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「ニュー・アース」 第一章(1)

(やっと)今日から「ニュー・アース」について書いて行きます。

まず初めに断っておきますが、完全なる私の自己満足な感想文の体となります。
あまりに素晴らしい本で、私の琴線にひっかかった部分は全部紹介したい&
脱線するため、最後まで紹介するのにかなり時間がかかる気がします・・。
(実際今回、序章のさわりだけで終わってしまいましたw)

元創価ではないごく一般の方で「ニュー・アース」を解説されている方がおられます。
(「ニュー・アース」解説 で検索すると出てきます)
簡潔にまとめられているので、まだ本書を読んでいないけれど内容を早く確実に
知りたい方・興味のある方は、そちらをどうぞご参照ください。

本題に入る前に一言。

この本に出遭った当時の状況はこの記事に書いたとおりで、
心理学によって自分の掘り下げを開始し、目からウロコが落ちる体験をある程度重ねて
いました。
創価脳に限らず、誰人も「思い込み」で生きている、という現実を心理学は教えてくれました。

私は創価ロジックから脱した事で、なんとなく「思い込みから逃れた」気でいました。
選民思想が自分の持つ「思い込み」の9割だと思っていたのです・・が、それは大きな見当違いで、
選民思想は全体の一部・氷山の一角に過ぎず、他にも「思い込み」を山ほどもっていたことに
まったく気付いていませんでした。
創価ロジックから脱せた・創価を否定出来、一般人化したにしても、やっかいなことに「思い込み」は
多数存在している。
(勿論、創価を経ていない一般人にも同等に「思い込み」があります)
人生にプラス影響をもたらす思い込みもあれば・残念な思い込みもある。
悩みや理不尽な思い、問題にぶつかった時は、「残念な思い込み」を知ってプラスに転じ、
マイナスをプラスにする=フラット(ゼロ)に戻るチャンスだと心理学では言われています。

私がエックハルトトール氏や「ニュー・アース」を神押しすることに、違和感やざわつき、
嫌悪感を覚える人は、気付きのチャンスだと捉えてくださいw

創価から覚醒した人が、何をどう参考にしようと信じようと、自由です。
覚醒できたなら「信教の自由」を、理解できているはずですよね?
そんな視点をいま持てずにいるなら、まだ「覚醒」したとは言えないのでは・・?

ざわざわする、その原因を自分の中に探してみたら面白いですよ。
あなたの中に、創価時代の「日蓮仏法以外は取るに足りない教え」だとか「正法誹謗」だとか
「日蓮・創価・池田思想以外の思想を取り入れたり賛美したらダメ」
「そんなことしたら、お母さん(又はお父さん、祖父母、先輩、幹部)に叱られる・嫌われる」
「何か思想的な事に夢中になってはいけない。信心を一番にしなくてはいけない」
という、古い思い込みがないか、思い込みが見つかったらその基底部にあるものを
じっくり確認してみるのも一興かと思います。


@@@@@@@@@@@@@@@@@

第一章
「花、開く」


花に美を見出すことを通じて、人類はほんの束の間で在れ、自分の最も内なる存在の
核心に在る美や本質に目覚めるのではないか。
美と言うものの最初の認識は、人類の意識の進化にとって最も重要な出来事の一つだった。
その認識と本来的に結びついているのが喜びと愛と言う感情である。
それとははっきりと気付かないうちに、花々は私達にとって、自らの中の最も高貴で清らかな、
究極的には形になりえないものを表現するものになった。
生まれ出る元の植物よりももっとはかなくて、美しく繊細な花々は別の領域から来た
メッセンジャー。
物理的な形の世界と形のない世界をつなぐ橋のようなものだ。
花々には人々を喜ばせる繊細な良いにおいがあるだけではなく、霊性の領域の香りをも
運んでくる。「悟り」という言葉を普通に言われるよりも広い意味で使うなら、私達は花々に
植物の悟りを見る事ができる。

人間がある程度「いまに在る」という本質的な生き方ができるようになり、外界への静かで
鋭敏な意識が芽生えると、生命の聖なる本質、つまりすべての生物、あらゆる生命体に
存在する意識・あるいは魂を感じ取り、それが自分自身の本質でもあると気付いて
愛するようになる。
だが、それまでは、たいていは外形的な姿ばかりを見て、内なる本質になかなか気付かない。
自分自身の本質がわからず、肉体的、心理的な形が自分であると信じ込む。

