非活決意 その後(25)

生まれてこのかた、母親から「唯一無二絶対正しい」と刷り込まれてき、
私にとっては生きる指針であった日蓮大聖人と御本尊様を中心とした、創価教義による信仰。
そのすべてが不実な夢物語であったとハッキリ気がついてしまった2013年5月。
親子の絆以前に、信仰における師弟関係であった私と母。
不実な夢物語を「盲信」し続けている母との関係を、このさきどう保って行けばよいのか・
また、信仰において母を裏切る私は「親不孝」なのか?と悩みはじめました。

親不幸とは、世間一般的に”親を泣かせるような事”とされ、子が親より先に逝く事が
よく上げられます。
親の信仰を子が引き継がない事や・親の信仰を子が否定する事は果たして「親不孝」なのか?
今の私は、違うと思います。 
が、「親を悲しませたくない」という意識が強かった当時は、親不孝に当たるのではないかと
暗澹とした気持でおりました。

前回書いた、学会2,3,4世における、
信仰がらみで「親を悲しませたくない」「親を悲しませてはいけない」という共通意識。
私も”母を悲しませたくない”と思いました。
これは2012年9月に、創価が宗教を利用した巨大搾取企業だということに気がついた時にも、
まっさきに考えた事です。
母は創価が巨悪団体だとは夢にも思っていない。
でも私は気付いてしまったし、解った以上は金輪際、お金も労働力も気持ちも騙し取られたくは無い。 
自分は活動を一切拒絶するにせよ、母にこの件は言わない方がいいんじゃないか。
何も話さず、信心があるふりをし・地域の人間は嫌いだけど組織に忠誠心はありますという
ふりをしながら、幻想に踊る母をじっと見守る(見過ごす)しかないんじゃないかと。 
その理由は「母を悲しませたくない」からでした。
けど私一人がそう考えたって、地域の学会員は母を悲しませ困惑させます。
実家に逐一電話を入れ、やれ娘さんが役職ことわりましたよ・新聞やめましたよ・財務の納金確認も
ありませんでした・投票済みましたの連絡も入れてくれないんですよと、全部告げ口するんだからw
組織に忠誠心がないことをバラされまくり、隠密になんて行きません。
なので私が創価の活動を全てしないこと・それは日蓮大聖人の心に背く行動だからという
自分なりの結論は2013年1月の段階で話しました(この記事)。
母は、日蓮大聖人と御本尊様への絶対崇拝心を私が失っていない事を確認した上で、学会活動を
一切しないことに関しては”容認”してくれました。
しかし今度ばかりは事情が違います。
私は、母との最後の絆ともいえる「日蓮大聖人と御本尊様への絶対崇拝心」も、
思索の末否定するに至ったからです。
この私の結論を話すわけには、さすがにいかない。
私にとって40年あまり「生きる指針」だったそれは、母にとってはほぼ生涯をかけたもの。
そして3人子供が居て、やっとなんとか一人(私)に受け継ぐことが出来たと安心している母を
裏切るようなまねはできないと、重く考えたのです。

