非活決意 その後(22)

2013年5月。
友人Aさんとの再会から「絶対感・生きる意味」についての再考が始まりました。
彼女の体験したことの壮絶さにひれ伏したくなったというか、自分の身に起きた出来事の
数々を「生かされた理由」としてきたことが、恥ずかしくなりました。
もちろん(今現在は)こういった経験は他人のそれと比較する様なものではないと思います。
が、当時は信仰観に揺れが生じていた&覚醒が進んでいたんでしょう、比較せざるをえませんでした。

補足になりますが、実事求是(6)に書いた内容で
「信仰に裏打ちされた勝利(結果)か否か」というものがあります。
Aさんに会って被災体験を聞くまでの私は「他者と比較なんてしない」人間でした。
それは選民意識=信仰をたもっているという優越感に支配されて生きてきたからです。
上手くまとめられないので(6)の抜粋そのまま貼り付けます↓

基本的・当然のことながら、信心していても不慮の事故で死ぬ事はある・大病を患い、
長期治療の甲斐無く死んでいくことがある、それは実際見てきたし承知していました。
逆に信心が無くても・あるいは日蓮仏法ではないものを信じていても、奇跡的な命拾いをする人や、
癌が治った人が存在する事も知ってました。
解ったうえでもなお、「それとこれとは違う」と思ってきた自分が居ました。
”同じ勝利でも、御本尊様に祈念して勝ち取った勝利と・そうでない勝利は質が違うのだ”的なことが
創価ではよく語られていました。
どう違うのか? 
「正しい(創価の)信仰に裏打ちされたものか否か」ということです。
けど、信仰に裏打ちされた勝利と、そうでない勝利を比べること自体おかしいのです。
勝ちは勝ち、負けは負け。それ以上でも以下でもない。
にもかかわらず、私は自分の命拾いを「信仰に裏打ちされた体験」として特別に思ってきた。
創価の「誇大妄想」に、私もとりつかれて居た事に、このときはじめて気が付きました。
誇大妄想とは、イコール優越感です。
他とは違うんだ!こっちのほうが格上なのだ!と思いこむ(思いこまされる)こと。
これぞ創価の「選民思想」です。自分たちだけは特別なのです。

私の「御本尊様に助けられた命」という思いこみも、この選民思想によるものじゃなかったか?
絶対感の正体は、実は「優越感と選民思想」ではないか?
そう気づいた時、ショックというよりは、「うわー・・」って感じでした。


上記を踏まえたうえで、過去3度の経験以外に、こんなこともありました。

2004年の暮れに私たち夫婦はタイ(プーケット)への旅行を計画していました。
主人の年休が溜まっており、消化するよう会社からも言われていたので年末の休暇に有休を
プラスして出かける予定でした。
しかし直前に主人の抱えていた仕事でトラブルが発生。どうしても休めない事態になり
キャンセルしました。
とても楽しみにしていたので残念でしたが、ちょうどタイ到着する予定だったまさにその日、
インドネシア領スマトラ島沖でマグニチュード9.1の大地震が発生。プーケットも津波被害に
襲われました。
このテの体験、創価にはとても多いですよね。
古くは日航機墜落事故の際、様々な理由で搭乗キャンセルして助かった学会員がいたなど・・
「諸天の加護」と、都市伝説かもしれませんがこんな話を組織でよく聞かされていました。
私もその一人でこの件を「護られたんだ!」と咄嗟に思い主人にもそう伝えました。
 主人の反応は「じゃあ行かなくて正解だったんだ、良かったね」と至って冷静なものでした。
私はこの経験も「功徳体験」として自分の中で大事にしてきましたが、一昨年に偶然
パン教室でご一緒した方が、まさにその時プーケットに居て津波を目の当たりにしたと
話してくれました。
その方はホテルのルームサービスで朝食をとっている時に地震に遭遇。
ベランダから津波がおしよせてくるところを見た、プールサイドのデッキチェアで寝ていた人が
デッキチェアに乗ったまま(サーフィン状態で)波に流され、ホテルに突っ込んで行くのを
見たと話していました。
しかしその語りぶりは実にあっけらかんとしたもので、幸い宿泊客に死者はいなかったことや・
十分なサービスを提供できなかったと宿泊費用の払い戻しや、空港までの送りが無料になって
ラッキーだった(?!)事などをさらっと話してくれました。
この時点で私はまだ創価脳でしたが、自分より格上(というのもおかしな話ですが・・)の体験を
創価信仰をもたない人がしていた事にまず驚きました。
そして事もなげにさらりと語ってしまう所に、得体のしれないギャップを感じました。
が、それを「境涯の違い」なのだと捉えるにとどめました。
特定の信仰をもたなくても、境涯の高い人は存在する。
”宿業の有無”という論理でそれを解決していたのです。
創価脳がむやみに外部の幸せな人をうらやんだりしないのも、ここに理由が隠されている気がします。 
全ての創価脳がそうだとは言いませんが、福運の有無・過去世を信じてきた人ならば
思い当たる節があるのではないでしょうか。
また、創価脳はなんにつけ「大げさ」です。功徳体験なども、さも大ごとのように語りますよね。
周囲もスゴイスゴイ!と必要以上に煽ってくれますし。針小棒大といったら聞こえが悪いかもしれませんが・・。
私も十二分にその傾向をもっていて、自意識過剰に体験を受け止めていた。
しかし、私以上の体験を持っている外部が、その事柄について実に落ち着いているのです。
仮にAさんや件のタイ津波と同じ体験を私がしたとして・バリ活だったら、総県クラスの会合で
体験発表をしたでしょうし、新聞に載ったかもしれませんねw
また近年、がんを克服したという話を周囲(外部)でよく聞きます。
多くは早期発見と適切な手術や投薬をうけたことで快方に向かわれているのです。
聖教新聞でいやというほどみてきた「がんが治った」功徳体験ですが、一般世間であっても
特定信仰を持たない人であっても治している。それほど珍しくもなくなっている事を認めるのです。

