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マウンティング

2013年8月。
母の入退院にあわせて帰省中、姉夫妻の厚意で近場の保養施設に出かけました。
子供達のプール遊びに姉夫妻が付き添ってくれ、母と私はその様子を近くの喫茶室から
眺めていました。
周囲にも母と私のようなペアが何組かお茶をしており、プールに居るのは孫+お父さんと
いった風情。みなさん外の様子を眺めながら優雅にお茶、ゆったりとした雰囲気です。
このような場に、ふさわしい話題というものを母は知りません。
母は姉の配偶者の前では創価話題を封印しています。理由は聞いたことが無いので解りませんが、
おそらく気を使っているのだと思います。
このときは私と2人だけ。 堰を切ったかのように、創価話題が始まりました。
といっても、教義や活動方針のことではありません。
学会活動・地域同志の噂話と、いかに自分が地域で奮闘しているか、そんな話題。
声のボリュームも考えず、学会が・学会員だから・学会活動が・公明党・OO(議員名)と連呼です。
こんな経験は初めてではなく、6月の姉挙式旅行でも同じでした。
またか・・と頭痛がする思い。
ちょっと声、小さくしてねと注意しながら聞き流していました。
途中で話題を変えようと「OOさんはお元気?」と、外部の方の名前を出してみたりするのですが
どこをどうしても、最後は必ず創価話題にもっていくのです。
一年前の事なので、記憶が薄れ始めていますが、ネガティブな話題しか無かった事だけ確かです。
うんざりしました。
このたった数か月前、私は母に
「あなたの話を聞いていると思うんだけど、基本自分以外の人が嫌いなんだね、不満ばっかじゃん」
と言いました(この記事)
同じ感想しか浮かんでこない。と同時に、あることを思い出しました。
父がまだ元気で私が独身自宅生活だった頃、母が時々口にしていた愚痴です。

「お父さんの何が嫌いかって、絶対に他人をほめないところ。
 あの人が誰かを誉めているのを、一回も聞いたことが無い。
 絶対に他人を認めない、自分が一番だと思っている証拠だ」

当時の私は、そうかな?と思いつつも、否定はしませんでした。
何故かと言えば、私は父とまともな会話を交わしたことが殆ど無かったので、実際のところが
解らなかったのです。
子供の頃の父は出張が多かったし帰宅も遅め。そして怒っているところしか見たことが無い。
母と和やかにおしゃべりしているところなんて一度も見たことが無かった。
私に対しても、常に厳しい事を言いましたし、ずっと苦手でした。
いま大人になって当時を振り返ると、たまにしか会えない小~中学生の娘(私)に対して
もっとしっかりしてほしいと、口うるさく言いたくなった父の気持ちが分からなくないのです。
基本的に放置子でしたから、私は兄姉と比較して勉強も出来ず、うすぼんやりした子供でした。
きびきびと・意欲を持って行動する事のできない子供でした。
また、アピールも弱かったと思います。
兄や姉は、父に誉めてもらう事に存在意義を見出していた様子で、父に学校生活の様子や
テストでいい点を取った事などなど、自分からすすんで報告していたのです。
私は父を恐れていたので、寄りつきもしなかったし、誉められるような事柄もないから話しかける事も
しなかった。
時折、父が予定外に早く帰宅した際など私は「嬉しい」と思った事がただの一度もありませんでした。
うわぁ、帰って来ちゃったよ、どうしよう・・と緊張したり・困惑するだけでした。
いま、私の子供達が主人の帰宅を待ちわびていたり、帰宅したとなると奪い合うように
話しかけるのを見ていると、微笑ましく思うと同時に絶望的な気持ちも味わいます。
私は子供の頃、父親に対してこんな歓待感情一切なかったな・・と。
一緒に暮らしていながら、私はあまりにも父の事を知らなすぎた。
ただ「信仰の敵」との認識で見ていた。
父亡き後、覚醒し、姉のお陰で父親の人物像について知りはじめました。
姉から聞く父のエピソードや、私の結婚後に父と接したいくつかの機会を思い起こしてみると
父は自分にも他人にも厳しい人であったと感じます。
母の言う「絶対に他人を誉めない」は、お世辞を言ったりおだてたりしない、という意味であれば
遠からず当たっているところはあります。
また、非常に現実的な人だったので、夢のような(ありえない、冗談めいた)事を話すのを嫌う面が
あったと姉から聞きました。
完全に不言実行型の人でした。
そういったカタブツなところが、夢のような・地に足のつかないミラクル創価信仰を推進する母にとって
窮屈に感じられたのかもしれません。し、父には母の妄信ぶりが信じ難かったのだと思います。
(脱線しますが、こう綴りながら、どうしてこんな2人が結婚したのか不思議でなりませんw)

母が父を批判していた内容、そっくりそのまま今の母じゃんか!

