他力=大いなる存在に気づくこと

この一年を通じて、私が神道から学んだことは「他力」の存在でした。
そしてこの「他力」が、エックハルト氏のいう「大いなる存在」だという事にも気付きました。

「他力」というと、創価脳的には「他力本願の”神頼み”」という悪しきイメージが浮かびがちです。
心の弱い人がやること、みたいな。
言葉の意味を調べると「他力本願」とは仏教用語で、阿弥陀仏による衆生救済の力を
指すのだそうです。 「仏の功力」ということですね。
ありがたいことに、これは仏の本願。つまり、衆生を救うこと・助ける事が「仏の願い」だと
いうことです。 そして驚くべきことに、仏は衆生に対して、無条件で救済の手を差し伸べ、
力を与えてくれるという。
知ってる言葉をここに当てはめるなら「大慈悲」です。

仏教から離れてみても、人は誰しも「他力」に支えられて生きています。
たった一人の・自分だけの頑張りで生きているわけではありません。
なかなか忘れがちなところですが。
孤独に思える時でも、電車やタクシーやバスで移動できるのは其処で働く人がいてくれるから、
コンビニでおにぎりや飲み物を買えるのも、製造・輸送・販売に携わっている人がいるから、
ネットが24時間つながるのも、電気やガスや水道がいつも使える事も、
各種産業に携わる誰かが働いてくれているから、
自分が支払うそのお金も、誰かのところから巡り巡って自分の手元にある。
また、自分が支払ったそのお金が誰かの元へと巡っていく。
何気ないようでいて、人に支えられ・自分も見えないところで誰かを支えて生きている。
モノ申さないけれど確かに存在する、そんな大きな循環=「他力」があるということに、
創価脳時代まったく気付きませんでした。
というか、それを「他力」と呼ぶとは知らなかったのです。
「他力本願」のほんとうの意味を理解すれば、なんてありがたいんだろうと、
自然と感謝がわいてきます。

ところで創価脳は、「感謝」が口癖の割に、その対象は限定的かつ序列のあるものでした。
(当時は感謝感謝いいすぎて、超薄っぺらでしたね・・はずかしい)
まずいの一番は「ご本尊様」への感謝。これはまだいいとしましょう。
次に「大聖人」そして「組織」や「師匠」←私はコレはなかったけどw
その後ろに「家族」や「周囲の人」や「同志」だったような気がします。
同列に感謝はありえなかったというか・・まあ1番がご本尊で、残り全部が同列はあったかも
しれませんが「全体に対する感謝」という視点をもった人に、ほとんど会ったことがない気がします。
もし「全体に対する感謝」が基本にあるならば、外部に対しての上から目線は生まれるわけありませんw
自分がかつてそうだったからこう言えるのですが、「感謝」といいながらとても傲慢でした。
でもそれは仕方がないんです。
だって、創価の教義(日蓮の教義とも言えるでしょうか、ちょっとこのあたりは
掘り下げてみなければと思いながらも、面倒で勉強していないのですがw)は
「何か(功徳)がほしければ、何か(布教活動・票・お金等)をよこせ」というギブ&テイク型だから。
つまり「何かをしなければ与えてもらえない・与えられない」「甘えんなよ」という教義だったから。
施しの裏側には、必ず見返りを求める心がある。 これが「傲慢」の部分です。

仏様も神様も、そんなセコイ存在ではありません。
何もできなくても、ぶっちゃけ何もしなくても、
自分がどんなに非力で無力であろうとも、
いつも大きな力で支え・護ってくれているのです。

そしてこの教えは、わりと既成仏教宗派ではスタンダードで、神道においては、いわずもがなです。

もう少し創価脳のカラクリを書いてみますが、
たとえば祈って動いて何かが「叶った」とします。その時は「功徳を頂いた!」と、喜びます。
感謝の先は、もちろんご本尊様(=大いなる存在)です。 
ただ、その願いを実質かなえてくれたのは、他者である場合もあります。
そんなときも、感謝のベクトルがまっすぐ他者へは向かいにくかったように思います。
(一応他者へも「感謝」はあるのですが、何かが一枚挟まった感覚)
創価脳にとっては
「ご本尊」に祈って→「諸天」が動いて→「他者」を動かしたんだ・・というフローです。
これだとつまり、ご本尊に願ったり祈ったり・ついでに活動がんばっちゃったりしたのはあくまでも
「自分」です。 
だから「他力」よりも”自分の力(信心)でかなえたんだ!”が優位になっていた、と私は分析します。
それが「傲慢さ」を生む因ではなかったか、素直にまっすぐ「他力」に気付けなかったトラップでは
なかったか?と。