これは私の母が常々問題にしていたことなんですが
「誰が実家の仏壇を守るのか」と、私が20代の頃からしょっちゅう不安視し・嘆いていました。
老い先を考えた時、父より母が先に亡くなる事もある。そうなったら、アンチの父はこれ幸いと
御本尊様と仏壇を撤去してしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
しかし父が先に亡くなった。そうなると次は子供の代。
長男がアンチ創価なため、仏壇+お曼荼羅を受け継いでくれないとしたら、代が途絶えるから
困るという話です。
今考えると、おかしな話なのです。
世間一般のお仏壇は先祖供養の名目で配置されているから、家督を継ぐ長男が守るというのは
なんとなくわかる話です。
しかし創価の仏壇は先祖供養名目のものではありませんよね(一応、回向はするけれども)。
それに、実家において仏壇じたい代々受け継がれている物ではない。
母が自分で買った仏壇です。
また、父は長男ではありませんから実家は”本家”というわけでもなく。
以前実家にあった日達上人のお曼荼羅は、父が無理くりの折伏でうけたものでしたが、
10数年前に創価版カラーコピーに取り換えたので現在あるものは
「父がうけた(父から子へ受け継ぐ)」御本尊様というわけでもありません。
現在の実家の状況としては、母のひとり信心の本尊&仏壇という位置づけ。
「実家の仏壇を守る」といえば、代々続く信仰をまもっていく・先祖供養のためという趣でしょうが、
私の実家におけるそれは、「母のひとりよがりのインテリア」の体です。
通常、結婚したら嫁ぎ先の宗派を守っていくのが普通かと思います。
(信教の自由が法律で認められている以上、この限りではありませんが)
そこを母はどういうわけか、嫁ぎ先である父方の信仰などまるきり無視で、
自分が盲信している創価(もと日蓮正宗)の信仰を「我が家の宗派」だと譲りません。 
そしてそれを子供が引き継ぐのは「当然」だとしています。
アンチの兄は、信仰を引き継ぐ気などさらさらないでしょう。母はそのことを憂いています。
母亡きあとに仏壇や御本尊様を不本意な形で廃棄されてしまうことを心配しているのです。
なので私に後の事(葬儀、お墓の管理含め)を任せたいと言っています。
そんな母親からの「後事を託す」伝言も、”親を悲しませてはならない”という思いを一層強く
させました。 プレッシャーになっていたのです。
母親のひとりよがりであっても、「家の信仰」として遺したいという意志に背くことが
「親不孝」にあたるのだと捉えていました。

この「親の信仰を引き継ぐ問題」は、創価家庭において厄介事。
素直に学会2,3,4世として育ち何の疑問ももたずに邁進していく人は無問題でしょうが、
親のテンションの高さに到底ついていけず非活を選んだ2,3,4世にとっては厄介事でしかない。
所詮は新興宗教。伝統仏教とは訳が違う。
伝統仏教を葬式仏教などと表現する学者もいますが、私はそれでいいじゃないかと思います。
”坊主の金儲け”などと創価学会員も僧侶を悪く言う傾向にありますがw 少なくとも彼らはプロです。
石山教学をちょっとかじった程度のど素人が言えることではないと思います。
もともと仏教が日本で受け入れられた背景は(以前にも書きましたが)神道では死後の世界や
救済を説かない為、死後の世界に恐れをなした平安貴族に仏教の教えが重宝された故。
鎌倉時代に現世利益を説く僧侶も出てきましたが、元々は「死」への恐怖を取りはらうため・
心の安らぎとしての効用に重きを置いたのだと思います。
先祖供養のためのお仏壇と本尊、それならまだ子は素直に引き継ぐことが出来るでしょう(強い意志で
キリスト教などに改宗した場合は別として)。
しかし創価信仰は違います。
親亡き後、継続意志を表明しようものなら地域組織という包囲網が敷かれ、新聞購読・選挙の投票確認・
その他もろもろついてまわるのです。 
こうなるともう、静かに故人を偲ぶための宗教ではありません。
創価という巨大企業と・公明党という創価護衛政党に寄与する事こそ「先祖供養」になるなどと誤変換。
これなら「葬式仏教」と揶揄される伝統仏教のほうがいくらかマシじゃないでしょうか。
お盆のたびに・法事のたびにお坊さんを呼んで「布施を取られる」と創価ではいかにも悪げにいいますが
それで人の心が落ち着くのであれば・達成感が得られるのであればそれもアリなんじゃないでしょうか。
お布施を支払うのは資本主義社会なんだから当たり前です。
使途も明かさない財務や広布基金をやみくもに搾取されるより、わかりやくていいんじゃないのかと
私は思います。

また、創価では御彼岸やお盆の供養も会館に足を運ばされ集団でごん行会。
その際に広布基金という名目で供養を搾取されます。
イヤなら行かなければすむ話ですが、節目ごとの供養(法事)も創価形式には明確な儀礼フローが
ありません。
そういった事がどうでもいい(拘らない)家族なら楽でいいと思うのですが、
私の場合は戸惑いが大きくありました。
父方の親戚や主人の実家はごく一般的な日本人の宗教観をもつ人達ですから、法事はきちんとしたがる
タイプだからです。
事あるごとに(きちんとしたい人達は、当事者である私たち家族以上に、月命日やO回忌を覚えています)
どうするのかと訊ねられたり・お菓子やお線香を送って頂いたと母から連絡を受け、ハッとさせられて
いました。
きちんとしたい人達からすれば、ひとりよがりな創価形式儀礼は「非常識」に映る様です。
創価の人たちにしたら「外部なんて知ったこっちゃない」んでしょうけど「開かれた宗教」などと言いながら
実際やってることは閉鎖的で、活動自体も「宗教行為」とは言い難いもの。
新聞を売り(自爆営業含む)、票を集める。永遠の指導者を崇敬し、家族より優先すべき存在とする。
そこに「功徳」がある、現世利益があると教えているのだから目も当てられません。
 
