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非活決意 その後(27)

2013年6月、姉の挙式翌日は観光をする予定でした。
しかし次子が朝起きようとしません。
到着3日め、子供は疲れていたのです。
私はそのまま寝かせておきましたが、次第に母がイライラし始めました。
「せっかく来たのに時間が勿体無い、無理にでも起こせばいいのに」と言うのです。
私は内心呆れました。 
大人の都合で連れてきた3歳児、観光といってもオプショナルツアーに申し込んでいた訳でもない。
自分たちで自由行動するだけのこと。
だったら子供にあわせてやるのが親心というものじゃないでしょうか。
無理をさせて体調を崩したら帰りの飛行機にも乗れません。
小さい子連れの旅は、気を使いすぎるくらいで丁度いいのだと私の持論です。
ちょっと待ってあげようよ、と言うにとどめましたが、母は我慢ならなくなったのか
子供をゆり起そうとしたのです。
すっとんで行って止めました。そして「時間勿体無いなら一人で行ってくればいいじゃない」
と伝えました。
母が行こうとしていたのは、創価の会館でした。
海外旅行に何度か出かけている母は、その土地にある創価の会館へ訪れる事をステータスと
しています。 地元地域にそんな人(何か国もの海外会館訪問者)は皆無だからです。
母は「そんな意地悪よく言うわね!」と怒りだしました。
慣れない土地(といっても、日本人観光客も多いところです)で高齢者をひとり行動させる気か?
酷い娘だ!というような口ぶりでした。
しかし私からすれば、そんなものは年寄りのワガママでしかないのです。
母親の私が、子供と高齢の母とどっちを優先するか。当然我が子です。
宿のフロントに日本人担当者がいたことを思い出し、その方にお願いしてタクシーを手配して
もらおうか?(会館と宿を往復してもらう)と母に提案してみましたが
「一人で行くんじゃ意味がない」と言うのです。
おそらくですが、創価を否定している私をその場所に連れて行くことで「やっぱり創価は素晴らしい!」
海外同志と触れ合うことで、そう思い直させようとしたかったんだと思います。
というのも、2012年にも母と私はハワイの会館を訪れています。
そのとき私が現地の同志に会った感想を
「日本の会員と全然違う、人の振る舞いを大切に丁寧に考えている気がした」と母に述べた事があります。
これはその時の正直な感想ですし、今現在も”心配りがあった”という点は認めるところです。
ただ「SGIメンバーだから」というよりは、その方が本来もっている人間性が出ていただけなんだと
思います。
一人で行ってよ・いやだ!・・そんなやりとりを続けていると次子がむくっと起きました。
母は起きた!と大喜びし、早く支度しなさいと次子にいうのです。
時差ボケで寝起きもよくない次子はぼんやりしており、すぐに支度が出来る状態ではありません。
そこを母が矢継ぎ早に「時間が勿体無いのよ!顔洗ってきなさいよ」などと声をかけ。
遂に私はキレました
「だからそんなに早く行きたいなら一人で行きなよ、子供には子供のペースがあるんだから」と。
(母が急いていたのには理由があり、この国の会館は随時解放ではないらしく
アポイントを前日電話でとっていたのです。)
それを聞いた母は「前から思ってたけど、あんたどうしてそんなに過保護なの?」と、
私の子育ての姿勢を批判しはじめました。
そんなに子供に気を使ってどうするの。子供には我慢を教えないといけない。大人に合わせる事を
いま教えなきゃ、親が子供に気使ってどうすんのよ?将来ナメられっぱなしになるわよ。
最近はひきこもりになる子供が多いけど、全部親の過保護が原因なのよ。
親が可愛いがりすぎたせいで、外の世界に出た時、現実に心が折れるの。そうなってもいいわけ? 云々。
上記以外にも言葉があったのですが、それらを聞いて、創価の矛盾やエセ一神教だと気付いて以降、
私が母に抱いていた違和感の全ての答えが解った気がしました。

この人は決定的に母性が欠如している。
母性が全く無いとまでは言わないが(私やきょうだいは育ててもらったし)
母性以前に強欲が勝ってしまう人なんだ。
その強欲は功徳信心と直結していて、功徳信心のためなら何でも二の次後回しに出来るし
情も捨て去ってしまう。
「人の尊厳」を蔑ろにしてでも、功徳が欲しい人なんだ、と。

これが創価脳な親の特徴、と断定はしません。 
母の人格に問題があるのは否めませんから。
ただ、こういった人格を持った人が、排他主義のエセ一神教を信仰し・創価の最凶婦人部になると
その家族に確実に苦悩の連続が訪れることは間違いありません。
何を差し置いても活動優先・仏事優先。
家族子供が大人(創価)の都合に振り回されるのは当然・創価を中心に世界が回るという思考回路を
もってしまう事に関しては、創価脳のなせる技だと私は思います。

