ニュー・アース 第二章(7)

内なる身体を感じる

身体への同一化はエゴの最も基本的な形の一つだが、ありがたいことにこれは
最も簡単に乗り越えられるアイデンテティでもある。
ただしそのためには、自分は身体ではないと自分に言い聞かせるのではなく、関心を
外形的な身体や自分の身体に関する思考ー美しい、醜い、強い、弱い、太り過ぎ、やせ過ぎー
から引き離して、内側から感じられる生命感に移す必要がある。
外形的な身体がどんなレベルにあろうとも、形を乗り越えたところでは身体は生き生きとした
エネルギーの場なのである。


内なる身体への気付きに慣れていないなら、しばらく目をつぶって自分の両手の中に生命感を
感じられるかどうか試してみるといい。
そのときは、心に聞いてはいけない。心は「何も感じない」と答えるだろう。
さらには「もっとおもしろいことを考えたらどうだい」というかもしれない。だから心に尋ねる代わりに、
じかに両手を感じる。つまり両手の中のかすかな生命感を感じるのである。
生命感はそこにある。それに気付くには、関心を向けさえすればいい。最初はかすかなちりちりした
感触かもしれがいが、やがてエネルギーあるいは生命感を感じる事ができる。
しばらく両手に関心を集中していると、その生命感は強くなっていくだろう。

(中略)

この「内なる身体」は、本当は身体では無くて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ。
できるだけしょっちゅう、内なる身体を感じる習慣をつけるといい。そのうち目を閉じなくても
感じられるようになる。

ところで、誰かの話を聞きながら内なる身体を感じることはできるだろうか。
逆説的ながら、内なる身体を感じている時には、実は自分を身体と同一化していない。
また心とも同一化していない。要するにもう自分を「形」と同一化せず、形への同一化から形の
ないものへの同一化に移行している。
その形のないもの、それは「大いなる存在」と言ってもいい。

それがあなたのアイデンテティの核心である。
身体への気付きはいまこの瞬間にあなたをつなぎとめるだけでなく、エゴという牢獄からの
出口でもある。さらに免疫システムも、身体の自然治癒力も強化される。
(p114-117抜粋)


「ニュー・アース」を1回目に読んだ時、軽い衝撃を受けた部分がこのパートです。

自分の「生命」「生命エネルギー」に気付いたことはおろか、関心を向けた事も
うまれてこのかた一回もなかった! ということにまず、自分で驚いてしまったのです。
それは未知の領域でした。
あたりまえすぎて考えた事もなかった、といいましょうか・・。
身体と・こころと・思考を個々の存在とし、切り離して捉えた事なんてまずなかったし・
そんな発想すらなかった頃でしたから。
「身体とこころと思考は一体」という認識(していたかどうかも今となっては?
あまりにも無意識)で生きていました。

グリーンで色づけした部分に書いてある事を、本を読んでさっそく実践してみたのです。
(注:中略部分にはエネルギーを感じるための簡単な手順がさらに書いてあります)

最初、まったくといってよいほど、手のひらの上に「感覚」がやってきませんでした。
手のひらを上に向けて、何かが湧き上がってくるイメージをしてみるも
うんともすんとも、何も感じないw
「私、ほんとに生きてる?」とw 自分に対し半信半疑になったほどでした。
自分の中に確かに流れているエネルギーというものを、知らなかったというか見ていませんでした。

もう少し後のパートには簡単な瞑想の方法が出てきますが、それをやってみた時に初めて
両掌が暖かくなって、熱が自分の身体から発せられている事を感じ取ることが出来、
「これが私の身体から発しているエネルギー(熱)なんだなぁ」と実感しました。
きっと、普段からヨガなり、ジョギングや水泳なり、呼吸に意識を向ける運動をしている方は
すぐにその「エネルギー」に気が付けると思います。 
そして「エネルギー」が、思考や身体とはひっついていない別個のもの、という感覚も
体感で理解できると思います。←この体感、めちゃくちゃ重要です。

「エネルギー」が身体という入れ物におさまってる、それが”いまここ”にある自分。
「エネルギー」は形を持ってない。
この「エネルギー」を「魂」と言い換えた方が、日本人的には解りやすいかもしれませんが
それこそが「大いなる存在」なのだと、エックハルトは教えています。
(「内なる身体」=「エネルギー・魂」=「大いなる存在」)