「創価脳時代のくせ」が抜けていなかった私は、2012年秋の覚醒~今年の春に至るまで
結構な気苦労を経験しました。
創価仏法を捨て去った後、信仰を保つことに関して異様なまでに慎重になっており。
2013年夏に神社でお祓いをうけましたが(この記事)その後、とくに神道にハマったというわけでは
ありませんでした。 もともと神社アレルギーでしたし・・このあたりの話を書くと長いので
神社参詣と神棚エピソードについては次回UPさせてもらいます。
いいことがあれば「ご本尊様のおかげだ」と喜んでいた私が、ご本尊様を信じなくなったら
今度は「相手」に対し、ダイレクトに感謝するようになりました。
ただ、私の「感謝」は「報恩」がセットだったんです・・これが創価脳時代のくせです。
(前に書いた、義母さんへのそれと同じです)
何かをもらったらお返ししないといけないし・何かをしてもらったら自分も役に立たないといけない、
「他力」に甘えることをよしとしない、それが自分の首を絞めることになろうとは
思いもしませんでしたw
2013年初旬以降、不思議なことに人間関係ががらりと変わったのですが、その中でやりたくない
役割をひきうけることになりました。
断ればよかったのですが、恩義があったため「それは無理」と勝手に自分で思い込み。
イヤイヤだったので当然不満だらけ、でも吐き出せない。人にはいい顔をしてしまう。
しかしストレスはたまる一方、それで派手に人と揉めたりもありました。
勝手に相手のことを決めつけて、本音を出せず、恩着せがましくその役割を引き受け続け。
結局、2015年末の「とある出来事」のおかげ?で、その役割を降りることができました。
ほっとした反面、自分の望む形ではなかったためしばらく忸怩たる思いが消えませんでした。
それが、神社参詣をつづけるうち・真言宗の御寺での法話を聴く機会に恵まれたのち
「ハッ」と気付かされたのです。
「ああ、私、勘違いしてたんだなあ・・」と。
「他力」を信用していなかったんだ、100%ありがたく「ただ受け取る」が、出来なかったんだと。
だってしかたないよ、「ただで功徳はいただけない・自分が動かなきゃ功徳はもらえない・
そしてなにがなんでも受けた恩は返せ」って、教わって生きてきたんだから(涙)と。
三つ子の魂百までも・・恐ろしい言葉です。
きっと同じ思いを抱えた、学会2,3,4世の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
他人の親切をただ受け取れない。受け取るけど意地でも返す。返さないと気が済まない的なw
これ、「忘恩の輩」系刷り込みなんですよね、げに恐ろしき。
だから恩を返さない人にはイライラしたりもするw 自分がなまじ、やっているだけに。
私は過去そのタイプで、ママ友でもお返しをきちんとする人とは親しく付き合うけれど、
てきとーな人とは距離を置いていましたw 
いろんな人がいて、一概には言えないけれど(見返りがほしい人もそれなりに存在はします)、
それでも「他力」って優しくて、とてつもなく大きなもの。
たとえば外出先で見ず知らずの方に親切にしてもらった事、一期一会で、お礼を言うだけで
精いっぱいだったけど
次は自分がまたどこかで、困った誰かに遭遇したなら気が向いたらお手伝いすればいい。
そういった軽やかな循環を「他力」とも、呼べると思います。
そこに「損得勘定」や「見返りを求める心」があったらおかしくなるのです。
ついでにいえば「押しつけがましさ」もw

信仰があってもなくても「他力=大いなる存在」は、誰人をも護り支えてくれます。
ただそれを知って、感謝できる心があれば、人生を大きく下げることはないと私は思います。

