ニュー・アース 第二章(8)

忘れられる「大いなる存在」

エゴはいつも自分と形を同一化し、何らかの形に自分自身を求め、
それゆえに自分自身を失う。
この形とは物質や肉体だけでは無い。外部の形ーモノや身体ーよりもっと基本的なのが、
意識の場に常に生起する思考の形だ。(中略)
気付いてみれば、片時もやまない頭の中の声があるはずだ。絶え間ない衝動的な思考の
流れである。その考えに関心を全て吸い取られ、頭のなかの声やそれに付随する感情に
自分を同一化してしまって、その思考や感情の中で自分自身を失った時、そのときあなたは
自分を形に完全に同一化してしまい、エゴの手中に落ちる。

エゴとは、「自己」という意識、エゴという意識をまとって繰り返し生起する思考の形と
条件づけられた精神・感情パターンの塊なのだ。

形のない意識である「大いなる存在(Being)」「私は在る(I Am)」という感覚が形とごっちゃに
なったときに、エゴが生じる。
これが自分と個々の形との同一化(アイデンテティフィケーション)ということだ。
つまり「大いなる存在」を忘れるという第一義的な誤りであり、存在が個々の形に分裂するという
とんでもない幻想が、現実を悪夢に変える。
(p118-119)


「大いなる存在」=エネルギーであり魂と前回書きましたが、
”自分の存在(生存)の大前提”にあるもの、と言えると思います。
繰り返しになりますが、人は普段エネルギーそのものに余り目を向けていないというか・
その摩訶不思議の上に在る「生きている」幸いについて無頓着です。
なんもしなくても呼吸が続き・心臓が動いている不思議・奇跡に意識を向けている人は
そう多くないと思います。
状態が当たり前すぎて、ありがたいとか幸いだとか感じない・疎くなっている。
自分自身がエネルギーであることなんか知らずにいて、
形ある「何か」や「思考」に自分自身を同一化し、出来事によって巻き起こる感情思惑に
ただ振り回され 
まるで”思考”とそれがつくった「かたち」が、自分自身になっている。
実のところ、自分という存在は唯のエネルギー。
形として見えているものすべてが、いずれは消え去る「幻」だと知っていれば、
目の前の現象や物質に、過剰に振り回される必要は無くなるよ・・という、非常にシンプルで
深い教えです。

つまり「大いなる存在」を忘れるという第一義的な誤りであり、存在が個々の形に分裂するという
とんでもない幻想が、現実を悪夢に変える

とあるように、「私の家」や「私の身体」や「私の仕事」や「私の家族」や「私のお金」などなど、
「私」と紐つけた形態に対し執着を持つ状態は
「存在が個々の形に分裂するというとんでもない幻想」に当たると言えます。
これらに執着した結果、得られなければ/失えば、自分が損なわれた・終わったと感じること
=「悪夢」になるわけです。

この身体すら、「死亡」と医師に診断されれば、日本では火葬され骨と灰になる。
究極この生身の姿は「幻」となります。
私という存在は永遠のエネルギー体で、この世にあるとき「身体」という形をまとって
ここ(3次元)に存在しているように見えているんだ・・という事実を、頭のどこかで
認識しておくことも、エゴにうっかり惑わされない為には、良い心がけかもしれません。

日蓮仏法では「三世の生命」を説いていましたね、教学を少しでもかじっている人であれば
このあたりは容易に理解できるかと思います。
ただ、過去世→現世→来世の時間軸=日蓮仏法創価版が教えていたバージョンは
凝り固まっており、その解釈は宿業論や罰論の強化体系にすぎませんw
なので旧いタイプの時間軸はまるっと無視し
(過去も未来も「いま(現在)」にあります、「一念三千」は、このことを指しています。
 詳しくは後日書きます)
「エネルギー・大いなる存在は永遠のもの」と認識しておいたらいいと思います。

