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独善的臨終観アゲイン

2015年11月(夜の会合に出るのをやめたと聞いた後日)母に電話。
12月の父の七回忌は、母と姉夫妻だけでやってもらう事になった為、
当日に合うよう、お供え物を手配した旨連絡を入れました。
世間話ついでに出てきた話題が、とある学会同志の訃報についてでした。

私も知っている方で、入会10年前後の独居老人です。
私が実家に住んでいた時期、その方は非学会員でした。
当時(入会前)の印象しかないのですが、ちょっと変わり者で町内じゃ有名なおばさまでした。
御主人に先立たれ・お子さんは独立し全く実家に寄りつかなくなっていた様子で、
ふさぎこんでいるところを各種会合つれだし~集団囲い込みで入会へ・・という
独居老人を狙った、よくあるパターンの折伏劇だったようです。
母は、入会以前からこのおばさまに対し良い印象は抱いておらず。
そのおばさまが亡くなった・死因はこう(詳細伏せます)・葬儀はなかった(お子さんの意志で直葬)
との話を聞いて、私は「それは御気の毒だね、なんだかかわいそうだわ」と感想を述べました。
すると母が
「かわいそう?なんてことあるもんですか。あの人がいなくなって、みんな清々してるんだから」と
言ったのです。
エーッ?! いまなんて言いました??? と、耳を疑う発言でした。

過去記事に書いた通り、これまでも母は故人を貶める物言いをしてきました。
生前に学会批判をしたり・母に対して敵意ある態度をとってきた外部人物に対しては
容赦なく失礼な・まるで故人を冒涜するかのような発言が多々ありました。
そのたびに私はたしなめていたのですが、母はすべて学会正義?で正当化。
「創価信仰(日蓮仏法)を保っている自分が絶対優位のルールブック!」とでもいわんばかりの。
たとえば、同一死因で一般人と学会同志が亡くなったとして、学会同志の事は一切貶めない。
けど一般人に対しては手厳しい評価を下す。
罰が出ただの、生前苦しんだ・さびしい余生だっただの、なんだのかんだのと・・。
それらはほぼ「憶測」「想像の世界」のことで、真実ではない。
信心していない人の事は、とりあえずケチつけないと・悪く言わないと気が済まないのか?
そらおそろしい独善的臨終観の持ち主だな・・と、語りを聞き、わが親のことながら毎回
背筋も凍る思いでいました。
その失礼で・手厳しい評価は「非学会員」にだけ向けられたものだ、と私は思いこんでいました。
(この記事にも書きました)
つまり創価脳の母にとって、相手が学会員であれば、どんな悲惨な死であっても荘厳される。
「使命を果たした」「遺された家族が安泰だからだいじょうぶ」「すぐに素晴らしい境涯のもと
生まれ変わってくる事は決まっている」云々かんぬん、肯定的な評価をする。
とにかく悪いようには絶対言わない。 
これが創価脳の常だと思っていました。
自分たち(学会同志)だけが良ければ(良く思えれば)、それでいい。
あくまでも信心してきた自分たちの死は特別で、いわゆる「成仏」が約束されたものであり・
仏法をたもたなかった・学会批判してきた一般人は残念でしたね・・的な解釈が出来れば
気の済む問題なんだろうなと。
しかし、このとき母は「学会同志の死」を、冒涜したわけです。
こりゃありえないことがおこった・・!と思いました。

「相手が学会同志なのに、そんなこと言うなんて酷いね」と私がたしなめると
「あんたは直接の迷惑被っていないから、そんなキレイゴトが言えるんだよ!」と反論され。
母が「清々した」と発言した裏には、おばさまが数年前から時々奇行を繰り返し
界隈住民とのトラブルがあった・・という背景がありました。 
このとき初めて聞かされた話でした。
状況を聞くに、おばさまはおそらく軽度の認知症で不穏状態だったのではないかと思われ。
それでもかろうじて日常生活が送れていたり、会合にも普通に出てきていたり、
同居家族もいなかった為、誰も認知症だと気付かずに接していたのかもしれない・・と推測。
または躁うつ病だった可能性もあります。

また、おばさまの事を、幹部に苦情かたがた相談した学会員もいたのですが、
「精神的な病気だろうから仕方ない。厄介時は相手にしない様に」との回答。
この回答も苦し紛れで、そう言うよりほかなかったのは解りますが、なんともいい加減だなwと感じ。
創価は「信仰によって良く変わる事(宿命転換)」を掲げ折伏・入会を推進してきた団体です。
そして折伏にあたった学会員も、おばさまが「良く変わる事」を信じ・変わらないなんて事は
1ミリも考えずに入会に導いたはずなのです。
「善かれ」でやったことは、まちがいないでしょう。
しかし蓋を開けてみれば、活動に出てひととおりの事をしていたって変わらない人だって出てくるし、
前より悪くなる人もいないとは限らない。
変われなかろうが・悪くなろうが、誰にもその責はありません。
ただ組織に引き入れた、ということで新参者に迷惑厄介をかけられても、困惑するのも対応するのも
すべて「現場」で直接かかわる人たちです。
新規入会を促し・御本尊を下付し新聞を取らせ現金を巻き上げることがお仕事の「大本営」は、
新参者の面倒なんて一切見ません。現金収入と一票を得てホクホク。 それだけです。
どこの馬の骨が入ってこようと、金と票さえ得られたら目的は達成される。
それが永続的でなくても、たった1度きりでもかまわない。収入・得票にかわりはありません故。
会員が問題行動や事件を起こしたときは、即「除名処分」で切り捨てれば済む話ですしw
しかも大本営は数字(お金も含め)管理・把握だけがお仕事。
現場の苦悩なんて知ったこっちゃありませんし、ぶっちゃけどうでもいい。
美談だけクレクレ、しんどい・ややこしい話はいらねー。厄介はそっち(現場)で処理しろよ。
いつまでもどこまでも、生身の人間がぶつかりあい、シンドイのは「現場」だけ。
もうそろそろ、このからくりに「現場」でシンドイ思いをしている方々も気付いていい頃だと思います。

