限界コミュニティ(序)

特定の信仰(創価信仰・日蓮仏法)をたもつこと=飛び道具や魔法を得たのと同意と訳すのは
現代の宗教観に全く見合わない非現実だ、と私が理解しはじめたのは
2012年秋に覚醒して以降のことでした。

それ以前の私は、創価で教わった信心の実践や日蓮仏法を
「不可能を可能にする」魔法のように信じてきました。
会員ならだれでも聞き覚えがあるでしょう「願いとして叶わざるなし」というフレーズ。
学会2,3世として育った人ならそれこそ三つ子の魂百までも状態で、
人生・生活に信仰はかかせないものだ。信心即生活なのだ、との常識で生きることも
あると思います。 私ももれなく、その一人でした。

この「飛び道具・魔法」が選民意識のベースとなり、自分たちだけは違う・特別なのだ!との
思いこみで自分(たち創価仏法をたもつ者)と他者におこった出来事の評価を変えてしまう。
そのことに気付いたのは日蓮仏法をも否定するようになった2013年初夏あたりからでした。
まどろっこしくて申し訳ないのですが、私の覚醒は2段階でした。
まず創価がオカシイという事に気付き、決別をしっかりと意識したのは2012年9月。
そのあとも日蓮仏法に囚われている間の私は、覚醒後1年足らず「選民意識」を持っていました。
この選民意識が打ち砕かれた契機は、過去記事にしていますが(この記事です 
東日本大震災で九死に一生を得た外部友人の被災体験を聞かせてもらったことにありました。
自分が「選ばれし民」だなんて大きな勘違いだった。
東日本大震災をリアルに経験した友人の「今を生きている」からこそ出てくる言葉のおかげで、
私は選民意識を木端微塵に打ち砕いてもらうことが出来たのです。

前回の記事で、母が
「学会家族(うちの父)と外部(喫茶店マスター)の急逝を一緒にしてもらっちゃ困る」と発言した事に対し
私は絶句しましたが、もし私がそのとき第二覚醒を迎えていなかったら・
「創価は悪でも日蓮仏法は絶対」などというトンデモ選民思想を持ったまま暮らしていたならば、
きっと母の言葉に、それほどの怒りや残念さ・拒絶感・嫌悪を感じることなく、受け入れたと思うのです。
それは非常に恐ろしい事で、今もってぞっとします。

どんな宗教を信じていようがいまいが・熱心に信仰していようがいまいが、
人は必ず死を迎える。 どのようなかたちであれ。臨終の日がいつやってくるかなんて誰にも解らない。
突然、どんな状況でそのシーンを迎えるかなんて、どんな亡くなり方をするかなんて、死因について
予測なんて立ちません。あたりまえのことですが。動かしようのない、さだめです。
世間一般に暮らす外部の方はそれを常識的にわかっている。わかってもなお、身内や友人の
突然の永遠の別れに接した時は、哀しむ。 こんなの当たり前のことです。
「わかっていても」悲しくて当たり前。
動かしようのない事実の前で涙にくれる、それは実に人間らしい自然な光景だと思います。

だがしかし、選民意識が嵌り込めば動かしようのないさだめについてまで
「評価」「格付け」をしようとする。
当然、自分たちは特別ですから事故死や病死であったにしても「使命があった」「使命を果たした」
「来世安穏ですぐに生まれ変わって来れる」と肯定的・価値的・勝者のように捉える。
そして外部に対しては「宿業が出た」という評価をすることもある。
学会員の皆が皆そうだ、とは言いません。
しかし大半が「自分たち学会員・妙法をたもつ者の死は特別」と信じていることは間違いない事実です。
信仰をたもつ自分たちと・なんにも学会活動なんてしない・さらにはアンチ学会だったりする外部の「死」が
同格であっては困るわけです。 自分たちの行動の正当性・優位性が保たれなくなりますから。
そういった思考回路がいかに「非常識」であるかを、実は学会員もうっすらわかっています。
私の母は、誰かれかまわずに「外部の死を内部の死と一緒にするな」なんてことは言いません。
外部の人にはそんな事は言わない。
これが同じ選民思想下にある人達のあいだでの共通意識だ、ということは解っているのです。
その上で私に「父の死と、喫茶店マスターの死を一緒にしてもらっちゃ困る」と発言した。
つまり私も選民思想下にある=信心の基本(?)があると前提しての「あなたなら理解できるでしょ」という
暴言だったわけです。

