問題を手放す

以前の記事で少し触れました「問題解決のために問題を手放す」について、
お尋ねもありましたので今回はその件について書きます。

「問題を手放す」 には、2つの側面があります。
ひとつは人としての在り方・相手を尊重する事。
もうひとつは受容の奇跡。
どちらも「手放す」ことにより、問題は本来あるべきところに戻り・解決するという流れです。

まず、私が心理学など全く知らない時期に「問題を手放す」をやったことで
問題が解決していた経験から。

私自身、主人におこったネガティブな出来事に一切関わるのを途中で止めたのは、
馬鹿らしくなったという理由の他に、過呼吸症状が出た為、自分を護る目的もありました。
関わっていたらますます、心身ともに追い詰められてしまう!と感じ、降りたのです。
ただ、完全に無視を決め込みながらも心はざわついていましたし、
「冷たい奴と思われないだろうか?」という不安も時々よぎっていました。
その払拭に、問題には一切触れないけれど健康管理にはいつもより気を配るようにしました。
また、自分の気持ちの整理のために「断捨離」「掃除」「神社参詣」をルーティンにして過ごしました。

そして実家母の創価問題に関して、私が躍起にならなくなったのは
姉のかかわりが大きかったと思います。
家族の中で唯一、私だけが母の創価趣味(←今はこう表現できます)につきあわなければ
ならない!と(勝手に)背負いこんできましたが、
2014年春に姉から「創価の事で母を刺激するな」と釘を刺されたこともあり、以降の私は
母に対し、「問題意識」や「敵対意識」をあからさまに向けて創価を語る事を自粛しました。
過去の記事にも書きましたが、あくまでも兄姉の意向に沿うよう・邪魔しないようにとの配慮でした。

手放しの理由はどうあれ、主人に巻き起こった全ての問題は綺麗に片付きました。
そして母も、私が膝づめ対話w を継続しなくても、勝手に非活動の道を歩み始めました。
「問題を手放したら、問題が解決」していたのです。

一連の出来事を経て、心理を学び始めたところ「問題は解決しようとしない」とか
「問題を手放せば、問題は解決する」といった教えが、あちこちにあることに驚きました。  
いろんな心理学者・カウンセラー・覚者が、表現こそ違いますが同じことを言っており。
「他人の問題に首を挟むのは、相手を低く見て信用・信頼していないから」
(相手に解決能力が無いと見くびって、相手の仕事や役割を奪っている)
との示唆を読んだ時、
なんですとー?!でした。 が、これは当たってるかも・・(汗)と、自分を振り返り。
私が主人と義弟の訴訟問題に首をつっこみかけたのも、ふたりが頼りなく思えたからでした。
(常々、そう思ってきたということです) 
また、母に対しても「長年盲目なんだから、自分で気付けるわけがない(=だから私が創価の矛盾を
母に教えなければ・訴え続けなければ!に繋がっていた)」と決めつけていました。
つまり「相手を見くびって」いたことになります・・。
そして「相手が問題を解決するチャンスは譲るべきであり、首を突っ込むべきでない」
ともありました。
相手の役割や成長・気付きのチャンスを奪ってはいけない、という事です。
これが基本的な「人としての在り方」の部分で、問題を手放す理由のひとつめです。

実際、私が手を出さなくても主人の問題は片付きました。
私の出番なんて全く無用だったということですw
そして、一連の出来事を経て主人が大きく変わりました。
本来持っている力を出すようになった・・というよりも、これまで義母さんや私が
主人を「頼りない」と決めつけて「役割」を奪っていただけだったんだ・・と、理解しました。
実家の母についても、私がヤイヤイいわずとも、自分の目で組織の中を見「これ如何に?」と
気付き、離れたのです。
それも、2014年春頃には思いもよらなかった理由(安保法案をめぐっての内部対立を目撃)で。

心理を学ぶと、創価で叩きこまれた事のほぼ全てが覆るというか・前提が違いすぎて
改めて驚くと共に、
「幸せとは真逆の理論を叩き込まれてたんだなぁ・・」と、しょっぱい気持になるのです。
そんな組織を離れて良かった、と思うと同時に、折に触れ自分の中にある「前提」を
チェックしてみる・おかしな「思考のくせ」が残ってないか、点検してみる必要性を感じます。

