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他者の人生に軽率に関わるということ②

前回の続きです。

イッツ ア ミラクルと書きましたが、ミラクルとは「奇跡」。

創価脳の最たる特徴は、「奇跡」を盲信・確信している点だと思うのです。
創価学会に所属し、組織から流れてくる打ち出し通り脇目もふらず寸暇を惜しんで闘えば
必ずや「奇跡」がおこると信じて疑いません。
また、組織から流れてくる打ち出しなんてウザイから無視しててもかまわない。
新聞推進や選挙運動やらなくたって、会合になんて出なくたって平気平気。
暇な婦人部やうだつのあがらない壮年部がやっている組織ハリツキ活動にミラクル功徳なんておこらない。
そんなことよりも、友達に日蓮仏法(=実は創価教学)を語り広めたり、最終的に本尊授与(=入会)に
導いたり、師匠の素晴らしさを世間に語る事、お題目さえあげていれば「奇跡」がおこるのさ!と
信じている人も、実際存在します。
学会活動ガーな人も・ダルい組織活動を拒絶否定している人も、「日蓮仏法(=創価教学)」で
ミラクルがおこる事だけは信じて疑わない、そこは共通している。
だから両者とも「創価脳」だ。 私はそう捉えています。

当事者は「一緒にスンナ!」と怒るかもしれませんw
かたや、日々(5年も動画を公開しない)師匠のため同志のため地域社会のために
不惜身命の学会活動・生活の大半をささげている「組織ハリツキ型」の学会員からすれば、
普段会合に出なければ組織活動に協力もせず、都合のいい時だけ「ナンミョー」言ってるような
未活学会員の事は目の上のコブでしょう。
「宿業はどんなかたちで出るかわからない」「いつか痛い目に遭うぞ」「泣いてからじゃ遅いんだよ」
そんな風に不幸を願いながら(注:おおむね本人は「相手を心配」「慈悲」と誤変換+正当化してますが)
作り笑いを浮かべながら家庭訪問の戸口に立つ。
訪問される(ダルい活動なんてするかよ!題目あげて対話してりゃ功徳あるんだよ)側は、
生返事&愛想だけの「ごくろうさま~」で訪問者を内心「ウザ!」といなしてはいるけれど
ひとたび人生の窮地に立ったならば、藁をもすがるように「組織ハリツキ型」に寝返るのです。
そのとき組織ハリツキ型創価脳は「いらっしゃい!」「OOさんが立ちあがるの、祈ってたよ!」w
両者ともに、日蓮仏法(と言う名の創価教学)にミラクルが宿ると信じて疑わないからこそ
同じフィールド(創価学会)内を黒に白にとひっくり返りながら、共存していられるのでしょう。
創価と言うフィールドを離れ、そこに奇跡など宿らない・それは厄介でバカみたいな誇大妄想である、
ということを認める事ができなければ、この滑稽さはなかなか実感できないものだと思います。

事実上の家族関係も知ること無く・所在地もよくわからないまま・後期高齢者のOOさんと
リアルで繋がれるのは携帯電話だけだった。
それでも母はOOさんの訃報を「信心しているから」すぐに伝えてもらえるものと確信していた。
こんな話、一般人の感覚では到底理解できない事でしょう。
何事もフワっとしている。だのに意味もなく自信に満ち溢れていられる。
これも創価脳の特徴といえると思うのです。
問題の核心部分をこちらが突いても「信心は絶対」「師弟不二」だのという、ミラクルな結論で
居直る。 「信心していれば悪いようにはならない」こんな台詞にも科学的根拠なんかない。
そこには裏付けなんてものは一切ありません。すべては創価脳本人の「感覚」であり「思いこみ」です。
こういう事を書くと「信心の確信をもっていないから浅はかに片付けている」と、バリ活は鼻で笑うのかも
しれませんね。 いやいや私だって過去は「信心の確信」なる選民思想・誇大妄想を外部友人へ
雄弁に語る活動家でした。
全てが創価なる集金団体を頂点として司られた単なる思い込み・思いこまされであったと気付くと、
それまで抱いていた疑問やグレーゾーンだった事柄に対して全て綺麗に答えが出るのです。
本当になんにも難しい事なんてありません。ただ思い込みから解放される。それだけでいいのです。
しかし厄介なことに強固な「仏罰」「罰論」がそれを阻みます。
これまた単なる思い込まされであり、マインドコントロールであると頭で理解できれば難ないのですが。