しかし残念ながら私は選民意識をさっぱり失っていました。
だから母の言葉に憤りましたし、
「父の死だって世間から見れば悲惨だという評価を受けているかもしれないんだぞ!」と警告もした。
けれど母は想像の斜め上をいく切り返しを繰り出した。
私は頭の奥がずーんと重くなって行くような痛みを感じながらも、母に言いました。
「そんなの、あんたたち(学会員)がそう思ってるだけでさ。
邪宗でも綺麗な死相の人なんて大勢いたよ。私、実際にみたよ。
一度も大病しないで大往生を迎えた友人の祖父母だって学会員じゃなかったよ?
あなた(母方)の家系で亡くなった人にしたって、自然死の大往生はおばあちゃんだけでしょ。
他の親戚はみんな病気だったり急逝してる。 だのに自分たち学会員の死は良くて
おんなじ死因でも外部だったら不幸だったとか悲惨だったとか、矛盾ありまくりじゃん。
自分たちだけが特別なんて思いこみ、どうかしてるわ。世間に知られたら、笑われるよそんな事」
しかし母にはこんな言葉も響かなかったようで
「家に警察が検死にくるような状態と、病院で家族に看取られる状態と。あんた違いがわからないの?」
(注・マスターは自宅で死後数時間経過した状態だった為、警察が来たようです)
これまた斜め上の発言が飛び出したのです。
これ以上、何を言っても無駄か。
私が話した事ほとんど聞いて無い。投げかけた問題なんて聞こえないふり。
都合の悪いことは全部オールスルーなのか、と。
↑ネット上でちらっと目にする、現役活動家vsアンチのやりとりにも似たところがあると思います。
ガチで親子間でそれをやったわけです。 こんなやりとり、相当疲れますw
全く聞く耳を持たない人とのそれは、どこまでいっても「対峙」でしかないと私が思うのは
このような経験からです。

母がぶつぶつと負け惜しみ(?)のように呟く言葉に対し、私は反論せず無言でした。
ただずっと非常識発言を聞かされることには耐えられず
「そういう事さ、私にはいいけど、よそで言わないようにしなね。物凄く恥ずかしい事だからね」
と言いました。
母はふん、と鼻で笑い
「あんたはまだ若いから解らないだけよ。ひとの人生最期なんて、本当に解らないものよ。
この信心を50年以上やっていればわかってくる。そうやって信心や学会を小馬鹿にしていたことを
必ず後悔する。ああ、お母さんが言ってた事ってこれだったんだ!って解る日がくるわ。
せいぜい、泣かないようにしなさいよ」とorz
こんなの、親が娘に向かっていうような言葉でしょうか?w

私が母にいったことは世間的にはごく正論だと思うのです。
「他人の死因についてとやかく言ったり比較することは大変不謹慎だ」
おそらく100人いたら7割くらいまでは同意してくれるのではないでしょうか。
しかし創価脳の母は、自分のしていることが共通意識の選民思想をもつ者同士であれば許される、
何も不謹慎でも非常識でもない。仏法は道理です。くらいの考えで正当化しているのです。

