「ニュー・アース」第一章(3)

スピリチュアリティと宗教

新しい意識の高まりの中で、既成宗教はどのような役割を担うだろう?
多くの人々はすでにスピリチュアリティと宗教の違いに気付いている。
信念体系ー自分が絶対真実だとみなす一連の考え方ーは、どのようなものであれ、
持ち主をスピリチュアルにはしない。それどころかその考え方(信念)と自分を
同一化すればするほど、自分の中のスピリチュアルな面から切り離されていく。
「信仰心篤い」人たちの多くはこのレベルにとどまっている。
思考を真実と同一視し、その思考に自分を完全に同一化しているので、
自分だけが真実を知っていると主張するが、実は無意識のうちに自分のアイデンテティを
守ろうとしているだけだ。
この人たちは思考の限界に気付かない。
自分の行動と信念に同意しない人間は間違っているときめつけ、そう遠くない過去には、
相手を殺害することも正当化されると考えていた。今でもそう思っている人たちがいる。

新しいスピリチュアリティ、意識の変容は、たいてい制度化された宗教の外で起こる。
思考と概念に支配されたこれまでの宗教でも、その一部には必ずささやかに
スピリチュアリティが宿る場所があった(宗教組織はそれに脅威を感じ、多くの場合、
抑圧しようとした)。
しかし宗教構造の外側で生じたスピリチュアリティの大きなうねりとなると全く新しい現象で、
これまでは、とくに西欧では考えられなかった。
スピリチュアリティに関しては事実上キリスト教の教会による独占体制が確立していたからだ。
教会の許しも無くいきなり立ち上がってスピリチュアルな話をしたり、スピリチュアルな本を
出版することは不可能だったし、そんなことをしようものならたちまち沈黙させられただろう。
ところがいまでは教会や宗教のなかにも変化の兆しが現れている。これは嬉しい兆候だ。
ヨハネ・パウロ二世によるモスクやシナゴーグ訪問(注:ユダヤ教の施設)もささやかではあるが
嬉しい解放への歩みだった。

既成宗教の外側で盛り上がってきたスピリチュアルな教えの影響に加え、
古い東洋の思想が流れ込んだことも大きな力となって、伝統的な宗教の信者にも形や教義、
硬直した信念体系へのこだわりを捨て、スピリチュアルな伝統にかくされていた深さや
自分自身への深さを発見する人たちが増えてきた。
この人たちは自分が「スピリチュアル」かどうかは何を信じているかではなく、
どんな意識の状態にあるかによって決まることに気付いている。
そしてそれがその人の行動や人間関係を決定する。

形を超えた向こう側をみる事が出来ない人たちは、自分の信念に、つまり自分の
エゴイスティックな心に一層深く囚われてしまう。
現在、かつてなかった意識のうねりが見られるが、同時にエゴの壁も分厚く強化されている。
一部の宗教組織は新しい意識に向かって開かれるだろうが、さらに頑なに自分たちの立場や
教義に拘り、人間の集団的エゴの自衛と「反撃」に構造の一部になる宗教もあるだろう。
一部の教会、宗派、カルト、宗教運動は基本的には集団的エゴで、自分たちの主義主張に
頑固にしがみつく。現実に対する別の解釈を認めない閉鎖的な政治イデオロギーの信奉者と
少しも変わらない。


スピリチュアルの日本語訳を調べると「精神的な」「霊的な」「聖霊の」と出てきました。
形として目に見えはしないけれど、あると信じられているもの・・と日本では解釈されて
いるようです。
「自分の理解や認識を超えたところにあるもの・力」と、私は解釈しています。

”思考を真実と同一視し、その思考に自分を完全に同一化しているので、
自分だけが真実を知っていると主張するが、実は無意識のうちに自分のアイデンテティを
守ろうとしているだけだ。”
 ←このクダリ、創価脳まんまだなぁ~・・とw
日本人の中で、宗教団体所属をアイデンテティとして生きている人たちの割合においては、
学会員が大多数を占めるのではないか?と思うほどです。
かつての自分もそうだったから言えるのですが、創価をとったら自分なんて無いも同然的な・
創価ありきの自分、看板背負ってる感。バリ活は特に、このような人たちばかりでした。
また、信仰と自分を切り離して考えるという事も、覚醒前の私にはできない事でした。
そんなことありえない!と思うレベルで、信仰と自身は一心同体・同一化していたのです。
何故にそのような偏狭な価値観や考えに疑問を持たずにいられたのか?
今となっては不思議ですが、やはり、幼少期からプロパガンダで叩き込まれた
「壮大で崇高な使命感」と、組織が常に傍にあるという生活環境が大きかったのではないか?
と、思います。
組織そのものや創価脳アプリと自分を完全に同一化しているから、俯瞰したところで
「創価の着ぐるみをまとった自分」しか見ることができません。
この点から、創価脳はいったん着ぐるみをぬぐ覚醒と・素の自分にもどってからの気付き、
二段階の覚醒が必要かもしれないと、自分の経験を通じそう感じています。

