唱題について考えた②

前回、百万遍唱題に触れましたが、私自身が百万遍をやったときの話を。

30歳を迎えたころ、周囲で百万遍唱題が流行したことがありました。
当時、30歳以上の女子部メンバーを対象としたセミナーや会合が定期的に行われる流れがあり、
そこで提案された記憶があります。
この会合の第一回は総県単位のものでしたが、方面の婦人部長が幹部指導にやってきて
「30歳を超えたら、特に30代半ばを超えたら、自分のために祈りなさい」と言った事に目からうろこでした。
”自他共の幸福”を祈っていくことが当たり前と教わってきたのに、急な方針転換w
「女性の幸せはなにも結婚だけではないが、結婚のこともしっかり祈念していかねばならない」と
婦人幹部が言っていたのが印象的でした。
しかし、急にそんな事言われたって・・と違和感を覚えたアラサー・アラフォー女子部も
きっと多かった事と思います。
なんせ「学会に尽くしておれば全てが思い通りの境涯になる」なんて叩き込まれてきたわけだから。
そう信じて脇目もふらず、必死にやってきたのに。
今頃「テメエの幸せ(結婚)は、テメエで何とかしないとどうにもならねぇぞ」なんて言われても。
話が違うじゃん!と、口には出さずとも感じた人もいたのではないでしょうか。

思うに、独身のまま婦人部へ勇退するメンバーの増加に憂慮していたのではないかと。
自分のことはそっちのけで部員さんや友人、世界平和と夢見るように祈り・活動に邁進するあまり
婚期を逃す女子部は、当時から山ほどおりました。
女子部時代は修行時期と、恋愛御法度を池田老人がエゴイズムで推進していたのが仇になったわけですw
会員増が組織維持の命綱にもかかわらず、男女青年部が活動に猛進するあまり結婚できないまま、
ひとりもので壮年婦人部にあがってしまう事を想定出来なかったとは、非常にお粗末だと思います。

それまでの私は、お題目といえば「困った時の5時間(2万遍)」というもので
普段はせいぜい15-30分が限度でした。
そこを、このときは半年で百万遍あげたのです。
以前も書いたと思いますが、私の父はアンチでしたから夜に声を出してのごん行唱題はNGでした。
うるさいと怒られるからです。
仏間と父の寝室が廊下を挟んで向かいでしたので、ドアを閉め、囁くくらいの小声音量で
唱題していました。
小声唱題は催眠効果絶大です。やった人なら分かると思います。
会合から帰宅した23時ごろから開始、気付いたら仏壇の前で突っ伏して寝ていた事も多々w
そこまでしなくてもよかったのに、と当時の行動が今は滑稽に映るのですが、
お題目の「数」が何かを確実に変えるのだと、信じて疑わないからこその行動でした。

この百万遍挑戦期間、どうして?と信じられないくらい、悪いことが続きました。
周囲のメンバーも同じくで、そんな状況を「魔が競っている!」と皆が認識。
魔に負けないよう、みんなで目標完遂しよう!と励まし合っていました。
私自身におきたことで言えば、仕事で担当していた先が計画倒産で夜逃げ。
大口の売掛金が残っており、生きた心地がしませんでした(結局、倒産&自己破産したため
取り立てならず)。
また、過去に少しだけつきあいのあった人物の件で警察からお尋ねを受けるといったことも
ありました。 自宅に直接連絡が入り、運悪く私の不在時で父が応対。
大した事ではなかったけれど、警察から連絡が来るとは何事かと父から激怒され嫌な思いを
しました。
組織とは何の関係もない事でしたが、普段より学会活動で夜遅くなる事をよく思っていなかった
父から「お前は外で一体なにをしているのか?」と、訝しい目で見られ、心底嫌だったのです。
その他、細かい事は忘れてしまいましたが「これぞ功徳だ!」なんて実感できることは
百万遍挑戦期間中には無かったのです。
周囲も失業したり、交通事故や盗難に遭ったメンバーもいました。
当時は”正しい行いをするときに、魔はつきものなのだ”なんて思っていましたが
今振り返ってみれば、このようなアクシデントの連続連鎖は「単なる偶然」だったという感想しか
浮かびません。
偽本尊云々も関係ありません。全てはただの”偶然”だったのです。

百万遍をあげて、具体的にこれが叶った!という様な事も残念ながら無いのです。
具体的に祈念していたにもかかわらず、です。
ただ、後付けで起こった・特に祈念していたわけではないラッキーを、百万遍のおかげだ!と
思いこんだりしていました(主人との再会~結婚についても百万遍のお陰と考えていました)。

ただ、この百万遍で私が「体得した」と、当時思っていた事柄があります。
それは
「どのような結果になっても、それが御本尊様の答えなら私は何もかも甘んじて受け入れる」という
揺るがない思いでした。
シロかクロか、結果のはっきり出る事を祈念したとして、自分が望まなかった結果になってしまう事も
当然ありました。
それは努力云々とは別次元の事柄が大半なのですが・・第三者の判断にゆだねるような事柄。
そういった事に対し、百万遍をあげる以前の私は、思い通りの結果が出なかった場合に
「悔しい」と感じたし・「こんなに祈り動いたのにおかしいじゃねぇか!」と若干の不信を抱いたりも
していたのです。
それが、この百万遍をあげている最中にふと
「私は御本尊様に祈念した結果ならば、どんな不本意も受け入れられる」と閃きました。
試されるかの如く、祈れども祈れども(自分の望む)「結果」は出ない・それどころか真逆の状況に
追い込まれていく事だってある。
信じる事って難しい。でも、私はどんなに悪運に弄ばれても、御本尊様への「絶対信(心)」は
失わないのだ!という、ドMな心境に達していました。
それを勝手に”自分の境涯が上がった・達観した”と考え、自分はひとつ何かを越えたのだと
喜んでいましたw

