非活決意 その後(5)

2013年1月。長子の新学期が始まり、園ママたちと新年会をしました。
冬休み期間のすごしかた・何処へ行った、誰と会った、買い物などなど話題は尽きません。
そんな中、毎年のように「初詣はどこへ出かけたか?」というお題がでるのです。
例年の私は「まだ行ってない。とんど焼きついでに行こうと思ってる」と答えるのが常でした。
行かない、とは言えませんでした。 理由をつっこまれてもややこしいからです。
今年は堂々と「OOだよ」と義実家の氏神(やや有名な神社)を回答。
すると一人が「そこって、OO成就で有名だよね」と。
そうなの?知らなかった~とこたえる私。
この友人が、パワースポットにやたら詳しく、どこの神様が何に効果があるとか
どこの神様はやきもちやきだから、何かのついでにお参りしてはいけない。行くならそこだけに
しないとダメなど、うんちくを披露。
周りに居た人達も、へぇーと興味深く聞き入り。
「こういう話って、嫌がる人もいるからするの微妙なんだよね」と友人は言いました。
でも今日はウケたから良かった、と。
”嫌がる人”って? =創価の人のこと?と、思いましたが口には出しませんでした。

マインドコントロール当時の私は、あちこちの神社を「パワースポット」などと呼び
参詣しまくる人の事を、心底バカにしていました。
”節操無し”だと思っていたんです。
そう思う根拠は、実家母の話と創価教学の知識。
悪鬼魔神の入り乱れたパワースポットに参りたおして、そんなの不幸の因を積んでるだけじゃん!と。
法華経だけでいいのに。ご本尊様だけでいいのに。馬鹿だよねって。
私が仏法対話しても、ふんふんと聞きながらこちらには入らず、初詣に行って来たよーなんて
気軽に話してくる友人を「空気読めない人」と思ったりもしていました。
随分と自分勝手で、我見に陥っていたと思います。
創価内部の人にしか通用しない理屈を、一般人の友人にあてがったって、どうしようもないのに。

また、父方の実家には立派なお仏壇(浄土真宗)があって、神棚もありました。
私の母はそのことを指し「節操なし」と言っていたのです。
神も仏もイッショクタにするだなんてありえない、邪宗ならではだ、と。
それを聞いて育った私は、組織における「日本古来の神様」の扱いとは
「全てが邪(教)」なものだと記憶したのです。

この頃、御書を通しで読むようになって気がついたことは日蓮大聖人の御書には頻繁に
「天照大神」と「八幡大菩薩」が出てくる(四菩薩も)。
「日本は神の国」という表記も出てきて、驚きました。
マインドコントロールにかかっていた時は、そんな言葉は目にしてもスルーされていたというか
全く気にとめませんでした。
御書講義や学習会でも、「神」の事を丁寧には教えてくれませんでしたし(私のいた地域では)。
唯一「御本尊様のなかに書かれてあるから、神社に行く必要はない」という説明はありましたっけ。

”日本古来の神様というものは、法華経の行者を護るはたらきをしてくれる存在”
自力で御書を読んで行くうち、そのように私は解釈しました。
それら神を「邪教」「邪宗」と軽視するような事を、大聖人が推奨しているとは思えない。
あくまでも法華経を最上のものとして、の話ですが。
事実、伊勢神宮を参られたさい「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ」と言われたと
ネットで調べもの途中に知り、ほお~・・と感心したのです。
皇祖神に対する崇敬の念が、日蓮大聖人の心中に確実にあったということを感じました。

しかし創価では、日本の神信仰も「外道」と教え、謗法の対象としている。
創価で聞いた理屈としては
「真実はひとつしかない。他の存在を認めたら、これが一番正しいとはいえなくなってしまう。
 だから謗法払いをしていた(している)」という事でした。
私が折伏した友人の家にご本尊様を安置の際、彼女の親族が別宗教を信仰しており(神様系)
その祭壇があったので、どうするか?という話になり
私が「謗法払いしなきゃだめですか?」と質問した際、幹部がそう言っていました。
この時は、彼女の部屋にご本尊安置することになり、祭壇のある部屋が1Fで
彼女の部屋が2Fだから(別宗教の祭壇の「上」にくるから)払わなくてもOKという話でした。
当時はそれほど疑問も持たず受け流しましたが、いま思えば
「他の存在を認めたらこれが一番正しいとはいえなくなる」って、なんと陳腐な理屈なのかと。
幹部の個人的見解なのか・創価の公式見解なのかわかりませんが・・。

