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愚者

2013年10月。
次子の入園が決まった事を別件で母に電話した際、知らせました。
母の興味関心事としてレベル低な事柄であることは認識していましたが、いちおう報告したのです。
母に連絡する前に義実家にも電話しました。
義両親は大変喜んでくれました。長子が通っていた頃に運動会、発表会などを見に来てくれて
おり、園風・雰囲気を知っています。
同じ環境に次子も進む事を願っていたし、結構な事だと言ってくれました。
電話を次子に変わってちょうだいと言った義母さんは、次子に直接「おめでとう、良く頑張ったね」と
声をかけてくれたようで、次子は満足げでした。
こういった心の通い合った交流のあとに、実家の母に連絡をしてしまった私も馬鹿だったのかも
しれません・・あまりのテンションの違いに愕然としたのです。

合格したと告げると母は「試験なんてあったの?それは御苦労だったわね」
こう話したあと(たまたま電話を入れたのが体育の日の数日後だったのですが)、
自治会役員として初めて、地域の公立小学校の来賓に呼ばれた(母にとってこの事は
自慢だったようです)。
運動会の入退場BGMに、学会芸術部の女性歌手のヒット曲が使われていた。
「さすがはOOOよね!」と、その女性歌手を称えるような事を話しました。
一般的な幼稚園や小学校の運動会BGMに今昔流行曲が使われることはけして珍しく無い事です。 
芸術部であろうが、創価と無関係であろうが、無作為にBGMとして使われているだけの話。
どこが「さすが」なのか、私にはさっぱり理解できない。
これは多くの創価脳あるあるだと思いますが、創価芸術部は「身内」感覚故なのでしょう。
大した事でもないのに特別に感じてしまう、それもMC効果といえるのかもしれません。
校区の自治会役員が多数来ていたので、顔つなぎをしてもらった。これで選挙でまた行く先が増えた、
と”活動報告”もありました。
孫の合格についてはさくっとスルーで、私が感心するはずもない創価話題をべらべらと。
次子に対して「おめでとう」「良く頑張ったね」なんて言葉はひとつも出てこない。
母は幼稚園が創価とは異なる宗教系であることを良く思っていない為、喜ばしいと思えなかった事も
あるかもしれません。
それにしたってなんだよ、この塩対応。
私は母の喜々とした話しぶりに相槌を入れる事も出来ず、だんまりのまま、忌々しき事態だと
うんざりしていました。

けれどそこで「どうして孫の合格はスルーで創価の話ばかりなの?おかしいよ!」
と母に言えませんでした。
当時その理由を考えてみた事はなかったけれど、今は解ります。「あきらめ」です。
”母にそんな事をつきつけたって、鳩が豆鉄砲くらったかのようにポカーンとされるのがオチだ”
または”トンデモ反論が飛び出すに違いない”と諦め、気持ちをぶつける気にならなかったのです。
まともなコミニュケーションが成立しない、という諦め。
以前の創価脳同士な親子関係であれば、私は母に対し「どうして孫の合格より創価の話?」
なんていらだちや違和感を覚えなかったと思います。
創価話題は「聖」であり、どんな話題よりもプライオリティ高、この共通意識あればこその
良好な親子関係だったのです。
しかし既に覚醒した私からすれば、創価話題は「聖」であるわけもない。
「忌」なものになり下がってしまった。
それだけに母の活動報告を聞き続ける事に耐性がなくなってしまい「その話はもういいわ」と
途中で遮りました。
母は一瞬声を詰まらせていましたが「そろそろOOさん(主人)も帰ってくる時間だもんね、じゃあね」と
都合良い理由づけで自分から電話を切りました。
考えすぎかもしれませんが、母は私が創価話題を忌まわしい・鬱陶しいから「もういいわ」と
遮ったのだとは受け止めたくないんだな・・と感じ。
ループになりますが、親子間に生じた埋めようのない「溝」をこのときも感じて暗澹とした気持ちに
なったのです。
そして疑問が浮かんできました。

