2017年 感謝

2017年も、拙ブログをご覧いただきありがとうございました。

相変わらずのマイペースな更新に加え、
今年は5月に(いい意味で)すべてがどうでもよくなるという経験をしw
またまた更新が遅れがちでした。
にもかかわらず、見に来てくださった・読んでくださった皆様、ありがとうございますv

(※この記事のひとつ下に、12月25日更新「ニュー・アース第三章(9)」あります。)

さて、前回予告通り2017年に読んで面白かった本を紹介します。
全部スピリチュアル系で怪しくてすいませんw

けど、物事の見方・自分を取り巻く環境の捉え方・視点や心持については
そこらの自己啓発本なんかより、ずーっと勉強になると私自身は思っております。

ひとつめは、以前記事でもすこし触れましたこちら。


いわゆるチャネリング本ですが(怪しいなw)、内容に度肝を抜かれました。
チャネリングについてはwiki参照

私はこういった類の事柄を一切受け入れないタイプでしたし、まず疑ってかかるほうでした。
昨年、バシャールの本を読み、その流れでこちらの本を知って読むに至り。
wikiにも書いてある通りですが、チャネリングの源流(?)を作ったともいえる
最初の出版物です。

単純にチャネリングで降りてきた内容のみにとどまらず、チャネラー
(ジェーン・ロバーツさんという女性)と、その内容を記録していたご主人、
周辺人物やチャネリング時の状況、時代背景のことも含め詳細に書かれてあるので、
本が分厚いのはそのせいもあります。
私は途中から、チャネリング部分(セス=宇宙存在が語っているところ)だけを読んでましたw

何に一番感銘を受けたかといえば、セスの語りの内容に一念三千・因果具時と思しき解釈が
出てきたところ。
1972年のアメリカで、仏教がどのくらい浸透していたか定かじゃないですが、
ジェーン・ロバーツさんはもともとローマ・カトリックの教えの影響を受けていたとのことで
仏教徒ではないのです。 なので彼女の素養から出てきた内容や言葉ではなさそう。
だったらどうしてこんなことを知ってる?! 語れるの?
やっぱり宇宙存在・・人知の及ばぬ高次の存在はいるってこと?あるってことじゃないの? と、
私はとてもワクワクしたというか・・興奮したんですねw
「カルマ(前世の業)は無いし、それを理由に帰依をあおる宗教はろくでもない(要旨)」と言いきった
個所もあって、この本がもっと早く日本に入ってきておれば、カルト宗教が蔓延しなくて
すんだんじゃないの~!?と、思ったりもしたくらいです。
(ちなみに日本に入ってきたのは1999年・・遅すぎます)
ちょっと脱線しますが、日本人が過去の罪障消滅だのカルマからの解脱だのという
カルト宗教のうたい文句に騙されやすかったのって
「敗戦国の負い目」が過剰にあったせいなのかなあ?とも。 時代背景も重ねてそう感じます。

すべての可能性が、過去現在未来も含めてすべてが「(いま)ここ」に存在している。
たとえば3つの選択肢があったとして、3つともの結果・状態は同時に存在する。
仮に今選んだのは1つだと認識していてもほかの2つも同時に存在するのだーという事柄が
書かれている個所を読み(「確率的偶然の体系、人類、神々」章 p424~あたり)
私は目からウロコが落ちました。
(前半部分に長々書かれている時間と空間と物質の関係性について読んだ後だから
 すんなり腑に落ちた、ともいえるのですが)
その時頭の中に浮かんだのは、時間軸があみだくじのように上下縦横につらなっている画でした。
まさにそれが、一念三千・因果具時の世界・私的解釈とリンクしたんです。

