ニュー・アース 第二章(4)

所有という幻

何かを「所有する」、これはほんとうはなにを意味しているのだろうか?(中略)
多くの人は、死の床に就き外部的な物がすべてはげ落ちて初めて、どんなモノも自分とは
なんの関係もないことに気付く。死が近づくと、所有という概念そのものがまったく無意味で
あることが暴露される。
さらに人は人生の最後の瞬間に、生涯を通じて完全な自己意識を求めてきたが、
実は探し求めていた「大いなる存在としての自分」はいつも目の前にあったのに見えなかった、
それはモノにアイデンテティを求めていたからで、つきつめれば思考つまり心に
アイデンテティを求めていたからだ、と気付く。
「心の貧しい者は幸いです」とイエスは言った、「天の御国はその人のものだからです」と。
「心が貧しい」とはどういうことか?
心になんの持ち物もない、何も自分を同一化(アイデンテティファイ)していない、という事だ。
そういう人はどんなモノにも、また自己意識と関係するどんな概念にも、アイデンテティを
求めていない。それでは「天の御国」とは何か?
それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。その喜びは、何かに自分を
同一化するのをやめて、「心の貧しい者」になったときに感じることができる。
だからこそ、東洋でも西洋でも古くからのスピリチュアルな実践で、あらゆる所有が否定されて
きた。しかし所有を否定しても、それだけでエゴから解放されるわけではない。
エゴは何か別のものに、たとえば自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ、
人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージにアイデンテティを求めて
生き延びようと図るだろう。
(中略)
そのアイデンテティを通じて、自分は正しくて他者は間違っていると考えることが出来る。
あとで取り上げるが、自分は正しく他者は間違っているという考えはエゴイスティックな心の
主たるパターンの一つ、無意識の主たる形の一つだ。

いいかえれば、エゴの中身は変わってもそれを生かしておく構造は変わらない。
これに関係して無意識に想定されているのが、所有というフィクションを通じてモノに自分を
同一化すると、物質が持っているかに見える堅実性や恒久性のおかげで自分にも大いなる
堅実性や恒久性が付与されるはずだという事だ。(中略)
エゴはまた所有と「大いなる存在」を同一視する傾向がある。われ所有す、ゆえにわれ在り、
というわけだ。そして多くを所有すればするほど、自分の存在も豊かになる、と考える。
エゴは比較の中に生きている。私達は、他人にどう見られているかで、自分をどう見るかを決める.
誰もが豪邸に住んで誰もが豊かなら、豪邸も富も自意識を高めるのには役立たない。
それなら粗末な小屋に住み、富を放棄して、自分は他人よりスピリチュアルだと思う事で、
自分のアイデンテティを取り戻すことが出来る。他人にどう見られるかが、自分はどういう
人間か、何者なのかを映し出す鏡になるのである。

エゴの自尊心は多くの場合、他者の目に映る自分の価値と結び付いている。
自己意識を獲得するには他者が必要なのだ。そして何をどれくらい持っているかでほぼ自尊心が
決まる社会で暮らしていると、それが集団的妄想であると見抜けない限り、自尊心を求め
自己意識を充足させようとしてむなしい希望に振り回され、一生、モノを追い求めることになる。
モノに対する執着を手放すにはどうすればいいのか?そんなことは試みないほうがいい。
モノに自分を見出そうとしなければ、モノへの執着は自然に消える。
それまでは、自分はモノに執着していると気付くだけでいい。

対象を失うか危険に晒されなければ何かに執着している、つまり何かと自分を同一化している事が
わからないかもしれない。
失いそうになって慌てたり不安になるなら、それは執着だ。
モノに自分を同一化していると気付けば、モノへの同一化は完全では無くなる。
「執着に気付いている、その気付きが私である」それが意識の変容の第一歩だ。
(p96-103抜粋)


「大いなる存在」とは、原書ではpresenceやbeingとなっています。
私は「生命そのもの」と解釈しています。

生きている、生かされている、呼吸が自分のコントロールに依らず、なにものかによって
生まれおちた瞬間から死の時まで、えんえんと続いている事・・この「生の奇跡」について
日常驚きをもって・また喜びをもって意識している人は、どのくらい居るでしょうか?
数分間、自意識で息を止めることはできても、自分でコントロールして心臓を数分間とめるなんて
ことは不可能です。
呼吸と心臓の絶え間ない動き、これこそ「神の所業」と言えると思います。