創価以外の宗教団体に入会したことがないので、他宗教のことは判りませんが、
「絶対正義」を掲げるような教えに傾倒し・その思考・行動習慣を植え付けられることは
相当強いエゴと一心同体で生きる基礎を作ってしまうのだな・・と、この章を今回改めて
読み返し、気付きました。
相当強いエゴとは、言いかえれば「偏狭」「偏狂」な性質のこと。文字通り「かたより」です。
右か左か、両極に振れることしか出来ない。
何かが間違いだった・見当違いだったと気付いた時も反対側に「極端に」大きく振れる。
対象を恨み憎しみ・または思い悩み・自分ではない他人の事まで問題にし対象に執着・・
というネガティブに留まってしまうのは、ある意味仕方のない事かも知れません。
右も左も知れたなら、今度は「まんなか」に戻ってみれば良くて、
それがもっともな解決方法というか、着地点だと思います・・が、様々な感情しがらみに
囚われているあいだは、なかなか「まんなか」へ向かうなんて気付けないことで。
というか、もれなく学会2,3,4世は「まんなか」を知らずに生まれ育ち、今に至っている故
誰かが教えてくれなければ・きっかけが無ければ、なかなか気付けることではありません。
私だって、今春まで全くそこが解らなかったのでエラそうに言えたもんじゃないのですがw
エックハルトをはじめとした、現代の覚者の教えはまさにそこ(まんなかに戻る・識る)で、
これはブッダやキリストの教えとも通じる事だと思います。
「平等観」や「赦し」のことですが、それを説明すると中々先に進めないので
(後でまた出てきますので)、ここでは一旦おきます。

”自分の行動と信念に同意しない人間は間違っているときめつけ、そう遠くない過去には、
相手を殺害することも正当化されると考えていた。今でもそう思っている人たちがいる。 ”

これも前半部分は、創価やカルト宗教を思い浮かべる指摘です。 
そして全体を通しては、現代ではアイエスがこれに当たるかと感じました。
「ニュー・アース」書籍が世に出たのが、2005年でした(日本では2008年)。
宗教をエゴで利用する輩の本質を見抜き、まるでアイエスの出現を予言したかのような内容に
驚くばかりです。

”自分が「スピリチュアル」かどうかは何を信じているかではなく、どんな意識の状態に
あるかによって決まることに気付いている。そしてそれがその人の行動や人間関係を決定する。”

上記も、非常に大切な指摘だと思います。
どんな対象を信じているかは問題ではなく、各個人の意識状態=エゴに囚われていない事が
重要だと説いています。
「ニュー・アース」が欧米で大変なベストセラーになっている事実や(wiki参照)
エックハルトトール氏の講演会が世界で広く行われている事実からしても、
キリスト教圏においてこの考え方が受け入れられている証拠かと思います。

「何を信じ」「どこに所属しているか」を殊更重要視しているのって、日本においては
創価の人たちだけじゃなかろうか?と(もしくはカルト系団体の信者)。
「日蓮」を信じていると豪語する人も、上記系統が多いような・・?あくまで個人的な感想ですw
その裏側にあるものはおそらく、日蓮の教義にあった「他は間違いで自教だけが正しい」
=「絶対正義」で、独善性。実際これは強いエゴの一つの形だと私は思います。
エゴであるが故、わだかまりを生んでいるのであって、
なにも「正しい事を言ったら・正義だから叩かれる」ではない事を、現代に生きている者で
あるならば、そろそろ理解してもいいんじゃないかな・・と、思います。
何を信じていてもいい・何を信じているかは関係ない、その人自身の意識状態が重要。
そこが解れば、ドヤ顔になって自分が信じる教えの正義正当性を主張し・相手を何が何でも
言い負かそう・ねじ伏せようとすることの滑稽さに気付けると思うのですが・・。