何故母は、私が創価(学会活動)を拒絶・非難していると知っているにもかかわらず
喜々として(懲りずに)私に創価話題をしてくるのか?という点です。
この年(2013年)のはじめに支部婦に非活宣言をしたことを母に話した後、何度となく
創価が推奨する「学会活動」が信仰行為ではない・日蓮が推奨していない活動内容だ、と
私の主張を説明しています。
また、その会話を重ねるごとに私は創価の矛盾点を突いているのです。にもかかわらず。
私に創価絡みの話や活動報告したところで、感心したり誉めたりするわけが無いことは
そろそろ理解してもいい頃なのにな?なんでだろう?と首をかしげたのです。
この点について考えてみた時、浮かんだのは「選民思想」でした。
母は私や他者からどんなに創価の矛盾点をつかれたところで、ゆるぎない「特別」な
思いを持っている。
それは自分も同じだったから解るのですが、母においても創価というよりは「日蓮仏法」が
”天地がひっくりかえろうともこれだけは正当で真っ当”という、えもいわれぬ確信があるのです。
その確信があるからこそ、こっちが敬遠していようが嫌悪していようがおかまいなしに語れるんだろう。
まるでそれを「上不行菩薩の振る舞い」くらいに思っているのかもしれない。
「選民思想」について、掘り下げてみたくなりこの頃からユダヤ教についての本を読むようになりました。
いずれ考察的な記事も書いてみたいと思いながら、もう一年が経過しましたが
現時点で言えることは「ユダヤの選民思想と一緒にしたら、ユダヤの皆さんに失礼だ」
といったところです。
本当に、創価脳のそれは陳腐としかいいようがありません。

私が覚醒せずに創価脳のままでいれば、母の話を何気なく「ふんふん」と聞けたと思う。
凄いなぁ良く頑張ってるね、でも高齢なんだから身体には気をつけてよ・・くらいのことも言っただろう。
だがしかし、今の私からすれば母の活動報告は
「悪徳商法に騙されていると気付かずに喜々と語る愚者の戯言」にしか聞こえない。
バカバカしいなにやってんの、時間の無駄じゃん・タダ働きさせられて「功徳」だとか頭おかしいだろ、
そんな感想しか浮かんでこない。
私だってほんの数年前は「愚者」だった。
世の中の事も、宗教の事も、なーんもわかってないくせに、まるで世法の全てを知っているかのように
「この仏法は素晴らしい」「日蓮仏法の絶対性」を信じ、機会あれば他人にも語っていた。
女子部の頃など、組織に尽くす事で「全てが護られる」と信じて疑わなかった。
仕事も多忙な中、プライベートの時間を返上してでも組織に尽くし、部員さんを激励する事は「善」だったし、
それらの行動は決して私の中で「ボランティア」ではありませんでした。
「功徳福運」なる報酬が必ずあるものだ、と思っていたからこそやれた事であって。
しかし今となっては、宗教活動=ボランティアであるほうが、まだ美しいと思います。人として。
目には見えない「功徳福運」の見返りがあるとふんで行動していたなんて、実はとても恥ずかしい事で。
そのあさましい心に付け込まれ、組織にいいように操作されていただけなんてまさに「愚者」そのものだ、
と私は思います。

学会活動や選挙支援を正真正銘の「ボランティア」だと思ってやっている人は
殆ど無いと思います。 
大半の方が、功徳や福運といった”目に見えない報酬”があるものと期待しての行動でしょう。
はなからそれを期待している訳ではなく「結果は後からついてくる」でも、同じ事です。
ボランティアというのは、見返りを期待しない(社会)奉仕活動ですから。

