「ニュー・アース」第二章(1)

第二章 
「エゴという間違った自己のメカニズム」


世界をありのままに見る

言葉は発音されても、あるいは声にならず思考にとどまっても、ほとんど催眠術のような
力を及ぼす。言葉の前で人は簡単にわれを失い、何かに言葉を貼りつけたとたんに、
まるで催眠術にかかったように、それが何であるかを知ったと思いこむ。
ところが実際には、対象が何であるかなどわかっていない。ただ、謎にラベルを貼っただけだ。
小鳥も樹木も、その辺の石ころでさえ、ましてや人間を究極的に知ることはできない。
計り知れない深さを持っているからだ。私達が感知し、経験し、考える事が出来るのは
現実の表層だけで、海上に出た氷山の一角よりも小さい。
その表面的な見かけの奥ではすべてが全体と繋がり合っているだけでなく、全てが拠ってきた
「生命の源」とつながっている。
石ころでさえ、花や小鳥ならなおさらのこと、「神」へ、「生命の源」へ、あなた自身へと戻る道を
示す事が出来る。
相手に言葉を付与したり、頭の中でラベルを貼ったりせず、ただ手にとって、ありのままを
見つめれば、驚異と畏敬の念がわきおこるだろう。
対象の本質が無言のうちにあなたに語りかけ、あなたの本質を照らし出す。偉大な芸術家が
感じとり、作品を通して伝えるのはこの本質だ。(中略)
言葉やラベルをはりつけないで世界をありのままに見れば、
はるか昔に人類が思考を使うのではなく思考に縛られたときに失った奇跡のような畏敬の念が
蘇る。人生に深さが戻ってくる。ものごとは再び初々しさ、新鮮さを取り戻す。最大の奇跡は
自己の本質を経験できる事だ。
その本質は言葉や思考や知的なラベルやイメージに先行する。それを経験するためには、
「自分(I)」という意識、「在る(Beingness)」という意識を、自分と混同されているすべて、
自分を同一化しているすべてから切り離さなくてはならない。
自分をモノや事物から切り離すこと、それが本書のテーマである。


ものごとや人や状況に、言葉や知的なラベルを急いで貼りつければ貼りつけるほど、
あなたの現実は生命力を失って浅薄になり、現実をいきいきと感じとれなくなって、
あなた自身の内側や周囲で展開されている生命の奇跡に対する感覚が鈍くなる。
小賢しさは身についても智慧は失われ、喜びや愛や創造性や生き生きした躍動感もなくなる。
(中略)
もちろん私達は言葉や思考を使う必要がある。言葉や思考にはそれぞれの美があるー
だがそこにとらわれてしまう必要があるだろうか?(p62-66抜粋)


第一章(1)で書いた内容と被るのですが、対象物を見つめたとき、瞬時に私達の脳裏には
無意識にその対象物の「名前」が浮かんできます。
名前の次くらいに、自分が知っているいくつかの情報・記憶が浮かんでくるといった状態は
軽く浅くその対象物を「認識」したというだけ。
人間に対しても、同じ事がいえると思います。
OO市に住んでるA田B子さんという女性がいたとして、
姓名と幾つかのプロフィールで概ねその人を知ったような・認識したような気にはなっても、
実際A田B子さんの本質や究極的な全てにその知識(姓名+プロフィール)は迫っていません。
もっといえば、プロフィールで・言葉で語られる内容の殆どはA田B子さんの「外付けパーツ」です。
「外付けパーツ」(肩書き)は、時と場合によって形を変えます。
姓名だって変わる事がありますし、年齢は毎年カウントが上がるし、家族構成や社会的属性も
年を経て変わっていく可能性がある。
住まいも車も持ち物も趣味も時を経れば変わるでしょうし、増えたり・無くなったり、刻々変化する。
「外付けパーツ」の全てが一生を通じてまったく変わらない人間なんて、まずいないでしょう。

”自分をモノや事物から切り離すこと、それが本書のテーマである。 ”
自分から「外付けパーツ」を切り離すことが、「ニュー・アース」のテーマ、
その理由の一つは、この「外付けパーツ」に対する強い執着心が、
様々な機能不全(エゴ)を引き起こす要因になっているからです。