「お母さんの何が嫌いかって、絶対に他人をほめないところ。
 あの人が誰かを誉めているのを、一回も聞いたことが無い。
 絶対に他人を認めない、自分が一番だと思っている証拠だ」

自覚がないのだろうか?と母の話を右から左へ聞き流しつつ疑問をもちました。
そして母の話題に出てくる人物の9割が創価同志であり、その話題の大半が楽しい事では無く、
ネガティブな事柄中心であることを、興味深く感じたのです。
近しい存在の学会員(地域の人)は皆、宿業の嵐が吹き荒れて辛い日常を耐え忍んでいる。
母が「こんな凄い功徳体験を聞いてきた」というのは、全て圏幹部が会合で話している
どこの誰かも解らない、全国同志の話題。
此処を「おかしい」と思わないところが、MCが完璧に行き届いている事の脅威だと思います。

他人をsageて自分をageる、これをマウンティングと呼ぶそうです。
優位性を示すための行動を指すのですが、母の話す内容はまさにそれ。
「誰それの商売が芳しくないみたい・お子さんが離婚した・孫が高校中退だって・
 家を売るなんて話してる・娘さんが40すぎになるのに結婚できない・孫が出来ない・・etc」
数々の下世話な話題の裏を返せば”自分はそんな目に遭っていない(私は福運がある)”
とでも言いたいのか。
当事者と対峙したマウンティングではなく、私のような第三者に
「自分が他の学会員と比べいかに優位か」を知らしめるがための言動ですが、
これって一体何なのだろう?と疑問をもちました。

なぜ母は、私に対し「いかに自分が優れた人間であるか」を誇示したがるのか?
反対に母は自分が弱い立場にあるから構って欲しい・・的な事を一切言いません。
何につけ、マイナス面を見せたがらない。
うっかりと、こんな事があった・・と過去のトラブルを話してくることはありますが、渦中にいる時に
相談して来る事はまずありません。全て、事後報告。もとい、報告じゃなくて「事後発覚」。
母のこんな傾向が見えだしたのは、私が非活宣言をして以降です。
おそらくですが、母は創価否定をしている私に対してはマウンティングが出来ない故に
(それをやったら私が激怒し、創価から離れて行くことは理解できているのだと思います)
”信仰実践する自分が優れている”ということを私に知らしめたいがための、無意識の言動では
ないのかと。
しかし母の生活圏で、母がマウンティングできる相手は残念ながら学会員しかいません。
皮肉なことに、母の周囲にいる外部の皆さんは皆、母より幸せだからです。
同じ信仰を持つ者をsageるというのは、矛盾でしかありません。
その事に気がつかない時点で母の信仰も破たんしているのですが、創価じたいが教義破たんを
おこしているので、これはどうしようもないのかもしれません。

あれから一年、
気付きましたが母のマウンティングは、創価池田イズムそのものであるという事です。
「宗教界の王者」だの「勝った」だの、周りは認めてないのに自分で言いたがる。
言ったもん勝ちみたいに思っている。
失笑ものの日顕宗sageキャンペーンを長年続けるのもマウンティングなのでしょうし、
池田老人とファミリー名義でのみ、顕彰を買い続けるのもそこでしょう。
本当に素晴らしい団体なのであれば、池田老人存命中であっても弟子が受賞することだって
あっていいはずなのです。 優秀な後継者を輩出している事の証明になりますからね。
だけどそれは絶対にない。池田老人が生きてる間はきっと無い。
また、ネガティブと思われるニュースには一切触れないところも同じです。
中央幹部が急逝しても、死因も表に出しませんし、新聞に訃報が出たなんて話もないし
私自身見た事がありません。
一部週刊誌で報じられた池田老人の健康状態についても、新聞紙上では常に「お元気」と
O月某日近影の写真を掲載し、一般会員の目に触れるような会合への出席はナシ。
上層部との会合や記念ごん行会に出席した、という一文が出るだけ。
マイナス・ネガティブイメージと採られるような事柄については絶対に表に出さない。
人間だもの、病に倒れる事があったっておかしくありません。
池田老人は若いころから病弱なうえ、激務に激務を重ねていたそうですから(棒読み)
脳梗塞や心筋梗塞発症から、認知症になっていたとしてもおかしくはないでしょう。
そのような話が週刊誌に書かれたのなら、違いますよとちょっとでも表舞台に出てきたって
よさそうな物ですが、それも絶対にしない。
「勝利の人生」を師匠が体現していなくては、大看板に矛盾が生じるとでも思っているのでしょう。

どこまでも「優位」でなければ気が済まないし、でなければ存在意義もないと考えているのか?
マウンティング=裸の王様状態であることに気付けない人間が、人道主義を標榜しているなんて
ちゃんちゃらおかしい話なのです。
此処が創価の矛盾であると同時に、学会員である母の矛盾でもあると思います。

最近の創価は、敵は宗門と顕正会だけで、他の宗教の事は攻撃しない(邪宗では無い)との
認識で進んでいるそうです。
愈々、他宗を攻撃できなくなってきた。一般社会人の情報リテラシーが上がってきた故に
そのような非常識をふりかざして会員獲得できる時代では無くなり、過去を封殺する必要に
迫られてのことでしょう。
けれども、しっかり「敵」を残しているのが興味深いw
日蓮仏法を標榜する団体の中で優位性を示し続ける、それが存在意義なのでしょう。
宗教界の中でも、ごくごく狭い「日蓮仏法」というカテゴリの中にあっても和を保つことができない。
「正義」を賭けた商売敵だから対立し続けるよりほかに、共存共生の道もないということでしょう。

繰り返し言われていることですが、もはや「宗教」ではないんですよね、こんなもの。
気がついていないのは、功徳欲しさや自己実現欲しさで信仰依存症となっている会員だけなのです。

(続きます)
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