「ニュー・アース」第二章(2)

頭のなかの声

私が初めてアイデンテティの移行を体験したのは、ロンドン大学の学生の時だった。(中略)
あるとき地下鉄で、三十代はじめとおぼしき女性が向かいに座った。(中略)
地下鉄は満員だったのに彼女の両隣には誰も座らない。理由は、彼女がどうも正気には
見えなかったからだ。何やらいきりたって不機嫌な声を張り上げ、休みなく独り言を言っている。
自分の頭のなかの考えに夢中で、周りの人々にも状況にも全く気付いていないらしい。(中略)
私は好奇心に駆られ、方向が同じあいだはあとをつけてみようと思った。(中略)
もしや、彼女は私と同じところを目指しているのか?そう、確かに彼女はセネート・ハウスに
向かっていた。教員か学生か、あるいは事務員か司書なのか?それとも心理学者の
調査プロジェクトの被験者?答えはわからなかった。(中略)
私はいま目撃したことに衝撃を受けていた。
二十五歳でそれなりに成熟した大学生だったから、自分は知的な人間だと思っていたし、
人間存在のジレンマに対する答えは全て知性を通じて、つまり思考によって見出すことが
できると信じて疑わなかったのだ。
気付きのない思考こそが人間存在の主たるジレンマであることをまだ悟っていなかった。
教授陣はすべての答えを知っている賢者で、大学は知識の殿堂だと振り仰いでいた。
あの女性のような正気とは思えない人がその大学の一部だなんてことがあるだろうか?
図書館に行く前にトイレに入った時も考え込んでいた。
手を洗いながら、あんなふうになったらおしまいだよな、と思った。すると隣にいた男性が
ちらっとこちらを見た。私は思っただけでなく、口に出していた事に気付いて愕然とした。
なんてことだ、もうすでに同じだ。自分も彼女と同じように絶え間なく心の中でしゃべり続けて
いたのだろうか?私と彼女にはわずかな違いしかなかった。
彼女の思考に圧倒的な優位を占めているのは怒りらしいが、私の場合は不安、それだけだ。
(中略)
一瞬、私は自分の心から離れて、いわばもっと深い視点から自分を見ていた。
思考から気付きへの瞬間的な移行だった。
私はまだトイレにいたが、他にはもう誰もいなかったので、鏡に映る自分の顔を見つめた。
そして自分の心から離れたその一瞬に、声をあげて笑ったのだ。
狂気じみた笑いに聞こえたかも知れないが、それは正気の笑い、恰幅のいいブッダの
笑いだった。
「人生なんて、お前の心が思いこみたがるほど深刻なものじゃないよ」この笑いはそう語って
いるようだった。
だがそれもほんの一瞬のことで、たちまち忘れ去られた。
それから三年間を私は不安な鬱々とした気分で、思考する心に自分を完全に同一化して
過ごした。(中略)
だが、私はまだ、思考を培う以外の選択肢を見つけることができなかった。
思考は意識のほんの小さな側面でしかないことに気付かず、エゴについて何も知らなかったし、
ましてやそれを自分の中に見抜くことなどできはしなかったからだ。(p73-79抜粋)


上記内容は、この記事に貼った動画のなかでも語られています。
エックハルトが「頭のなかのおしゃべり」に初めて気付いたエピソードです。
トイレでのくだり部分を読んだ時、私にも似たような経験があるなぁ・・と思いだしました。
実際声に出すか・出さないか/行動に出るか・出ないかの違いだけで
どんな人間にも意識のない思考・衝動が存在しています。
意図せず無意識に本音が「声」になって口をついて出て、すっごく焦った、という経験のある人も
きっといると思います。 
声じゃなくても、ため息とか・舌打ちをうっかりしてしまって「やべぇ!」といった場合も
あるでしょう。 
焦るのはそれが、エゴの声(反応)だから。
エゴの声とは「他人に知られたら恥ずかしい・気まずい・よからぬ内容」とも言えるかも
しれません。