そして究極的な「自分・わたし」とは、外付けパーツも名前も、肉体すらも、
なんもかんもとっぱらった状態の「生命」そのものだと、私は解釈しています。

また、「言葉」についての深く鋭い洞察とその表現は、エックハルトならではだと感じます。
言葉の持つ力は良くも悪くも大きいけれど、なにもそれがすべてではないし
言葉だけで伝えきれない物事って山ほどある。 
にもかかわらず、言葉に一方的に振り回され、決めつけ、誤解が生じることも非常に多くて。

そういえば、「言葉のインパクト」って強大で、思いのほか記憶に刷り込まれ・
それが「前提」となってしまう危険を持っている・・と、気付かされた事が先日ありました。
女子部時代の幹部で元気と声の大きさだけが取り柄(?!)のような御方がいらして、
不遇を信仰で這い上がりました!(母子家庭だけど有名大卒)という人だったのですが
幹部指導の際、事あるごとに「人生悪くて当たり前!」と、満面の笑み&大きな声で壇上から
叫んでいましたw まるで、キャッチフレーズのように。
”悪くて当たり前なんだから、信心をして少しでも良くなればラッキーじゃん!”という激励(?)。
その方のことを、帰省時に母から聞きました。
詳細は書けませんが波乱万丈、いい話ではありませんでした。
そのときふっと、「人生悪くて当たり前!」っていつもその御方が叫んでいたなぁ・・と思い出し、
うわー!と、悪寒が走ったのです。 偶然かもしれませんが、そうは思えず。
思い込みが、信念と現実を作る・・という話を、心理学周りでよく耳にするのですが、
本当にそうなってるじゃんorzと。
きっとご本人はポジティブな意味でその言葉を使っていた(つもり)であろう事が・・。
”声仏事をなす”と言いますが、だったら「人生良くてあたりまえ!」と叫んだらいいのです。
そう思って・信念にしてしまえば、現実もそうなるのですから。

頭で「思考する」事よりも、物事や対象・状況をありのままに見、
「感じとる」こと・感覚を研ぎ澄ませてみていくことの大切さを、エックハルトの表現の端々から
感じます。
言葉でラベリングして「知った気」「わかった気」になることは容易い。
頭を使う事よりも、思考を外した状態での「知覚」「フィーリング」を、もっと研ぎ澄ませて
直観を優先して行くことが必要ではないかと、「ニュー・アース」読了後の私は強く感じ、
意識するようになりました。
これが簡単そうに思えて、やってみると結構ややこしいw
自分がいかに様々な「思い込み」「固定観念」を持って、思考で一瞬にして「それは違う・ダメ」と
自分の直観を打ち消そうと・・打ち負かそうとするか。 まさにエゴと直観の闘いなのですw
すっと、目的地に行かせてくれない。 誰が? エゴ(頭の中の声)がw
エゴの存在について理解していない時は上記の脳内押し問答が「当り前」の習慣でしたので、
なんとも思ってなかったのですが、一旦気付いてしまうと
「こりゃしんどい・窮屈な生き方になって当然だよなぁ・・」と、自分でも驚いたのです。
最終的にエゴの声を採用してしまったから「後悔」してきたんだろうな・・と、過去を振り返って
そう感じることも多々ありました。
「ああしてみよう・こうしてみよう」との直感を「ちょっと待て」と全力で止めに来るエゴw
「気が進まないからやめとこうかな」という直感についても同じくw
エゴに引きとめの理由を問いただせば、自分では無い他人(家族含む)への遠慮やら、
取り越し苦労の配慮など「じぶん」の率直な思いと関係ないことが大半。
最近やっと直感にそって、ぱっと思いついた・ひらめいた事を採用し動けるようになってきて、
ますます楽になりました。 
直感で動いて、おきてくる「結果」は、懸念ガチガチで動いた時より上手く行く事が多いですし、
そうでない場合でも「後悔」は激減しました。
(これも「ニュー・アース」を通しで読めばわかる法則?によるものですが、追って出てきますので
その時説明します)
おそらく人生の「悩み」8割はエゴとのせめぎ合いで出来ているんじゃないかな・・と
今の私は思います。

幻の自己

「私(I)」という言葉は、使い方次第で最も大きな誤りを引き起こすことも最も深い真実を
表すこともある。(中略)
日常的な使い方の「私(I)」には根源的な誤りがあり、あなたが何者であるかを誤解させ、
ありもしないアイデンテティを意識させる。この幻の自己意識は、時空の現実だけでなく
人間性についても深い洞察力を有していたアルバート・アインシュタインが「意識の光学的幻」
と呼んだものだ。
この幻の自己意識がその後のあらゆる解釈の、というよりも現実に対する誤解のベースになり
すべての思考プロセス、相互作用、関係性に影響する。
あなたの現実はこの根本に在る幻を反映する。