そして最後(下線にした部分)ですが、
「エックハルトさん、創価のこと見てたの?知ってるの?」と聞きたくなるくらいw
おそらく日本の宗教団体なんて知らないかと思いますが・・世界にも多数あるという事で
エックハルト氏が鋭くカルトの本質を言い当て、その要件にもれなくハマっただけの話でしょう。

だが、エゴは解体される運命にある。
その硬直化した構造は、宗教であれその他制度、企業、政府であれ、一見どれほど強固に
見えようとも内側から崩れていくだろう。(中略)
ソ連の共産主義が良い例で、どれほど頑固に守りを固め、どれほど頑強な一枚岩に見えたか
しれないが、ほころびが見えたほんの数年で内部から崩壊してしまった。
しかも、誰もその崩壊を予測できなかった。全てが突然で、誰もが驚いた。このような驚きが
これからもたくさん、私達を待っているはずだ。
(p49-53抜粋)


朗報。エゴは解体される運命にある。.
組織においても、戸田会長逝去以降ゴタゴタがあり・耄碌名誉会長も一時期は
表舞台から消されてみたり・宗門からの破門と、これまでだって色々ありました。
次なる動きはもちろんXデーでしょうし、規模はどうあれ分裂縮小必至かと・・。

エゴも一枚岩ではないわけで、エゴとエゴのぶつかり合い・内部抗争や分裂
足の引っ張り合いは、世界でも世間でも・わりとどこにでもある現象かと思います。
日本語でいえば「諸行無常」「盛者必衰」(平家物語)。
ただ、それを繰り返すには、地球レベルでもう限界が来ているのではないかーというのが
エックハルト氏が本書で危惧し警鐘を鳴らしている部分です。

変容の緊急性

生存を脅かす根源的な危機に対処するーこれがいま、人類に突きつけられた課題である。
すでに二千五百年以上も前に古代の知恵ある教師たちが見抜いていた、そしていまは
科学技術の発達によってますます拡大されつつある、人間のエゴイスティックな思考に固有の
機能不全、これが初めて地球上の生命の存続を脅かしている。
(中略)
地球上の相当数の人々が(まだ気付いていないとしても)まもなく気付くだろうが、
人類はいま、進化するか死滅するかと言う重大な選択を迫られている。
そして古いエゴの思考パターンの崩壊と新たな次元の意識の芽生えを体験している人々は
まだ比較的少数であるものの、その数は急激に増加しつつある。

いま生まれているのは、新しい信念体系でも新しい宗教やスピリチュアルなイデオロギーでも
神話でもない。神話だけではなくイデオロギーも信念体系も終わろうとしている。
変化は人々の心や思考よりも深いところで起こっている。それどころか新しい意識の核心は
思考の枠を超えることにある。
思考よりも高い場所に上り、思考よりもはるかに広い次元が自分自身のなかにあることに気付く
新たな能力だ。
そのとき人は自分のアイデンテティを、自分が何者であるかの根拠を、
いままで自分自身と同一視していた絶え間ない思考の流れには求めなくなる。
「自分の頭の中の声」が実は自分ではないと気付くと、すばらしい解放感を味わう。
では自分とは何なのか?自分とは、思考する自分を見ている者だ。
思考よりも前に在る気付きであり、思考がーあるいは感情や知覚がー展開する場である。

エゴとは、形への自分の同一化にすぎない。その形とは何よりも思考の形である。

悪に現実性があるとしたらー絶対的な現実性ではなく相対的な現実性だがーそれもまた
形(物理的な形、思考の形、感情の形)との全的な同一化と定義できる。
そのために、自分が全体とつながっていること、すべての「他者」および「生命の源」と
本質的に結びついている事を全く認識できない。この結びつきをわすれること、
それが原罪であり、苦しみであり、妄想なのだ。

この分離、分裂がすべての考え、言葉、行動の底流にあり、それらを律しているとしたら、
人はどんな世界を生み出すか? その答えを知るには人間同士の関わりを眺めれば、歴史書を
ひもとけば、あるいは今夜のテレビニュースを見ればいい。
人間の心の構造が変化しなければ、私達はいつまでも基本的に同じ世界を、同じ悪を、
同じ機能不全を繰り返し創造し続けるだろう。