覚醒数年前~今に至るまで、日本史の本を読み・知識を得ていくなかで気がついたのは、
創価で使っている教義背景には「神仏分離」の影響があるという件。
神仏分離は江戸~明治時代にかけての政策で、歴史の本などで同時にでてくる事が多い
「廃仏毀釈」は明治政府が神道国家教のために行った事です。 
それ以前の時代に於いては「神仏習合」であり、神社と仏閣が別のものという概念は
ありませんでした。
神社の敷地内に仏閣あり・またその逆もあり。神と仏は共存している、それが当然だった。
私がこの史実(神仏習合)を知ったのは本当につい最近(数年前)なのです。
「廃仏毀釈」という言葉だけは、学校の授業で習って知っていました。
が、どういうわけか「神仏分離」は記憶になく。
「神社」と「お寺」は、はなから独立した存在で・相入れないものだと、どういうわけか思いこんで
いました。 政治力で「分割された」という事実を知りませんでした。
だから創価でよく語られる「日本人は節操なし。正月は神社に行くくせに、葬儀はお寺の坊主に依頼」
なんて話を、さも当然のように私もしていました。
実際、日本において神も仏教も「共存」してきた歴史的事実があり、江戸~明治政策により
分けられただけ。
全くもって「節操なし」なんかじゃ無い、日本人が古来から親しんできた宗教習慣です。
こんな勘違いを創価脳に語らせてしまう原因は、学校教育が日本史を暗記科目に
なり下げているせいだと思います。
日本古来よりの宗教の歴史は本来ならもっとしっかりと、噛み砕いて教えるべき重要な
部分でしょうに。
さらっと用語を簡単に説明するだけで終わらせているから、結果的にカルトにひっかかって
しまうのです。

日蓮大聖人ご在世当時は、神仏習合の時代。
その時代に生きられた日蓮大聖人が、神を「外道」と表現し軽視すべき存在としていたとは
私には考えられないのです。
日本古来の神・皇祖神に対する崇敬の念をもって沢山の御書を認めている事は、創価のガイドに
依らず、自分で御書を読めばすぐにわかります。

そこを明治政府がすすめた政策(=時を経て現代では常識化)である「神仏分離」を
創価(または宗門?)が用い、内外相対の外道に神社(神道)をあてはめたのでは?と思うに
至りました。
これは日蓮大聖人の志とは違うことだと思うのです。
牧口先生も「神社は感謝の対象であって祈願所ではない」と仰っています。
創価をつくった人がそう言っているにもかかわらず、創価では神社(神道)を「外道」と教え・
神社参詣を禁じている。
一昔前は鳥居をくぐる事さえ禁忌とされてきたのです。
神社に対しての正しい知識や、創価学会をつくった高祖ともいえる牧口先生の見解
「神社は感謝の対象であって祈願所ではない」をはっきり明文化するとか・教学試験で教える
などは全くしていない。 
「現在の神社には悪鬼魔神が棲んでいるから行ってはいけない」うちの母は今もこんなこと言ってます。
こんなこと何十年にもわたって言ってるのって、無知を晒しているだけだと思います。
以前の記事にも書いたのですが、大聖人が悪鬼魔神入り乱れ・・とか、諸天善神が社を去ったと
仰った背景には、当時の世相実態があったのです。
日蓮大聖人ご在世当時がまさに「神仏習合」の時代であり、日蓮では無い他の仏教宗派・寺院が
神社を管理している状況下だったので、神社を参詣してはならないとしていたという説があります。
現代は「神仏分離」となり、殆どの神社が寺院から独立しました。
(一部、寺院の中にお社のあるところもありますが・・日蓮宗寺院にもいくつかあります)
なのでやみくもに神社を「邪宗」と排除するのは、お角違いなのです。
皇祖神(私たちの祖先)や、英霊(戦争で命を落とされた方々)への崇敬と感謝の念をもって
「私たちが今あるのはあなた方のおかげです、ありがとうございます」と神社にお参りする事は
(法華経を信仰する身であったとしたって)何も悪い事ではないし、謗法じゃない。 
しかしあえてそれを「外道」とし、すっかりと排除するのは、無知な会員を馬鹿にしているのか?
はっきり「神社は感謝の対象」と教えるべきところを、スルー推奨しているのは何故なのか?
そこには池田老人および同世代側近の「自虐史観」が強く影響しているんじゃないかと
私は思います。

いまの創価は、池田老人と仲間たちが先代・先々代会長たちの志を引き継ぐこと無く・
がらりと完全に作り変えたものだと言ってもいいと思うのですが、
戦前生まれ・敗戦国という「負い目」ありきで・自虐史観をもった世代の人たちが作り上げてきた
「池田創価教義」を、こんにちまで継承している。
だからおかしいのは当たり前で・齟齬も生じまくりなのでしょう。
この池田創価教義を理念にしたままで、公明党を存続したところで迷走を続けるだけです。
今現在も、安倍政権と連立を組んでいることじたいおかしいのです。
池田老人は安倍首相の考えの真逆を行く人なのですからw

