他者の人生に軽率に関わるということ④(完)

※この記事の下に③があります。そちらの続き記事となります。


もし私が、いまも目覚めないまま創価脳であったならば、彼が店をたたむに至った事を
マイナス評価で受け止め、「私があのとき折伏できず、宿業を切ってあげられなかったからだ」
と自分を責めたかもしれません。
彼に信仰を保たせる事が出来ていれば、今もサロンは繁盛しオーナーとして辣腕をふるっていたかも
しれないのに・・と至極勝手な妄想で、彼を折伏出来なかった事を悔やんだと思います。

しかし仮に私が折伏を実らせていたとして。
彼が同じ人生のバイオリズムを辿っていたならば(サロン閉店)、私はどうしていただろうか?
「また宿業、出てきちゃったね。でも大丈夫!乗り越えられるよ!一緒にお題目あげよう!」
そんな(無責任な)声かけ・励ましだけで終わるのが関の山では無いのか。
励ましだけなら、そこに信仰が介在しなくても十分できることです。
そして無事に転職を実らせたら「やっぱり信心していて良かったね」と言ったかもしれない。
又、転職も決まらず・なかず飛ばず・彼が低空飛行をずっと続けたならば、私はどう思ったのか?
具体的に何かをしてあげられたのか。
お題目をあげ・励ましの言葉をかける、それ以外どうしようもない。
私にも家庭があり家族がいて、そこをないがしろにしてまで「折伏の子」の面倒をみるなんて
当然ながらできっこありません。
女子部当時の私は身軽だったし、将来家族が出来たとき、折伏の子の面倒などみられなくなるという
「想像力」も完全に欠如していた。
自分は万能の・自由自在な存在ではないのに「ミラクル」ありきで行動している為、そんな先の
環境変化まで全然考えちゃいなかった。
というよりも「信心すれば幸せになる・何事かあっても乗り越えられる」との法則のみで動いていたから
現実的な事なんて想像もしない。
また補足として、当時私は2人目の友人へ折伏を実らせた後であり、彼女は悩みを解決・
次々に願いをかなえ、活動家として頑張っていました。
それは「偶々」であり信仰功徳というよりは、彼女自身が元々もっていた素質によるものだったと
今は理解しているのですが、当時は「信仰によって彼女が出した結果」と信じて疑わず。
彼女が信心で変われた・良くなれたんだから、彼だってきっと不可能を可能に出来るはず!と
私は安易に「ミラクル公式」に彼を当て嵌め、折伏しようとしていたわけです。
(しかも、彼が窮地に立った理由を「身から出た錆」だったとは知らずに、です・・)
こんな浅はかな考え・根拠で彼を折伏しようとしていたのだから、私の脳内花畑っぷりが
伺い知れるというもの。
そして一家の主という立場である彼を、そんな簡単な公式で「救いたい」なんて本気で考えて
いたことに対し、まさに「頭痛が痛い」のです。 

「結婚や姻戚関係を結ぶのとは違うのだから、宗教勧誘に責任なんて感じる必要はない」
そう思う人もいるかもしれません。
私の母はまさにこのタイプで「御本尊を受けてから先は本人次第」と言います。
また、私が実際に組織で受けた指導に「福運は自分もち」というものがありました。
活動して福運をつむのも・活動をさぼって福運を積まないのも本人次第だという意味です。
じゃあ折伏とはいったい何なのか?
「相手を幸福にする」と言っておきながら、実のところ「本人次第」で「自己責任」に他ならない。
私のような生まれながらにして学会3世とは違い、外部の方が入会するという事は
相当な覚悟や葛藤・または家族の反対等、乗り越えなければならない壁が、様々ある。
そんな相手に対しさんざん信仰功徳のミラクルを語って、入会後は「自己責任」で「結果論」。
あまりに無責任・虫が良すぎるのではないか? 私はそう思います。
実際問題、相手に「幸せになるため」と背負わせるのは、組織隷属です。
新聞購読や財務と言った経済面・活動や選挙支援に伴う時間的拘束や負担。
世間の冷やかな目線というオマケも込み。
良い事があれば「信心したおかげ」 悪いことがおこれば「宿業が出た、今こそ闘う時」と
はっぱをかける。お題目だけあげていればよい、なんて事は言わない。
「信心しても変わらない」こう相手が言ったら「愚痴の心が福運を消すんだよ!」と諭しただろう。
「結果が出ない」と言われたら「誰かに折伏や仏法対話をしてみたら?」「本気の祈りが足りない」
など、幹部仕込みの常套句で相手を困惑させただろう。
なにもかもが「結果論」であるにもかかわらず、それを
「この信仰なしでは得られない、絶対的幸福境涯」などとうそぶく。
うまく文章表現できないのですが、これほど非効率で嘘だらけの(表向き)人助けはありません。