話を元に戻します。
いくら迷惑かけられてたにしたって、故人に対して(清々したなんて)それはないだろ、
しかも「みんな清々した」の「みんな」って誰が言ってるの?本当にそんなこと言ってる?と尋ねると
「清々した、とハッキリ言わなくても、誰ひとりとして故人の事を”かわいそう”とも”残念だ”とも
 言っていない。亡くなったね~・・(シーン)という感じで、話題にすることすら避けてる」
と母は答え。
これも完全に母の「憶測」「想像の世界」のことで、皆が清々していると思っているのは真実ではない。
確認してないのです、でも母の中では「みんながそう思ってる」となっている。
此処が大変重要なポイントなのです。
創価脳は、思い込みが激しく、単なる自分の想像で思った事を「真実」のようにすり替えてしまいます。

私は改めて聞きました。
「御本尊様を受けて、信心活動していた人が、どうしてそんな亡くなり方をしたと思う?
 それに、亡くなって同志から”いなくなって清々した”なんていわれる現実はどうなの?
 まじめに学会活動もしてたのに、なんでだろうね?おかしくない?」と。
母は「さー?なんでかねー?」とトボけていましたが、次に
「あの人の信心は本物じゃなかったから(そうなったの)よ」と言いだしたのです。
私は「ふーん、あなたも偉くなったもんだねぇ。
 他人の信心がニセモノか本物かまで、査定できるようになったんだ?
 大聖人様も顔負けだね。すごいねぇ」と嫌味を込めて返しました。
すると母は急にうろたえたように
「私だってあの人のこと、さんざん(良くなるように)祈ってきたんだから!」
「あの人が成仏しないとは言ってないわよ!」云々と、よくわからない弁明を開始。
はいはい、と聞き流し
「祈ってきたから故人の悪口言っても、それで無罪放免・チャラだって言いたいの?
 なんで周囲が祈ってきた人なのに、そのような亡くなり方をして・亡くなってなお悪く言われなきゃ
 いけないんだろ?おかしくない?
 自分の今まで言ってきたことと矛盾してるって、気がついてないの?
 結局お母さんが信じてるのは、日蓮仏法でもなんでもない。
 日蓮を使った、自分さえよければそれでいい、ご都合主義の独善教だよ。
 自分だけが選ばれし民なんだよね」と突きつけました。
母は「そんなことはない!」と否定し、何か言っていましたが既に記憶に残ってないほど
まともに反論にもならないような事柄でした。

ちなみに、実際はもっと長いやりとりでしたが、文言がいまいち思い出せません(残念)。

「選民思想」についても、この時母に説明しました。
私も長らくこの選民思想に取りつかれていた。日蓮仏法をたもつ私は無敵だ!と信じ切っていた。
でも、そうじゃなかったんだと気付かされる出来事に、次々と出会ってしまった。
「組織の中にいたんじゃ、絶対気付けないんだよね・・なんでかって、外部を見下すアプリが
 インストールされてる状態だから。
 どんだけ外部が窮地から救われていようとも・九死に一生を得るような大奇跡を起こしていても
 ”そんなの偶然” ”仏法の目でみれば、それが真の幸福と言えるかどうかは解らない”とか
 何かとケチつけるような思考回路になってるんだよ。
 でもね、本当はそうじゃないよ。 自分たちだけが特別で、周囲のラッキーは偶々なんて
 んなわけないんだよ。 逆も同じだよ?
 自分たち学会員の不幸は転重軽受だけど、それ以外はただの罰とかそんなわけないよ。
 どれもこれも、選民思想アプリ搭載で見てちゃ、本当のことなんか解らなくて当たり前だし。
 ましてやさ、同じ学会員でも自分の気に入らないヤツ(件の故人)だったら見下し入るって
 どー考えたって、おかしいじゃん。
 ちょっと、考え直したほうがいいんじゃないの?自分の信仰観を」と話し。
母は「あんたが何を言いたいのか、さっぱりわからない」と言いつつ
「私は本当につらく苦しかった時、いつも必ず御本尊様が助けてくれた。その体験がある。
 その体験を、誰も”違う”とは言えないし、言わせない。
 あんただって、何度も助けてもらったじゃないのよ?どうしてそうなってしまったの?」と、
論点をすりかえ。 

えー・・?今の私の話、ちゃんと聞いてた?!とガックリorz
私が突きつけたのは、長年組織が掲げてきた「創価信仰の万能性」の否定についてであり・
組織でもっともらしく語られてきた事+母がこれまで語ってきた・信じてきた事との齟齬。
そこはすっ飛ばしで、「御本尊様が助けてくれたことは事実」のみでカバーできると思ってるの?!

どうしたって、「非」や「自己矛盾」は認めないんだな・・。
なんかすげーな・・と、この時点では呆れと言うよりは、もう感嘆の域でした。
この会話をどう切り上げたか記憶にありませんが、通話の最後のほうで、母の声に
力がなかったことだけは覚えています。

このやりとりを経、今年に入り、母が格段に変化しました。
非活になったこともそうですが「学会批判や非活動に転じることで不幸になる・トラブルが出る」との
オカルト罰論を封印したのです。
それを知る契機は、2015年後半に私の周辺でおこった「とある出来事」を
カミングアウトした時でした。

「とある出来事」を通して、私に第三次覚醒が訪れたといってもよいかもしれません。
それほど大きな気付きのある出来事でした。 これは別カテで今後書いて行く予定です。

(続きます)
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