心理学は、条件なんて何も必要なく、人は誰でも最初から幸いで尊い凄い存在だ、
という大前提から始まります。
「かわいそうな人・救うべき人」なんていません。
この大前提から出発しているため、自分も他者も素晴らしい存在であり、信用・信頼して
委ねることが「自他の尊厳を護る」ことになります。
人が不幸だと感じるのは、思い込みや勘違いで思考が偏ってしまった(思考のくせがついた)
せいであり、
その心の仕組みを理解し・偏りを真中へ戻すのが、心理学の様々なテクニック(療法)です。
そして心理学の究極は、助けるのは「わたし(自分自身)」だけです。 
他者には問題も原因もありません。(人のせいにしているうちは、何一つ解決しません)。
自分が助かり救われる事で、何もしなくても他者も救われるし、大丈夫。
むしろ、他者のことを気にしているから、自分が救われないのだーと教えてくれます。
自分の投影が他者である、自分が他者に何を感じているのか。これが出発点だからです。 
そして、心理学は徹して「自分」に決定権があります。
自分の内側を変えるだけで、外側=相手に影響を与えるのです。
つまり外側=相手を敢えてどうこうと、弄ったり働きかけたり、変えようとしなくていい・
相手を、どうにかしなくていいのです。 
心理学のおすすめ本があったら教えてほしいとのお尋ねもありましたので、記事の最後で
紹介いたします。

対し創価では「条件付き」の幸福論に終始していました。
いうまでもなく、信仰を保たなければ真の幸せは無いという考え方です。
この考え方は、選民思想を生みだします(信仰のない人は不幸・・だから救わなければ!と)。
.自分の幸福だけで満足してはいけない、他人も幸せにしなくては! ←下線部が罠です。
このあたりの話は、別の機会にもっと詳しく書きたいと思います。
もと創価脳で悩まれている方には、ぜひ知ってもらいたい大前提です。

「ニュー・アース」を読んで、エゴの構造について知ると、よりこの「問題を手放す」について
理解が深まります。
詳しくは次回から書きますが、エックハルト氏は「ニュー・アース」をはじめとした著書の中で
エゴ(自我)に振り回されないためには
「”いま(現状)”を受け入れ・”いま(現状)”と喧嘩しない」ことを提唱しています。
先日読んだ「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」にも
「受容と手放すこと」について詳しく書いてありましたので、一部紹介します。

注:なお、私がエックハルトトール氏を神押しw しているのは、誰の心理学の本を読んでも・
全部エックハルト氏が語ることと同じで・その智慧に結びつくからなのです。
なんだか宗教にハマったように思われた方もいらっしゃるようですがw 
上っ面だけ見ての話ならば残念ですし、まだ「ニュー・アース」の内容について私は
全く書いてないのにw えらく早く「レッテル貼り」をされた事は、残念だなと思います。
けれど、どんな感想を持つのもその人の自由です。感性やポテンシャルの違いだと
承っておきます。
また、私はエックハルト氏ではない現代の覚者・心理学者にも影響を受けています。
おいおい紹介します。



↑「ニュー・アース」よりやさしく読みやすい文体・内容です。
(エゴのメカニズムについては「ニュー・アース」が一番詳しく書いてあるかと思います)

習慣性になっているリアクション的な「ノー」は、エゴを強化します。
一方、「イエス」はエゴを弱めます。エゴは、「手放す事」「放下」に耐えられないのです。

人、場所、状況や出来事に、無理難題を要求しなくなった途端、不思議なことに、
それらは、あなたにとって満足のいくものに変化して行くだけでなく、より調和のとれたものに、
より平和なものになっていきます。これが、受容の心が起こす「奇蹟」です。

「手放すこと」は、いわば、抵抗から受容への「ノー」から「イエス」への内なる変容です。
手放す時、「わたし」は、リアクション、あるいは知的なレッテル貼りという認識によるものから、
それらを超越した感覚へとシフトします。

なんであれ、完全に受け入れるなら、あなたは平和へと導かれます。
たとえそれが、自分が抵抗している事の受容であろうと、受け入れ不可能なことの
受容であろうと。

人生を放っておきましょう。逆らわず、そのままにしておくのです。(p122-p138抜粋)


問題を解決しようと、執着することじたいが「エゴ」の働きです。
下線を引いた「受容の心が起こす奇蹟」については、私は「親和性」だと解釈しています。
「親和性」の反対は「敵対」です。
(他者の)問題を解決したい!という「エゴ」を手放すには、まずあるがままを「受容」する。
動かしようのない現実をまず、認めてしまうのです。 そのうえで「手放す」。
エックハルト氏も、この奇蹟について「物理学の法則に近い」と動画の中で言及していましたが、
執着によって生じるエネルギーが、抵抗力を生むことによって
どんどん解決という「的」から離れていく・抵抗を手放せば、「的」に引き寄せられる・・といった
感じかと解釈しています。
私が経験したいくつかの「問題解決」は、(全く意図してませんでしたが)
この、物理学の法則に近い”手放しからうまれた親和性”かと思います。