私の人生の中で、いくつか「あの時あっちを選んでおればーなんとかしとけば」
という事柄が以前あって、大学進学と・結婚前の恋愛のことです。
どちらも自分に情熱が足りなかったということなんですがw あの時こうしておけば・・って思いが
常にではありませんが、時々頭をもたげることが、それまでにあったのです。
けど、どの結果・状態も同時同列に存在しているーという事にちょっと驚いた&嬉しくなりました。
嬉しいって言うと、おかしいけどw
たとえば・・憧れていた志望校に受かっていた、という結果もちゃんとあって、私はたまたまそれを
(観測者として)見れなかっただけで・その状態も実は同時にあった・ある(?表現が難しい・・)
ということに、どこか希望を感じたというか。
合格で笑ってる自分ー不合格で泣いてる自分ー補欠合格で青白くなってる自分、
全部同時に存在していた(いる)。
あの時笑えなかった・泣いた自分「しか」いないって思ってたけど、なんと笑ってた自分も存在するのか!
そのアナザーストーリー(?)見たかったわ!って思うけど、そこに悔恨を抱くのでなく、
「全部の原因結果が存在している」ことにフォーカスすれば、可能性が無限大だとわかると思います。
「これしかない」「これしかなかった」って自分が勝手に制限するから・決めつけるから、
拗ねたり悔しいままなんですよ、きっと。
行きすぎると、それで人生を不意にしたり、晩年を汚す人も多いですよね・・ただの思い込みに
囚われて。 不幸なことです。

ひとつの結果状態の先にはまだ、枝葉の選択肢が連なっている。
そこで笑っている自分も怒っている自分も、悩んでいる自分も同時に存在する。
実はすべてがつながっていて、どれを自分が「見ているか」という話ーって思えば、
過去を「ああしておけば、こうしておけば・・」なんていつまでも思い煩うことが
まったく不要なことだったなと、合点がいったのです。

また「現実に檻を立てているのは自分の思考」であって、本当は自由なのだ、それを知らないだけだ・・
という示唆にも感銘を受け。
自分は人生(という物語)の実は観測者であって、見たいもの(ストーリー)を見ている・
見たい状態を見ようとすれば見れるんだ・・と、教わったといいましょうか。
(余談:バシャールの本にも、そのような示唆はいくつかあります。波動をあげる、
鏡は先に笑わない・・など)
今まで単純にそれを知らなかっただけ。
これからは、見たいものを見ればいいんだ!ってことに希望もわいてきて。
(逆にいえば、見たくないものは見なければいいー選べるってこと)

私が好きな曲に「その目が見たから世界は生まれた」という詞があって、
それまで何気なく(意味を考えず)聞き流していたけど、セスブック読了後に聴いてはっとさせられ
「この事かな?」と思うようになりました。 真相はわかりませんがw

二つ目は、絶版のこちら。


私的に今年一番面白かった本です。
著者のヴァジム・ゼランド氏はロシアのもと量子物理学者です。
「振り子の法則」とあるように、人生を何者か・大きな力に振り回されないための指南本です。

出てくる用語が難解というか、よくわからないところもあるんですが
私がこの本から得た一番の収穫は「過剰ポテンシャル」と「重要度を下げる」についてでした。
もう、思い当るところがありまくりで。
文字どおりなのですが・・「過剰なポテンシャル」は、いい結果をうまないよ?ってお話。
たとえばすごい力んで何かに挑戦すると失敗しやすいってこと、多いですよね。
逆にリラックスしているほうがうまくいったり、頑張っていない時のほうがよい結果が出たり。

で、創価脳あるあるになってしまいますがw 常に「リラックス」とは無縁でしたよね。
過剰なポテンシャルがあってナンボな世界だったし、むしろそこに極まれり(?)の、
やるぞー!やる気だせー!気合いだー! 圧がすごいw
祈る、という行為ひとつとっても、背筋を伸ばして・腹から声出せみたいなw
”諸天を揺るがすような祈り!”とかって、血管切れそうな題目あげてた婦人部の皆様w
まあお元気でなによりです(微笑)。
最近のことはわからないけれど、私が子供時代も・大人になってからもどのようなシーンでも
「張り詰めたような緊張感」をもつことが是とされていた・・気がします。
程よい緊張感ではなくて、ビシッ!とした状態。北朝鮮的な?w
しかしその「緊張感」からくる「力み」が、成功やよい結果を遠ざけている・・という
嘘のような本当の話。

