非活決意 その後(17)

学会3世の元活動家の幼馴染と対面をし、私が反創価に転じた事・創価と決別し個人信仰を
決意した・それが正しいと私は思っていると伝えた(前回の記事です)。
彼女からは同意を得られず、考えを改めた方が良いのでは?的な答えが返ってきました。

私はこの対面において、彼女を破折するつもりではありませんでした。
私と同じ考えを持って欲しいとか・覚醒を促したいと思った訳でもありません。

単なる好奇心というと軽率かもしれませんが、興味があったのです。
彼女からどんな言葉が返ってくるのか想像もつかなかったけれど、
完全非活を貫き・10年近くも完全に創価(組織)をシャットアウトして生きている人なのだから
私の決意も(その是非は別として)いったん受け取るそんな心のキャパシティがあるんじゃないかな?と
考え(期待もし)確かめたかったんだと思います。
その場の勢い8割、好奇心と怖いもの見たさ2割でした。
結果は私の予想がまったくの幻想だったと気付かされたわけですが。

以前も書いたのですが、彼女とのやりとりから、オウム逃亡犯の高橋被告を思い出しました。
高橋被告が逮捕の際、麻原の写真や本を持っていたり、マントラを唱えていたって話を聞いた時、
一般社会にまざって16年の長きにわたって生活し・教団とは連絡のつかない状態(?)で
縁遠かったにもかかわらず・
これだけ悪事を暴かれ、反社会的な凶悪事件を巻き起こしてきたことが報道により周知されていても、
一途に教祖を信じ続けて来れたなんてすごいな、洗脳って怖いよね~なんて、他人事のように
思っていた件です。
創価学会員も根っこの部分は高橋被告とまったく同じ。 自分だって同じでした。
一般社会に混ざって生活していても、創価の組織から離れ縁遠くなっていても、なんにも気づけなかった。
三世の彼女も同じくで、10年以上創価隔離生活をおくっていても、創価への絶対心を持ち続けていました。
以前紹介した矢野氏の書籍(黒い手帖)に「スリープ」という言葉が出ていました。
創価内部で活動に積極的でない会員を未活・非活などと表現しますが、
矢野氏はそれを「スリープ」と呼んでいました。 創価中枢で使われている言葉のようです。
私はこの「スリープ」という言葉が、実に深く・しっくりくる表現だと今になって感心しています。
創価に籍を置きながら様々な理由で積極的な活動は行わず・非創価を装って暮らしている人であっても、
いざという時には最後の砦のように創価を護ろうと必死になる。それは自己防御にも見える。
その理由は「創価を離れたら幸福は無い」「創価を離れたら不幸になる」という”刷り込み”
単なる思いこまされにすぎないそんな理由を、命を取られるといわんばかりの悲壮感で口にする。
これをマインドコントロールといわずして何と呼ぶ?ですよね。
スリープとはいわば仮死状態。アクティブではないけど、信仰を全く失った訳じゃ無くて
ショックを与えれば起きる。
件の3世の彼女も、私が口にする創価に対するネガティブでマイナスな発言を耳にしたら
仮死状態から「起きた」。
また、不幸な出来事に見舞われたり・不遇な状況に転落しても仮死状態から起きる事があるでしょう。
不安や不幸と紐付きになっている絶対心。
スリープという言葉に、人が特定の信仰に盲信的になってしまうことの愚かしさ・脆さを感じます。

”脱会者が1万人いたとして、その1万人全員が不幸になったとでもいうのか?実際見たのか?”
この問いに「見た!」と答えられる創価脳は、バリ活でもスリープでも、いないと思います。
「見たことは無いけど、先生(又は幹部)がそうおっしゃってる」「大聖人の御書に書いてある」と
答えるのが関の山でしょうね。
そんな現実味のない、ウワゴトみたいな理由を命を左右するくらいの勢いで信じてるんですから
やっぱりこれは、まぎれもないマインドコントロールなのです。
「創価を離れても不幸にならないし・仏罰なんてない」と思える人は脱会も辞さない。
親族周囲への影響を考え、すぐ脱会が出来ない人は覚醒者として非活を貫くという事だと思います。
↑この姿勢は完全なる「覚醒」であって創価で言う「スリープ」とは違う。
非活未活と、ひとくくりになんて実は出来ない。
そこには「覚醒者」と「スリープ」という真逆の違いがある。
両者は決定的に違うように見えるけれども、一切の怖れを無くすまでは、右に左にと揺れ動きます。