エックハルトが、鏡に映る自分を見て、声をあげて笑ったというクダリについても
自分で自分の尋常でない緊張っぷりや・怖がりぶりに気付いた時、情けないのと可笑しさで
おもわず笑ってしまう・・という状況と同じではないかと。 これも、誰しも経験があると思います。
まさに「我にかえる」状態です。
笑っている自分が「真我」であって、極度の恐怖や緊張に囚われたそれは「エゴ」の姿だ、と
考えるとわかりやすいかと思います。 
(自分を俯瞰で見ているもの=真我、思考が離れることなく完全一体化した状態=エゴ)
「はっと我にかえる」ことが「気付き」と呼ばれる状態かと私は解釈しました。
解りやすい例でいえば、創価脳が組織や爺様の悪口でもいわれようものなら、
条件反射や脊椎反応で道理の通らないことを言いかえす姿=エゴに囚われた状態でしょう。
逆も同じことで、創価話題や創価脳の言葉に脊椎反応し、怒り鬱憤、なにか一言言わずには
いられない!と応戦してしまうアンチも、エゴに囚われた状態です・・気をつけたいと思いますw

エゴの中身と構造

エゴイスティックな心は完全に過去によって条件づけられている。その条件付けは二つの面から
行われる。中身と構造である。(中略)
あなたのアイデンテティの中身は環境や育ち、文化によって条件づけられる。
子供が豊かでも貧しくても、動物に似た木切れの玩具でも精密な電子玩具でも、なくしたときの
苦しみと言う点では同じだ。どうしてそんな苦しみが生じるか、その理由は
「私の、僕の(my)」という言葉に隠されている。これが構造である。モノとの結びつきによって
自分のアイデンテティを強化したいという無意識の衝動は、エゴイスティックな心の構造に
しっかりと組み込まれている。
エゴが生まれる最も基本的な精神構造の一つがアイデンテティである。
「アイデンテティフィケーション(同一化)」という言葉の語源は「同じ」という意味のラテン語idemと、
「作る、為す」という意味のfacereだ。何かにアイデンテティを求める、同一化するというのは、
「それを同じだとする」という意味なのだ。なにと同じだとするのか?
「私(I)」である。私はそれに自己意識を付与し、それが私の「アイデンテティ」の一部になる。
最も基本的なレベルのアイデンテティの対象はモノだ。(中略)
私はモノに自分自身を見出そうとするが、しかしそこに完全に同一化しきって没入することは
できない。それがエゴの運命なのだ。
(p79-81抜粋)


エゴ=あらゆるモノ・コトに対する執着心であり
自己存在の証明=自己顕示欲・・虚栄心も、エゴに含まれていると思います。
基本的なレベルのアイデンテティの対象はモノだ、という事ですが、確かに虚栄心のカタマリの
ような人は、所有物(モノ)にそのエナジーを強く反映しています。
そういえば、晩年顕彰集めに暴走した名誉欲の塊みたいな爺様(とその周辺)もいますねw
どれだけメダルが集まっても、そこに完全に同一化しきって没入することはできませんし、
一部の支援者をだまくらかす事は出来ても、お金で買い集めているという事実を知れば
誰一人として、その大量のメダルを「誉れ」だとは思いません。
「どうだ凄いだろ!」と思っているのは、エゴと無意識状態の支援者だけです。
また、モノとは違いますが役職やポジションにしがみつき、永遠に降りようとしなかったり、
聞いてもいないのに「自分は組織幹部だ(だった)」「こんなにあれこれやってきた」
「全部私がやってきたんです!」と過去の栄光(?)、功績をアピールする人も、
エゴ臭きついなーと感じます。 

アイデンテティとしてのモノ

広告業界の人間は、ほんとうは必要ないモノを売りつけるためには、それを持っていると
自己イメージが、あるいは他者から見たイメージが変化すると消費者に思わせなければ
ならないと知っている。言いかえれば、自己意識に何かを付け加えられます、ということだ。
(中略)このとき無言のうちに想定されているのは、この製品を買えば不思議な作用が働いて
あなたは彼ら(注:広告塔)のようになれる、もしくは彼らのイメージとそっくりになれる、
ということだ。だから多くの場合、人は製品を買うのではなくて「アイデンテティの強化」を買う。
(中略)いわゆる消費社会が成り立つのは、人がモノに自分自身を見出そうとする努力が
どうしてもうまくいかないからである。エゴの満足は長続きしないから、さらに多くを求めて
買い続け、消費し続けなければならない。