なかには家事も子育ても抜かりない上で、暮らす事を大切にしながら、学会活動に東奔西走している
婦人部員も居るのかもしれませんが、残念ながら私はそのような人をみたことがありません。
慈愛にみちあふれた人にも残念ながら会った事が無い。
女子部時代の幹部は綺麗で弁舌さわやかだったけどまるで人形の様、魂は無くハリボテだった。
婦人部の幹部はドあつかましいだけ。
こんな風になりたいと憧れとなる人や、尊敬できる人はただの一人も居なかった。
こうはなりたくない・・と反面教師・悪い手本になる人はいっぱいいたけどw
むしろ、外部のご婦人のほうが遥かに尊敬できる・学ぶところのある人物が多い。
今思えばですが「いい人」は沢山いました。
けれどその親切心であったり思いやり・熱心なかかわりには「組織の手先」感があったことは否めず。
創価の同志だから・後輩だから優しく暖かく接してくれただけではなかったか。
それは私自身にもいえることで、バリ活時代に関わった未来部や女子部員に対する熱心な接遇の
発露はやっぱり「人材を育てなければ」という一点でした。
人材=バリ活ということです。 ただ、当時の私はまかりまちがっても創価が巨悪団体などと思いもせず
実態も全く知りませんでした。
創価の活動に励むことで、その人が幸せになる・無限の可能性を開く・不可能を可能にしてゆくと
信じ切っていたからこそ・100%相手の「ため」になると考えての導きで、善意の行動でした。
後継を育てるという「崇高な目的」に自分は携わっていると、カンチガイの誇りを胸にタダ働きを
していたのです。 いや、当時はその行動に「福運功徳」が積まれると信じて疑わなかったのだから
タダ働きではありませんでした。愚かな夢をエサにしていたのです。
面倒見の良さが”創価の麗しい世界”として語られがちですが、その先輩の心根の底に
「創価の組織に後輩をつける・信仰から離れないようにさせる」という魂胆あるかぎり
それは麗しい事でも何でもありません。 
見返りなど求めない。極端にいえば熱心に関わった後輩や会員さんが
「自身の考える幸せ」を見出すため、創価以外の宗教に改宗したり脱会しても「裏切り者!」と
けっして言わない。
”あなたが幸せだと思って選んだ道ならば”と、寛容に認めることができる、
そんな純粋なる親切心からの「関わり」ならば、麗しい世界といえると今の私は思います。
しかし、そうはいかないのが創価の実態です。
他宗に改宗や創価脱会は「堕地獄」という思いこみをしているから、それを許すことなんて
絶対出来ない。
活動家が自身の考えから未活や非活を選んだ時も同じ。創価の組織から外れないようにと、
”あなたのためを思って”なんて、思いこみの正義感から阻止しようとする。
組織幹部からの引き留めは、多くの覚醒者が経験していることでしょう。私も経験者です。
このブログを現役バリ活会員が読んでいる確率は低いと思いますが、もしここを読んでいたなら
胸に手を当てて考えてみて欲しいものです。
あなたの考える「絶対正義」は、万人共通思想ではない。組織から離れる事が幸せか不幸なのかは
その本人が決める事であって、創価学会やその組織人が決める事ではない。
”地獄に自らおちようとしている人(非活になろうとしている人、脱会しようとしてる人)を
 見過ごす事なんてできない。そんな無慈悲な事はできない”
正義感に貫かれたように見えるこの考えが「絶対正しい」と言える根拠は何なのか?
現役活動家で引き留めに躍起になっている人は、自分の言葉でそれを説明できるのでしょうか。
池田老人や日蓮大聖人の言葉や誰かから聞いた話に依らず、自身の経験と言葉だけで説明できますか?
それが無理なら、あなたの「絶対正しい」根拠を考え直す必要があるという事です。
一方的な借り物論で、ひとりの人生の決断に横やりを入れるような事はしないでもらいたい。
それは「大迷惑」でしかないのです。

私もバリ活当時に後輩が退転などしようものなら確実に困惑・怒り狂ったと思います。
私の時間を・砕いた心を返せ!忘恩の輩め! くらいのことを言ったかもしれません。
覚醒してしまえばそれはいかにおかしなことなのかが良くわかります。
麗しの世界には「下心」なんてあってはいけないのです。

話を元に戻します。

母に子育ての姿勢を批判された私は、我慢の限界に来てしまいました。
「あなたが言わないで!」
母に向かって、あなたが子育てについてとやかく言えた義理じゃないでしょう?と言いました。
母は顔面蒼白になってしまいました。


(28)に続きます。

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