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非活決意 その後(35・完)

2012年9月、
それまでの人生40年余り、極善団体だと信じ切っていた創価組織が
「世界平和を目指す仏意仏勅団体」なんかではなく・
大看板は嘘っぱちで、実は会員の功徳欲しさや現世利益欲しさー又は自己実現欲求に
つけこみ、カネ・無償労働力・票を欲しいままに貪り、
ごく一部の人間のみが権力や富・名実の伴わないハリボテの名誉や地位を維持するための
とんでもないシステムだったと気がついたのが、2012年夏の終わりでした。

その後(2012年秋から2013年夏にかけて)約9ヶ月は
私にとって「第二次覚醒期」ともよべる期間で、その間に起こった出来事・経験を
”非活決意 その後”として綴ってきました。
書き始めた当時、たった9ヶ月の出来事を書くのにこんなに長く(34回にも)なるとは
思いもよらずでした。
どこも端折れなかったというか、詳細に書き残したかった。
書いている途中であれこれと過去の事を思い出し、折々盛り込んでいったらこうなった次第です。
それでも後日読み返すと、これも書けばよかった・抜け落ちていたという事柄が出てきたりで。
また改めて別記事にしたいと思います。

皆さんからのコメントを読ませていただくたび痛感する事は
人それぞれ、覚醒のパターンもスピードも違うという事です。
それこそ創価信仰というものが1000人いれば1000通り観念の違いがあるのと同じく、
気づきのきっかけも・覚醒へのプロセスも、無限のオリジナルストーリーがあると思います。

私の場合はまず財務がきっかけで創価が宗教をかさにきた搾取団体だったと気が付きました。
そして”非活決意 その後”で綴った9ヶ月を経て自身の信仰観(選民意識&誇大妄想)が
崩壊したことで、混沌や困惑や迷いも霧のように晴れて無くなりました。

組織の矛盾に気が付き創価離れを考えたものの、「怖れ」を強く感じ・思い悩む人達に対して
絶対に焦らないで欲しいと私は伝えたいです。
それらが無くなる日は、必ずやって来ます。
非公開コメントで多く頂くのが、信仰という柱を倒したあとで自分の心の持ちようについて。
また、信仰観についても悩んでおられる方が沢山いらっしゃいます。
そういった方々は100%学会2、3、4世です。
子供時代から刷り込まれたそれは「東から日が昇り西へ沈む」法則のごとく月日に寄りそって
きたものです。
それを「まちがいだった」と頭でわかっても、心が中々受け付けない・うまく処理できないといった
お話を多く聞かせて頂いております。
そして案外、覚醒した人のブログを読んでもそういった心の葛藤経緯が書かれているものは
見当たらないようです。
私はそんなにあっさり・さらっと・スマートに折り合いをつけられませんでした。
コメントを寄せて下さった方々のお気持ちがとてもよくわかるし、私の経験が何かの参考になればと
綴ってきました。
私が唯一お勧めできる事は、何度か書いていますが「自分の信仰史と人生を振り返る」作業です。
どういった時に功徳を感じたか・どういったときに疑問や不信を感じたのか・親との関係性などなど。
丁寧に、冷静に己のこれまでを振り返ってみることで、必ず見えてくるものがあります。

私は第一次覚醒で創価を否定しても、御本尊様に対して否定の気持ちが浮かびませんでした。
創価という団体と・御本尊様はベツモノ。 
そんな考えが活動家時代より基礎にあったからです。
教育方針的に、私の母が常に口にしたのは
「御本尊様と自分の間に他人を入れてはいけない」でした。
意味は、学会組織の中でうっとおしいと思う人物や・非道な幹部が居ても信心とは関係ない。
同志であろうが、他人は他人。
組織の中で腹立たしいとか信じられないと思う様な出来事があっても、深く掘り下げない。
それは己の信心とは関係のない出来事だから。まるっとスルー推奨。
大事なのは「自分と御本尊様」を見失わない事だ、というものです。

