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非活決意 その後(29)

2013年6月
帰国後の私はいつもなら必ず行う「無事家に着いたよ」メールを母に送信しませんでした。
おとなげないと言われても仕方ありませんが、空港であのような言葉を投げつけられて
何も無かったかのように普通に接する、そんな心の余裕がもてなかったのです。
また、この問題を「些細な親子げんか」として流したくない、という意志もありました。

しかし、私は母に旅先で、今までにない勢いで自分のこれまで抱えてきた不満を
ぶつけてはみたけれど「核心・本丸」に触れずじまいでした。
私がぶつけた数々の不満の元凶とは、創価信仰であり、それは母から叩き込まれたものだった。
母の思考回路の基盤となっている創価信仰が全ての不幸の始まりなのだということを・
家族の不幸の原因だということを、なにより母自身を貶めていると言う事を、私は母に言わなかったのです。 
というより、言えませんでした。
それを口にすれば親子関係が終わる・ぶち壊しになると思うと言えませんでした。
そして、私がそのような核心を包み隠しながら言葉をぶつけていたことを、母は全く感じていない風に
見えていました。
私は内心、期待していたのです。
核心そのものずばりに迫らずとも、外側からじわじわ攻めて行くように
語れば気がつくのではないか、そう思いながら不満(子供時代にしてもらえなかったこと云々)を
羅列しました。 が、母はそれを「父のせいだ」と言い、自身が学会活動に没頭しすぎたせい・
功徳信心をもとめるあまり暴走していたせいだとは全く自覚していない事が露見しました。
これはどうしたものだろうかと、私は悩ましく思い。
私の本心はすっぽり覆い隠したまま、母と距離を置くべきなのだろうか。
それとも母にずばり核心を突きつけて、親子・家族関係が崩壊してでも「解らせる」べきなのか。

この「解らせる」とは、母を覚醒させるという意味ではありません。
創価信仰が、我が実家の皆皆に対してどれほど「害毒」だったかを突きつけることです。
それは家族のだれもが試みなかった、いわばアンタッチャブルでした。

40代になって創価の矛盾に気がついた私が、子供時代から得体のしれない苦しみ・悩みを
すべて「宿業」と位置付けて生きてきた、そのことの間違いと愚かさに愕然としたこと。
悩み苦しみを創価信仰で解消すべく活動していたが、実は苦しみの元凶は創価信仰で叩き込まれた
(巧みに組織隷属のために語られる)教義そのものにあったこと。
また兄姉や亡き父とも、創価信仰さえなかったらどれだけ家族として良い時間をすごせたのか・
母ひとりが気付いていないだけで、他のみんなは創価信仰のせいで「迷惑している(いた)」、
そして従順に従ってきた私も、覚醒してしまったあとは被害意識が強くある、という現実を
突きつけたいという意味でした。
以前にも書いたとおりですが、
私の母は(創価信仰を継続する限り)一生成し得ない「一家和楽」を掲げて信心・学会活動をしている。
母の考える「一家和楽」とは家族全員が創価信仰をすることであり、なんだったら活動家になる事であり、
それで家族仲が保たれる事です。
父存命中、父や兄姉に学会理解してもらいたい。信心して欲しいと母は熱望していました。
そして父亡きあとは、兄姉(やその配偶者)が信心に目覚め・継承する事を祈り活動をしているのです。
アンチで現実的な考えの持ち主である兄姉には、残念ながら母の願いは通じません。
母が信仰の話を持ち出すほどに、親子の溝は深まるばかり。
また、生存中の父でいえば夫婦間の溝も深かったと思います。
母はそんな、創価信仰になびかずはっきり拒絶する父兄姉のことを「一闡堤」と評した事もありました。
しかし、そうやって創価信仰に反抗する姿を母にみせることで、母は「自分に題目をあげさせてくれている」
とも捉えていました。
これも、非常に良く出来た創価ロジックです。
「反対されればされるほど、この信心は正しいんです!間違いないんです!大聖人がそう仰っている!」
活動経験のある方なら誰でも、こんな幹部指導を聞いた事あるんじゃないでしょうか。
「教義」という実は限定的なルールを振りかざすことで、人の冷静な判断力を喪失させるのです。
反対されるからには、それ相応の理由があるのに。 その理由を「全く考えさせない」
思考力を根こそぎ奪ってしまう。 それこそが「思考停止」でしょう。

