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創価脳な親との関係(序)

今日から、”覚醒した私と創価脳な親との関係”について書いていこうと思います。

学会2、3、4世が自分で創価の矛盾に気がつき、「もう無理」「脱会したい」と考えても
即行動に移せないのが常だと思います。
その原因は「親(家族)」。
親(家族)もとっくの昔に非活で学会や信仰がどうでもよくなっているとか・他の理由で全く意に
介さないのであれば、気にせず自分の一存で決断が可能でしょうが、
そんなケースは少数派ではないでしょうか。
例えば学会活動がおざなりになっていたって、「信仰」となれば話は別だとなる親世代も多くいます。
脱会や御本尊返却に「仏罰」を連想する・又は親族やご近所学会員への心象を気にする(面子)・
そして親や家族が「自分の信心が足りなかった」などと自責し大きな心の負担・傷にしてしまう懸念。
猛反対をうけたり、親子家族間の亀裂断絶を生じかねない事態が容易に予測できてしまう。
親や家族がバリ活でもそうでなくても、MC下にいるのなら波風が立つのは必定です。
それらを回避するためにも時間を稼ぐよりほかない・・親をみとってから・・と考える覚醒者の方々の
思いは至極自然なことだと思います。
自分で自分の身を守る、基本的なことです。
また、外野がとやかく言う様な事でもありません。家族の問題なのですから。
ご自身が納得しているならそれでよいことだと私は思います。
 
実は、信仰は個人の心の問題です。親子家族間であってさえ、侵すことはできないのです。
だから親や家族のことなんて気にとめず勝手に脱会したってOK。法に触れるわけでもない。
「信教の自由」として憲法で認められている、いち個人に与えられた権利であり、自由意志が
認められてしかるべきです。
しかしそんな理屈常識が通らないのが創価という魑魅魍魎な集団。
だから話がややこしくなります。
本当に多くの方が悩まれつつも、自分なりに折り合いをつけ問題と向き合っておられ、
もれなく私もその一人です。

私も、脱会意志は1年以上も前からありますが、それを行動に移す事はしていません。
ブログのトップ記事に「Xデーを内側から見る事を目的に在籍」と書いていますが、
これはブログを開設した当時の気持ちでした(2012年秋)。
現在は完全非活でほぼ外部の様な生活ですし、地域の学会員との交流も無くなり
まったく内部情報が入って来ません。
なので「Xデーを内側から観察」なんて出来そうにないし、実はもうどうでもよくなっています。
面倒なので書き直していないのですがw
タイミングさえ合えば明日にでも・・という気持ちです。
しかし、Xデーがひとつの目標であることは確か。
それが創価脳な母との会話の中で導き出した「現役活動家(母)の本音」にあります。
私と母のあいだで、不用意に感情を荒立てず・やや合意の下で創価を辞められるであろうタイミングが
「池田老人Xデー」なのです、いまのところ。
けれど、それが”完全な約定”ではない事をこの一年近くのあいだに思い知ることとなり、
MC下にある人間(母)の、堂々巡りな思考習慣(思考停止含む)の前で、
「うーん・・」と唸らされています。
けど、私は諦めていません。
(初回なのでやや抽象的な書き方をしてしまってごめんなさい。追々書いていきます)

これから綴っていく事はリアルな創価活動家との対峙記録です。
最初は「対話記録」と書こうとしたんですが、改めて「対話」の意味を調べてみると「違うな」と思い。
この11ヶ月間を振り返ってみても、私と母のそれは「対峙」という言葉がぴったりなのです。

世間一般的な「対話」の定義は、互いに理解し合うこと。
お互いの基本的なスタンスを踏まえながら、相手の意見を尊重し耳を傾ける事。
もう一歩踏み込んで、相互理解の先に融和点を探り合うことを「対話」と呼ぶのではないか?と
私は思うのですが、両者ともに「解りあいたい」と思っていたにしても、創価問題は融和点を見つけて
どうにかなるようなものではない、と思っています。
というか・創価の矛盾に気付いてしまった私からしたら、融和点なんて不要だし、ありえないのです。

私は母を覚醒させること・創価を見限る事を目的に話を続けている。
母は私を活動に引き戻そうと・学会とその活動の正当性を訴えんがため話を続けている。
覚醒者(私)・活動家(母)、両者ともに「自分の主張を相手に認めてもらう」この着地点を見ており
融和点なんて考えていない。
言い方を変えれば、互いに現状「相手を負かそう」としています。
勝敗・白黒をつける目的のそれは「対話」とは呼ばないのです。
「対話」ではなく「対峙」になってしまうのは、創価脳のMCは強固で「絶対に引かない」という心、
「こちら側が絶対に正しいのだから論破されるわけはない・されてはならない」という強い意志が
働くから。
また、覚醒者の側は「既に踏んだ轍」でわかっているだけに、はがゆい思いをするが故
感情的になる事も多い。
アナだらけの理論武装だと見透かし・解っているからこそ、創価脳の言葉に苛立つ。
全くの他人ならば言いたい放題言いあって”こいつはだめだ” どちらかがそう思えば話を切り上げ、
二度と関わり合いにならない、という選択肢もありでしょう。
しかし、そうはいかないのが親子・家族間。
母と私は親子です。
交渉決裂でもう一生顔を合わせない、そんなわけにいかないのです。

本覚醒(日蓮仏法をも否定するに至った)後より今日まで、母との会話にて
胸をえぐられるような思いも何度かしました。
これは母自身の性格によるものなのか・MC下にあるためなのか、どっちなのだろうか?と
悩まされたこともあります。
そして創価のMCの強固さに打つ手なし・・そんな気持ちになった事も数知れず。
これは自分で実感として気づくよりほかない問題なんだな、と痛感させられることも度々。
また、高齢独居の母を覚醒させてしまうことが本人のためにならないのでは・・との懸念も
全く無いわけではありません。
最終目的は「覚醒」ですが、現状の課題は
「創価的非常識(思考回路・発言)を改めさせる」
「人の尊厳について考えた上で行動・発言してもらう」
これに重点を置いています。 経緯を追々書いていきます。

「創価を憎んで人(母)を憎まず」をモットーに、
現在進行形で対峙は続いています。
そしていつ終わるかも解らないテーマなので、相当長くなりそうな気がします。
これまでシリーズ的に書いてきた記事とは違い、時々別の話題も挟みながらの更新と
させていただきます。 宜しくお願いします。

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