この「内なる身体」は、本当は身体では無くて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ
とあるように、エネルギー(魂)と入れ物(身体)は別個のものだ、ということを理解でき
切り離して捉える事があたりまえになると、
うつ病なんか薬が無くても治せると、私は思います。
身体というエネルギーの入れ物と思考とを結び付けすぎて、
さらには思考に振り回されすぎて・とらわれ過ぎて・偏り過ぎて
暗黒面ばかり(自分の思考に)見せられてしまうことが、うつ病の原因といっても
きっと過言じゃないでしょう。
「頭でっかち」という言葉のとおり、思考ばかりが優先して先走って、状況や周囲が見えず
自分の脳内が勝手に作り上げた暗いストーリー(思い込み)にどっぷりとハマりこみ、
心や体をなおざりにしているうちに、機能不全を起こした状態(=うつ)といえるのでは
ないでしょうか。

苦境・辛い状況や、思うに任せない状態って、
結局は「その時の頭の中身・思考状態」です。
思考の背景によって決定づけられるイメージともいえます。
もうだめかもしれないとか、諦め状態の時、先々の悪い想像や見通ししか浮かばない時、
結局それは「頭の中で自分が作り上げたストーリー」にどっぷりハマりこんでいる。
以前も書きましたが「高次から見て出来事は中立」です。
出来事は必要があって起きている、という視点を持っていれば、殊更ネガティブに陥った後に
自分で自分を追い込むような事には、発展しないのです。

たとえば事故に遭った、病気になった、盗難に遭った、子供が不登校、非行に走った、
その他もろもろ何か事が起きた場合に
「悪い事がおこった!」と即座に決めつけたり・思わないのが賢明です。 とはいえ
なかなか難しいところではありますが。
なぜならそれは(高次から見て)悪い事、ではないからです。
悪いことだ!と感じてしまうのは、これも前に書いたとおり「思考の背景」がそうさせている。
世間一般常識、経験則に当てはめてるからそう感じてしまうだけの話。
「災い転じて福となす」という言葉がありますが、一見災難のようにも感じられるその出来事が
思ってもみない好転反応をおこすことだって十分ありうるのです。
なので一瞬落ち込んだり、悲しんだり、怒ったり・・というわいてくる感情については受け止め
解放してやる(決して我慢はしない。感情の抑圧は鬱になりますから)
で、ひととおり怒ったり泣いたりすればスッキリしますよね。
そのあとが肝心で、決してその出来事に対してわいた「悪しき感情」に執着を持たない・
グダグダ頭の中でその出来事を増長させないのが、とても大事です。

「悪しき感情」への執着=エゴの仕業だと、早めに気づくことです。

概ねそのような出来事が起きた時は「立ち止まって、休みなさい」というサインです。
当事者にとってもだし、その出来事を見て右往左往したり・仏罰だ!なんてファビョってしまってる
傍観者のあなたに対してのサインでもあります。 
「問題」と感じずに「いま」に在ることが出来る人にとっては、上記は問題にはなりません。
前にも書いたとおり「問題」にした人には本当にややこしい問題になっていきます・・
先のことなんてどう転ぶかわからないのに、悪い想像しかできずに対応したことで
さらに事をこじらせたり、長期化させたりするのです。
「いま」に在るなら、先のことはどう転ぶかわからないから想起しない。
不安は思考が作り出しているんだ、ということに早めに気付く。
そして自分の心身が落ち着けるような対処をとる。
とりあえずお茶を飲むとか、その時食べたいものがあれば採るとか、
体温が下がってるなら暖かくする、座ったり横になって休むなど
身体のケアをする(これらは「現実逃避」ではありません。大事なことです)。
そうして内なる身体・エネルギーにまず意識を向け・充電すれば心も落ち着いてきて、
冷静に状況を見ることも出来るようになるでしょうし、
慌てている時は絶対に見えてこない「抜け穴」をあっさり見つけたり出来るものなのです。
「ない」と思っていたものが「ある」ことに気づけるのは、落ち着いている時だけです。
そして出来事は「過ぎて」いくものであり、次なる展開への布石なのだと解るようになります。
一見ネガティブに思える事が、実はポジティブを開く扉だった!という気付きになることだってある。
だから「出来事は必要があって起きている」という視点をもつことが大事なのです。

