看板に偽りあり

2013年夏の実家帰省の締めくくりは、亡き父のお墓参り。
夏季休暇に入った夫も合流し、いっしょに出かけました。
霊園は一般的な墓苑。さまざまな宗派の墓が建っています。
入口にある管理棟ではお花や線香を販売していますが、おしきみの販売はありません。
日蓮正宗&創価の利用者が極端に少ないということだと思います。
そのためいつもお墓参りへ出かける前に、母は行きつけの花屋に立ち寄りしきみを購入します。
この日も根つきのしきみを買い求めてから墓苑へ向かいました。
姉夫妻は用事があったため、後日行くと聞いていました。
が、到着するとまだ真新しい色花が供えてあり驚いたのです。
母もおかしいね?気が変わって早めに来たのかしらね?と言いながら、色花を撤去して
買って来たしきみに生け変えました。
母による同じ行動は前年の暮れにもありました(この記事)。
そのときの私は、(姉が)綺麗にしてくれるなら供花なんて何だっていいじゃん、と思いながらも
母の行動にそれほど感情を揺さぶられることはありませんでした。
しかし、この時は初めてその行動を「悲しく嘆かわしい」と感じながら見ていました。
まだ新しい・どこも傷んでいない供花を容赦なく捨て、しきみに変える。
人の真心を、踏みにじる様な行動。 そりゃあ宗派の決まりはあるかもしれないよ?でもさ・・という思い。
おそらくしきみは、創価が日蓮正宗から受け継いだ伝統なのでしょう。
実家の墓はお経などが彫られたものではなく、ごくオーソドックスな(苗字)家之墓となっています。
このスタイルの墓に色花が上がっていれば、見ず知らずの人からは伝統仏教と認識されるでしょう。
学会に戒名はありませんから墓標はフルネームで彫られています。
そこへきてしきみが上がっていれば「うちは学会です」と主張している様なものw 
解る人にはわかる、という感じの主張ではありますが、こんなところにも排他主義を
感じずにいられません。
この記事を書くにあたり、各宗派で供花のきまりはあるのか調べてみましたが
玉串奉納がよく知られる神道であっても、お墓に色花を供える事はOKだとあり驚きました。
日蓮宗についても色花でOK。 しきみにこだわっているのは、正宗と創価だけでした。

主人と子供達がお参りを済ませ、管理棟の売店へアイスクリームを食べに行きました。
(これは夏場の恒例で、子供達の楽しみでもあります)
残った母と私は、墓の前で小声を出して読経(方便品・自我偈)と唱題(3分程度)をしました。
これも母が私と一緒に墓参りをする際の恒例行事なのです。
父が亡くなってすぐの頃、私は非活ではありましたが創価脳でした。
墓地で読経と唱題をすることに、なんの違和感も持たなかったのです。
これが創価墓苑だったら何の違和感がなくてもおかしくありませんが、ごく一般の霊園です。
他の宗派の墓をかまえている利用者だって来場している。
この時初めて内心「こんなところで読経唱題は非常識ではないか?」と嫌な気持ちがしました。
それに墓石に向かってお題目ってどうなの? 御本尊もない場所で。これって創価的にアリなの?!
困惑しつつも、この時はまだ「やりたくない、非常識だ」と母にも言うことができず付き合っていました。
終了し、やれやれと思いながら車にひきあげ主人や子供達と合流。
お昼時だったのでランチに行こうと移動中の車内で、母が姉に電話を入れました。
「墓参り来てくれたの?」と、お花の事を確認したかった様子でした。
しかし姉の返答は「未だ行っていない」で、母は「ええっ?!」と驚いていました。
じゃああの色花は誰が御供えしてくれたのか?
私はふと、兄ではないか?と思いました。兄は母と疎遠になっていますが、時折墓参りだけをしに
帰郷していると姉から聞いたことがあったのです。
ただ、それを母に言うことはしませんでした。何故なら実家にも立ち寄らず墓参りだけしに来ているなんて、
母からすると気持ちのいい話ではないからです。
しかし、この色花は兄が供えた物ではなく、別の人物のものだということが後でわかります。
この件は後日書きます。

