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未活時代

組織の活動に参加しなくなった私は、「普通のOL生活」を数年間楽しみました。
バリ活だったときは、定時退社でわきめもふらず帰宅する事がほとんど。
通勤に時間がかかったので、19時からの会合に間に合うよう「時間との闘い」でした。
当時の女子部では「会合に遅れない事も祈っていかなければならない」とし、残業がちで会合に
遅れるとか・間に合わず不参加だったメンバーに対して「時間革命ができていない、やっていこう」と
幹部が指導していました。
ちゃんと祈ってないからそうなるんだよ、という理屈で責めるのです。
いま思えば、どうしようもない時だってあるでしょって感じなのですが、当時は「そういうものだ」と
真に受け、素直に信じていました。
そして「時間革命ができてない」と注意されたくないがために必死で早く帰宅していたのです。
これは大聖人の教え云々ではなく、完全なる組織統制のための学会教義だったんでしょう。
当時の私は、それをごっちゃにして同じものと捉えていました。
そういえば仕事で会合に遅れがち・休みがちだったメンバーに対し
「もっと会合に出やすい職場に就かせてくださいと祈念していくことが大事」という指導もありました。
他の事柄もですが、とにかく組織から離れないよう・組織の身近で世界を終わらせるような生活指導が
当時は多々あったのです。
(余談。牙城会の人と交際した事がありますが、彼は指導どおり「会館から30分圏内」の会社に転職しました)
結婚後も地元で婦人部になって「地元に恩返し」せよという指導も、私の住んでいた地域ではありました。
「組織から離れない事が幸せ」という価値観で全ての生活指導がまとめられていました。
学会活動=仏事で、生活のすべとになるように、がちがちに縛りあげようとしていたとしか思えません。

社内で個人的な飲みや遊びに誘われても、学会日程を最優先で殆ど断ることが常だった私は、
次第に誘われなくなっていました。
でも、バリ活の頃それを気にしたことはなかったです。
学会活動で「永遠の幸福への因」を積んでいるのだから、取るに足りない事だった・・というよりも
活動が忙しすぎてそんなところまで気にしていられなかったのが実情です。
職場での学会宣言もしていなかったので、周囲から「退社後にアルバイトでもしているんだろう」と思われて
いたことを、未活動になり職場づきあいをはじめてすぐに知って、少なからずショックでした。
そんな風に見られていたんだ、と。
たしかに、普通のOLが理由も言わずに職場づきあいを避けていたらそんな憶測があっても不思議じゃない。
私はバリ活のときまったく「周囲」が見えていませんでした。

組織の活動に出ない罪悪感が全くなかったわけではありませんでしたが、
私は失われた数年間を取り戻すべく、バリ活のときに出来なかった人付き合い、外部との恋愛もしました。
創価の信仰を持たない人達と密接に関わって行く中で、意外だったのは、様々な事柄に対して
偏見をもたない人が多いということでした。

組織を離れて最初に交際した人は、某宗教の教会主の息子(後継者)でした。
会社の先輩で、私がいつも定時でそそくさと片付け帰って行くのを見て心配だったと言いました。
社内で噂になっていたバイトについて、借金があるのか・家族を支えるためなのかと、考えていたそうです。
私が急にのんびり社内に居るようになったのを見て、なぜいつも早く帰宅していたのと聞いてきました。
そこで「創価で活動を頑張っていた」ことを、嫌われるのを覚悟でカミングアウトしたら、
相手は「よかった深刻な事情じゃなくて」とあっさり受け入れてくれました。
驚いた私は、創価の事を気にしないんですか?と尋ねたところ、自分も秘密がある。と、教会主の
息子であることを話してくれました。
私はここで、ひるみました。いい人だし、付き合いたいと思ったけど、邪宗だったらちょっと無理と。
先輩は私に対し、「君の育った背景にあるものを否定しない」と言いました。
「なんて器の大きい人なんだ!」と感動してしまいました。
私はといえば、邪宗だからと、それだけで相手を否定しようとしたのです。
自分の偏狭さを恥じた瞬間でした。

約1年の交際中、先輩は無理に私を自分の宗教の行事に参加させようとする事もなく、その件は
持ち込まないようにしてくれていました。
そして私が先輩を「折伏しよう」と考えたことも、一度もありませんでした。
私の何倍も、先輩は幸せだと思えたから。
家族仲が良く、両親を尊敬していると何のてらいもなく言える先輩が羨ましかった。
私はその真逆で、父がアンチ学会で組織の悪口ばかり言うことで、信仰の敵だと思っており
心から尊敬の念をもてずにいました。 母がそのような言動を普段からとっていたのも影響としてあります。
そんな自分が何を語ろうと無意味と思ったのです。
むしろこちらが学びたいと思う所がたくさんある人でした。

私はそんな先輩との交際を母には絶対に言えず、ひた隠しにしていました。
それは、邪宗の跡取り息子と交際するなんて母には受け入れがたい事だと思ったからです。

やがて先輩は修行で長期間、教会本部へいくため退職しました。
修行期間中は会えないのでお互い辛くなるだろうし、縛りつけたくないから一旦別れようといわれ
快諾し、笑顔でお別れ。
その後、修行を終えて戻ってきた先輩から会いたいと連絡がありましたが、私は「もう会いません」と言いました。
会ってしまったら、年齢的なこともあり今度は私がどうしても「結婚」を意識して辛くなることが予測できたから。
信仰を捨ててまで一緒になろうとするなんて私には無理。そんなことしたら「堕地獄」だ。
背景には、幼少期から刷り込まれてきた「罰論」がありました。
この信仰を絶対に捨ててはならない、捨てたらどうなるか・・という教えです。

その後の(外部との)恋愛においても、結婚の話がでると私は自分の信仰を絶対に捨てられない・
そこは譲れないと主張し、困惑した相手と話しあいをもつも平行線で別れていました。
表立って活動もしなければ、創価だということを黙って交際していたので、結婚の話がでた途端に
突然そんな事を言い出す私に相手も混乱したのだと思います。
「本当に人を好きになった事ないんでしょう?」と、言われた事もありました。
当時はそう言われても意味が解らなかった。
私は「自分と御本尊様の間に他人を入れない」ようにしてきたのだと思います。それが絶対的な幸福へと
繋がっていると信じて。
これは、組織から教わった事では無く、家庭の中で母親から刷り込まれたことでした。
当時、組織の活動に出なくても、私の中で「御本尊様への信」が揺らぐことはなく
「絶対感」と「仏罰・罰論」を恐れる心がありました。
覚醒した今、冷静に考えると絶対感の裏付けは「仏罰・罰論」思想にあったと思います。
神との契約にも似た発想です。

私が活動に出ない事を、母は時折「いつかは絶対(活動を)やらなきゃいけなくなる」と言っていました。
いずれ「功徳」が切れて、悪いことばかりおこるようになる。そのときに慌てて活動したって遅い。
常に組織から離れない「水の信心」でなければならない、というのです。
母にとっては「功徳を積む因(信心)=学会活動」で、私もそう教わった通り、活動家時代は頑張っていました。
この、「活動を止めたら不幸になる」という刷り込みも、組織へと向かわせる・組織から離れないように仕向ける
マインドコントロールに過ぎなかったと今は思います。

未活動になり少し一般社会と交わって、覚醒のチャンスもあったのに、私はふたたび組織に戻ります。
そのきっかけは「功徳が切れた」と痛感した出来事でした(次回に記します)。

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