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非活決意 その後(23)

40年以上にわたり、私の人生を支配してきたといっても間違いない創価信仰が
実は日蓮大聖人を都合よくかつぎあげただけのエセ一神教だったこと。
そして功徳だ現証だと、実際目の前で起こる出来事の全てを信仰と結び付けて生きてきたが、
そのすべてが思いこみであったことに気がついた2013年5月。
創価が宗教を使った巨大搾取集団だったことに気がついたとき(2012年9月)よりも
更に大きな・精神的なショックがありました。

今だから言えることですが、それまでの40年余りを
「お題目を忘れなければ・信心さえ失わなければ(最終的に)どうにかなる」というような
何の根拠も無い自信と、安心感をもって生きてきたのです。 
信仰がいわば「人生の保険」のように考えてきた。 しかしそれは幻想。
現役活動家が「大確信」と胸を張っていられるのは、実はしあわせなことかもしれません。
それが幻だということに気がつかない方が、実は人生楽かもしれない。
しかし、その「楽」さと引き換えに人生の大事なものを際限なく失ってしまっているのです。
財産も・親子の縁も・家族愛も・人との縁も・社会との健全な関わりも・人生を豊かにする体験や
経験も・見聞を広める様々な機会も。
幻が無い代わり、怖れや不安も多いが・哀しみも喜びも楽しみも格段に多く幅広い・深みのある人生を
送る事を「リスキー」と捉えるのか。
それとも隔絶された世界で大勝利だ!ボロは着てても心は錦!今世がぱっとしなくても来世は幸福長者!
などと催眠から醒めず搾取され続ける人生を送る事を「セーフティ」と捉えるのか?
私はどれだけしんどかろうが、前者をとると決めました。

しかしながら、どちらの人生が良いのかは、人に依ると思います。
これは大げさでなく、学会2・3・4世として生きてきた人にとって究極の選択です。
なので私は、現役活動家盲目さんに対して(知り合いでも見ず知らずの人であっても)
「目覚めよ!」と行動に出たりはしません。
現役幹部の伯母や、バリ活な親戚と話す機会もありますが、かみついた事はありません。
ひとつの疑問ももたず、幻想の中に居る現役活動家盲目さんのブログに問題提起なコメントを
書いたりもしません。静かにロムってるだけ。
ただ、ほんの少しでも疑問や不満や言いしれぬ心のモヤモヤ感をもちながらも「罰論」や「しがらみ」で
そこにとどまろうとしている人に「勇気を出して、考えるのをやめなくていいよ」と言いたい。
気がついてほしい、と言っているつもりです。

これまで生きる後ろ盾としてきた「保険」が全く不確実で安心などとは程遠いものだったと
気付いてしまったとき。
愕然とし、これから私は何を規範として生きて行ったらいいんだろう?と大きく戸惑いました。
お曼荼羅を擬人化し恐れていたことも、あっさりと、憑きものが落ちたようにどうでもよくなり。
リビングの壁に向かってしていた遥拝ごん行も止めたのです。
日々少しずつでもと読んでいた御書も読むのをやめました。 どうでもよくなったのです。
この御書の扱いも、選民意識のあった頃は丁重でした。
何冊か本を積み重ねる時でも一番上にしないといけない、と母から教わっていたので
何も知らない夫が御書の上に別の本を置こうものなら「やめてよ!」と怒っていました。
だったらその辺に置くなよ、って話ですがw 本当に迷惑千万な妻でした。恥ずかしいです・・。

しかし、上記の「どうでもよくなった」は、すっきりと明るい方向ではありません。
全部が無意味だと思ったから止めたのですが、次のなにかを見つけて止めた状況でもなく。
喪失感で精神的に沈んでいました。

そして、前回書いた「まずいことになった」
これは実家の母との繋がりを失うことになるかもしれない・・という危機感でした。

以前も書きましたが、実家における母と私の関係は「信仰の師弟関係」でした。
普通の母娘という感じでは無いんだな・・と気がついたのは、結婚してからです。
そう思った経緯もこれまで書いたとおりなのですが、具体的に言えば母が家族の用事よりも
学会活動を優先してしまっても、私は全く疑問を持たず不満におもわなかったこと。
なによりも信仰や学会優先が大事だと考え、信仰に反対する父や・信仰を嫌う兄や姉を
家族でありながら敵視し・こんな素晴らしい法が理解できないなんて・・母娘そろって見下しても
いたこと。
父の死後も、母はきょうだいの誰よりも私を頼っていましたし、どんなこともまず私に相談があり
決定してから兄姉に伝えてきました。
母にとっては、私が一番信用できる。なによりも、信心の話ができるし解ってくれるから心強いと
面と向かって言われた事もあります。そして私もその自覚がありました。
信仰という絆あっての母娘関係だったのです。
そして母の兄姉に対する態度と、私に対する態度の違いもハッキリと感じていました。
私はそのことについて創価脳の頃、兄姉に対して優越感をもっていたくらいでした。 
今思えば馬鹿っぽいですが。
これ以前に創価は大聖人直結じゃないからダメ、活動しないという旨は母に繰り返し伝えてきました。
しかし、私も母も最後の砦として「日蓮大聖人の仏法」と「御本尊様」は絶対視をしてきた。
創価を否定しても、日蓮大聖人と御本尊様だけは別。 その一点だけはぶれていなかったから
母娘関係は揺るぎ無かった(と私は思って来た)のです。
それが、日蓮大聖人も・御本尊様も否定してしまったら?
母はきっと私への態度を変えてしまうだろう。頑なになり、私にも本心を言わなくなる可能性が大。
そうなると、母が完全に孤立してしまうことへの心配。
そして私自身が母から「拒絶」されてしまうのではないかとの懸念。
幻想だったと気付いてしまった事や、自分がもう日蓮仏法に依らないと決めた事は母に言えない。
しかし、そんな思いを隠したまま母に同調し続けられるほど私は器用じゃない。
これからどう対応して行けばいいんだろう・・。 
信仰の絆を信じ、私に心を開いている母が不憫にも思えて。
親不孝者なのか私は?という思いに苛まれたのです。

