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非活決意 その後(33)

幻聴に悩まされだしたのは2013年6月後半のこと。
幻聴の声の主を「死神」と名付け、退治してやると決意したのは7月に入ってから。
その「死神」の正体が偽本尊なのではないか?と疑念を持ちましたが、
次第に死神のしわざだと感じる事柄(幻聴・悪い夢を見る)が、実は組織の電磁波攻撃に
よるものなんじゃ?!という考え(思いこみ)に至った直後
私が強く感じたのは”孤独”でした。

私以外、誰もこの事を知らないことへの危機感と焦燥。
私はいま苦しい思いをしている、この事態に困っている。
創価が私を標的にしているんじゃないだろうか?なんて、誰人にも相談ができない。
だって相談したら「この人あたまがオカシイんじゃ?」って疑われてしまう。
「考えすぎなんじゃないの・病院行ったら?」と言われるのがオチだろう。だから言えない。
しかし、どうしたらいいのだろう。
この幻聴や悪夢が組織からの・なんらかの攻撃だとするなら、私は狙われていると言う事。
仮に私が命をも狙われているとして、
いま誰にもこの話をしないまま、そうなってしまったら(精神を酷く病んだり最悪死んだら)
どうなるの?
もし死んだ時は、不審死やら自殺として片付けられてしまう訳?
そんなの不本意だ・・と、そこまで考えるようになっていました。
こうなるともう「誇大妄想」です。

前回の記事に
私は心と頭でどれだけ創価を拒絶し・自分の意見をはっきり言えるようになっていても、まだまだ立派な
創価脳だったということです。

と書いたのですが(この文章の意味がわからない、と非公開コメントを頂戴しました)
「思いこみの激しさ・強さ」ありきで目の前の物事を判断し・囚われることを指してそう書きました。
日蓮大聖人と御本尊様を信じ・創価が絶対正義の仏意仏勅団体と信じ切って暮らしていた頃も、
その日蓮仏法が誇大妄想で・宗教をかさにきた巨大ビジネスだったとはっきり認識した後も、
私は目前の出来事をフラットに「ありのまま」受け止めること・見つめる事が出来ず
自らの心が作りだしたモンスターにより歪みを加え・それを誤った方向へ肥大化させていました。
こういった一連の思考遷移が「創価脳」と呼ぶにふさわしいのではないか、と思うのです。
「思いこみの激しさ・強さ」=信仰支配下にある状態です。
森羅万象あまねくすべての出来事には、因果があるとの大前提で進みます。
創価脳においては、アクシデントや不安ごとがおきた際に「自分の宿業が出た」と捉える。
そして「宿業」を消滅させることが現実問題の解消に直結すると考え
今こそ信心しかない、と信仰を軸とし創価の方を向く。
その思いこみから、必死で何時間もお題目をあげてみたり・周囲にいる非会員を勧誘(折伏)してみたり、
果ては同中や会合連れ出し・新聞推進や選挙の投票呼びかけ(F取り)へと繋がって行きます。
そしてこれら「自身の問題解決」のための信仰活動がひいては周囲(外部友人)の幸せにつながり・
最終的に世界平和につながっていくと信じ込まされている事も重要だと思います。
「壮大な使命感」これも実は立派な誇大妄想なのです。

余談ですが友人の親御さんで、身内に不幸事が続いた際
家族の生命保険を解約してまで財務に大金を投じた人がいました。
「貯め込もうとする性分がよくなかった、広布にあますことなく使って頂くという思いで暮らして
いなかったからこうなった(悪い出来事が続いた)」と理由を述べていました。
当時の私はバリ活でした。この言葉に対しての感想は「そういった考え方・罪障消滅の方法もあるんだ~」
という”感心”でした。
ちなみに、この親御さんはそこそこの幹部でした。
誰かに指導を仰いでそうした、というわけではなく
自発的にそのような、生命保険を解約してまで財務するという行動をとったようです。
組織に煽られずとも「自発能動」なのです。
本人が良ければ・自己満足でそうしたのなら、他人がどうこう言える筋合いのものでは無いのでしょうが
現在の私からすれば”こんな毒のまわり方ってあるのか・・”と、不憫になってきます。

断っておきますが、私は因果を全否定しているわけではありません。
自らの行いが自らに返る・言葉はブーメラン、そのような事は日常茶飯事、誰人にも起こっている事。
ただ、その「因」を誰も見たことのない前世・過去世の宿業だと決めつけ
”特定宗教団体の組織活動に勤しむことで罪障消滅できる・問題解決できる”という方法論に対しては
NOを突きつけます。