私がこの3月、自身のテーマだと思ったことが「オカルト(怖れ)からの脱却」でした。
前年の秋に偽本尊という言葉を知って以降、私は自宅の仏壇を開ける事ができませんでした。
見るのも気持ち悪く・おぞましい存在となっていたからです。
創価との決別意志はハッキリしており、いつでも脱会届を出してやるくらいの気持ちで居ましたが、
お曼荼羅をどうにかすることが怖くて、お曼荼羅を巻くことすら出来ないと思っていました。
まず触れるのが無理。 呪いでもありそう・・というような気持だったのです。
そして、生活面でマイナスな事が続くと、曼荼羅を無視している祟りなんじゃないのか?との思いに
覚醒から半年経過したこの頃に苛まれていました。
そう考えてもすぐ「そんなわけないじゃん」と打ち消すのですが、一瞬でもこんな考えが頭をよぎるのは
オカルト支配されている以外のなにものでもないと自覚。
40年以上も、生活における波の上下は信仰と紐付きになっていることが当たり前(という思いこみ)の
人生を送ってきた。 この思考習慣、そんなに簡単に抜けきるものではありませんでした。
ここで、決定的な不幸な出来事・事故がなにかしらあれば、私は
「やっぱり仏罰が出たんじゃないか」と、アンチ創価を返上し、細々とでも活動に戻ったかもしれません。
生まれながらにして「御本尊様は絶対、創価は絶対。裏切り者には罰が下る」という刷り込みをされて
生きている。
キリストを信じる方々は、神は創造主。人間は神がつくった造物と捉えています。神は絶対であり、
人生にどのような困難がおころうとも抗ったり逆らったりすることは出来ず、ましてや神を逆恨みするような
事もありません。 すべては神が与えた試練だからです。
学会2,3世における、創価や御本尊様が絶対だという思考回路も、どこかキリスト教と似ている気がします。
私たちは御本尊様に逆らえない。全ては過去世からの宿業。それを良く転換するには、仏の尊極の生命を
涌現する日蓮大聖人の仏法を用いるしかない・・それが学会活動になるというのが、学会2,3世における
逆境に立った際のトリガーなのです。

この3月末、車検に出したばかりの車が不具合を起こし、子供達と私で隣県へ外出の真っ最中に
ストップしてしまい、初めてJAFを呼びました。 
このような事は、一般的にそう珍しくは無いのかもしれないのですが、
私はまっさきに「偽本尊の祟りか?」と考えました(wと、文末に今はつけたい気分です)。
結局は整備不良でしたが、不測の事態に遭った時、ものすごく焦りました。
他、予定していた不動産取得が全く納得のいかない理由で反故になり、不運が続いたのです。
いま落ち着いて考えればそれらは誰人にも起こりうる話で、些細なアンラッキー。
命をとられるような類の事でもありません。
ただ、この頃は覚醒から半年。 
それまでは仏罰と感じるような事が幸いにしてなにもおこらずでしたが、
このアンラッキーの連続は私の心を暗くさせました。
理由として思い当たることと言えば(当時の私には)「偽本尊放置の祟り」しかありませんでした。

4月に入り、創価の信仰を持たない一般人のママ友に会った際「最近不運続きでさー」と
愚痴ってみたところ、彼女はさらっとこう言いました「OO様(神社)へお祓い行ってきたら?」。
私は、目からウロコでした。 そんな考えは私の中にありませんでしたから。
彼女は氏神様へ日常的に(気がむいた時に)参拝しているとのこと。
不運が続く様な事があれば、お祓いにも行くと。 それで気分がすっきりとし、心を引き締めることができ
安心もするのだと。
創価脳は”お祓いくらいで変われば人生苦労しねーよ”と思ってしまうでしょう。
このときの私も、半信半疑というか、すんなり受け入れることはできませんでした。
なぜなら、創価の教えは完全に表向き「テイク&ギブ」であり、内実は「テイク&テイク」だからです。
頑張るからこそ功徳が出る、という考え。
自分が何かを行わなければ(=創価に利する行動を起こさなければ)功徳はもらえないし、宿命転換なんて
成しうるわけが無いと言う教えでした。
だから、なにも(特定の組織団体に)利する「具体的行動」をしないのに、お金(初穂料)で解決し
御利益だけもらおうという「お祓い」という行為になじめなかったのです。

ここで私は
「やっぱり創価を悪だと考えたり、お曼荼羅を偽本尊だ!と思ってしまう事は間違いだった」と
折れたくなかった。
特定の宗教団体にいた人間が批判的な考えをもち決別を考えたり・その団体が配布している本尊を
「偽物」とし、拝さなくなることが原因で悪い出来事が起こる・・そんなのただのオカルトじゃないか、と。
私はオカルト支配に屈してなるものか、強くそう思っていました。
ここで引き戻されたら、元の木阿弥。 
狭い学会世界に幽閉され、搾取され続け、自縄自縛の人生を送る。そんな生き方は御免だからです。

