と想定される敵をかえって
強くするし、たとえ闘いに勝っても打ち負かした敵と同じような、それどころかもっとも手ごわい
新しい敵、新しい悪を生み出す。

あなたの意識の状態と外部的現実との間には、深い相関関係がある。
あなたが「闘い」という心の癖にとらわれていると、あなたの知覚は極めてえり好みの強い
ものとなってゆがめられる。言いかえればみたいものしか見ず、しかもそれを曲解する。

そんな妄想のシステムからどんな行動が生じるかは、簡単に想像がつくだろう。
想像がつかなければ、今夜のテレビニュースをごらんになるといい。
エゴをありのままに人間の心の集団的な機能不全として認識すること。ありのままを認識
すれば、もうそれを誰かのアイデンテティだと誤解したりはしない。
また、エゴに反応しないで居ることも容易になる。個人的に受け止めることもない。
不満を抱いたり、非難したり、なじったり、おまえが悪いと決めつけもしなくなる。
誰も悪くはない。それは誰かの中のエゴ、それだけのことだ。

人によっては症状が重いかもしれないが、誰もが同じ心の病に苦しんでいると分かれば
共感を持てるし、優しくなれる。
すべてのエゴイスティックな関係につきものの波乱の火に油を注ぐこともない。
油とは何か?反応だ。エゴは反応を糧にして肥え太る。

(p165-169抜粋)


(中略)の部分には、医療行為の事が書かれています。
日本においても「病魔」なんて言葉を使いがちだし、「闘い」は創価脳時代は日常茶飯事orz
「闘わない」なんて選択肢があることを、まず認めていませんでした。
闘ってナンボ的な世界観。

ニュー・アースからは離れますが、ことし読んだ本の中に、ガンに闘いを挑むというよりは
ウェルカムな姿勢を持つことで、治癒に繋がったというお話がありました。
ガンを悪とみなすのではなくて"いらっしゃい。仲良くしようね!”と、赦す心持ちで
治療を受けたり日々を過ごすのと・敵ととらえ憎しみを燃やし、執念のもと成敗してやるわい!と
問題意識で治療するのとでは、結果が違ってくるというのは「なんか解るなぁー」と思ったのです。
普通~に考えて、どっちが気力体力・心持ちの消耗が少ないか?ということです。
問題意識からの取組みでは、結果に一喜一憂することも多くなりますものね。

病気ではなくても、たとえば身近な人物にうっすらとでも敵対心を抱いてしまった時、
気力の消耗、結構ありませんか?
私は以前、まさにその悪しきパターンにはまっていてw
相手の一挙手一投足が気にいらない・・いらつく!なんて無駄にわだかまっては疲れていました。
嫌いなのに・イヤなのに意識してしまうという矛盾w
直接相手と闘うことはなくても・そんな気はなくても、相手を「敵」とか「悪」とみなしている間は
なーんか、気が抜けないと言うかw 
「気を張っている」から疲れるんですよね。ある種、興奮状態。
それが当たり前の無意識状態にあった時期が、長期間に及んでいました。
以前も紹介したトラウマちゃんの話(この記事)と繋がってくるのですが、
(もと)創価脳は「闘い癖」をつけられている方が多いように感じます。
たとえ組織から抜けたとしても「闘い癖」は、それに気づかない限り、カビのように生き続けます。
常に何かに怒りや不満をもつ興奮状態を維持することで、ストレスホルモンを下げるという
悪循環。 
信じられないことだけど、自ら進んで機嫌の悪くなる状況を選ぶのです。
それ違うよ!ってことに気づかないと、いつまでも生き辛い、しんどいまんまです。

”たとえ闘いに勝っても打ち負かした敵と同じような、それどころかもっとも手ごわい
新しい敵、新しい悪を生み出す。 ”


インフルエンザワクチンなんか、まさに↑これですよね。毎年パターンが変わるというし、
予防注射の出始めは「昨年より強い」が決まり文句になっているような・・?!
普段から手洗い・うがい・保湿などで心がけておくことも大切ですが、かかってしまったときは
「そういうものか」と受け入れて、しっかり休息をとる・できること(通院、栄養、水分補給)を
淡々とする事かと思います。 そこにマイナス思考は挟まない。
「予防注射しとけばよかった!」と後悔することもいらないし・「予防注射うったのに何なの?」
と訝ることもいらない。 ただ、シンプルにとっぷり休む。
どんな病でも、おなじことがいえるかと。

”あなたの意識の状態と外部的現実との間には、深い相関関係がある。
あなたが「闘い」という心の癖にとらわれていると、あなたの知覚は極めてえり好みの強い
ものとなってゆがめられる。言いかえればみたいものしか見ず、しかもそれを曲解する。”

それを=妄想のシステム、と。 
創価脳時代、まさにこのシステムにハマっていましたw
みたいものしか見ない、なんてそのまんまですよね。
ネットは見ない。組織からの情報のみw
または、組織からドロップアウトしたり脱会した人の偶然にも不幸な例ばかりを見聞きする。
安穏と暮らしている人だってごまんといるのに、そんな例は絶対意地でも参照しないし、
なんなら「今はそうかもしれないけど、将来はわからない!」なんて恨みごとをいうw
常に「いま」しかない事を理解していないから、そんな寝言をいうんですよね。