勿論私達の表面的な自己が生きている物理的な次元ではモノは必要だし、暮らしに不可欠で
ある。住まいも服も道具も乗り物も必要だ。それに美や固有の質のゆえに高く評価される
ものもあるだろう。私達はモノの世界を毛嫌いするのではなく、尊重しなければならない。
(中略)
エゴがモノに同一化しようとするとモノへの執着や強迫観念が生まれ、そこから進歩の唯一の
ものさしが常に「より多く」である消費社会と消費構造が生まれる。
これは自己を増殖させることだけが目的であって、実は自分がその一部である組織体を破壊し
自分も破壊する結果になると気付かない癌細胞と同じ機能不全である。(中略)
スピリチュアルな実践として自分を振り返り、モノの世界との関係、とくに「私の(my)」
という言葉を付されるモノとの関係を見直してみることをお勧めする。
たとえば自尊心が所有物と結び付いているかどうかを判断するには、注意深くて正直で
なければならない。あるモノを持っているというだけで、なんとなく自分が重要人物だとか
優れた人間だと感じないか?
他人の目や他人の目を通じて自分自身に映る自分の価値を引きあげるために、
さりげなく自分の所有物をほのめかしたり、見せびらかしたりはしないか?
誰かがあなたより多くをもっているとき、あるいは大事な物を無くした時、恨みや怒りを感じ、
自分が小さくなったように感じることはないか?
(p81-87抜粋)


「他人にどう思われたいか」「自己顕示欲」ありきのモノ選びは、軸がぶれがちで、
次から次へと珍しい新しいものが出れば欲しくなり・際限もありません。
「他人に見せる」ことが第一目的になれば、たくさん持っていると思われたい・新作が出たら
誰よりも真っ先に持ちたい・イイものが欲しい・・と、なるのが常です。 
そんなアイデンテティ強化としての所有・消費行動は、きりがないよとエックハルトは
教えています。
下線を引いた自尊心のクダリを読んで、私がまっさきに思い浮かべたのは、
某SNSの、いわゆるキラキラアカウント。
こんな事件もありましたが
そこまでしてSNSで、不特定多数の人に「自分」をどう思われたい・見られたいというのか?
これらも、エゴにとりつかれた、無意識状態の姿といえるかと思います。

エックハルトがネット上での出会い
(会ったことのない人物)のイメージが独り歩きする事について語っている動画です。
なかなか興味深い内容です。ごらんください。


人は「見た目」や「持ち物」前回書いた「外付けパーツ」に意識を奪われ・騙されやすい、
とも言えます。
相手の本質なんて全くわかりもしないのに、そういった付属物を見て勝手に想像を膨らませ
「素敵な人」「すばらしい人」なんて、思いこんで憧れたりしがちです。
爺様がメダル蒐集家になってしまったのも、外付けパーツの増強で「素晴らしい大師匠!」と
みんなに思われたかったからでしょうし・そうすることが「カリスマ性」を強化すると
信じていたからに違いないと思います。
一部会員はまんまと「世界に認められた偉大な師匠!」と、羨望のまなざしで見ているわけなので
狙いどおりだったわけですが・・ほんと困ったもんですね?!
「人間革命」なる小説のいち主人公を爺様本人だと思わせ、主人公の人物像は会員の想像で
どんどん膨らみ、さらに「偉大なる師匠」像にハクをつけています。
上で紹介した動画でも指摘されている通り、全ては「メンタルイメージ」なのです。
半分は組織の意図的プロパガンダ・もう半分は会員個人の思考が勝手に、作り上げたもの。
繰り返しですみませんが、私は「師弟観」がまるでない人間なので、バリ活当時も・アンチ以降も
師匠命!な創価脳の事が全く理解できませんでした。 
が、これが「思考=エゴ」のなした事だった、と知ればとたんに腑に落ちましたw
みんな、まさに「恋に恋する」状態なんですね・・件の3人もしかり。