非常~につまらないことかもしれませんが、実例を書きます。
この「過剰ポテンシャル」という概念を学んですぐ、争奪戦のライブチケットの先行予約が
続きました。
以前の私なら「絶対当ててやる~!!」と意気込んだし、神社でも願をかけたでしょうw
また、発売日はいつ?などの情報を逐一チェックしたと思います。
そして予約が開始されたら初日の開始時間すぐにネットにつなぎエントリーをし、
当落結果発表の日はスマホを握りしめて「まだか?まだか?」と結果を気にしたことでしょう。
その行動を、一切やめてみました。
振り回されないことにしたんです。
予約開始の翌日くらいにエントリーした後は、一切情報に触れず、極力興味をむけず。
申し込んだこともなんなら忘れたくらいのノリでw
当たったらラッキー、あたらなかったらご縁がなかったって事だよねーとeasyに構えて。
そもそも、ライブが見れなくたって死にませんしねw 
「重要度を下げる」という事柄も出てくるのですが、まさにそれで、
一喜一憂しすぎないように・・エックハルト流にいえば「エゴに振り回されないように」
ふるまってみました。
この方法で、行きたかった全公演のチケット当選をGETし、驚いた次第です。
ええ、もちろんたまたまかもしれませんw 
知人には家族や友人のアカウントを使ったり・先行申し込みの手段をいくつか駆使して
複数申し込みをしたのに1つも当たらなかった、リセールさえかすらなかった、という話も
あったほど争奪戦だったにもかかわらず。
以前の私なら、同じく複数アカウントやら、GETするためならばあの手この手と
使ったでしょうが、そんなことをしなくても狙った公演すべて入手できてしまいました。 

この結果を手にして思い出したのが、青年部時代、某バンドの解散ライブチケットが欲しくて
5時間唱題したり、なんやかんや頑張ったのにダメだったことでしたw
この際だからとダフ屋から買うつもりでいたら、ライブ当日と社内旅行がまるかぶりで
結局まったく見に行くチャンスを失ったという。
どんだけ過剰ポテンシャルで挑んでダメだったかを、思い知らされるかたち。
他にもこのような些細な例が山ほどあるんですが、割愛しますw

「執着」「執念」が、よい結果を生むとは限らない。手放しなさい・・っていうのは
エックハルト氏の教えの中にもありますが、「重要度を下げる」とは
同じ意味なのではないか、と。

シリーズで4冊ほど出ており全部読みましたが、私的に物事の見方・接し方に役に立ったのは
この1冊だけでした。 
普通に手に入らないので、興味のある方は図書館で借りるか古本屋さんで探してみてください。

最後はこちら。


以前記事でも紹介したとおりですが「愚痴を言わずにプレゼンスを招く」
この言葉を聴いて以降、私の人生観がまたひとつ・大きく変わりましたv
いい意味ですべてがどうでもよくなってしまって・・以来、本を読まなくなりましたw

それまで(今年の春先まで)、願望実現のための秘策?!を、スピ系の本に
求めていた面がありまして(探究心から、セスの本やゼランド本を読んだともいえます)
それが、どーでもよくなってしまいました。
「願いはすべてかなっている、すでにかなっていた」ことに
気づいてしまったといいましょうか・・。
文章にするには、もう少し思索と時間が必要なのですが。
来年の宿題にしておきますw

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前回も書いたことなんですが、人生に「拗ね」はいらないんだなぁ・
「拗ね」てたら、ろくなことないんだなぁーってことも、上記3冊から学んだことでした。
ゼランドの本にも繰り返しそのような事柄が出てきまして
(「拗ね」というフレーズはでてこないけど、
「世界」に対して自分のスタンスをどのように見せたらいいか、が書いてあります。
めちゃーくちゃ、私にはそれが面白かった!)
とどのつまりどうあればいいかっていえば、「プレゼンスにある」事につながるんです。

どんな事柄も、「物事は物事」としてシンプルに接することです。

不安な時は
「まだ何も起こっていない」ことを認識すること。

起こってもいない不幸や不運や最悪の結果など、想像&妄想力を爆発させないことですw

これいちばん大事。

そして”ある意味”、自分のことだけ考えていれば大丈夫です。

2017年は驚くほど、私は自分の思いのままに毎日を過ごしました。
行きたかったライブチケット全当選にとどまらず、ハワイにも行けたしv
大したことじゃなくても・自慢みたいになるので詳細は控えますが、
ふさわしい時に、ふさわしい事がやってくるという経験をいくつもしました。