(p54-58抜粋)


”地球上の相当数の人々が(まだ気付いていないとしても)まもなく気付くだろうが、
人類はいま、進化するか死滅するかと言う重大な選択を迫られている。”

進化か死滅か、直面する危機について具体的に書かれてはいませんが、
懸念はさまざまあるかと思います。
そのどれもが突き詰めれば「機能不全」=エゴの働きによるものだということも
此処まで読めば理解できます。

”では自分とは何なのか?自分とは、思考する自分を見ている者だ。 ”
前回書いた「自分を俯瞰で見る」 =俯瞰で見ている者こそ、自分の正体だと言っています。
エゴに囚われ、忙しく思考をフル回転させている・・それは自分ではないのだと。
この部分、最初は正直「ハ?なに言ってんの?」で、全然理解できませんでした。
「じゃあ”私の考え”って言葉、自分じゃないなら一体誰の考えになるの?」・・という、
素朴な疑問を浮かべながらも読み進めていました。 その正体は「エゴ」です。
ただ、なかなか最初は「自分の考え=エゴ」という説は認めがたいものでした。
全てがエゴというわけではありません、それは読み進めれば追々解ってきますので
ここでは一旦おきます。

”自分が全体とつながっていること、すべての「他者」および「生命の源」と
本質的に結びついている事を全く認識できない。この結びつきをわすれること、
それが原罪であり、 苦しみであり、妄想なのだ。 ”


上記は大変に深い真理を説いた部分です。

機能不全(エゴ)をうみだす元とは、「差異」を問題視し、認めない感情だと思います。
善悪・優劣を基準にし、自分と他者の違いを「問題」とすることから、敵対(心)だったり
ネガティブな感情が生まれる。 「かたより」が生じる。
相手に悪や劣を見出す時、それはもれなく自分の内側にもある要素です。
ここを忘れ、一方的に相手を「悪」とし「敵」として自分を絶対的に「善」「正義」とする時、
かえってそれが自身へと跳ね返る苦しみになる。
自分が「絶対正義」「絶対的な善」であるという妄想を持っていては、いつまでも闘いは止まらず、
自縄自縛になる・・これが「原罪」なんだ、と述べていると私は理解しました。
「自分が全体とつながっていること」とは、
相手に見ている要素・部分が、自分の中にもあると知る(識っている)事です。
実は、1回目読んだ時はこの部分まったく理解できず「???」で、
5月に津留晃一さんの本を読み始めてから理解できるようになりました。
(また別の機会に紹介するつもりですが、津留晃一さんの本はかなり面白いです。
 副読本としておすすめしたい・・のですが、残念ながら一般の書店では入手できません)
また、心理学における「相手は鏡・現象は心の反映」という考え方も、理解の一助になりました。

たとえば、アンチにおいて組織や大本営を「絶対悪」だとするとき、
自分の心にある様々な思いから、正義感で大本営や創価脳を糾弾することが「善」のようで、
裏返ったら「悪」でもある・・ということを知っておく。
(=創価脳の人たちから見れば、アンチ創価は「悪」や「敵」に該当しますよね)
相手に見いだす「悪」(善)はもれなく、自分の中にもあると知っておく=
「自分が全体と繋がっている事」となるかと思います。
「善」があるから「悪」があり、「光」があるから「影」がある。
光だけの世界にいれば、それが光だとはわかりません。暗闇があるから光がわかるのです。
この世の中が「二極の世界」だと理解しているならば、上記理屈がわかると思います。 
また「善と悪」は時代によって逆転・変化することがあります。絶対はないのです。
元創価脳だった私は、過去は創価を「善」だと信じ疑わなかった。
が・いろんな事に気付いたとたんに「善」は「巨悪」に変わった。 
未だ創価を信じるバリ活の人たちにとっては創価は「善」であり続けるでしょうが、それだって
いつ「悪」へひっくり返るかなんて判りません。 
逆にいえば外部アンチが、突然寝返って入会してしまうことだってあります。
究極この世は「善悪どちらも存在する」世界で、どちらもあって成立しているんだと理解が出来て
はじめて偏る事がなくなります。
自分の中の善と悪を認めてしまうのです。なかんずく自分の中の「悪」を許し受け入れ・認めてしまう。