また、エックハルトは「モノを持つ(買う)ことがよろしくない」と言っているわけではなく、
「モノを自己意識の肥大に使うのはエゴだよ」と言っています。
モノはモノとして自分の娯楽、趣味として楽しんだにしても、それらが「幻」である(幻になる)と
判っていれば、モノに対して軽やかな気持ちでいられる。
自己意識の一部だという考えをもってしまうと、執着や差別観がうまれる。
モノが自分の一部などという、誤った認識を持たなければ、強いエゴを発揮しないで済むと
いうことでしょう。
執着心(エゴ)を手放すために喜捨しなさい・・なんて、高額なお布施を要求する
宗教まがいの団体や・占い師・霊能者(頗る怪しい)がいるようですが、それは完全に詐欺で
間違ってると私は思います。
某ロックミュージシャンの洗脳騒動も記憶に新しいところですが。
エックハルトのいうように、本人の意識の変容ひとつでエゴはエゴでなくなるのです。
モノ(お金)との向き合い方・姿勢の問題であって、物理的に手放すという事とは
違うんじゃないかと。 「どうするか」じゃなくて「自分がどうあるか」の問題でしょう。
脱創価をしても、拠り所がないと不安で、上記した「まがい者」に依存し騙される方もいると
聞きました。気をつけてほしいと思います。 

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エゴの性質については、まだまだ序の口でこの先も解説が続々出てきます。
結局のところ「思考」そのものがエゴであり、
思考を超えたところにあるのが「悟り」だということです。

当初、なかなか自分の思考が「エゴ」だなんて信じられない!自己否定されたみたい・・と
私は憮然としていました。 が、「ニュー・アース」を読み進めていくうちに・思考を止める・
思考に囚われないという状態を意識してみるうちに、なるほど、その通りだなぁ・・と
腑に落ちたのです。

前々回に少し触れた津留晃一さんの教えで
「出来事は高次で見れば良いも・悪いもない。中立である」というものがあります。
出来事そのものは中立だというもので、
人の思考がその出来事を「良い」「悪い」と意味づけ、判断つけているのが本当のところなのです。
そして繰り返しですが「思考とは過去からの条件反射」です。そこには裏付けがあります。
同じ出来事に対して、スルー出来る人もいれば・殊更執着を燃やす人もいるように、
それぞれ「思考の背景」が違うため、トリガーポイントも千差万別ということだと、
私は認識しています。

創価の矛盾について知った際、私にとっては天地がひっくり返るほどの衝撃でしたし、
何度も書いてきましたように、当時の私はショックから嘔吐したほどです。
「絶対正義」と40年余り信じてきたものが崩壊し、裏切られた!どうしてくれよう!となりました。
かたや、同じ母親の元で育った、学会3世意識のまったくない姉に
「創価がこうでああで、ウソつきだった・・」と話してみても
「そりゃそうだろうねー」「うん、それ知ってる」「まあ、宗教団体なんて金儲けが目的だよ」と
当然といわんばかりに、あっさりしたものでした。 
この差がいったい何なのか?私はここ数年謎でした。個人の資質も、もちろんあるでしょうが
これは確実に「思考の背景」の違いだったと、最近理解が出来ました。
姉にとっては最初から創価など「胡散臭い宗教ビジネス」が思考の背景だったのです。
はなっから信じてないからショックなんか受けません、あたりまえです。
私は運悪く「命よりも大事な御本尊」ありきの、創価は正義の団体だと叩き込まれ・信じて
疑わなかった。だからショックを受けた。 それだけの話だった、と今は言えます。
なにも特別なことではなく、「思考の背景」が変わっただけ。
私の思考が、創価への評価を「いい」から「悪い」に変えてしまっただけであり、
創価は大昔から、一定の人たちから見れば「胡散臭い宗教団体」でしかなかった、のが現実です。
(「じゃあ創価は悪くないのか!騙された方が悪いというのか!」と怒り出す人がいそうですがw
 高次から見れば「いい」も「わるい」もない、という話です。個人的感情論は挟みません)

