従空入仮観

2014年7月。
母の入院付き添いのため、実家で1週間強を過ごした私ですが、姉が帰ってきたので
交代することになりました。
週末に子供達を連れて義両親と夫がやってき、母のお見舞を。
姉の旦那さんと義両親もこのとき初めて顔を合わせる事となり、昼食を一緒にするなど、
和やかな時間を過ごしました。
母以外の家族と会うのが久しぶり、
(母を除いて)創価脳な人物が全くいない空間に、なんだかとてもほっとしました。
みんな柔和で落ち着いていて、なんにも切羽詰まってなくて、穏やかなたたずまいです。
たわいもない会話で笑いあい、その端々に「祈り」だの「先生」だの「信心」だの一切出てこない。
ああ、懐かしい。私が待ち焦がれてたのはこの空気感だよ!と、一人嬉しくなり。
入院中の母と、創価話題でバトルすることはありませんでした。
実務的な会話が大半で、そこに創価がでてくる隙がなかったのです。
が、お見舞いにやってくる学会員のテンションに食傷気味になった&幹部のおばには嫌味を
言われw 正直うんざりしていたのです。

食傷気味について説明すると、学会婦人部は「元気」がとりえという事になっているせいも
あるのか? みんながみんな、お見舞いにもかかわらず話し声が大きい。
特徴ある会話の抑揚も、改めて気付きました。
派手に感心したり同調したり。相槌も大きく、とにかく一生懸命に話を聞く「風情」。
無駄にテンション高め。みなさん役者級ですw
このオーバーな抑揚とリアクション、女子部時代の幹部もこんなんだったなぁ・・と思いだし。
それを、次から次へとやってくる婦人部方が老いも若きも、みーんな同じなわけなので
聞いているだけの私は本当に疲れましたw 
(聞き流せばよかったのですが、アンチな私はそれだけバリ活に興味もあるという事で
 耳はダンボで内心つっこみまくりながら、聞いていたのです・・)
まったく、入院が個室で良かったと、そこは安堵しました。
これが共同部屋だったら、周囲に大変な迷惑だったと思います。
後日姉との会話でわかったことですが、前年の入院に姉が付き添っていた際、
お見舞いに訪れた近所の婦人部(前回記事に書いた、手術当日に自宅訪問してきたおばさま)
が、先生が~・選挙話題にからめ学会勝利うんぬん~と、創価話題を長々と
声のトーンを落とさずにしていたことが、とても恥ずかしかった&周囲の方々に迷惑だと感じ、
今回は1ケ月の長期でもあるし・・と、個室にしたんだと教えてくれました。
さすがは姉!と思いました。

幹部のおばの嫌味について。
見舞にやってきた日の夜、電話をかけてきました。
「お母さんを心配させちゃいけないよ?
病は気からっていうんだから・あなたが心配をかけたことも、今回入院手術の大きな一因だよ」
と、活動を全くしなくなった事等を暗に指摘しているようでした。
”あんたが活動しなくなったから宿業が出た”と、言われないだけましかもしれませんが、
オブラートに包んで核心に触れないだけで、結局言いたいことは同じだと思います。
カチンときた私は
「母がおばさんに何を話したのか知らないけど、”それ”は関係ないと思うな」と言い返しました。
おばもカチンときたようで
「行いは、全部自分に返るの。自分が子供に泣かされるようになった時にわかるかもね。
でも、そんなの悲しいでしょう。そうならないように今、言ってやってんのよ!」と。
イラッ!ときながらも、何も答えませんでした。
”てめーが言えた義理か!一字一句、そっくりそのまま返してやる”と心で言い返し。
おばの子供には脱会者がいるのです。だのになんでそんな偉そうに言えるんだろうかとw
また、おまもり御本尊を開いたままにして置いていた事についても注意され。
母の希望でそうしたんだよ、と私が言うと
「それでも拝さない時は閉じておくのが常識って、知ってるんだったらあんたが閉じなさいよ。
お母さんは動き辛いんだから、あんたが閉じるのが当たり前でしょうが」と。
今思い出しても腹立たしい↑このいわれようw