すべての理解にまさる安らぎ

人生のどこかで悲劇的な喪失に出会い、その結果として新しい次元の意識を
経験した人は多い。 持ち物のすべてを失った人もいれば、子供や配偶者を、
社会的地位を、名声を、肉体的能力を失った人もいる。
場合によっては災害や戦争によってあらゆるものを同時に失い「何も」残されていない事に
気付いた人もいる。それは「限界的な状況」と呼んでもいいだろう。
何に自分を同一化していたにせよ、何が自分自身という意識を与えていたにせよ、それが
奪い去られた、そこでなぜかわからないが、当初感じた苦悶やはげしい恐怖に変わって、
ふいに「いまに在る」という聖なる意識、深い安らぎと静謐と、恐怖からの完璧な自由が訪れる。
この現象は「人のすべての考えにまさる神の平安」という言葉を残した聖パウロには
なじみのものだったに違いない。確かにこの安らぎは筋が通らず、人は自分に問いかける。
こんなことになったのに、どうしてこのような安らぎを感じられるのだろう、と。
エゴとは何でどのように作用するかがわかれば、答えは簡単だ。
あなたが自分を同一化していた形、自己意識を与えてくれた形が崩壊したり奪い去られたり
すると、エゴも崩壊する。

エゴとは形との同一化だからだ。もはや同一化する対象が何もなくなったとき、あなたは
どうなるか?まわりの形が死に絶えた、あるいは死にかけた時、あなたの「大いなる存在」の感覚
「私は在る(I Am)」という意識は形の束縛から解放される。
物質に囚われていたスピリットが自由になる。あなたは形のないあまねく存在、あらゆる形や
同一化に先立つ「大いなる存在」という真のアイデンテティの核心に気付く。
自分をなんらかの対象に同一化する意識ではなく、意識そのものとしての自分という
アイデンテティに気付く。
これが神の平安である。あなたという存在の究極の真実とは、私はこれであるとか
あれであるとかではなくて、「私は在る」なのだ。
大きな喪失を経験した人のすべてがこの気付きを経験して、形との同一化から切り離される
わけではない。
一部の人はすぐに、状況や他人や不当な運命や神の行為の被害者という強力な精神的イメージや
思考を創り出す。この思考の形とそれが生み出す怒りや恨み、自己憐憫などの感情に
自分を強く同一化するから、これが喪失によって崩壊した他のすべての同一化に
たちまちとって代わる。言いかえれば、エゴはすぐに新しい形を見出す。
この形が酷く不幸なものだということは、エゴにとっては大した問題ではない。
良くも悪くも同一化できればいいのだ。それどころか、この新しいエゴは前よりもっと凝縮されて
強固で難攻不落である。

悲劇的な喪失にぶつかったとき、人は抵抗するか屈するかしかない。深い恨みを抱いて
苦々しい人生を送る人もあれば、優しく賢く愛情深くなる人もいる。
屈するとは、あるがままを受け入れることだ。人生に向かって自分を開くのである。
抵抗すると心が縮こまって、エゴの殻が硬くなる。あなたは閉ざされる。抵抗している時に
(否定的な状態の時に、といってもいい)どんな行動をとっても、さらに外部の抵抗に遭う。
宇宙はあなたの味方にはならない。人生は助けてはくれない。(中略)
抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が開ける。
そのとき行動が必要であれば、あなたの行動は全体と調和したものとなり、創造的な知性と
開かれた心、つまり条件づけられていない意識によって支えられるだろう。
状況や人々が有利に、強力的に展開する。不思議な偶然がおこる。
どんな行動も不可能ならば、あなたは抵抗の放棄と共に訪れる平安と静謐のうちに安らぐだろう。
それは神のもとでの安らぎである。(p122-127)


このパートを初めて読んだ当時、私の状況とぴったりで、「見てたの?!」と
思ったくらいw 驚かされたのを覚えています。
それほどエックハルト氏がエゴの構造を見事に言い当てている&私が完全に
エゴにとりつかれていた、ということです。
2015年末に「とある出来事」によって、義実家が資産を失う事が決定したとき、
強いショックを受けましたが、同時に私は平安を確かに覚えていました。
嫁ぎ先(=玉の輿といわれる事は自慢=アイデンテティの一つでした・・これはエゴ)が
不動産も人手に渡り・金銭的に厳しい状態に陥ることはエゴの崩壊にあたります。
そして、同時にやってきた平安とは、
前にも書いたと思いますが、義実家(4家族が泊まっても十分なスペースがある
家屋でした)が人手にわたることで(転居先は手狭)、
毎年恒例の年越し帰省がなくなる!という喜び&姑の金銭にものをいわせた支配が終わる!
(しかも、これらは崩れることなくずっと続くものだと私は「思い込んで・諦めて」いただけに
 ものすごいサプライズだったのです)
という安堵感でした。 