ママ友からの「お祓いに行けば?」という助言から、ふと考えた事があります。
お祓いに対して少しでも否定的な気持ちを持ったのは何故なのだろう?と。
私はこの頃も遥拝ごん行を継続しており、お曼荼羅ではなく、自身の「胸中の肉団」に在るという
御本尊様へむけて祈っていました。それを、個人信仰だと思っていました。
この個人信仰について、揺らぎ始めたのです。
絶対の確信を個人信仰にもっているなら、偽本尊におびえたりしないはずだよ?と自問。
偽本尊に怯えを持っている時点で、私はまだ怖いのだ、仏罰といわれているものが。
個人信仰とかいいながら、その土台(教学)は全て創価で教え込まれたもの。
もしかしたら、一旦「信仰」を全部とっぱらってしまわないことには、オカルトからの脱却は
不可能ではないのか?という思いが生まれました。
まっさらな状態・・といっても、私は生まれ落ちた時点から創価支配(母による)で育って来た人間。
まっさらが何なのかもよくわかりません。
それでも、一度全てを無にしてしまわないことには、私は一生オカルト支配から逃れられないのでは?
というような気持になりました。
心の支えとしての個人信仰と思っていましたが、実はそれが創価で言う「スリープ」と変わらない
状況だったのだと、今だから言えます。

どれほど、学会2,3世における精神的呪縛がキツイものなのか、御理解頂けるでしょうか。
創価が悪の集団だ!とわかっても、御本尊様を思いきることができなかった私。
特に私の場合は、対象としての「曼荼羅」に対する怖れが強く強くありました。
それは子供のころから、悲しい思い寂しい思い辛い思いを、ご祈念によりぶつける対象であった、
御本尊様がセキュリティブランケットのような存在であったせいかもしれません。
それなしでは生きられない、という固執です。
ただのヌイグルミや毛布の方が、まだマシでした。
こんな風に育ってしまった学会3世の自分は不幸だったと思います。
同じ思いの方も、きっと多くおられると思います。

話は少しさかのぼりますが、3月の実家帰省中のこと。
母との会話の中で、私が前年11月をもって聖教新聞の購読をやめていたことを、母が知っていたことが
解りました。
地域の婦人部が母に電話を入れていました。
その電話は2月末にあったそうで、財務の納金報告がなかった件と共に知らされたとの事。
母が私にすぐ電話を入れなかったのは、3月に実家帰省することが決まっていたからで
電話で話してもらちがあかないので、直接顔を合わせる機会に話し合おうと思っていたそうです。
母は落ち着いたものでした。 
逆に、私が怒り心頭でした、地元組織の人間に対してです。
どうして、なんでもかんでも実家(の母)にチクるのか?
そんな行動をとったらどうなるのか、結果の想像もできないの?
私が創価に対しハッキリとした拒絶意志をもっていることは、今年初めの新人支部婦と対面し話して
いるのです。 (この記事)
頭が悪すぎるにもほどがあるだろう・・。
私はひたすら「むかつく!なんで電話なんかするのよ!馬鹿じゃん!」と怒りました。
母は、呆れた様子で
「なにを言っているの。あなたのこと、心配してくれてるんでしょ。馬鹿はあなたのほうよ!」と言いました。
いやいや、違う。 心配しているんじゃ無い。
本当に心配していたら無責任に親に電話なんてするわけないだろう。
ヤツは聖教の部数が減った、それが組織的に困るから、なんとかなりませんかと実家に電話を入れたそれだけだ。
母にそう言いましたが、母は「どうやったらそんな考え方になるのか解らない」と困惑していました。
そして母から贈呈で新聞を入れてやるというので、私は「絶対にやめて」と断りました。
母は言いました「泣いてからでは遅いんだよ?」
信心をおろそかにしたり、組織に反抗するような態度をとり続けて不幸になってから、しまった!と思い直し
組織に戻ってくるなんてかっこ悪い。そうではない。日々たゆまぬ信心を続けて行くのが一番なのだ、と。

こんな会話も、3月末に立てつづけにおこった不運を「偽本尊放置のせい?」なんて考えてしまう
伏線になったのかもしれません。


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続き(18)は、年明けに更新します。

年末にもう一回別の記事を書いて、今年の更新は終わりにしたいと思います。
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