今思えば、めでたいことこの上ありません。
繰り返しになりますがポリアンナ症候群の「極度に後ろ向きな現実逃避システム」に
まんまと嵌ってしまった、そういう事だったと思います。
すべてを”御本尊様に司られて生きている”と考えるように、祈りの中で自然とそのような境地に
達して行ったのです。

覚醒後に様々な宗教の本を読んで得た知識を重ねつつ、↑上記当時の私の信仰観を
分析すると、私のそれはもう、オリジナル宗教。
創価の教義からも逸脱しています。
御本尊様を擬人化していたし、まるでキリスト教における「神」のような位置づけ。
私は「御本尊様に生かされている」という意識が強かった事を、以前に書きました(この記事)
元々もっていた選民思想を、更に更に強固なものにしたのが、百万遍唱題という行為だったのです。
お題目の「数」を重ねることで、自己暗示にかかっていったのだと、今更ながら気が付きました。

そして多くの学会員がお題目の数にこだわり、お題目で全てが解決する!と強固に信じて
疑わない事も、この「自己暗示」なのだと思う次第です。
たまたま願いが叶ってラッキーだったことを「御本尊様のお陰」「お題目の効果」だと信じて疑わない。
願い事が叶わなかった時は「不本意でも必ず意味がある」と思いこむ。
これほど都合の良いことって無いんですよね・「信仰」という大看板のもと、搾取する側の組織にとって。
だから「宿命転換のカギは第一に題目、第二に題目、第三にも題目」なんて言葉が
池田老人から出たのでしょう。
どうぞ会員のみなさん、どんどん自己暗示にかかっちゃって~!
題目上げるのはタダだしね!ってノリで。
教義から逸脱しようが、池田老人を尊敬できなかろうが、お題目は絶対&組織から離れない事さえ
植え付けることが出来れば搾取する側にとっては大成功で、万事OKということです。
だから毎月報告させて地道なお題目推奨運動をしていた、これも有効な組織への囲い込みであり
MC手法のひとつであったとわかります。
「お題目を上げて→願いが叶う・功徳を頂く」
この経験を一度掴ませれば儲けもの。
しかも、苦境や絶体絶命のピンチをたった一度でも乗り越えれば、その還りは絶大。
それを生活の習慣とし・人生の法則とし・常識としてしまうのは、組織というよりは思いこんだ「当人」。
組織にしてみれば、まるでゼロ仕入れで濡れ手に粟のぼろ儲けです。
本記事を書いていて、ふと思い出したのが、私の覚醒のきっかけを作った支部婦の言葉。
(この記事です)
未活動の私に向かって「信心の確信がないわけでもないんでしょ?」と尋ねてきたこと。
信心の確信とは、「創価信仰依存」。
薬物依存症と同じく、宗教依存症という言葉も存在しています。
wikiを読むと、まるで創価の活動家のことじゃないかと思ってしまうほどです。
そんなわけあるか!と思う方は、冷静にご一読されることをお勧めします。

”お題目には自己変革の力がある。願いをかなえることができる。前向きに生きられる。
 それを教えてくれたのは学会であり先生だから、組織や学会員がどんなに腐っていたって
 自分は学会を離れたり・辞めることは出来ない”
このような内容の非公開コメントを、活動家の方から頂いた事がありました。
様々なブログ、サイトでいわれているとおり、自己変革の力は題目にあるのではなく、
自分自身に内在しています。
それを引きだす方法はなにも題目じゃなくてもいい、というか、別の行動行為でも可能なのです。
ごくシンプルに「自分を信じる」これだけでいいのです。なにか特定のモノゴトに委ねずとも。
そこを「お題目のお陰」と思いこまされている・自己暗示にかかっているだけです。

今の私は、特になにかに祈るようなことがなくても、自分や周囲におこる出来事を受け入れる用意が
あります。
特に何にも祈っていないから・こうなれああなれああなるはず、と無駄な期待(?)を寄せない分
失望もしないし、不本意な結果であれば次はこうしてみようああしてみよう、と現実的かつ前向きに
考えます。 
またはもうやめておこうとか、改めようなど、これまた現実的に判断します。

決して「お題目が足りなかったからだ」とか「学会活動してないからだ」なんて考えない。
そんなの現実に起こる出来事になんの影響も関係もない。
今だから言えますが、お題目やら学会活動やら御本尊様と実生活が紐付になっている、という考えは
足かせ以外のナニモノでもありません。
そこに学会信仰をもちこむこと・信心根本とかいう訳のわからない法則をあてはめることは、
本当に今やるべきことを見失わせ・現実的な状況把握ができなくなるだけなのです。
「功徳」や「福運」という、創価独特の幻想を捨て去ることが出来なければ、私の言っていることは
理解できないと思います。

余談ですが、
最近、公開しようのないコメントを入れてくる、困った活動家(?)の方がいらっしゃって
「あなたはお題目をあげていないからおかしくなった(不信退転)」と書いているのを読んだ時、
悪いんですが私、飲んでいたお茶を吹きましたw
とんだパンチドランカー、いや題目ドランカーからのコメントだわ~・・と思いながら。
今の私にはこんなコメント、笑えないギャグでしかないのです。

百万遍のお題目をあげるために費やす時間は、単純計算で250時間。
250時間の学習があれば、日商簿記2級合格も目指せるそう(NEVERまとめより)。
”一生不退転”なんて自己暗示にかかるその250時間、勉強しときゃよかった・・!

後悔先に立たず。
じぶんの時間は有意義・有効に使いたいものです。

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