振り返って一番の驚きは、家族全員一回も病院のお世話にならなかったことです・・!
みんなすこぶる健康でした。
こんな年、結婚して十余年、今までなかったw
特に、神経質で緊張すると体調を崩しやすい長子が、ずっと絶好調でした。
母親の私が精神的にゆったりしていたというか、緩んでいたのが影響したのかなと
感じています。

別に、大金はたいてどっかのスピリチュアルマスターwのセミナーに出なくても、
ヒーリング受けたりしなくても、パワースポット廻らなくても、何かに必死にならなくても、
自分が「ただプレゼンスにある」だけでいいんです。
何度か「ニュー・アース」記事でも書いてますが「落ち着く」、ってことです。
(ちなみに私はエックハルト氏のDVDは、上記に紹介した1つしか持っていません。
 他の動画はYouTubeで拝見してます)

自分がエゴに気づき・惑わされず穏やかでいること・わだかまらないでいることが、
自然と良い状態を生み、それが自分を取り巻く世界に伝搬していくというのは本当だと、
より実感できた2017年でした。

またもえらく長文になってしまいましたが
一人でも悩める方が、少しでも気持ちを楽にするきっかけを
これからも伝えられたら幸いです。
2018年も相変わらずのペースだと思いますがw よろしくお願いします。

良いお年を迎えてください。ありがとうございました。

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ニュー・アース 第三章(9)

平和と波乱、どちらを望むか?

あなたは平和を望むだろう。平和を望まないものはいない。
だが、あなたのなかには波乱を、紛争を望む何者かがいることも事実だ。
今この瞬間には、その何者かの存在を感じないかもしれない。だが何らかの状況が
(それどころか、ただの思考が)、あなたの反応の引き金を引いたらどうか。
誰かがあなたを非難した、あなたを認めなかった、あなたのテリトリーに侵入した、
あなたのやり方をあげつらった、金品をめぐって言い争いになった・・・・そのときあなたは
自分の中で、何か大きな力が、たぶん怒りや敵意の仮面をつけた恐怖が盛り上がってくるのに
気づけるか?
声が荒々しく、あるいは甲高くなったり、何オクターブか低い大声になったと自覚できるか?
心があわてて自分の立場を防御し、正当化し、攻撃し、相手を非難しようとするのが
わかるか?
言いかえれば、無意識が発動した瞬間にその事実に気づけるだろうか?
自分の中に戦闘態勢の何者かがいること、脅かされたと感じて、どんな犠牲を払ってでも
生き延びようと望む者、
波乱のドラマにおける勝利者として自分のアイデンテティを確認するために
劇的状況を必要とするものがいることを感じ取れるだろうか?

平和よりも自分が正しい方がいいと言う何者かが、あなたのなかにいることを
感じられるだろうか?
 (p169-171抜粋)


この章は短いながらも、深~い内容。
誰もが平和や平穏を望んではいるけれど、ひとたびその「平和(と思われる状況)」を
乱す(と思われる)なにかが現れとき、簡単に「平和」を保つことを忘れて
戦闘モードにシフトするというのです。
静かに考えれば、「戦闘モード」に入ることは「平和」を守ることと
イコールではないってことが、理解できるでしょうか?
私は「ニュー・アース」を読むまで、それが殆どわからなかったタイプですw
異を唱える者が現れれば、むきになって「それは違うだろ」と態度を表明することが
防衛につながるのだと信じてたし、
そうふるまうのが「正しい」というか、当たり前のことだと無意識レベルでそうなっており。
声に出す・出さないはその場の状況に応じて変わってましたが、
たしかに「反応」をしていたことは間違いありません。