この違い・温度差が一体なんなのか?を、初めてちゃんと考えるようになった・
そのきっかけを作ってくれたのが辛い体験を洗いざらい語ってくれたAさんでした。
感謝に堪えません。

2013年5月の私は、Aさんの体験を以前のように「境涯の違い」と受け止める事が
できませんでした。
いったい全体、本当にそうなんだろうか?と、初めて(創価版)日蓮教義を本格的に疑い始めたのです。 
40年余り「絶対正義の教え」として信じ切っていたことを疑うのは、私にとっては非常に大きな
出来事であり、勇気のいることでもありました。
しかし、来るべくして来た時節だったんだと今になって思います。
「絶対正義の教え」を一度も疑わなかったかと言えば、そんなことはありません。
伏線はあり、ご祈念していても思い通りの結果が出なかった時は「何故?」と一瞬疑う事は
これまでだって数多くありました。しかしすぐに「不本意な結果ではあったが意味のあること」と
思いなおしてきた。 
そして実際、日が経過すれば後付けで「これでよかったのだ」と思えることが大半だった。
青年期の私の願望など(40代の今だから言えることですが)とるにたりないことが殆どでした。
情けない話ですが、功徳信心で生きてきただけに、高みを目指して挑戦を続けるような
人生でもなく。 聞こえは悪いですが、常に行き当たりばったりでした。
以前にも書きましたが、何につけ「考え抜いて結論を出す」ことを蔑ろにしていた。
ご祈念すればなんとかなる、いい方向にゆくだろう、そう考え・信じてきたことの裏返しです。
また、外部の他人のすごい体験や実際におきたすごい事柄が、創価脳当時は全くどうでもいい事で、
ある意味自分に起きた(なんでもない)事柄を「特別」だと感じてこれたのは、選民思想の賜でした。
自分が妙法をたもった「選民」だという意識は=優越感であり、外部他者を見下すに十分な
要素だったのです。
上記プラス、”私は3度命を御本尊様に助けて頂いた”という誇大妄想で、私の信仰の核が
形成されていたのだ、との考えに至りました。
何もかもが御本尊様のお陰・学会活動に励んでついた福運のおかげ・・という「お陰信仰」の
全ては、思いこみだったのです。

現在の私は、努力の上に天の加護があることもあるし・ないこともあるという考えです。
「天」というのは「天道思想」、古くから日本人がもっている信仰観です。
この天道思想についてはまた後日書きたいと思います。

どんな結果も「前向きに」受け止める。それ自体は悪い事だと思いません。
が、私の場合は自分の中で絶対神的存在であった御本尊様や自身の信仰を傷つけない為に
「いいように解釈」してきたにすぎないのだと、最近になって思い当たりました。
それは創価がなんでもかんでも「勝利」と言いたがる、敗北を認めないのと似ていると思います。

話が横道にそれますが、
私は幸いにも池田老人を人生の師匠にしませんでしたし、バリ活当時でさえなんの思い入れも
持ちませんでした。
創価脳の多くは、池田老人を崇拝し、師匠にお応えしたいと各種活動を頑張っています。
なぜに池田老人崇拝者は、池田老人が聖人君子だと信じるのか?
凡人を超えた存在と捉えているのか?全く疑いを持たないのか?私は長く理解に苦しんでいました。
しかし、今はわかります。
私が御本尊様や自身の信仰という核を傷つけないためにしてきたことと同じく、
池田老人という永遠の指導者・得難き大師匠を「いいように解釈」したい。崩したくないのでしょう。
それを一般世間では”偶像崇拝”と呼ぶのです。
繰り返しになりますが、私は池田老人を尊敬したことは一度もありませんし、何がすごいのかも
バリ活当時からよくわかっていませんでした。
覚醒し始めの頃、バリ活のブログを読むのにハマったことがあり、皆の心酔っぷりを読んで唖然と
していました。 
私も同じ創価学会員。バリ活時代もあったけど、到底理解できない心理だと感じ。
「池田先生は絶対に正しい」 聖人君子を信じる人たちに、私は「んな訳ないだろ」とパソコンの前で
ツッコミを入れていました。
若き日の日記でしたか、池田老人が会長になるかならないか当時の日記が本になっていますが
(女子部時代に読まされました)覚醒後にその内容を思い出し、疑問に思った点がありました。
日記の中では、常に微熱があり疲労がたまっている状態だったが、1日中学会のため同志のためにと
寸暇を惜しんで走り回る池田青年の姿がありました。
すごく俗っぽい疑問ですが思ったんです
「これだけ激務に続く激務で・微熱続きで体調もよろしくなかった人が、
 3人も子供をもうける事できるの?」とw
こんな疑問も創価脳は「NO~!」と怒りだすでしょうね。神聖なる師匠を汚すなとw
師匠に対し、絶対にこのような俗な疑問は持たないのでしょう。でもそれっておかしいですよね。
幾ら偉大な師匠とて人間なんだし。3人子供がうまれたのは事実なんだしw
調べたところ、この本も「人革」同様に描かれたものだという話が出てきて、腑に落ちました。
嘘も100回繰り返せば真実になる、という言葉があり、プロパガンダの法則とされています。
池田老人と側近による印象操作。偶像を小説の中に描き、会員の崇敬を集める手法はまさにこれでしょう。

話を元に戻します。

全てが思いこみで、誇大妄想だったと気付いた時の私の正直な心境は
「うわ~・・」
その次に
「まずいことになった」でした。

(23)に続きます。


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