よく、創価を脱会した人が不幸になっているとか・精神を病んだなどの噂をきくことがあります。
それを創価脳はしたり顔で「仏罰」「現証」なんて言います。
これは何もそういった現象ではなくて、私思うに「他力」に気付けなくて・信じられないがため
一時的に人生を下げている、それだけの話だと思います。
何かのきっかけで「他力」の存在に気づいたら、瞬時に浮上するでしょう。
不遇が続くかに見えるのは「そっちじゃないよー」と、教えてくれているのです。
(↑私はそれを身をもって経験しましたw)
本人の意識はほんとに一瞬で大変換しますし、意識が変われば環境も徐々に好転します。

創価から脱した後、もう騙されるものか!と、宗教や思想体系にやたら警戒心を抱く気持ちは
わかります。
ガチガチの鎧を着て、自分を律しなくては!と自他に厳しくなることもあるでしょう。
が、忘れてほしくない&信じていてほしいのは「他力は存在している」ということです。
ご本尊様を信じていた当時の「諸天の護り」が「他力」であり「大いなる存在」のことです。
宗派や各世間で表現が変わっているだけで、とどのつまりは同じ事。
そして認識を変えるべきは「ぶっちゃけ何もしなくても、他力の存在を認めれば
大いなる存在はいつでも自分を支え助けてくれている」ということです。

だから「ありがたい」し「大慈悲」です。
だって、ぶっちゃけ何もしなくても・助けて支えてくれているんですから・・。
特定信仰も持たなくてよくて、とにかくなんの条件もいらない。
ただ自分が他力の存在に「気付く」だけ。
ただ自分が「生き」て「気付いて」さえいれば、「大いなる存在」はいつもそばにあって、
支えてくれています。
いまの私にとってはその「大いなる存在」へ、日々の感謝の思いを伝えに行く場が
神社であり・自宅の神棚であるという感じです。
でも、それは神道に限らず、お寺だったり・自然崇拝(花や木や滝とか岩とか)だっていいと
思います。自分が「大いなる存在」を感じられるのだったら、なんでもありでしょう。 
なにも絶対に神社に行きましょう!とか言いたいわけじゃないことだけ、お知りおきください。

前回記事の
ただ、自分がいま「生かされている」事について、シンプルに奇跡を感じられたら、
世界は変わります。

この部分について、本当に些細で、文章にするとたいしてインパクトないのですがw
一応書いてみます。

とても楽しみにしていたある予定が当日になって中止(延期なし)になってしまった日のこと。
かなり気合い入れて準備をし、その日に備えていただけにショックでした。
今年春に「思考はエゴのおしゃべり」と知り、俯瞰でみれるようになったとはいえ、しばし呆然とし。
腹を立てるとか・怒る・ひどく落胆などの感情の揺れはなかったけど気分は下がっていました。
少し時間が経過して「前にもこんなパターンあったよなぁ・・」と過去を反芻。
そうなると今度は原因探しがはじまる・・のが、以前のお決まりでした。
創価脳時代だと「一凶」探しで、最終的には「自分のせい」「業のせい」という自分責めに至り
「だから宿命転換しなくちゃ!」と繋がっていたわけですが
2016年の私はさすがにそのトラップにはまることはなくw
ただ過去のネガティブを淡々と思い返すにとどめていたのですが
「ああ、あのときそういえばキャンセルになったな」とか「あのときもこうだったな」とか・・
次の瞬間「!」と驚きました。
「いやいや、そんなこともあんなこともあったけど、
 全部大丈夫だったよ!」
「全部大丈夫だったから、いまここに生きて存在してるよ!」
「だから今もだけど、これからも大丈夫なんだ!」

ということに、気付いたのです。
過去の様々なシーンが巻き戻しのように頭の中に巡り、あれもこれも、大丈夫だった・・
大きな輪のように巡り巡って、全部今に繋がってて、大丈夫だった、と。
するとどっと涙があふれてきて、ずっと大丈夫だったことは「他力=大いなる存在」の
おかげであったと、しみじみと、解ったのです。
その瞬間もう、感謝しかありませんでした。

