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限界コミュニティの周辺事実

創価の末端組織が限界集落と化している・・「限界コミュニティ」になっている、と実感したのは
今年のGWの事でした。
このカテゴリは時系列で書いており、前回記事は2013年9月時点のことでしたが
今回は時間軸を無視して、「限界コミュニティ」について書きたいと思います。

そのまえに、「限界集落」なる言葉を私が知ったのは昨年この事件をテレビニュースで見た時でした。
過疎化した地域で高齢化も進み人の出入りも限られるようになった時、濃密なコミュニティ故、
抜け道無く結果残酷にぶれてしまうことがある。そんな一面を見て驚いたのです。
事件当時、ネットにあがる意見も幾つか読みましたが、加害者に同情的な声も多かった事を
記憶しています。
極狭社会独特の、どこにも行けなさ・閉塞感。若ければ居住地を変えるなど具体的な回避方法も
あったのかもしれない。 けれど初老を迎えると、そうもいかない事情も出てくる。
ましてや「安住の地」「終の棲家」としてそこを選んでいったんだとしたら・・と、様々考えさせられた
事件でありました。

創価の末端地域組織においても、限界集落化が進んでいる。
私の実家方面の話題になりますが、そう思った幾つかのエピソードを。

ひとつめに、孤独死。
以前もブログ記事に書きましたが、その昔地区役職を務めていた壮年部が孤独死をし、
数日経過してから発見されたことがありました。
奥さんを早くに亡くし、お子さんは実家を出たまま長らく戻ってこずの独居老人。
近年療養中で、会合参加もままならない状態になっていました。
生活保護を受給していたため、SPは未購読。財務も当然することはなく。
婦人部の心ある人が数ヶ月に一度、家庭訪問をして様子を伺っていたとのことでしたが、
壮年部は積極的に関わらなかったようです。
御本人が非活宣言をした訳ではありません。ただ、昔からその地域に住み、役職も務めた
過去の栄光(?)もあり、壮年部には体面を気にして家庭訪問に居留守を使う様な
状況もあったのかもしれません。あくまで想像ですが。
お子さんに連絡がつかないまま、福祉葬というかたちで送られたとの事。
その方が元気で地区役職者として奮闘していた姿を見ていた私からすれば、孤独死という事実は
非常にショッキングでした。
アンチ創価のジャーナリストでさえ「創価の優れた点は地域のつながり」と誉めるくらいの
濃密なネットワークが、ここでは全く機能していなかったということです。
(ちなみに第一発見者も、創価の人ではありませんでした)
結局、未活になった時点で、村社会からはじかれていた。
いえ、はじき出したなんて自覚、組織の中の人には全く無いと思います。
そっとしておいただけ・・の結果なのでしょう。
定期的に会合に出る・金銭提供をする(新聞集金等)がなければ、安否の確認もままならない。
組織に利する人間のみが存在を認識され・確認できる排他的システムになっているといっても
過言ではないと思います。
学会と言えば「地域の人たちの温かさ」がうたい文句ですが、これは利害が一致している間のみ
有効な話なのでしょう。
池田老人の命より大事な盤石な組織とやらも、実際セーフティネットの役割は果たさない。
当然といえば当然ながら老い先は自己責任の世界であり、無縁社会の現実を思い知らされた
一例でした。
そして裏を返せば、自己欺瞞に陥ってでも組織にしがみついておれば、子に見放されたとしても
組織のメンバーが友人葬(福祉葬)で見送ってくれるかもしれない・何事かあった時には
見つけてくれるかもしれない・・という淡い期待で属している層もいるのではないか?と
うちの母を見て、そう思ったりしています。 

ふたつめに、サイレントマジョリティ若年層の拡大。
地域は40年ほど前に造成された住宅地。当時家を購入して入居した世帯が高齢化し、
住民の入れ替えが近年静かに進んでいます。
お子さんと同居する事になったり・老健入居したり・階段のないマンション暮らしに移行するなどで
古い住宅を売りに出す人が増えました。そして、リフォームや建て替えを行いリセールで
若年層ファミリーが入ってくるようになったのです。
そんな中、夫妻のうちひとりが創大卒という世帯がやってくることになりました。
殆どメンバー入れ替えもなく高齢化著しかった地区に、若い人材来たり!と色めきだったメンバー。
「創大卒」 高齢者にとって、ものすごいブランド力です。 活動家に違いないと思っていたのでしょう。
喜び勇んで家庭訪問にでかけたところ、夫婦共働き。職場が遠方という理由で「活動はむずかしい」
と、いきなり非活宣言されたとのこと。
家庭訪問するも会えない事が殆どで、母は「おかしいわよね、創大卒なのに」と言うので私は笑って
しまいました。
創大神話wこりゃ卒業生の皆さんは大変だぁと。
そりゃセンセーがつくった学び舎だけれども、そこを出たからって皆が皆、活動家なわけないじゃん・・。
少数ながら、非学会員の一般生徒も存在する大学なのに・・。
卒業生の100%が創価の申し子・池田チルドレンだと認識している層もいるのです。
話が横道にそれますが、地元の支部幹部の子息も創大卒ですが、就職氷河期だったこともあり
新卒でアルバイト店員をしていました。
それを聞いた母は
「おかしいわね、創大って就職率100%なんでしょ。しかも大企業ばかりって聞いてるわよ」とw
私の同級生にも何名か創大へ進んだ人がおり、まだバブルの恩恵が若干あった世代でもあり
母の言うように名だたる大企業へ就職していました。 でも、時代が変われば状況も変わる。
というか、本人の資質や努力の問題もあります。
そういった状況を全く考慮に入れずに「創大卒=信心も実生活もエキスパート・完璧」という
思いこみありきで語る人が、私の周辺には老若男女問わず、非常に多くいます。
これもプロパガンダのひとつの成果といえるかもしれません。