先日、とある人物とのやりとりで、戦闘モードに入らずに済んだ自分をふと発見したことが
ありました。
相手が一方的な思い込みで「このようにしたらどうか?」と、ある件について提案をしてきました。
私からすれば相手の思い込みは大変なお門違いで、何がどうなってその提案を??
「良かれ」と思って相手が言っているのであれば、何だろう・・
すごくこの人暇なんだなぁ~と、感じたのです。 
勝手にこちらの状況を「想像」し、その想像を基にしたおせっかいを言ってくるというか・・。
あれ?何かに似ているなぁって・・「自分の信じる正義」を押し付け・ふりかざしてくるそのさまは、
まるでソーカの折伏と同じでしたw
私も過去に同じようなことを他人様にやってきたんだなぁと、苦い気持ちもわいてきたりしてw

以前の私なら、いくらでも相手の一方的な善意を「悪意の人」と仕立て上げたと思いますw
相手がこんなこと言ってきた、何考えてんだ?勘違いもいいかげんにしろよ!って。
ママ友に愚痴ネタのひとつとして語り草にしたかもしれません。
けど、今回は相手が私に抱いている思い込みを眺めることができたし・
それは真実とは違うものなので
(私が現におかれている立場状況や所感とは全くかけ離れたものだったので)
穏やかに「どうぞお気遣いなく」というだけですみました。
「私」というエゴがうるさかった時は・・相手に皮肉を交えつつ抗議したことでしょうw 
おせっかいを通り越して失礼だ!侮辱か!プライドを傷つけられた!なんて内心わだかまって。
そんなのがもう、「ニュー・アース」を読む以前は日常茶飯事だったともいえますw
けど今は、見ているものが自分と相手では全然違うんだなぁってことが理解できるし・
同じ目線に立っていないことがもうわかるので、違うんだよ!そーじゃないんだよ!
お前の考えはおかしいんだよ!(←これは言い過ぎw)なんて必死に抗うような
闘争心wは、湧かないのです。
「まったくいろんな人がいたもんだな~」で終了です。

よく「同じ土俵に上がってはいけない」的な指南がされますが、ほんとそれ。
けど、相手を見下すとか「レベルが違う」みたいなレッテル貼りで溜飲を下げるとか、
そういうこととは明らかに違います。 
他者と自分の、見えている世界の違いをシンプルに認めるだけの話です。

波乱のドラマにおける勝利者として自分のアイデンテティを確認するために
劇的状況を必要とするものがいることを感じ取れるだろうか?


「私は正しい」を証明(?!)したいがために、トラブルらしき状況を欲している。
まさかと思ってしまいますが、こういった事柄も日常どこにでも転がっている気がします。
自分を悲劇のヒロインに・はたまた逆境どん底から這い上がるヒーローのように
ドラマチックに生きたい人は、それもありかもしれませんが、ねw

エゴを超えて:真のアイデンテティ

エゴが闘っている時、
そこで生き延びるために闘っているエゴとはただの妄想にすぎないことを知るべきだ。
そのエゴと言う妄想は、自分こそあなただと考えている。

そのとき「いまに在る」証人として状況を見つめることは、初めはそう簡単ではない。
エゴがサバイバルモードに入っているか、過去を引きずった感情的なパターンが作動して
いるときは特に難しい。
だが一度その感覚を味わえば、「いまに在る」パワーは高まり、エゴの束縛力は失われるだろう。
エゴや心よりもはるかに大きな力が、あなたの人生に生まれる。
エゴから解放されるために必要なのは、エゴに気づくことだけだ。
気づきとエゴは共存できないからである。気づきとは、いまこの瞬間に秘められた力だ。
だから「いまに在る」ことと表現できる。人間と言う存在の究極の目的は(それはあなたの
目的でもある)、この「いまに在る」力を世界に広めることだ。
それはまた、エゴからの解放が将来達成すべき目標ではないのはなぜかという理由でもある。
「いま、この瞬間」だけがあなたをエゴから解放できるし、あなたは昨日でも明日でもなく
「いま、この瞬間」にしか存在できない。
「いまに在る」ことだけがあなたのなかの過去を解体し、あなたの意識の状態を変容させる。