ところで、良い知らせがある。幻は幻と認識すれば消える、ということだ。
幻の認識はまた幻の終わりでもある。あなたがそれを現実と誤解している間だけ、幻は存続する。
自分が何者でないかを見極めるなかから、おのずと自分は何者かという現実が立ち現われる。
(中略)それでは幻の自己とはどんなものなのか?(中略)
両親が話す言葉を通じて用事が自分の名前を覚えると、その名前(言葉)は幼児の頭の中で
一つの思考になり、それが自分と同一視される。
この段階では、子供はよく「ジョニーはおなかがすいた」というように自分を三人称で表現する。
まもなく「私、僕(I)」という魔法の言葉を覚え、すでに自分自身と同一視している名前と同じように
使いだす。
次に、他の思考がこの「私、僕(I)」という思考と混ざり合う。この段階では「私、僕(I)」の一部と
みなされるモノを指す「私の、僕の(my)」「私のもの、僕のもの(mine)という思考がそれだ。
このモノと自分の同一化、つまりモノに自己意識をかぶせることによって、モノから自分の
アイデンテティを引き出す。
「私の、僕の(my)」おもちゃが壊れたり取り上げられたりすると、とてもつらい。
つらいのはそのおもちゃ自体が持っている価値の故では無く、「私のもの、僕のもの(mine)」
という考えのゆえである。
おもちゃは幼児が発達させている「自己意識」「私、僕(I)」の一部になっていたのだ。

子供が育つにつれ、「私、僕(I)」という思考は性別、持ち物、知覚される身体、国籍、人種、
宗教、職業など、他の思考を引き寄せる。他に「私、僕(I)」が同一視するのは、
母親、父親、妻などの役割、積み重ねられた知識や好悪などの意見、それに過去に
「私に(me)」起こった出来事である。(過去の出来事の記憶が「私と私の物語」として自己意識を
規定する)。
これらは人がアイデンテティを引き出す物事のほんの一部にすぎない。
そしてどれも、自己意識という衣を着せるという事実によって危なっかしくまとめあげられた
思考以上のものではない。
ふつう「私、僕(I)」という場合に指しているのは、この精神的な構築物なのだ。
もっとはっきり言えば、あなたが「私、僕(I)」と言ったり考えたりする時、だいたいはその主体は
あなたではなく、この精神的な構築物すなわちエゴイスティックな自己のいずれかの側面である。

(p66-71抜粋)


A田B子の話に戻りますが、
「外付けパーツ」と「わたし」を同一視し、「外付けパーツ」も「わたし(の一部)」と
捉えている人が、よのなか大半だと思います。
A田B子という名前、学歴、職歴、肩書き、持ち物(車や住居やブランド品や宝飾品)、
家族、ステータス、あらゆる経験、自己評価・・etc といった自分を構成している(と思われる)要素。
「外付けパーツ」が人生の幸・不幸を決定づけている・・と、ほとんどの人が固く信じています
(いわゆる相対的幸福観です)。
「外付けパーツ」とは、アイデンテティでもあるので、特定宗教にどっぷりハマっている人達が
「ボロは着てても心は錦だ!」と言っているのも、実際は「絶対的幸福」にはなりません。
その宗教団体に所属している・入信している・御本尊を持ってるという条件は立派な
「外付けパーツ」ですから、「相対的幸福」の分類になります。
絶対的幸福には条件付けなんかいらないのです。
というか、人は生まれてきたその時点で、何も持たなくても「絶対的幸福」な存在です。
エゴに囚われなければ「絶対的幸福」はいつでも傍に在ります。