過日、幹部のおばと話をしたとき、ちらりと創価の矛盾点をぶつけてみたところ
「これだから教学のない人は・・」と、困った顔で言われた事がありました。
自分たち世代ほど、教学をしっかりやってないから若い子は信心の軸がぶれるんだよとw
また、母についても同じくで私が創価に対しあからさまな批判(というより事実)を話すと
「あんたは教学がなってない。教学がしっかりしていたら、そんな考え方には絶対ならない」と言います。
親世代の”不幸”をここにハッキリと感じとることが出来ました。
戸田先生時代を知る人達にとって「教学」とは、非の打ちどころのない・間違いも一切ない・
自分たちの行動指針の全てになっているのです。
当時(昭和30-40年代)の創価の、リアルな現場を知ることは中々できませんが
(捏造小説は全くあてにならないしw)実家に置いてある仏教大辞典や御書講義集のボリュームを見れば
当時いかに会員が教学研鑚中心でやっていたかが解ります。
現在のような、会長書籍頻発・老人賛美なんて時代でなかったことは確かです。
そして頻繁にあったという教学試験が、当時まだ大学進学が現代ほどメジャーでなかった世代にとっての
「プライド」になった一面も確かだと思います。
大学を出なくても「教授」「師範」になれるのですw これが選民意識をさらに高めたのではないかと。
しかしそれは、創価の狭い世間だけの資格(?)。世間一般には当たり前ですが通用しません。
だけれども教学を深めることで、自分自身が引き上げられてゆくような喜びを感じた親世代は
かなり多かったのではないでしょうか。
モノも情報も、今ほどない時代です。向学の喜びが大きくあったと想像します。
(当時、現役京大生だった矢野氏でさえ「大学では絶対に学べない学問」と、夢中になったと
いうくらいですし)
結果、創価教学が「この世の中で唯一絶対正しい教え・生きる規範」だと思いこんでしまった親世代は
それを世法にも通そうとするし家庭に持ち込み、子育てにも反映させた。
学会指導を真面目に守れば人生は安泰と信奉し、家族にもそれを押しつけた。
総体革命は、こうして着々と草の根的に広がって行き数百万という数の会員を擁し、
現在の宗教企業体としての創価があるのでしょう。

教学で頭でっかちになっている人ほど、洗脳も深いのかもしれません。
私たち世代の教学試験は、日々研鑚の積み重ねなんてものではなく。
数年に一度、試験があるよと組織から知らされ、試験範囲を勉強会に出席し学び
記憶するだけのものでした。
期間限定で、ただ渡されたテキストを読みこんで解答を覚えただけ。
その「正答」も創価サイドの解釈です。 日蓮大聖人の本意とかけ離れているものもあるでしょう。
覚醒が進んだ事もあるんでしょうが、どの御書が試験に出たのかすらもう記憶にありませんw
ただ、そのような学習機会であっても、自分にとって都合のいい教えだけは記憶に残るもの。
手持ちの御書を開いてみると、ふせんが貼ってあったり折り目をつけたり、マーカーでラインが
入っている個所が幾つもあります。
そこを読むと、その御書を学んだ時、どんな壁にぶつかり・何で悩んでいたかが思い出せます。
日蓮大聖人の言葉を単純に「励まし」と捉え、実生活を前向きに頑張っていこうとするのなら
それはごく普通に「いい心がけ」だと思います。
ただ、創価に罹れば大聖人の言葉を借りた上で実生活以上に「学会活動」に励むよう
組織に利する行動をとるようにと仕向けられていくのが問題なのです。
教学で頭でっかちになったうえ、池田老人との「師弟観」がそこに組み込まれれば完璧なる
洗脳の姿になる。 
”学会を出て幸せなどない、師匠を離れて幸せなどない”と、自縄自縛に陥るのです。

幸せになりたくて学んだ教学が、実は組織隷属の為の手かせ足かせとなっているなどと
洗脳のきいた人達は思いもしないでしょう。 
私だって数年前はそんなこと解らなかったし全然気付かなかった。