スピリチュアルな目覚めとは何か?自分がスピリット(霊)であるという信念か?
いや、それは一つの思考だ。出生証明書に記されているのが自分だという信念よりは
多少真実に近いが、それでも思考には変わりない。
スピリチュアルな目覚めとは、自分が知覚し、体験し、考え感じている対象はつきつめてみれば
自分ではないし、つねに移ろう事物のなかに自分自身を発見することはできない、とはっきり
見抜くことである。

これを明確に見抜いた最初の人間はたぶんブッダで、だからブッダの教えの
核心の一つはアナッター(無我)だった。またイエスが「あなた自身を捨てなさい」と言ったのは、
自己という幻想を否定(そして解体)しなさい、という意味だった。(中略)
この幻想の自己を捨てた時、残るのは知覚や体験や思考や感情が現れては消える意識の明かりだ。
それが「大いなる存在」、深い真の「私」である。

この「大いなる存在」としての自分を知った時、人生で絶対に重要な出来事というものはなくなり、
全てが相対的な重要性しか持たなくなる。
その出来事を尊重はしても、絶対的な深刻さや重さは、もはや感じない。
結局のところ大切なのは次の事だけだ。
人生という背景の中で常に「大いなる存在」という自分の本質、「私は在る(I Am)」という
ことを感じていられるか?
もっと正確にいえば、いまこの瞬間に「私は在る(I Am)」と感じられるか?
意識そのものとしての自分のアイデンテティ、その本質を感じられるか?
それとも起こっている出来事や心のなか、この世界で自分を見失うのか?

(p171-175抜粋)


このパートは何度も読み返したい。これまでのおさらい&基本中の基本が
書かれている個所だと思います。

私は最近、何事かに迷ったり悩んだりで時間を使うことが殆どなくなりました。
日常生活上AとB、どっちがいいかで迷うことはあります。
だいたい直感で決めますが、決めきれないときは
「今はえらぶ時期じゃないんだな」と即切り替え、保留にします。
gdgd考えなくても、必要な時に選択はおりてくるというか・・勝手におさまるべき方向で
決まるということがわかってきたので、そんなに迷う必要もなくなったのです。
なるようになるというか。
それは、「私が」考え抜いてだした答え!というような力みが・・「私が」というエゴに昔ほど
囚われなくなったってことかもしれません。
以前、ABの選択すら「我がのもの」と握りしめていたときはそりゃーもう大変でしたw 
損したくないしヘタこきたくないし、絶対後悔したくない!いちいちそんな思い入れたっぷりでいると
疲れます正直。 
うまくいった時はドヤ!と大喜びですが、ダメだったときは自責の嵐だったりしたしw
そこまで力む必要がなかったんだな何事も・・と、今はそういった心境でおります。

悩みに関しても、軽く「どうしたものかな」と思い煩うときはありますが
長引かなくなりました。
たいていが「私」ではない他者(というか、家族)の事柄ですが、私が思いあぐねたところで
どうにもならないんだってことが判ってしまったので、執着しなくなったのです。
私が悩まなくても・しゃしゃり出なくても、たいてい忘れたころに解決してますしねw
自分自身のことについては以前この記事で書いた
「愚痴を言わずにプレゼンスを招く」で、瞬時に解決ですw 
エックハルト氏がSNSでも時々短いメッセージを発信しているのですが
(ツイッター、インスタグラムがあります。興味のある方はご覧ください)
「物事はシンプルに」ということを、繰り返して伝えています。
まさにそのとおりで、わざわざ物事や状況を難しくややこしいものにしているのは、
自分(のエゴ)だったりするんです。
「今にある」を常態化していけば、そのうちわかるようになります。

上記も、生きている(とエゴが感じたい)実感や物語・・ストーリーを強く求める人にとっては
「そんなの無責任だ!」って見解になるんでしょうけどねw
(余談:過去、エックハルト氏のもとに、ビリビリに破いた「ニュー・アース」を
 送りつけてきた人物がいたそうですが、まさにそういった人は己の人生は
 ジェットコースターでドラマチックであってほしい・・と願う、
 自分のつくった物語にとりつかれていることを、認めたくない人なんだろうなーと・・)