ここ、見誤ってはいけないと思いますし、このロジック、創価脳への破折にお使いくださいw

この「外付けパーツ」を不本意な形で失ったり、他人から貶された時、「自分」は嘆き落胆しますし、
守らんとして、攻撃的になることもあるでしょう。
「外付けパーツ」ありきの「自分」を褒められることに喜びを感じます。
他人の「外付けパーツ」を羨み、妬み、嫉妬から悪口を言ったり・足を引っ張ることも
あります。
または他人の「外付けパーツ」と自己のそれを比較し、自信を失ったり・自分を責めます。
相手の「外付けパーツ」によって付き合いを選ぶこともあるでしょう。
そして「外付けパーツ」=外的イメージ・世間体や目を殊更に気にして、自分の本心とは真逆の
行動をとったり・振舞ったりしてしまうのも、ままあることです。
「外付けパーツ」に価値を追い求め、それこそが全てであると思いこんで一喜一憂・執着します。
だから失うと悲しいし、困惑する・・子供がおもちゃを失って悲しむのは「私の・僕の一部分」が
損なわれたように感じるから・・という一例を通し、
実はその「外付けパーツ」はエゴであり、「意識の光学的幻」 だとエックハルトは述べています。

ふつう「私、僕(I)」という場合に指しているのは、この精神的な構築物なのだ。
もっとはっきり言えば、あなたが「私、僕(I)」と言ったり考えたりする時、だいたいはその主体は
あなたではなく、この精神的な構築物すなわちエゴイスティックな自己のいずれかの側面である。

精神的な構築物=外付けパーツの事です。
これらは一瞬のうちに無価値に落ちることもあれば・変化し、時に失う事もある「儚い」もので
永遠の存在でないことは、誰にでもわかることだと思います。
究極でいえば、人の命が終わり瞼を閉じるとき、全てがその人にとって・周囲の人にとっても
幻になります。
だから「意識の光学的幻」とエックハルトは呼んでいるのでしょう。

そして「外付けパーツ」に躍起になり、失い奪われる事を恐れ、振り回される生き方は
「エゴ」に囚われた状態そのもので、
「外付けパーツ」が自分自身ではないことに気付きなさい・
「幻」について必要以上の執着を持ち「無意識」に振舞っていることに気付きなさい・
「じぶん」とは、ただ存在する「いのち」であることに気付きなさい・・と、指摘しているのです。

前後しますが、
ところで、良い知らせがある。幻は幻と認識すれば消える、ということだ。
とあるように、外付けパーツが「幻」であると認識すれば、思い込みや執着は消えます。
人生において苦しみを生んでいるかに見えるそれ(エゴ)が、実は「幻」だと知れば楽になる。
最初読んだ当時(2016年4月)は「んな馬鹿な?!」でしたが、
津留晃一さんやバシャールの本も合わせて読むうち、その構造について理解できるようになり、
現在は「本当だ」と思うようになりました。
津留さんもバシャールも量子力学やホログラムを通して現実世界の捉え方を教示していますが、
エックハルトの教えと通じるところが多分にあるのです(が、ここでの説明はやめておきます。
興味のある方は調べてみてください)
「幻」というか・・それら全てが永続性のないもの、一瞬にして価値が変わり消える事もあるもの、と
捉えれば誰でも腑に落ちると思うのです。

殆どの人は依然として、絶え間ない思考の流れ(大半が無意味な繰り返しである)や
衝動的思考に自分を完全に同一化している。
この思考プロセスとそれに付随する感情から離れて、「私、僕(I)」は存在しない。
これはスピリチュアルな無自覚状態を意味する。
頭の中には片時も止まらずにしゃべり続けている声があると言われると、
人は「それはどんな声か?」と聞き返したり、そんなことはないとむきになって否定する。
聞き返したり、むきになったりするのはもちろん、その声、考えている無意識な心だ。
それが人々を乗っ取っているとみることもできる。

自分の思考と自分自身とを切り離し、一瞬であっても、考えている心からその背景に在る
気付きに自分自身のアイデンテティが移行したことがある人は、その体験を決して忘れない。
(p71-72)


「頭の中の声」がここで出てきました。
四六時中、頭の中で自問自答が繰り返されている事に気付いている人はどのくらい居るでしょうか?
「胸の内」でも同じことだと思うのですが、たとえば何かを選択する必要に迫られた時
”Aにしよう” と思ったとたん
”いや待てよ?Aで本当にいいのかな。後悔しない?そんなに簡単に、きめていいの?”
”でもBはXXな理由で、気が進まない。Cは、何も知らないから不安だなぁ。やっぱAでいいよ”
”AはOOだから安心だよ” なんて、こんな逡巡を誰でも経験していると思います。
選択という行為が、思考に基づいて行われていることに気が付きます。
この「思考」こそが、頭の中のおしゃべりです。
そしてこの「思考」による頭の中のおしゃべりは「無意識状態」で行われている事がわかるでしょうか?
私が初めてこの個所を読んだ時は、「頭の中のおしゃべり」は、実に当たり前の現象すぎて
やっぱり「無意識状態」でした。 それは自分の心の声だ、と思いこんでいたからです。
あたりまえにそこにあったから、無意識で在ることにすら気付いてませんでした。
けれど、「ニュー・アース」を読み進めていくうちに、おしゃべりを止める実践をするうちに
徐々に判って行ったのです。
「ああ、”頭の中のおしゃべり”は、エゴの声だった」と。