この出来事の翌週、ママ友がフリマに出店するから覗いてねと誘いがありました。
自治体が主催する秋祭りの一環で、地域の様々な会場で同日にイベントが行われる体でした。
パンフレットをもらい、フリマ会場を確認すると「OO教駐車場」となっていました。
地図を確認すると知っている場所だったのですが、駅近くの一等地であり
ビルやマンションの隙間にぽっかりとある空き地で
いつも「ここは何も建設しないのかな?」と見ていた場所でした。
OO教というのも、私は初めて目にしたマイナー宗教団体。
実際に行ってみるとその空き地に隣接した立派なビルの名前がOO(宗教団体名)で、
一見宗教団体の施設には見えない作りなのです。
何度も前を通りがかっていたのに全然気付かなかったので、改めて驚いてしまいました。
そして思ったのが、このような(失礼ながら)マイナー宗教団体ですら、一等地に立派なビルを所有し
いい場所に駐車場(といっても、普段ここに車が停まっているのを見たことがありません)まである。
原資はおそらく、信者からの御寄進?だと思われます。
だとしたら創価なんて・・そらおそろしい金額を集めていることは間違いない。
まずスケールが違うし。
そう考えると、もうぜんぜん無駄金やらなくていいじゃん。十分すぎるぐらいお金持ってるよ!
財務なんてとっととやめちまえ!!と、腹立たしくなりました。
この経験から、やたら宗教団体施設が気になるようになってしまい、出先で創価以外の宗教施設を
チェックしてしまう癖がついたのですがw 
創価ほど数がないにせよ、一等地に立派な施設をもつ新興宗教団体は少なくないのです。
以前も書きましたが、ハワイにある創価の会館の斜向かいにもとんでもなく立派な日本の宗教団体の
施設があるのですが、その団体名も私は初見でした。
今思い出す事もできないくらいなので、さほど有名な宗教団体でないことは確かです。
宗教法人が非課税であればこそ、のなれの果てと言えると思います。

財務も、お金が有り余っているような人が趣味娯楽でやることなら私は何も言う事はありません。
地元にも毎年4ケタしている自営業の方や、地主のおばあさんがおられました。
そのような方は4ケタ財務をした事を「秘すれば花」とはせずに、必ずカミングアウトしていました。
組織で財務金額を自ら口外する=「名誉欲」と言ってもいいと思います。 
出来る人がやってそれで満足しているのなら、それはアリなのかもしれません。
ただ、そうでない状況のところからも、たとえ1口1万円であっても取り立てるかの如く
斡旋しているのが現場の実情です。
生活を切り詰めてでも毎年3桁の財務をしている私の親戚も、好きでやっているのだとは思います。
が、人生の目的が、特定宗教団体に利する行動になっていることの裏には
「無償の愛」があるわけでは絶対的にない・つまりボランティアでやっているわけじゃないと
推察できるのです。
そこには確実に「見返り(=功徳・福運)を期待する思い」がある。
それが全く無いと言ったらウソになるでしょう。
物解り良く、出来る人がすればいい・無理しなくてもいい・やりたくないときはやらなくてもいい、
創価の財務がそのような制度ではないことは、活動家だった方ならよくおわかりだと思います。
個人が生活を極限まで切り詰め暴走しても、誰も止めない。財務は任意だから。
そこが怖いと親戚を見て私は思うのです。
とくに心配なのは、その親戚に学童期の子供がいることです。
親がダブルワークをしながらでも、組織に尽くしている生活を見て育つ子供の環境とメンタルを
思うと、不憫になります。 
幸い、いまのところ明るい良い子に育っていると聞いてはいますが・・。
どこかで大きな歪がうまれないことを願うばかりです。

時期的なこともあるのか、財務関係のキーワードでこのブログに辿りついたという方からの
非公開コメントをいくつか頂戴しました。
やりたくないけどやらなかったらどうなるのか・仏罰について気になっているようです。
はっきり言います。仏罰なんてありません。
ナニゴトかあったとして、それを仏罰と感じ受け止めてしまう、自分の心に問題があります。
また財務はあくまでも個人による善意の寄付行為で、商取引ではないはずです。
この「正しい認識」を持って欲しいと思います。
何か特別な宗教行為でもなければ、取引でもありません。
日本の法律において財務はただの「寄付行為」です。寄付の強制は違法となります。

組織の人に納金しなかったことは翌年バレるとはおもいますが、お咎めなんてありませんし、
もし(お咎めが)あったとしたらそれは「おかしい」から抗議しましょう。
学会の役職に社会的な「権限」なんて微塵も無いのです。 勘違いしている輩もおりますが・・。
なんの「権限」でそれを咎めてくるのか、そこを追求すれば幹部は白目をむいて退散するしか
ないでしょう。 
そこを逆切れ・居直るようなヤツは人としてどうかしていますし、恫喝行為ですから録画録音を
お忘れなくです。
こちらが認識を正しく持って、常識をわきまえ、毅然と対応すれば問題ありません。

悩んでいる方には、なにも恐れないで、良く自分で考えて結論をだしていただきたいです。

(続きます)
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