母からOOさんの死を聞かされた電話口で、次から次へと投げかけたい言葉が頭を駆け巡るのですが
喉元で詰まり、出てきません。感情的になってはいけない、と自制心もありました。
母は私が黙っている間、自身を納得させるための言葉なのか
「OOさんが本当に孤独だったわけじゃないことがわかって救われた」「年齢が年齢だったから、
いつそんな事があるか常々心配ではあった」「会合に参加したり、電話するたびOOさんはとても
喜んでいた。今生のいい思い出作りもできたと思うし、人生終盤に創価に巡り合えたことで
(葬儀形式は不明だけど)霊山へと旅立ち、きっと大聖人様のお膝もとへ辿りついていると
思う(死後の世界の話)」と、一人でしゃべっていました。
ひとつひとつ突っ込みどころはあったものの、私は母にお願いとして言いました。
「もう折伏・本流はしないでほしい」と。
「面倒見切れないって、これでわかったでしょ?若い時とは違うんだよ。
OOさんは身内の方に創価入会を伝えていなかったって事が、どういう意味だかわかる?
身内の方が反対する・もしくは不安を抱かせると考えたから隠していたんだよ。
けど、死後に他人(=母)からそれを聞かされることの方が、私は(遺されたお身内にとって)
残酷だったんじゃないかと思う」と私が話すと、すかさず母から
「なにが残酷なの?創価に入会していた事は名誉みたいなものよ」と突っ込みが入りました。
これだから毒の回った創価脳は手に負えない・・と思いながらも
「あなたは”中の人”だからそう思うだけだよ。世間一般他者からすれば、名誉なんて思わない。
例えばこうだよ。
私がお母さんの死後に”実はOOOOOO(カルト宗教名)に入会してました”と聞かされたら、
私はショックだよ。人生の最期に何してくれてんのよって思うし、身内である私や兄姉が、
いかにお母さんを見過ごして、放置してたかって身につまされるよ」と反論。
母は「OOOOOOなんかと一緒にしないで」と憤慨していましたが、これも”中の人”だからこそです。
創価組織の中で飼いならされ、学会は正義!日本で一番会員数の多い宗教界の王者!
師匠(池田老人)は勲章顕彰もらいまくり!世界が宣揚! こんなことを信じ切っているから故です。
論点がずれると思い、そこには敢えて突っ込まず
「あなたのほうが長生きするとは限らないんだよ。相手だけが高齢者ではない。
あなただって独居老人の高齢者なんだから。
今は足腰丈夫でも、いつ会合に出て行けなくなるかもわからないじゃない?
あなたが折伏した新入会の方々が、全員(その方の居住地域の)地域にとけこんで上手くやってる?
OOさんが出来なかったように、他の方も同じ状況じゃないの。
新入会者を居住地の組織につけて活動家になんて、なかなか難しいんだって。
あなたも、もう解りきってる事でしょう?
それができないなら、入会させるのなんて無責任なんだよ。面倒みきれないんだから。
OOさんの件でよくわかったじゃない。
孤独死が不安だからって入会しても、最期は組織じゃなくて身内なんだよ結局」と言いました。
母は「確かに、自分の寿命がいつまでなのか最近不安に思う所はあるわね」と認め。
私は重ねて
「あなたに万が一のことがあったとき、私の知らない人間関係があっても伝えようがないし、
私だって遠方に居るんだし、その人たちの信仰の面倒なんて見切れないよ(脱会する気だしね・・
と、これは言いませんでしたが)。
とにかく、無責任なことはもう辞めて欲しい。
それは相手にも、相手の御家族にも迷惑をかけることだよ」と話し、OOさんが入会時に受け取った
お曼荼羅が、どんな末路をたどったのか、あなたは考えなかったのか?と母に質問。
母は「それは気になった。連絡してきた身内の方に聞く隙もなかったけど・・」と言い淀み。
私は「不敬されていたとしても、仕方が無いよね。
あなたやOOさんから見れば大事な御本尊様でも、お身内にしたら気味の悪い掛け軸でしか
ないかもしれない。そんなもんだよ?」と伝え。
正直、お曼荼羅がどうなろうが、覚醒してしまった私にすれば「どうでもいい」事です。
カラーコピーの大量生産本尊。信心などまったくない人がそれをどうしようと、何の瑕疵も害も
ありません。
ただここでは、母に「大切な御本尊が、故人の家族によって不敬されるなんて恐ろしい事だよね!」
という体で「だから新入会者なんて増やすな。もう折伏なんてするな」と釘を刺したのです。

母は「そうだね」と珍しく私の言葉に納得、
「これからは自分の出来る範囲で信心していくわ」と言いました。
私は安堵しましたが、母の言葉は”その場しのぎ”であったことを後日知る事となります。
もはや、母にとっての「折伏精神」は病気の域といえるかもしれません。