また、熱心な学会員の方であっても、外部と内部の「死」に格付けや評価を行わない・
そんな不謹慎なことは断じてしない、私の母が特殊・異端なだけだ。同じにしてもらいたくはない!と
不快に思われる人もいるかもしれません。
では、たんなる一般外部では無く、対象が創価や師匠の「仏敵」だった場合はどうでしょうか?
創価を脱会し、告発側にまわった元幹部や元議員諸氏が病死していることを
「仏罰は厳然」などと、会合席上で幹部が話す事も実際にありましたし、目・耳にした人は多いと思います。
たとえ自分たちが敵視する相手であるにせよ、その「死」に対し尊厳をもてないという姿勢。
自分たちの味方でなくなった反逆者に対しては、徹底的に貶さないと気が済まない。
ひとつの例として、このキーワードでぐぐって検索結果をひとつふたつ読んでみると解りやすいかと
思います「龍年光 聖教新聞 仏罰は厳然」
新聞紙上座談会に登場し発言する人物を
”人の死に対してとやかく言う、不謹慎極まりない宗教団体幹部”と思わない人はアウトでしょう。
「創価と池田先生の敵は仏罰が出て当然。悲惨な死に方して当然」
他者の死に格付けしなくたって、上記のような考え方をもつ時点で非常識であり特殊・異端なのです。
創価学会員の多くの皆さまは、この恐ろしさについて早急に理解すべきだと思います。
自分たちだけが特別なわけないだろ、目を覚ませと私は思うのです。

私が学生だったころ、出先でキリスト系の新興宗教の勧誘に遭遇した事がありました。
ノアの方舟の話をされ、ノストラダムスの大予言よろしく、地球が壊滅の危機に瀕する時が
近いうちに必ずやってくる、
この宗教の信者であれば助かるのだーというようなことを言われました。
当時の私は活動家ではなかったですが、任用試験を受けて数年後だったこともあり
「五重の相対」を語って得意げに破折した気分でいたのですw
創価だと言った時点で、相手は引きさがったのですが(それもマニュアル通りな感じで、
今思いだすと笑えます・・)
当時の私は終末期思想になんてまるで興味は無かったし、日蓮仏法以外は邪教と見下して
いましたから、本気で「ノアの方舟」を信じて布教活動を行っている若者に対して
「信じられない。馬鹿じゃないか。世間知らずのお花畑だなぁ」と思っていました。
20年以上経過した今、私だって同じ穴のむじなで、若人と一緒だったんだと気がついて
なんとも複雑な気分です。
信じているものは違えど、若人も立派な「終末期にあって救われる」選ばれし民で。
私だって負けず劣らずの、創価お花畑ファンタジーを信じて疑わない「自分は特別」
「転んでもただでは起きない」という基層をもった選ばれし民でした。

選民思想の高まりは、限定的なコミュニティに属すればこそなのだと、
過去の自分を振り返っても・母や現役活動家をみていても思う所です。
学会員の多くが選民意識を保ったままいられるのは、学会活動で同志と過ごす時間があるから。
同じ選民思想下にある人達のあいだでの共通意識を、常に確認しあう場があり
そこを「正しい場所」だと思っている間は、世間一般常識など屁でもなくなるのです。
”ネットはデマばかり” ”世間は嫉妬” こんなことを微塵も疑わないその理由は、共通意識をもつ人が
身近に何人もいるという集団環境にあると見えます。 実際、活動家時代の私もそうでした。
学会が、これだけ情報伝達ツールがいきわたった世の中にあっても断固としてアナログな
「座談会」「協議会」「同時放送」その他各種会合にこだわり、大小会合の数を減らさない理由は
集団洗脳にかけておくのに、地域コミュニティが命綱であることをよく知っているからなのでしょう。

ただ、その創価地域コミュニティが「限界集落」化していることを近年如実に感じます。
確実に人は減っている。そして創価の若干の矛盾に気付いても、学会人生が長すぎたことで
一般社会からの孤立に気付き、限界であろうが創価コミュニティにしか居場所がなくなり
しがみついているしかない、そんな人たちも存在しているのです。
私の母もそのひとりなのだと思います。

(続きます)
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