しかし、エゴのなんたるかも知らなかった私は、その後に発覚する「とある出来事」について
姑がついた嘘・新事実を知ると、今度は途端に「被害者」というアイデンテティにしがみつき、
自分がいかに不当な扱いを受けたか・従順に接してきたのに酷い仕打ちを受けたか・・と
恨みをもち、苦しむ状態に陥ったのです。
”状況や他人や不当な運命や神の行為の被害者という強力な精神的イメージや
思考を創り出す。この思考の形とそれが生み出す怒りや恨み、自己憐憫などの感情に
自分を強く同一化するから、これが喪失によって崩壊した他のすべての同一化に
たちまちとって代わる。言いかえれば、エゴはすぐに新しい形を見出す。 ”

もう↑まさにこの状態だったわけですw
その後、自分の中のおさまらない怒りの原因・根っこを見て行ったら
自分の姑への接し方に、創価時代の刷り込みが背景としてあったことが判明し、ビックリした・・
という話をこの記事に書いています。 
そして根っこがわかれば、どういうわけか怒り恨みの感情はサーっと引いて行きました。
自分が自分を解ってあげられたから、安心したのだと思います。

そしてこの構造は、アンチ創価で長く機能不全をおこす仕組みと同じだと気付きました。
「覚醒」によって、清く正しい組織の一員というアイデンテティの崩壊がやってきたとき、
ショックと同時に、安堵も生まれたと思うのです。 
それは誰にも見せないよう押し隠していた理不尽さが認められる・やっと日の目を見る、
長年自分が感じてきた矛盾違和感はやっぱり間違いがなかったんだ!という、晴れやかさでした。
もう意味不明の恥ずかしい各種活動をしなくてすむ!という開放感もありましたね。
しかし、「覚醒者」となって晴れやかすっきり~!で、
その後を何の引っかかりもなく歩むということが、まずない事は皆さんもご存じのとおりですw
(軽やかに進むことができた人は、エゴがとても軽い人だと思います。そういった方は幸いです)
今度は「アンチ創価」というアイデンテティにしがみつく。
創価のせいで私の人生を・家族を・青春をむちゃくちゃにされてしまったのだ!という、
被害者と言う強力な精神的イメージと「創価は社会の巨悪」という思考に占拠され、
倒さねば!許すまじ!と恨み憎しみを持ち続ける・・という状態を作りだしていました。

なにがそうさせていたのか、エゴがそうさせていたんですねw

だから、気付いた人は笑って手放せばいいと思うんです。
あー、私って・俺って、エゴにとりつかれてずっと怒ってたんだな~!テヘペロ、くらいにw
それが「俯瞰で見る」ということです。
エゴは、残念ながら完全になくすことはできません。
アンパンマンにおけるバイキンマンみたいなもので、呼んでないのにいつもどこからか
やってきて悪さをする・・そんな存在です。 
バイキンマンほど可愛いもんじゃない場合もありますがw
だから、「見つけた!」(気付いた)時は、さっさと追い払えばいいんです。
追い払っても隙を見てまた来るけどw その時はやっぱりまた追い払うのです。 
そう繰り返せばいつの間にか、悪さも可愛いレベルになっていくと思います。
あんまり大げさに考えないのが吉です。

いつまでも恨み憎しみを握り続けている必要はありません。
もちろんそれをライフワークとして・好きでやってる人の事は、いつものように止めませんw

ここで「創価は社会の巨悪、は正しい。間違いではない!」と怒りだす人もいそうですが
確かにそう思ってる人が大半で一般人もしかりです。
私も創価が「善」だとは思っていません。 
ただ「巨悪」だとまでは、最近思わなくなりました。
正直言うと「どうでもいい(存在)」です。
すくなくとも私の生活圏、自分の世界には全く不要なものなので
関知しない・採り入れないようにしています。