そして「誰も見たことのない・突拍子の無い」ことを不幸・諸悪の原因だと決めつける思考回路が
創価に長く居ると、しみついてしまうのではないか?と私は思うのです。
これは私とその身内の傾向なのかもしれませんが。
たとえを上げればキリがありませんが、伯父がとつぜん認知症になった際
その因を「朝晩の題目の時間が短かったからだ」と言い、奥さんは長時間の唱題を開始。
後期高齢者の伯父もその奥さんもとても人柄良く、品行方正で、学会活動にそこそこ励みながらも
信心歴50年以上、静かに暮らしておられました。
おそらく「題目の時間が短かった(=信心が足りなかった)」事くらいしか
因にできなかったんだと思うのです。
子供達(非活)の手配で夫婦揃って老健入所が決まりましたが、それを奥さんは「功徳だ」と言って
いたとのこと。
老後、誰人にも可能性のあることにも関わらず「殊更ネガティブ」に捉え嘆いた事が良く解りますし、
”信心していれば守られる”との大確信(実は幻想)が打ち破られたかのような慌てぶりが
見てとれました。
話がそれますが、池田老人の健康状態についても、本来であればあの年齢ですからナニゴトかあっても
全く不思議はないと思います。それは人の常でしょう。
現実に同時中継に姿を見せる事はなくなっても・公式な場面(顕彰表彰授与)に一切姿を見せなくても、
「お元気」だと信じているし、いつ撮ったか不明な写真が偶に紙面に載ることで安心している。
日々激励が・随筆が小説が掲載されるから「お元気」なのだと多くの会員は認識している。
信仰功徳の「健康長寿」を旗印としてきた会員において、永遠の指導者の「殊更ネガティブ」など
あってはならない事なのだ、と幻想を抱いている事がよくわかるのです。
全てが強い思いこみありきで進む世界だという事の、非常に解りやすい事象でもあると感じます。

また母は「兄が痴呆になるとは思いもよらなかったけど、浄土宗は男が立たないから云々」と
実家の改宗以前の宗派をもちだして納得しようとしていましたw ビックリです。
一家入信後、もう50年以上経過しているのにもかかわらず、まだ罪障消滅出来てない事のほうに
疑問をもつならわかりますが、宿命転換なんて実はキリがないんだと自覚しているような
発言だと思いました。
日々活動に勤しみ、お題目をたっぷりあげていても、何か事あれば「宿業」だという。
この矛盾に何故気がつかないのか?覚醒してしまうと不思議で仕方無かったのですが
「誰も見たことのない・突拍子の無い」ことを信じているからこそなのだな、と
最近合点がいきました。
つまり、宿業も「誰も見たことのない・突拍子の無い」事ですが
功徳をもたらす御本尊様の摩訶不思議な法力も・信仰による福運の蓄積で得られるという
盤石な来世も「誰も見たことのない・突拍子の無い」事だからです。
目に見えないものごとのはたらき、という方がわかりやすいでしょうか。
そういった事柄を強く深く信じ込み・思い込まされているからこその思考回路ゆえに
”ただありのままに現実の出来事をみて、粛々と受け止め対処する”という事が一般の人よりも
難しくなっています。
これが生きづらさにつながり、心を病む原因の一つにもなっている気がしてなりません。

本記事で書いている2013年7月時点の私がまさにこの状態であり
幻聴や悪夢についてその因を「組織の攻撃じゃないのか?」と疑っていた。
こんな憶測、突拍子もない事だと今は思います。
「数カ月の間にいろいろ考える事がありすぎ、心身ともに疲れが溜まったんじゃないか」と
当時は考えなかった。
通常であれば後者のような考え方に至るのが普通だと思います。

2014年4月、今現在は目の前の出来事を「思いこみ」に囚われて見る事は少なくなりました。
不安に駆られ、憶測ばかりが先走るような時は「一寸待て」と自分に声をかけます。
一呼吸置いて、静かに見つめ流れを整理しようと促します。
それがひとつの訓練だと思いながら。
ただ、2013年7月当時はまだ「思いこみ」に囚われまくっていた頃です。
その点をふまえて話を進めます。

いま私が悩んでいる事は誰にも話せない。
けど、私がなんらかの不穏な事情で精神をおかしくしたり・最悪死んでしまった時に
この今の事実を全く誰にも知られないままで終わるのは絶対に嫌だ。
たとえば私がなんらかの攻撃にあって亡くなった後にでも、証拠を残しておけるなら・・。
そのときにやっぱり、ブログを書いて残しておくのは有効じゃないかと閃きました。
現在進行形を記録しておきたい。
しかし、以前やっていたブログはパスワードの再設定が出来ずログインが出来ない状況。
(この時は、再設定が出来ない事さえ組織の攻撃じゃないかと疑っていたので)
もしかしたら新たに始めたって、すぐ消されるかもしれない。
いま残っている記事でさえ、そのうち消されてしまうかもしれない?!
ならば急がねばと、以前やっていたブログの過去ログを収集・そこに加筆するよう経緯を加え
保存しました。
今思えばひどく滑稽なのですが、そこまで精神的に追い詰められていたということです。
というよりも、自分で自分を追い込んでしまっていたのです。

