原点とは何か

女子部になって、たびたび幹部から問われる質問にいつも答えが出ず戸惑っていました。
その質問は「あなたの池田先生との原点は何ですか?」というものでした。

創価の組織では、池田老人を師匠・会員はひとりもあまさずその弟子という認識が
まかりとおっています。
が、私は子供時代からそんな教育を受けていないので、(母親が池田マンセーではなかったんで)
池田老人は学会の偉い人という認識のみ。
なので、あたりまえのように女子部の会合で幹部が
「今日もお元気な池田先生と共に」とか「師匠の正義は弟子が証明する」など叫んでいても
ぼんやり聞き流してました。 自分にはしっくりこないと思いながら。
当時、池田老人のことは、どうでもよかった。嫌いじゃないけど好きでもない。
組織内部でそんなことを話したこともなかったです。言える雰囲気じゃなかったですから。
プラス、組織に関する事で少しでもマイナスととられる言動をとれば「仏罰が下る」と思いこまされていたのが
大きいと思います。
この幼少期からの刷り込みは、40歳を超えるまで脅威でありつづけました。

「池田先生との原点」とは、自らが師匠を求めて作るものだと幹部がいっていました。
原点がなにかを答えられた部員さんの話だと、たいていは実際に会えたとか、物(本やお菓子)や
伝言をもらったなどで「先生から直接・間接的に激励を受けた」そういう類のものです。
それを特別と感じられたときが原点になるのでしょうか。 今持ってよく解らないのです。
私も伯母が大幹部でしたのでw お菓子をもらった事も絵本や書籍をもらったこともあります。
でもなんとも思った事ありませんでした。 伯母は大興奮して渡してくれたけど、意味がわかりませんでした。
その後も、女子部に上がってから折伏ができたとか、部で成果をあげたなどで書籍を幾つもいただき
押印やら色紙やらも頂きましたが、心からありがたいと思った事ありませんでした。
それどころか、なぜ大全集を号をとびとびでくれるのか?せめて1巻の次は2巻というふうにくれれば
続きも買いやすいのに配慮ないなと内心思っていました。 当然そんなこと誰にも言いませんでしたが。

「原点は?」と面接で問われるたびに、困ってました。
無いものはないし、嘘もつけないし。
ありませんと正直に答えると「じゃあ女子部時代にしっかり原点つくっていこうね!」と励まされて終わり。
必要以上に追及されることもないので、その場しのぎでよかった。
ここでヤイヤイ原点つくれだの、無いなら組織から抜けろといわれたら、脱会したかもしれません。
私のような人間でも、組織に利する行動(財務、選挙応援、新規会員の獲得)は大人しくやっていたから
排除する事はなかったのでしょうね。
師弟観は皆無でも、組織には従順=労働力とカネを供出するのはまちがいないわけだから。

白蓮は先生直結ということで(どういう意味?いま冷静にそうおもった)
毎月、池田老人に手紙を書いて送るという課題がありました。
ふだんなんとも思ってない人に一体なにを書けばいいのか。
400字詰め原稿用紙に書かされましたが、400字を埋めるのは大変苦痛でした。
たいてい、その時がんばってることを書いて、必ず結果を出してまいりますーと結んでいました。
そういえば池田老人は「結果しかいらない」って人らしいですねw

「必ず結果をだしてまいります」という言葉も、組織内で聞きなれた言葉で、決意発表の常套句。
なんで池田老人に結果を出す事を「誓う」のか、私はそのことについても心の中で?疑問でした。
御本尊様に誓うならまだわかるけど。 なぜに先生なのか?
白蓮期間中に友人を折伏し本流できたので、活動報告をすることになりました。
原稿は幹部にチェックされ
「池田先生におこたえする人材に、友人と共に成長して行けるよう、これからも闘ってまいります」
という一文を書きこまれました。私の書いた原稿にはイケダのいの字も入ってませんでしたが。
心にもない事を読まされるのかーと思いながらも、納得いきません!と反抗するでもなく。
組織ではこれがお流儀だからなぁ、とあきらめ、書き加えられた部分をそのまま読みました。

創価学会というと、100人いたら全員が池田老人を師と仰ぎ崇拝してると思われがちですが
そうでもないのです。私みたいなのもいます。
繰り返しますが私は学会3世。うまれたときから「家の宗教が創価学会」という環境で育っています。
実家の母も、会員ではありますが池田崇拝者ではありません。
日蓮大聖人様の教えと御本尊様を崇敬しているだけですが、創価学会員なのです。
本当なら正宗にいくべきだったと思います。 なんで創価に残ったのか、それは身内(母の一族)が
みな創価学会だから。 自分だけ飛び出すような事はできない。
それと、創価では師弟観(師匠が池田老人で弟子は会員ひとりひとり)をこれでもかというくらい説き、
会合で御書講義はやらなくても池田老人の話は絶対でてきますが(指導の紹介)、
あくまでも「日蓮大聖人が宗祖」と言い張ってきかない。
ダブルスタンダードなのです。
だから、私の母や私のような、池田老人にとくに思い入れのない人間でも、表立って反抗はしないので
はじかれることなく組織に居られた(る)のです。
踏み絵でも行ってくれれば、私は平気で池田老人の写真でも書籍でも踏みつけることができます。
師匠を池田氏と呼べないなら出て行けと、言われれば即出て行ったでしょう。
それをあえて組織で行わないのは、私たちのような
「池田マンセーじゃないけど大聖人様と御本尊様は信じてる」という人間も集金対象として
残しておきたいからなのでしょうね。
わたしたちのような会員も実際多いと思うのです。
師弟の道に心酔していないタイプの会員の多くは(私や母も含め)学会活動に「現世利益」があると信じ込んで
いる(いた)人達です。
活動のさなかに願い事が叶ったり思ってもみない解決をみたり、ラッキーな事があった経験を
「創価の活動で得た功徳」と思いこんで、組織から離れられなくなった、不幸なパターンです。

日蓮大聖人門下とかいいながら、池田老人との「原点」をもつことをさかんに会員に促していたのも
池田老人神格化へのひとつの草の根運動だったんだろうなと、今はわかります。

結局女子部で活動をしていた期間、原点をつかめず、私は結婚し婦人部へ。
婦人部は、女子部の何十倍も「池田神格化」のきつい組織で、私は居られなくなりました(笑)。
でもそれでよかったです。
下手に原点なんてカンチガイを起こしていたら、いまも思考停止のまま搾取され続けていたでしょうから。
スポンサーサイト