そこで花や結晶や小鳥の名称を意識せずに虚心に見詰め、思いを寄せると、形のないものへの
窓口が見えてくる。
ほんのわずかな隙間から、魂(スピリット)の領域に通じる内なる道が開けるのだ。
(p23~26抜粋)


上記は本の序章部分ですが、1回目読んだ時は???の連続でしかなくw
意味が解らない・・と思いながら流し読みしていました。
2度目以降この部分を読むと、なんと詩的で美しい表現だろうとかと味わい深く・感嘆するのです。
1回目読んだ当時の私は、精神的混乱のさなかにあったので「???」としか感じなかったけど、
2度目以降は「いまに在る」という状態を知ることができたから、詩的で美しいと思えるように
なりました。
なんなんだそれ?!と思われそうですがw 
この本が「読者の意識を変化させる、目覚めさせる目的(p30)」で書かれているという事の、
わかりやすい例です。

私は花が好きで、特にバラが大好きです。
シーズンになると植物園に出かけて、しばし眺め、写真を撮ります。
(以下2枚、私が撮ったものです)
nr0001.jpg

花の美しさに吸い込まれるように凝視、花びらの巻きの規則性・色彩グラデーションに
神秘性・宇宙を感じます。

nr0002.jpg

エックハルト氏のいう「いまに在る状態」とは、「思考が止まった状態」を指します。
花や植物や小鳥を、何も考えずに・それがなんて名前のどんな種類の花だ・樹だなんて
なんにも考えず、ただ無心に見つめるとき、人は自然に思考を止め「いまに在る」状態に
なることができます。
そして「生き物」「生命」としての花や植物や小鳥の発するもの・・ただ其処にいま「生きている」
という状態を感じ取る。
花や植物や小鳥が、「いまに在る状態」なのは、そこに思考が無いからです。

この本を読む前の私は、バラを見つめて「これはOO(名称)だ」「綺麗だな~」などなど、
認識し・うっとり見とれることはあっても、
バラに生物としての「息吹・息使いのようなもの・生命」を感じた事は皆無でした。
あたりまえすぎて、その前提(生きてそこにある)を見落としてしまっていた。
そんな風に見た事もなければ・そこには意識が向かなかったというか。
「バラだ」という外形的な姿ばかりを見て、内なる本質になかなか気付かない状態でした。

内なる本質とは、ただ「いま」ここにあって息づく「生命」だと私は解釈しました。

動画だったか、エックハルトの他の書籍だったか失念しましたが、
感銘を受けたフレーズがあります。
「花を見なさい。過去の後悔や・明日の心配をして咲いている花はいません」(要旨)
↑このフレーズを知って以降、
ガーデニングの花でも・自宅に飾っている切り花でも・観葉植物の新芽でも、
じーっと見つめていると、その存在に感動すら覚えるようになりました、大袈裟でなく。
ただ「いま、ここ」にある気高さ。 
花や小鳥や観葉植物が、過去にクヨクヨしたり愚痴吐き文句言うわけはないのだけどw 
そうだよね、その通りだよ!と。
未来がどんな運命になるなんて何も知らなくても、健気に、瞬間瞬間にそこに在る美しさ。
人も、同じであっていいのです。
頭の中の絶えることない”思考のおしゃべり”(=エックハルト曰くメンタルノイズ)が邪魔をし、
そうあることを忘れているだけ・思いだしていないだけで。

頭の中の絶えることない”思考のおしゃべり”(=エックハルト曰くメンタルノイズ)
これは「エゴ」=自我 の仕業なのです。
「エゴ」は、過去と未来に条件づけられ・餌を貰い続け、人を支配しています。
頭の中の絶えることない”思考のおしゃべり”を止めた状態=「いまに在る」状態です。

この後、「エゴ」の正体や構造について展開して行きますが、まずこの序章において
エックハルトが「いまここに在る」ことの根源的な素晴らしさ・強さ・美しさを
花や小鳥や結晶の「悟り」の姿を通じて教えてくれている・・と、私は感じました。
そして「いまに在る」という状態を知った事で、私は過去追いと自分責めから解放され、
すごく楽になりました。
その具体的方法についても、のちのち出てきます・・が、なにも難しい事ではありません。