なぜ「巨悪」だとまでは思わないかと言えば、今現在も確かにその組織に救われている
(と信じている)人がいます。
イケダセンセーは素晴らしいって、心底うちふるえてるめでたい人だって存在するのです。
件の3人だってそうでしょう。生きる理由になってると思います。
そして私だって、覚醒前まで40余年、日蓮仏法創価版に救われていました。
これらはすべてリアルな話で、巨悪なんてみじんこも思わず、外界を知らず・
ただひとつを信じるが故に成り立っている(いた)「善」の世界が、今この瞬間にも
確かに存在しているのです。

何度も繰り返しですが
覚醒は「思考の背景」が変わったから、善だった世界が悪になっただけの話。
黒と白は、状況に寄りけりで、いとも簡単にひっくり返ります。オセロみたいなもんです。
私にとっての悪も誰かにとっては善だし、逆もあって、時と場合により変化する。
これを「高次から見て物事は中立」というのです。
ただそれだけの話だと、もう解ったらジャッジする必要がなくなりました。

エックハルトの言う「抵抗」はこの場合、「恨みつらみを握りしめる」こと・執着でしょうし、
「受け入れる」は「恨みつらみ、執着を手放す」ことに当たるかと思います。

恨み続けるのも、創価を殊更の問題とし・敵視&注視していくことも、エネルギーの消耗、
時間の無駄じゃないでしょうか?
お笑いネタとして楽しくヲチしている、または研究対象としてやってる方は別として・
各種情報を眺めていたって、憎しみからの目線では少なくとも
「楽しい・素敵な・いい気分」にはなれないと思うんです。
もっと他に見るべき対象が絶対ある。
自分を心地よく、楽しくさせてくれる対象がいくらでも。そっちを見る時間にあてたほうが
人生は有意義に・楽しくなることでしょう。

恨み憎しみ続けないとやっていられないんだよ!という人は、
おそらく「自分(や周囲)の不遇・不幸の原因は創価」にしておきたい方でしょう。
それはエゴなのですが、そのエゴから解放されない限りはずっとそのままです。
つまり「創価のせいで不遇で不幸な自分」というアイデンテティ下にある以上、
そのような現実ばかりを見聞きすることになりますし、
「創価のせいで不遇で不幸」なまま一生を終える事になります。
自分でその事に気付いて、思い込みを変えない限り、残念ながらそうなります。

前にも書いたと思いますが、思考は現実化します。
自分が信じていること(内面)が、今も目の前に現象として現れているのです。
だからよくよく、思考には気をつけないといけないし、
上記のようなネガティブな思い込み(観念)を持ち続けたまま生きる事は、賢明といえません。
(思い込みじゃない!事実だ!という人もたぶんいるでしょうが・・それがエゴなのですw
 詳しくはこの後に続いて行く章や、他の本の紹介で触れて行くつもりです。が、
 エゴに気付くための「今にある」実践を積み重ねる中で、自分の感覚・腑に落とさない限りは、
 いくら文章読んだって 理解できないかもしれません。)

わざわざ、不機嫌で不愉快な気持ちになる情報やニュースを自ら見に行ってしまう事が
いかに自分の魂にとってマイナスか・・それらを見ている時、自分の気持ちはほっとしているか・
幸せなのか・楽しいのか。チェックしてみることをお勧めします。
それらが思考を形作り・助長しているからです。
むかついたり、卑下するような思いを抱いたり、攻撃的な気分、その情報に触れることで
自分の恨みつらみ怒りを正当化しているような気分、ネガティブでわだかまるような感情であれば、
それは自身の内面・外面=生活にとって害でしかありません。
目の前の現実は、チャンネルを変えるのと同じで自分で切り替えることが出来ます。
自分で選べるのです
悩まれている方や、面白くないことが続いている・なかなか気分が晴れないという方は
ぜひ、自身がどんな情報に反応しやすいか・好んでチェックしているかを点検し
「観心」してみるとよいと思います。

手放すだけなんです、本当に。
簡単に言うなと怒られそうだけどw 
1%でも、そんなアイデンテティに自分を不幸にされてたまるかよ!と思った方は
是非に「ニュー・アース」を全編読んでみてほしいと思います。

第二章はこれにて終了です。次回から第三章に入ります。

ちなみに第十章まであるので、最後までたどり着くのは本当にいつになるやら
わかりませんし、私が途中で飽きてやめないとも限らないのでw
ご自身で一読されることを重ねてお勧めします。

(次回に続きます)


スポンサーサイト