(注:誰人も攻撃に遭わない<全くそのような事柄じたい無い>と認識しているわけではありません。
 実名で真っ向勝負を挑んでおられる方のことは常に案じております。 
 絶対に何事もあってはならないと強く思いますし
 そのようなことのないように、心ある皆さんと経過注視していくこと・決して無関心にならないことが
 肝要だと思っています)

次に私がやったことは断捨離でした。
明日にも命を落とすような事があったとき、どこに何がしまってあって・何をどう残していいのか
解らない状態にあっては、家族を困らせるだろうし、私が保存した文章も発見してもらえなければ
意味がない。
徹底的に物を厳選整理しようと思いたちました。
転ばぬ先の杖、と言っていいか解りませんが、このときはそのような心境だったのです。
結婚から10年余り、先々引っ越す時に整理すればいいやと、放置していた物を片付けるのに
1日では無理だったので3日がかりでしたが、その間に連絡を取ったママ友に
「いま断捨離してるから忙しい。10年分だから全然終わらない」と言うと
「家中の気が流れて、凄いことになるよ~」と彼女が言いました。
私には意味のわからない言葉でした。というよりも、そのような霊的なことは信じない方でしたし
(なにせ、創価でオカルトはご法度でしたから・・けど実際創価が一番オカルトだったというw)
気にとめませんでした。
因みにこの断捨離を頑張っている間も、毎朝起きぬけの幻聴があり
「そんなに(掃除片付け)頑張ってどうすんの?もう人生終わったも同然なんだから、
 頑張ったって一緒なんじゃないの」と聞こえ、腹立たしくて起きて布団を殴った日もありました。

断捨離が一段落ついた日から、おかしな現象がおこるようになったのです。
昼間、子供達のいない時間帯に掃除をしていると、電源を入れていないテレビの液晶に
白い光の無数の玉がちらちらと映り込む(プリズムの様な)のが見えました。
しばし茫然と眺め、これは何?窓の外に何か光るものでもあったっけ?とそちらの方向を
見やった後、再び液晶に目を戻すと、なにも映っていない。
また、家の中に全く光の入らない(窓の無い)空間があるのですが、そこにある黒い家具に
白い光の玉がちらちら蠢くのを翌日も目にし。
目の病気だろうか?と不審に思っていたのですが、その日プレを休んだ次子の口から
「さっき洗面所に白いOOがいた」という言葉が出て驚き。
OOとは、ゲームに出てくるお化けの名称です。特に怖がる様子もなく報告だけ。
まさか・・と思いつつも、3歳児のいうことだしと余り深く考えませんでした。
翌日、夕飯時に長子が突然「ギャ!」と大声をあげたので、なにごとかと聞くと
「緑色の小さい人間が飛んでた、こっち見てた。和室(仏間)のほうに飛んでいった」と
泣きだしたのです。
前日、次子が白いお化けを見たという話を長子にも聞かせたので、そんな妄想を見てしまったのかな?
とも考えたのですが、長子の気味悪がる様子が尋常でなく。
また、1ヶ月前にとりかえたばかりの電球が突然切れたりもし。
これは一体どういう事なんだろう。
そのときふと「気が流れて凄いことになるよ~」と言ったママ友の言葉が思い出され。
もしかしたら、彼女の家でもこんな事があったんだろうか?と気になり連絡してみたのです。
変な事聞くけどごめんねーと前置いて話すと、彼女のところでも不思議な現象があったと
教えてくれました。
そして「神社で御祈祷を受けたらおさまった」と言いました。
2013年春先、私が不運続きだと話した時「お祓いに行ったら?」とアドバイスくれたのも
彼女だったのです(この記事)
春先はその言葉を「お祓いなんて受けたって・・(どうしようもないんじゃ)」と受け止めた私でしたが
どういうわけか、この時は直球ですとーんと胸に入って来ました。
”そうだお祓いだ!”と。
私自身、もう藁をもつかみたいくらい、しんどかったのだと今はそう分析します。
どこの神社でしてもらった?どうしたらいいの(申し込み)?費用は幾ら?など
思い付くまま質問し、翌朝気の変わらないうちにと、子供達を送った後に神社に向かいました。
そして初めて自分の意志でお祓いを受けることにしたのです。
当時の私においてはかなり思い切りの必要な行動でしたが、勢いで進みました。

(34)に続きます。

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