そして、覚醒ですっかり「思考の背景」が変わってしまった私は、命より大事だった御本尊も手放し
現在は神棚をまつっています。 
たまたま、神道に心惹かれてそうしましたが、きっかけ次第でキリスト教へ傾倒することだって
あったかもしれないし、一周回って正宗へ帰依した可能性だってある。
(神道に惹かれた経緯については別記事で後日書きます)
心理学にふれたことも、エックハルトをはじめとした現代の覚者の教えに傾倒していることも、
これを他人が「良い」「悪い」とジャッジするのは、全く意味がありません。
だって全員、思考の背景が違うのですから。 
「思考の背景が各個人で違う」と理解できれば「高次で見れば出来事は中立」だということが
なんとなくでも、わかると思います。
まさに表も裏も・いいも悪いもぜんぶ繋がっている、「メビウスの輪」です。

私が創価の矛盾に気付いてアンチになったのが、2012年の9月でした。ちょうど4年が経過します。
40年以上、創価を信奉していた事や・創価脳の母vsアンチの父ときょうだいという構図の家庭に
生まれ育ったことを、私は「ものすごく不幸だった」と思ってきました。
その思いはアンチになってからの方が強く、消せない黒歴史、膨大な時間を無駄にしてしまった、
善意の他者を巻きこんで申しわけなかった云々・・他にも言葉にならない、イヤな思いがありました。
これらは確実に「思考の背景」となって、アンチ創価濃度を増していたと思います。
こんなブログを立ち上げたのだって、ただでは済まさねぇ!という気持ちがありました(何を?w)。
繰り返し書いてきたとおり「仏罰は無い」を証明しなくては!という思いもありました。
今年に入って精神的に大きな動揺(とある出来事)があり、エックハルトの本に出会えたことで
エゴのメカニズムについて理解を深めていくうち、再び「思考の背景」は変化しました。
今はもう、創価脳だった40年あまりは私にとって「黒歴史」ではありません。
「今、こうなるべくして、通った不可避の道」だったと思えるようになったのです。
そうであった事で、私は何かから守られてきた面もあると考えました。
創価脳じゃなかったとして生きた人生が、良かったか・悪かったかなんて、今となっては
解らないという事です。 そこをえんえんクヨクヨしたり・恨んでたって、どうしようもない。
そう生きた事に悔いなし!とまでは言わないけれど、過ぎた事に意味は無く、「いま」が大事。
これはこの記事で取り上げた「未来から流れてくるボール」の話と同じです。
それが腑に落ちたら、もう創価は問題でも恨み事でも無くなるし、お笑いネタになりました。
最近読んだバシャールの本で「パラレルワールド」という言葉が出てきたのですが、
”自分の思考背景が変われば過去の出来事への評価も全て変わる(次元上昇)”とあり、
こういう事なのかもな、と感じました。
勿論、一足飛びにこんな心境に到達できたわけではありません。過去記事をみてもらったら
解るとおりですが。
様々な出来事や思いを経、創価問題とは別のところで精神的に衝撃を受けた
(とある)出来事があり、「ニュー・アース」を読んでエゴの存在、正体、メカニズムを知って
私はこんな心境に至りました。
そしてエゴがどんなものか把握してしまえば、生きることが実に楽になりました。
また自分がいかに「思考」に囚われて、物事や周囲の人物・すべての事象への評価を偏りで
「ネガティブ」なものにしてきたかが解って、驚愕しました。
創価問題も同じことで(私はたまたま「ニュー・アース」と出遭う少し前に、母が自ら
非活への道を歩み出していましたが・・)実はなにも問題ではなかったし、私が悩まなくて
よいことだった、と解りました。
ただ、在る程度の期間そこで悩み七転八倒する経験がなければ、私は「いま」を迎えることが
出来なかったのでしょうし・早い段階で「ニュー・アース」を読んでも、理解できなかったんだと
いまはわかります。
(腑に落ちるべきタイミングが各々あるのだ、ということです。)
「いま」を生きることが面白いのに、いつまでも「済んだ事(過去)」「他人事(家族の創価問題)」に
悩んだり「問題化」していたら、勿体ない。
もっといえば「アンチ創価」をアイデンテティとして生きるのって、果たしてどうなのか?wと。
もちろんそれが「人生の楽しみ」だという人のことを、止めはしませんが・・。