選択だけではありません、何をしている時でも、寝ている時以外は
絶え間なく思考がおしゃべりを続けています。
現時点で無自覚な方は、いちど自分で観察してみてください。
このブログを読んでいる今この瞬間も「なんか、わけのわからない事書いてあるなぁ~」とか
「何が言いたいのかさっぱりわからない!」とか、「あとで麦茶のもう」とか
なんらかの想念が浮かんでいると思います。
こういった他愛もないおしゃべりは、それほど害が無いので普通にあって大丈夫ですが、
私がこの「ニュー・アース」を手にした時(今年4月)の状況下における「頭の中のおしゃべり」は
その大半が「自分責め」と「他人責め」「未来への不安」「過去への呪縛」だったのです。
これらの頭の中のおしゃべり・問答は、想像つくと思いますが、悲惨でいたましいものですw
そしてこの不安や恐れや疑問に関するおしゃべりは全く鳴りやまず・ダラダラ長引きますし、
今となっては全てが「無駄」で「無益」で「有害」なものでした。
この苦悩に満ちた思考状態も「エゴ」のなせる技であり、「機能不全状態」です。

何か悩みごとや不安、わだかまりがあるとき、いろいろと考えるのは常ですが、
ネガティブな考え事に対して、「思考を止める」という解決策をおすすめします。
考えても、どうしようもないことってありますし、悩みとは=不安であり、不安とは「わからない」
「(未来が)みえない」という気持ちの表れですよね。
で、わからない・みえないものを、わかってないし見えていない自分が今どれだけ考えても
出てくる答えが正答になるとは限りませんし、さっと出ない答えなら、悩んでいるだけ時間が無駄。
精神的な摩耗と疲労を生むばかりです。
考えてもわからない~悪い想像ばかりでてくる~!というサイクルが始まったら意識的に
「はい終了!」と自分に声をかけ、考える(思い悩む)のをすぱっと止めます。
深呼吸を繰り返し、呼吸を意識して「たった今、この瞬間に自分はなにも困っていない」
認識するのです。
声に出して、言ってみてもいいと思います。
頭をもたげていた混乱や苦悩は、「たった今」おこっている問題ではないことを認識します。
それは「過去」か「未来(明日)」の、たった今起きていない事だと認識するのです。
それらも「幻」なのです・・「たった今」は、おこっていないのですから。
「たった今」自分は何も困っていない。
この真実に気付くことが、機能不全から自分を取り戻す方法です。
そして「今にある」方法でもあります。
悩み深い方に、これを騙されたと思って、暫くやってみてほしいと思います。
「そんな事で解決しないじゃないか!」と、思われるかもしれません。 
そう思う方はいつまでも悩んでいてください。 
それがあなたの「やりたいこと・課題」なんだと思います。
「そんな事で楽になるならもうけもんだわ、やってみよう」って方は、ぜひお試しください。
これもいわゆる「問題の手放し」で、悩みが悩みでなくなり・苦悩は苦悩でなくなります。 
もう少し具体的な方法・理論的なことについては、のちのち本文に出てきますので
その際にもう一度、詳しく触れたいと思います。

話が戻りますが、エックハルトが教えてくれている大切なことのひとつが
 「自分の直感を信じる」 という事です。
直感には「ただ、なんとなく」だけで、これといった理由は無いことが多い(後付けする事はありますが)。
実はそこに、エゴ(思考の裏付け)のない「真我」の声があります。
以前も紹介したエックハルトの言葉 「思考は過去からの条件反射」とあるように、
私達は幼子の時代から特定の価値観や条件付けを植え付けられ・叩き込まれた思考回路を
持っています。 
そのパターンは気付きによって書き換えが可能ですが、ひとつひとつ「古い誤った認識」を
洗い出していく必要があります。
思考に頼らず、思考を挟まず・ただ自分の直感で「これだ!」「いまだ!」と、
なんの理由づけもなく心と身体が呼応するような事があるならば、その直観・直感を信じてみるのは
大事です。
そして「思考を止める」ことの繰り返しで、「直観・直感」が冴えてきます。

