方便と真実

2013年 年の瀬。
財務納金を忘れるな、というメールに返信しないまま放置しましたが
それから数日後、再び母からメールが入りました。

「なんで返事が無いの?今年の財務は外しちゃだめなのよ。
世紀の殿堂(注:総本部を指していると思われます)が完成したこの年に立ち会えた、
この身の、人生最大の幸せ。その感謝の財務をしていかなければ後世必ず後悔する。
”蔵の財より身の財すぐれたり”この御文を忘れないでほしい。
蔵の財をほんの少しでも出し惜しんだ事で、後から”しまった”となってほしくありません」
(実際もっと長文でしたが、最大の突っ込みどころだけ抜粋しています)

頭痛が痛い、文字通りそう感じてしまう内容で呆れました。
"総本部が完成して人生最大の幸せ?"
ハァ?! なにを言っているんだろう、この人は。
こんな文章、よっぽど毒の回った創価脳にしか響かないでしょう。
母はこの時点で総本部参りをしています。もっとも中にはまだ入れず、外からの見学ですが。
当時、全国的に組織で「総本部完成記念財務」アプローチがなされていた様子。
コメント欄にも「今年は総本部完成の特別な年だからお願いしたい」と、広布部員申込を
幹部が頼みに来たという書き込みがありました。
おそらく私の母もそのような「アニバーサリーイヤー」と煽り気味な幹部指導を、毎回のように
会合で聞き、感化されていた+総本部を実際目にし、興奮していたのだと思います。

また、総本部が完成した事と・日蓮の御書の引用がとてもチグハグに感じられました。
当時はなんともいえない違和感でしたが、覚醒が進んだ現在はさらに「おかしい」と思えます。
完全に創価から離れてしまって、変節を冷静に見ることが出来ているからこそなのですが
総本部とは「創価なる宗教団体の建物」なだけであり、日蓮とは何の関係も無いマテリアルです。
創価が勝手に「大聖人直結」だのなんだの騙っているだけの話で、総本部に日蓮の絵画一枚
あるわけではないでしょうし・当然ながら御真筆本尊もありません。
私は総本部に行った事がなく、行く機会も今後ないでしょうが、行った身内の感想を聞いても
「学会は素晴らしい」「先生はすごい」という言葉はあっても「日蓮大聖人」なんてヒトコトも
出てくる事はありませんでした。
(注1:日蓮は偶像崇拝を嫌ったからだ・・と、学会員はもっともらしい反論をしてくるでしょうが、
 池田老人の写真を館内掲揚することは、「偶像崇拝」とならないのでしょうか?疑問です)
(注2:御親筆本尊があれば正統と言いたいわけでもありません、お金で買えるものならば
 今後、組織が入手しないとも限りませんから)
日蓮について、史実的に伝承継承されているようなものは、学会に何一つないのです。
あるのはハッタリ感満載の「日蓮スピリッツ」だけでしょう。
(御精神というよりも、スピリッツというほうがチープ&ジャンク感が出るような)
完全に離れてしまったから、私もこのチグハグ・ハッタリ感を理解できるようになりました。
けれど中の人はみじんも疑わず盲目的近視眼で「創価こそが大聖人直結!」なんて思っている。
そこが怖さなのですが。
まだ、それが日蓮御書の引用では無く、池田老人スピーチの引用ならばチグハグ感は
さほど無かったかもしれません。 
(が、母が池田老人マンセーでないことは、何度も書いている通りです)
総本部完成のくだりを(A)とし、日蓮御書のくだりを(B)としたとき、(A)と(B)が
全く異質なものなのに、こじつけているところに違和感をおぼえました。
これが(A)が、日蓮宗もしくは日蓮正宗の新しいお寺が完成しました・本山のリニューアルが
完了しました・・というクダリならば、まだ文章として納得できたと思います。
とにもかくにも「日蓮」という崇拝キーワードを商材に、あの手この手でお金や時間を
巻きあげようとする。
純粋に日蓮を慕い日蓮仏法(と言ってよいものか、今となっては悩ましいところですが)を
信じる者を騙す、とんでもない団体だと、母(=被害者)を見ていると悔しさと虚しさで
いっぱいになるのです。

続きの文章に、兄姉の財務もずっと母が代わりにしてきた旨、記載があり
”姉が経済的に恵まれた人物と再婚出来たのも財務のお陰だと思っている”とありました。
(注:兄と姉の統監は実家地区にあるため、母が財務を継続できる状況です)
どこまでも自分本位。他人の成功も勝手に自分のお手柄にしてしまえる、この図々しさ。
私だって過去は同じだったんですから(この記事に書いています)偉そうには言えませんが、
幻影に騙されてるだけなのに。どんだけおめでたいんだよ・・と苦々しく思い。
姉がこんなことを母が思ってると知ったら、幻滅は当然だし親子の縁を切るのではないか?と
ぞっとしました(なので、姉には黙っています)。
よっぽどたしなめてやろうか、電話してやろうか!と思いましたが、
幸か不幸か長子がインフルエンザに罹り、それどころではなくなり、結果的にスルー。