私が最初の覚醒段階(2012年9月)で創価を見限っても
「御本尊様だけは絶対」だと信じて疑わず、個人信仰を貫こうと考えたのも
上記のような素地があったからです。
そこに40年近くにわたって、人生のすべてが御本尊様に司られ生かされたという
「選民意識~誇大妄想」という裏打ちもプラスされ、この呪縛は非常に強固なものでありました。
第二次覚醒は、この「選民意識~誇大妄想」に心を揺さぶられた期間。
それが自分の生きる後ろ盾であったのに、誇大妄想だと気づいてしまったショック。
プラス、その誇大妄想ありきの絆でやってきた親子の信頼関係。
このあたりがいっきに崩壊したのが、ちょうど一年前の今時期(GW以降)でした。
あれから一年と振り返ると、まるで他人を見るようなのです。
すごく不思議な感覚なのですが・・。
自分がいかに「思いこみ・妄想に囚われた身」だったのか、可哀相だったなと思います。

そして今、改めて思う事なんですが
上記した「自分と御本尊様の間に他人を入れない」この、近眼的な思想が大変危険なものであり
マインドコントロール手法に他ならなかったということです。
また、活動家の間では(おそらく私より世代が低い方々は)
「自分と池田先生の間に他人を入れない」こちらの言いまわしの方がしっくりくる・聞いたことがある方が
多いのではないでしょうか?
私が20代初めに馬鹿幹部の浅はかな言動がきっかけで組織をドロップアウトした際、
激励に来た幹部も「自分と池田先生の間に他人を入れちゃいけないんだよ」と言いました。
(この記事に書いています)
私は師弟観のない人間ですから、この言葉には全く心が動きませんでした。
しかし、多くの池田プロパガンダを受けている会員たちはこの近視的思想
「自分と池田先生の間に他人を入れない」を盾に、様々な都合の悪い・整合性のとれない事実と
向き合おうとしません。
「師弟」という、思いこまされな尊極世界に力点をおき、自発能動の思考停止。
それがどれだけ窮屈な世界で、簡単に抜け出せそうな迷路を自ら複雑なものにしているのか。
尊極世界の妄想にとりつかれてしまっては、気づく事ができません。

誇大妄想が取れた昨夏から、今日にいたるまでの間
私事で悲しいことや、不運と思える出来事もありました。
以前の私であれば「信心・学会活動をさぼったせいだ」と怯え、慌ててお題目を何時間もあげたり
とってつけたように友人に仏法対話を始めたかもしれませんw
しかし誇大妄想が失せて事が起きると、不思議なほど落ち着いていました。
なにもトリガーがないって、こんなに心丈夫なのか・・と驚いたほどです。
”一般人の方々ってこういう感じだったのだなぁ”と改めて。
私が青年部時代、切羽詰まった(と思われる)悩みを抱えていても飄々・淡々としている外部の
友人が何人も居たのですが、私はそれを「信じられない」思いで見ていました。
勝手に相手を「宿業の嵐の中に居る」なんて、失礼なきめつけで見て「救わねば」と思っていました。
それが、どれほどトンチンカンだったのか改めて理解し、数々過去を反芻しては
穴があったら入りたいほど恥ずかしくなるのです。
本当に大きなお世話でした。

なにごとか問題にぶちあたった時、特定信仰を持たずとも、
シンプルな思考で・心がけで、今自分がやるべき「現実的な手立て」をしっかり考え行動し、
必要であれば周囲にも話し相談をし、煩わしい中にあっても生活の基本をしっかり手当しておれば
得体のしれない不安に駆りたてられたり・苛まれたりすることはありません。
かえって創価信仰を心の柱として生活していた頃のほうが、強がる裏で狼狽していたように思います。
”おすがり信仰では無い”とよく組織では言いましたが、それなくしては生きられない時点でもう
「おすがり」なのであり、大きな矛盾です。
そんなものがなくても生きていけるし、人生有意義です。
それが解って、本当に私は楽になりました。
どれだけ自分をくだらないことで追いこんでいたのかと、活動家時代の自分を憐れに思います。
でも、今更でも気付けて良かった。


”非活決意 その後”はこの記事をもって終わります。
次からは、創価脳な親との関係(私の場合)を書いていく予定です。

@@@@@@@


質問・ご心配いただいた件で追記します。

私は神道信仰を始めたわけではありません。前回の記事を見て、そう思われた方が多いようです。
氏子になったわけではございません。
神道に限らず、ユダヤ教や鎌倉仏教の本を読み、幅広く知識を得ている現状です。
なにか特定の信仰に委ねている訳ではありません。 

もうひとつ、現在、母との関係は表向き良好ですw
絶縁状態ではありません。経緯は追々、書いていきます。

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