上記のような事柄を思い悩んでいた時、偶々ですが次子が通うプレクラスで、お友達とちょっとした
いざこざで、キーホルダーのチャームを(壊され)紛失して帰宅しました。
しかし次子は私に「気が付いたらチャームを紛失していた」と、いざこざの事は報告せず。
後日、先生と壊したほうのお友達のお母様から連絡と謝罪があって顛末を知り驚いたのです。
そのキーホルダーは、ハンドメイドが得意な友人が作ってくれたものでした。
もとは私が使っていたのですが、次子が気に入り何度もねだったのであげました。
それをスクールの鞄につけたいと次子が言った時私は「大丈夫?お友達に引っ張られない?」と
懸念を口にしたのです。 言ったとおりになってしまいました。
おそらく、壊されたと言ったら私が「いわんこっちゃない」と呆れると思ったのでしょう。
私は次子の心中を察し、
「あのキーホルダー、お友達がひっぱって壊れちゃったんだってね?先生から聞いたよ。
気に入ってたのに、残念だったね。
またOOちゃん(私の友達)にお願いして作ってもらおうね」と声をかけました。
次子は一瞬ぎょっとした顔をしていましたが(バレたか!という感じで)
「また作ってもらえるの?」と心配そうに聞いてき。
私が「怒られると思って本当の事いえなかったの?」と尋ねると、ばつ悪そうに頷いていました。
「そんなことで怒らないよ?今度からちゃんと話してね」と伝えると「うん」と答え
スキップして部屋を出て行きました。
このやりとりでホッとしたのもつかの間、自身の母娘関係を振り返って愕然としたのです。

我が子に対して「拒絶」なんて感情、普通に暮らしていて湧くことがあるだろうか?と。
(↑この「拒絶」とは、子育て中によくあるような、イライラしていて「もう、あっち行ってて!」と
 いうような一過性のものとは違います)

当然のことながら私は次子をこんな些細な件で「許せない」とは思わないし、拒絶なんてしません。
幼くとも個性があり・考えがあり・性格も違う子供たち。
親の意見が受け入れられない時もあれば、いたずらが過ぎて叱る事もある。
しかし私はそれに対して「許せない」なんて思った事はいちども無い。
まだまだ幼い子供達との毎日に、色んな事がありますが常に微笑ましいものです。
これから子供達が成長すれば、ぶつかることも増えるだろうけど、それにしたって「許せない」と
思うだとか・子供をなにかで格付けするような事はあるのだろうか?
親ならば、たとえ親の思いと違う方へ行こうとしたって、それが子供自身の決めた事ならば粛々と
静かに見守るものではないだろうか?
20歳を過ぎた大人ならなおの事・・。
思想信条を押しつけ、”同じものを信じることが出来ないなら信用できない”なんて
私は子供にそんなこと求めない。
そう考えた時、実家の母娘関係のいびつさ・おかしさにハッキリと気がついてしまったのです。

信仰を否定したら母から「拒絶」されるのでは?と不安に思ったが、その時点でもう親子関係なんて
完全崩壊している。
信仰の絆ありきの母娘関係だなんて、狂っていると。

私と子供達の間に、「信仰」なんて絆はありません。無くて良かったです。
くだらないことで子供達に強制・縛り付けるだなんてありえないこと。
創価信仰をもつ母親は、それが「我が子の幸せ」と信じて疑わない。それこそが不幸の始まりなのです。

そして母子関係が「信仰の師弟関係」になってはいけないのです。
師弟なんて、創価ではさんざん美化して語られているけれど、しょせん「他人」なのです。
そして師弟関係には「破門」があります。
師匠の思いにそむくような言動があれば、師匠は弟子を切ることができる(逆もしかり)。
破門してしまえば「関係ない」。
意志疎通のとれている間はいいけれど、非常に無責任な間柄とも言えると思います。
親子関係にそんなものは不要です。というか、そうであってはいけないと私は思うのです。

40年以上も生きてき・自身も人の親になってから、こんな問題にぶちあたるとは
考えもしませんでした。
私は母親から拒絶されるかもしれない、創価信仰という・バカげた絵にかいた餅のせいで。
それは私にとって、ちょっとした脅威でした。

(24)に続きます。
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