先日ふと思い出したのですが、私は高等部の頃に某グループのファンで
やっとチケットが取れ(題目あげたからとれたと信じてましたw)コンサートに行ける事になり、
その話を熱狂的にw高等部会でした事がありました。
すると女子部のお姉さんが「あまり夢中にならないように」とやんわり釘を刺してきました。
そんなことすっかり忘れた後日、自分のブログの過去記事を読んでいて、
女子部時代(25歳以下)は、恋愛禁止。
信心や御本尊様より大事な物ができて夢中になっては、修行の妨げになるから・・という
クダリを見て「ああ、そういう事だったのか」と、話が繋がったのです。
(アイドルにうつつを抜かすことも、恋愛と同じで組織離れになるからやめてくれって事でしょう)
で、連想的に思いだされたシーンがあり、それは女子部時代のとある会合席上で幹部指導を
戸惑いながら聞いていた自分の姿(注:20代前半当時)。
「なによりも仏道修行(=学会活動)が大事。学会根本に生きる事こそ幸福の直道です。
 遊びに行きたいとか、さぼりたいとか、思うかもしれない。自分の楽しみや幸せを
 追求したい、そういった甘えは捨てる事。
 若いうちから友の幸せを願い、学会に尽くし抜いて生きる事が何よりも誉なのです!」 
こんな内容だったと思います(ありきたりですね)。
当時、瞬時に私の頭の中にひらめいた事、
「なんで自分の楽しみ・幸せを追い求めて生きるのはダメなのよ?」と。
自分の楽しみや幸せと・学会活動の両立は叶わなくて当たり前と思え、ってなんで??
幹部に聞いた事もありました、すると「学会活動を中心に据えていれば、おのずと他の楽しみは
後からついてくる。だから、両方やろうとしちゃいけない。まず学会活動ありきで良いのだ」と。
そんなものか?!と反論もせず受け流したけれど、私はもう当時、直感で判っていたんだ。
「自分の楽しみ・幸せを追い求めて生きる事は間違いではない」と。
だから疑問がわいたのだ。 その直感を、あのとき信じて採用し、とっとと学会活動から
離れるべきだった・・orz
その直感を、エゴ(=この時は創価脳)が打ち消していたのです。 
子供の頃からずっと信じてきたものを侵さないように。とりわけ、母親が大事にしてきた・
父親と不仲になろうとも大切に守ってきた「信仰」を、侵さないようにと。
まさに「思考は過去からの条件反射」です。

元創価脳の方でも、同じような経験をお持ちの方はきっと、大勢いらっしゃると思うのです。
「え?それってどうなの?」と、違和感をおぼえるような指導に出会ったり、矛盾を見聞きしたことが
必ず一度はあると思います。 けど、その直感に、どうにか蓋をしてしまいましたよね。
でも、それは仕方がない事です。 エゴに取りつかれていた故ですし、エゴの集団にいたのだから
「集合意識」に巻かれ、無意識で振舞い、本当の自分の気持ちに立ち返ることが出来なかったのは、
やむなしです。
「違和感」センサーを持っていただけ、自分はまともだったと自分を誉めていいと思います。

そして今、組織から離れられた事は「直感」を信じることができたからで、
自分をわずかでも、取り戻す事が出来た・意識を取り戻せたから。
自分に嘘をつかない行動ができた証です。 
そんな自分を責めずに、ねぎらってください。
・・もしまだ責めているなら、自分の中に「古い思い込み」があるという事ですから、
それを見つけて・気付いて、ひとつずつ手放していけば大丈夫です。

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早く続きを書きたいと思いながら、夏休み中はゆっくりパソコンに向かう時間がありませんでしたorz
新学期が始まってからも短縮授業だったりでw やっと今週から通常稼働。
これから少しは更新頻度、あげていきたいと思います。

夏休み中に読んだおすすめの本を紹介します。
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津留晃一さんの教えと通ずるところが多々あり、
津留さんの教えよりも、こちらは平易でわかりやすいです。
「ニュー・アース」を読了後に読めば、繋がるというか
より理解が深まると思います。

(次回に続きます)
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