時系列の話は一旦おき、ここからはタイトルにした「他者の人生に軽率に関わること」が
創価の折伏ではないかと、私が考えた事について綴りたいと思います。

覚醒後、偶然目にした報道番組で「子供の貧困問題」を取り上げていました。
ある県の調査で、朝食をとらずに小学校に来ている子供の割合が高かった事。
朝寝坊をして食べられなかったという理由より、親が朝食を準備していない(出来る経済状況にない)
という現実が浮かび上がった、というものでした。
ある小学校では1時間目から保健室が満員。
保健室にやってくる子供達の大半が、朝食をまともに採っていない為力が出ず、学習意欲も薄い。
学力低下にもつながっており問題化している・・という現実の一端を目にし、私は驚愕しました。
そのような児童が1-2人ではなく、クラスに複数名も存在するということにも驚いたのです。
一億総中流、なんて言葉が私の育った時代には囁かれていました。小泉政権後から格差拡大、格差社会なる
言葉を耳にするようになりましたが、それでもピンとはこなかった。
私の知らない自治体の某公立小学校の話ではあれど、現代日本、食べる事に困るような人は
存在しないだろうと勝手にそう認識していた私には衝撃だったのです。
自己責任論が声高に叫ばれる世にあって、未来を担う子供達に、しわ寄せが及んでいる事にも憂慮し。
子供の貧困問題を考えるNPOや善意の個人が立ちあがり、さまざまな理由で
家庭で食事をまともに採れない子供達の為、無料の食堂を設けている事例が紹介されました。
NPO代表がインタビューで語った言葉に考えさせられたのです。
「いまお腹のすいている子供に、親を矯正学習させて食事を与えてもらえるようにしましょうなんて
悠長な事言っていられません。
目の前にいるその子の空腹をまず満たしてやることが、問題に気付いた周りの大人のすることです」
本当にその通りだ、と思いましたし、その人の思想宗教的背景については解らなかったけれども、
なんにせよ「尊い行動・活動である」と思い、支援したいと考えました。
子供の前で大人の理屈をこねたところで、お腹は満たされない。保護者の改善を待ってなんていられない。
この番組を見た後、ふと思い出したのが、私が青年部当時に男子部幹部が語った指導でした。
「年末になると、慈善団体・とくにキリスト教などの団体が”焚きだし”を行いますよね。
あんなものは救済にはならない。憐れみの・施す側(団体)の自己満足でしか無い。
それに比べて学会は違う。
学会の折伏は憐れみなんかじゃない。食べ物を与えるだけの、その場しのぎはまったくもって解決にならない。
憐れみを受けた人間は堕落する。又施しをもらえると思うから自立につながらないんだ。
その点、学会の折伏は違う。学会の折伏はいわば”その人がどうやったら自分で食べられるようになるか”
智恵・方法を授けているんだ。人生の法理、こうすれば必ず幸福になるという実践を教えている。
憐れみなんかじゃ、真に人助けはできない。そこを勘違いしないようにしてもらいたい」とw
これは、大人(路上生活者)に向けた事なのかもしれません。当時は「子供の貧困問題」なんて耳にしない
時代でしたから。
しかし今、この言葉を思い出すと、なんたる机上の空論かと呆れてものが言えません。
今お腹のすいている目の前の人に(大人でも子供でもどっちでも)、あたたかいスープを差し出す事より、
「題目を唱えろ、公明党の票をたのんでこい、師弟不二に生きろ!そうすれば食うに困らない境涯に
なれるんだぜ!」と声をかける事のほうが、真の救済になる?
マジで言ってるの?!頭大丈夫?!と今の私なら聞きます。
”それは20年も前の指導じゃないか。時とともに変化するから、今時そんな事は言わないよ”
”大人と子供じゃ違うよ、極端な例を引き合いに出すなよ”と逃げるバリ活も居るかもしれませんが、
それは詭弁です。 
創価脳の全ての人が、こういった考えを持ち動いているとまでは言いませんが、基本精神として
「創価の教えが幸福への実践」だという考え・現実的な手立てよりも信仰功徳という名のミラクル推奨が
奥底にあることは間違いないのです。

「友の幸福を願う」
この言葉面だけ見れば、何と美しく崇高なフレーズかと思います。多くの創価脳はそこに騙されています。
創価の教えに引き込む事は、友の幸福を叶える手段ではありません。
どこまでその人の人生に責任を持てるのかを、考えてから入会勧誘を行っている人は果たしているのだろうか?
きっとそんな深いところまでは誰も考えていない。
ふわっとした「入会しさえすれば、御本尊様をたもち学会活動にはげみ、お題目さえあげていれば
放っておいても新入会者は幸せになれる」そんな科学的根拠も現実的な裏付けもない「ミラクル」のみで
推進している。 実に無責任な話であり、軽率な関わりなのです。

まだまだ書きたい事があるので次回③に続きます。
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