父が決めて購入した墓地。母は当初、創価の墓苑がよかったのに・・と文句を言っていました。
がしかし、趣味サークルで知り合った同世代の人たち(外部)に「主人の墓がOO霊園にある」と話すと
一様に「いい場所を買ったんだね、高かったでしょう?」との反応が返ってくるため
気を良くしたらしく、最近は「こっちで良かった。創価の墓苑に比べて全然近いし云々・・」と言っています。
非常に単純です。
この単純さで、ころっと覚醒してはくれまいか?と願う所ですが・・。

実家を後にし、義実家へ移動しました。
そちらでも義父方の墓参りへ出かけました。
山間にある広大な墓苑ですが、各お家の供花を見ていると個性的です。
お店で売っているオーソドックスな仏花ではなく、自宅ガーデニングで育てたのかな?というような
しゃれた草花が供えてあったり。故人の好きなお花を御供えしたのかな、と想像したりもし。
そういった故人を偲ぶための多様さ・柔軟さがとても素敵だと感じました。
創価脳だった頃は、御花はしきみじゃないと絶対ダメ。おかしい。くらいに私も考えていたのに・・w
故人の眠る墓まで仏壇と同じ扱いにしてしまう、これは創価ならではの思考回路なのでしょうか?
あの強固なまでのこだわりは一体なんだったんだ?と、自分でもよくわかりません。

義実家を出て自宅への道中は大渋滞に巻き込まれ、主人と運転を交代しながらのんびり戻りました。
車中で改めて母の言動を思い返しながら。
ひっかかっていたのは(前回書いた)優位性を示すかのような会話内容です。
こんなに愚痴っぽく・他人の悪口ばかり言う様な母だとは、私が創価脳だった時は気付かなかった。
一体何が母をそうさせるのだろうか?と。
不動産もあり金銭的に不自由なく・制限されることもなく、悠々自適な生活を送っている。
子供達も皆家庭を持ち、孫にも恵まれ、特に心配をかける様な事もない。
アンチ創価だった父は逝き、学会活動だって思う存分することができる。
何が不満なのだろう、満たされない思いがあるとしたら、子供に信仰継承できなかった事だろうか?
私まで学会を否定し始めた、そのことに焦りがあるのだろうか・・など考え。

このときふと、ある事に気が付きました。
母の満たされた「現状」とは、殆どすべてが父が基盤を築いたからこそのものだという事。
信仰功徳でもなんでもありません。

そして母は”信心していても”20年以上も睡眠障害に悩まされ続けている。
名医のいる病院を訪ね歩いたりもしましたが、薬を変えるか・増やされるだけ。
あらゆる検査もしましたが、「精神的なものではないか」との診断に最後は行きついて
気休めしか言われない(=完治はおそらく無理)。
また、他の持病も抱えており、そちらも再手術の予定が控えている。
父亡き後に何かとトラブルを抱える事が多くなり、弁護士のお世話にもなっている。
(母が訴える側です)。 
母いち個人のことを考えれば「信仰で」何も克服できていないのではないか?

信心70年にもなろうという母の晩年は、傍目には幸せかもしれないけど、次から次へと
母自身の問題が出てくる。
折伏は30世帯をくだらない。お題目だって軽く1000万遍を何度もクリアしていると思う。
財務も相当な金額になっている。にもかかわらず。
母は人間革命できてないじゃないか。宿命転換は、死なないと終わらない罰ゲームなのか。
これって一体なんなのだろう?
母というひとりの人生を、俯瞰でみたとき、改めて頭に浮かんだ結論がありました。

「創価のうたい文句は嘘ばっか」

どれだけお題目を上げたところで、他人にご本尊様を受持させ入会に導いたところで
新聞を余分に買ってみたり、素直に組織についたところで「麻畝(まほ)の性」には、ならないわけだよ。

創価では、学会活動・お題目・教学研鑚・仏法対話で「心を磨く」事が出来ると言っていた。
どんな人間でも良く変われる。南無妙法蓮華経は、あらゆるものを変革しゆく。
自体顕照、・人間革命できるんだ、と。

けれど私の一番身近な信仰の手本であった母は、信仰歴70余年にもなるというのに
どう見ても尊敬できる存在ではない。
創価を抜きにしたって、マウンティングするような人はどう考えてもリスペクトできない。

だったら学会員ではない、外部知人(パン教室の先生)のほうがいくらか尊敬に値するよ・・。
創価信仰なんかなくたって素晴らしい行動をしている人だもの、と思ったのです。