また、創大卒ではありませんが学会2,3世とおぼしき若夫婦が引っ越してきても
「親がやってるだけでうちは関係ないので、もう来ないでください」と断られた話もありました。
家の立地が大通りに面し、好条件ということで、公明党ポスターを貼ってもらえないか?と打診しに行ったら
「景観を損ねる」という理由で断られたという話もあり、思わず爆笑しましたw
これがパンチの効いた活動家なら「はい喜んで!」福運がつくわ!なんて、引きうけるんでしょうが。
「景観を損ねる」なんとまともな意見なのかと、感動すらおぼえます。

彼らは決して「脱会」「不信」「創価の矛盾」などを口にしません。
ただはっきり組織活動だけは拒絶している。
内心どんな思いがあるのかは解りませんが、それでも「組織活動」を信仰行為だとはかけらも
思っていない、認めていない、必要ないと考えているのではないでしょうか。
拒否はするけれど、けして闘いを挑んだりせず・決して敵対もしない・揉め事は望んでいない。
そこがサイレントマジョリティだと思う所以です。
こういった人達が現状の20~40代で、創価組織において一番層を厚くしたいところにもかかわらず、
思い通りにならない人達なんだと思います。
今から何をどう頑張ったところで、このサイレントマジョリティ若年層を活動家にする事は難しいでしょう。
子供だましはもう通用しない時代なのです。
となると、ますます組織は高齢化、膠着化し、限界集落化していくことが目に見えています。

みっつめに、組織依存するあまり一般社会から孤立している活動家の現状。
今年のGW直前のことでしたが、母から「このGWは帰省しないの?」とメールがありました。
全くそんな約束も無く・計画もありません。子供の学校行事が合い間にあるという事情もあり、帰省する気は
ありませんでした。
それ以前に、GWに毎年帰省という「恒例」もありません。子供達が就学前は帰省していましたが、
就学後は飛び石連休だったりもして、GW帰省という発想自体ありませんでした。
母の唐突なお伺いメールを変だな?と感じながらも、子供の学校行事もあるし行けません。
夏休みに帰りますと返信。
その返信に対してのバックはなかったので放置していたら、4月末日になって電話がかかってきました。
「どうしても帰って来れないの?」と不満げなのです。
学校行事もあるし云々と話すと、下の子(幼稚園生)だけでも来れない?と言い出すのです。
私はヒヤっとしました。 母がそのようなこと(孫だけでも帰省させてほしい)を言うのは初めてでした。
「そんなの無理にきまってるじゃん」と返事し、お母さんがこっち(私の住んでいる地域)に来れば?と
伝えてみました。
すると「もういい」と半ばキレ気味に電話を切られたのです。
なんだかな?と思い、邪推しました。下の子だけでも、って・・次子は創価に入会していません。
もしかして、「池田夫妻の結婚記念日に入会」「子供の日に入会」とか考えてる?!
同時放送終わりで新入会の友として、会館で紹介されるアレに孫を出したいのか?!と懸念し。
連休半ばになって姉に連絡をしてみたところ、姉にも「GWは実家に来ないの?」と
打診があったとのこと。
姉は結婚式出席や旅行があったので、GWが終わってからお土産を持って行くと約束したと話し。
例年GWといえば、母は5・3記念の会合に出たり、同時放送に友人を連れ出すため多忙でした。
昨年のGW、友人と再会するため単身で帰省したのですが、母は「友人連れ出しで忙しいから
相手できないよ」というので、私は実家に顔も出さずとんぼ返りしたほどだったのです。
一体なにがあるというのだろう。 想像もつきませんでしたが、GWの最終日に実家へ顔を出した姉からの
連絡で事情が判明。
今年のGW、毎年恒例の同時放送が無くなり、突如「友好期間」になったと聞きました。
会合が一切入らないとわかった途端、母は暇&孤独になってしまったのです。
姉がひょっこり顔を見せた事を母は大喜びしたそうで「誰の顔も見れない、しゃべれない10日間余で
孤独でどうにかなってしまいそうだった」と語ったというのです。
姉も私も「ねぇ~?」と言いながら、しばらく沈黙してしまいました。
姉は真剣に、老健入居を検討したほうがいいんじゃないかと、資料を集めると話し。
私はそういった具体策の前に、母の置かれている実は厳しくさびしい現況を思い、無常感でした。