普段なにげなさすぎて・あたりまえすぎて気付いていないだけで「呼吸している」この状態は、
実は奇跡的瞬間の連続で・ものすごいラッキーな事なんだと、
普段から意識している人は(大病や大事故や九死に一生の経験から生還した人を除いては)
あまりいないのではないか?と、思うのです。

かくいう私も、30代手前で生命の危機を感じるような出来事を経験していたにもかかわらず、
「ニュー・アース」を読むまで、「生かされている」という状態、生命の存続の奇跡については
すっかり忘れ去っていました。 
「ただ生きている」その事があたりまえになりすぎていて、ありがたみなんか全く薄れていたのです。
それどころか、生きているがゆえに起きてくる様々な出来事に対して不満を持ち、わだかまり、
怒り、妬み嫉み、見下し、被害者意識で対象を攻撃し・・勿論、喜びも笑いもありましたが、
「生きていればこそ」の大前提、その奇跡への喜びはすっ飛ばしたところで↑これらの感情・想念に
振り回されたり・抑え込んだりーと、まさにエゴに振り回されていました。

”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに
見えなかった”

”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の
喜びのことだ。”


この2つが、「ニュー・アース」の結論で総論といっても過言ではないと思います。

「生きている」「生かされている」自分がどれほど尊い幸運な存在なのか、
人はエゴに囚われている間、そこに気付くことができません。
何ものを持たずとも、ただ存在する・そこに「ある」ことだけでもう完全で素晴らしいのに、
自分がどれほど尊くすばらしく、幸運な存在であるかを全て「アイデンテティ」に求めようとする。
以前から書いている通り、あらゆる「外付けパーツ」の増強で、自分という存在価値を
見出そうとするし、
他人の「外付けパーツ」と比較しては優越感をもったり・劣等感を持ったりする・・そんな繰り返しで
生涯という時間は消費される。
そして死の間際に立った時、それら「外付けパーツ」が、自分ではなかったことに”やっと”気がつく。
(以前も書いた通り)命尽き眼を瞑る時には、「外付けパーツ」はおろか、自己の肉体さえも
失うのです。 
ただ「いま」ここで呼吸をし、「生存」していられる、これこそが「大いなる存在の喜び」なのだと
エックハルトは教示しています。
つまりは、生存しているという状態、今ここでもうすでに、誰人も幸運で幸福であり・尊いのです。
そしてこの事が「今にある」と繋がってくるのです。


「生きて存在してるだけで幸福なんてありえねぇ!」と思うのは、エゴに囚われている状態です。
幸福に条件付けをしているあいだは、「存在している」だけで幸せだなんて思えるはずもありません。
あれがない、これがない、それもない。だから私は幸せではない・完全ではない・・と
自分がいかに「不足」しているかを、わざわざ探しだそうとします。
また、誰かと比較して「あいつよりは幸せだけど、上には上がいる」と考えたりもします。
そして恐ろしい事に、エゴは満足を知りませんから、一瞬「良かった」とか「最高に幸せ」と
思えるような出来事や瞬間にめぐり合う事があっても、次の瞬間にはすぐ
「よろしくない」「足りない」という状態を想像し・引き寄せます。 
それがエゴが存在するためのエサだからです。
私の文章力では、なかなかこのあたりを簡潔に・わかりやすく書けなくてもどかしいのですが・・(汗)。

で、物質面や社会的評価に依らずとも「自分たちは幸せの直道を歩んでいる!」と
胸張る「ぼろは着てても心は錦」タイプの信者たちは、
”エゴは何か別のものに、たとえば自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ、
人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージにアイデンテティを求めて
生き延びようと図るだろう。”

まさに↑このパターンで、「信者というアイデンテティ」にハマっていると言えるでしょう。
宗教団体組織内における役職にこだわったりしがみついたり・昔OOだったと主張するタイプも
ここに当てはまるかと思います。
”自分は正しく他者は間違っているという考えはエゴイスティックな心の
主たるパターンの一つ、無意識の主たる形の一つだ。”