悲しかったこと、傷つけたこと、傷つけられたこと、騙された事、
裏切られた事、誤解を受けたこと、約束に間に合わなかったこと、
約束を破られた事、もう立ち直れないと思うほど泣いたこと、
冷たくされた事、冷たくあしらったこと、暴言を吐かれた事、悔しかったこと、
我慢したこと、いじわるしたこと、嫌味を言われた事、悪口を言ったこと、
負けたこと、勝ち誇ったこと、返ってこなかったこと、果たせなかったこと、
叶わなかったこと、一寸先も闇で何も未来が描けないと思っていたこと、
50年近く生きてきたなかで、本当にいろんなことがありました。
もう駄目だと思ったことが山ほどあったはずだったけど、私はここでこうして生きている。
どうにもならなかった事なんて、結局は一度もなかった。
うまれてこのかた、何百回と悩んでも困っても激しく憤ってもわだかまっても、
ちゃんと「いま」へ導かれた事に、
鳥肌がたつほど感動したというか・・改めて「生かされた」事に、驚きと感謝でいっぱいに
なったのです。
エックハルト・トール氏の教えに触れて「生きている」「呼吸が連続している」ことの奇跡に
気づけたからこそ、こんな心境に至れたのだと思います。
(まずそこが「あたりまえ」すぎてなんの感動も持てずにいるなら、人生は不平不満だらけでしょう・・)

そして「ずっと大丈夫だった」という気付きのあと、じわじわと環境が変化しはじめ
望んだことが現実化するスピードが速くなったのです。
偶々かもしれませんが・・具体的にいえば探していたものがすぐ見つかり手に入ったり、
ずっとどうしているかな?と案じていた昔の友人と20年以上ぶりの再会を果たせたり
(過去、何度かSNSで検索をかけても全く情報があがってこなかったのですが、
 先日友人の勤務先名+名字でぐぐったら、画像検索で瞬時に上がってきてビックリ!でした。
 そんな探し方を思いついたのも初めてで、まさかのまさかでしたが
 連絡もすんなりとることができ、驚く速さで再会まで出来たのです。)
この事のための準備だったのか?と思うほど、何気なく以前していたことが完璧に今と繋がったり、
某件に関する情報がほしい・・と思った次の瞬間テレビ番組やネットで紹介を目にしたり、
流れが良くなったというか、急いでいるとき信号が全部青ですんなり到着できたり、様々です。
スピリチュアルな人たちの間ではこれを「シンクロ」と呼ぶらしいのですが、
どっかの教団施設で爺様と読経の声をあわせなくても、宇宙とリズムは合致するようですww

創価問題に対しても、騙された腹立たしい・家族崩壊させられた云々、おのおの恨み節は
あると思います(私もありました、皆様ご存じのとおりです)。
だけれども、その期間があったればこそ、護られた事もあったかもしれないのです。
それがなかったとして人生が100%ばら色だったとは、誰にも言えないのです。
それは経験すべき魂の修行時間(?)だったのかもしれないし、それがあったればこそ、
この先の人生が彩られることもあるのかもしれません。
バシャールはそれを「コントラスト」と表現しており、私はその示唆にすごく納得ができたのです。
(詳しく知りたい方はぐぐってください)

「神の采配」という言葉があります。
全ての出来事は、その人に完璧なタイミングがもたらされているという意味です。
自分の人生の物語を、自らネガティブにする必要もないと思います。
なにも過去にとらわれなくていいのです。

私たちが生きているのはまぎれもなく「いま」しかありません。
生きられるのも「いま」しかありません。
だとしたらどんな「いま」を過ごしますか?
私は、抗わず・わだかまらない「いま」でありたいなと、思っています。

悩んでいる人も、わだかまっている人も、これまでが「大丈夫」であったことを
しみじみと、思い出してください。
そしてこれからも「大丈夫」だと実感してみてください。
不安を作り出しているのは紛れもなく自分の思考=エゴであり、思考の背景=過去です。

最後にエックハルト・トール氏の言葉を紹介します。
(「世界で一番古くて大切なスピリチュアルの教え」より)

出来事は、身体に苦痛をもたらすことはあるかもしれませんが、
人間を不幸にするパワーはありません。
人間を不幸にしているのは、ほかでもない、
自分自身の思考なのです。


次回はお約束通り、神社にまつわるエピソードを書かせていただきます。



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