(補足:今回は「他者の問題」としましたが、エックハルト氏は自分自身が抱える「問題」も
同じく受容・手放しを推奨しています。「ニュー・アース」にその内容が出てきますので
後日触れます)

「問題を手放す」って、責任感の強い人にとっては、物凄く怖いことだと思います。
こと、元創価脳の方には「恐ろしい」と感じることだと思うのです(私がそうでした)。
創価では「問題」に立ち向かうのが当たり前でしたから、放置・看過するなんてトンデモナイ。
そんな「思考のくせ」「過去からの条件反射」を残している人も、多いかと思います。

しかし「問題に立ち向かう」のは、見方を変えれば「抵抗」です。
まして他者の「問題」に、横から手を出すのは「相手への不信・見くびり」であり
解決してあげたい、なんていう事こそ「個人的エゴ」。 
創価流日蓮仏法を叩き込まれた者からしたら、びっくりですよね。
「他者を救う」ことこそが生きる目的みたいなもの・それこそが正しい生き方だって
幼少期から教わってきたのにw 真っ向から否定。

心理を学ぶと「問題は問題化するから問題になる・放っておけばよい」とか
「自分の周囲で起こる問題は、自分自身の心の投影」で「自分の内側に答えを探せ」
という示唆に、しょっちゅう出遭います。
これって、創価で教えられ・正しいとされていた事の、まるで真逆ですw
創価では、「自分の悩みを解決したければ他人をまず救え(折伏せよ)」でした。
”自分の悩み(問題・内面)ばっかり見ずに、他人の問題に必死になれ”と。
そうすれば知らないうちに自分の問題は解決しているから・・と、これが定説でした。
他者の問題も親身になって取り組むことこそ、正しい行い・・的な指導が
なされていたのですが、これも行きつくところはやっぱり「上から目線=選民意識」でしょう。
「相手を救う」と、まるで崇高な行為とされてきたことが、実際は「横取り御手柄ゲット!」
だったのかもしれません。 
まして、組織ではそれを「功徳」を積める行動としていました。
ふと思い出しました、婦人部の活動に疑問を持ち・だるいわー・・と思いつつ会合に出ていた頃。
「悩みは無いのか?」と聞かれ、ないと答えると「じゃあ友達で悩んでる人はいないのか?」って
聞かれたよなぁ・・と。
そうやって本人になければ他人にまで「問題」探しをして、解決しなきゃ!お題目よ!
新聞よ!選挙よ!って、駆り立てていたわけです・・組織は。 
問題が、飯のタネです。
何かと言えば「闘い」「闘争」って・・ほんっと、揉め事好きだね~、としかw

身の回りの誰かに「問題」がおきている時、ざわつくかもしれませんが、
「大丈夫、あのひとなら解決できる」と信頼を寄せ、そっとしておく。見守る。
勿論、話を聞いてほしいとか、相談に乗ってほしいと請われた時はのればよいと思いますし、
具体的な応援要請があれば、自分の心に従って受けたり断ったりすればいい。
「頼まれもしないのに、手柄を横取り」だけは、やめるのが吉です。
そして、事が過ぎるまで「自分に集中」するのが、よい過ごし方だと思います。

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また、創価脳な親・身内に対しての悩みや思いをコメントで寄せてくださる方へ。

私がブログを継続しようと思った大きな理由の一つは、
創価脳を抜けてもなお悩んでいる人の大半が「自分責め」が大変に強いこと・
「他者」「他所」に不愉快の原因があると考えていること・・又は自分が迷惑を被っているとの
被害者意識がどこかにあること・
その原因に執心していたら気分が悪い・・のに、離れようとせず、不愉快な気分のまま
問題から離れない人が多いこと(上記すべて、かつての私もそうでした)に気付いたからです。
その原因が、心理学を知って創価時代~幼少期からの刷り込みから来ているとわかりましたし・
誰がそれを解決してくれるわけでなく、自分が紐解いていくしかないんだって事も解ったから。
それら気付きを書く事で、悩める誰かの小さなヒントになれば・・と、思った次第です。