私なりに簡単に説明すれば、ほんと単純に「いま」を自分が意識することだけです。
過去や未来に思いをはせてはいけません、「いま、ここ」しかない事を認識します。
不安や不愉快やイライラざわざわ・・がやってきたら、それは思考のせいなので
思考を止めて「いま」の自分を俯瞰で見てください。
「いま、ここ」にいる自分に、何の問題も生じていないことを知る、
自分が不安や不愉快やイライラ・ざわざわしたその原因が「過去」か「まだ見ぬ未来」に
あることを知る・・「過去」も「未来」も、「いま」じゃない、と理解する。
それだけです。

「いまに在る」とは、傾いた偏った心をゼロベースに戻す、
心の平和を取り戻す確実な方法
だと私は思っています。

余談:今年5月にも植物園でバラを見てきましたが「ニュー・アース」読後だったので
それはそれは、有意義な時間になりました。 
意識が変わったのでしょう、ものの見方・過ごし方が全く変わったのです。
以前の私は、まずが写真を撮ることに夢中、カメラの操作やら・他人が写り込まないようにと
気をもんだり(邪魔だよ!早く行ってよねーと他人に思ったりw)なんだかんだで気忙しく。
いかに自分がメンタルノイズ全開で過ごしていたかを思いだして、ちょっと笑えましたw

「変化をもたらすためのツール」

目覚めに不可欠なのは目覚めていない自分を自覚すること
エゴイスティックに考え、話し、行動する自分と、そういう目覚めていない状態を持続させている、
人類に刷り込まれた思考プロセスを認識する事である。
(中略)
本書ではまずエゴの主な側面に目を向け、それが個人や集団でどう働いているかを考える。
これには二つの重要な理由がある。
第一の理由は、エゴが働く基本的な仕組みを知らなければエゴを認識できず、
そのためにだまされっぱなしで何度でもエゴを否認することになるからだ。
つまりあなたは支配され、操られ続ける。
第二の理由は、認識そのものが目覚めの一つの方法だからである。
(中略)エゴと闘っても勝ち目は無い。闇と闘えないのと同じである。
必要なのは意識と言う光のみである。そして、その光とはあなたなのだ。
(p32-33抜粋)


先ほども書きましたが、エゴ=自我です。
ここを読んだ時、思いだされたのが、創価の「自分の頭で考えてるうちはダメ」
「ご仏智がでてくるまでお題目をあげなさい」というような指導です。
これが実は一部分は正解(?)で・大きく間違ってたのはその方向性でした。
思考を止める=まさに”自分の頭で考えるな”ということです。
其処は良いのです。が、思考を創価に「乗っ取られ」ていたからマズかった・・という事に
気が付きました。
創価脳をよく「思考停止」と表現し、私も使ってきましたが「ニュー・アース」読後は
認識が変わりました。
正しくは創価脳は「思考奪取状態」ですね。
罰論と言う暴力を片手に、思考を乗っ取られている状態です。
アメとムチで縛り上げ、創価脳アプリをがっちり搭載されてしまった状態、とも言えるでしょう。

また、お題目を上げるという行為は精神統一・無心になるという目的でならアリだった。
けど実際、邪念雑念オンパレードだった頭の中w 数珠をじゃらじゃら揉み鳴らしてみたりw 
特に会合や唱題会など同志の皆さんと集っての場合、集中なんかできやしませんでした。 
全く何も考えずに唱題なんて一年のうち、自宅で、2回か3回あればいい方だったのでは
ないかと・・。 あくまで私の場合ですが。
そもそも日蓮が、団体を組織して大勢で題目上げろなんて思ってたとは考えにくいですし、
組織のあれは”集団催眠”にすぎなかったと私は思います。
個人信仰で、心を無にして、意識を集中するために数回唱える程度ならまだ有用かと・・。
前にも書きましたが題目の「数」がものをいう世界では無いと私は思っています。
題目数を積み重ねていくことを推奨している組織の思惑は、単純に「呪縛」目的
それだけでしょう。

自我とは闘えない。
自分で「自我」に気付くこと・意識をもつことで、自我を超えられる
とエックハルトは
言っています。
ただそれだけの、実にシンプルな話で、此処が解れば実は題目を唱える必要も・特定宗教に
依る必要も全くないのです。
(ニュー・アースを読み進めれば追々解ってきます)