また、私はアンチに転じてから異常なほどに高齢学会員の困窮を耳にする機会が
多くなっていました。 
以前の居住地では同世代の学会員が病死、事故死、お子さんが大病と
ほんと「どうかしてるぜ?!」と思うほど、ネガティブな話題しか記憶にないしw
良い話を耳にしたことが、見事になかった(・・聴こうともしてなかったかもしれないw)
それも、今思えば「みたいものしか見ない」だったのかなぁ、と最近感じるようになり。
全ては「たまたま」というか、陰陽はどこにでもあって、”学会員だから”とか
”一般人だから”とか、それは関係ないし無意味なんですよね。
近頃は組織ときっぱり縁を切ったこともありますが、そういった話題を一切耳にしなくなりました。
もし耳にしたにしても「それは本人の日ごろの願いがかなっての状況」という感想です。
自分の信じたことが真実になっていってる、それだけのことだから。

前にも書きましたが、くれぐれも「過去世の罪業」なんて自ら背負わないようにしてください、
ここを読んでおられる方はw
そんなもの、ないのです。 
悪い思いこみは持たないことです。

”エゴをありのままに人間の心の集団的な機能不全として認識すること。ありのままを認識
すれば、もうそれを誰かのアイデンテティだと誤解したりはしない。
また、エゴに反応しないで居ることも容易になる。個人的に受け止めることもない。
不満を抱いたり、非難したり、なじったり、おまえが悪いと決めつけもしなくなる。
誰も悪くはない。それは誰かの中のエゴ、それだけのことだ。 ”


こういう目線を持てれば、本当にどれだけ・どれほど心穏やかにいられるでしょう。
上記が、キリストやブッダが「人間」に伝えたかった境地とも言えるのではないでしょうか。
「誰も悪くはない。それは誰かの中のエゴ、それだけのことだ」 なんて。かっこいいw

”すべてのエゴイスティックな関係につきものの波乱の火に油を注ぐこともない。
油とは何か?反応だ。エゴは反応を糧にして肥え太る。”


この部分は、以前紹介した「ニュー・アース第三章(2)」のこの部分とも通じます。

”あなたがエゴという無意識を相手個人と同一視したとき、その相手は敵になる。
反応しないのは決して弱さではなく、強さである。反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見過ごすこと、いや見抜くことである。
エゴを通してすべての人間の核心、本質である正気を見抜くのだ。”


反応しない、というのは世間一般的には「ずるい」事のように思われがちだったりしますが
実は見過ごすことは=見抜くこと。
以前から何度も書いている例として、世間一般の方がソーカ問題にあえて触れない様にしたり・
選挙を頼まれても優しい嘘で「わかった、OOさんね覚えとくわ!」と表面上は学会員を喜ばせ、
敢えて矛盾を突いたり闘いを挑んだりせず、穏便にあしらうのは、
「君子危うきに近寄らず」の実践です。
反応して火に油を注がない様にしているのですね。 へたにロックオンされないようにw

エゴは反応を糧にして肥え太る 昨今で言えば炎上商法もそれにあたるかと。
今年の夏、某おそうじ棒で有名な女優さんが俳優のご主人を題材(?)にしたブログや動画を
連日UPすることでワイドショーをにぎわせていましたが、
世間の反応・フォロー数やら再生回数だのに呼応するかのように、エスカレートしていくさまが
見てうかがえました。
規約の問題や法的手段に訴えられたあたりから、トーンダウンしたので何よりでしたが、
世間が騒げば騒ぐほど、ヒステリックに感情的に、高ぶっていく様子を見ていた当時
「エックさま(←私はこう呼んでいるw)が言ってる通りだなぁ」と、深く感心した次第です。
きっと心底から冷静になった時、「あれは私ではなかった」と、
エゴにとりつかれて半狂乱になっていた2017年夏の自分に気づくのではないでしょうか。

繰り返しですが、心がけたいのは深い「落ち着き」です。
いついかなるときでも、自分の中に確かにある静けさ(プレゼンス)に気づくことです。

で、また創価脳あるあるになってしまいますが
良くも悪くも、(エゴに)「反応」をしやすい人が多いように思います(以前の私がそうでした)。
それは「全ては自分が源」という教えがベースにあったからでしょうね。
まあ、間違いではありません。
でも、全てを自分のせいにしてしまうことは違うのです。
ここをうまく文章で表現できないのがもどかしいのだけど・・誤解曲解を承知で書くと
「自分の」せいにしてしまった時点で、それはエゴに囚われていることになる。
いろんなものを自ら背負わなくていいよ、ってことと
気分よく過ごすのも・悪くするのも自分次第です、ということです。今の私が書けるのは。

「問題から目をそらすな!」だとか
「問題を先送りしたところでまた同じ問題を繰り返すぞ」などの、
指導だとかありますが・ありましたが
これ実は・・問題にした瞬間から問題になるだけなのであって、問題にしなければ問題じゃないんです。
全てがそうなのです。
禅問答みたいですけど。
ここに気づいたら、本当に楽ですよv 
エックハルト氏も、津留さんもそれを仰っているのだと私は受け止めています。


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トップ画像を10月から更新しておらず、新しい記事が更新されていることに気づけなかった
とのコメントがありました。 すいませんw
この景色写真が気に入ってしまったので、しばらくこのままで行こうと思います。

師走に入りますね、多忙な次節ですが風邪など召されませんよう。

年内あと2回くらい更新したいと思っているので
トップ画像はそのまんまだけど、たまに覗いてくださいね~v

(続きます)

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