何かを守ったりうまくいかせようと必死になったり、自分の考えで誰かを変えたいと願ったり、
そううまくいかず打ちひしがれたり、勝利の喜びに浸ったりと
ビビッドな人生を送りたい方は、もれなく悩みも迷いも抵抗もつきまといますが
「ニュー・アース」を読まずに、生きていったらいいと思います。

本文とは離れますが、私が20年以上応援している某アーチストの方がインタビューの中で
「苦節を経てセールス的に成功し・周りに称賛してくれる人が増え、お金も手に入ったとたん
 ”自分が望んでいたものは、こんなものではなかった”と憂鬱になった。
 全部自分が望んで欲しかったものだったのに」と語っていて、驚いたと同時に、
なんというかエゴの性質を見せられた気持ちになりました。
そのアーチストにとっては、理解者が増えず売れない不遇の状況や日々は確実に
「いい楽曲を作ってやる!」というモチベーションになっていたという。
安穏な状況が訪れた途端、スランプに陥ったというお話でした。
その後、また新たな悩みができたおかげでいい曲が書けたっていうエピソードもありw
アーチスト系の人は、エゴでもってアップダウンを繰り返すほうがいい曲が書ける場合も
あるんだな~と、思った次第です。
件のお方は存命ですし、精力的な活動を継続していますが
アーチストの中には絶頂期と思われる中で自ら命をたってしまう人も、多くいます。
ある意味、エゴに振り回されとりつかれーというのが特に激しい種類の人たちなのかも
しれませんね。

”結局のところ大切なのは次の事だけだ。
人生という背景の中で常に「大いなる存在」という自分の本質、「私は在る(I Am)」という
ことを感じていられるか?
もっと正確にいえば、いまこの瞬間に「私は在る(I Am)」と感じられるか?
意識そのものとしての自分のアイデンテティ、その本質を感じられるか?
それとも起こっている出来事や心のなか、この世界で自分を見失うのか? ”


ときどき今でも、自分が学会2,3,4世として長年生きてきたことを後悔されたり・
活動に熱心だったことを悔やんでいるーという内容のコメントをいただくことがあります。
私も、このブログを始めた当時は凄まじくその件について心に重い十字架を背負ってるような
苦しい気持ちでいました。
過去は消せないし・・いまさら、10代の自分に戻ってやり直すこともできない。
どうしてくれよう!!という、親や組織やいろんな方面にうらみがましいような思いと・
また組織の矛盾に早々と気づいていながら目や耳をふさいできた自分を責めていた面も
ありました。

でも、それって「私を構成する(重要な)アイデンテティ」だったんですね。
はっきりいえば幻想です。
過去にその道を通ってきたことは間違いないにせよ「いま」ではない。過去の話です。
それをいちいち・わざわざ十字架にして「いま」も背負ってるのは誰なのか?
何者かに背負わされているのではありませんよ、自分が勝手に背負っちゃってるんです。
自分がそんな十字架、ぶん投げてしまえばオシマイの話。じつは。

その十字架を、後生大事に背負っていなきゃならない理由は何なのか。
ぶん投げていいのに、投げない理由があるとしたら
自分の側に「背負っていないと不都合」があるからではないでしょうか。

「学会員の親の下に生まれたから私は不遇な幼少期を過ごしたんだ!」
これを握りしめておかなければ、自分は何かを失う・・。
そうやっていついつまでも、いい年こいた大人になってても、
永遠に拗ねていなければ「私」が失われる・・何かの整合性がとれなくなってしまう!
そんな思いに、囚われてはいないでしょうか。

大丈夫です、何も失いません。それどころか、なにも最初から持ってなどいませんw
「不遇なストーリー」を大事に握りしめたがっているのは、エゴなのです。

”それとも起こっている出来事や心のなか、この世界で自分を見失うのか? ”

ただ「私は在る」それだけのことなのです。

少なくとも、ネガティブなストーリー(自分の構成要素)は、必要ないから封印しちゃって
いいと思います。
うらみがましさも拗ねも、人生をいいものにはしません故。


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次回は年末記事・・ってもう年末だけどw
2017年に私が読んで面白かった本を紹介したいと思います。