学会活動がドタキャンのごとくなくなって、やっと家族(姉や私や孫たち)の存在を思い出したのか・・と
何とも言えない気持ちにさせられ。若干ムカつきました。
そして年端の行かない幼稚園児の孫でもいいから寄こして、という言葉に悲壮なものを感じ。
一般的な高齢者であれば、GWは孫や子供が帰ってくるとか・食事に行くなどの家族の予定ありきで
暮らしていると思います、多くの人は。
しかし、母においてはもうずっと「学会活動ありき」のGWだった。
その毎年恒例行事が突然「ありません」となった時、孤独化したのは当然でした。
私たち家族も「GWに家族で寄りあう」という発想は頭からありません。
それは長らく「GWの母は学会で多忙」という認識があったからです。
母は外部に友人もいますし、そういった方々と旅行や観光に出かける事もあります。
全く友達がいないというわけではありません。がしかし、長期休暇ともなれば外部の御友人の皆さんは
家族との時間をきっと優先されている。
母が突然暇になったから会いませんか、などと言えなかった(誘えなかった)気持ちもわかります。
そんな事をすれば「お子さんは?帰省しないの?会わないの?」と聞かれるのが関の山です。
かといって、暇になった(?)学会員どうしで寄りあう事もしないというのが、実に興味深いのです。
結局は「信仰の繋がり」という集団なのであって、友達とは違います。どこかよそよそしさがある。
そうではない組織・人間関係も他にはあるかと思いますが、私の母(とその地域)においては
「同志はあくまで同志であって友人では無い」という関係性がセオリーです。

また、ひとりの時間を心豊かに楽しむ、という習慣も身についていない為、
なお孤独感が増すのでしょう。
母上が学会活動がない日は家にこもりきりで、ずーっとテレビばかり見ている・
学会以外の人付き合いもしないし、無趣味。
早くボケるんじゃないかと心配だ・・と10年以上前に話していた元活動家の友人がいるのですが、
予感的中し母上が認知症の診断を受けたとの報せを先日受けました。
別の機会に記事にするつもりですが、老齢期を迎え認知症になられた学会員の話をよく聞きます。
その事実を公にしないまま老健に送るなど、表沙汰にならないよう気を使っている家族もいます。
実際、私の親戚にもおります。
三世永遠の幸福境涯をつかむべく自己犠牲を払い、広布拡大を命題に活動に勤しんできたのに
晩年認知症になったというのでは、内部にも外部にも示しがつかないと考えているのでしょうか。

学会活動さえしていれば安泰・・と、生活の大半に染み付いてしまう事の異常さについて
孤独を覚えたそんな機会によく考えてみるべきだと思うのですが、「聖」と考えている学会活動に対して
疑問をさしはさむことを活動家はまずしない。
実によく出来た盲目システムだと、ほとほと感心するのです。

勿論、前述・後述の様な会員ばかりではないと思います。
リア充なバリ活も日本のどこかに存在するかもしれません。私がお会いした事ないだけでw

以前も書きましたが、会合がなくても会館に行ってしまう男子幹部がいました。
私の友人である圏幹部をしていた女子部も、会合がない日の過ごし方がわからなくて
結局寝てばかり、と話していました。
これが多忙のあまり人との連携が煩わしくなり、自由時間はお一人様で行動しているというのならば、
まだ大丈夫な感じはしますが
私が知る限り、学会活動が常(ON状態)にある人は、たまの休日(OFF)もひきこもり、
一人で行動を起こせない人が大半でした。
社会経験が極端に薄いというのも、彼らの特徴だと思うのですが、その一端として
海外旅行にいったことがない・そもそも興味がないという活動家が私の周囲に多かったのです。
その中にあって私はまだ海外へ行っている方だ、と独身時代は自覚していました。
しかし結婚後、一般外部のママ友たちと話していると、底の浅い経験で満足していたことを
思い知り、恥ずかしくなりました。
今の40代といえばバブル&円高の恩恵を受けられた年代であり、一般的な独身OLであれば
年に数回海外旅行へ出かける事もさほど珍しくない時代でした。
そんな時代にあっても外に出ようとはせず、広布に尽くす事が我が青春と、半径数kmの生活圏から
はみだすことなく、学会活動とその周辺で世界観を完結させる人達。
学会を離れない=セーフティーゾーンに在るとの安心感がそうさせるのでしょうが、
時間的拘束に加え金銭も「広布に使って頂く」ことが大前提であるとの洗脳を受けていることから、
純粋なる自分のための時間とお金を使うという発想がまず浮かばないようになっていたことも、
実際問題なのだと思います。

そしてこの生活習慣が長く続けば、一般社会にある人たちとの感覚が大きくズレていくのは当然。
内・外相互に「付き合い難い」となるのも当たり前です。
だったら内部(学会員)と行動を共にしている方がまだ気楽でいい。
消去法で残ったのが学会組織だった、という人達の寄り合いが「限界コミュニティ」となっていく。
そう感じる次第です。

(続きます)
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