創価脳な人に、この部分↑ぜひ繰り返し読んで暗唱してもらいたいなと。
ただ、これこそが創価脳のアイデンテティで存在する理由みたいなものですから困ったもんですねw

このあともエゴについて、事細かに解説が続いて行くわけですが
「ニュー・アース」を繰り返し読み、「大いなる存在」のなんたるかが理解できるようになって
やっと解ったことがありました。
それは「幸せになれますよ」との触れ込みによる宗教がいかに嘘っぱちか、という事についてです。

大前提として、「生きているだけで丸儲け」を自覚できていれば、新興宗教なんて要りません。
ああしてこうして・何時間も仏壇の前に座って足腰の痛みに耐えながらw祈らなくたって、
外部他者にうとまれながらも「この教えは素晴らしいの!新聞読んでみて!」なんて言わなくても、
大丈夫なのです。
だって、息をしている・心臓が動いている、しかも勝手に。
それだけでもう「ラッキー」で「幸せ」なのですから。

そんな大前提の幸運を・自分が生かされている不思議・奇跡をまず感じてみれば、
悩みごとや一見「不幸」に見える事柄には、殊更フォーカスしなくなるのです。
勝手に心臓が動いている・呼吸が連続している、この奇跡をおこせている幸福に比べたら
目先の悩みやアクシデントはとるに足りず、いずれ「過ぎ去る」ものだ、と解ってきます。
できごとは四季や天候や車窓に流れる景色と同じ。
それが通り雨か台風か豪雪かは、時と場合によって違ってはくるでしょうが「事象」にすぎません。
そこにどんな「意味」を持たせるかは、自分次第になります。

「問題を問題化しない」ことをこの記事で書きました。
そもそも、生きている事それじたいが「ラッキー」です。
その大前提を放り投げて・なきものにして、「問題」を「問題化」し騒ぎ立て・
宿業や罰論なんかわざわざ「不幸探し」をしているようなものなのです。 
あえてもう、こまごまは書きませんが・・。
信仰の原動力が「不足」からくることは、元創価脳の方なら誰しも経験がおありだと思います。
「~しなければ」「~であるべき」「~じゃないから、こうなりたい」 全部、不足です。
そこにフォーカスしている間は、どれだけ頑張って不足を埋めたところで、また次なる不足が
やってきます。
何故なのか? エゴに取りつかれているからです。 
エゴにとりつかれているときは、どこまでいったって「満足」なんかありません。
そして信仰の原動力=エゴそのもの、です。
そこを克服するのは本当に単純なことで「エゴに気付く」
「生かされているという得難い幸福・幸運に気付く」 これだけです。

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ところで、ブログタイトルを変えました。
ブログの趣旨を変えた6月にしたかったのですが、当時タイトルが思いつきませんで
今頃になった次第です。
すごくどうでもいい余談ですが、don't trust///の /// はどういう意味ですか?と以前に
質問されたことがあったのですが、本当は ・・・ としたかったのです。
それが、かなキーを押していなかったため、英数キーで///と入力されてしまっただけで
実はまったく意味はございませんw 今頃の回答ですみません)

そしてご報告、2016年内に脱会届を正式に提出することになりました。
しかも、実家の母も同時です。
なぜそうなったのかについては、来年以降、落ち着いてからご報告させていただきます。
いま言えることは、私はとくに何かを母に対して働きかけていません。
母に対しては、ほんとうに何もしていないのです。
ただ自分が「今にある」こと、わだかまらず「今を受け入れる」ことをやってきた、それだけです。

もともと、脱創価からはじまったこのブログですが、やっと卒創価となりそうです。
私にとっては、エックハルト・トール氏の書籍との出会いが、とても大きな転機となりました。
また、そのた現代の覚者の教えに触れたことで、肩の力が抜け楽になりました。
今後はタイトルどおり「わだかまらない生き方」について
「今にある」「いまを受け入れる」ことについて、私なりの方法とその結果を綴っていきます。

ますます、創価への被害者意識や文句は読めなくなると思いますがww
それでもよければ、引き続きお付き合いください。


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