覚醒してしまった者として色々思う処はあるかと思いますが、
基本、創価脳な身内は「そっとしておく」のが良いと思われます。
さんざん格闘してきた私が「そっとしておく」って言うのもなんですが。
ただ経験者として言えることは、創価脳との対峙は疲れるだけです!w
そして、ただ反発力を強めるだけで、実は逆効果だったりもします。
創価脳な親や身内に対して、あなたは悩まなくていいのです。
それは当事者(親や身内)の問題だから。
疲れたり・さらに悩んだりするくらいなら、相手を信じて手放すことです。
信仰を強要したり、信仰に絡んで説教してくるような親・身内には「信教の自由」を
主張し、それでもらちが明かないようなら距離を置きましょう。
取り合う必要はありません。問題化してしまうからです。

単に創価脳を言い負かしてやりたい・ねじ伏せてやりたいって人も、中にはいそうですが
それはそれでいいと思いますw 
その人がやりたくて、楽しいからやっていることでしょうから。
そして、バリバリ創価脳の人もきっと「やりたくてやっている」のです。
そこを理解できれば、スルー出来ると思います。
こちら側がどんなにそれを「くだらない・搾取されてる・時間の無駄だ!」なんて思ったって、
気付いてない人にはそんなの関係ない。 恋は盲目、と同じで。
だから認めて、そっとしておけばいいと今の私は思っています。
ただし、迷惑な行為や決めつけがあった時にはハッキリ「迷惑だよ」って言いましょう。
「認める」と「見過ごす」は違いますから。

さんざん創価脳な母親との対峙をブログに書きなぐっておいて、自己矛盾もいいところだと、
お叱りを受けるかもしれませんねw
いまだから言える事ですが(自己弁護しますが)、私が躍起になって母と対峙してきたことも
物理学の法則と同じ「反発」だったと思っています。
創価脳だった人が、創価が搾取団体だと気付いた時のショックは、計り知れないものです。
パニックになるのは当たり前だし、人によってその方向性は違うけれど、
大きく逆向きの力が働き、強いアンチテーゼ・攻撃心が生まれるのは避けようがありません。
身近な創価脳の人をみると、放っておけない。
間違いから、搾取支配から救ってやらねば!って必死になるのはごく自然なことです。
だけど心理学の指し示す通り、私は母を「見くびり・見下して」いました・・
”こんなことに半世紀以上も騙されているなんて、うちの母親は相当な馬鹿だ!
 半世紀以上も解ってないんだから、強く言わなきゃ、自分で気付けるわけない”って。
(注:そんな創価脳の親が「かわいそう」も、残念ながら見下しに入ります。慈悲にはなりません・・)
だから首を突っ込んだのです。 
決して母の尊厳を護ろうとはしていなかった事について、自分を恥ずかしく思います・・が
エックハルト氏の言葉を借りれば私も「目覚めていなかった」ので、仕方が無かったかと。
たまたま私は、このたびの出来事のおかげで心理学やエックハルトトール氏をはじめとする
覚者の教えに出遭う事が出来、「そっとしておけばいい」なんて言えるようになりました。
人が「やりたくて、やってる」ことは、止められないと、いまの私は思っています。

創価脳な誰かを責め続けている間は、自分の中の闘いも争いも終わりません、きっと。
「責め」を、楽しくて・使命感wをもって、やりたくてやってる人のことは止めませんが、
あまり楽しくないなら違う方向へシフトすることをお勧めします。

やりたくてやってるようには到底見えない・
やりたくないのにやってて、不愉快をまき散らしてるような活動家(某三名)についても。
そんな人にも、自分で気付くときが必ずやってくると思うのです。
もがけばもがくだけ、気付いた時の突き抜け感は、きっと大きなものになるでしょう。
そんな日が、早く来ればいいですねw ←

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心理学のおすすめ本がたくさんあるのですが、今回は「問題を手放す」理由や
仕組みが良く解る2冊を紹介します。 

嫌われる勇気 [ 岸見一郎 ]
価格:1620円(税込、送料無料)


↑アドラー心理学の本です。
「課題の分離」を知ると、他人の問題で悩んだり・抱え込んだり・ざわざわすることが
減ると思います。 
そして「承認欲求の否定」を読めば、創価脳な人たちとの取り組み方・付き合い方が
変わるでしょう。
「今、ここを生きる」というエックハルト氏の教えと非常に近しい内容もあります。


↑恋愛を主題としていますが、人間関係全般において
目からうろこの心理メカニズムが書かれてあります。
内容が平易でとてもわかりやすいと思います。
特に創価脳の母親・身内・友達をなんとかしたいとお考えorお悩みの方、
一読されると、世界観が変わるかもしれません。

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