さらに気付いたことですが
日蓮の「心の師とはなるとも心を師とせざれ」という有名な一節があります。
創価ではこれを「自分の心を信じてはダメ、祈り切り御本尊様にお任せするのだ」と指導してみたり・
果ては「師匠(じいさん)ならどうするかを随筆や人革から学び・考え、その行動に倣え」
なんてことも言ってました。
私は女子部だった当時から、どっちの解釈も腑に落ちなかったのですw
どっちかといえば前者を信じるべきだろうな、と思いつつも”自分の心を信じないでどうするの?”
という気持ちを消し去ることができなかったというか・・。
自分のこうしたら・ああしたらをすっ飛ばしで、じいさんの行動に倣うって一体・・と、まるで
自分の心を全否定・自己否定されたような気分になっていたのです。
こういった指導が横行していたが故に、元創価脳の方は「自分責め」傾向になりがちなのでは
ないか・・とも分析できます。
「エゴ」の正体も解き明かさずに、やみくもに「御本尊にお任せするのだ」なんて押しつけは
直接言葉にしなくても逆説的に「自分が悪い」思考に追い込むのではないか、と。

けど誰にもこんな疑問をぶつけた事はなかったのですが(幹部に言いくるめられるだけなので)。
「ニュー・アース」を読んで、ああ!そう言う事か!と初めて合点がいきました。
(創価を離れた今頃解るっていうのが、皮肉ですけどもw)
日蓮のいう「師とせざれ(師匠にしちゃいけないやつ)」とは、「エゴ=自我」を指していたのだな!
と解ったのです。
エゴに振り回されちゃいけないよ・エゴのいうこと聞いちゃだめだよってことね!と。
というか、私はそのように理解したら腑に落ちました。
何も「自分の心そのもの」を否定していたのではなく、(エックハルトのいう)「エゴ」の
否定だったんだな、と。
(その「エゴ」の正体と構造は、のちのち出てきます)

そして「心の師」とは、エゴを黙らせることで初めて覘いてくる「真我」のことだったのではないかと。
「心の師」はなにも、耄碌じいさんでは無かった(私は、はなからじいさんを師だとは
思ってませんでしたが)。
これまた、組織に都合のいい解釈をつけて指導されてたんだねーということを、発見したような
気になりました。

話が脱線しまくりますが
御書も「自分で勝手に解釈して読むな」とか組織じゃ言われてましたよね。
なんでも「我見が入ったらまちがった解釈になる」とか。
原田会長は、池田老人の御書講義しか参考にしちゃならねぇ、的なことも言ってたそうで。
んな馬鹿な!? 
だいたい、日蓮が個人的に書いた手紙も入ってたりするし、門下一同にあてたものも
あるけれど、そんなの読む人によって全然意味が変わってきたっておかしくない。
弟子100人が100人全員同じことを、その手紙から感じとるとは限らない。
だのに、特定の人物の講義(解釈)しかNGとか、ありえねぇよ!!
と、活動家当時から私は思っており、幹部にやんわり文句言ったこともありました・・
そしたら手厳しい指導が入って、めんどくせーなと思って以降はなにも言わないようにした思い出が
ありますw
今となっては微笑ましく懐かしいお話ですが(?!)自由な解釈・感想をもつことさえ禁じられる、
そんな「教え」 限界が来て当然かと。
(まあそれが、収益ベースな新興宗教界のセオリーなのかもしれませんけども・・)
我見がアウトで、耄碌じいさんの解釈ならOKなんて・・やっぱ私には昔も今も理解しがたいところですw

補足ですが「ニュー・アース」はエックハルト氏が古今東西の宗教・思想・哲学を学んだうえで
自身の悟りについて書かれています。 ブッダの言葉や、禅宗の言葉も先々、出てきます。
唐突に日蓮を引き合いにだしてきたな・・と思われたかもしれませんが、仏教やあらゆる教説を
読み説き・表現した、という意味では日蓮もエックハルトも時代は違えど同じ
「覚者・メッセンジャー」だと私は思っています。
あと、私の宗教的(?)知識ベースが(現状否定してはおりますが)
あいにく日蓮仏法創価版しかないので、比較対象として上がってきてしまうのは
仕方がないところです。ご了承ください。

(内容がとっ散らかっていてすみません、次回に続きます)

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