それができないから、攻撃心や敵対心が失せる事なく、問題が長引くのではないでしょうか。
覚醒した人で、わりあい早く創価への興味を失う人は、おそらく自分責めが殆どない筈です。
自分をいつまでも責めているから、創価やそれに付随する諸々を許せないという悪循環に
陥るのではないか・・と、私は分析しています。
これはなにも、創価問題の事だけにとどまりません。
全ての揉め事やら人間関係、「問題」とされる事柄についてまわる話です。
このあたり私が詳しく書こうとしても、全く前に進まないので
津留晃一さんのメッセージ→「偏在するものへ」を読んでみてください。
エックハルトのいう「自分が全体とつながっていること」に等しい内容だと私は思っています。

なにも、組織・大本営を恨むな、忘れろ・無かった事にしろということではありません。
恨んでも、憎んでも一向にかまわない。
抑圧された自分の思いのたけを、解放すればいい。
覚醒した人間には、そういった時間がある程度は必要です。
けど、長年に渡ってそれらネガティブを握りしめたまま生きる必要はどこにも無くて、
それは全く自分のためにも・誰のためにもなりません。
”何故、怒り憎しみ敵対心・問題意識・忸怩たる思いを握りしめ続ける必要があるのか?” 
を、自分に問いかけてみるのも一興です。
じっくりひもとけば、何もそこにとどまる必要はなく、手放してもいいことが判ると思います。
中には「組織の完全崩壊を目にするまでは注視し続ける。恨み晴らさいでか!」という方も
おられるでしょう。
それもアリですが、その日を見届ける迄はエックハルトのいう「苦難の道」ではないでしょうか・・。
(執着する間、イライラしたり腹を立てたりetcのネガティブが、崩壊の日まで続くという意味です)
それでも構わない!という人は、そのままで。
きっと、好きでやっている事でしょうから、好きでやっている事は苦にはなりません。

思いを解放・昇華していく道として、先に紹介した津留晃一さんの説にもあるとおり、
「バリ活orユル活」と「アンチ創価」という両極(両方)をやってみて(経験して)、
はじめてまんなか(ゼロ)に戻る。フラットな状態を知る。
 
こう在る事が理想ではないかと、私個人的にはそう考えます。
要は、偏らないことです。
そして”不愉快”には近寄らなければいいし、そこにまつわるぼんやりした(強烈でもいい)苦悩は
手放せばいいのです。それは逃げではありません。
私がこの記事で「創価問題がどうでもよくなった・お笑いにするくらいでちょうどいい」と書いたのは、
両極を経験した自分の立ち位置は「まんなか」でいいんだと、腑に落ちたからです。
かたよらなければ、笑って見ていられます。 深刻な顔して問題視する必要がなくなります。
「課題の分離」も関係してくるお話なのですが、後に続く章でさらに説明したいと思います。

このあたりの事・・恨みつらみ・モヤモヤ・自分責めを長引かせずに脱却する過程と、
思考のくせに気付いて・生き辛さを無くし、無理なく平らかになっていく具体的な方法について、
私なりに秋以降、まとめていきたいと思っています。

いま自己が抱える恨み憎しみがあるとして、
それが「善悪」「正義・悪」の判断基準由来かどうか、いちど確認してみる。
そして善悪の判断基準で、相手となる対象を責めているうちは、なにも解決しませんし
闘いはいつまでたっても終わりません。
創価脳でなくなった人であれば、この理屈を理解できるはずです(たぶん)。

また、「敵」と闘う姿勢は、更に大きなエゴの塊(大本営)に利用されているとの見方もできます。
創価脳なんて、まさにそのものですよねw
敵と闘ってこそ・難と闘ってこそ、師匠の姿に追随する正しい弟子の姿だ!的なプロパガンダ。
敵対心こそがエネルギー。
そこから離れられた人たち(覚醒者)は幸いです。 
で、気付けたからといって、未だその渦中にいる人たちを「救おう」としなくてもいい。
「目覚めていない」人たちは、好きでそれをやっている。
(「問題を手放す」にも書いたとおりですが)
問題提起する・躍起になる・救おうとする、これらがまた、互いにとって不毛なマイナスの
エネルギーを生み出してしまうからです。