また、もうひとりのおばがよこした手紙を読んでなんともいえない気持ちになりました。
遠隔地に住んでおり、配偶者が闘病中のため
お見舞いには行けないとのことで見舞金を添え送ってきたのです。
手紙には「病には、とにもかくにも、お題目です。お題目しかありません。」とありました。
このおばは、マインドは母に近いと思います。
池田老人マンセーというよりは、日蓮大聖人崇拝派。
(ちなみに嫌味を言ってきた幹部おばは、池田老人命派)
自身も若いころに大病を患い、妊娠は無理かもしれないと言われたところを乗り越え
子供にも恵まれたという「体験」をもっています。
おばは自分が「題目」によって病魔を乗り越えたとの思い・経験から、この手紙を綴っている。
一点の曇りもなく、ただ純朴に、おばはお題目の力を信じている。
御書の一節をひいて書かれたその手紙は、誰の見舞いよりも母を一番励ましたのでは
ないかと思います。

私はもう、日蓮仏法を、信じるに値しないと思っている。
お題目をただただ唱える事が窮地を救うというような考えには、もう賛同できない。
けれどそれを純粋に信じている他人の心や思いについて、とやかく言う気も権利もない。
それは、個人の自由。信教の自由だから。
おばがお題目しかないと思っていることは真実で、その心の発露から
母の無事を祈ってくれることは有りがたく尊い。
純粋に誰かの平穏や無事をただ一心に祈ることは(対象がどんな神仏であれ)
美しい心がけだと思います。

ただその「祈り」というのは間違いなく、「数」がものをいうような世界の話ではない。
お題目を何百万遍とあげたから解決したり・成就するようなものでは、断じてない。
いいときはうまくいくし・だめなものはだめな時だってある。 
奇跡を起こせることも有れば・起こせないことだってある。
一生のうち何度も奇跡を起こす人もいれば、奇跡なんてものとは無縁だって人もいる。
祈った結果に「絶対」なんてものはない。
最終的には結果論。当人の心持。
出た結果を、本人がどう受け止めるかってそれだけの話なんだよ・・。
これはなにも、題目に限ったことではない、神頼みだって同じこと。
だのに、創価脳は誰もがみな「願いとして・祈りとして叶わざるなし」だの・
一に題目二に題目・・と、最終的にはお題目しかないだの、当たり前のように口にする。
それ、違うんだけどな・・。
おばの手紙を読み、唱題について考え巡らせたことを、昨年の7月に記事にしました。
(この記事です 

上記記事を書いた頃と、今ではまた少し考えが変わっています。
現状の思いを述べると、お題目で願いが叶った・難を乗り越えただのいうことは
各個人の感じ方なので、それはそれで”あり”なんだと思いますし、その人個人の意見として
認めたいと思います。
「御本尊に祈ったおかげでこうなった」と、功徳を感じている方の感想については、
「そうですかよかったですね」というだけで、それ以上でも以下でもありません。
私は同意できないし信じません。けど、ご意見として承っておきます・・というスタンスです。
ただ、ここでひとつはっきり言っておきたいのは、
その「効能」は、たとえば一般人が御利益のあるお寺や神社でご祈願・御祈祷を受けて
願いがかなったというのと、まったく同じで、優位性なんてものはないと私は考えます。
どっちも、願いがかなったり・難をよける事が出来たんだから、「効能・効用」は同じです。
それをわきまえた上で、信仰するのが良いのではないか、と思います。
よって他の神様や伝統仏教を貶めるような物言いや、
自分たちが唯一無二であり他はみんな邪宗だ、というような考え方は、改めるべきです。
「私は学会員で信心をしていて幸せで功徳もいただいてるけど、ほかの宗教を信じてる人だって
幸せで、功徳があるんだ。自分たちが特別なわけじゃない」
「私はたまたま学会員だけど、みんなちがってみんないい」
学会員全員が、こんな考えを持てるようになれれば、だいぶ常識的な集まりになると思います。
まぁ、百歩譲って心の中で「いろんな宗教があるけどわたし(学会)が一番」と思うだけなら、
だれにも迷惑かけませんのでそれは自由かと思いますがw 口に出したらアウトでしょう。
他宗を貶めるような物言いをしたり、他宗を信ずる人に呪いをかけるような文言を呟いたり
するのは、お行儀のいいことではありません。
まして平和団体を標榜している会の一員がすることではありませんよねw