政党を擁し・会員が選挙応援することの正当性を日蓮大聖人の「立正安国論」をもちだして
語っていますが、明確な国家観なくして政治を志したところで、どうしようもないんですよね。
国家観もないのにまともな「国政」なんて出来るわけが無い。
憲法9条改正に公明党が反対しているのがわかりやすい例だと思います。
国家観なんて皆無だから「国民議論が熟してない」とかいう斜め上の理由で反対するんです。
蓋を開ければ、お題目上げてれば、中国は攻め込んで来ない・北朝鮮のミサイルは日本に
おちてなど来ない。 外交は池田老人の名前を出せばOK。 
本気でそう考えている脳内お花畑な議員と支援者。
そんな現実を見据えない政党に、政治を任せていいわけが無いのです。
ナツヲ氏は「国民主権」って言葉だけはやたら使いますが、「国家観」については・・。
首相や国会議員の靖国神社参拝を「遺憾である」だの「近隣諸国への配慮に欠ける」だの、
のうのうと発言できる人間が、血税でご飯食べてるかと思うと私は許しがたいものがあります。
ナツヲ氏が本気でそう思って発言してるのか・用意されたセリフをしゃべってるだけなのか
知りませんが。 呆れてしまいます。

しかし、先月のナツヲ氏の発言に(憲法9条の改正について)
「(衆議院の任期のあいだの)今後3-4年は慎重さが必要」とあり。
あくまでも国民議論が割れる事に関して慎重に検討して行く、という内容だったようですが
私はこれ「3-4年のあいだにXデーがくるかも。そしたら9条改正賛成に転じる事も
あるかもね」と読んでしまいましたw
おそらくXデーを境に、公明党も大きく変わらざるを得ないでしょうしね。

余談ですが、実家の母にも神仏習合の話をしたのですが「そんなの知らない」と言い、
まず神信仰ありきの日本に、あとから仏教が伝来して云々・・というところから説明しないと
中々理解が出来ないようでした。 
というか、それを説明してもやっぱり「神社は邪宗だ!」という考え方は抜けないようですorz
私が偉そうに言えた立ち場でもないのですが(日本史をちゃんと学び始めたのはここ数年です)
創価教義が正しいと思いこんでいる方が、日本史をどのくらい理解しているのかが疑問です。
縄文時代、弥生時代、そんな「年号」と「主な登場人物」を知っているだけでは、日本史の知識が
あるとは残念ながら言えません。
日本国の始まりが神ありきで、そこに仏教が入ってきて、時代変遷の中で日蓮大聖人が登場したという
流れをふんでいくと、創価教学の破綻が解りやすいと思います。
というか、おそらく日本史に詳しい人ならまず創価に騙される事はないでしょうね。
部分史(江戸時代だけ・戦国時代だけ)のみ詳しくてもダメ。
通史で知ることが重要だと思います。

「創価がおかしい」と気がついて覚醒しても、学会2・3世の方々は学会教義の中で生まれ育ち
無意識のうちに「不信」につながるような外世界の情報を遮断してきた傾向にあると思います。
なので覚醒後はとても不安に陥るだろうし、一体何が正しくて何が常識なのか?
すでにいい大人の年代に達しているにもかかわらず、自分の一般常識のなさに愕然とされる方も
多いと思います。 少なくとも私はそうでした。
かなりの大人になってから、道筋を糺すのって大変です。 何に依ったらいいのかも解らない。
そのとっかかりとして日本史をいちから学び直す事をおすすめしたいです。
少なくとも私は、日本史(日本の宗教史含む)の知識を得たことが心の支柱になりましたし
外交・国防(沖縄)問題への見方も変わり、ニュースを聞いてもより理解できるようになりました。
創価に毒されていた時は、私は日本国民だという意識も薄かった。
創価で言われている通り”世界市民”だと思っていましたw 馬鹿でした。

だいぶ話が飛躍してしまったので、元に戻します。

2013年1月時点で、私は遥拝ごん行をしていましたが、
何よりも真っ先に「日本国の安寧」をご祈念するようになりました。
日蓮大聖人の精神とは「国護り」なんだと、日々御書を読む中で痛烈に感じたから。
大聖人の弟子ならば、最初に祈念すべきは日本国の平和と安寧でなければ。
創価でバリ活の頃は「現世利益」のみでした。 それって浅ましく・おかしいことだった。
御宗祖の精神など、どこにもなかったな・・と反省したのです。

そして、日々御書を読み進めて行く中で、いくつも「?」と思う事が出てきました。
日蓮大聖人が、すべての願い事をかなえるとは言っていない・甘い餌なんて与えていない事に
気が付き始めたのです。
そして日本史の本を乱読するなか、大聖人ご在世の時代背景と現代では常識も社会通念も
全く異なっている事も、気になり始めました。
しかしまだ、そこを突きつめて考える事はせず、私は「心のお守り」としての
ごん行・唱題を継続し、御本尊様への絶対心を揺らがせることはありませんでした。

(6)に続きます。
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