今ふと思い出しましたが、部長時代に幹部がこんなことを話していました。
組織運営で悩みにぶちあたった時は「こんな時、池田先生ならどう行動されるだろう?」と
考えてみたらいいと。
池田先生の行動をまねれば、必ず道が開ける。良い方向へ進んで行くものです。
考えても解らなければ、それは師匠を求める心がまだまだ足りないという事。
師匠を求めるためにも、毎日新聞に掲載されている「新・人間革命」を心して拝さなければ
いけない。 読んでいれば、必ずヒントが転がっている。行き詰まりなどないはずだ、と。
活動家に人革の切り抜きを奨励しているのも「教祖崇拝」を深めるためなんでしょう。

当時、上記を聞いて、そんなものなのか?と思いながら、自分にはまず出来ないと思いました。
聖人君子すぎる小説の中の池田老人と、俗っぽい私とでは人となりが違うから
真似なんてできない・真似したって同じこと(結果)にはならない、とw
池田老人を師匠だと思えず・神格化もできなかっただけに、そこは冷静な判断が
出来ていたのだと思います。
内心そう思うだけで、誰にも言った事はありませんでしたが、幹部にそんな思いを伝えたら
どんな説教が待っていたのでしょうか。
いや、すがすがしい笑顔で・目をきらきらさせながら
「大丈夫!先生を真似すれば、人間性も素晴らしく変わっていくから!」なんて
逆サイドきめられたかもしれませんねw
洗脳のきいた幹部に限ってファンタジスタでしたから・・女子部という集団は。
今、冷静に考えると”そんな馬鹿な話あるか!”と激しく突っ込みたくなります。

そして、近頃非公開コメントで寄せて頂いた、創価幹部と活動家のあいだで語られている
事柄を読ませてもらい、創価は単なるオカルト集団になっていると気が付きました。
覚醒した私からすれば「それ何て都市伝説w」と思う様な事柄を、活動家諸氏は真剣に受け止め
それを信じ切っているのです。 
例を上げれば
「東日本大震災が東京震源地でなかったのは、池田先生のおひざ元・学会本部があるから」
「東日本大震災で関西が全く何の影響も受けなかったのは、池田先生の愛する常勝関西だから」
「大阪が自然災害に見舞われないのは、師弟誓願の地だから」
こんな事柄が、まことしやかに語られている組織。
被災地や、自然災害で甚大な被害を受けているかの地の同志や組織のことを一体なんだと思って
このような事を”したり顔”で語るんでしょうか?
組織内にあっても選民意識や優越感をもちたい意識の現れなのだとしたら、それを恥ずべきです。
その姿勢は、学会員という以前に「人」としてどうなのか、よーく考えてみる必要が
あるでしょう。
まさに愚の骨頂としか思えません。

話を元に戻します(話が中々先に進まなくてすみません)。

核心を母につきつけてやるべきなのかと考えた私ですが、それを衝動的に行動に移すことは
しませんでした。
高齢者で一人暮らしの母。 決して健康体では無い母。
ショックのあまり、どうにかなってしまうかもしれない。
何かあった時、すぐに駆けつける事の出来ない遠方住みの私が無責任な事はできない。
迷惑をかけてしまうのは、実家にいちばん近いところに住んでいる姉になる。
そうなってしまったら姉に申し訳ない。
こんな思いが駆け巡った時、この問題を私は自分と母「2人だけ」の問題だと捉えてきたけれど
実は家族の問題なのではないか? 
私は最初からこの問題に姉(や兄)を入れず部外者にしていました。
なぜなら、理解できないだろうと思ったからです。
兄や姉は家族でありながら、学会員という意識はゼロだから。
私が覚醒した・脱会も考えていると姉にカミングアウトした際、姉の反応は
「お母さんには言わない方がいい」でした。
きっと、私が核心をつきつけたいなんて言ったら「馬鹿な事やめて」と言うだろう。
それでも、私がそこまで思いつめているという事を、どうしても姉に聞いてもらいたくなり
私は姉に電話をしました。

(30)に続きます。
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