インフルの為、子供達が楽しみにしていた友人とのクリスマス会は欠席となりましたが
イブの日は一緒に料理を作り、ケーキも子供達が選んだものでささやかな宴を。
クリスマス当日にはサンタ(義両親と、主人)から希望通りのプレゼントが届き、子供達は
大喜び。
毎年シーズンになると、子供達はサンタ(義両親)宛に手紙を書きます。
プレゼントのリクエストをし、義両親が間に合うよう宅配で送ってくれるのです。
アドベントカレンダーをめくりながらクリスマスを心待ちにし・純粋に「暮らしの中のイベント」を
楽しむ子供達を見ていると、羨ましい様な感覚さえしてきます。
現在創価ではクリスマスもOKになったようですが、昔はそうではありませんでした。
私の母も例にもれずで、クリスマス的装飾は一切NG。謗法にあたると禁じていました。
そのため実家にはクリスマスツリーがありませんでした。
余談ですが、幼い日の記憶で、姉がどうしてもクリスマスツリーが欲しいと母と泣きながら
大喧嘩をしていたシーンを覚えていました。
が、近年姉と話をしている中、それは実は兄だったと判明w
私自身、クリスマスツリーがそこまで家に欲しいと思ったことは子供時代、無かったのです。
ただ、習い事の先生宅や友人宅に飾ってあったツリーが綺麗で素敵だな・・と思った事はあります。
それでも「どうして家にはないんだろう?」と思ったことは、一度もありません。
それが「いけないこと・わが家的にNG」だと、小さい頃から認識していたからです。
クリスマスの装飾はなくても、クリスマスプレゼントは貰っていましたし、イブになると
毎年父が大きなケーキを買って帰ってくるのが楽しみでした。
母的に、世間と足並みをそろえておかないとまずいと思ったのか?夕飯にチキンが出た事も
あります。
ただ、家族で楽しむイベントという感じでもなく、非常に事務的だった印象しかありません。
プレゼントもサンタが持ってくるものではなく、最初から「親がくれるもの」
なんとも温かみも夢もない・味気ない行事でした。

結婚後、ツリーを購入したのは子供が生まれて以降でした。
当時覚醒はしていなかったものの、子供達には普通に年中行事を経験してもらいたいという
思いがありました。
自分がそうではなかったから、それで周囲との落差や違和感があったから、子供達には
そのような思いをさせたくない・・との気持ちです。
現在も、子供達と接して行く中で、どれだけ沢山の経験をさせてあげられるか・
家族で楽しむ時間を作れるかが、私たち親の仕事ではないかと思う次第です。

どこかの強欲爺さんの為に命をも捨てられる人間になれ!というような事を
子供時代から刷り込んだり、
家庭より組織が御本尊が大事と、家庭をおざなりにし、子供に後ろ姿ばかり見せるような事は
教育上決して良いとは思えません。
大昔、読んだ大白蓮華にあった体験談をふと思い出したのですが、親が会合ばかりで不在がち・
孤独を感じ、思春期に不登校&引き籠りになった子供。
両親が寝ずに題目をあげる後ろ姿を見、「自分のためにこんなに祈ってくれてるんだ!」と気付き、
感動し立ち直った・・というものでした。
今は思います。この子も洗脳の行きとどいた不憫な子であったな、と。
どうして子自身と向き合わずに、御本尊に向かう親の背中を見て感動するのか。
たまたまこのお子さんは立ち直り、学園だかS大受験を勝ち取りお決まり文句の
「広布のお役に立てる人材に成長し、恩返ししたい」とありました。
でも、それはこの子に「洗脳の基礎」が完成していたからにすぎないと今の私は見ます。
三つ子の魂百までも、生まれてこのかた題目を聞かされ・会合に連れ回される幼少期を
過ごし・親から日常的にプロパガンダを受けたからこその、受け止め方でしょう。
おそらく普通の子供だったら、ますます不信感を募らせるのではないでしょうか。
なんで自分を見てくれないの?御本尊って・組織そんなに大事? となるのが、
普通の子供の・いえ人間の感覚だと今は解るからです。

私の母は、子供3人もいて一人として創価教育を受けさせる事が出来なかったのが
痛恨の極みだと、事あるごとに話します。
「広布のお役に立てる人材に」と願ったのにと、私の退転状態について嘆く事もあります。

私は子供達に対して、そのようなことを一切思いません。覚醒前から、そうでした。
そのようなことは酷であるし「宗教団体のために生きよ」「宗教団体の長(師匠)に恩返しせよ」
などと望むことは、親としておかしい・異常だと思います。
「広布のお役に」なんて立たなくていい。
平凡でも構わない。健康に快活に生きて欲しい。
願わくばその子が決めた道を堂々と歩み、自己実現していってくれたらそれが一番。

また、その支えに信仰・・創価にまつわる活動を絡めることについても「おかしい」と言いたい。
集中力を高めるためにお経を唱える、それくらいのことは容認してもよいにせよ
「学会活動」になんて、自己実現の支えはありません。
普段の「学会活動」なるものはおまけに過ぎず、集金集票が実は本地である事に、
多くの活動家は気付いていない。
崇高と思える活動の大半は「方便」であり、集金集票が「真実」。
少し組織から距離を置き、冷静に見ていれば解る事だと思います。

(続きます)
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