正直なところ、私はこの帰省までは「創価にもいいところが少しくらいはあった」と思っていました。
友人や部員さんが良く変わっていくのを目の当たりにした、女子部時代の経験からです。
しかしそれは、自己啓発+周囲の励ましによって、本人が元来持っていた力が思う存分
発揮されるに至った。それだけのことなのだと合点がいったのです。
この記事を書いたのは、上記した夏の出来事がきっかけでした。

信仰は、免罪符でも無ければ・魔法でもありません。
たった一遍でもお題目を唱えれば罪が消えて、自身に具わる悪いものが良く変わっていく・・
こんな刷り込みをしているのは、創価だけでしょう。
全ての学会員がこの刷り込みを真に受けている訳ではないでしょうが、私の見る限り
現実的に深慮なく、浅はかな行動をとっていたり・感覚のみで動いて墓穴を掘っている会員ほど
「御本尊様が最後はいいようにしてくださる」とか「大善がおこる前触れとしての大悪」だとか
とんでもない思い違いをしており、ますますドツボに嵌って行く人が多い気がするのです。
私の母においても、創価信仰を持っていることで全てが許されると甘く考えているところが
大いにある様な気がします。
父存命中、ある程度制御されておりアクシデントに遭わなかっただけのところ「福運」だの
「信心をしているから自分は守られている」と勘違いしていた。
しかし、父亡き後はすべて自分の判断となり”信仰している私は絶対大丈夫”なる免罪符感覚から
物事を軽はずみに受けとめ対処してしまい「こんなはずではなかった!」となっている。
けれど自分は信仰を持つ剛力(何にも負けない存在)であり、こんなものはたいした損失では無い。
絶対に取り返してやる・巻き返してやる・見返してやると、方向性を見誤るのではないか。
以前にも書いた、池田老人の「永遠の楽観主義」は、実のところ何も解決しなくても創価を疑わない・
創価信仰をたもつ自分は魔法使いで選ばれし民である・・という永遠の思いこみの事を指すのでしょう。

もし、創価に入会を考えている人がいるならば、甘い誘い文句や誇大広告に騙されないで
欲しいと思います。
入会前は誰しも簡単に言うのです。お題目を唱えるだけでハッピーになれるよ!仏界の生命が云々。
だがしかし、入会したら大変です。
聞いてた話と違う。願いなんて叶わねーよ。あんまりじゃねぇか!と抗議しようものなら
「やり方が悪い」と言われる。
しかし完璧な信仰を貫き、揺るがない幸福境涯wを築いている学会員は、世界中探しても
たった一人しかいません。
池田老人のみです。
会う事も出来なければ、直接話を聞く事も出来ない、実物を生でみる機会もない。
その池田老人に学べ・真似しろと、幹部は言うでしょう。
しかし池田老人はスーパーマンで、その言動は常軌を逸しています。
並みの人間・一般人が真似したって無理がありまくるのです。
つまりそれは「絵空事」です。

少なくとも私は、人生のほとんど(70余年)を創価に執心で過ごしてきた母を見て
創価が推奨する学会活動なる仏道修行に、功徳や福運やなにか特別な力があるとは思えません。
どれだけ組織の奨励する「数」を重ねようが、同じです。
変わらないものは変わりません。

戸田先生の指導に「愚痴は福運を消す」とありました。
愚痴を言わない人間にならせてください・・と祈念したところで、変わらないでしょう。
変われるとすれば「愚痴言ったら福運が消えるから言わないでおこう」という心がけによるもの。
「雨が降ったら困るから、出かける前に洗濯ものを取りこんでおこう」とか
「明日は大事な予定があるから、深酒はやめて早めに就寝しよう」と同じです。

創価にも人間的によくできた素晴らしい人物はおりますが、私は彼ら彼女らは全員
「心がけが良い」のだと思っています。 けして池田老人のお陰でも・信仰の賜物でもありません。
そして一般社会人でもこの人素敵、デキるとの印象を与える人物も皆、心がけが良いのです。

人は心がけひとつで変われることもあります。
なにもカルト宗教に入信する必要はありません。
多くの方々が、カルト宗教に騙されてしまわない事を強く願っています。

(続きます)
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