話をもとに戻します。

創価のみならず、日蓮大聖人や御本尊様への絶対崇敬心も否定するに私は至ったが、
気付いてしまった事・私は母から受け継いだそれを信奉せずにこの先を生きて行くと
きめた事は、母に話さないでおこうと考えました。
それを告白してしまうことは、母を悲しませると同時に、母娘の断絶もひきおこすと想像したからです。

反面、それは不実だという思いもありました。
また、誰よりも私が悲しいと感じました。
こんな嘘っぱち宗教を
「信じない。あんなもの全部創価の金儲けのための嘘だった」とぶちまけることで
親子の絆が切れてしまう可能性が多いに在る、それは私の存在意義をも疑いたくなる事実でした。
自身も親となり、子供と接している中で初めて気がついた、創価の母子関係の「異様さ」。
(前にも書きましたが)私と子供のあいだに「信仰」は介在せず、
縁や絆が切れてしまうような事柄はまるで想定できません。 そしてそれが普通だと思います。
今後成長の局面で、対立する事が増えて行くでしょう。親の思い通りに育たない事も解ります。
しかし親はどこまでも、子供を大きく包み込んで、容認できるものでありたいと、私はそう考えながら
子供を育て接している。 
その子育てのお手本は母親ではありませんでした。
私が現在我が子にしていることの殆どは、私が母からしてもらえなかったが・してもらいたかった事です。
第一子を出産した折、母から創価流トンデモ育児指導を聞かされました。
お題目を上げている時に、赤ちゃんが泣いても放置せよというものです。
赤ちゃんは賢いので、泣けば母親がきてくれると学習してしまう。そうなってはいけないので
お題目を上げている間は泣いても絶対に抱き上げてはいけない・・仏事優先を赤子時代から
叩きこめという、昭和30-40年代の指導です。
これを聞いた時、私は愕然としましたし(酷いと感じました)、母親を手本にしてはいけないと
瞬時に判断したのです。
当時すでにアンチ婦人部と化し、組織についていなかったのも幸いでした。
バリ活だったらトンデモ指導を真に受けて子育てしたと思います、恐ろしいです。
お手本としたのは結婚し新天地で出会ったママ友たちであり・義両親であり・接する機会は少なかったが
節目ごとに短くも的確な言葉を伝え、行動で示してくれた亡き父でした。
そして母親に子育ての相談をすることも、昔も今もほとんどありません。
こんなことがあったよ、的な報告はしますが相談はしません。 相談しても無駄だからです。
この件に関しては別の機会に記します。

余談ですが子供を会合で騒がせてはいけない、そのために会合に生活リズムを合わせよという指導、
今現在も横行しているそうですね。 とんでもないと思います。
会合なんて親の都合じゃねーか。子供を振り回しておいて、なんたる勝手な言い草かと、憤りを感じます。
創価では「未来部は宝」などと言っていますが、現実子供達は組織の犠牲者です。宝扱いなんてされません。
これは私自身が経験者だから言えることです。

2014年2月現在の私は、さまざまな疑問や怖れに整理がついた状況で
冷静にこの頃を振り返って書いているのですが、当時は精神的に不安定でした。

「大聖人様と御本尊様を否定したら親子の縁が切れる・親子関係がおかしくなる」
事実として、それはそれと割り切って、粛々と受け止めることが出来れば楽だったかもしれませんが、
そう簡単に受け流せる問題ではなく。
”それって何なの? 親として・人としておかしくない?!”
母に対する、絶望的な怒りがわいてきたのです。
私の中で、この問題をすぐに消化することは出来ませんでした。

(26)に続きます。

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