アンチと現役が敵対することや末端の内紛すら、大きなエゴにとってはマッチポンプかもしれないw
宗門問題同様、イベントみたいで盛り上がりますからね。
「絶対勝利のための闘い」この旗印が組織の原動力であることを、忘れてはいけません。
外敵を味方にor徹底的に叩き潰せ!と躍起になることが、彼らにとり一番燃える事なのです。
外敵が・闘いが無くなったら、大本営は存在意義をほとんど失います。
理由は何であれ「盛り上がる」ことで笑いが止まらないのは、大きなエゴである大本営です。

幸いにも離れることができた、覚醒した人たちの課題は、自身の内面状態を整える事では
ないでしょうか。
それでなくても、さまざまな思考癖をつけられ、内面は思った以上にガタガタの状態ですからw
自分の内面がなだらかになった時、周囲に見えてくる世界も(周りの人も)同じく
なだらかになってくるというのは、あながち嘘ではないのです。
少なくとも、この4ヶ月ほど、自分を俯瞰で見て暮らしてきた私はそのことを実感しています。

”人間の心の構造が変化しなければ、私達はいつまでも基本的に同じ世界を、同じ悪を、
同じ機能不全を繰り返し創造し続けるだろう。 ”


そうならないためにも”自分の意識状態に責任をもつ”ことが大切なのでしょう。
前回記事の動画参照)。

新しい天と新しい地

本書のタイトルは聖書の預言からとっている。
人類史の中で、いまほどこの預言がふさわしい事は無いと思うからだ。
旧約聖書にも新約聖書にも、これまでの世界秩序の崩壊と「新しい天と新しい地」の
誕生を預言する言葉がある。
ただしこの天とは空間的な場所の事ではなく、内面的な意識の領域であることを
理解しておかなければならない。
それがこの言葉の奥にある意味で、イエスも教えの中でその意味で使っている。
これに対して地とは形の外的な現れであり、つねに内面を反映している。
人類の集団的な意識と地球の生命は本質的につながっている。
「新しい天」とは人類の意識の変容の始まりの事で、「新しい地」とはその変容が
反映される物理的な領域の事だ。
人類の生命と意識は本質的に地球の生命と結び付いているから、古い意識が解体すれば、
それと呼応して地球の多くの場所で地理的にも気候的にも自然に大きな変化が起こる。
その一部を私達はすでに目にしている。
(p59-60)


「ニュー・アース」というタイトルが聖書の預言から取られている、ということですが
あいにく私は聖書を読んだ事がありません(いずれ読んでみたいと思います)。 
”人類史の中で、いまほどこの預言がふさわしい事は無いと思うからだ。 ”
そこまで言うのですから、現代に符合した預言なのでしょう。
私が若かった頃の創価じゃ「外道だ!」の一言で切り捨てられていたキリスト教や神道。
おかげで全く中身を知りもせず、先入観のみで遠ざけていました。残念なことです。
生命論が説かれていないから「外道」だと昔の組織では教えていましたが、
だったら仏教と神道・キリスト教はベツモノで、比較対象ではありません。
仏教に等しく尊いものです、と教えてくれたらよかったのにー。
無知な人たちが、恥知らずに言いふらしていた・組織だけを善とするために利用していた
ことなんだなぁ・・とw@五重の相対。 
あ、最近の創価はキリスト教信者の佐藤優氏を重用してるんでしたっけねw

”人類の集団的な意識と地球の生命は本質的につながっている。”
近年の異常気象も、人類の集合意識の反映なのでしょうか?
日本においても大きな地震であったり、御嶽山の噴火、箱根山の噴火警戒、各地の洪水や
土砂災害も記憶に新しいところです。
世界の状況は中々、普通に報道を見ているだけでは大規模災害しか伝わってきませんが、
In Deepというサイトのこの記事→新しい天と新しい地を示唆する「はず」の地球の変化
ごらんください。
全て今年の夏に起きている事象だということにも驚きました。
見る者に不安を喚起させる、おどろおどろしい景色ではありますが、
これは「古い意識」の解体の様相・反映であって、
エックハルトの言葉を借りるならば「新しい地」が創造されつつある・・実は瑞相だと
見ることもできるのかもしれません(あくまでも希望的観測)。

これで一章は終了です。次回から第二章に入ります。

長文で(いつものことながら)すみません。
目が疲れたでしょうから、緑多めの写真でもどうぞ。
top185.jpg


(次回に続きます)


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