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2016年 御挨拶

新しい年が明けました。
全国的に暖冬、好天に恵まれた2016年の幕開けでしたね。
いかがお過ごしでしたか?

さて、私は例年、暮れから実家方面へ帰省をしますが、今回は新居にて
家族だけの年越しをしました。
結婚から十年以上になりますが、今回初めてです。
元旦の初詣もこれまた初めて、自宅付近の氏神様へ家族で赴き。
この氏神様へ、引っ越した直後から毎月一度お参りで訪れています。
新居には仏壇・ご本尊は持ち込まず、新たに神棚を祭りました。
神棚といっても、かしこまったものではなく現代風のコンパクトな物です。
(興味のある方は、福島いわきの木工職人集団moconoco(モコノコ) 神棚 で検索してみてください)
その際、お札を頂いたのが、現在地の氏神様でした。
引っ越しを決めた際、この神社について特に調べたり・意識もしませんでしたが、
訪れて御由緒を知ると、不思議なご縁を感じ。
偶然ですが、子供たちの命名に込めた意味と通ずる由縁があり、驚かされました。
引っ越してより、心静かに日々暮らせているのは、こちらへ月一度のお参りをし
周囲に感謝できる心を取り戻させてもらっているからかな?と感じています。
お参りを終え、最後に鳥居に一礼するとき、不思議と頭がすっきりしているのです。
心のお掃除、という感覚で、心を糺すためのルーティンとしています。

創価脳時代のような「おすがり信仰」や「必死さ」とは、まるで無縁の参詣。
神社への参詣を開始し、いかに創価脳時代の自分が「強欲」で「独りよがり」「独善的」だったかを
思い知らされ、己を振り返ると恥ずかしいし、反省しきりです。

年が明けてすぐ、帰省。
義実家へ挨拶のち、実家へ向かい、2泊してきました。

年初のビックリは、母が姉と共に元旦の新年GG会に参加したという話。
姉からきいたところ、母が車を出してくれと姉に頼んできて、姉は渋々OK。
送迎だけのつもりが、母が駐車券を持っており、車で待機している・・と言える状況でなくなり
(駐車場係の創価班がうろついている中で、注目されるのが嫌だったとのことw)
一緒に会館に入る羽目になったが、会合中は目をつぶってなにも見ないように・
聞かないようにした。
正座が限界になり、先に退出し車で待機した(最後まで参加しなかった)とのこと。
新年からお疲れだったね!と、労いました。

自発的に会合参加を減らしている母ですが、新年GG会はスルーできなかったようです。
理由を尋ねたところ
「初詣(へ神社や寺)に行くわけにいかないし、私の新年初出式はGG会しかない」
ということでした。
母の学会員としての長い歴史の中で、昔は日蓮正宗菩提寺への参詣があった。
新年を迎えられた喜びを、お寺で感謝申し上げる事ができた。母にとり、立派な年中行事であった。
それが宗門と学会の決別があり、お寺への参詣は出来なくなり、会館での新年GG会が
母にとっての年中行事になり変った。
創価学会に対して、思うところがあったって、心のよりどころとしての「場所」「聖地」が
大石寺や菩提寺でなくなり(ある意味、創価に其処を奪われ)、20年以上経過する今。 
消去法で、現役学会員の自分にはけっきょく会館しかない・・という思いのようでした。
(参加しないと、地域メンバーからあらぬ心配をされてしまうという懸念もあったようです)

なんというか、一人の純粋な(?)信仰者が、創価組織に懐疑的な思いを抱きつつも、
もういまさら寺には戻れない・何処へも行き場がない・・。
年始から学会員のツイートやネットでの発言を読んでいて、
ここ最近(とくに昨年の、安保法制をめぐる学会本部のグダグダっぷりから)学会に対して
欺瞞・疑問を抱いている人たちの、何処へも行けなさ(または、自己流解釈で痛々しいまでに
なんとかどうにか、組織に居場所を見つけようとしている)を感じ、
結果、純粋な信仰者が置き去りになっているんだな・・と感じました。
自己矛盾・ダブルスタンダードは、それこそ大昔から学会のお家芸ともいえるものでしたが、
此処へ来てあからさまに、わかりやすく表出してしまったことで、組織が揺らいでいる。
その中で、純粋に日蓮仏法を求め・心のよりどころとして生きている人たちの心の部分が
翻弄されているように、思います。
その事について、組織はこれまでの「なぁなぁ」を改め、金にも集票マシンにもならない会員は
ばっさり切るべきだ、と私は思います。
本性を丸出しにして、”金と集票につながらない会員はいらねーよ!イエスマンしかいらねーよ!”と、
正面切って表明してほしいw
もはや「心」を大切にするような、団体では無く。
純粋な信仰者である会員に対し、不誠実が過ぎるのではないか?と、
ここ最近の状況を見ていると、そう思えてなりません。

↑こんなことを書くと、私が学会改革派だとかカンチガイされる方もおられるのですがw
(なにをどう読めば、そうなるのか解らないのですが・・たまにいます、そーいう感想くれる人)
そのようなつもりは一切ありません。
まだかろうじて、籍はありますが、学会とは一日も早く縁切りしたいと思っております。

私が覚醒してすぐの頃(2012年秋~)、個人信仰を志した時期があったのを思い出し。
儀礼的な事柄において、個人信仰は行き場がないな・・と軽く行き詰ったことを思い出しました。
心は日蓮大聖人を求めていても、正宗に戻るには躊躇があるし、ハードル高い。
仮想的との闘いなんて、やってることはさほど学会と変わらない。
しかしもう、学会にその拠り所は求められない。そう考えた時、
私はネットで日蓮宗や、日蓮フォロワー的な小さな宗派なども調べ、自分の求める信仰に
見合ったところ(団体や寺院)は無いものか・・と、探したこともありました。
そうこうしているうちに、選民思想が崩壊し、現世利益を追う日蓮仏法そのものに疑問を感じ、
なにも団体や寺に依る必要はない。日蓮に帰依するのも違う。と、卒業できたのですが。

母が、どんな変遷をたどってゆくのかは、これから見守って行きたいと思いますし、
順を追ってブログにも記していきます。

2016年、皆さまにとりまして、健やかで素晴らしい年になりますように。
本年も、よろしくお願いいたします。

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