私が「責任」という言葉を使ったのは、創価がそれに値するほどの大言壮語で信仰の効能・
現世利益・絶対的幸福を説き、「この教え以外で幸せになることは不可能」と、
唯一無二の教えとして、日蓮仏法(改悪済み)を喧伝しているからです。
そこまでハッタリかまさず、ただ心の修養・癒しとしての信仰を推奨している団体であれば
「責任」なんて言葉は使いません。

挙句の果てに仏法の真髄は師弟だとか・
師匠に応えるのが弟子の務め・
師匠の仇をうつのが弟子の使命だとか・
寝る間を惜しみ、家族との時間を犠牲にし、財産をつぎ込み、人としての尊厳を失わせてまでも
組織拡大・機関紙拡大・選挙戦の絶対勝利へと人々を働かせ続ける。
そこまでさせる団体に他者を引き入れる事に、「責任」を感じないなんて本当は異常なのです。
(過去、自分のしてきた勧誘行動に対する悔恨を含め、書いています)

また、本テーマで綴る中で思い出したエピソードがあります。
青年部時代、男子部から聞いた話で、彼女を折伏していたメンバーがおり
彼女の父親がアンチ創価で、入会に大反対。
彼女の心は入会へ向けて動いていましたが、ある日彼女の父親が激怒し男子部の自宅に
怒鳴りこみに来たのです。
「これ以上娘を勧誘したら、ただではおかない」と、生命の危険を感じさせるような脅し文句も。
彼女が入会を考えたのは、暴力的な父親についての悩みもあってのことでした。
彼はその話を会合の席上で語った際
「脅しをかける魔に一歩も退かない、屈しない。絶対に彼女を折伏して見せます」と決意発表。
大拍手が起こったそうですが、その後四者幹部に呼び出され「折伏は見合わせるように」
と言われ、正義感に燃える彼と・厄介事から組織を護ろうとする幹部との間でひと悶着。
彼女の父親から会館に苦情電話が入ったのが、折伏見合わせ要請の理由だったとあり
結果、彼は非活になってしまったという話でした。
この話をしてくれた男子部も正義感の強い人物で、
「話しあえばわかる、対話力だ、と先生も言っている。なのにどうして折伏をやめなければ
いけないのか?父親の威圧に屈しなければならないのか。
今すぐにでも、彼女を救わなければいけない切羽詰まった状況なのに」と
幹部の方針に疑問を感じていた様子でした。
当時の私は男子部の心情を理解しつつも「今は静かに祈りをおくる時なんじゃないか」と
もっともらしい言葉を返しました。
今はわかります、男子部と私のあいだで「現実」「常識」というものがすっぽり抜け落ちた会話を
繰り広げていた事がw
当の本人達は大真面目に「祈りで全てを変えることができる・GETミラクル」と思っていたのですから。
しかし幹部は、解っていたんでしょう「祈りや話しあいで解決する相手ばかりではない」という事を。
国内末端世間でこの調子なのですから、グローバルは何をかいわんや、です。

長くなってしまいましたが、まとめます。

他者の幸福を祈ることは、特定宗教を持たずとも、誰にでも可能な事であります。
そして自身の属するカテゴリ(団体)に他者を属させることが、幸福の直道などという考え方は
概ね間違いです。

「自他共の幸福」その具体的行動とは。
どちらかが必要としている時、寄り添う事。それだけでいいのではないでしょうか。
喜怒哀楽、分かち合い、悩める時には必要な励まし・時には助言を。
互いを信頼し、相手がどのような状況にあっても態度を変えず、
雄大な山海の如く見守り・受け入れる。
そのために大事なことは、まず「自分」のことを一生懸命やることでしょう。
こんな関係性がわずかでも・どこかにあれば、人はどんなときも我を取り戻し
頑張れると思うのです。
なにも同じ対象・宗教を信じる必要なんてありません。 
どこかに属して、仲間になって、特定組織に利する活動をしないと幸福になれないなんて・
苦境を切り開けないだなんて、そんな話はありませんし、ペテンは不要なのです。

そして自身の抱える悩みや問題を解決するために、悩める他者を入会に導くとか・
機関誌を購読してもらうことが、事実なんの解決にもならないという現実と一般常識を、
創価脳はわきまえるべきです。
それを世間一般では「現実逃避」と呼びます。

「ミラクル」ありきで、軽率に他者の人生に関わってはいけません。

なにもかもが「結果論」である限り、
創価に拘る必要もなければ、創価でなければならない理由も実際のところ無いのです。
一日も早く、このことに気付き、本当の自分を取り戻し・自分の頭で考えぬいて決め進む。
それはとても幸せな事なんだと、知ってもらいたい。
私はそう願っています。
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