この時期以降、母と話す中でもたびたび「お題目の力」について力説される事がありました。
現在もあります。
そのたびに私は「題目の力は認める。ただしそれは、神社寺院への祈祷祈願で成就したって
いう一般人のそれと同じである」と主張しています。
そのたびに母は、困った顔をして「他と一緒にしないで」と言いますw
自分の信仰だけが特別すごくて最上級で唯一無二だ・・という思い込みの強さは、
カルトと呼ばれる宗教のすべてにあてはまる条件のように感じます。
繰り返したびたび書いてきた事ですが、私が知る限りの(以前の)組織では
「誤った教え(宗教)がはびこることで、世の中が乱れる」
「末法の現代では、日蓮大聖人が説いた法華経が一番正しい、広めるべき教えだ」
としていました。 
それゆえに排他的で、お門違いの選民意識に陥ってしまうのでしょう。
ただ、最近はかなりの教義変更もあったようですし、組織は”広めるべきは池田老人の教え”
という路線にこの先もっていきたいようですねw
歴史上の偉人(僧侶)の教えと・昭和の俗物の教えを同列にもってくるのは無理があります。
残念ながら日蓮の「竜の口の法難」の様な、生き仏的レジェンドもありませんし
(なんといっても、もう5年以上も雲隠れ・・w 仏敵の阿部翁は卒寿を迎え闊達という皮肉)
「絶対性」や「正統性」の担保が、池田老人のスペックじゃかなり無理があるのではないか?と。
そのあたりをどう、これから辻褄をあわせていくのか?
(下世話な意味で)興味がありますw

ただただ、静かに、自己の内面を高めるような密やかな信仰であれば
それほど問題はないのだけれど
(組織に依らず・離れて、ただ自宅で勤行唱題するだけならまだましでしょうが)
創価脳の場合は、そんなものでは済まされないのが大問題。
外部拡大という「害」が常に付きまとい・それがなければ信仰と呼べない的な
共通認識・刷り込みが巧妙に為されているから、非常に厄介なのです。
今や日蓮大聖人の御金言よりも、池田老人の言葉のほうが重要視されるような組織に属して
「大聖人様の弟子」もなにもないと思うのですが(呆)。
今現在は、母のそのあたりの認知を整理すべく話をしているところです。

話がそれまくっていますが、ついでにもうひとつ。
本記事で触れるのは不本意なのですがw 話の流れという事で書いておきます。

今年の話ですが、
子供の教育関係に厄介な人物がおり、悩まされていました(昨年春より)。
その人物にかかわる人のほとんどが「迷惑」を被っており、助言や忠告を繰り返すも
一向に改善されないうえ、本人全く意に介さず。
私も何度か衝突してみましたが、疲れるだけで何ひとつ得るものがない。残念な思いだけが
増えていく。
どうしたものか?と、考えあぐねていた時、たまたま友人とランチに出かけた店の近くに
立派な神社がありました。
友人が御朱印をもらうというので(彼女の趣味です)、お伴して参拝することになり。
「厄介が過ぎ去りますように。平かに」と念じました。
参拝を終えてから友人が「あまり表になってないけど、ここ実は縁切り神社なんだよ」と言い。
本当に驚くべきことに、それから半月と経たないうちに、厄介な人物が転居するとの
報せが入ってきました(御主人の転勤決定)。
偶然ではありますが、縁切り神社に行ったおかげなのか?!
また、その少し前に節分の災厄除けの御祈祷を某神社で受けていました。
御利益なのか、何がどう作用したのかは判りませんが、こういう偶然ってあるんだなぁと
感心したのです。

拍手からコメントを下さった方が、私の幼少期の経験(いじめっこが居住地から消えた件)に
言及しており、その当時の私が御本尊に祈っていて「たまたま」そうなったことは事実です。
が、今回の、縁切り神社への参拝からの厄介転勤引っ越しもまぎれもない偶然の現実なのです。
この2つのエピソードを、どう評価し捉えるのか。
創価脳は何と答えるか、きっと幼少期の経験は「まぎれもない功徳」とか言って正統化するけど
今回神社参詣で出た結果については「魔の通力」とか言い出すのでしょうねw
私は、そんな偏った評価はしません。 
どっちの信仰対象が上も下もなく、強い弱いもない。
ただ平等偶然に、「私の願望が叶った」ものだと思っています。

なにもひとつの宗教・信仰対象だけが、他を蹴落とすほどの勢いで、絶対的な力を
もつものだとは、私は考えません。
というよりも、宗教とは「心のありよう・所作」を教えているものではないでしょうか。
願いをかなえるのはその人自身の思い・念の強さであったり、引き寄せの力が働く結果であり、
対象物(崇敬の対象)によって左右されるものではないと私は思っています。

信仰の御利益とは
特定の行動(信者獲得拡大・集票・諸々の活動・題目を数多く唱える)に応じて
なんらかの利益がリターンされる、という類のものではないはずです。
そして↑このテのシステムを推奨し会員を扇動している宗教団体なんて、ろくなもんじゃない。
非常に陳腐で安っぽいものだ、と個人的に感じます。

(脱線話で長くなりました、すみません。続きます)

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