瞬時に「悪事だ」と決めつけず、「中立だ」とまずは捉え、
常に「いま」にあることが大事なのでしょう。
↑こういうことを、本当は宗教が教えてくれたら一番いいのだけど、
宗教団体の多くはビジネスだからw
儲からなくなったら困るんで、本当に幸いな生き方や物事の見方は教えないんですね。
教えるどころか、それ今が活動のしどきだぞ!新聞・票取り!なんて焚きつける。
いいように吸い上げて、団体側の養分にしてしまうわけだからorz
まったく困ったもんですw

頭の中がネガティブでいっぱいのとき、身体もなんだか元気をなくすし、心だって冷えてくる。
するとちょっとした「現象」を、ことさら悪い兆しのように見てしまったりする。
「思考」と「身体」と「こころ」が別個の存在だと知らない間は
ネガティブな思考に囚われ~紐つきになって身体にも不調をきたし~紐つきになってる
こころも病んでいく・蝕まれる・・といった、負の連鎖状態が完成しがちです。
先にも書きましたがうつ病などは、その代表格でしょう。

けれど、実際は「思考」「こころ」「身体」はそれぞれが独立している。
そのことをしっかりと認識していれば「思考」が作り出したネガティブに、こころや身体を
支配され・蝕まれる事はなくなります。
エックハルトが何故「思考を止める」提唱をしているのか、ここで生きてくるというか、
その意味を理解できると思うのですが、
「思考」が作り上げた悪夢の物語に、こころや身体を
飲みこまれないようにするため
 だと私は認識しています。

自分を苦しめたり、追い込んでいるのは、自分の思考だと「ただ」気付く。
苦しんでいる時も、追い込まれている時も、自分の中に静かに流れている
エネルギーに目を向け・気付く事は、重苦しい思考にとらわれた状態に
風穴をあける一助になると思います。


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ブログの趣旨を変えた頃(2016年6月~)より、繰り返し書いている事ですが、
創価の矛盾に気付いて、活動をやめたり・脱会した方は
出来るだけ早く、創価問題から離脱されることをおすすめします。

親や家族や友人がまだ学会員で・・という事で悩まれている方も多いようですが
それは、あなたの課題ではありません。
文字通り「親や家族や友人」当事者における課題(じゃない場合もあります、当事者が喜んで
やっているのなら、それは問題でも何でもありませんから・・)なのであって、
あなたは悩まなくていいんです。
考える必要も実はありません。
あなたが考えてもどうにもならない事は、ちょっと頭を働かせたらわかることだと思います。

で、自分以外の創価問題で悩んだり憤ったりわだかまっている方は
それ(他人の創価問題)がなぜ自分をそうさせているのかを、自身に問うていくことが
あなたの課題です。
その問題がどう自分の生活を脅かすのか、自分をどういった面で困らせるのか、
自分の生活の質を下げているのか?と、掘り下げてみるのです。
するとおのずと解決策が見えてきます。
「その問題に関わらなければいい(意識を向けない)」 これだけです。

自分の人生は自分のものです。自分を生きるのは自分だけです(あたりまえ)。
その人生を、誰にも明け渡してはいけません。
私たち福子は長らく、宗教団体やその団体の長に自分の人生を明け渡してきた。
その癖が抜けきっていないうちは、組織と離別を決意してもなお
他者(親家族含む)の事が気にかかって仕方ない。
「自分」をおいてきぼりにし、他者のことばっかり気にして躍起になったり執着する
傾向があります。
そうすること(他者の創価問題をなんとかしようとする)を「救済」のように思っている・
まだ目覚めない親家族を助け出さない自分は悪意の人みたいに思っている。
実際はただのおせっかいなのにw
そして、それが創価時代の「折伏精神」と何ら変わらないことに気付いてない。
(過去の私が、まさに上記タイプでした)

他者を変えようなんて、思わなくていいし、それは無理。
他人を変えることに満足を見出すーそれはエゴの性質だと知ることです。

真の満足は、自分が自分を認められたところにしか存在しません。
他者にわだかまるよりもっと前に、自分が自分を満足させてあげられることに注力する。
それが自分を生きるための早道だと、私は思います。

あと、組織の事をgdgd考えているその状態は、あなたの生活の質をたいして向上させないと
思うのですがw いかがでしょうか。

悩める方には自分の事、自分の生活を大切にしてもらいたいなーと願っています。

(次回に続きます)

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