「思考を止める」と、思考の裏付けとなっている過去からの様々な思い込み・
ビリーフ(無意識の信念)・固定化された価値観・先入観などが、働かなくなります。
エゴが働かなくなって初めて、真我が働くようになります。
先入観や思い込みのない、無の状態から出てくる本当の「思い・感情」です。

子供時代から特定の思考回路を持つように植え付けられてきた「創価脳」ですから、
自分で矛盾に気付くのは相当に難しい事で、気付けたことは「天啓(天からの啓示)」だったと
言えるほど、すごい出来事だと私は思っています。
集団的エゴ(=創価)から抜け出し、偏考で自縄自縛・排他的に生きる事から脱却できたのは
私にとってはありがたいことでした。
が、集団的エゴから抜け出してもなお、偏りを見せ、対象を憎み・恨み・間違いであると
叩き続けることを、まだ目覚めない活動家の家族や知り合いのことで思い悩んだりすることを、
えんえんやっているようでは、結局それもエゴに囚われた状況で、何も変わっていなかったのです。 
それはまさしく「エゴ」のしわざで、経験上私が思うに
なぜ執着するかと言えば、創価が正しいと騙されて信じてきた「わたし」は
間違っていなかった。
あくまでも「創価」が悪いんだ!「わたし」は悪くないんだ!と、エゴがわめいているのです。
「わたし」を悪者にしたくない!と、必死の抵抗をしていた。
ここでいう「わたし」とは、勿論「エゴ」そのもので、本当の自分ではありません。

そして創価に対するネガティブな想念・そこから出る言動は実際「あなた」の役目でも仕事でもない、
あなた自身が望んで本当にやりたくてやっていることではない。 
エゴがやらせていることだと、気付けばいい(気付いたら楽になります)。

次の章でエックハルトは教えてくれます「エゴは、あなたではない」と。

思考に囚われているうちは、どんな恨みもつらみも苦悩も、消えるはずがありません。
エゴは恨みたい・悩みたい・問題にしたい・モヤモヤしたい・わだかまりたいのです。
それこそがエゴが存在するためのエネルギーだからです。
エゴは存在し続けるために、怒りや恨みや鬱憤に燃料を注ぐような情報ばかり集めるし、
自然と引き寄せます。
社会に対する不安や不穏、混乱に関するニュースにばかり反応するようになる・
そのテの問題について「思考」したがるようになる。
そしてそれを多くの人と共有したいと、拡散する。
自分自身がネガティブ(エゴ)を発信し・それとおぼしき現実を寄せ付け・さらに拡散するという、
負のループ・機能不全に陥るのです。
SNSはまさに情報を引き寄せるためのツールですから、使用している方は気をつけて、
自分が何に強く反応しているかを、時々、自分を俯瞰で見てチェックしたほうがよいかと思います。
私生活にまで不安や不穏を引き付けるような事態になっては、意味がありません。

真の覚醒とは、両極を知って真中に戻る。エゴを超越することだと
いまの私は思っています。

創価の矛盾に気付けないまま一生を終える人も、その人がそれを幸福だと思うなら
幸福だと言えます。
信じているものに裏切られることなく、終わって行けるんですから。
「あいつは創価にだまされたまま人生終えて不幸だ」という評価は、外野が下す評価です。
本人の評価ではないので、その本人が「幸せだった」なら、それ以上でも以下でもありません。
物事の評価を下しているのは「自分の思考」でしかなく
その「思考」とは「過去からの条件反射」で、ほんとうの自分ではないのです。
(でも、外野から見てるとやってることは「馬鹿みたい」に思えてしまいますが・・
 それはエゴがそう感じているだけの話、らしいですw)

要は「自分の内側」に全てがあるということで、外野は関係ありませんし問題ではありません。
エックハルトをはじめとした現代の覚者(津留晃一さん、バシャール:ダリル・アンカ)は
そう教えてくれています。
それは仏教用語でいうところの「随自意」で生きましょう、ということです。

またしても長文になってしまいました。 気分転換にお花の写真でもどうぞ。
top17c.jpg
散歩道で発見した秋。

(次回に続きます)
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